書籍詳細
皇帝陛下に忠誠を誓う夫は、いつか私を捨てるでしょう
| 定価 | 1,320円(税込) |
|---|---|
| 発売日 | 2026/04/24 |
内容紹介
立ち読み
第一部《結婚》
◆いつか終わるはずの二人
アンシェラは、冷たい牢獄にいた。
ほんの少し前には、誰よりも幸福な朝を迎えたばかりだったのに……。
人生はうまくいかないものだ。
神様は指先ひとつで、無力な人間を幸せの絶頂から不幸のどん底まで突き落とす。
父親が、皇帝に反旗を翻(ひるがえ)した。
皇帝の側近の妻として都で暮らすアンシェラなど、いないものとして。
もともと娘への愛情など、ほとんど持ち合わせていない父親だったから、致し方ない。そういう日がずっと訪れなければいいという願いが叶わなかっただけの話だ。
大罪を犯した家の娘が見逃されるはずもなく、捕らえられた今は、ただ終わりがくるのを静かに待つしかない状態となった。
アンシェラが膝を抱えてじっとしていると、地下牢に靴音が響き渡ってくる。遠慮のない音が、耳障りだった。
靴音は、この牢の前でピタリと止まる。
その豪(ごう)奢(しゃ)な靴、それに服装を見ただけで誰がやってきたのかわかった。
セーデルタール帝国皇帝、ヨーラン二世だ。
「反逆者の娘よ。このようなかたちで再び相(あい)見(まみ)えるとは思わなかったぞ。残念だ。……明日、そなたを処刑することにした。なにか言い残すことはあるか?」
自ら処刑を告げにくるとは、この暴君はどこまでも気まぐれだった。
「夫は……バルトサール様は、今どうしていらっしゃいますか?」
せめてこの事態に巻き込まれていなければよいのだが。
アンシェラが、夫であるバルトサールの身を案じていると、皇帝はおかしそうに笑い出す。
「あの者に情など期待するな。今も涼しい顔で我に服従しているぞ。必死に我の機嫌をとって……そう、自分には咎(とが)が及ばぬようにと跪(ひざまず)いて情けなくも懇願してきた。そなたをさっさと処刑すべきだと進言してきたのも奴だ。ああ……それと」
皇帝がお付きの者に目配せをした。
指示を受けた男が、鉄格子越しにトレーに載せた書類を見せてくる。
「今すぐ離婚したいと言っておった。罪人の妻などいらないと」
きっと皇帝は、夫に見捨てられたアンシェラが、取り乱して泣き叫ぶ姿が見たかったのだろう。しかし感情を出すことは、もとから得意ではなかった。
「皇帝陛下。私はなにも期待などしておりません。なぜなら私たちは、最初から本当の夫婦ではなかったのですから。きっと、陛下もよくご存じのはず」
そう……夫は、ほかでもないこの皇帝に命じられ仕方なく、アンシェラと結婚したのだ。いずれ関係は瓦解することなど、お互い承知していた。
アンシェラは鉄格子の向こうに手を伸ばし、皇帝がわざわざ用意したらしい離婚のための書類にためらいなく署名をした。
これで、夫との縁は完全に切れたことになる。
アンシェラは、夫の姓であるクラーセンではなく、生家のオルヘルスの者として死んでいくのだ。
「つまらんな。そなたにはもう少し期待していたのだが……」
皇帝は、興味を失ったように去っていく。
その姿が消えたころ、アンシェラはひっそりと涙を流した。
たとえ夫の愛が偽りだったとしても、アンシェラは彼のことを愛していたから。
(怖い……助けて……誰か!)
