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冷酷参謀の夫婦円満計画※なお、遂行まで十年2

戸瀬つぐみ / 著
天路ゆうつづ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2025/10/31

内容紹介

強面のスヴァリナ総督・ラウノとベアトリスが夫婦となって四年。スヴァリナを拠点とした交易再開に際し、レントランド王国の王弟・トビアスを出迎えることになる。トビアスが交易の記念品として持ってきたのはなんと、ベアトリスの隠れた過去である「カティア公女」の肖像画。さらにトビアスは、カティア公女とかつて婚約者だったとまで言い出して!? トビアスに敵意剥き出しで嫉妬心を燃やすラウノ。そんな中、ベアトリスが昔馴染みに連れ去られる事件が起こる。「君を失ったら私は――」夫が何年も隠していた深すぎる愛に触れて……。

立ち読み

 1 強がりは、鏡を見てから言え

 時の流れは、変わらないはずのものの形さえ、少しずつ変えていくのかもしれない。

 スヴァリナ公国が、カルタジア王国に併合されて、早十一年――。
 偽公子事件の解決以降、ラウノ・ルバスティ総督の下でスヴァリナ州の情勢は安定を保っている。
 港湾都市としての機能が復活し、徐々に経済も潤いはじめた。おかげで町からは不審者やならず者が一掃されつつあるが、総督府である旧スヴァリナ城には、現在不審な動きをしている男が一名現れていた。
 数日前にはそわそわと落ち着かない様子で廊下を何往復もしていて、今はある部屋の扉あたりからずっと動かないでいる。
 身元は割れているので、周囲は静観する他なかった。
 もし、このおかしな男の行動を止められる人間がいるとしたら、それは一人しかいない。
 前日に、元気な男児を出産したばかりの、ベアトリス・ルバスティ総督夫人、その人だ。

