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この契約結婚は君を幸せにしないから、破棄して、逃げて、忘れます。

箱根ハコ / 著
都みめこ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2026/03/13

内容紹介

将来の騎士団長候補ルーヴェルは、パーティの一員である植物学者エルンを守った際に怪物の光線に当てられ、魔獣化してしまう。今までルーヴェルを慕ってきた者たちは態度を変え、両親や恋人までもが彼を遠ざけるようになる中、ルーヴェルに片思いをしていたエルンは言った。「私がこの人生をかけてでも、絶対に元の状態に戻してみせます。私に預けていただけないでしょうか?」この言葉をきっかけに二人は契約結婚をし、一緒に暮らすことに。そして五年後、人間に戻ったルーヴェルを祝うパーティーを最後に、エルンは離婚届を置いて姿を消してしまって――!? 「君の笑顔が頭に焼き付いて離れなかった」エルンと離れてから、ルーヴェルの心には何やら重い感情が沸き上がっているようで――? 誰もが憧れる将来の騎士団長候補と一途な植物学者による献身愛!!

人物紹介

エルン

少し変わり者の植物学者。自分のせいで魔獣化してしまったルーヴェルを、絶対に元の姿に戻すと宣言して――!?

ルーヴェル

誰もが憧れる将来の騎士団長候補。魔獣討伐に向かったダンジョンで怪物の光線を浴び、魔獣化してしまい…!?

立ち読み

 プロローグ


 彼が人間の姿に戻った記念のパーティー会場の壁沿いのテーブルには、誰でも自由につまめるようにと豪華な食事がずらりと並んでいる。
 どれも、エルンが食べたことがないくらい高価なものだった。
 それでも、あの家で食べていた質素な食事のほうが美味しく感じられた。魔獣の姿をしていたルーヴェルが捕ってきてくれた肉と干した野菜で作るスープの味、庭に作った石窯で焼いた、少しボソボソとしたパンの食感が舌の上に蘇(よみがえ)る。
 すぐにそんなはずはないと思い直し、自分の思考に苦笑が漏れた。
 遠くでルーヴェルが女性に取り囲まれていて、彼女達から憧れの視線を向けられていた。
 ほんの一週間前は、人前に姿を現そうものなら嫌悪感のにじむ瞳で見つめられていた。毛むくじゃらの怪物であった彼に近寄りたがる人間なんて、エルンしかいなかった。
 そうだよなぁ、とこの光景に納得している自分がいる。
 やっぱり、これが彼のあるべき姿だ。
 きっとこれから彼は他の女性と結婚して、子どもも生まれることだろう。彼の父の望み通り、騎士団長にまで上り詰めるかもしれない。
 見つめていると、ふいにルーヴェルと視線が絡み合う。
 エルンはできる限りの微笑みを返した。ルーヴェルは数度目を瞬かせ、笑みを向けてくれる。
 ああ、これでいいな、と思った。
 彼の笑みを見て、もうこれでいいと、不思議なほど納得してしまった。
 この一瞬の微笑みで、エルンの恋心は満足し、これまでの献身も報われた。
 そうと決まれば、とエルンは持っていたシャンパングラスを戻してパーティー会場を後にする。
 残れば残るだけ、疎外感でさみしくなるし、ルーヴェルに面と向かってさようならと言われてしまえば、泣き出すかもしれない。
 そんな事をしたら困らせてしまう。
 客室に戻ると、離婚届をローテーブルの上に置いて、ノートから紙を一枚切り取ると彼へ手紙を書く。
 文面を何度も考えたものの、結局はありふれた言葉しか綴(つづ)れなかった。
 離婚届の横にそっと手紙を置き、持参した荷物を背負う。そして、杖を手にすると、飛(ひ)空(くう)魔法で静かに窓から空へと舞い上がった。
 未(いま)だにパーティー会場は明るい。バルコニーには人々が出ており、幸せそうな姿が目に映る。
 その光景を見届けながら、エルンは塀を乗り越え街中に降り立つ。
 箒(ほうき)がないと長時間飛ぶのは難しい。まずは魔術具屋に行って箒を購入し、再び空へ向けて飛び立った。
 上昇しながら見上げると、月が煌々(こうこう)と輝いていた。いつもなら美しいと感じるはずの星空も、今日はどこか滲(にじ)んで見えた。


