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政略結婚のはずが、仇敵の氷の伯爵から過保護に溺愛されて困ってます!

川奈あめ / 著
cielo / イラスト
定価 1,430円(税込)
発売日 2026/09/25

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内容紹介

「夜は可愛い新妻、か。そそられる」魔獣の脅威に晒され百年敵対した、仇敵ザグゼンツォグ家当主ジークヴァルトに命がけで求婚し、政略結婚を申し込んだカレンズ家の女当主エイリュス。戦争回避のため仮初めの夫婦となるが、互いに底知れぬ実力を感じとり警戒する。しかし、それ以上に領民への想いや考え方に共感する二人。油断ならない敵として認識していたはずが、命さえ捨てる覚悟だったエイリュスに惹かれていくジークヴァルト。触れ合う温度に抗えぬ恋の渦に溺れていき――。不器用な氷の伯爵×銀槍の戦乙女の切なく甘い運命の溺愛。

立ち読み

序章 嵐の求婚


「頼もう! 政略結婚を申し込む!!」
 嵐の夜、開戦寸前のザグゼンツォグ伯爵城。
 来訪者は門前で声を張り上げた。
 男装、騎乗の凛(りん)とした姿。外(がい)套(とう)のフードからは雨粒がぼたぼた落ち、裾は泥跳ねで汚れきっている。この暴風雨のなか、単身馬を駆ってきたのだ。
 外套の襟には、カレンズ家の紋章――明朝嵐が去れば戦となる、百年の仇(きゅう)敵(てき)。
「政略結婚? それが貴女(あなた)の遺言か」
 ザグゼンツォグ家の若き伯爵ジークヴァルトは、その秀麗なおもてに冬の湖面のごとき凍(い)てついた視線を乗せて返した。
 この湖上の城には今、一万の兵が集結している。宿敵カレンズ家を討ち滅ぼすために。
 その敵陣へたったひとりで乗り込んできた、カレンズ家の女当主。
 わざわざ殺されにきたとしか思えなかった。
 彼女は吹き荒(すさ)ぶ嵐のなか、魔獣討伐の戦場でもよく通る声を凛と張った。
「我らの百年来の諍(いさか)いは貴殿もご承知のとおり! 近年の魔獣異常発生により、緊張状態は極限に達していた。そこへ一昨日の武力衝突だ。すでに死者が出た。両家、ともに引けぬ。だが私はカレンズ家当主として、戦を望まぬ。もう一人として、死なせはせぬ! この、エイリュス・カレンズの名において!!」
 雨にさらされた彼女の頬は濡れていた。ひとしずく、伝い落ちる。彼女は拭おうともしない。
 琥(こ)珀(はく)の双(そう)眸(ぼう)が、雷光に閃(ひらめ)く。
「――如何(いかが)か、ザグゼンツォグ伯!!」
 ジークヴァルトは瞑(めい)目(もく)した。
 父祖代々憎み合った両家の、婚姻。
 屈辱だった。
 いま吹き荒れるこの嵐よりなお激しい、屈辱。
(なぜ俺が、それを!)
 殺せ!! 今すぐカレンズを!! と背後に控える兵らが殺気を膨らませる。魔獣よりおぞましき仇敵の女だ、今すぐその首を刎(は)ねてしまえ!!
 だが彼は、すべてを呑み込んだ。いま吹き荒ぶこのザグゼン湖の湖底に沈めるがごとく、深く、深く、己の感情を沈める。
 そして内面を一切窺(うかが)わせぬ氷塊の表情で、右手を差し出した。
「貴女と結婚しよう、エイリュス・カレンズ殿」
「かたじけない……!!」
 感に堪えぬといった呻(うめ)き声をあげ、彼女は彼の手を両手で取った。
 ふたりは固く握手した。
 ここに両家の和(わ)睦(ぼく)は成立した。戦争は、回避されたのだ。
