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バツイチですが、年下天才社長に溺愛されています ~恋に不器用な彼は、私だけを離さない~

結祈みのり / 著
なま / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2026/03/27

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内容紹介

社内恋愛からの離婚を経験して、居場所を失ってしまった朱莉。過去を振り切り仕事に打ち込むため、以前から憧れていた会社に転職する。恋愛を忘れるほど仕事一色の日々だったが、誕生日の夜、『イケメン過ぎる実業家』として注目を集める五歳年下の社長・三澄から、怒涛のアプローチを受け!? 業界で活躍する三澄に五歳年上で離婚歴もある朱莉は相応しくないと思いつつも、差し出されたその手を取ってしまい……。「俺を選んでくれるなら、なんだってする」苦い過去を溶かす、純愛オフィスラブ!!

立ち読み

「ずっとあなたが欲しかった」
 憧憬、崇拝、渇望、欲望。
 それらの感情が滾(たぎ)る瞳を前に、『逃げる』なんて選択肢は最初から存在しなかった。
 シーツの上に広がる私の髪を骨ばった指先が撫(な)でる。宝物に触れるように髪先をすくい上げた彼は、髪の表面にそっとキスをした。
 見せつけるように。
 これから私にそう触れるのだとでも言うように。
「朱莉(じゅり)さん」
 手のひらが私の頬(ほお)に伸びて、親指で唇の表面をなぞられる。
 心臓がどうにかなりそうなくらいに激しく鼓動していた。皮膚の表面が粟立(あわだ)つような視線が熱くてたまらない。それが不安のせいか期待のせいかはわからない。あるいは、その両方なのかもしれなかった。
 はっきりしているのは、きっと私も、彼と同じ目をしているということだけ。
「逃げないで」
 私の唇に触れる指先、眼差し、声。その全てがあまりに官能的で、魅入(みい)られる。
 出会いは、お世辞にもいい思い出とは言い難(がた)いものだった。
 私は、五歳年下の彼に対して『なんて浅慮(せんりょ)な人だろう』と感じたし、多分、彼も私を『可愛げのない年上のアラサー女』と思っていただろう。でも、そんなマイナスな感情はすぐに好転した。
 彼は信頼できる上司であり、仕事仲間となった。
 私にとっての彼は、憧れの人。そこに男女の恋情は存在しないはずだった。
 でも、そんなことはなかった。
(私もずっと、この人が欲しかった)
 いつしか心の中にひっそりと芽生えていた想い。それを無意識のうちに心の奥底に閉じ込めていたのは、私が、“私”という人間の価値を誰よりも知っていたからだ。
 若く、優秀で、周囲の期待を一身に集める彼。
 愛されることを諦め、静かに女としての終わりを待つ私。
 私は彼に相応(ふさわ)しくない。だから私は、無自覚に彼への想いに蓋をした。気づかなければ、傷つくことも傷つけられることもないから。
 でも、もう無理だった。
「……三澄(みすみ)社長」
「“光汰(こうた)”」
 甘やかに、密やかに、訂正される。
「あなたには、名前で呼んでほしい」
 求められている。望まれている。
 その事実に、私の中の“女”は歓喜の声を上げた。
「光汰」
 名前を呼んだだけなのに、彼は本当に嬉しそうに頬を綻(ほころ)ばせる。直後、その理由を私はすぐに身をもって知ることになる。
「ありがとう、“朱莉”」
 低く掠(かす)れた声が初めて私を呼び捨てにした。それだけで痛いくらいに胸が高鳴った。
 彼も、私と同じ気持ちなのだろうか?
 名前を呼ばれただけで胸が苦しくなるくらい、私を想ってくれている?
『あり得ない』という気持ちと『そうであればいい』という気持ちが同時に訪れ――。
(どちらでもいい)
 私は、それ以上考えることを放棄した。
 もう後戻りはできないし、したくない。常識もモラルも今だけは考えたくなかった。
 明日の朝、後悔したとしても……たとえこの選択によって、今まで築き上げたものが溶けて消えたとしても、今はただこの熱に溺(おぼ)れたい。
 端整な顔が近づいてくる。ほのかに酒の匂いを感じた瞬間、唇は重なった。

 今宵(こよい)、私は彼に抱かれる。


一章


 三月下旬。都内某所のとある雑居ビルを前に、沢村(さわむら)朱莉はぽかんと立ち尽くした。
(本当にここなの?)