 第一章


 廃墟のように見える寂れた一室を、発光する緑の苔(こけ)が覆い尽くしており、カガヤキムシが飛び交っている。
 地上では滅多に見られない光景にエルン・リッジはほぅとため息を漏らした。
 なんて美しい光景なんだろう。気分が高揚し、歌い出しそうだった。こんな時に不謹慎だとわかっているが、これはエルンが見たかった光景の一つだったのだ。
「すばらしい……! ああ、小さな採取箱しか持ってこなかったのが悔やまれる!」
 エルンは頭を抱えつつも、苔に近寄る。どうやら太陽の光を反射する地上のヒカリゴケと違い、このダンジョンのものは自ら光を発しているようだった。一体どういった仕組みなのだろう。
「虫眼鏡だけじゃなく、顕微鏡も持ってくればよかった……」
 肩を落としていると、がさり、と背後から足音がして振り返った。
「………あ」
 そこには、エルンが所属している勇者パーティのアタッカーであるルーヴェル・ラヴィエールが立っていた。
 黒髪は短く切り揃えられ、瞳は星のように輝く銀(ぎん)灰色(かいしょく)。そのツリ目がちな目元は、どこか恐ろしくも感じるが、逆に彼の顔立ちを更に魅力的に見せている。いつもは甲(かっ)冑(ちゅう)を身に着けているが、今は就寝前のためか、すべて外していた。代わりにシンプルなシャツとズボンを身に着け、腰には剣を携えるだけの軽装だった。その高い身長と服越しにもわかる程よく鍛え上げられた筋肉が、堂々とした彼の雰囲気を醸し出している。
 エルンの方はというと、勇者パーティのヒーラーで、植物の研究をしていた。ルーヴェルほどの身長もなく、筋肉質な体つきでもない。黒い瞳を持ち、肩まで伸びた明るい茶色の髪にはゆるやかなウェーブがかかっていた。日頃から大荷物を持ち歩いているため足腰は鍛えられているものの、運動神経は決して良くない。群青色のローブに包まれた貧相な体はルーヴェルと並ぶとどうしても見(み)劣(おと)りしてしまうと、エルンは思っていた。
 彼はここにエルンがいると知らなかったようで、口を小さく開けて佇(たたず)んでいる。
「……ルーヴェル君、どうしたんだい?」
 エルンはすぐに真面目な顔を貼り付ける。
 この世界では、まだ人間が住み着く前からダンジョンと呼ばれる場所が存在し、魔獣が生息していた。本来ならば、人間と魔獣が棲(す)み分けし、共存するのが理想だった。しかし、魔獣が人間を襲って食べることがあるため、非常に厄介な存在となっている。
 一方で、人間もダンジョンの中に眠る希少な鉱石や貴重な植物を求め、危険を承知で足を踏み入れていた。その結果、人間と魔獣が殺し合いを繰り返している。
 エルン達が今いるダンジョンもその一つだった。
 このダンジョンは万病に効くと噂される薬草が生えていることで知られており、かつて人間により征服され、強い魔獣は姿を現さなくなっていた。
 けれど今から四年ほど前に、このダンジョンに住み着いた怪物であるサセニアの登場で事態は一変した。
 冒険者を次々に殺し、自身や他の魔獣のエサにする。そうしてこのダンジョンの中では再び魔獣が増え、薬草採集を困難にしてしまっていた。
 その結果、エルン達が住むアーランド王国では重病人が増え、死亡者も急増していた。
 このままではまずいと判断した国王が国中から勇者を募り、魔獣討伐に繰り出したのが今から三年前の話だった。
 そして半年前、エルンは高等教育を終え、ヒーラーとして討伐に参加しようと勇者パーティを探していたところ、教師に声をかけられた。
 なんでも、成績優秀者で組んで魔獣討伐に向かってみないか、という話だった。

