書籍詳細
報われない恋から逃げました ~初恋と階段~
| 定価 | 1,430円(税込) |
|---|---|
| 発売日 | 2026/10/30 |
内容紹介
立ち読み
第一章
▲1
冬休み明けで試験期間中の、なんとなく閑(かん)散(さん)とした大学構内。幾度目になるか、初恋の人が他の女の子と手を繋(つな)いで歩いている。
――今日、羽(は)月(づき)ちゃんと一緒にいたね。
――もしかして、付き合ってる? 笑
笑、の文字を、菊(きく)田(た)繭(まゆ)は震えながら付け加えた。
付き合って、いないで。
いや、付き合っていて。
そうしたら、終わりに出来る。終わりにするって決めてる。
強がりのようにそう思うのに、
――おー、お前ほんと、気付くの早いな。付き合ったの、三日前だぞ。
守(もり)山(やま)陽太(ひなた)の返信に、繭はやっぱり、絶望した。
陽太はチャラい。
ちょっとヤンチャな整った顔で、息を吐くように女の子に「可愛い」「好き」って言う。
でも、それだけだったらあんなにモテないし、繭も惚(ほ)れていなかっただろう。
陽太は優しい。
高校一年生の一学期の初めに、教師に自己紹介をしろと言われて、固まってしまった内気なクラスメートの代わりに、「えー、彼はですねー」と突然立って演説を始めたのが第一印象。
その後の休み時間中、「安(やす)田(だ)ってブス過ぎん?」と男子達が新しい担任教師の女性をネタにし始めた時に、「俺、教師にならなんでも言っていいとは思わんわ」と大声で言い放って、先の男子を慌てさせていた。
同じクラスになった、優しくて、強い陽太に、繭はすぐ恋をした。恋をするのは初めてだったのに、不思議なことにすぐ、恋だとわかった。
半年後に初告白をして、その後は毎日陽太に告白する日々。
「陽太の、チャラいその茶髪が好き」
「褒めてる?」
「是非付き合って。付き合ってくれないと手首切る。陽太の」
「俺の?」
陽太と繭はクラスも同じ、部活も同じ。気が合うので繭が告白する前から元々仲が良かった。
クラスの友達も、二人の会話を聞いて「はよ、くっつけ」と囃(はや)し立てる。
繭は告白に応じてはもらえなくても、陽太も同じ気持ちでいるだろうと思っていた。
友達以上恋人寸前を楽しんでいる、つもりだった。
「えーっ、陽太、窪(くぼ)田(た)さんと付き合ってんの!? まじ!?」
「おー、昨日からな」
ある日突然、ニヤニヤする陽太に奈落に突き落とされた。
「あ、……菊田」
気まずそうに繭を見つけたクラスメートの方は、繭がどれだけ本気かわかっていたというのに。
「おー、繭。俺、彼女出来ちった」
朗らかに笑う陽太の頭にチョップして、負け惜しみを叫んだ。
「どうせすぐ私のところに帰ってくるんだからなああ!」
「やっぱ繭、おもろ過ぎる」
腹を抱えて笑う陽太を一蹴りして、繭は駆け込んだトイレで吐くほど泣いた。
……結局陽太は、その窪田という女子とは半年ほど付き合って別れた。
チャンスとばかりに告白しまくる繭を適当にあしらって、次に陽太が付き合ったのは一個下の後輩。その子とは三か月で別れた。次の子は大学生で、一か月。
告白されたらすぐ付き合って、付き合ってもすぐ別れる。
何故か一番仲の良い繭の告白だけはいつも宙ぶらりんのまま、高校を卒業して、同じ大学に入学して、全く変わらぬ関係性のままとうとう大学四年目の冬を迎えた。
「まずいまずいまずいまずいっ」
陽太と繭は大学構内をダッシュしていた。
手には製本した卒業論文。
提出期限ギリギリに製本が上がり(つまり、ギリギリに卒論を校了したわけだが)、時間厳守十七時の一時間前には大学に着く予定で電車に乗ったら、よりにもよってその電車が車両点検で遅れてしまったのだ。