「ラウノ……そろそろ赤ちゃんをだっこしてみませんか?」
 ベアトリスはまだお産の疲れが取れないので、夫のことをそうそう気にしていられない。
 しかしラウノは、子が生まれてもまだ部屋の中に入ってこられずにいるから、気になってしかたないのだ。
 だから生まれたばかりの赤ん坊をあやしながら、少しだけ開いた扉の向こう側から顔だけ覗(のぞ)かせている夫に声をかけた。
 ラウノは、髪と同じ砂色の眉を寄せて険しい顔をする。
「私が触れたら、絶対に泣くだろう」
 彼がごく真面目にそんなことを言うと、扉が大きく開き別の人物が部屋の中に入ってくる。侍女頭としてルバスティ家に長く仕え、ここスヴァリナに同行してくれたヘレンだ。
 彼女はベアトリスが孤児としてラウノに拾われたときからの、母親代わりでもある。今回のお産も、彼女がつきっきりで見守ってくれた。
 そのヘレンが、ラウノの脇を通り過ぎながら呆(あき)れた様子を見せる。
「何をおっしゃっているんですか、ご主人様。生まれたばかりの子は誰があやしても泣くときは泣くものですよ。ずっとそこで見ていたのだから、もうご存じでしょう?」
 ラウノは唸(うな)りながら黙ってしまう。彼はこれまで赤ん坊に触れたこともなかったらしい。だから自分が触れたら壊れてしまいそうだと怖がっている。
 ちなみに出産直後、ベアトリスにはねぎらいの言葉をくれたが、赤ん坊に対しては「猿……」という彼らしいぼやきをしたのみだ。
「あなたがいつまでもそこにいるのなら、私があなたのところまでこの子を連れていきますね」
 この年上の夫に対しては多少強引でいい。いくら怖い顔をしていたとしても、ベアトリスのことであれば無下にはできない。
 これは少女のときに彼に拾われ、メイド時代を経て妻となった長い付き合いで学んだことであり、ベアトリスの自(うぬ)惚(ぼ)れではないはずだ。
「待て! まだ動くな。転んだらどうする? それに君も子育ての初心者だと自覚すべきだ」
 寝台から出るような素振りを見せたベアトリスの脅しに屈して、ラウノが部屋の中に入ってくる。
 ベアトリスは枕元までやってきたラウノに対して、有無を言わせず赤ん坊を近付けた。そこでようやく、彼の手が伸びてくる。
「ご主人様、首をしっかり支えてあげてくださいな」
 ヘレンは少し不安そうにそう助言してきた。
「そんなことはわかっている!」
 フンッと拗(す)ねたラウノだが、確かにちゃんと赤ん坊の後ろ首を支えていた。
(まさか、練習していたのかしら?)
 散々躊(ちゅう)躇(ちょ)していた人とは思えない、堂々たる所作だ。
「……昨日より随分人間らしくなってきた」
 一日前に「猿……」とぼやいたラウノは、今は慈しみに溢(あふ)れた瞳で赤ん坊を見つめている。
 腕力のある男性だから抱き方も安定していて、赤ん坊も居心地がよさそうだ。
 ラウノが立派な父親らしく見えてきて、ベアトリスは口元をほころばせた。
「あなたに似ているのかしら?」
 ベアトリスの髪色は大人になるにつれ濃くなってきて今は金茶色だ。生まれた赤ん坊の柔らかな毛の色素はかなり薄く、ラウノの銀色に近い気がした。
「私に似ているか? 人相が悪くなったら困る。……それより名前はどうする」
「ラウノのお考えは?」
 尋ねると、ラウノは意外なことを言いだす。
「アンセルム……とするか?」
「……え?」
 どうしてその名が出てきたのか。ベアトリスは彼の提案の意味をじっくりと考えた。
 そうして一度我が子を見つめてから、首を横に振る。
「いいえ。何かを背負わせたくはありませんから」
 ベアトリスが、滅んだスヴァリナ公国の公女カティヤであったことは秘密にされている。だから本来縁のないはずの亡き公子アンセルムの名を付けたら、批判される可能性が高い。
 そんな政治的な理由を抜きにしても、弟が生きてできなかったことを、この子に背負わせようとは思わない。
 ベアトリスが断ると、ラウノも本音では同じ考えだったのか深く頷(うなず)いていた。
「そうか。では、そうだな……ヴァルテマールはどうだ?」
 先ほどまでの彼のぐだぐだとした様子を見ていたものだから、すんなり名を決めてくれたことに驚きを隠せなかった。
 もしかしたら、生まれる前からずっと考えてくれていたのかもしれない。
「立派なお名前ですね。ヴァルテマール……ヴァル。お父様が付けてくれたあなたのお名前ですよ」
 呼びかけると、ヴァルテマールが笑った気がした。
「この子も気に入ってくれたようです」
「ああ、そのようだ」
「あなたは素敵な父親になるのでしょうね」
 確信を持って言うと、ラウノはフンと鼻を鳴らす。
「印象操作は大事だからな」
 かつて新興国カルタジアの冷酷参謀と恐れられたラウノ・ルバスティは、併合されたスヴァリナ総督に任命されることが決まったときから、印象操作で“スヴァリナ人の妻を大切にしている愛妻家”になった。
 最初こそ、ベアトリスはその言葉を鵜呑(うの)みにし、勝手知ったる都合のよい使用人だった自分に妻役を押し付けたのだとがっかりしてしまった。
 しかし今は、任務を建前にしただけで本当はベアトリスのことを望んでくれたのだと知っている。
 ひねくれた彼の言葉は、話半分で聞いておけばいいのだ。
 ベアトリスが「印象操作」についてはなんの返事もせずにいると、少し気まずそうになったラウノが咳(せき)払(ばら)いをする。
「まあ、そう難しいことではない」
 言葉通り、それからのラウノは子育てに積極的になり、すぐにヴァルテマールを抱いてあやすことを習得してくれた。
 そうして我が子と触れ合っているうちに自然と顔つきやかける言葉も優しく……なるわけもなく、ラウノの人相は変わらなかった。むしろ年月を重ねたぶん、眉間の皺(しわ)は深くなっているかもしれない。そっけなく素直ではない言葉も相変わらずだ。
 それでもいろいろな場所で、愛らしいヴァルテマールを抱えあれこれと世話をしている姿は、依然として総督に反発していた一部のスヴァリナ人にも影響を与えた。
 小さな子どもと一緒にいる総督に、怒声を浴びせるわけにはいかないから。
 ラウノとベアトリスの長子ヴァルテマールは、総督府の皆に見守られながら成長していき、あっという間に三年の月日が流れた。

