書籍詳細
不真面目騎士の不器用な純愛
| 定価 | 1,320円(税込) |
|---|---|
| 発売日 | 2025/12/19 |
内容紹介
立ち読み
プロローグ
降り注ぐ雨の中、ファラは王都の路地裏で膝(ひざ)を抱えていた。
――誰の願いでも叶う国、ソーラ国。
そんな呼び名を信じ、田舎(いなか)から出てきたファラは己の甘さと弱さを痛感していた。
【何が、ダメだったのかな……】
思わずこぼれた声は、きっと誰にも届かない。
東の果てにある故郷の言葉は古い時代の物で、王都では理解してくれる者さえいない。
それどころかそのしゃべり方を笑われ、恥をかかされたのは少し前のことだ。
ファラには大きな夢があった。
故郷に居場所のなかった自分を認めてくれた恩人の近(この)衛(え)騎(き)士(し)になるという夢だ。
それだけを願い、叶えられるチャンスと力もあった。
だからファラは故郷を飛び出し、遠い王都へとやってきたのだ。
そして、近衛騎士を募集する剣術大会に参加し、優勝までしたのに、待っていたのは賞賛や歓迎ではなく、『お前にはふさわしくない』という言葉だった。
田舎者だから、女だから、しゃべり方がおかしいから。
嘲(あざけ)られながら告げられた理由は何一つ納得できるものではなかったけれど、ファラの抗(こう)議(ぎ)に耳を貸してくれる者はいなかった。
しゃべればしゃべるだけ笑われ、そしてファラの夢は絶たれ、今は膝を抱えることしか出来ない。
(高望みしすぎていたのかな……)
雨が強まり、頬を伝うのが自分の涙なのか雨なのかも、よくわからなくなった。
でも追いかけ続けた夢が破れ、生きる目標さえ見失ってしまったファラは、立ち上がれなかった。
「風(か)邪(ぜ)を引きたいのか?」
不意に、ファラを濡らす雨がやんだ。
顔を上げると、一人の男がファラに傘を差し掛けていた。
そのせいで自分が濡れることもいとわず、男はファラを見下ろしていた。
とても凜(り)々(り)しく、精(せい)悍(かん)な男だった。
顎(あご)に短い髭(ひげ)を生やし、肩まで伸びた黒い髪が雨に濡れ、僅(わず)かにうねる様は妙に色っぽい。
騎士なのか、その腰には立派な剣を差している。でも先ほどファラを追い出した者たちのような、仰(ぎょう)々(ぎょう)しい制服は身につけていなかった。
「お前、剣術大会に出ていたな」
傘を差し掛けたまま、男が口を開く。
「いい腕だった」
【……でも、騎士にはなれないって言われた……】
言ってから、ファラは慌(あわ)てて口を押さえる。
咄(とっ)嗟(さ)に出た言葉は訛(なま)ってしまい、また嘲(ちょう)笑(しょう)されるだろうかと身構えるが、彼は優しく笑った。
【お前は、東の出身か?】
それは故郷を出てから初めて聞く、懐かしい響きの言葉だった。
【わかるの……?】
【部下に同じ訛りで話す者がいて、自然と覚えたんだ。古風な言葉選びで耳触りがいい】
故郷の言葉を、そんな風に言ってくれる者がいるとは思わず、ファラは嬉しくて泣きそうになる。
【その人も、騎士なの?】
【ああ、騎士だ】
【……なら私も、騎士になれる?】
【なりたいのか?】
逆に尋ねられ、ファラはすぐに返事が出来なかった。
騎士になりたかったけれど、先ほど投げつけられた言葉に勇気と夢を砕かれた今、胸を張って返事をすることは出来なかったのだ。
答えに迷っていると、ファラが抱えていた膝を、男がぽんと叩く。
【騎士になりたいなら、俺のところにくるか?】
【……あなたの、ところ?】
【お前の剣は、このまま錆(さ)び付かせるには惜しい】
そして男がファラに手を差し伸べる。
【どうして、助けてくれるの……?】
【騎士は、“手を差し伸べる者”だから】
目の前に差し出された手は、自分と同じく剣を握る者の手だとわかった。
大きくて、逞(たくま)しくて、多分ファラよりもずっと強い。
きっと、この手はたくさんの人を助けてきたのだろう。
【お前、名前は?】
向けられた笑顔はひどく優しくて、だからついその手を取っていた。
この手が、自分に生きる理由を与えてくれる気がしたのだ。
「ファラ=ラ=ルーン」
「アスヴァルだ。アスヴァル=ラヴァン」
