書籍詳細 一覧へ戻る

天才実業家は初恋の想い人をいつまでも乞い求める

泉野ジュール / 著
cielo / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2026/06/26

内容紹介

Coming soon...

立ち読み

   プロローグ  再会


 こんなときはどうしても過去を思い出してしまう。
 橘(たちばな)春(はる)菜(な)はこの日のために新調した淡いグレイのスーツの襟元を正しながら、周囲を隅々まで見回した。
 天井の高い贅沢な空間には、上品に着飾った賓客がところ狭しと行き交っている。
 男性は揃って仕立てのいいスーツ、女性はビジネスカジュアルからセミフォーマルの装いで、各々の美を競ってこの場の雰囲気を楽しんでいた。
 ――ケータリング、よし。テーブルセッティング、よし。まずまずの出だしね。
 春菜はひとまず安堵のため息をついて、口元を緩めた。
 場所は都内一等地に佇む乃木(のぎ)ホテル。
 ときは一月下旬。格調高い高級ホテルチェーンとして有名なこの会場に、文字通り世界中からのビジネスパーソンが集まってきている。
「なかなか盛況だな。ひとまず出だしはいい感じだね」
 横から声をかけられて、春菜は顔を上げて声の主に視線を向けた。
 春菜のものより少し濃いグレイのスーツに身を包んだ幼馴染が隣にいて、春菜と同じ方向に目を向けて立っていた。
「ありがとう、有(あり)馬(ま)君。実はちょっと緊張していたの。いつも扱っているイベントより規模が大きいし、もっと豪勢な外国のコンベンションに慣れた来客ばっかりだし……。でもさすが乃木ホテルね。この会場の雰囲気だけでみんな満足してくれているみたい」
「お役に立てたならよかった。ついでに泊まっていく客も多いしね、俺達にとってもありがたい話だ」
 そう言って微笑むのは、春菜の幼馴染にして、この乃木ホテル創業者の孫のひとりであり、現在この支店の支配人補佐を務めている男、乃木有馬だ。
 歳は春菜と同じ三十二歳。
 日本人としてはかなり長身でスタイルがよく、外国人ばかりの会場にいても飲み込まれない品格がある。米国で育った時期もあるので英語が堪能で、おまけに次男とはいえ御曹司。普通の女性ならきっと、ほぼ無条件で彼に惹かれるはずだ。
 でも、春菜は……。
「だから、礼を言うのはこっちだよ。乃木(うち)を使ってくれただけじゃなく――」
 あくまで紳士な行動の範(はん)疇(ちゅう)を超えなかったけれど、それでも周囲に見せつけるような親しげな仕草で、有馬は春菜の腰を抱き寄せて耳元にささやいた。
「婚約者のフリまで引き受けてくれたんだから」
 春菜はうなずいた。
 心はからっぽで、たとえ鋭利なナイフで傷つけられても痛みはない。
 ――だってこの胸の中にはもうなにもないんだもの。わたしの心は遠い異国に置いてきてしまったから。
「有馬君の頼みなら聞くしかないでしょ。それに誰かと一緒の方が、変なひとに声かけられなくてすむから」
「なるほど、美人は大変だな」
「美形御曹司も大変ね」
「まあね。そんなわけで、少し挨拶回りに付き合ってくれるかな。顔を売っておきたい相手が結構いるんだ。バチェラー三十二歳より、きちんとパートナーのいる安定した男としてアピールしたいからさ」
「はいはい。しょうがないんだから」
「恩に着るよ」
 ほんの一晩、有馬の婚約者のフリをするだけ。
 そのとき、春菜はまだ自分が同意したことの結果を深く考えていなかった。
 だってこれは、イベント・プランナーである春菜のキャリアの中でも一際大きな仕事で、会場を提供してくれたホテルの御曹司の頼みで、望まない異性の誘いを退けられる都合のいい口実でもあったから。
 仲良く手を繋いで、ときには少し腰を抱いて親しげに会話をして、互いを支え合う理想的なカップルの像を周囲に見せること……。
 それだけだ。
 有馬にとっては、パートナー同伴で出席する外国人の多いこの集まりに馴染みやすくなり、また近年、うるさく見合いを勧めてくるという親類や株主を退けることができる。
 加えて春菜は言い寄ってくる異性を断るとても便利な口実ができる――そして、「彼」のことをほんのしばらく、考えずにすむ。
 それだけのはず……だった。