 そしてまたここに、ふたりの男女の結婚の約束、純然たる政略的な、一片の愛もない“永遠の愛の約束”も交わされたのであった。
「いつか誰かにせねばならぬと思っていた求婚の返事が、『かたじけない』とはな」
 いや、求婚してきたのは貴女のほうか、とつい皮肉にぼやくと、
「嬉しゅうございますわ、ジークヴァルトさま」
 エイリュス・カレンズは瞬時にしてたおやかな笑みを纏(まと)った。
 背後の兵らが、息を呑む。
 白銀の髪、琥珀の瞳。戦乙女らしいしなやかな肢体、隙のない身ごなし。――そして、真珠のごとき可(か)憐(れん)な美貌。
 みずから魔獣討伐の先陣を駆ける女騎士として勇名を轟(とどろ)かせながら、あたかもここが宮廷の舞踏会場であるかと錯覚させる優美さだった。
 彼女は微笑んだ。美しく――たおやかに。
(食えぬ女だ)
 ジークヴァルトは冷ややかに眼を眇(すが)めた。
 確かに見た目は美しい。自分で自分を花嫁にと売り込むだけはある。だが彼は、単身敵陣に乗り込んで己の結婚を取りまとめるような女を、乙女とも淑女とも見(み)做(な)さない。
 ――敵だ。
 依然、危うい均衡の上での和睦だった。いつ寝首を掻(か)かれるかわかったものではない。国王の愛人という噂(うわさ)もある。
 ともあれ、
「貴女は今この瞬間から、我が妻だ」
 ジークヴァルトはそう告げた。
「今夜は当家にお泊まりになるといい。今すぐ寝室を整えさせる。湯あみの用意もさせよう。今宵、私は眠らぬつもりだ」
 侍女を呼ぶよう合図すると、
「え」
 エイリュスは肩を強(こわ)張(ば)らせた。……そそ、と警戒するように外套の前を掻き合わせる。
「…………」
「…………」
 ふたりのあいだに、奇妙な沈黙が落ちる。
 雨が、地面を打ちつづけていた。
 兵らのあいだにも、ざわめきが走る。
「え、速攻初夜? 今すぐ?」
「違う、これは――くっ殺(ころ)だ!!」
「さすがご当主さま、くっ殺をおやりあそばすのだ!」
「なるほど、仇敵をあっさり殺すよりは、女としてねっとりじっくり辱め、嬲(なぶ)り尽くそうというのだな! 和睦など惰弱なことをと思ったが、さすがは宮廷育ちのジークヴァルトさまだ」
「くっ殺? とは?」
「知らんのかおぬし。おもに女騎士を、ごにょごにょ……」
「んなっ! 破廉恥な!!」
 こんなときに限って、なぜかぱたりと暴風雨がやんでいる。兵らのひそひそ声が丸聞こえである。
 ジークヴァルトは重々しく、咳(せき)払(ばら)いをした。
「…………その、戦は回避されたのだから、嵐の夜道を戻る危険を冒す必要はない。私は夜通し、開戦派の家臣らに停戦を説得せねばならぬ。貴女にも、貴家の状況を窺いたい。そのずぶ濡れの衣服をあらため、まずは客室に落ち着かれよ。――もちろん、私の寝室からは最も遠い部屋を用意させます」
「か、かたじけない」
 エイリュスも己の勘違いを悟り、羞恥に頬を染めた。
「その……他意はなかった」
「はい」
「今夜いきなり初夜などと、不(ふ)埒(らち)なことを迫るつもりはない」
「は、はい。それはもう」
「これはあくまで戦争回避のための婚姻だ。今後も、貴女には指一本触れるつもりはない。いや待てよ、先ほど握手をしてしまったが……。失敬、どこまでなら貴女に触れていいか、契約書を作成しますか?」
「大丈夫です、疑ってません、お気遣いかたじけない!」
 エイリュスが悲鳴のような声をあげた。
 嵐の雲がいっとき途切れ、すきまから月明かりがのぞいていた。