――――それから、約一年半後。
「……過去の私、愚かすぎる!!」
ようやく使い慣れた――しかしまだどこか発音のおかしい王都の言葉で叫びながら、ファラは憤(いきどお)っていた。
手を差し伸べてくれた男は今、大いびきをかきながら床で寝ている。
その隣にも、更に向こうにも、アスヴァル同様眠りこけた男たちが床に転がっている。
ここは王都の外れにある『ノクス騎士団』本部の二階。第十四小隊という看板のかかる事務室である。
王都の治安維持をになうノクス騎士団――その中でも、『何でも屋』と呼ばれる十四小隊が、アスヴァルがファラを連れてきた場所だった。
十四小隊は激務で、家にもなかなか帰れず徹夜も多い。結果、力尽きた騎士たちが床に転がっていることはよくある。
実際、ファラも今日で徹夜三日目で、今すぐにでも寝たい。
でも床で転がって寝るのはあまりにも迷惑だ。そして自分以上に、身体の大きなアスヴァルが転がっているのはより迷惑だと感じ、その身体をつま先でつつく。
「起きろ、隊長殿!」
「……あと、五分……」
そう言って汚れた床の木目に頬をすりすりしているアスヴァルを見て、ファラは我慢の限界に達した。
「駄目、絶対!! 睡眠、断固拒否!!」
そしてファラは、アスヴァルの足を掴んでそのまま強引に引きずっていく。
普通なら起きるところだが、アスヴァルは起きない。もうこのまま、家まで引きずってもらおうという魂胆なのだろう。
(いい大人が……! 情けなさすぎる……!)
近衛騎士になるはずが、気がつけばファラはこの男のお世話係になっている。
(でもここで諦めなければ、いつか夢に手が届くはず……!)
一度は門前払いを喰(く)らったが、やはりまだ願いは消えていない。
だからこそ、ファラは激務にも、徹夜にも、このダメな上司の世話を焼くことにも、耐えているのだ。
「諦めない! あの人を護(まも)る騎士になるのだ、絶対だ!!」
決意を新たにしながら、ファラはアスヴァルの足を持ち、「うおおおお」と気合いを入れながら歩き出した。
第一章
ノルガの女は、十六で結婚し十七で子を産むべし。
そんな掟を持つ一族に生まれながら、ファラは幼い頃から『嫁のもらい手が絶対いない』と言われていた奇特な存在であった。
ソーラ国の東の果て――ノルガ高原に住む遊牧民の一族にファラは生まれた。
生まれたときは誰よりも小さかったファラだったが、意外にも身体は丈夫で、どの子供よりも速く歩き、よく笑い、快活だった。
しゃべるのもままならない頃から家畜と共に野山を駆け回り、勝手に覚えた弓と剣を用いて、七つの頃には山の主と言われた巨大なイノシシを狩るような少女である。
料理や裁(さい)縫(ほう)といった女らしいことも大好きだし、小柄な身体や小動物を思わせる目鼻立ちは愛らしかったが、あまりに狩りが上手いので、針より弓を持たせられることの方が多かったほどだ。
八歳を超えた頃には狩りでファラに敵う者は誰もおらず、同い年の男子たちはむしろ彼女に劣等感を抱いていた。
ノルガの男たちが憧れとする『アーリュ種』と呼ばれる野生馬まで手(て)懐(なず)け、それに乗って野山を駆けるファラに、同年代の男たちが魅力よりもいらだちを抱くのも無理のないことだった。
更にファラは、何かに夢中になると周りが見えなくなるたちである。
小さなファラは狩りや武芸の技を磨くことに夢中で、その姿が異性にどう映るかなどまったく頓(とん)着(ちゃく)しなかったのだ。
結果、結婚が早いノルガの女は十二になると婚約者が決まるが、ファラを選んでくれる者は誰もいなかった。
今更ながらにマズいと思うも、男ばかりが十五人も集まった家族の中で、女性的魅力を磨く術もない。
それでも高原の風で傷んだ赤い髪を編み、必死に化粧を覚え、ノルガの少女たちが好んでつける羽根飾りなどをつけてみたが、ファラに振り向いてくれる人は現れなかった。
中には色づいた唇を馬鹿にする者までいて、ファラは泣きながら、唇を彩る紅を落とすことになったのだ。
――あの子は、生涯夫を持つことはないだろう。
――彼女を愛するのは、ノルガの地に吹く風だけに違いない。
