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寡黙な先輩の優しい執愛 ~雨上がりの恋に囚われました~

茶川すみ / 著
逆月酒乱 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2026/08/28

内容紹介

告白してくれた同僚からガードが固すぎと陰口を言われショックを受けた園子は、もう恋愛なんてしたくないと落ち込むが、隣の席の直属の先輩・怜士に「全部俺が忘れさせてあげる」と突然キスされ、さらに三か月限定のお試し交際をお願いされて!? 怜士は優しくあたたかく、時に重苦しくも園子に全てを捧げてくれる。次第にキスだけでは物足りなく感じるも、踏みにじられた過去の経験が園子の中で渦巻いてしまい……。「教えてあげるよ。俺がどんなに愛しているか」愛撫の果てにある快感に蕩けさせられて――。気付けば、重たい愛に堕とされる、執着を纏った本当の恋。

立ち読み

プロローグ


「俺さぁ、佐(さ)倉(くら)と別れようと思ってるんだよね」
 その声は、目の前の建物の角の、ここからは見えない向こう側から聞こえてきた。鼻先を掠(かす)めるのは煙草(たばこ)のにおい。確かこの角を曲がれば、うちの会社の屋外喫煙所があったはず。
 足を止めた私は、体の動きも、呼吸さえもぴたりと止めた。ただ気配を消すことだけに意識を集中させる。
 聞こえてきた声の主――私、佐倉園(その)子(こ)の初めての彼氏である三(み)島(しま)祐(ゆう)樹(き)くんは、会社の同期でもある。
 明るくて社交的な彼は、初夏の太陽のように爽やかで、感じの良い話し方をする。
 けれど、今の声は違った。
 初めて耳にする、どこか粗暴さの滲(にじ)む口調だった。
「え、まじ、なんで? 何かあったの?」
 次に聞こえてきたのは、ひっそりとした低い声だった。気安い口調からして、祐樹くんと仲が良い同期の安(あ)達(だち)くんのものだと思う。二人は喫煙仲間でもあり、こうして一緒に煙草休憩に行くことが多いと聞いたことがある。
「いやさぁ、なんて言うのかな……飽きた、かも?」
「あぁー……」
 安達くんは、明確には口にしない。けれどその短い相(あい)槌(づち)には、内心で格下だと認識している者に対する嘲りが含まれているのがわかる。
 きっと今、彼の口元は片方だけ微妙に引き上がっている。このあと、彼らは言葉にしないままお互いの空気だけで感情を共有するんだろう。ちらりと目と目を合わせて。
 そういった場面は、今までにも何度か目にしたことがある。不意に学生の頃の苦い記憶が甦(よみがえ)ってきて、胸の辺りが苦しくなった。しゃがみ込みそうになるのを、両手で胸の辺りを握ることでこらえる。
「正直さぁ、なんでお前が佐倉と付き合ったのか、俺、わかんなかったわ」
 私も最初はわからなかった。私みたいに暗くて地味な女を、祐樹くんみたいな明るいムードメーカーが、どうして好きになったのか。
 でも、祐樹くんはちゃんと言ってくれた。
『気づいたら、佐倉は今何してんのかなとか、何考えてんのかな、とか思って、見かけるたびに目で追っちゃってさ。で、気づいたんだよ。好きだなって』
 手も頬もかじかむ冬の夜。クリスマスイルミネーションに照らされた公園には、たくさんのカップルが仲良さそうに歩いていた。その中で、祐樹くんは首の後ろを掻(か)きながら、照れくさそうに笑った。
『好、き? わ、私を?』
『うん。佐倉って、いつもちょっとオドオドしてるじゃん? それ見てると……こう、不器用だなってやきもきしちゃって。傷つかないように俺が守ってあげたいなって思ったんだ。だから……その、俺と付き合ってくれないかな』
 ――守ってあげたい。
 その言葉が、恋愛なんて無理だと諦めていた空虚な心に深く、強く響いた。だから私は自分でも気づかないうちに頷(うなず)いていた。
 でも、その判断は間違いだったのかもしれない。
「まぁ、男ならさ、憧れみたいなのあんじゃん。真っ白で純粋そうな子を自分の色に染める的な」
「ははっ、うける。親父くせぇ。……で、染まったの?」
「いーや、全然。染まるどころかヤらせてもくれねぇ」
 二人の男が交わすその言葉たちは、私の心の中に土足で入り込んで、大事な何かをぐちゃぐちゃに踏み荒らしていく。
「え、嘘だろ、ヤってないの? 付き合ってから半年くらいは経(た)ったよな?」
「怖いんだってさ。……はぁ、付き合うまで半年かかって、付き合ってからさらに半年かかってもキスまでってなんの拷問だよ。ほんっとめんどくせぇわ。この歳(とし)にもなって処女って」
「はぁっ!? 処女ぉ!?」
 時間をかけて、祐樹くんに咲かせてもらった恋の花。シロツメクサみたいな白くて可(か)憐(れん)なそれが、なんの躊(ちゅう)躇(ちょ)もなく革靴の裏で地面に擦(こす)りつけられる。
「そ。二十七で。あり得ねぇよな」
「まーじかぁー……」
 吸い殻になった、煙草のように。
「二期下のさ、仁(に)科(しな)さんっているじゃん、総務の」
「あぁ、あの美人な」
「そうそう。最近あの子に誘われてるんだよね。だからそっち行こうかなって」
「いいじゃん、あの子。めちゃ評判いいよ」
 胸に鋭いフォークが突き立てられて、少しずつ心を抉(えぐ)られていくようだった。体を硬くして立ち竦(すく)むことしかできない。
 そんな私の耳に大きなため息が届く。
「胸でかいし肌綺麗だし、素材は良かったんだけどなぁ。ヤらせてくれねぇんじゃ魅力半減だわ。趣味もインドアばっかで合わないし、話しててもつまんないし」
「ははっ、かっわいそー」
「うるせぇよ。じゃあ代わるか?」
「冗談きっつー。俺、ああいう地味子ちゃん無理だから。あ、でも、タダでヤらせてくれんなら喜んで」
 震える足に力を込める。くすくすと笑う声を背中に受けながら、足音を立てないようにしてそっと踵(きびす)を返した。
 ……私は、馬鹿だ。
 どうして、彼を好きになってしまったんだろう。爽やかな外面に憧れて、優しげな上っ面にのぼせ上がって、この人なら、なんて思っちゃったんだろう。
 瞳の奥から込み上がってきそうになった涙は、唇を噛(か)み締めることで必死に我慢した。
 ぐっと顎を上げて空を見上げると、そこは灰色で占められている。今にも雨を落としてきそうな重たい雲が、遠くから速いスピードでこちらに走ってきていた。
 梅雨時の今は、連日のように雨ばかり。きっと、もうすぐここも雨が降る。
 人に見下されることなんて、昔から慣れっこだった。
 だから、こんなことで泣いちゃだめ。