 念の為に社名が書かれた二階部分に視線を向ける。
“株式会社ギルドリンク”
 そこには、確かに自分が探している会社名が記されていた。それでも信じきれずに手元のスマホに視線を落とすと、地図アプリの目的地と現在位置を示す矢印はぴたりと一致している。
 となれば間違いない。ここが今回の面接会場だ。
 朱莉は現在二十八歳。新卒で入社し、五年半勤めた会社を退社して以降、今日まで約半年間無職の状態が続いていた。
 元々、最低でも一年間は就労せずにニート生活を満喫するつもりでいた。それというのも、前の会社を辞めるときに身体的にも精神的にもかなり疲弊したからだ。
 浪費には縁のない性格なのに加えて、前の職場の給料がかなりよかったこと、社会人になりたての頃からコツコツと投資をしていたのもあり、二、三年は働かなくても生活できる程度の貯蓄はある。
 やりたいことが見つかるまでのんびりしよう。
 そう思っていたものの、根が真面目な性格をしているせいか、ときどき転職サイトを眺めることがあった。
 朱莉は以前、大手人材サービス会社に所属しており、ITエンジニア専門の転職サイトを運営する部門の法人営業を担当していた。訳あって退職したものの、仕事自体には魅力を感じていたこともあり、自然とIT企業専門の転職サイトを利用することが多かった。
 もう半年ものんびりしたし、気になる会社があれば応募してみるのもいいかもしれない。
 そんな気軽な気持ちでスマートフォンをスクロールしていたとき、ギルドリンクの求人情報を知った。
 ――これだ、と思った。
“やりたいこと”を見つけた瞬間だった。
 ギルドリンクは、設立して二年と日は浅いものの、最近のIT業界ではその名が上がらない日はないと言われている新進気鋭(しんしんきえい)の情報サービス会社である。朱莉が見ていた転職サイトもギルドリンクが開発、運営していた。
 それがこの度、事業拡大に伴い社員の募集を開始したという。
 前の職場に在籍している頃からギルドリンクに興味を抱いていた朱莉は、求人情報の文字を見るなりその場ですぐに応募した。それから話はとんとん拍子に進み、一週間後の今日、面接の日を迎えた。
 しかし、まさか会社がこんなにも古びたビルに入っているとは思わなかった。
 前職のように丸の内の高層ビルにオフィスを構えている……とまではいかずとも、勝手な先入観から、それなりに小綺麗なオフィスビルを想像していた。しかし、すぐにそんな自分を反省する。
 なんでも前の会社と比較する必要はない。それに建物の外見に驚きはしたが、別に応募を後悔したわけではなかった。むしろ、もしも採用されたらここが新しい職場になるのだと思うとワクワクする。
(上手くいきますように)
 深呼吸をして呼吸を整える。そしていざ一歩踏み出そうとした、そのとき。
「あれ?」
 背後から聞こえた声に振り返る。少し離れたところにひとりの男が立っていた。
 ぼさぼさに乱れた焦茶色(こげちゃいろ)の髪をした男は、黒のパーカーを着て緩(ゆる)いジーンズを穿(は)いている。左手にはコンビニ袋、右手には食べかけのアイスの棒を持ったその人物は、なぜか朱莉から目を逸(そ)らさない。
(何?)
 一瞬、ギルドリンクの社員かと思ったが、どう見ても仕事中の格好には見えなかった。
(アイス、溶けかかってるし)
 入居者だろうか?