 かくして、ガチガチの政略結婚譚(たん)がはじまる。


第1章 えらい妻を娶(めと)ってしまった


 ザグゼンツォグ家と、カレンズ家。
 両家は、魔獣の棲(す)むゾラ大森林を挟んで東西の位置にある。
 カレンズ家が防衛力を強化すれば、魔獣は反対側のザグゼンツォグ領へ出没するようになる。ザグゼンツォグ家が鉄壁の砦(とりで)を築けば、魔獣はカレンズ領側へ流れ出る。
 どちらかが、どちらかの割を食う。
 そのような関係により、両家は互いを憎んでいた。自然災害にも等しい魔獣以上に、『じぶんに割を食らわせる人間』を憎んだのである。
 それが百年続くと、どうなるか。
「カレンズの女悪魔をこの城に置くなど、正気ですか! それも一週間も!!」
 嵐の夜が明けて、翌朝。
 湖上の城、ザグゼンツォグ伯爵城の閣議室で、家臣らが泡を吹かんばかりに咆(ほ)えた。
 水神の守護する、大ザグゼン湖。
 その中心にそびえる白亜の城は、水面に舞い降りた白鳥のごとき風雅を誇る。この美しき名城を手に入れんと、歴代のどの王朝も幾度となく侵略の手を伸ばしたが、湖に囲まれたこの自然の要塞をまえに、いずれもすごすごと引き返していった。この五百年、いちどたりとも陥(お)ちたことがない。優美にして、難攻不落の古城であった。
「魔獣を喜々として殺しまくり、その血を全身に浴びて笑っていたとか!」「カレンズ伯自身が魔物だという噂もあります、我がザグゼンツォグの民を取って喰(く)らうやもしれませぬぞ!」「奴の瘴(しょう)気(き)で城内が汚染でもしたら!」
 口々にそう喚(わめ)く重臣らに、
「落ち着け、皆。エイリュス・カレンズは人間だ」
 ジークヴァルトはどこまでも平淡に答えた。
 百年続いた敵(てき)愾(がい)心(しん)は肥大しきって、今やエイリュス・カレンズそのものが鬼か悪魔、女魔王である。無理もない。皆、子守唄代わりにカレンズ家憎しの物語を聞かされてきたのだ。
「ご当主さま、蒸し返すようですが」
 と、比較的冷静な者が挙手した。
「やはり同盟は偽りではありますまいか。エイリュス・カレンズは狡(こう)猾(かつ)な女です。我らを油断させた隙に、城に攻め入る算段では? カレンズ家は新諸侯、いわば現王家の子飼いです。我ら目障りな旧諸侯を潰してくれるなら、国王にとっては願ったり叶ったり。表向き軽い処罰だけして、さしたるお咎(とが)めもなく済ますでしょう」
「なんなら国王との共謀とも考えられますぞ! カレンズ伯は国王の愛人との噂もありますからな。だいたい女が二十四歳にもなって婿がおらぬのは、そのせいに違いあるまい。薄汚い女だ。ご当主さま、これはやはり罠(わな)です!」
「そのための一週間だ」
 と、ジークヴァルトは閣議卓のうえでゆっくり両手を組み合わせた。
 この伯爵城を守る大ザグゼン湖とおなじ、碧(あおみどり)とも青灰(ブルーグレイ)ともつかぬ深い複雑な色の瞳で、家臣たちを見渡す。
「そなたらも知ってのとおり、貴族同士の婚姻には国王の許可がいる。結婚申請書を携えた使者は、早朝すでに王城へと発(た)った。形式上の手続きに過ぎぬゆえ、通例ならすぐに許可が下りる。その往復に、一週間。エイリュス・カレンズには、結婚許可証が届くまでは人質として滞在してもらう」
「人質……」
 家臣たちが口々にその言葉を繰り返し、ようやく主君の話を聞こうと静まった。
「そうだ。国王の名のもとに結婚と同盟が認められるまでは、騙(だま)し討ちの可能性は捨てきれぬ。だがカレンズ家当主の身柄がこちらにあるかぎり、たとえ過激な開戦派が暴走したとて奴らには手も足も出せぬ」