 教師により集められた生徒達が顔合わせした時、エルンは口をぽかんと開けてしまった。
 ずっと前からあこがれていたルーヴェルがいたのだ。彼は騎士団長の長男として、また、類(たぐい)まれな身体能力で注目を集めており、もしかしたら彼ならサセニアを倒せるのではないかと噂されていた。
 遠くから見ているだけだった彼がまさかパーティの一員として呼ばれているとは。
 てっきり、独自にパーティを編成するか、プロの冒険者達と一緒に組むと思い込んでいたのだ。
 真顔で立っている彼が、エルンに対して何を思っているのかわからない。これまでろくに話したこともなかったのだ。
 無表情だとこんなに怖く感じる人なのだな、とエルンは遠くから見ていた彼の笑顔を思い出しつつも、一応とばかりに愛想笑いを浮かべて話しかける。
「あの……、ルーヴェル君も、パーティを組まないかと先生に呼ばれたんですよね?」
 少し早めに来たからだろうか、集合場所である小さめの講義室にはエルンとルーヴェルしかいなかった。
 エルンは恐る恐る尋ねる。
「ああ……。君はエルン・リッジだろう? たしか、魔術師のコースでは毎回上位争いをしていた……」
 知ってくれていたのか。エルンはぽかんと口を開ける。
 そんな彼にルーヴェルは手を差し出してきた。
「よろしく。俺は今回どうしても魔獣を倒したい。だから、ぜひこのパーティを組めればいいと思っている」
 そう言って彼が柔らかく微笑んだ瞬間、それまでまとっていた恐ろしい雰囲気が消え、エルンの心に突風が吹き荒れたような錯覚に陥った。どんどん心臓が高鳴っていき、慌ててエルンは彼の手を握り返す。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
 この日に芽生えた恋心は、まだ小さなもので、エルンが意識することはなかった。けれど、いざダンジョンに入り、ルーヴェルに何度も助けられた結果、彼に恋をしてしまっている自分を認めざるを得なくなったのだった。
 彼は、ダンジョンの中で何度もエルンを守ってくれた。そうして、すっかり恋心が育ってしまったのだった。
 更には、ルーヴェルは圧倒的に強かった。
 今回のダンジョン探索でも、それが如実(にょじつ)に証明された。他の者なら攻略に五年はかかるとされるダンジョンであるにもかかわらず、エルン達のパーティはわずか半年で最(さい)奥(おう)部(ぶ)にたどり着いた。
 ほとんどルーヴェルのおかげである。強力なモンスターを瞬く間に倒していく様は圧巻だった。
 また、仲間達もそれぞれ優れた特殊能力を駆使し、体力を削られることなく敵を次々と片付けていった。
 その結果、ヒーラーであるエルンが力を発揮する場面はほとんどなく、助かっている反面、いつも申し訳なく思っていたのだった。