 それなら朱莉など気にせず中に入ればいいのに、無言でこちらを見つめているのがなんだか気持ち悪い。
「沢村朱莉さん?」
 ぎょっとした朱莉は思わず一歩後ずさる。その通りだが、突然見知らぬ男に名前を呼ばれて「そうです」と答えるほど危機管理能力は乏(とぼ)しくない。明らかに警戒する朱莉に、今度は男が慌てた顔をした。
「いや、俺は不審者じゃないですよ」
「すみません。急ぎますので失礼します」
 朱莉は、男から目を逸らして足早にエントランスへ足を踏み入れる。一瞬、入ってすぐ左にあるエレベーターを見るが、密室で男とふたりきりになるのは避けたい。
 幸いにも目的の場所は二階だから階段でも問題ない。そう思っていたのに、朱莉のすぐ背後を男が上がってくる。
「どうしてついてくるんですか?」
 たまらず朱莉は指摘するが、男は「どうしてって」と呑気(のんき)に肩をすくめる。
「俺もこっちに用があるから」
「エレベーターを使えばいいじゃないですか」
「待っている時間が無駄でしょ。というか、俺たちの行き先は一緒ですよ」
「え……」
 朱莉が目を見張ったのと、上の方からドアが開く音がしたのは同時だった。
 ふたりが揃(そろ)ってそちらを向くと、眼鏡をかけた青年が駆け降りてくる。紺色のスーツを着たその人は、朱莉ではなく男を見るなり「遅い!」と一喝(いっかつ)した。
「三澄! 面接希望の人が来るから早く帰って来いって言っただろ。コンビニに行くだけでどれだけ時間がかかってるんだよ」
「悪い、アイスをどれにするかで悩んでた。徹夜明けで体が糖分を欲してるんだよ。市木(いちぎ)たちの分も買ってきたから怒るなって」
「そういうことを言ってるんじゃ――」
 ふと、市木と呼ばれた青年と目が合った。途端に眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれる。
「沢村さんですか?」
「は、はい」
「うわぁ……」
 答えると、青年はあからさまに『やってしまった』という顔をする。だがそれは一瞬で、すぐに作り笑顔へと変わった。
「騒がしくて申し訳ありません。ギルドリンクの市木です」
 市木。メールでやりとりしていた人物の名前だ。
「はじめまして、沢村朱莉と申します」
 朱莉は丁寧に頭を下げる。しかし、そうしながらも意識は背後へと向けられていた。先ほど市木は不審者らしき男を『三澄』と呼んだ。そして、朱莉はその名前に覚えがある。
(まさか――)
 確実に『そう』だろうとわかりつつも、否定してほしいと願いながら振り返る。
「どうも。三澄光汰です。いちおう、ギルドリンクの代表を務めています」
 不審者もとい三澄光汰は、コンビニ袋を軽く掲げて挨拶(あいさつ)する。そんな彼を前に、朱莉は早くも転職の失敗を覚悟した。
「……よろしくお願いいたします」
 引き攣(つ)る笑みを返す朱莉に、三澄は「今日はよろしく」とへらりと笑ったのだった。


「沢村さん、申し訳ない! 五分だけ待ってもらえますか? すぐにこれを見られるようにしてくるので!」
 自社の代表を『これ』呼ばわりした市木は、朱莉をオフィスの一室に案内すると急いで出て行った。
(外と中とでは随分(ずいぶん)と雰囲気が違うのね)
 朱莉が案内されたのは、ラウンジの一角にある個室のブースだった。ここに来る途中に一瞬見えただけだが、社員たちが働く空間は広々としたオープンフロアになっていた。
 お洒落(しゃれ)という言葉がぴったりな雰囲気に、勝手に昭和の雰囲気を残した埃(ほこり)っぽいオフィスを想像していた朱莉は、自分の視野の狭さを反省する。
 それにしても、最初からやらかした。
(社長を不審者扱いするなんて、最悪)
 後悔するがもう遅い。それでも、まさかこれから面接を受ける会社の代表者が、寝起き姿のゆるゆるの雰囲気でコンビニ袋をぶら下げている……なんて想像もしなかった。
『三澄光汰』と言えば、IT企業に身を置く人間なら誰もが知っている有名人である。
 昨年には、アメリカの経済誌が発表した『世界が注目する若手実業家100人』にも名を連ねていた。