本当は誰かではなく、バルトサールに助けを求めたい。強がりにも限界がある。
アンシェラは結局ただの二十歳の小娘にすぎなかった。
「助けてください、旦那様……」
いつからだろう。じわじわと蝕(むしば)むように、まるで病のように彼に恋していったのは。
「そう……あの夏からだわ」
目を閉じれば、二年前の夏の光景が蘇ってくる。長い冬が終わりを告げ、春を越えてようやく迎えた、眩(まばゆ)い夏を。
アンシェラは残された時間、死への恐怖から逃避するため、彼との思い出に浸った。
§
十八歳のある朝――。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
アンシェラは毎日同じ言葉を発し、張りぼての笑顔で夫を送り出す。伯爵夫人として「間違い」のないように。
目の前にいるのは、凜(り)々(り)しくも美しい青い瞳と、ほんの少しくすんだ金髪を持つ夫のバルトサール。彼もまた、完璧な所作で別れの挨拶をくれた。
「今日も遅くなると思うが、君はどうか穏やかに過ごしてくれ」
家令が玄関の扉を開けると、眩(まぶ)しい光が入り込んできて、バルトサールの金髪をより一層輝かせている。
アンシェラは眩しさに、思わず目を伏せた。
「お気遣い、感謝いたします」
お互い、思ってもいないことを平気で口にする。「言葉」というものが、これほど無価値なものだとは知らなかった。
アンシェラが、このクラーセン伯爵家に嫁いできたのは二年前。
皇帝に反感を抱く勢力の筆頭である生家、オルヘルス侯爵家を牽(けん)制(せい)するために決められた、よくある政略結婚だった。
オルヘルス侯爵家は北部を領地としているが、寒さの厳しい地域なだけに飢(き)饉(きん)に見舞われやすい。
父のオルヘルス侯爵は領主として優秀な人物で民からの人望も厚かったが、皇帝はそんな彼を、自身の権威を脅かしかねない人物としてひどく疎(うと)んじていた。
気に入らない者は積極的に排除していく暴君であっても、オルヘルス侯爵ばかりは、北部の安定のために安易に消すことができなかった。
そこで皇帝は、オルヘルス侯爵家の娘であるアンシェラを、自分の腹心であるバルトサール・クラーセンと結婚させることを思いつく。
首都に娘を呼び寄せることで、オルヘルス侯爵が謀(む)反(ほん)など起こさぬよう動きを封じたのだ。
アンシェラが十六歳、バルトサールが二十五歳のときのことだった。
九つも歳の離れた、危険分子の一族であるアンシェラのことなど、バルトサールは歓迎する気持ちにはなれなかっただろう。
結婚してからの二年間、アンシェラはこのクラーセン伯爵家において、とりあえず妻という体裁を保っていても、お荷物以外のなにものでもなかった。
(だから、これはしかたのないことなのよ……)
宮廷に出仕しているバルトサールを送り出した瞬間から、アンシェラの過酷な日常がはじまる。
「アンシェラ、なにをしているの? 早くなさい」
バルトサールがいなくなるとすぐに、棘(とげ)のある声が響き渡った。
「はい、お義母様」
このクラーセン伯爵家の実質的な女主人である前伯爵夫人のソフィーが、アンシェラを睨(にら)みつけていた。
彼女は、不本意なかたちで迎えることとなった嫁のことが、とにかく気に入らない。
アンシェラの重たい黒髪も気に入らないし、閉ざす口の代わりに意思を主張してしまう、大きすぎる緑の目も気に入らないらしい。
息子の伴侶には、もっと淑(しと)やかで洗練された完璧な女性がふさわしいという考えを持っている。
「先生をお待たせしないようにと、……何度も同じことを言わせないでちょうだい。ああ、頭が痛いわ」
「申し訳ございません、お義母様」
顔を歪(ゆが)めながら大げさに額を押さえるソフィーに、アンシェラは頭を下げて謝罪をする。
(ですが、お義母様。旦那様のお見送りを怠(おこた)ったら、それはそれで罰を与えるのでしょう?)
