書籍詳細

拝啓、地獄の王の花嫁候補に選ばれまして
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/07/11 |
電子配信書店
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内容紹介
愛している。私の全てをお前にやる
死んで地獄に行きついた聡一朗は、地獄の王・獄主の花嫁候補に選ばれる。花嫁になれるのは、罪人の中でもとりわけ罪が重い者。しかし、聡一朗にはなぜか罪の匂いがしないと言われてしまう。自分はもう花嫁候補から脱落したのだと、予想外に悠々自適な地獄ライフを楽しもうとする聡一朗だったが……「お前は本当に罪な男だな。……どこまで煽れば気が済むんだ?」なぜか美しくも冷徹な獄主から身も心も情熱的に求められてしまい!? 愛を知らない冷酷無情な地獄の王×無自覚人たらしな落ちこぼれ花嫁候補の地獄を揺るがすほどの溺愛ラブストーリー!
人物紹介

聡一朗
花嫁の絶対条件である「咎津」の匂いが全くしない咎人。そんな落ちこぼれな自分を気に掛けてくれる獄主のことを「友人」だと思っていたけれど!?

獄主
地獄の王。人を愛せず花嫁選抜に嫌悪感を抱いていたが、自分に媚びない聡一朗のことが気になって……。
立ち読み
数日後。またあの白い間に呼び出された候補者たちは、初めて獄主と対面した。
跪(ひざまず)く候補者の前に立った獄主は、スクリーンで見たより何倍も美しかった。動作の一つ一つに洗練された美しさがあるが、決して女性っぽいという訳ではない。
挙動は全て男性らしく、堂々とした佇まいからは王の風格を十二分に感じた。
他の候補者から、溜息と生唾を呑(の)む音が聞こえる。
「面(おもて)を上げよ。……今後、私への跪(き)礼(れい)は省略だ」
跪いて頭を垂れていた聡一朗は、その日初めて獄主の冷たい声を聞いた。まるで氷を吐いているような、鋭くて、それでいて寂しさに溢(あふ)れる声だった。
顔を上げると、ゆっくりと候補者を見回す獄主が見える。そしてその視線が、聡一朗へと向いた。
途端、玲瓏なその顔が、どんどん険しいものへと変わっていく。異質なものを射抜くような鋭い瞳が、聡一朗をじっと捉えていた。
「……お前、咎(きゅう)津(しん)の匂いがしないな。お前のような人間が、なぜ花嫁候補にいる」
「……ッ」
背筋がつんと冷え、暗闇の中に引き込まれるような感覚に陥る。
咎津とは一体なんなのか。それすらも考えられないほど、獄主の突き離すような視線が心に深く刺さった。
初めて対面したのに、『見捨てられる』という事実が、酷く恐ろしい。
獄主の抑(よく)揚(よう)のない声が、聡一朗を更に責め立てる。
「咎津は、花嫁候補の絶対条件。それが無い人間は、花嫁にはなれない」
獄主の言葉に慌てた片眼鏡が、手元の資料を捲(めく)り始めた。他の候補者もざわざわと騒ぎ始め、獄主と同じような目を聡一朗へと向ける。
片眼鏡が眉(み)間(けん)に深い皺を寄せ、戸惑いを口にした。
「おかしいですね、資料ではこの男は……」
「もう良い。全員下がれ。後は個別に居へと訪問する」
冷たく言い放った獄主は踵(きびす)を返し、銀糸を靡(なび)かせながら去っていく。そのぴんと伸びた背を眺めながら、聡一朗は諦めたようにふすりと笑いを漏らす。
何がどういう原因であれ、自分は候補から外れた。土俵にすら立てないまま終わったのだ。
予感はしていた。何で自分なんかが、と地獄に来てから何度も思ったが、その通りだったのだ。
ただ一つ想定外だったのは、存外に自分がショックを受けていることだろうか。
まるで地面が消えたかのような、こんな心(こころ)許(もと)ない気持ちになったのは久しぶりだった。
「……もう結果が出ちまったか。……まぁ、しょうがないな」
誰もいなくなった部屋で、聡一朗はそっと自嘲気味に独(ひと)り言(ご)つ。
頭を掻きながら思い浮かんだのは、居付きのテキロや世話役の鬼たちの事だ。担当した花嫁候補が脱落したとなると、彼らはどうなるのだろう。
責められたり、他の鬼たちから蔑(さげす)まれたりしないだろうか。それだけが心配だった。
聡一朗が部屋に戻ると、案の定テキロが心配そうに駆けてくる。