男から見向きもされないファラに、大人たちがそうこぼすのを聞き、十二歳のファラはいつも陰で泣いていた。
ノルガの女なのに誰にも愛されず、誰かの妻になれないのならどうやって生きていけばいいのかとファラは毎日悲観していた。
――でもそんな日々が、ある日がらりと変わったのだ。
『絶対、僕のところに来なよ! ファラみたいな、格好良くて可愛い近衛騎士がいてくれたらって、ずっと思ってたんだ!』
十二歳のファラにそう告げたのは、幼い王子だった。
森で迷子になっていた彼と出会ったのは、ファラが狩りに出ていたときのこと。
鹿を抱えていたファラに最初は怯(おび)えていたが、帰る道中で襲ってきた狼を撃退した途端『すごい!』『格好いい!』と大興奮されたのだ。
褒められ慣れていないファラが照れて謙(けん)遜(そん)していると、彼は輝くような笑顔で『僕の騎士にならない?』と言ってきたのである。
嬉しかったが、ノルガの女の務めも果たせない自分が王子の騎士になどなれるわけがない。そう思っていたのに、王子は『絶対それがいい』と断言した。
そして五年に一度開かれる剣術大会のことを教えてくれた。
『ソル騎士団の大会で優勝すれば、誰でも王族の近衛になれるんだ! だから絶対、大人になったらファラも参加して! ファラなら絶対、優勝できるから!』
それまで誰も、ファラにこんなにも期待してくれた人はいなかった。
だから嬉しくて、ファラは頷(うなず)いた。
このとき、ファラははっきりとわかったのだ。
――私に夫が出来ないのは、この人のために生きるためだったんだ。
天(てん)啓(けい)のようにそんな考えが浮かび、ファラは以来王子に尽くすことこそが自分の生きる道だと信じた。
そして剣術大会が行われる十八歳の春――ファラは王都へとやってきた。
結果、夢は叶わず、ファラは手酷く心を折られた。
でもそんなファラを、アスヴァルと彼の所属する『ノクス騎士団』が拾ってくれた。
ファラが現在働いているその騎士団は、七年前に設立された新しい騎士団だ。
剣術大会を主催した『ソル騎士団』が近衛騎士として王族を護るのに対し、ノクス騎士団は主に国民の生活を護る治安維持の役目をになっており、その仕事は多岐にわたる。
犯罪事件の取り締まり、昨今急速に発展を遂げる交通機関の整備と安全確保、国民の生活を護る様々な取り組みや、国内外の要人の警護――。
重要な案件から国民より持ち込まれるささやかな問題の解決まで、人々の命と暮らしを護るのがノクス騎士団の仕事だ。
王の近衛を目指していたファラにとっては考えもしなかった就職先だが、仕事はやりがいもある。
それにここで武(ぶ)勲(くん)を上げた者が、王の近衛に推挙されることもあると聞き、ファラはノクス騎士団でまずは修業をしようと決めたのだ。
そして騎士団入団から約一年半が過ぎた秋、ファラは今日も騎士として――
「うぉおおおおおおおおおおおお」
王都の市街地を、爆走していた。
野山を駆け回って鍛えた自慢の脚力で追いかけているのは、食い逃げ犯だ。
街の治安維持のため、日に二回行っている巡回任務のさなか、犯行現場に遭遇したファラは犯人を追いかけているのである。
ちなみに、相手は途中で奪った馬に乗っている。
つまりかなり速いのだが、ファラも負けてはいない。
「馬についてくるってマジかよ!!」
食い逃げ犯もこれにはぎょっとしているようで、時折振り返る顔は恐怖に歪んでいる。
まるで、化け物でも見るような顔である。
「停止を要求いたします!!」
「止まるわけねぇだろう!」
「要求します!!」
大声を張り上げるが、むしろ食い逃げ犯は速度を上げる。
(さすがに、このままじゃ逃げられる)
いくらファラの足が速いとはいえ、相手は馬だ。
速度も持久力も、絶対に敵わない。
ならばどうするかと思ったとき、ファラは前方に停まっている馬車に気がついた。
観光客向けの馬車は、二頭の馬が引く豪(ごう)奢(しゃ)な物だ。
屋根はないが飾りが多いため車は重い。だが、その分馬たちはみな力自慢で有名なガルロ種である。
そして幼い頃から野生の馬に親しんできたファラは、一目で馬体の状態がいいことを見抜いていた。
(うん、あの子たちなら行ける!)