 ジークヴァルトはつづけた。
「そして許可証が届けば、国王も身動きがとれなくなる。国王みずから公式に認めた婚姻をあとから覆し、しかもそれが臣下への偽計であったとなれば、『王命など信用ならぬ』と国中に触れまわるようなものだからな。そこまでの横暴が通るほど、現王朝は盤石ではない」
「なるほど。各地の名門旧諸侯に、つけいる隙を与えてしまうということですね」
「そういうことだ」
「一週間、でいいのですね? カレンズの女悪魔を城に置くのは。そのあとはどうなさるおつもりで?」
「許可証が届き次第、婚儀を挙げる。どうせ形式上の婚姻だ、教会で書類にサインだけすれば事足りる。カレンズ伯も、『一日も早く領地に戻り停戦処理をしたいので、それで構わない』と言っている。その後は、完全別居。互いの領地にて、継続的に使節を派遣し合い、和睦を構築する」
「では、エイリュス・カレンズとのあいだに、その、お世継ぎは……?」
 老いた家臣が不安そうに言った。
「無論、子はなさぬ。目的はあくまで停戦のみ」
 ほっ、と閣議室に安(あん)堵(ど)のため息が満ち満ちた。案外、これが彼らの最も聞きたかったことかもしれぬ。皆、由緒ある名門ザグゼンツォグ家に、忌まわしき女の血が入ることを恐れていたのだ。
 家臣らの反論は、以降もひとつひとつ封じられていった。それでも感情はまだ追いつかないようで、最後にはため息まじりに、
「さすがジークヴァルトさまは、宮廷育ちのご次男でいらっしゃる。そう理詰めでこられても、我ら年寄りには、のう」「先代の亡き兄上さま、アレクシスさまとは、違うものの見方をなさる」
 と捨て台詞(ぜりふ)ともつかず頭を振った。
 だがこの地におけるザグゼンツォグ宗家の血統、その権威は絶対だった。閣議は昼すぎ、当主の決定に全面的に従うかたちで散会となった。
 ジークヴァルトは謹厳な面持ちのまま執務室へ戻っていった。
 この半日で起こった怒(ど)涛(とう)の変転、ザグゼンツォグ家に降りかかった百年越しの歴史的転換ですら、この冬の湖面のごとき現当主のおもてにはさざ波ひとつ起こさせなかったようだ、とザグゼンツォグ家の人々は囁(ささや)き合った。
「今のご当主さまは、まるでザグゼン湖の氷の湖面。いや、氷の彫像のようだ」
 事実、両家の武装衝突からこの三日間一睡もしていないはずなのに、疲労の影ひとつ、髪ひとすじの乱れさえない。
(ひとまず、これでいい)
 だがようやく執務室でひとりきりになったジークヴァルトは、ぐったりと椅子に身を預けた。長い脚を投げ出し、腹の底から疲弊しきったため息をつく。鍵はかけてある。家臣や民のまえではけっして見せない姿だ。
 首もとのタイに指を引っかけ、乱雑にゆるめる。
 喉ぼとけから鎖骨にかけての男っぽい線があらわになり、この謹厳な伯爵が、じつは匂い立つような男盛りの色香を備えていることがわかる。
 が、その姿を見る者はけっしていない。彼は民のまえで、つねに厳然たる領主であった。
 打った措置に抜かりがないか、頭のなかで点検していく。
(カレンズ伯には、城内の迎賓館をまるひと棟提供した。その中なら自由に過ごしていいと言ってある。迎賓館ならば同盟相手の滞在にふさわしいと同時に、城内の機密を探られる心配もない。メイドや衛兵には、反カレンズ感情を抑えられる温厚な者をつけた)
 待遇面に不備はないはず。
(あとは、あのエイリュス・カレンズが一週間おとなしくしていてさえくれれば――)