 ルーヴェルはエルンからの問いかけに、頭を掻(か)きながら返す。
「水を飲みに行った帰りに、緑の光が見えたから。……エルンはここで何をしているんだ?」
 ルーヴェルは周囲を見渡しながら返す。
「ここは、ヒカリゴケの群生地だよ。本来は太陽の光を跳ね返して光っているのだけど、ここには日光は届かない。にもかかわらずここのヒカリゴケは地上のもの以上に輝いている。つまり、自分で発光するように独自の進化を遂げているんだ。その結果、こうしてヒカリゴケを主食としているカガヤキムシも集まってきていて……」
「……そうか。きれいなものだな」
 エルンが語りそうになったところをルーヴェルは苦笑して遮(さえぎ)った。
 あ、とエルンは口をつぐむ。学生時代から熱心に植物の研究を続けてきたため、エルンはいつしか変わり者として知られるようになっていた。中でも、キノコや苔類には目がなく、それが今回の魔獣討伐のパーティに入った理由の一つにもなっていた。このダンジョン独自の植物を採取したかったのだ。
 そんなエルンには、つい植物学について長々と話すという悪癖があった。最初は興味深く聞いてくれていた相手も、あまりにもマニアックかつ、長い話になると徐々に顔がひきつってくる。そして、気づいた頃にはすでに遅く、そっと距離を置かれてしまうこともしばしばあった。
 こうしたことが積み重なり、学生時代には親しい友達を作ることができず、エルンはいつも一人で過ごしていた。
 ルーヴェルも、パーティを組んだ最初のうちはエルンの話を聞いてくれていたというのに、最近ではこうして適当なところで話を遮るようになっている。
「……そうだね。とはいえ、ここには魔獣はいないよ。よかったらこのきれいな景色を堪能していくといいよ」
 エルンは再び笑顔を作り、ルーヴェルに優しく、願望を込めて告げた。もう少し一緒にいたかったのだ。
「そうだな。こんな光景は地上では見られないし……、今の気分からするとちょうどいいな」
 ルーヴェルは頬を緩(ゆる)ませる。
「ついに明日は、サセニアがいるとされている十階にたどりつくんだもんね」
 エルン達は地下十階へと下る階段の近くをキャンプ地とし、もうすぐ眠るというところだった。もしかすると明日、サセニアとの戦闘となるかもしれないと思うと、ルーヴェルも落ち着かないのだろう。
 そうしてしばらくの間、二人は黙ってヒカリゴケが発する優しい光を見続けていた。
「……ルーヴェル君は、王様に何を願うんだい?」
 怪物サセニアを討伐したら、王は何でも一つ願い事を叶えてくれると言っていた。ルーヴェルはエルンに視線を移すと、優しく微笑む。
「ソフィアとの結婚だな」
 彼の言うソフィアこと、ソフィア・ローゼンは彼が学生時代からつきあいはじめた公爵令嬢だった。王の次に位の高い公爵の娘は、騎士団長の長男からすると高嶺(たかね)の花なのだろう。
 ルーヴェルとソフィアは学校の同級生でもあり、付き合っていると周りから認識されていた。それが、身分の差により、結婚の話を進められないでいる。
 エルンは己の中で育ってしまった恋情を一生口にしないと決めていた。その理由こそが、彼とソフィアの関係だった。
 彼の即答に、エルンは胸の傷みを押し殺して笑顔を浮かべる。
「……そうか。うまくいくといいね」
 エルンの気持ちなどわからないであろう彼は、照れくさそうに頷(うなず)いた。
「ああ。……エルンは何を望むんだ?」
 エルンは再びヒカリゴケに視線を戻した。
「僕からしたら、この冒険そのものがご褒美みたいなものなんだ。……毎日、見たことがなかった植物を見られて……。こんなことを言ったら怒られるかも知れないけど、楽しいんだ」
 採取箱はこの旅で手に入れた植物でいっぱいになっている。帰ってそれを更に詳しく調べるのが楽しみだった。
 その上、本人には告げられないが、ルーヴェルと一緒にいられるだけでも幸せだと思っていた。
 ルーヴェルは苦笑する。
「エルンらしいな。欲がない」
「僕は植物の謎を調べている間が一番幸せだから……」
 エルンは思案するように唇に人差し指を軽く当てた。この感情を分かち合える友人は、これまで一人もいなかった。本当はそんな友達が欲しいとずっと願っていたが、周囲にはそのような人がいないのが現実だった。
 その代わりとして、エルンは一人で植物学の論文を書き続け、それをアカデミーと呼ばれる、国の研究機関の植物学専門の教授に送り続けていた。そうして、その論文が教授に気に入られれば、研究室に招き入れられ、本格的な研究を進められるかもしれなかった。
「そうだ。この国イチ性能がいい顕微鏡をねだろうかな。よりいい論文が書けるようになるかもしれない」
 エルンのひらめきに、何が面白かったのかルーヴェルは声を出して笑った。
「この命がけの旅の報酬が顕微鏡だなんて、本当に面白い奴だな」
 旅を始めた当初は、お互いに気を使った会話しかできなかったが、今ではルーヴェルがこうしてエルンを面白がるくらいには関係が構築されている。
 エルンは何が面白いかわからなくて首をかしげるが、悪口を言われたわけではないので、笑ったまま黙ってヒカリゴケを見つめていた。
「そろそろ、戻ろうか。皆が心配する」
 ルーヴェルはエルンの肩を軽く叩いて踵(きびす)を返す。エルンも彼の後ろについていった。