確信と共に、ファラが御者の男に手を振る。
目が合った男――ベニーは、よく巡回中に声をかけてくれる男だ。
「よおファラ、今日もなんか追っかけてるのか?」
「そう、逃走中!! ベニー殿のお力お借りするです、お願いです!」
慌てていたので、いつも以上に言葉がつたなくなってしまったが、ベニーはすぐに事情を察してくれたようだ。
「好きに使っていいぞ!」
そう言ってベニーが飛び降りた御者台にファラは飛び乗り、手(た)綱(づな)を取った。
【お願い、みんなの脚を貸して】
利口な馬たちはファラの願いを察したのか、息を合わせて駆け出していく。
重い車を引いているとは思えない速度で突っ走る馬車は、すぐに食い逃げ犯に追いつく。
「停止を要求いたします!!」
馬車を真横につけ、ファラは剣を抜き放つ。
揺れる馬車の上でもぶれることのない体幹を用い、切っ先を食い逃げ犯の首元に押し当てれば、相手はついに観念したようだ。
「とんでもねぇヤツに、目をつけられちまった……」
がっくりと肩を落とし、食い逃げ犯は馬を止めた。
ファラは素早く男に手(て)枷(かせ)をかけ、それから頑張ってくれた馬たちを褒める。
(これで、一件落着ね)
犯人を捕まえられたことにほっとするも、そこでファラはあることに気づく。
(……まずい、食い逃げ犯は捕まえられたけど、もっとも逃がしちゃいけない人を逃がしちゃったかも)
青い顔をするファラの頭に浮かんでいたのは、ファラの上司アスヴァルの、情けない顔だった。
◇◇◇ ◇◇◇
アスヴァル=ラヴァン。
ファラを拾ったその男は、いろいろと謎が多い男だった。
ある人は彼を『騎士の中の騎士』と言う。
一方で別の者は、彼を『騎士の面(つら)汚(よご)し』と呼んでいた。
そのほか『ちゃらんぽらん男』『イケメン騎士』『生(きっ)粋(すい)の酒豪』『人情の人』などなど、アスヴァルについて尋ねれば人によって返ってくる言葉が違う不思議な男なのである。
そんなアスヴァルは、ファラが聞いた話によれば元々名の知れた騎士だったらしい。
アスヴァルは元々ソルの騎士であり、王族の近衛をしていたそうだ。ソルにいた頃は、騎士団長の右腕となるほど優秀だったのだが、彼はある日突然ソル騎士団を辞めてしまったのだという。
理由は、定かではない。
ある人は失脚させられたのだと言い、またある人は、当時起きた王子の事故死に何かしら関与していたからだと口にした。特にかつての同僚であるソルの騎士たちは後者の噂を信じている者が多く、今も時折彼を犯罪者扱いする者もいる。
でも誰も、彼が騎士団を辞めた本当の理由を知らない。質問の数だけ答えがあり、唯一答えを知っているはずの当人はすぐはぐらかすからだ。
ちなみに噂を不安に思ったファラが「実際どうなんですか」と聞いたところ、返ってきたのは「毎日酒を飲むだけの生活がしたくなったから辞めた」というふざけた言葉だった。
その言葉を聞いた日から、ファラは彼のことを『いい加減な騎士』だと思っている。
ファラを拾ってくれたときは、なんて親切で優しい男なのかと感動したが、蓋(ふた)を開けてみれば彼が自分を拾ったのは『こき使える部下』が欲しかったからだった。
アスヴァルは、基本仕事をしない。
いつもふらりといなくなり、見つけたときは大抵寝ているか酒を飲んでいる。
その間アスヴァルがすべきだった仕事を肩代わりするのは十四小隊に所属する彼の部下たちで、今はほぼすべてファラの役目だ。
注意しても「明日から頑張る」と言って二時間後には行方をくらましているような、そんな男である。