第一章 失


 昔から、私は自己表現が苦手だった。といっても別に無感情なわけじゃない。好きなものも嫌いなものもある。でもそれを表に出して、誰かと共有したり同調したり、関わることを苦手としていた。
 それでも、小学校の途中までは比較的自分を出せていたと思う。
 それが変わってしまったのは、六年生の終わり頃、卒業間近のことだ。
『園(その)ちゃん、今日の放課後一緒に遊ぼうよ!』
 当時のクラスには、五年生の頃から仲良くしていた梨(り)奈(な)ちゃんという子がいた。私とは反対の、人と関わることが――人が好きな、快活でお洒(しゃ)落(れ)な女の子だ。
『ありがとう。でも……ごめん、今日は塾で……』
『あぁー、そうだったね、ごめん! じゃあ明日は?』
『明日は大丈夫だよ』
『ほんとっ? 良かったー!』
 いつだって明るく前向きな彼女のおかげで、引っ込み思案だった私もクラスの輪の中に入ることができた。自分の考えを出すことに自信を持てるようになった。
 私にとって、梨奈ちゃんは自分にないものをたくさん持った憧れの女の子で、初めてできた“親友”と言える存在だった。
 そんな梨奈ちゃんは、四年生の時に同じクラスだった男の子に恋をし続けている。いつもクラスの中心にいるような、頭も運動神経も容姿もいい、樹(いつき)くんという名前の男の子だ。有名だから、私も顔だけは知っていた。
 六年生になった始業式の日、昇降口に貼り出されていたクラス発表の紙を見た時、梨奈ちゃんは私の腕にぎゅっと抱きついてきた。
『どうしよう、園ちゃん! 樹くんも同じクラスにいる!』
 六年一組には、私と梨奈ちゃん、そして樹くんの名前が書かれていた。生徒たちでごった返す中、梨奈ちゃんは嬉しさと興奮からか、顔を真っ赤にしている。
『良かったね梨奈ちゃん。私、応援してるから』
 本心からそう返事をすると、梨奈ちゃんは満面の笑みを私に向けてくれた。
『ありがとう! いろいろ相談させてね!』
『もちろんいいけど……でも、私なんか役に立てないと思うよ』
『そんなことないよ! 園ちゃん、男の子から結構人気あるんだよ~!』
『え……そんなことないと思うけど……』
 梨奈ちゃんが好きな人と一緒のクラスになれたのは、私だって嬉しい。でも一番嬉しかったのは、梨奈ちゃんとまた同じクラスになれたことだった。
 友達が多い彼女はどこにいたって楽しいだろうけれど、私が心を開けるのは、彼女しかいなかったから。