 有馬は春菜の背中を押すように触れ、賑わう会場の人波の中を進んでいった。
「ほらそこ、有名なホテル予約サイトのCEOだ。挨拶させてくれ」
「本当? すごいわね、そんなひとまで来てくれているの?」
 サイトの名前を聞いて春菜も感嘆する。世界でも指折りの有名旅行検索サイトだ。CEOまで足を運んでくれるとは思わなかった。
 日本のIT企業と世界のそれを提携させる目的で開かれたこのコンベンションが、かなり広く注目された証拠だろう。
「参加者は全員事前に登録してるはずだ。春菜はチェックしてないのか?」
「まさか。主催者から聞かされたのは人数だけよ。招待状を出す業務はしたけど、全部会社宛のメールだから個人の名前までは……。参加者の紹介での当日飛び入り枠もあるし」
「ふうん、そっか」
 有馬はすでに次の契約を狙うビジネスマンの目付きをしていて、春菜の説明は聞き流しているようだった。
 でも、春菜の胸はわずかに高鳴った。
 まさか、彼も……。
 春菜は思わず会場を見渡して、ある男性の姿を探してしまった。
 周囲より頭ひとつ分背が高いはずのその男性の姿は、いくら見回しても見つからなかった。
 そうよ――当たり前よね。あのひとがわざわざこんな場所まで来るとは思えない。もしかしたら会社の部下くらいはいるかもしれないけれど……。
 春菜は気を取り直して、与えられた役割を果たすことに意識を集中させた。
 有馬に促されて一緒に足を運んだ先には、ビジネス関連のニュースでちらりと顔を見たことのある実業家がいた。
 その傍らには、赤いルージュが印象的な美女がへばりつくようにしている。
 これは確かに日本人だけの集まりと違っていて、パートナー同伴でいる方が社交しやすいという有馬は正しかった。
「はじめまして、ミスター・コクレーン。楽しんでいただけているでしょうか? このホテルのオーナーの息子、アリマ・ノギです」
 完璧な英語とマナー、そして誰もが惹かれる朗らかな笑顔で、有馬はその実業家に声をかけて握手を求める。有馬は御曹司であることを鼻にかけるような男ではないが、必要なときには上手くその地位を使う器用さがあった。
「ああ、素晴らしいホテルだね。東京の真ん中にこんな広々と落ち着いた場所があるとは思わなかった」
「ありがとうございます。全国に展開しておりますので、もしこの機会に日本を旅行なさるなら、ぜひご相談ください」
 男ふたりが会話をはじめる横で、春菜はそつなく赤いルージュの女性に声をかけ、気さくにお喋りをする。
 少々アクセントはあるものの、春菜は流(りゅう)暢(ちょう)に英語が喋(しゃべ)れる。
 有馬が今晩のパートナーに春菜を望んだ理由のひとつは、そこだろう。春菜は大学時代の四年間をアメリカで過ごしている。
 そして……。
「こちらは僕のフィアンセ、春菜です。春菜、こちらはミスター・コクレーン。トリップ・プランナーの創業者だ」
「もちろん存じております。はじめまして」
 有馬が春菜を紹介して、ミスター・コクレーンは連れの女性――最近再婚したばかりの彼の二番目の妻だった――を紹介する。よくある社交上のやり取りだ。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 でもなぜか、そんなやり取りをしている間中、背筋が冷えるような……わずかな電流が肌に触れたような……奇妙な身震いがしてならなかった。
 誰かに見られている。
 それも、痛いくらいに鋭い視線で。
 有馬はそれに気づいていないようで、婚約者ということになっている春菜の腰に腕を回して、コクレーンとその妻との会話を続けている。
 失礼だとは知りつつも、春菜は会話をやめてそっと肩越しに背後を振り返った。そして硬直した。
 投げかけた視線の先には、藍色のスーツに身を包んだ長身の男性がいた。
 彼の瞳は春菜を見つめている――春菜だけを。
 そんな……。誰か嘘だと言って。
「ジョナサン……」
 春菜は、かつて愛した男性の名をささやいた。
 互いに大学生だったあの頃、彼は身寄りのない貧しい苦学生だった。でも現在は、アメリカ屈指の若手実業家となったひと。ジョナサン・スペンサー。
 いつまでも春菜が忘れられないでいる、最初で最後の、最愛の恋人。