この時期混みに混む大学近くのメジャーな印刷専門店を避けて郊外にある印刷会社に持ち込んだのが裏目に出た。
「あと何分だ!? まゆっ、歩くな、走れっ」
「ハーっ、はーっ、はーっ、」
うん、と言いたいのに繭の口からは最早呼吸しか出てこない。
「仕方ねえっ、それ貸せっ」
陽太が繭の手から卒論の入った封筒を奪うと、
「お前は後からゆっくり来いっ!」
と言ってバーッと走っていってしまった。
「はーっ、はーっ、はーっ」
脚が軽く震えて、繭は止まって息を整えた。
優しい。好き。
そんな関係ないことを一瞬考えて、またフラフラの脚を必死に動かす。
提出場所である教授の部屋のある棟までやっと辿(たど)り着いたところで、
「繭ー!」
三階の窓を開けて腕で大きな丸を作る陽太の笑顔が見えて、繭は安心して地面に座り込んだ。
そんな繭を見て陽太が弾けるように笑う。
繭はその笑顔を胸の奥に焼き付けた。
「卒業おめでとー!」
「いや気が早いわ」
帰りに寄った行きつけの居酒屋で、二人は祝杯をあげた。
卒論を出せたことで気が大きくなった繭に陽太が苦笑する。
繭はそんな陽太に改めて手を合わせた。
「ほんと、今日は助かった。ありがとう」
「おう!」
と陽太は胸を張った後、
「まあそもそも繭がいなかったら俺は卒論間に合ってないからな!」
と何故かもっと威張る。
「確かに……。かなり手伝った。自分の卒論の時間を犠牲にして」
「ありがとうございます!」
「こんなイイ子他にいないと思うけど、結婚しとく?」
「ごめんなさい!」
「しろよ」
軽口のように告白して、いつものように断られる。
痛みがないと思ってるんだろうなあ。
そう思われてること自体が、陽太の中での繭の存在の軽さの証明にも思えて、繭は溜息を隠した。
「陽太」
「なあに?」
「私、……陽太が大好き」
「知ってる」
「付き合ってください……!」
「お友達からなら……!」
「じゃあ今はなんだよ」
差し出した手を握られて、その手の温かさに縋(すが)りつきたくなりながらペイッと横に投げるように離す。
「友達以上恋人未満かね」
「もう恋人で良くないか?」
「今日結構押すじゃん」
陽太が笑う。
押すよ。だって、最後だもん。
好きだって言うのはこれで最後にしよう、と思ったのは実は最初ではない。
高一から今まで、何度「最後にしよう」と思ったかわからない。
「これで最後に」と思いながら毎日のように告白し続けていたこともある。
「最後だ」と思っても、近くにいると、好きで好きで心が引力のように陽太に引っ張られてしまって、自分ではどうしようもなくなるのだ。
だから繭は、「最後にしよう」と心の中で思いながら、最後の告白を毎日続けながら、そっと陽太から離れる準備をしていた。
卒業まであと一か月、という時期になって、陽太に新しく彼女が出来た。
繭の知る限り通算十人目の彼女だ。
――おー、お前ほんと、気付くの早いな。付き合ったの、三日前だぞ。
陽太の肯定のメッセージを見て、繭はいつものように枕に顔を押し付けた。
「これでいいんだ」
口に出してそう言った。
「これで終わりに出来る」
嗚(お)咽(えつ)を漏らすようにそう言う繭の部屋には段ボールの箱が積んである。
地元で貰った内定を断って、四年の秋に入ってから急(きゅう)遽(きょ)東京で就職活動をしていた。
売り手市場なのが幸いして、繭はこの四月から東京の日(に)本(ほん)橋(ばし)にあるWEBサイト制作会社に就職することになっていた。
仙(せん)台(だい)から離れることは、誰にも言っていない。
「陽太のことは、もう、いいの?」
そう訊(き)かれるのが怖かったからであり、それを訊かれた時にうまく返せる自信がなかったからでもある。
それに、もし共通の友達の誰かが、陽太に「繭が東京行くけどいいのかよ」と言ったら?
