書籍詳細

大嫌いだったはずの同期ドクターと運命じゃない恋、はじめました
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/10/31 |
内容紹介
立ち読み
1、運命的な恋がしたい!
「石(いし)吹(ぶき)先生、お疲れさまでした。これで午前の患者さん終了です」
「オッケー、お疲れさまでした」
月曜日の午後十二時三十二分。水色のスクラブ姿で「うーん」と伸びをしてから席を立つ。白衣を羽織ってウェーブのかかった長い髪を後ろで結び直し、循環器内科外来の第四診察室を出た。
中央棟のエレベーターで七階に上がると、テレビや自販機の置かれた休憩スペースの大きなガラス窓から四月下旬の柔らかい陽射しが差し込んでいる。
今週末にはもう五月、外に見える植え込みの緑からも、春から夏への移り変わりを感じられた。
「石吹先生!」
東側にあるナースステーションに向かう途中で病棟ナースの井(い)元(もと)沙(さ)希(き)に呼び止められた。彼女は周囲に人がいないか見まわしてから、「あのね」と声をひそめて話しかける。
身長百六十七センチの私よりも十一センチ低いので、下から見上げられる形だ。
「奈(な)緒(お)さん、圭(けい)太(た)とのことだけど」
「うん、昨日はメッセージをありがとね。圭太からも聞いたよ~、沙希ちゃんの家に結婚の挨拶に行ったって。とうとう沙希ちゃんが私の義妹(いもうと)になるのか、嬉しいなぁ」
沙希ちゃんは私より二つ年下の二十七歳。タレ気味の大きな目とややふっくらとした体型が柔らかい印象を与えている。見かけと同様、中身もとても優しくて、女性医師とナースという壁を超えて最初から気さくに話しかけてきてくれた。私が二年間の初期研修を終えて循環器内科医となって以来だから、もう丸三年の友達付き合いになる。
沙希ちゃんと私の弟の圭太は、彼女が我が家に遊びにきたときに同じ歳ということで意気投合し、のちに恋人となった。交際期間が二年になるのでそろそろだとは思っていたが、先日圭太が彼女の実家を訪れて結婚の許可をもらったらしい。病院の同僚で一番の親友がもうすぐ義妹になるというわけだ。嬉しくて仕方がない。
「それでね、奈緒さんとゆっくり話がしたくて。近いうちにお茶でもどうかな」
「そうね~」と脳内でスケジュールを思い出していると、またしても後ろから「石吹先生!」と声がかかる。今度は今日のチームリーダーをしているベテランナースだ。
「先生、ちょうどよかった。今日入院された林(はやし)さんが胸痛を訴えて心電図をとったところです。部長が先生を主治医に決められたので診(み)ていただけますか?」
「もちろん。井元さん、それじゃまた」
私は沙希ちゃんに目配せしてからその場を離れた。周囲に沙希ちゃんと仲良くしていることは知られているが、彼女が弟と交際していることは内緒のままだ。絶対に秘密にしたいというわけではないけれど、あれこれ詮(せん)索(さく)されてナースの中で沙希ちゃんが孤立するのは絶対に避けたい。
小走りでナースステーションに入ると、すぐにモニターを起動させて林さんのカルテと心電図の記録を確認した。林さんは今朝の外来で私が入院指示を出した患者さんだ。たぶん私の受け持ち患者になるだろうと思っていたが、やはりカルテの主治医欄に『石吹』と記入されていた。
「なるほど、トイレから戻ったら胸痛が起こったのか。負荷試験(トレッドミル)で反応があったし、この心電図でもST低下が見られるから、やっぱり労(ろう)作(さ)性(せい)狭(きょう)心(しん)症(しょう)かな。発作が頻繁に起こるようだと心(しん)筋(きん)梗(こう)塞(そく)が怖いね」
明日の午前中に心臓カテーテル検査をする予定で入院してもらったけれど、狭(きょう)窄(さく)状況によっては血管内にステントを入れなくてはいけないかもしれない。
「ニトロ一錠を舌下。私が持っていくよ。ご家族も病室にいるかな、一緒に説明もするから記録をよろしく。発作がおさまったらもう一度心電図をお願いします」
指示を出しつつ廊下に出ると、ナースステーションから「さすが石吹先生、頼りになるわ」、「本当に漢(おとこ)前だよねぇ」と話すのが聞こえてきた。
――まぁ、そうであるように頑張ってるんだけど。