   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「お誕生日おめでとう、ヴァルテマール」
 ベアトリスは、リボンを付けた大きなくまのぬいぐるみを息子に手渡す。
「わーい。くまさん、ありがとう」
 自分とそう変わらない大きさのぬいぐるみを抱きしめたヴァルテマールは、とても愛らしい。
 今日は息子の三歳の誕生日だ。
 自分の誕生日をはっきり認識できる年齢になったヴァルテマールは、前日からそわそわして落ち着かない様子だった。そこで、当初は夜の内輪でのパーティーまでとっておく予定だったプレゼントを先に渡すことにした。
 朝食をとったあと、食堂から総督府内の居室に移動していたが、そこに用意していたプレゼントを取りにいっていたラウノが遅れて現れる。
「待たせた」
 ラウノは、包装された長細い箱を脇に抱えていた。すぐに目をつけたヴァルテマールは、ラウノの身体をよじ登って、その腕に納まった。
「おとうさん! これもぼくの?」
「ああ、開けてみるといい」
 ラウノはプレゼントの箱を手渡してから、ヴァルテマールを丁寧に床に下ろす。
 箱を開けたヴァルテマールは、途端に目を輝かせはじめた。
「わーい! きしのけんだ!」
 プレゼントはそれぞれが別に用意していたので、ベアトリスはラウノが選んだものをここではじめて知った。
「あの……ラウノ、ヴァルテマールに剣はまだ早いのでは?」
 ベアトリスは幼い息子が怪我をしたり、させてしまったりしないか心配だ。
「ただの木(ぼっ)剣(けん)だ。いいかヴァルテマール。訓練以外では人に当てたり、ものに当てたりしてはいけない。約束できるな?」
「はいっ! やくそくします」
 ラウノの言葉に、ヴァルテマールは姿勢を正して敬礼をした。心はすっかり騎士のようだ。
「なぜ敬礼を?」
「クルメラちゅういがかっこいいから、ちゅういのまねです」
 すかさず、扉の近くに控えていたキーナ・クルメラ中尉が得意気な顔をしはじめる。
 彼女は、ベアトリスやヴァルテマールの護衛を安心して任せられる、優秀でいて数少ない女性軍人だ。昨年、中尉に昇進している。
 ラウノは、ヴァルテマールが父親を差し置いてキーナに「かっこいい」という賞賛の言葉を口にしたことが気に入らなかったようで、鋭く彼女を睨(にら)みつけていた。
 しかし慣れているキーナは、気付かぬふりをして的確に自分の役目を果たそうとする。
「さあヴァル坊ちゃん、さっそく私と剣の稽古をしてみましょうか? お父様とお母様はお仕事の時間ですからね」
「けいこ? れんしゅう? うん、やる!」
 ヴァルテマールは、キーナに誘われさっそく剣を抱えて部屋から出ていった。
 人なつこく、素直な息子だ。……そう、とても素直すぎる。
 部屋にはラウノとベアトリス……そしてくまのぬいぐるみが残された。
 ベアトリスはそのぬいぐるみを回収し、抱きしめる。
「……怒っているのか?」
「いいえ。ただ、ラウノのほうがあの子の好みを理解しているのだなと……負けて悔しいです」
 ヴァルテマールと接している時間は、責任ある立場にいて多忙なラウノに比べ、自分のほうが長い。なのに、誕生日の贈り物選びは彼の圧勝だった。
 ベアトリスは、置いてきぼりのくまのぬいぐるみと、このもやもやした気持ちを分かち合うことしかできない。