「どうやら俺は、候補から外れたらしい。……その、咎津ってのがないらしくて」
言えば、テキロは少し目を丸くした。そして彼は、続々と集まって来る世話役の鬼たちの顔を、まるで何かを確認しているかのように見回す。
他の鬼たちも目を丸くしているが、険しい雰囲気ではない。中には柔らかな笑みを見せる鬼もいる。白い間で感じた冷ややかな空気との温度差に、聡一朗は戸惑った。
視線をこちらへと戻したテキロが、にっと口を引き結んで笑う。
「だからか。やっぱり、ですね」
「……?」
「あなたはやっぱり『きれい』でしたか」
テキロの言っていることが分からず、今度は聡一朗が鬼たちを見回した。
しかし彼らはテキロと同じような顔をして、初日の警戒心などどこへやら、といった感じである。
ニコニコと微笑む彼らに首を傾げていると、テキロが腰に手を当てて、嬉しそうに言い放った。
「仕方がないですね。それじゃ半年、俺たちと遊びましょうか」
そしてその日以降、聡一朗は本当にテキロらと遊んで暮らした。
テキロは初めて会った時の硬い態度を緩め、聡一朗にも友人のごとく接してくれるようになった。
テキロだけではない。世話役の鬼たちも聡一朗を怖がる事無く、親しげに話をしてくれる。
最近では鬼たちが『鬼あるある』や、『地獄あるある』を披露してくれ、毎日腹が捩(よじ)れるほど笑って過ごしていた。
鬼たちの話で一番驚いたのが、地獄に鬼の国があるという事だ。
咎人を管理するここを中心として、鬼や魔獣などが生息する地域が広がっているのだという。
因(ちな)みに鬼の国は、鬼の王族が領主として治めているらしいが、実質のトップはやはり獄主らしい。彼は予想以上に多忙のようだ。
そんな獄主の花嫁候補としての役割を、聡一朗はまったく果たしていない。しかしそれを咎められることは無かった。
その代わりといっては何だが、指示も情報も入ってこない。
まさに完全放置といったこの状況は、存在自体を忘れられているのかもしれないと疑うほどだった。
何も役割がなくても、地獄での生活は退屈しなかった。ただ、遊んで暮らしているという状況にはなかなか慣れない。
咎人が働く所に行って自分も働く、という提案は、見事にテキロから却下を食らった。
聡一朗の身分は腐っても花嫁候補なので、獄主の許しがないと敷地内から出るのは難しいようだ。
それならば、と聡一朗は十居を出て直ぐの所にある、大きな庭園の手入れをするようになった。
候補者の建物は十棟あり、それが半円形になるように並んでいる。各居から伸びた小道はその庭園へと集まる造りとなっていて、庭園の外郭を囲む道と繋がっているのだ。
この道を散歩するのが、聡一朗は大好きだった。だからこそ、ここを綺麗に保ちたいと思ったのだ。
庭園にいると、時おり他の候補者とかち会う。しかし彼らの目的は散歩ではない。
獄主が現れたという情報を得たら、候補者たちは各居から面白いほどぞろぞろと出てくる。つまりは庭園が、出待ちのスペースになっているのだ。
彼らは庭園で獄主の姿を眺めて、うっとりとした表情を浮かべる。プラス、自分の居に来てくれないという、どす黒い嫉妬も隠さない。
庭園は公園と呼んでいいほどの大きさがあり、中にはガゼボや噴水もあるが、彼らはそれを獄主観察のための遮(しゃ)蔽(へい)物(ぶつ)としか思っていないようだ。
これほど大きな庭園ともなると手入れも大変だ。しかし聡一朗には時間がたっぷりある。
有難く作業に参加させてもらって、テキロと毎日花を植えたりして過ごしていた。
そして早くも、地獄に来てから三週間が経とうとしていた。
聡一朗は花壇の側にしゃがみ込み、額に浮かんだ汗を拭った。日中の日差しは温かく、冬の訪れはまだ先のようだ。
(……あ、この花……もう咲きそうになってるな……)
ついこの間植えたばかりの花が、もう蕾(つぼみ)を付けている。不思議なことに、地獄は植物の生育が下界よりも早いのだ。
植えた翌日に花を咲かせる時もあり、早急に咲いて散っていく。その様には驚きと共に寂しさも感じたものだ。
今日の作業は、庭園の外郭を囲む花壇の手入れだ。花がらを摘んだり、時期の過ぎた花を植え替えたり、やることは山のようにある。
黙々と作業をしていると、今日も獄主観察を目的とした候補者たちがちらほらと顔を出す。
(……今日は、二の方か?)