女性医師がナースたちと上手く付き合っていくコツその一、『“女”を前面に出すな。気さくなサバサバ系でいけ』を心で唱えて歩き出す。
石吹奈緒、二十九歳、医師六年目の循環器内科医。自分で言うのも何だけど、病院では仕事ができるクールビューティーだと言われている。
林さんの処置を終えてからナースステーションの大きな楕円形のテーブルでパソコンに向かう。しばらくしたところで、周囲のナースたちが一斉に「あっ、お疲れ様です~」と動きを止めた。彼女たちの声のトーンが一段上がったことから誰が入ってきたのか気づいたけれど、私は素知らぬフリでキーボードを打ち続ける。
テーブル真向かいの席にノートパソコンが置かれ、ギッと椅子が鳴った。
「石吹先生、お疲れ様」
常日頃ナースたちが『声を聞いただけで痺(しび)れちゃう』と噂しているバリトンボイスで声をかけられ、私は渋々顔を上げた。
「あっ、保(ほ)阪(さか)先生、お疲れさまでーす」
たった今気づきましたという体(てい)で、笑みを浮かべて挨拶を返す。
保阪聖(ひじり)、二十九歳。このギリシャ彫刻みたいに綺麗な顔の高身長イケメンは、私の医学部時代からの同期で心臓血管外科医、そして私の腹立たしいライバルだ。
……と私が一方的に思っているだけで、たぶんこの男は私のことなどライバルどころか道端のぺんぺん草程度にしか思っていないだろうけれど。
「またこちら側にご用でしたか?」
「ああ、俺の患者さんがこっちの病室に入院した。弁(べん)膜(まく)症(しょう)のオペ後は集中治療室(ICU)に入るが、戻ってくる頃には向こうのベッドが空いてるはずだ」
――なるほど、外科のベッドが足りなかったのか。
ここは名古屋市内にある大学附属病院だ。病床数千百床、一日の平均外来患者数が二千二百名、二十四時間体制で救急も受け付けており、中部地区における基幹病院の役割を担っている。
地上十四階、地下二階の白い建物は、円形のタワーになった中央棟を中心に、東西にウイングみたいに病棟が広がっている。
我が循環器内科が入っているのは七階の東病棟。同じく七階の西病棟に心臓血管外科が入っているのだが、同じ循環器系ということで科同士の連携が密で、どちらかの病室が足りなければお互いの患者を一時的に受け入れるということが頻繁に行われている。
今回彼は受け持ち患者の診察とオペ前説明をしに来たところなのだろう。
ほかにも医師の合同勉強会や症例検討会のみならず、科合同の歓送迎会や忘年会もあるので顔を合わせる機会が多い。
「そう、ご苦労さま」
私は必要最低限の会話だけを交わすとすぐさまパソコン画面に視線を戻す。女性医師がナースたちと上手く付き合っていくコツその二、『男性医師とむやみに親しくするべからず』……だ。
――あっ!
「そうだ、明日の朝イチで心カテする患者さんだけど、場合によってはオペになるかもしれないからよろしく」
さっき発作を起こした林さんのことを思い出し、私は慌てて顔を上げた。保阪とはなるべく話したくないが、個人的感情と仕事は別だ。
「どの患者さん?」
「今日私が入院させた患者さん。検査結果と症状から労作性狭心症と診断したけど、発作の頻度が高いんだよね。心カテからそのままステント留置になりそうだけど、もしかしたらオペに切り替える可能性もあると思って」
「どれどれ」
簡単な会話だけで済ませるはずが、わざわざ私の隣に移動してカルテを覗(のぞ)き込んできた。今にも頬がくっつきそうだ。
――ち、近いって!
若干のけぞりつつも画面が見やすいようパソコンを保阪のほうに向けてあげると、彼はさっと目を通しただけで「なるほどな」と頷(うなず)いてみせる。
「まだ四十代前半だし糖尿病もあるからオペ適応だ。もう検査前の説明は終わった? 明日、予定外のオペをするなら執刀医は俺になると思うぞ。今から患者さんに説明に行ってやろうか」
「本当? そうしてもらえると助かる。一応患者さんにはオペに切り替える可能性もあるって話してあるけど、心(しん)外(げ)のドクターから直接聞いたほうが安心できるだろうし」
会話に区切りがついたところで新人ナースが話しかけてきた。
「すみません、お二人は同期だって聞いたんですけど本当ですか? それにしてはいつもビジネスライクであまり親しくしている雰囲気がないですよね」
――うわっ、来た!