   第一章  すべての恋が終わるところ


 ――十三年前。
 いくら日本の蒸し暑さには敵わないといっても、九月のアメリカ東海岸の夏はそれなりに暑苦しくて、春菜は汗の滲む額にハンカチを当てた。
「ふう……。覚悟はしてたけど、いざとなるとなかなか大変ね」
 厚い教科書や資料のせいで重く肩に食い込むリュックを背負った春菜は、小綺麗なタウンハウスが並ぶニューヨーク郊外の歩道をのんびりと進んでいた。
 週末。
 八月に渡米して以来、ずっと大学のキャンパスと寮の行き来ばかりだったから、こうしてひとりで外を歩くのははじめてだ。
 頭上の街路樹を見上げながら、電柱のほとんどないすっきりした街並みに見惚れる。
 ここまで来てよかったと、春菜は満足の笑みを浮かべた。
 言葉も文化も違う世界に足を踏み入れるのは、楽なことばかりではないけれど、沢山のご褒美もある。こうした瞬間がまさにそうだ。
 自由があって、冒険があって。
 これで新しい出会いでもあれば、最高なのに。
 春菜は比較的裕福な家庭の出だから、海外自体ははじめてではない。でもこうして親なしでの暮らしはしたことはなかった。
 親のくびきから解放された喜びがひとしお。
 まったくの孤立無援になったことへの不安が、少し。
「孤立無援は大(おお)袈(げ)裟(さ)か……。仕送りもあるし、こうして一(かず)馬(ま)君もいるわけだし……」
 どうせ誰も理解できないだろうという気の緩みから、日本語でぶつぶつと独り言をつぶやきながら歩いてしまう。
 そもそも郊外は車社会なので、歩行者そのものが少ない。
 春菜は今一度住所を確認しながら、上を向いてあちこちを眺めた。日本の住所と違って、ストリートの名前に沿って建物順に番号がついているので迷うことは少ない。
 そこの交差点を曲がったら、すぐ右手の建物のはず……。
「え……きゃっ!」
 ずっと上に視線を向けていたため、曲がり角から対向に出てくる自転車に気づいたときには、すでに遅かった。
 衝突を避けようとできるだけ素早く身を引いたものの、春菜は勢いで歩道に尻もちをついて転んだ。
「くそ(ファック)……!」
 いわゆる汚い四文字語を、自転車の主が叫んだ。
 車輪の太いマウンテンバイクは斜めになり、乗っていた男性がなんとかバランスを取って転倒を防いでいる。
 よそ見をしていたのは事実だから、春菜はこの人物からの罵倒を覚悟した。
 突然だったせいでまだ自覚の薄い臀(でん)部(ぶ)の痛みをよそに、春菜はその人物を見上げるために背を反らした。
 かなり背が高くて、そうしないと顔が見えなかったからだ。
「すまない。怪我は?」
 その男性は、乗っていたマウンテンバイクと荷物を歩道に投げ出して、素早く春菜に近づいてきた。手を差し伸べられ、ほぼ条件反射的にその手に自分の手を重ねる。
「だ、大丈夫です……多分。こちらこそすみません、よそ見していて……」
 男性はそれでも無言で春菜の手を握って、立ち上がるのを助けてくれた。
 その過程で、春菜は思わず、しなやかで適度に筋肉のついた男らしい腕に見惚れた。顔を確認したくて見上げても、逆光になっていてよく見えない。
 でも、すっきりとした短髪の、彫りが深い白人の姿形が浮かんでいる。
「君が謝ることじゃない。この暑さだから誰もいないと思って、歩道を走っていた俺が悪かった」
 その声に。
 その、抑制の利いた喋り方の、低くてよく通る声に。