 数日後、その迎賓館で事件は起きた。
「カレンズ伯爵閣下におかれましてはご機嫌麗しゅう存じ上げます。ご滞在中、なにか不備はございませんでしょうか。――まあ、本日も素敵なお召し物であらせられますこと」
「ああ、ありがとう」
 廊下を闊(かっ)歩(ぽ)していたエイリュス・カレンズは、声をかけられて足を止めた。
 颯(さっ)爽(そう)と歩いていくスラリと長い脚を包むのは、細身のパンツに、膝までのブーツ。上は綾(あや)織(お)りのジャケットに揃(そろ)いのベスト、絹のタイ。
 振り向いた拍子に、高い位置でキリリとひとつに結い流した髪が白銀にきらめいてなびいた。
 声をかけたのは、ザグゼンツォグ城の老メイド長だった。以下数人のメイドを引き連れており、慇(いん)懃(ぎん)に頭を下げる。
「殿方のような凛々(りり)しいお姿がまことにお似合いですが、恐れながら、別室に替えのお召し物をご用意してございます」
「替えの? なぜ?」
 エイリュスは首をかしげた。カレンズ家から、服や身の回りの物などはすでに届いている。
「恐れながら、ここ数日迎賓館付きのメイドからご様子を漏れ伺いましたところ、カレンズ伯は当家あるじジークヴァルトとのご面会や会食にも、淑女の礼儀に適(かな)ったドレスではなく、つねに男装であられるそうで。我があるじは寛容なかたゆえなにも仰せにはなりませぬが、憚(はばか)りながら……」
 と、この城のご意見番たる老メイド長は、わざとらしく困惑がちな失笑を浮かべつつ、もう一度エイリュスの服装を頭のてっぺんからつまさきまで眺めた。
「おなじ伯爵家と申しましても、由緒正しき名門ザグゼンツォグ家と、新興のそちらさまとでは、ずいぶんと家風が異なるようでございますね? もしや、魔獣の森の果てにあるカレンズ領ではまだドレスという服飾文化がおありにならないのでしょうか」
「いや、そんなことはないが――」
 と生真面目に返しかけたエイリュスに、旧家の老メイド長は真綿で首を締め上げるような慇懃無礼な笑みで、じわじわと言葉を重ねていく。
「仮にも当家に嫁がれましたからには、女主人として、最低限の品位はお示しくださいませんと」
「………なるほど、品位を」
「メイド長殿、そんなことを申し上げてはカレンズ伯爵閣下がお可哀相ですわ!」
 とそこへ、ほかのメイドたちが芝居がかって声をあげた。
「これまで男のようにご公務に邁(まい)進(しん)され、二十四のこのお歳(とし)まで女の幸せを考える余裕もおありにならなかったのでしょう」「そうですわ、ご婚期がこんなにもお遅れになったのも、淑女のマナーを学べなかったのも、致し方ございませんわ」
「…………それは、どうも」
「とはいえ、まずは当家の女主人にふさわしいお召し物からお勉強なさっては?」「もっとも、魔獣をバッタバタと斬(き)り殺すような乱暴なご公務には、今の凛々しいお召し物がおあつらえ向きかもしれませんわねえ?」「まこと、カレンズ伯にはよくお似合いですこと!」
 ホホホホホ、と勝ち誇った笑い声が廊下に響いた。
(なんたる恥辱……!)
 と忸(じく)怩(じ)たる思いで顔を手で覆ったのは、客用書斎でそれを聞いていたジークヴァルトである。
 停戦後の相談のため迎賓館を訪れたのだが、そのまえに手土産代わりにと手ごろな書物を見つくろっていたところ、偶然この茶番劇を目撃するはめになったのである。当家の面汚しだ。
「ははあ、典型的な嫁イビリってとこですかねえ」
 と、秘書官のスヴェンが隣でこそこそ囁きかけてくる。
「メイド長は先々々代のお祖(じ)父(い)さまのころから仕えている古参なだけに、口うるさいですからねえ。だからこそジークヴァルトさまは迎賓館付きから外させたのに、しゃしゃり出てきて。そりゃ僕も、カレンズ家は大嫌いですよ? 召使いたちもみんな、『図々(ずうずう)しい、押しかけ女房だ!』って怒り心頭です。領民たちも、『領主さまにカレンズの残虐極まりない鬼女を娶らせるくらいなら、鋤(すき)や鍬(くわ)を取って戦う!』といきりたち、各村の長は抑えるのにひと苦労だって話です。いっそ今からでも……!」
 と拳を握った秘書官は、当主の凪(な)いだ湖面のように平らかな視線に気づくと、慌てて両手を振った。
「いえ! もちろん僕はご当主さまのご決定に従いますよ? ほかの家臣らも同様です。ご主君に逆らうような不届き者はおりません。それに……」
 と、スヴェンはうつむいた。なにごとか思い出したのか、ふだんは飄々(ひょうひょう)とした顔が、暗く翳(かげ)る。
「戦争はやっぱり、イヤだ。魔獣だけでたくさんです。先代の兄上さまの最期を思うと……。なのにあのメイド長たちは、いけません。――で、どうなさいます、ご当主さま?」
「どう、とは?」
 ジークヴァルトは書棚から本を取り、訊(き)き返した。