それを待ち構えていたように周囲のナースたちも会話に加わってくる。保阪と話す機会を窺(うかが)っていたのだろう。
「そりゃあ、保阪先生はともかく石吹先生は仕事に生きる女だから!」
「ちょっと待ってよ、俺だって仕事一筋なのに“ともかく”は無いだろう?」
「えーっ、だって保阪先生、仕事はできますけどチャラいですもん」
「おいおい、勘弁してくれよ、俺はこんなに真面目なのにさぁ」
保阪を囲んでキャッキャと騒がしくなったところで私はそっと席を立つ。
――これだからこの男に関わりたくないんだよ。
この愛嬌振り撒(ま)きまくりのチャラ男……もとい同期で心臓血管外科医の保阪聖は大学時代からこうだった。医学科の学生のみならず、看護科や放射線科など各科の学生たちからも常にアプローチを受けてニヤけていて。あの子を泣かせたらしいだの、あの子と付き合っているらしいだのという噂が絶えず、こんな男が首席だなんて名門医学部の名折れだと悔しく思ったものだ。
――そう、この私を差し置いて。
私は努力が大好きだ。座右の銘は『精神一(いっ)到(とう)』。心を集中して取り組めばできないことは無いと思ってきたし、努力は必ず報われるものだとも考えていた。保阪聖に会うまでは。
弟の圭太は今でこそ健康で生意気な口をきいてばかりいるが、幼い頃は先天性心疾患があり、五歳のときに心臓のパッチ手術を受けた。
ちょうどその頃テレビで流行っていたドラマが『絶対に手術を失敗しない女性スーパードクター』のお話で、七歳だった私は実際に病院で見かけた白衣姿の女性医師の姿とドラマの世界を重ねて『格好いい!』と憧れた。
医学部に入りたければ中学受験して私立に進学したほうが断然有利だ。しかし我が家は大手自動車会社の下請けで働いている父と生保レディの母という一般家庭。大きな負担をかけられないと思った私は公立中学に進学、その後地元で一番偏差値の高い公立高校に入学し、大学への進学費用のほとんどを奨学金でまかなった。
そうして意気揚々と入った医学部で、入学生総代として私の前に立ちはだかったのが保阪だったのだ。いつもチャラチャラしていて必死になっている様子が微(み)塵(じん)もないのに、成績優秀で講師や教授からの覚えがすこぶるいい。実習先でも各科の指導担当医師やナースに可愛がられ、卒業前に何人もの教授たちから『是非うちに入局を』と誘いを受けていた。
私だっていくつか声がかかったけれど、正直その数でも相手の熱量の面でも完全に負けていたと思う。
一番悔しかったのが彼の心臓血管外科入局だ。私の第一志望だったのに、体力の問題で入局が叶わなかったから。
私はPMS症状(月経前症候群)が強く、症状を軽減させる薬を飲んでいる。
普段はそれで問題ないものの、長ければ十時間以上も立ちっぱなしでいる心臓血管外科の手術では、かなりの体力と集中力が必要だ。
医学部五年の実習時、私は心臓の手術を見学している最中に貧血で倒れてしまった。
隣に立っていた保阪にお姫様抱っこで救急外来に運ばれ、あとで『大丈夫か』と声をかけられた。助けてもらった手前嘘もつけずに『生理が重いから』と答えたが、感謝しつつも恥ずかしくて悔しくて、屈(くつ)辱(じょく)で唇を噛み締めた。今でも私の中で最悪の黒歴史となっている。
――結局あれがきっかけで心臓血管外科医になる夢を諦めたんだよね。
そんなことを考えて歩いていたら、「おい待てよ」と保阪が追いかけてきた。
「一緒に説明に行くんだろ? 俺を置いていくなよ」
「ナースに囲まれてお忙しそうだったので、先に受け持ち患者さんの回診に行こうとしてただけですけど?」
「だってモテるんだから仕方がないじゃないか。話しかけられて無下にはできないだろ?」
――まったくこの男は!
「はいはい、おモテになって何よりです。私の患者さんの前ではだらしない顔をしないでね」
――保阪には負けたくない。
『精神一到』、『努力は必ず報われる』。だから私は今日もサバサバ系クール医師をやり遂げて、患者さんのために業務に邁(まい)進(しん)するのだ。
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