 三澄は若手実業家である一方、優秀なエンジニアでもある。
 日本の最高学府に在学中、大学三年生のときに起業し、IT系の転職に特化したサービスを提供する会社、ギルドリンクを設立した。
 それからわずか二年。今のギルドリンクは、この業界で最も勢いのある会社のひとつだ。
 国内のビジネス雑誌で特集されることも多く、朱莉も常々注目していた。
(それがまさか、実際の三澄社長があんな感じの人だったなんて)
 三澄ほどの有名人ならすぐにわかりそうなものだが、“あれ”では無理だ。
 ビルの前で鉢合わせた男と朱莉が認識する『三澄光汰』は、あまりに違いすぎた。
 ビジネス雑誌やオンライン記事にしばしば登場する三澄光汰は、俳優顔負けの美青年だった。
 紙面上でもわかるほど均整の取れた体にスーツをピシリと纏(まと)い、温和な笑顔でインタビューに答える様は、『イケメンすぎる社長』としてSNSでも話題を呼び、彼が登場した号のビジネス誌では異例の売り切れが続出したとか。
 かくいう朱莉もその雑誌を持っている。彼が目当てではなく定期購読しているからだが、それでも三澄は一際(ひときわ)存在感を放っていた。
 とにもかくにも三澄光汰という男は話題に事欠かない。
(今は面接に集中しないと)
 社長を不審者と間違えた手前、面接前の段階から『不採用』の文字が頭にちらつくが、それでもベストを尽くしたい。
「お待たせしました」
 背後のドアが開き、朱莉はすぐに椅子から立ち上がる。入ってきたのは三澄ひとり。彼を見た朱莉は目を大きく見開いた。先ほどとはまるで違う雰囲気をしていたからだ。
 服装は、先ほどと同じパーカーと緩いジーンズ姿。しかし、ぼさぼさだった頭を整え、前髪をすっきりと上げたその顔は、誌面で見慣れた三澄光汰そのものだった。
「失礼します」
 三澄は朱莉の向かい側の椅子に腰を下ろす。一方の朱莉は、三澄の変わりように驚きを隠せなかった。とても二十三歳には見えない、大人びた雰囲気に自然と目を奪われる。
(別人みたい)
 動揺を隠せない朱莉に気づいたのか、三澄がわずかに唇の端をあげる。
「これなら不審者に見えないですか?」
 悪戯(いたずら)っぽい笑みに朱莉は頬が熱くなるのを感じた。心の中を見透(みす)かされたような気がして、心臓が痛い。
「先ほどは大変失礼いたしました。なんてお詫びを申し上げればいいか……」
「沢村さんの反応は正しいですよ。俺も、鏡を見て自分の見た目のやばさに驚きましたから」
 驚かせてすみません、と三澄は苦笑する。
「言い訳をさせてもらえるなら、二徹(にてつ)明けなのに加えて、仮眠から起きたばかりだったんです。普段からあんなに怪しい見た目をしているわけじゃないですよ」
 三澄は楽しげに目を細めた。端整な顔にえくぼが生まれる。落ち着いた雰囲気の中に一瞬、少年のような無邪気さが垣間見えた。
「さあ、座ってください。緊張もしなくて大丈夫です。俺も堅苦(かたくる)しいのは苦手なので」
「承知しました。失礼いたします」
 朱莉が着席するのを確認した三澄は、早々に切り出した。
「それじゃあ、早速面接を始めます」
「よろしくお願いいたします」
 朱莉が一礼すると「こちらこそよろしく」とにこりと笑顔が返ってくる。
「改めまして、ギルドリンクの三澄です。この度は、ご応募いただきありがとうございました。沢村さんには事前に履歴書と職務経歴書を送っていただいたので、改めてお名前や志望動機を伺(うかが)ったりはしません。時間は有限。サクサク行きましょう」
 一般的な面接を想定していた朱莉は、三澄のあけすけな物言いに面食らう。
「すでに得ている情報を改めて口頭で説明していただくのは、お互いに二度手間なので。それならその時間を有効に使いたい。失礼に聞こえたらすみません」
「失礼なんて……むしろ合理的でいいと思います」
 驚きはしたが、三澄の提案は理にかなっている。
 朱莉の答えに三澄は「ありがとうございます」と頬を綻ばせる。ただ微笑んだだけなのに、元の顔立ちが抜群に整っているせいか、それだけで絵になる。写真よりも実物の方が何倍もキラキラしている。『十分顔だけで食べていけるレベルだな』と頭の片隅で考えていると、三澄は形のよい唇を開いた。