 春菜はまず惹かれた。眩(まぶ)しさに目を細めると、この魅力的な声の男性の輪郭が次第にはっきり見えてくる。
 いくらひとりの留学ははじめてと言っても、春菜は両親について何度も海外に出たし、美しい外国人の顔を比較的沢山見てきた。だから、ちょっと美形を目にしたからといって動じたりしない。
 でも……このひとは。
 もしかしたら、モデルや俳優のような典型的な美形とは違うのかもしれない。そういった美しさと比べるとこの彼は迫力がありすぎて、どちらかというと敬遠される雰囲気があった。
 でもその瞳……。
 威圧的だと思えてしまうほどの、強いまなざしだった。目力とか眼光とか、そんな陳腐な表現では言い表せないくらいの鋭い視線。
「本当に大丈夫なのか?」
「え、あ、はい」
 どうやら惚(ほう)けていたようで、彼はその迫力ある顔つきをさらに厳しくさせて春菜を覗き込んだ。思ったより派手に転んだのか、春菜のリュックは歩道に転がっていたし、手のひらには擦(す)り傷ができている。
 長いジーンズを履いているから外からは見えないけれど、もしかしたらあちこちにアザができているかも……。
 そう考えたのは彼も同じらしかった。
「どこかもっと深い怪我はないか、きちんと調べた方がいい」
 男性はなにかを探すように、肩越しに背後へ視線を向けた。
 それから春菜の手を離すと、ズボンのポケットに入っていたスマホを取り出し、素早くなにかを入力する。
「……君は日本人だろう?」
 唐突に尋ねられて、春菜はうなずいた。そんなにわかりやすいだろうか。
「俺の知り合いの日本人がこのすぐ先に住んでいるんだ。実は今、そこから出てきたばかりだった。もし嫌じゃなかったら、そこで様子を見て――」
 そこまで彼が言ったとき、曲がり角の先にあるタウンハウスの玄関から馴染みのある人物がひょっこり出てきた。乃木一馬だ。春菜の幼馴染。
「一馬君」
「カズマ」
 春菜と男性がその名を呼んだのは同時だった。
 ――え?
 歩道まで五段ほどある階段を、一馬は長い脚で一段抜かしに下りてきた。
「ジョナサン、どうして急に外に出てこいだなんてメッセージを……って、春菜?」
 一馬は鋭いから、春菜と、ジョナサンと呼ばれた男性と、そして歩道に転がっているリュックやマウンテンバイクを見てあらましを理解したらしい。
 心配されるかと思ったのに、一馬の反応は大きな笑い声を上げるというものだった。
「ははは! まさかこんなすぐに!」
「カズマ、笑っている場合じゃない。俺はこのお嬢さんを轢(ひ)き殺しそうになったんだ。怪我がないかどうか確認したい」
「いや……だって……ははっ、悪い、つい……」
 春菜は目を瞬きながら男ふたりのやり取りを聞いた。
 どうも一馬とこのジョナサンは知り合いらしい。それもジョナサンはたった今、一馬のタウンハウスから出てきたところだという。
「一馬君、どういうことなの?」
 ささやくような抑えた日本語で、春菜は説明を求めた。
 なにがそんなに可笑(おか)しいのか、一馬は目尻に涙まで溜めて笑い続けている。
「悪い、悪い、春菜。久しぶり。上がってくれ」
 と、一馬もそこまで日本語で言って、ジョナサンを手招きすると英語に戻ってふたりに向かって告げた。
 ふたりの運命を変えた瞬間だった。


この続きは「天才実業家は初恋の想い人をいつまでも乞い求める」でお楽しみください♪