「ここでご当主さまが颯爽と出ていって新妻を庇(かば)えば、嫁いびりされたカレンズ伯は恩に着る。あわよくば、きゃあ素敵カッコいいトゥクトゥーン! と恋に落ち、同盟締結後も惚れた男の言いなりって寸法です。あ、いいですねそれ、僕見たいですよ! ご当主さまのカッコいいとこ!」
「…………そのつもりは、ない」
 そうはならんだろ。特に後半。
 と頭痛をこらえつつ、ジークヴァルトはすげなく答えた。トゥクトゥーン?
 十年前亡き兄の最期を看取ってくれた恩から、ただの町人だったこのスヴェンを側近として拾い上げた。目端がきくので重宝はしちるが、どうも語(ご)彙(い)が雑(ざっ)駁(ぱく)である。
「放っておく」
「え、よろしいので?」
 ジークヴァルトはぺらりと書物のページをめくった。
(エイリュス・カレンズなら、じぶんで対処するだろう)
 なにしろ、敵陣に単身乗り込んで求婚してみせたほどの豪胆さだ。
 あの雷光とともに閃く、鋭い眼(まな)差(ざ)し。
 魔獣討伐の戦場では、『銀(ぎん)槍(そう)のエーリュシオン』なるやたらご大層な二つ名まで持っているほどだ。たかがメイドごとき、軽くひねってしまうだろう。お手並み拝見、というほどのことですらなかった。
 ――が、ジークヴァルトの予想は裏切られる。
「そう、ですか……」
 エイリュス・カレンズは戸惑いがちに応じた。
「忠言、痛み入る。至らぬことが多く、すまない」
(なんと弱腰な)
 ジークヴァルトは耳を疑った。
 その後も彼女は、図に乗ったメイドたちにいいように嬲られていた。書物を手にしたまま、彼は天井を仰いでため息をついた。
(……どうやら彼女は、こうした女同士のマウント関係は苦手なようだな)
 戦場や政務の場にばかり生きてきて、こういった方面は疎いようだ。武人として生きてきた女には、ありがちなことかもしれないが。
 男たちは彼女の政治力や武力に注目し恐れていたが、女たちには、また違った嗅覚があるようだ。この土俵でならば、カレンズ伯存外御しやすし、と見抜いたのだろう。
「ご当主さま、さすがにまずいのでは。まがりなりにも、同盟相手の伯爵閣下ですよ」
 スヴェンが耳を塞ぎたそうな顔で声をかけてくる。
 だが、
「――いや」
 ジークヴァルトは、パタン、とページを閉じた。
「あのしおらしい態度は、計算かもしれぬ」
「は?」
 秘書官はきょとんとした。ジークヴァルトは本を書棚に戻し、また一冊、今度は兵法書の古典を取った。
「弱者を装い、我らザグゼンツォグ家を油断させようとしている。はっ、危うく騙されるところだったわ」
「えと……考えすぎでは? こうして聞いてる限り、僕には不器用なくらい真っ直ぐなかたに思えますが」
 廊下側に耳をそばだてて、スヴェンが首をひねる。
「馬鹿め。それが策略だというのだ。カレンズ伯がそんな御しやすい相手だったならばこちらとしては願ったりなのだがな」
「ジークヴァルトさまって、まえから思ってましたけど、性格けっこう疑り深いですよね……。それって絶対、宮廷育ちの弊害ですよ」
 秘書官は哀れむような、なんとも言えぬ微妙な表情を浮かべた。
「宮廷育ちで悪かったな」
 フイと顔をそむけると、スヴェンは慌てて頭を下げた。
「いえ、すみません、失言でした。あの、だとしてもですよ? 政略結婚とはいえ、ご当主が妻として遇さぬのでは、家中(かちゅう)の者たちも侮りましょう。ジークヴァルトさまがそんな態度だから、不心得者どもが図に乗るんですよ。女性がたったひとりで仇敵の家に嫁いできたというのに、夫ならもう少しくらい優しくしてさしあげてもいいのでは? ああいう嫌がらせ、じつはこれが初めてじゃないんですよ」
「おまえ、散々カレンズを嫌っていたくせにいやに庇うじゃないか」
 ジークヴァルトは皮肉に顎を上げた。
「あの美しい容姿に惑わされたか? たしかに一見可憐なあの美貌で国王をも手玉にとっているというが。ふん、ちょっと可哀相な場面を見たくらいで、簡単にほだされおって」
「そ、そんなんじゃありません! ただ、ちょっとあんまりかなって……、あっ、見てくださいよ、あれ。泣いてるんじゃないですか?」
 扉の隙間に目をくっつけて早く早くと主人を手招く秘書官に、ジークヴァルトは渋々、本を書棚に戻した。片目をつむって、同様に扉の隙間に顔を寄せる。
 うなだれたエイリュス・カレンズが見えた。
 彼女はいつも姿勢が良い。身体の芯が、まっすぐ通っている。
 だが今は、萎(しお)れた花のように見えた。首だけうつむけている。窓からの逆光で、顔はよく見えなかった。まさか本当に泣いているのか……? あのカレンズの女当主が?
(騙されるな)
 ジークヴァルトは自分をそう戒めた。


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