「最初にお伝えしておくと、うちの会社が今求めている人材は、『営業力』のある人間です。エンジニアはぎりぎり足りているのですが、営業ができる人間が本当に少なくて。今は、俺がエンジニアと営業を兼任している状態なんです。だから、一日でも早く営業を任せられる人間が欲しい」
 声は切実な響きを伴っていた。
「そんな状態なので、今はなんのノウハウもない新卒を採用して一から仕事を教える余裕も時間もありません。いずれはそれができるようにするつもりですが、俺が今求めているのは即戦力です」
 三澄の口ぶりからは、かなり切羽詰まった状態なのが伝わってくる。
 そういえば、ここに来る途中に通り過ぎたオフィスでは、机に突っ伏して休んでいる社員もいたような気がする。社長である三澄も二徹明けだと話していたし、事態はかなり深刻なのかもしれない。
「ギルドリンクは設立して二年の新しい会社です。しかも代表の俺は二十三歳で、世間的に見れば新卒の社員と変わらないひよっこだ。他の社員の年齢も俺とほとんど変わりません。でも、即戦力を条件にする以上、採用する人間は必然的に年上になります。その上で、実務能力の他にこちらが求めるものは四つあります」
 三澄は自分の顔の前に指を四本突き出した。
「最低限のコミュニケーション能力、一般常識、年齢に関係なく他人の指示を聞くことのできる素直さ。そして、実績です。それらを備えているなら、年齢も性別も気にしません。言葉を選ばずに言えば、使える人間ならそれでいい」
 淀(よど)みなく三澄は言った。
“使える人間”
 とてもシンプルでわかりやすい。それでいてとても難しい条件だと思う。
 最初の三つの条件については問題ない。コミュニケーション能力と一般常識はあるつもりだし、年下の社員と働く可能性については応募する時点で理解していた。
 ――でも、実績は?
 朱莉には、過去五年半でそれなりの仕事をしてきた自負がある。しかし、目の前にいるのは二十一歳の若さで起業し、わずか二年で業界に名を知らしめた稀有(けう)な存在だ。
 そんな彼を前に『私は使える人間だ』と言い切るのは、かなりの勇気が必要だった。
 でもここで怖気(おじけ)づくようなら始めから応募なんてしない。だから朱莉は自らの言葉でアピールをしようとした、けれど――。
「その点、多賀谷(たがや)ホールディングスでITエンジニア専門転職サイトの法人営業をしていた沢村さんは、まさに俺の求めていた人材です」
 朱莉が口を開くより早く三澄は言った。意外な言葉に驚いていると、彼は笑顔で続ける。
「多賀谷ホールディングスといえば、人材サービス業界では最大手だ。職務経歴書を拝見しましたが、沢村さんは十分すぎる実績をあげている。率直に言って、明日からでも来てほしいくらいです」
 思わぬ好感触に喜びよりも驚きが先に立った。
「光栄です」
 もしやアピールするまでもなく採用だろうか、と心が浮き立つが、現実はそう甘くはなかった。
「ただ、この先一緒に働くとなった場合、ひとつだけ懸念(けねん)点があります。それさえ解消できるなら、ぜひ沢村さんにはうちに来ていただきたい」
 朱莉は一気に場の空気が変わるのを肌で感じた。三澄は何も変わらず優美な笑みを湛(たた)えている。しかし、こちらを見据える瞳は笑っていない。探るような視線に思わず体が強張(こわば)る。
「懸念点とはなんでしょうか?」
 返事をした口調は自然と固くなる。
「沢村さんは、多賀谷旭(あさひ)さんをご存じですか?」
 不意打ちだった。
“多賀谷旭”
 その名を耳にした瞬間、頭の中が真っ白になる。
 喉の奥で苦い何かがせり上がり、心臓が鷲掴(わしづか)みにされたように痛んだ。血の気が引いていくのがわかる。顔が強張り、唇が震える。それでも動揺しているのを気取(けど)られたくなくて、朱莉は必死に言葉を紡(つむ)ぐ。
「……多賀谷ホールディングスの副社長ですから、もちろん知っています」
 質問の意図がわからなかった。
 なぜ三澄は、多賀谷旭の名前を口にした?