特にこのひと月ほどは行方をくらます回数が多く、ファラはいつも憤っていた。
そんな有様なのにクビにされないのは、「有事」の時に役に立つからだろう。
ファラの見立て通り、彼の剣の腕はすさまじい……らしい。
ファラはまだ実際に見たことがないが、かつては、数々の手柄を上げていたそうだ。
盗賊団の捕(ほ)縛(ばく)を行った時などは、ほぼ一人で賊を壊滅させたという話もある。
故に彼の呼び名の一つには『剣聖』などという神々しいものもあった。
そのほかにも彼の武勇伝はいくつもあるらしく、その不真面目さと反対にアスヴァルの人気は高い。
彼を心の底から尊敬し、「アスヴァルさんみたいな騎士になる!」と言う同僚も多かったが、ファラが来てからは、そうした活躍は一つもない。
大抵は寝ているか、サボっているか、二日酔いで吐きそうになっているかのどれかである。
一度だけ――ほんの少しだが彼を見直したときもあるが、ファラにとってアスヴァルはサボり魔のろくでなしであり、いい加減でダメダメなおっさんなのだ。
そしてファラはそんなアスヴァルのお目付役にされており、今日も「めんどくせぇ」とぼやく彼と巡回を行っていた。
けれど食い逃げ犯を追いかけている間彼の姿は見えず、犯人を他の騎士に引き渡した後、慌てて来た道を戻ったファラは頭を抱えることになった。
(……ああ、やっぱりこうなった)
冷え切ったファラの目に映っているのは、酒場のテーブルに突っ伏したまま眠っているアスヴァルである。
「……隊長、何杯飲んだ……ですか?」
当人は沈黙しているので、ファラは隣で苦笑している酒場の女主人に尋ねる。
彼女は、たった一人で酒場を切り盛りする女(じょ)傑(けつ)だ。
王都の中心にあるこの酒場は、活気がある反面喧(けん)嘩(か)などの騒ぎが起こることも多い。そのため騎士の巡回場所の一つになっており、今日はファラとアスヴァルが見回りの担当だった。
先ほどの食い逃げ犯はこの店から逃げた客で、本来ならファラと共にアスヴァルもそれを追いかけるはずなのだが、この有様である。
「隊長さん、今日はまだそんなに飲んでないわよ。五杯くらいかしら」
「十分飲んだくれで、駄目野郎ですな」
「でもほら、仕事サボってくるときはこの倍は飲んでるし」
アスヴァルは酒豪なので、どれだけ飲んでも顔色一つ変わらない。
なのにこうして眠りこけているのは、昨日も徹夜だったからだろう。まあそれは、ファラも同じだが。
「飲んだだけで大問題! じゃなくて、問題……です! 食い逃げ犯、追いかけ拒否だなんて、ダメ絶対!」
「それは、ファラちゃんのことを信頼してるからよ。『あいつに任せれば絶対捕まえるさ』って言ってたし」
「言い訳で、でまかせ! この男、調子乗り野郎なので!」
「……調子乗り野郎は、ひどすぎるんじゃねぇか?」
低い笑い声に続き、どこか眠そうな声が響く。
見れば、いつの間にかアスヴァルが目を覚ましていた。
「捕まえたのか?」
「当然!」
「じゃあ、俺がおごってやろう」
言うなり女主人に「ビール三杯!」と言い出すアスヴァルを、ファラは睨(にら)む。
「おごる気、居留守してないか?」
「ちゃんとおごるぞ、一杯は」
「そもそも、職務中!」
「別に、みんな飲んでるだろ、これくらい」
この国の人々はみな酒に強く、水のように飲酒をする。
ノクス騎士団では職務中の飲酒は禁止されているが、それでもこっそり飲んでいる者は多い。
とはいえ、隊長であるアスヴァルが、こんな場所で堂々と飲むのは問題だと思うのだ。
「仕事、まだまだ続くですよっ!」
「大丈夫、あと二杯だけだ」