それは確実に起こりうる未来のように思えたし、陽太がなんと返答するのか、それを耳にするのが繭は死ぬほど怖かった。
卒業式は先週降った雪を溶かしきる晴天だった。
式典が終わると、大学のあちこちで卒業生達が写真を撮り合い、騒いでいる。
陽太も学部の友達やサークルの後輩達に囲まれていて、自身も同じく友達に囲まれていた繭はそれを素早く視認する。
……最後に、話したいな。
そう思うが、本当に最後なので泣かずに話す自信がなかった。
繭は写真を撮り尽くした友人達に「そろそろ帰ろう」と促されて、正門に足を向ける。
習慣でまた、陽太を探した。陽太は今は、大学のシンボルになっている並木道でサークルの後輩と写真を撮っている。パチリと視線が合った。
「繭ー!」
陽太が手を振って大声で繭を呼ぶ。
「繭、卒業おめでとー!」
「おう!」
とだけ言って、繭が手に持った卒業証書の筒を振ると、陽太は「俺にもおめでとうって、言えよ!」と笑い転げた。
陽太の笑顔を見て、もう一言でも口を開けば泣く自信のあった繭は、黙ってまた筒を掲げる。
「また後でなー!」
と言う陽太に再度筒を振って、繭は初恋の人に背を向けた。
夜に開催される卒業記念パーティーに、繭は出席しない。
新居のアパートの引き渡しが明日の午前中なので、今日は袴(はかま)を脱いだらすぐ新幹線に乗って、東京に泊まる予定だった。
……最後に笑顔を見れて良かった。
そう考えて、繭はフッと笑った。
最後最後と言い続けてきた片思いだったけど、本当に今日が最後だ、と気付いた。
そんな繭の顔を見て、一緒に歩く着物や袴姿の友達が、「もー、繭は本当に陽太が好きだなあー」と冷やかした。
▲2
社会人は想像したよりもずっと過酷だった。
繭の入った会社はWEBデザイナー、ディレクター、アシスタントその他経理担当者等で計四十人弱の、業界的には中規模のWEBサイト制作会社だ。
新入社員は繭一人。
そもそもコンスタントに新卒を採用する規模の会社ではなく、繭の応募した営業兼ディレクター枠も「中途採用向け(新卒可)」というもの。繭は既存社員達から「本当は経験者が欲しかったんだけど……」という初対面からガッカリした目で迎えられた。
多くの新入社員があらゆる職場で同じように感じるだろうが、最初は用語の意味も備品の場所もわからず、先輩社員の指示の意図も表情の理由も読めず、繭は四月下旬くらいまでは本当につらかった。
それでも指導役である先輩に「君もつらいだろうが俺もつらいんだ」と万感込めた一言を酒の席で打ち明けられ、この神経質そうな先輩社員が何年かぶりだという新入社員にどれだけの気を遣っていただろう、と思い至ったことで、繭は翌日からなるべく自分の考えを余すところなく伝えるようになった。
それが良かったのだろう、川(かわ)端(ばた)というその先輩社員も、繭の細かい質問を聞くことで自分の説明の不備に気付き、補完してくれた為繭のミスは劇的に減っていった。
そうしてなんとか土日に寝る以外のことが出来るようになってきた五月。
――今日、飲み、行ける?
陽太からのメッセージだった。
約一か月前の卒業式の夜の「繭、なんで参加しなかったん?」というLIMEを無視して以来のメッセージ。
昼休みにそのLIMEを見て、繭は休憩室で思わず大きく息を吐いた。
周囲には数人、お弁当を食べたり動画を見たりしている先輩達がいるが、皆イヤホンをしていて繭の様子に気付いた様子はない。
繭は一人で深呼吸をすると、スマホをタップした。
川端が「今日は早く帰りたいから」と言うので、この日は繭も残業無しだった。
一時間かけて一人暮らししている西(にし)荻(おぎ)窪(くぼ)のアパートに帰る。
コンビニのご飯を並べていると、気にしていたスマホがプルプル鳴り始めた。
『守山陽太』
画面が見慣れた名前を映し出す。
昼に、「実は、東京で就職したんだ。今は仙台にいない」と返信した繭のメッセージを、陽太は仕事が終わって恐らく今確認したのだろう。
繭は心の中で数字を数えかけて、苦笑する。……そんな駆け引き、もう必要ないんだった。
すぐに応答ボタンを押した。
『繭! お前、何言ってんの? エイプリルフールはとっくに終わってるぞ!』
「お疲れ、陽太」
『あ! お疲れ、繭』
律儀に返事を返す陽太。好き。
「エイプリルフールじゃないよ。大都会東京にいるよ」
『はあ!? ……いや、いやいやいや、嘘(うそ)だろ。コラコラ? みたいな社名の会社に就職決まってたじゃん』
「内定辞退したんだよ、東京の会社受け直した」
『はぁ!? なんで!? てかなんで、黙ってたの?』
「もう、陽太に会わないつもりだから」
『……会わない? 会わないって言った!? なんで?』
「なんでって、言う?」
平静を保てていたのに、急に喉に詰まるものを感じる。
『まゆ……?』
「もう、いい加減……、陽太を諦めたくて」
結局泣いてしまう。なるべく声に出したくなくて、咳払いをするけど、多分バレた気がした。
「離れないと諦められないからさ」
『繭、でも……でも、なんで?』
なんで?