「そうですか。それではこれはご存じでしょうか。多賀谷副社長は、妻の不貞を理由に半年ほど前に離婚されたそうです」
「不貞?」
 面接に関係ない話題だ、とか。
 なぜそんなことを私に言うの、とか。
 冷静なら当然浮かぶはずの疑問は、一切浮かばなかった。頭をよぎったのは、そう――。
「別れた奥様はかなり奔放(ほんぽう)な方で、色々な男性と関係を持っていたそうです。それが離婚の原因なんだとか――」
「違います! 私はそんなこと絶対にしていません!」
“不貞なんてありえない”
 それだけだった。
 咄嗟(とっさ)に声を荒らげた朱莉は、ハッと我に返る。三澄を不審者と間違えたどころではない。自分の失態を自覚した。しかし、それに対してもう『しまった』とは思わなかった。心の中はすでに三澄に対する不信感に満ちていた。
「……私と多賀谷旭さんが婚姻関係にあったことをご存じの上で今のお話をされたのであれば、随分と意地の悪いことをされるのですね。どこでそのような噂を耳にされたのかは存じませんが、私が不貞を働いた事実は一切ありません」
 いったい誰がそんな事実無根の噂を流したのか。多分、多賀谷旭ではないと思う。
 離婚したものの、少なくとも朱莉の知る元夫はそのような真似をする人ではなかった。だが、心当たりはひとりだけいる。
(……お義母(かあ)様)
 朱莉を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていた義母なら十分にあり得る。でも、それを伝える気にはなれなかった。
「履歴書に婚姻歴や離婚事由を記載する必要があるとは知りませんでした。不勉強で申し訳ありません」
 もちろんこれは嫌味だ。しかし、三澄は気分を害した様子もなく、むしろ楽しげに唇を緩ませ朱莉の反応を窺(うかが)っている。その反応もまた朱莉の癇(かん)に障った。
「やっぱりそうでしたか」
「どういう意味ですか?」
「俺も、沢村さんが本当に不倫をしたとは思っていません。ただ、万が一にもそうなら困ると思い、そのような噂があるとお伝えしました。婚姻歴が採用の可否に影響することはありませんが、どんなに優秀で即戦力になる人材でも、色恋沙汰(いろこいざた)で面倒を起こされたら困るので」
 加えて三澄は、求人を出して以降、実務経験もないのに『三澄に近づきたい』という邪(よこしま)な動機で応募してくる女性が後を絶たなかったことを明かした。
 つまり、なんだ。
(私が噂通り男漁(あさ)りが激しい女で、その上、三澄社長目当てで応募したかと疑ってるの?)
 とんだ言いがかりだ。朱莉はテーブルの下できつく拳(こぶし)を握りしめる。
(……馬鹿にしないでよ)
 採用は慈善事業ではない。人ひとりを雇うのはとても大変なことだ。
 企業側は単に給与を支払うだけではなく、法的にも財政的にも様々な責任とコストが発生する。ましてやギルドリンクのように社員の少ない新しい会社ならなおさらだろう。
 だから、朱莉が噂通りの人間であることを疑い、採用に慎重になる気持ちは理解できる。
 でも、このやり方は気に食わない。
 朱莉は、今の自分がとても冷静とは言えない状態なのを自覚していた。頭に血が昇っているのがわかる。それを抑えることができないのは、多賀谷との関係は、朱莉にとって決して気軽に触れられていいものではなかったからだ。相手が憧れの会社の社長であろうと関係ない。
「三澄社長は、随分とご自分に自信がおありのようですね」
 嫌味とわかるようにあえて笑顔で言うが、三澄はにこりと笑う。
「まあ、それなりには」
 あっさりと肯定するあたりがまた腹が立つ。
「でも、だからといって女性なら誰でもあなたに好意を持つとは限りませんよ。少なくとも私は、“年下”には“一切”興味はありませんから」
 直後、初めて三澄の表情が変わった。それまで余裕な態度と笑みを崩さなかった彼は、驚きをあらわに目を見開いたのだ。朱莉は、面食らった様子の三澄を見て、心の中で年甲斐(としがい)もなく『ざまあみろ』と吐き捨てる。
「今日はご多忙のところ、貴重なお時間をいただきありがとうございました」
 ぽかんと呆(ほう)けたその表情を冷ややかに見据え、席を立つ。
「沢村さん?」
「失礼します」
「ちょっと待っ――」


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