「せめて、おっぱい!」
「一杯って、言いたいのか?」
「それ! 二杯はだめ絶対!」
「いやでも、二杯くらいいけるいける」
この駄目なおっさんは、ファラの言うことをまったく聞く気がないらしい。
「隊長さん、ファラちゃんが困ってるからそれくらいにしたら?」
助け船を出してくれたのは女主人だった。
彼女が酒ではなく水のグラスをアスヴァルに手渡せば、彼も渋々受け取る。
「まあ、女主人が言うならこれくらいにしておくか」
グラスを受け取ったアスヴァルが、女主人を上目遣いに見つめながら「ありがとな」と礼を言う。
この男の控えめな微笑みは、上目遣いが組み合わさると妙に色っぽい。
そのせいで、女主人の頬も赤く染まっている。
(また、たらし込んでいる……)
アスヴァルは、顔がいい。そしてそれに、無自覚なのだ。
切れ長の目元と整った鼻(び)梁(りょう)は、黙っていれば少し冷たく見える。
けれど気だるげな表情と、良い意味で隙のある雰囲気、そして人好きのする笑顔にみな、ほだされるのである。
罪な男だと思いつつ見ていると、そこで女主人がハッと我に返った。
「そうだ、今度仕事終わりにまた、改めて飲みに来て。食い逃げ犯を捕まえてくれたお礼に、一杯おごるわ」
「ありがとな」
「隊長殿、何もしていないが」
ファラより先に身を乗り出すアスヴァルに、思わずため息がこぼれる。
「お礼、いらないでございます! 犯罪撲(ぼく)滅(めつ)、仕事だってばよ!」
ファラの言葉に、女主人がクスッと笑う。
「あっ、仕事……ですので!」
「別にいいのよ、そのままで。標準語も、前よりすっごく上手くなったわね」
「……まだまだ、全然だめですの」
そこでまた、堪(こら)えきれないとばかりに笑われる。またしくじったようだが、改善方法もわからずファラは頬を赤らめた。
最近はなんとか意思疎通は出来るようになったが、それでも王都の言い回しは故郷にはないものが多く、特に丁寧に話そうとするとおかしくなってしまう。
アスヴァルの前では開き直ってそのままだが、職務中はなるべく騎士らしい礼儀正しい言葉遣いをしたいのに、ままならない。
「可愛いから、それでいいじゃない」
「可愛い、私にないっ! だから格好いい騎士、なりたいのです!」
「アスヴァルさんみたいな?」
「あれはない」
「えー、格好いいじゃない彼」
言いながらアスヴァルを見つめる女主人の視線は、やっぱり熱を帯びている。
ただその視線を向けられている当人はまったく気づいていないようだ。
「ファラ、やっぱりもう一杯だけ飲みたい……」
「ダメ絶対!」
「半分だけでもいい」
「ダメ! 飲んだくれめ!」
「飲んだくれはひどいだろ」
「隊長殿なんて、飲んだくれのへちゃむくれだ!」
「更にひどくなったな」
アスヴァルの苦笑を見るに言葉選びを間違えたようだが、彼にならばいいだろう。
開き直ったファラはアスヴァルを無理矢理立たせ、逞しい腕を掴んだまま歩き出す。
「それでは、ごきげんようございます!」
「はい、巡回頑張って!」
女主人に見送られながら、ファラたちは店を出た。
「はぁ、早く帰りてぇ」
今日はまだ巡回任務が残っているというのに、アスヴァルからは欠片(かけら)もやる気が感じられない。
店を出るなり大あくびをこぼし、ついてくる足取りも遅い。
それをファラが引っ張る姿はもはやおなじみで、通りかかった顔見知りに早速苦笑された。
「おやおや、また隊長さんに困らされてるのかい?」
声をかけてきたのは、この近くでパン屋を営む老婆のニナだ。
彼女は家族に向けるような、温かい目をファラたちに向けてくれる。