本音は、決して漏らせない。状況が余計悪化するとわかっているから。
それは単純でいて、壮絶ないじめだった。
結婚した日から、二年間毎日繰り返されている。夫は気づいていない。妻に興味がないから、気づこうともしていない。
(この家はどこかおかしい……)
バルトサールの冷たい薄青色の瞳からは感情というものが見えにくく、なにを考えているのかがさっぱりわからない。
横暴な皇帝の忠臣として、その治政の邪魔となりそうな者を冷酷無比に排除していく男だという噂だ。
アンシェラに対しては表面上紳士的ではあるが、結婚したときに彼はこう言った。
「この結婚は、不幸しか生み出さないだろう」
以来、お互い打ち解け合う努力もしていない。バルトサールは朝の挨拶と定期的な贈り物が、形ばかりの最低限の義務であると思っているようだ。
ソフィーとバルトサールの親子関係もよくわからない。ソフィーが息子を溺愛していることだけは伝わってくるのだが、アンシェラは漠然とした違和感を持っている。
たとえばアンシェラと実父であれば、上下関係ははっきりしているのだが、この二人はいつも揺れ動いている。
ソフィーが口うるさくなにかを要求したとき、バルトサールは黙って言いなりになることが多い。しかし彼がわずかに眉をひそめようものなら、たちまちソフィーは顔色を変えて謝罪をはじめる。
(だからもし、旦那様が少しでも私のことを気にかけてくだされば……)
この状況は多少改善されるかもしれないのに――。
広い屋敷の廊下を歩きながら、アンシェラはそんなことを考えた。
しかしバルトサールが妻に興味を示すことはなく、アンシェラの食事に残飯が混ぜられていることも、味付けがおかしくなっていることも知らない。
それどころか、彼がいないときはろくに食事をさせてもらえないことも、きっと把握していないのだろう。
アンシェラは重たい気持ちで、ある部屋の扉を叩いた。
「先生。よろしくお願いいたします」
北部育ちのアンシェラは粗(そ)忽(こつ)者(もの)として扱われている。
そのため、クラーセン伯爵家の妻としてふさわしい女性になれるよう、矯正のための厳しい教育を受けることが日課となっている。
歩き方、喋(しゃべ)り方、ティータイムの所作……すべてが都にいるほかの女性の足元にも及ばないのだという。
「まったくなっていませんね、アンシェラ様。せっかくラインフェルト家のエレオノーラ様からご招待を受けているというのに。……これでは到底サロンに出席することはできません」
お茶の淹(い)れ方の講義でそう切り出した講師の表情は、嬉々として輝き出した。
「先日の夜会では、久しぶりにバルトサール様がエレオノーラ様をお誘いになり、二人で踊られたのですよ。あまりに完璧なお二人に、エレオノーラ様に求婚なさりたい男性はため息を吐(つ)いたとか」
聞いてもいないのに、わざわざそんなことばかりアンシェラの耳に入れようとした。
エレオノーラという女性は社交界の華で、ソフィーが彼女こそ理想の花嫁だと言ってはばからない人物だ。
アンシェラは結婚式のときに一度だけ彼女の姿を見たことがある。確かに絹糸のような白金の髪を持つ美しい人だった。
ソフィーのお気に入りで、本来の花嫁候補。そんな女性のサロンになどアンシェラは参加したくない。
マナー講師は今日も「伯爵夫人」宛に届いた招待状に断りの返事を書くことを強要してくるが、これだけは続けてほしいと思っている。
でも、そろそろ息が詰まりそうだ。
(旦那様がダンスを……)
アンシェラを傷つけるために放った講師の言葉は、確かに効いていた。
美しい男女二人が優雅に踊る姿を想像し、ぎゅっと拳を握りしめて、胸の痛みに耐える。
どれだけ努力しても、決して及第点に達することはない。そんな授業を受け続け、終わればただの孤独な時間を過ごすアンシェラ。
宮廷で活躍し、自由でいて華やかな宴を楽しむバルトサール。