なんで、なんでって言うのだろう。
「実らない恋をずっとしてたくない」
それだけ、震える声で言って、陽太が絶句した隙にスマホを切った。
――終わった。
これで、本当に終わった。
繭はスマホで陽太をブロックすると、立ち上がってベッドにダイブして、枕に顔を押し付けた。
押し付けてから、ここは実家じゃないんだから、いいんだ、と思い至り、そのまま声を出してみる。
「うぁー……」
自分の無様な泣き声を自分で聞いて余計泣けてくる。
「ひぃっく、ううっ、ううう」
もう、あの大好きな、太陽みたいな笑顔は見られないんだな。
大きな口で「繭!」って呼ぶ声。好きだった。もう、聞けないんだ。
「ぅう、ふぅう、うう……」
自分で選んだことなのに、繭はそれが悲しくて悲しくて、枕がびしょびしょになるまで泣き続けた。
▲3
翌日、腫れた目を冷やして出社すると、隣の島の女性先輩社員の勝(かつ)亦(また)に「えっ、失恋? あっ、これセクハラ?」と気付かれる。
「どっちかというとノンデリ」
と川端が女性社員を咎(とが)めた。
繭は思わず笑ってしまって、正直に打ち明ける。
「失恋ですぅ~」
「えー、やっぱり。可哀想! 飴(あめ)あげる」
勝亦に飴を貰った。川端が呆(あき)れたように座ったまま繭を見上げる。
「いいんだよ、言わなくて。そういうことは」
「私、変な顔してます?」
繭が訊くと、川端は言葉に詰まった。
「これでも冷やしてきたんですよ」
「いや、違う違う。この場合何を言ってもセクハラになりそうだから」
数年ぶりに若い女性の新入社員を迎えて、川端は少しセンシティブになっているらしい。
先輩社員が言葉を思いつく前に、電話が鳴った。
「はっ、電話、出ますっ」
繭が一気に緊張状態に入って、受話器に飛びつく。
必死に電話応対をして、切った時には社内に漂っていた変な空気は霧散して、またいつもの慌ただしい日常が帰ってきた。
帰りに勝亦と川端に飲みに誘われた。
川端の行きつけだというバーの店内に入ると、繭は目を輝かせる。
「お洒落(っされ)~!」
「そうか?」
田舎者丸出しの繭に、川端が苦笑した。
先輩の川端仁(じん)は、お洒落だ。
長身でスタイルが良く、いつも仕立ての良いオーダーメイドのスーツを着こなしていて、洗練されている。上京前に繭が夢想していた「東京のビジネスマン」にイギリス紳士の血を入れて、チタンフレームの眼鏡を掛けさせたのが川端である。
お洒落な先輩の行きつけのバーもやはり、お洒落だった。
「東京って感じがします……!」
「良かったね」
「良かったねぇ」
川端も勝亦も子どもを見るような目で繭を見た。
三人で丸テーブルに座って、どうやら勝亦も顔なじみらしい店員にポンポン飲み物と料理を注文する。
「何も話さなくていいからさ、私の恋愛遍歴でも聞いてなさいよ」
と言う優しい勝亦の、聞いてみるとただの旦那さんとのノロケに、繭はなんとなく、張り詰めていたものが解けるような気がした。
「……私、高校の時から片思いしてたんですよ」
と、陽太のことを打ち明ける。
繭が騒ぐせいで、高校も大学も周りはいつの間にか繭の気持ちを知っていた。
陽太のことを誰かに説明するのが、意外に新鮮に思える。
一通り話し終えると、勝亦が不可解そうに眉を顰(ひそ)めた。
「うーん、その男の子はさ、なんで気がないならスッパリ振ってくれなかったんだろうね?」
「そりゃ、その調子で告白されたら揶揄(からか)われてると思ってたんじゃない?」
川端は焼酎をロックで飲みながらそんな風に言う。
「真剣だっていうのは知ってたと思います……」
とっくに同じアドバイスをされていた繭は、放課後の教室、図書準備室、帰り道、ありとあらゆる場所に呼び出して告白していた。
そもそも一番初めは、渡り廊下に引っ張っていって決死の思いで告白したのだ。
「じゃあまあ完璧に守備範囲外だったんだろうな」
「ちょっと、どっちがノンデリよ」
「いや、きっとその野郎も、そうは言えなくて困ってたんだと思いますよ。……キツイこと言うようだけど」
「ですかねえ」
繭はヘラリと笑う。
「……一回、陽太がこう、言ってたことがあって。どうせ俺は結局繭のところに落ち着くと思うんだって」
「は?」
「は? どういう意味?」
――どうせ俺、結局繭とくっつく気がするんだけどさあ。だからってあっさり付き合うとなるとちょっと癪(しゃく)っていうか。他の子ともちょっと遊びてぇし。
陽太が友達にそう言っているのを聞いたのは、大学に入ったばかりの頃だった。
その時、愚かな繭はちょっと喜んでしまったのを覚えている。
陽太も自分を運命の相手だと思ってるんだ……!