候補者たちの視線は、ちょうど聡一朗が作業していた場所に近い、『二(に)居(きょ)』の方を向いていた。今日はそこに獄主が訪れたのだろう。
最近分かった事だが、居のナンバリングにはやはり意味があった。単にランキング順だったのだ。
半円を描くように位置した候補者の居は、左から順番に番号が振ってある。
左端である『一(いっ)居(きょ)』の左隣には獄主の居へと続く道があり、右端である『十居』の右隣には鬼たちの作業場と宿舎が建っている。
獄主は花嫁を選ぶために、毎日どこかの居へ通う。そしてお気に入りの候補者ができたら、その人を一居に移動させるのだという。それが『地獄のお嫁さん選抜ルール』の一つである。
既に何度か居の移動は行われているらしいが、十居の住人である聡一朗は完全に蚊(か)帳(や)の外だ。
(住んでいる場所で自分の序列が分かるってのも……酷な話だよな)
因みに各居の世話役たちにとっても、ランキングに伴う居の移動は相当な労力を使うらしい。
世話役たちは、その候補者の専属だ。居の移動には鬼たちも同行し、ぞろぞろと大所帯での移動となる。
そして勝者と敗者が入れ替わるのだ。その時の雰囲気が最悪なのは言うまでもない。
『まさに地獄』と顔を歪めて語る鬼たちを思い出し、聡一朗は苦笑いを零した。鬼すらも恐れる地獄なのだから、相当な修羅場なのだろう。
「どけよ、十居の出来損ない」
急に後ろから声を掛けられ、聡一朗は振り返る。
そこには男の候補者が、鬼たちを引き連れて立っていた。恐らく獄主観察に出て来た候補者の一人だろう。彼らはたまにこうして、聡一朗へと突っかかってくる。
「不適合者は、土いじりがお似合いだな」
続く侮(ぶ)蔑(べつ)の言葉に、三(さん)居(きょ)の近くで作業していたテキロが、慌てて立ち上がるのが見えた。
聡一朗はそれを手で制しつつ、候補者に向けて小さく頭を下げる。
「こんにちは。今日は二居っぽいですね」
聡一朗の言葉に、候補者は舌打ちで応えた。しかし会話は続かず、彼はそのまま去って行く。
意識が聡一朗よりも二居の方に向いたのか、それとも鬱(うっ)憤(ぷん)を僅(わず)かに晴らせたのかは分からないが、候補者が本気で聡一朗に突っかかってくることはない。
候補者同士が争う事は禁止されているし、暴力沙汰があれば相応の罰を受けると聞く。
ランキング最下位の聡一朗に構っても彼らに利はないのだ。
テキロが心配そうに走り寄ってくる。しかし彼の向こう側でも、他の候補者がぞろぞろと鬼を引き連れていた。今度は若い女性の候補者だ。
女性の候補者の場合、服装は袴ではなく着物のようなものだ。しかし帯は堅苦しいものではなく柔らかな素材を使っているように見える。
どこか艶(なま)めかしさを覚える作りになっているのは、候補者という立場だからだろうか。
女性の候補者は聡一朗を指さし、遠慮なしに声を立てて笑う。
「やだ、またいんじゃん。獄主様から拒否られたおっさん。もうすっかり雑用係って感じ」
テキロがむっと顔を怒らせて、候補者を振り返る。もうすぐそこまで来ていたので、聡一朗は「まぁまぁ」と言いながらテキロを引き寄せた。
「言わせときゃいい。ただの憂さ晴らしだ」
「……はい……」
素直に返事をするテキロだが、その三白眼は未だに不満げだ。
(……ごめんなぁ、不甲斐ない居主で……)
ぽんぽんとテキロの頭を撫でているうちに、候補者はやはりどこかへ向かって行った。おおかたガゼボあたりで獄主の出待ちをするのだろう。
有意義に使って頂いて、手入れしている身としては大変光栄である。
毎日こうして庭で作業をしていると、蔑みの言葉も良く耳に入る。心配性のテキロは、居で大人しくしておくべきだと進言してくるが、聡一朗はまったく気にしていなかった。
獄主に突き放されたことも、自身が候補者じゃなくなったことも、もうすっかり受け入れてしまっている。