二人は同じ家で暮らしているはずなのに、なにもかも違いすぎる毎日を生きていた。
§
ある日、アンシェラが窓を開けると、外からかすかに花の香りが漂ってきた。
季節は初夏で、クラーセン伯爵家の庭園に薔薇が咲き誇っていたのだ。ソフィーの自慢の薔薇だった。
「花が見たいわ……」
もう、どれくらい外に出ていないだろう。気分転換に散歩をしたくともソフィーの許可が必要だから、面倒で諦めてしまっている。
特に今日はソフィーが友人たちを招待し、ティーパーティーを開くから部屋から一歩も出ないようにと言われていた。
せめて香りだけでもこのまま楽しもうと窓を少しだけ開けたまま、本を読みはじめる。
外から楽しげな声が聞こえてきたのは、しばらく経ってからのことだった。
テラスでのティーパーティーがはじまったのだ。
アンシェラはそっと窓を閉めようとした。騒がしいのは好きではないから。しかし、窓辺に立ったときに聞こえてきた会話に思わず手を止める。
「なんてお名前だったかしら? そうアンシェラさん。ずっとお姿が見えないけれど」
誰かがアンシェラの名前を出したからだ。
「ご挨拶もできず、お恥ずかしいわ。アンシェラは喉(のど)の調子が悪いそうよ」
「あら、確かこの前は頭痛に悩まされていらっしゃったはず」
「困ったものよね? おそらく都の空気が合わないのでしょう」
ソフィーはアンシェラが仮病を使い、わがままで部屋に引きこもっているのだと言いふらしているらしい。
彼女の友人たちからも、アンシェラを見下すような気持ちが見え隠れしている。挨拶もできない、不肖の嫁だと皆で笑っているのだ。
(ふざけないで……)
いつもなら耳を塞(ふさ)いで終わらせていたことなのに、どうしてかこの日は聞き流せず衝動的に部屋を出た。
彼女たちの前に姿を見せて、澄ました挨拶をしてやろうと思ったのだ。
それでソフィーの嘘を知らしめて、彼女の鼻を明かしてやろうと……二階の自室から階段を下りていくあたりまでは、確かにそう息巻いていた。
しかし途中で、否定され続けたせいで根づいてしまった自信のなさが表に出てきてしまう。自ら笑いものになりに行くのかと。
想像できてしまうのだ。
『皆様、ごきげんよう』
アンシェラがそうやってお辞儀をしたら、扇子を広げてクスクスと目配せをしながら笑い合う婦人たちの姿が。
屋敷の中はとても静かだった。
アンシェラはふと魔が差したように、無意識にテラスとは反対方向に足を向ける。気づけば使用人が使う裏口から建物の外に出ていた。
もともとこの家は使用人が少ない。当主であるバルトサールは皇帝の犬として、表には出せないような仕事をしているから、警戒心が強いのだろう。
今日は招待客への対応で忙しくしていて、ここまで誰にも会うことがなかった。
だからアンシェラは、この牢獄のような屋敷から逃げ出した。
屋敷の外は、漂う空気まで澄んでいる気がした。
スカートの裾を持ち上げて駆け出したのは、いつ以来だろう? 額に浮かんだ汗が心地よい。
アンシェラは北部で育ったから都のことなどほとんど知らない。クラーセン伯爵邸は丘の中腹にあって、下れば街へたどり着くだろうことくらいの土地勘しかなかった。
なるべく人に会いたくないから、自然と街とは逆の、木々が生い茂っているほうに足が向く。
黙々と歩き続けているとすぐに足が痛くなり、息も切れはじめる。北部にいたころより、随分体力が落ちてしまっていた。
足が悲鳴を上げたころ、小川のせせらぎが聞こえてきた。アンシェラは誘われるようにそこへ行き、川の水を一口すする。
「おいしい……」
渇いた喉を潤す、甘い水。水質などわからないが、もしこの水が毒だったとしてもかまわない。いっそ毒であって、このまま眠るようにすべてを終わりにできないか。そんな考えさえよぎる。
今、アンシェラは束の間の自由を楽しんでいた。
靴を脱いで川べりに腰を下ろし、冷たい水に素足を浸す。靴ずれができてしまっていたが、染みたのは最初だけ。