 六年生の時間は瞬く間に過ぎていく。梨奈ちゃんは恋愛に対しては意外と奥手で、樹くんとの仲が進展することはなかった。恋愛事に疎い私は押すこともアドバイスすることもできず、悩む彼女を励ますばかり。
 そんな、卒業を控えた一月のある日のことだった。樹くんに好きな子がいるらしい、という噂(うわさ)を耳にしたのは。
 梨奈ちゃんもその噂は聞いていて、「相手は誰なのか」と見るからにそわそわしていた。私だってその相手が梨奈ちゃんだったらいいな、と思っていた。
 なのに。
『樹って佐倉にはいっつも優しいよなぁ。なぁやっぱり、好きな子って佐倉のこと!?』
 ある日の昼頃、日直の私が黒板を消していると、教壇の近くで友達と話していた樹くんがそれに気づいて手伝ってくれたことがある。
 でも、彼は誰にでも優しいからこうして手伝ってくれることはよくあること。誰に対しても同じ――。
『……え?』
 だからクラスの男の子の揶揄(からか)いに、私自身が一番驚いていた。
『何言ってんだよ、やめろって』
『だっておまえ、佐倉にだけやたらと優しいじゃん! 荷物持ってあげたりさ!』
『……』
 樹くんは口籠り、何か言いたげな視線を私に向けてきた。幼いながらもきりりとした顔を恥ずかしそうに引き攣(つ)らせて、頬も両耳も真っ赤に染めて。
『ごめん、佐倉。……気にしないで』
 樹くんは否定しない。疎い私でもわかった。それが、噂の真実なのだと。
 その時、私は冷たく脈打つ心臓を感じながら、梨奈ちゃんの席のほうをおそるおそる振り返った。呆(ぼう)然(ぜん)と席に着く彼女は、目を潤ませてじっと私を見つめている。
 そして、苦しそうな表情をして、素早く目を逸(そ)らした。
 それ以降、ずっと。
『梨奈ちゃ……』
『ちょっとトイレ』
 梨奈ちゃんは私を避けるようになった。挨拶をしても目を逸らされる。話しかけようと近寄ると席を立たれる。謝りたくても、それもできない。
 クラスの中でも目立っていた梨奈ちゃんが私を避け始めると、彼女と仲良い子たちもそれに倣った。そして、なんの関係もない子たちは我関せずだ。その原因になった、樹くんすらも。
 嫌がらせをされたわけじゃない。悪口を言われたりもしない。
 ただいない人として、空気のように扱われた。
 それはまるで、心が彫刻刀で薄く削られていくようだった。その彫刻刀は、悲しさや寂しさ、苦しさといった形に私の心を削っていく。
 壊れそうな心を守るため、私は以前にも増して自分自身を心の奥に閉じ込めるようになった。
 故意ではないとはいえ、梨奈ちゃんの恋を邪魔してしまった自分がすごく嫌な人に思えて、自分のことが好きになれなくなった。