それどころか壮絶な花嫁レースに参加せずに済んで、ラッキーだとも感じ始めていた。
(一回死んで、それなのに新たな友達を得て、土いじりして……。こんなに楽しかったこと、生前であったか? いや、無いわ)
スタートから躓(つまず)いたが、地獄ライフは思ったより最高すぎた。
あと五か月以上は、こうして花嫁レースを横目に見ながら穏やかに暮らすことが出来るのだ。役得ではないか。
「なにニヤニヤしてるんですか」
「いやぁ、別にぃ」
しゃがみ込んで土いじりを再開すると、テキロもその場に座り込む。人出が多くなってきたからか、聡一朗の側で作業することを決めたようだ。
居付きが側にいたとて罵(ば)詈(り)雑(ぞう)言(ごん)を浴びせられるのは変わらないのに、本当に律儀で優しい鬼である。
二居と三居、そのちょうど真ん中で、テキロと並んで花壇へ向き合う。と、その時だった。
「獄主様、待ってください!」
二居へ伸びている小道の入り口で、獄主に縋(すが)りつく女性が見える。初日に会った候補者の一人、一際穏やかそうに見えた小動物っぽい彼女だ。
必死の形相でしがみついているが、獄主の顔は限りなく無に近い。何の温度も感じさせない表情だった。
「……離せ。言ったはずだ。お前ではない」
「そんな……! お会いして、一時間も経っていません。お願いです。そうだ……身体を繋げればきっと……!」
縋りつく女性を、獄主は荒々しく振り解こうとする。容赦のない手荒さに、女性の身体はぐらりと傾ぐ。しかし彼女はそれでもなお獄主へとしがみついていた。
側に控えている鬼の使用人たちは、誰も女性を助けようとしない。僅かに距離を取りながら、挙動を窺(うかが)っているだけのようだ。
「……なんだよあれ。酷くないか?」
実際に会うまで分からなかったが、獄主はかなり体格が大きい。
筋肉質ではないものの、胸の厚みから鍛え抜かれた身体であることが窺える。身長に至っては一九〇cmを超えているだろう。
そんな男性から手荒くされれば、これ以上は女性の身が危ない。誰かが止めてやる必要があった。
立ち上がろうとすると、テキロが聡一朗の袖を引く。
「聡一朗様、いけません。他の候補者への干渉は厳禁。どうか、抑えてください」
テキロが頭を振り、聡一朗へと言い聞かせるように呟く。その焦りを含んだ声に、聡一朗は動きを止めた。
『他の候補者と獄主のやり取りに、干渉してはならない』という規則が確かにある。これを破れば罰則があり、テキロらも管理不足として咎められるだろう。
ぐっと拳を握り締め、聡一朗は立ち上がろうとする身体を必死で抑える。
しかし、遂に耐え切れなくなった女性が、花壇へと尻もちを付いた。それに引っ張られて、獄主の右足も花壇の中へと引っ張り込まれる。
瞬間、凍てついていた獄主の顔が嫌悪に歪んだ。そして目線を落とし、柔らかな土で汚れた自身の足を怪訝そうに見下ろす。
獄主の視線の先にあるのは、土にめり込むようにして潰れている緑色の芽だった。先ほど聡一朗が植えたばかりの、これから鮮やかに咲くはずだった花の芽だ。
ち、と獄主が忌々しげに舌打ちを零す。その目には、汚れてしまった自身の靴しか映っていない。
尻もちを付いた女性にも、ぐしゃぐしゃになった花にも、彼は一切の感情を向けていない。獄主の表情に浮かぶのは、ただ自身の靴が汚れたという嫌悪感だけに見えた。
カッと頭に血が昇り、聡一朗はテキロの手をそっと振り解く。
立ち上がると視界が開け、数歩先の獄主の姿が更に良く見えた。彼は未だに絡んでいた女性の手を払い、冷たく凍えるような目を向けている。
これまで関わることがなかったからか、聡一朗は獄主の事を誤解していた。花嫁選抜を嫌がっているという情報から、てっきり穏やかで静かな性格だと思っていたのだ。
毎回こんな風に候補者と関わっていたとするなら、ただの暴君ではないか。