だったら少しくらい我慢しよう、とさえ思った。
「いや、意味わかんねえわ」
勝亦がトマトジュースのような酒を飲み干してからそう言い放った。
「意味がわかんねえな」
川端も不愉快そうに眼鏡を取って、目の間を指で揉(も)む。
「まあそれは、私が勝手に盗み聞きしたんで、あれなんですけどね……」
「いや、前言撤回する。それは守備範囲外の女を評する言葉ではない」
再び眼鏡を掛けて、川端が断言した。
勝亦も「そうだ!」と同意する。
「菊田さん、振られて良かったのかもよ。その男、付き合っても浮気するタイプだよ、きっと」
「俺もそう思う。菊田、今はたった一人に振られた気分になってるかもしれないけど、男なんて星の数だけいるし、またきっと――、き、菊田? ごめん、セクハラだった?」
顔を覆って泣き出してしまった繭に、二人の先輩が大いに慌てる。
繭は顔を手の平で拭いながら、ハンカチを求めて右手を横のボックスに入れていた鞄(かばん)に突っ込む。
が、繭の手がハンカチに辿り着く前に、川端と勝亦が自分のハンカチを繭の顔に押し付けた。
「っう、よ、よごちちゃいまずぅ……」
「いいから、いいから」
「菊田、ごめん」
焦って謝る川端に繭は首を振る。
急に涙が出てきて、自分でも意味がわからない。
「菊田さん、泣いてていいから」
「泣け、泣け」
「泣けはおかしいでしょ。……菊田さん、しばらくはつらいかもしれないけど、絶対、絶対、スコーンと楽になれる瞬間が来るから。私、出産の時、マジ地獄の苦しみで全世界呪ったけど、産んだ瞬間スコーンと楽になったの」
「それは違うでしょ。菊田。とにかく、聞いた限りおかしいのはその男だから、菊田は悪いとこ一個もないから。いやあるかもしれないけど、とりあえず」
「あるかもしれないとか、今言うんじゃないよ」
「あるかもしれないでしょう」
などと、先輩達が小漫才を繰り広げ出したので、繭は仕舞いには二枚のハンカチに顔を埋(うず)めながらくっくと笑ってしまった。
夜、料理をしろ。無心になれる上、節約も出来て、体にもいい。自炊をしろ。
これ、子どものおもちゃだけど、頭空っぽになれるから、使ってみて。知ってる? リリアンっていうの。昔あった編み物のおもちゃなんだけど、まだ売ってるのね。もう子ども飽きちゃったし、あげる。
先輩二人のアドバイスにより、繭は家に帰ると料理を作って、食べ終わるとリリアンを編む毎日になった。
確かに、料理も編み物も無心になれる。
それでも、湯舟に浸かってぼうっとしてしまった時、寝ようとベッドに潜り込んだ時、心の支えにしていた恋がもう終わったのだと気付いて、繭は何度も泣いた。
▲4
マッチングアプリの画面を川端に見咎められたのは、六月に入った頃だった。
「待て待て待て。見えちゃったから、待て」
「やだ、見ないでくださいよ、川端さん」
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