 翌日、十分に体力を回復させた彼らは万全の体制で十階へと歩を進めた。
 ルーヴェルとエルンの他に、このパーティには三人の人間がいる。彼らも同じ高等学校出身である。
 エルンが卒業した高等学校は、魔術師コース、闘士コース、専門家コースの三つに分かれていた。
 エルンは魔術師コースの治癒専門科だった。学校には植物専門の学科はなく、植物学といえば薬草の知識に限られていた。そのため、エルンは薬草について学べる治癒専門科を選ぶしかなかったのだった。
 ちなみにルーヴェルは言うまでもなく闘士コースの出身で、首席で卒業していた。
「皆、忘れ物はありませんか?」
 専門家コース動物学科出身のエミールが尋ねる。金の髪を七三に分け、首のあたりで切りそろえている。分厚い眼鏡をかけていて、常時眉尻が下がった外見は彼を大人しそうに見せていた。気安い性格でエルンとも馬があい、よく専門的な話をしている。
「もちろん」
 もう一人の闘士コース出身者であるカルムが返す。彼は身を挺(てい)して皆を守るタンカーだったが、このところは攻撃に参加することが多く、一撃で敵をなぎ倒していた。
「一応、全員にバリア魔法と補助魔法かけておくね」
 最後の女性はミリアという名前だ。エルンと同じ魔術師コースの出身で、専門は攻撃魔法学だった。
 成績優秀者で組んだパーティだったので、皆、もともと仲がいいというわけではなかったが、この半年の間に心の距離は縮まった。
「この長いダンジョンの歴史でも、たった半年でここまでたどり着いたパーティは類を見ないらしい。とはいえ、気を引き締めていこう」
 ルーヴェルが皆を鼓舞する。気がつけば彼はすっかりパーティのリーダーという立ち位置にいた。
 彼はエルンを振り返る。
「エルンは俺の後ろにいろ。ヒーラーの君さえ生きていれば、瀕死状態までなら回復してもらえるんだから」
 これは、これまでの戦闘でも何かと繰り返し言われてきたことだった。この中ではエルンが一番戦闘力が低かったので、ありがたく言葉に甘えることにする。
 そうして到着した十階で、あっさりと一行は怪物サセニアのところへとたどり着いた。