 小学校を卒業したあと、樹くんは自分のお兄さんも在学しているという有名私立中学に進学した。けれど、学区の公立中学に進学した私の環境はほとんど変わらない。
 むしろ、悪化したと言ったほうがいいかもしれない。
 きっかけは、入学後しばらくしてからのことだ。二年生の先輩たちの中で、私が「一年の中で一番素材が良い」と噂されたことがある。
 小学校の頃よりも派手になった梨奈ちゃんや、彼女と同じようなタイプの子たちは、明確に私を狙うようになった。
“清(せい)楚(そ)系ビッチ”とか“高(たか)嶺(ね)の園子ちゃん”とか、陰でそんなあだ名をつけられた。ネットの怪しい掲示板に、私の名前とメールアドレスを勝手に載せられた。セクシー女優のヌード画像と私の顔画像を加工でくっつけられて、学校中の人たちの間でこっそり回された。
 いじめ。
 私がされていたことは、そう呼ぶべきものだったと思う。でも周りの子たちは、自分に火の粉がかかるのが嫌だったのか、誰も首を突っ込もうとしない。
 こういう時、頼りになるのは大人なんだと思う。でも先生には相談できなかった。担任の男性教諭が、男子生徒と一緒にその画像を見ながらニヤニヤ笑っているのを見てしまったから。
 私の中で、“先生”という存在への信頼はそこでなくなった。
 親にも、相談できない。
 私には、八歳下の双子の弟たちがいる。どうしても男の子が欲しかった私の両親は、不妊治療の末に授かった二人を溺愛していた。
 双子の未就学児はとても手がかかる。育児に仕事にと精を出している両親の心に余裕がないのは、常に感じていた。
 双子の弟たちは仲がいい。両親たちも仲がいい。そして、何も言わず問題も起こさない私は、大事にされていないとは言わないものの、まるで置物。
 いてもいなくても変わらない家庭のあぶれ者。そんな疎外感が心を蝕(むしば)む。
 そんな環境の中、心を無にして三年間を過ごした。ひたすら勉強だけは頑張って、高校は他県にある私立の女子校に合格して寮生活になったから、ようやく落ち着くことができた。
 でも心の扉は固く錆(さ)びついて、開きたくても開けない。
 また誰かを傷つけてしまうかも。そして自分も傷つけられてしまうかも。そう思ったらもう、誰かと親密になりたいとは思えなかった。

 孤独ながらも穏やかな高校、大学生活を送ったあとは、大手食品会社の事務に就職することになった。
 そこで出(で)逢(あ)ったのが、同期の祐樹くんだ。
 同期といっても祐樹くんは営業職で、私は事務職。ずっと本社で勤務をしている彼とは違い、私は就職してしばらくしてからは支社で仕事をしている。
 就職後四年ほど経った時、突然祐樹くんから連絡があった。同期の数人で、夕食を食べに行かないかと。
 明るい祐樹くんは私とは正反対のタイプで、いつも誰かと話していてキラキラしている。でも樹くんを彷(ほう)彿(ふつ)とさせる存在だったから、正直に言うと、私は彼に対して勝手に苦手意識を持っていた。
 だから本当は食事に行くのも気が進まなかった。けれど同期との仲が険悪になるのも嫌で、渋々ながらも参加することにした。
『佐倉さんってあんまり自分のこと話さないから、逆に気になるんだよね。ねぇ、今度二人でランチでも行こうよ』
 気さくな祐樹くんに押されて二人で会うようになって、半年後に告白されて……。
 彼の為人(ひととなり)を知っていくにつれて、この人になら私自身を出しても大丈夫な気がすると思った。彼からの告白に頷いたのは、期待があったからだ。こんな私でも、普通に恋愛ができるんじゃないかと。
 順調にデートを重ねていくうちに、私たちの距離は少しずつ近づいていった。彼の手はとてもあたたかくてほっとした。映画館でされた初めてのキスは驚きすぎて記憶が飛び飛びだけれど、確かに嬉しかった。
 誰かが私を好きだと言ってくれる――恋愛の素晴らしさが、心に沁(し)みた。
 でも、三か月目に初めて彼の家に誘われた時。大人なんだからと覚悟はしていたけれど……。
 私は、キス以上のことをできなかった。
 その時、祐樹くんの瞳は炎のように燃えていた。興奮した顔は知らない人のよう。男の人の必死さ、貪欲さ、生々しさが怖かった。どうしても。
 もう少しだけ待ってほしい。そうお願いした私に、祐樹くんは顔を歪(ゆが)めながらも「待つよ」と言ってくれた。
 あれからもう三か月が経つ。次こそは、と何度も足踏みしては引き延ばしてしまった結果が、これだ。
 私は今、そんな初恋の人であり初めての彼氏に、最後のメッセージを送っている。
『さっき、用があって本社に行ったんだ。喫煙所での話、聞いちゃった。ごめんね。祐樹くんは優しくしてくれてたけど、やっぱり我慢させちゃってたよね』
 昼すぎの電車は緩やかに揺れる。席はいっぱいで、左にいるスーツ姿の男の人は大股を開いて私の足を右へと追いやり、下を向いて寝ている。右の綺麗なお姉さんはファンデーションのコンパクトを開いて化粧直しをしている。空間に舞う白い粉が、ふんわりと視界に入った。
『もう、別れさせてください』


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