(もう、あんなところには戻りたくない……)
このままどこか、知らない場所に行きたい。
北部はだめだ。見つかったら、父が許してはくれない。
――クラーセン伯爵夫人は行方不明。そう……誘拐なのか家出なのか、それとも妖精のいたずらにでもあったのかわからないくらいがちょうどいい。
それなら、自分が消えたとしてもなにも起こらないだろうから。
たとえば、父が娘の死を口実に兵を動かすことはできないし、皇帝も娘の逃亡を理由に父を断罪することはできないだろう。
「この川は、どこへ繋がっているのかしら?」
できることなら、海がある場所へ向かいたい。船に乗って、自分が生きていける場所を探すのだ。
それは荒唐無稽な夢。現実になりようがないとわかっている。現にアンシェラはもう、少しも歩けなかった。
「――ここでなにをしている?」
聞き慣れた声を耳にしたのは、この小川にたどり着いてから一刻ほどたったであろうころだ。
「……ごきげんよう、旦那様」
アンシェラは足を水に浸したそのままの状態で、「追手」のほうへ顔だけ向ける。
いつも夜遅くまで宮殿にいるはずのバルトサールがここに来たのは、偶然でもなんでもないのだろう。珍しく、アンシェラに対して不機嫌さを隠そうともしない。
「ここでなにをしているのか、尋ねているんだ」
「ただの散歩です。ちょっとした気晴らしに。……こんなに早くお迎えに来てくださるとは思いませんでした」
アンシェラがささやかな嫌味を言うと、バルトサールには怒りより先に驚きがやってきたようだ。
目を丸くして、まるで知らない人を前にしているかのように、じっと見つめてくる。
彼にとって空気のような形式的な妻が、反抗的な態度を取ってきたことは予想外だったようだ。
そんな夫に作り笑みを向けながら考える。
――宮殿にいたはずのバルトサールが、こんなに早く駆けつけられたのはなぜ?
外に出たらもれなく監視を受けることを、アンシェラははじめて知った。今まで一度も勝手に外に出たことがなかったから当然だ。
では屋敷の警備が手薄そうに見えたのも、勘違いだったのか。穴があるように装って、不審者の動きを把握しようとしていたのかもしれない。
たとえば、アンシェラが北部の者と連絡を取り合わないか……など。
二年もおとなしくしていたオルヘルスの娘が、はじめて怪しい動きを見せたと報告があり、仕事を放りだして自らここに足を運んだというわけだ。……いや、これこそ彼の仕事なのかもしれない。
「アンシェラ……」
今度はアンシェラが驚く番だった。
バルトサールからこうやってまともに名前を呼ばれた記憶がなかったから。名を認識すらされていないのではないのかと思っていた。
バルトサールはさらに奇妙な行動を取り続ける。
嫌味を言ったアンシェラを叱るでもなく、隣に腰を下ろしてきたのだ。完璧な伯爵で、宮廷人である彼が敷布もない地面に。
「クラーセン伯爵家には……いや、私には敵が多い。だから、身近にいる者の安全を確保する責務がある」
バルトサールはアンシェラと並び、川の流れを見つめながらそう言った。いつもの優しそうな声音に戻っている。
「それは……ご心配をおかけいたしました」
こういうときに、年齢の差を感じざるを得ない。アンシェラは十八歳の小娘で、バルトサールは二十七歳の大人の男性だった。
勝手に抜け出したことを謝罪したが、とても気まずい。でも、彼がアンシェラに対して歩み寄ってくれているようで、嬉しくなった。
「……今日、お屋敷にお客様がいらっしゃいました。皆さん、私が北部出身であることを快く思っていないのです。都の空気が合わないのでしょうと……陰でそう笑っていらっしゃいました」
アンシェラは今日の彼に期待したのだ。もしかしたら自分の味方になってくれるかもしれないと。でもそれはとんだ思い上がりだった。
ふう、と小さなため息が聞こえてくる。