「そう、しょうがない大人なの! おばあちゃん、げんこつください! それか何か頼み事、はい、お願いしますっ!」
「変なこと頼むんじゃねぇよ、ばあさんのげんこつは痛いんだぞ」
げんなりするアスヴァルに、ニナがハハッと笑う。
「今日は頼み事はないよ。あんたらのおかげで、店も順調だしね」
ニナの店が、王都を直撃した嵐の影響で半壊したのは先月のことだ。
その修理にあたったのが、ファラとアスヴァルだ。以来彼女の店に顔を出すようになり、備品の修理や荷車の護衛など、細かい仕事をよく頼まれる。
そうした国民のささやかな問題や願いを解決することも、ノクス騎士団の仕事だ。
騎士団の中でも、国民の生活上の問題を解決するのは、本来第七小隊の仕事で、この隊が一番人数が多い。
それでも、仕事の割合に対して騎士の数が足りているとは言いがたかった。
故に、『騎士団の何でも屋』とも呼ばれる、ファラが所属する十四小隊が、彼らの取りこぼした仕事をになうことも多い。
そして『何でも屋』の呼び名は、国民にも広く浸透している。
「ファラちゃん、ちょっといいかい!」
ニナに続き、街の人々が次々声をかけてくる。
店の前にたむろするごろつきを追い払ってほしい。
逃げた馬を探してほしい。
腰を痛めたので、代わりに買い物に行ってほしい。
持ち寄られる仕事の多くはささやかな物だが、困っている人を捨て置けないファラは、いつもそれらに一生懸命取り組む。
だからこそ、往来に出れば、ファラに声をかけてくる者は多いのだ。
おかげで頼まれ事をこなすうちに日は暮れ、辺りは暗くなり始めている。
昼食も取らずにいたと気づき、ファラは仕事が一段落したタイミングでお腹をそっとさする。
(はぁ、片付けなきゃいけない書類がいっぱいあるのに、こんな時間になっちゃった)
騎士の勤務時間は、基本的には半日だ。ソーラ国では一日を二十四の刻で分けるため、十二刻分となる。
昼番と夜番の二交代制だが、決められた時間通りに仕事が終わることはまずない。
(さすがにちょっと疲れたなぁ……)
人々のために働くのは好きだけれど、やはりこの仕事はきつい。
疲れ目を擦(こす)っていたとき、ファラはアスヴァルの姿が消えていることに気づいた。
まさか逃げたのかと慌てて周囲を見回すと、少し離れた露店を彼はのぞき込んでいる。
「隊長、またサボりか!?」
「腹ごしらえだ。お前だって、腹空かした顔してたろ?」
「空腹になるのは万国共通だから、問題ない!!」
「また、偉く古い言葉選びできたな……」
「とにかく、空腹ではないっ!」
「本当に、ないか?」
言い返そうと思ったのに、牛肉の刺さった串を鼻の下で振られると、どうしたってお腹が鳴ってしまう。
「い、一本……ならよいか?」
「十本も買っちまったし、もっと食えよ」
「ならば、二本……」
「本当は?」
悩んだ末、ファラは串を六本もぎ取った。
「それは取りすぎだろ……」
苦笑を浮かべながらファラを見つめる眼差しは、とても優しい。
一日の殆(ほとん)ど眠そうな目をしているくせに、ファラを見るときだけそんな眼差しになるのだ。
そしてその目に見つめられるたび、ファラは落ち着かない気持ちになる。
「……さて、これ食ったら家に帰るか」
だが、ファラはすぐにハッと我に返る。
「だめっ、書類仕事の残量が超過してる!」
「それは、明日の俺に期待だ」
「明日の隊長が、今日より優れているわけない、絶対!」
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