「これで終わりだ!」
 ルーヴェルの一撃で、サセニアの巨体が崩れ落ちる。コシのありそうな毛に、赤く輝く四つの瞳を宿すその姿は、まるで巨大な狼のようだった。エルンの倍近い身長を誇るその怪物は、今や全身から血を流し、虫の息となっていた。
「グルルルル……」
 サセニアの目が光り、光線が発せられる。その光は一直線にエルンに向かっていた。
「危ない!」
 咄嗟(とっさ)にルーヴェルがエルンの前に立ち、エルンの身体を押しのける。彼が光を体に受けると同時に、砂(すな)埃(ぼこり)が舞って姿が見えなくなった。
「くたばっておけ!」
 カルムが更に一撃を加え、ついにサセニアは動かなくなる。
「ルーヴェル君、大丈夫かい!?」
 砂埃が収まるのを待って、エルンは彼の方に駆け寄った。
 しかし、そこにはルーヴェルの姿がなかった。
 かわりに、サセニアの半分ほどの大きさで、サセニアそっくりな狼のような姿をした魔獣が一匹横たわっていた。
「……え」
 魔獣はよろよろと起き上がり首をふる。真っ黒い毛並みに、鋭い爪の生えた手足。赤く光る瞳は不気味で、独特の悪臭が漂って来ている。
「……ルーヴェルさんはどこにいったのでしょう?」
 エミールが周囲を確認する。けれど彼の姿はどこにも見当たらなかった。
 エルンは恐る恐る獣に近寄る。
「……ルーヴェル君なのかい?」
 尋ねると、獣はコクリと頷いた。瞬間、その場にいた全員の顔が歪(ゆが)む。
「……これは、呪われたってこと?」
 三人の視線が、一斉に動物学科の卒業生であるエミールへと集まった。魔獣に関することなら、彼が誰よりも詳しいはずだった。
 しかし、エミールは口を開けたり閉じたりしながら、戸惑った様子で首を横に振る。
「魔獣を倒した際に呪われることは確かに見られる事象なのですが、サセニアが死んでもこの姿でいるのはおかしいです」
 サセニアは横たわったままピクリとも動かない。念の為、ミリアが炎魔法で亡骸(なきがら)を焼き上げたが、ルーヴェルの姿は元に戻らなかった。
 エルンの心臓がうるさいほどに暴れる。反対に、すぅ、と体中の体温が抜けていった。
「……そんな。……ルーヴェル君……、僕をかばったから……?」
 よろめいて、後ずさる。エミールが同情するような瞳を向けてきた。
「……そうは言っても、ヒーラーであるエルンさんを守ろうと作戦を立てたのはルーヴェルさんですし、僕達もそうして動いてきました」
「……でも」
 それ以上何も言えず、震えることしかできなかった。
「……おい、どうするよ、これ」
 カルムの問いかけに、皆が視線を交差させる。
「……一応、サセニアは倒したわよね」
 ミリアが確認するようにゆっくりと言った。一同が頷く。
「街に戻って、文献を漁(あさ)ったほうがいいかもしれませんね」
 エミールが提案する。
「とにかくここには情報が少なすぎます。……ルーヴェル君、君は僕達の言葉がわかりますか?」
 全員の視線が集中すると、ルーヴェルと思しき獣は、コクリと頷いた。
「でしたら、一度戻りましょう」
 エミールの提案を三人が承諾する。カルムとミリアがエルンの背中を慰めるように撫でた。
 念のため、十階の隅々まで調査を行ったものの、役立ちそうなものは何一つ見つからなかった。そうして、全員が肩を落とし、無言のまま地上へと戻っていった。