聡一朗は女性に歩み寄り、手を引いて立ち上がらせた。どこにも怪我はないようで、ほっと胸を撫で下ろす。
横に立っている獄主を睨み上げると、その大きさを再度認識させられた。
「……お前さ、自分よりもずっと小さい人に、何してんだよ!」
獄主が僅かに目を見開いて、「お前は」と呟く。その言葉を聞き流し、聡一朗は獄主の真正面に立った。
「自分よりも弱い存在には手を差し伸べるべきで、決して振り払うもんじゃないだろ!」
聡一朗が言うと、獄主の表情から感情が消えた。先ほどの嫌悪感すらなくなった顔で、聡一朗の姿を上から下まで眺める。その視線が、聡一朗の手元で止まった。
「……お前か。そこを掘り返したのは」
「花壇の土の事か? そうだよ。あんたの足の下にあんのは、さっき植えたばっかの花だ」
聡一朗が言うと、獄主から短く息が漏れる。口角など一つも上がっていないが、それは紛(まぎ)れもなく嘲笑だった。
「無駄なことを」
「……無駄?」
「ああ、無駄だ。お前と同じくな」
「……っ」
聡一朗が口ごもると、獄主は抑揚のない声で言葉を続ける。
「そこにいる女も、この花も、無駄だ。命は幾千も幾万も生まれ、無駄に生き、散る。実に下らん」
何の感情も持たないその声は、その場に冷たく響き渡った。呪(じゅ)詛(そ)のような忌まわしさはないが、人の心を侵食してしまうような声だ。
銀糸をさらりと靡かせて、獄主は聡一朗を見下ろす。
「それをどうこうしたとて、なにを咎められよう。特にお前のような――……」
気付けば聡一朗は、獄主の胸倉を掴み上げていた。至近距離で睨み付けると、その鳶色の瞳が僅かに揺らぐのが見える。
聡一朗は肺いっぱいに息を取り込み、獄主に向かって捲し立てた。
「っざけんな! 無駄と思ってんのはお前だけだろうが! 生きてんだぞ、確かにそこに存在してんだ! 命を取り扱うあんたがその生を否定するな!」
永く生きる鬼の王族からすれば、人間や花の命など取るに足らないものだろう。
しかしそれを否定する権利などない。ましてや地獄という輪廻転生を司るところで、それを言って欲しくなかった。
「お前、地獄の王様だろうがよ!」
風が吹いて、獄主の美しい銀糸がまた揺れる。しかし彼は何も言う事はなく、ただこちらを見据えていた。
その瞳から、先ほどの冷たさは消え去っている。代わりに宿ったのは、驚きの色だ。
何を驚いているのか、先ほどの言葉に何を感じたかは分からない。しかし聡一朗はもう、彼と会話を続ける気は無かった。
大げさに舌打ちを零して、聡一朗は促すように花壇の外へと視線を移す。するとその意図を察したのか、獄主はあっさりと花壇の中から外へと移動した。
聡一朗は獄主の胸倉から手を放し、花壇を見下ろした。土は抉(えぐ)れ、花芽は無残に散ってしまっている。
眉根を寄せてしゃがみ込むと、隣にいたテキロが視界に入った。
彼は酷く狼狽えながら獄主の姿を凝視していた。跪くことさえ忘れている。
その様子から、聡一朗は自身がとんでもない事をしてしまったと、今更ながら悟る。規則をいくつも犯してしまった。
(……まぁ、いいか。こうなってしまえば、なるようになるさ)
もう既に自分の立場は崖っぷちだ。これ以上悪くなるとすれば、咎人に堕とされるか生まれ変わることが出来なくなるかどちらかだ。
自分が起こした所業だ、甘んじて受ける覚悟は出来ている。
この件を境に、聡一朗は他の候補者から更に異端者扱いされるようになった。
しかし驚いたことに、獄主側からは特にお咎めはない。
テキロらは罰が無かった事に大層驚いていたが、聡一朗は悠々地獄ライフを続けられることを、ただ呑気に喜んでいた。
流れが大きく変わってしまったことにも、まったく気付かずに。
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