「口さがないものは、いくら排除しても必ず出てくる。まだ若い君には難しいことかもしれないが、小さなことは聞き流し、毅然とした態度をとってほしい」
決して絶望などしない。
ゆっくりと呼吸をして、感情を押しとどめる。ここで泣かなかったのは、未熟者であることを自ら証明したくなかったからだ。
「さあ、初夏とはいえ日が落ちたら冷えるだろう。もう帰ろう。お父上のためにも二度とこんなことはしないように」
バルトサールは腰を上げ、ハンカチを取り出した。そうして水中にあるアンシェラの足に無遠慮に触れてきた。濡れた足を拭おうとしている。……アンシェラの感情などお構いなしに。
「……待ってください、自分で」
なんとはしたない姿を晒(さら)しているのだろう。アンシェラは恥ずかしさのあまりどうしてよいのかわからなくなった。
「傷ができている。これでは歩けない。……さあ」
バルトサールが断りなく、アンシェラの膝の裏に腕を入れて抱き上げてくる。
「やめて……やめてください。自分で歩けます。旦那様……許してください」
憎々しい人に助けられたくなどない。離れたいのに、持ち上げられてしまったら怖くて彼にしがみつくことしかできなかった。
自分の無力を思い知らされる。
「そうだ。そうやって掴(つか)まっていなさい。馬を繋いであるから、そこまでだ」
バルトサールは、アンシェラの拒否の言葉など聞き入れてくれず、そのまま歩き出した。そうして彼の愛馬の上にアンシェラを乗せて、自ら手綱を引いてくれる。
もう戻らなくてはいけない。
バルトサールの馬はゆっくりと、だが確実に屋敷に向かっていく。
「窓から……青い鳥が見えたのです。それで……近くで見てみたいとつい追いかけてしまいました」
そうやって、バルトサールに……そしてこれからソフィーにしなければならない言い訳を必死に紡ぐ。ただの言い訳であることは明白だ。
彼はただ「そうか」と流してくれたが、ソフィーが納得してくれるとは思えない。
結局アンシェラは、なにもできないただの愚か者だ。
屋敷に戻ると、ソフィーが待ち構えていた。
「まあ、アンシェラ。無事でよかったわ。心配したのよ」
彼女は目を潤ませながら実の母のような抱(ほう)擁(よう)をくれる。アンシェラはそれにぞっと背筋を冷やす。
(ああ、こうやって……)
この人はとても恐ろしい人だ。決してバルトサールの前では、本性を見せない。アンシェラに対する鋭い爪を隠し続けている。
今日屋敷に来た彼女の友人たちにそうしていたように、これまでバルトサールにどれほどの嘘を吹き込んできたのだろう。
「アンシェラ……疲れているのでしょう? 今日は早く休みなさい。食事は部屋に運ぶようにするから。明日、ゆっくりお話ししましょう」
「はい、お義母様……」
アンシェラは声が震えそうになるのを必死で隠して、自分の部屋に戻った。
(明日、叩かれることくらい覚悟しておかないと……)
当然だが、部屋に誰かが食事を持ってきてくれることはない。空腹をしのぐために寝台に潜(もぐ)るが、明日のことを考えると不安が増していくばかりだ。
夜が明けるのが怖い。アンシェラは眠れぬ夜を過ごした。
§
いくら願っても太陽は昇り、自分以外のすべての人が待ちわびていただろう朝がやってくる。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
いつものように、アンシェラはソフィーと共にバルトサールを見送る。
バルトサールもいつもどおり、うんと軽くうなずく。そうしてこのあと「穏やかに」などと、意味のない言葉をくれるものと思っていたが、この日は違った。
バルトサールはじっとアンシェラを見つめて、わずかに顔を顰(しか)めてくる。
「……どうかなさいましたか?」
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