 城門から街に入るなり、周囲の人間が顔を強(こわ)張(ば)らせてエルン達一行を見つめてきた。
 当たり前だ。人ほどの大きさのある四つ目の獣を連れているのだから。
 城門でも門番に散々素性を確認され、やっと通してもらえたのだ。
「やっぱり、目立つよな」
 魔獣討伐を終えたばかりとは思えないほどにカルムの声は重かった。
「うん……、視線が痛いね」
 ミリアも返す。エミールも口には出さないが、気まずく思っているのがわかった。
 全員が重い沈黙を保ったまま、王の住んでいる城へとたどり着く。
 怪物サセニアを倒してきた、と切り取っておいたサセニアの目玉を差し出せば、門番は信じてくれたようですぐに中に入れてもらえた。
「ルーヴェル、よく帰って……」
 少しして、騎士団長であるルーヴェルの父、リチャードが足早に駆けてきた。けれどその足は止まり、戸惑ったように獣を見つめている。
「……ルーヴェルは?」
 彼の声が重い。ルーヴェルはグル……と鳴いたが、リチャードはますます顔をしかめるだけだった。
 エミールが事情を説明すると、彼は絶望したように奥歯を噛み締めた。
「……悪夢だ。そうに違いない」
 震える声で呟く彼の気持ちは、この場にいる全員が痛いほどわかる。
「治る見込みはあるんだろうな?」
「……わかりません。少なくとも私は他に症例を知りません」
 エミールが苦しそうに返す。エルンは一歩前に出てその場に膝をついて頭を下げた。
「申し訳ありません! 僕をかばったせいで、ルーヴェル君が……」
 リチャードは初めてエルンの存在に気がついたとでも言わんばかりに、歪んだ顔を向けてきた。
 その時だった。
 女性の軽やかな声が響き渡る。
「ルーヴェル、待っていたわ!」
 そちらの方を見ると、ソフィアが満面の笑みを浮かべて走り寄ってきていた。金の髪に緑の瞳を持った公爵令嬢は、頬を紅潮させて愛しい人を出迎えようとしていたが、彼女も獣の姿を見て顔を歪める。
「……ルーヴェルは?」
 全員の視線が獣に向く。彼女は途端に顔を真っ青にした。
「……嘘。嘘よね? そうなのよね?」
 声が震えている。誰一人嘘だと返さなかった。重い沈黙が場を支配する。
「……そんなの、嫌……」
 彼女はつぶやき、その場に倒れ込む。遠くで様子を見ていた執事や兵士が駆け寄ってきた。
「……一旦、ソフィアは医務室に預けておけ。……まずは王に謁(えっ)見(けん)しよう」
 リチャードが重い声で告げて踵を返す。彼はそれ以上息子の方を見ようともしなかった。
 廊下を歩きながら、エルンは横目でルーヴェルを確認する。彼は俯(うつむ)いていた。魔獣の顔からは心情なんて察せられないが、きっといちばんつらい思いをしているのは彼に決まっている。
 なのに、兵士も執事もメイドも、父親も恋人ですらもルーヴェルの姿を目にした途端、顔を曇らせるのだった。かつての姿に戻れる保証もない今、この状況が彼にとってどれほど辛いものかは想像に難(かた)くない。
 けれど、エルンには、彼らの態度について何も言うことは出来なかった。エルンさえ庇(かば)わなければ彼は今頃こんな姿になんてなっていなかったのだから。
「………………」
 拳を握りしめる。
 表立っては誰もエルンを責めようとしなかった。それがよけいに辛い。
 ルーヴェルは王にソフィアと結婚をするという願い事を叶えてもらいたいと言っていた。そのために、危険な魔獣討伐に出たというのに、そのソフィアは変わり果てた姿をひと目見ただけで倒れてしまった。
 父であるリチャードも、先程からルーヴェルに優しい言葉一つかけておらず、目を逸らし続けている。
 せめて、どんな姿になっても自分の息子だ、とか、心配していたとか、そんな言葉くらい発してあげればいいのに。
 もしもここに残ったら、ルーヴェルはずっとこんな態度を取られ続けるのだろうか。
 エルンは奥歯を噛みしめる。
 謁見室の扉が開き、一行は中へ入った。中央に赤い絨(じゅう)毯(たん)が敷かれ、その周りを護衛の兵士が取り囲んでいる。絨毯の先には十段ほどの階段があって、てっぺんに置かれている玉座には白髪混じりの髪の王が座っていた。
 彼はルーヴェルの姿を一目見るなり顔をしかめた。
「何故ここに魔獣がいる。誰のペットかは知らんが、早く追い出せ」
 途端に兵士達の槍の切っ先がルーヴェルに向けられる。慌ててリチャードが前に出た。
「王よ、この者は我が息子ルーヴェルなのです。どうか武器を納めさせてください」
 騎士団の最高責任者の言葉に周囲の人々が息を呑(の)み、ルーヴェルに視線が集中した。
「この者がお前の息子だと……?」
 王は信じがたいような目でルーヴェルを見つめた。エミールが一歩前に出て事のあらましを説明すると、やっと王は納得したようで片手を上げた。同時に兵士達が槍を収める。
「なるほど……。では、サセニアの呪いでそのような姿に……」
 苦々しい口調で、戸惑っているのだとわかる。
「しかし……、今後どうするのだ? そのような姿の者を街の中に置いておくわけには……」
 これにはリチャードは返す言葉なく黙り込んでいた。
 重い沈黙が周囲を包む。皆、誰かが何か提案してくれることを望んでいるような表情を浮かべていた。
 エルンはルーヴェルを盗み見る。彼は口を閉じ、俯いていた。彼の心情に思いを馳(は)せ、いてもたってもいられなくなり、気がついたら声を出していた。
「……では、私に預けていただけないでしょうか?」


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