「男なんて、そのへんに木の棒が落ちていたらとりあえず振り回したくなるものだ。単純で、ひとつのことしか見えなくなる」
 ラウノがベアトリスとの距離を縮めてくる。彼なりに拗ねたベアトリスを慰めてくれているのだろうか?
 じっとベアトリスのことを見つめていた彼は、抱擁のために手を伸ばしてきた。でも今、二人のあいだには大きなくまのぬいぐるみが存在している。
 ラウノは愛らしく罪のないぬいぐるみを睨み、掴(つか)んでベアトリスから引き離してきた。
 かわいそうなくまのぬいぐるみは、邪魔だと言わんばかりにラウノに投げられてしまい、運よくソファーの上に着地する。
「…………」
 どうやらルバスティ家の男達には、ものを大切に扱うことを教えていかなければならないようだ。
 ひとつのことしか見えなくなるらしい夫の瞳には、今――ベアトリス自身が映っている。
 彼が無作法をしても、冷たい視線で睨まれても、三十六歳になって眉間の皺が深くなっても……すべてが素敵に思えてしまうのは、惚れた弱みというものか。
「博物館のことで忙しくしているようだが、あまり無理をしないように」
 彼は手を伸ばして、ベアトリスの顎(あご)に触れてきた。
 キスをするわけでもなく、顔色を確認しているのは出会ってから結婚するまでの十年間に根付いた保護者としての習性だ。
 ラウノがスヴァリナ総督となってからもう四年。ベアトリスは二十六歳になり、大人の女性になれているつもりなのだが、実際はどうなのだろう?
 当初、ラウノはベアトリスが総督夫人として何かの役目をこなすことを望んでいなかった。
 しかしここはベアトリスにとって大切な祖国でもある。死んだはずの公女カティヤであることを伏せたままにしている代わりに、少しでも役に立ちたかった。
 だから総督夫人としてできることを考え、今はいくつかの役割をこなしている。
 その中でも一番熱が入っているのが、博物館の開館準備だ。
 ラウノの提案からはじまったこの計画は、資金の目(め)処(ど)が立たず頓(とん)挫(ざ)するかと思えたが、四年かけて現実となった。
 スヴァリナがカルタジア王国に併合され、ひとつの州となる前、公国時代の宝物や資料を展示する博物館がもうじきお披露目となる。
 ラウノの言う通り、博物館のことで忙しくしているのは確かだが、負担に感じるようなことはなく、充実した毎日を過ごせている。
「あなたこそ、レントランド王国との交易関連でお忙しいのでしょう? ……ああ、ほら」
 扉のほうから大きな足音が聞こえてくる。
 先ほどキーナがヴァルテマールを連れ出したのは、執務の時間が迫っていたからだ。
 総督一家の私的な居室まで、せっかちな人がわざわざ呼びに来てくれたらしい。
「ラウノ……今日も一日お仕事がんばってくださいね」
 ベアトリスは、扉が開く前に夫の唇の端に口付けをした。すると彼は表情をほころばせるどころか無感情になり、くるりと背を向けてしまう。
 直後、大きすぎるノック音が響き、返事をする前にドンッと扉が開いた。
「総督、お時間です。今日は港に参りますぞ!」
 姿を見せた白髪で立派な髭(ひげ)を蓄えた男性は、現在海運局局長の地位にいるノルドマンだ。
 彼は生粋(きっすい)のスヴァリナ人で、元公国海軍の提督という経歴を持っている。まもなく六十歳を迎えようとしている年齢だが、元軍人らしい屈強な身体と豪快な性格の持ち主だ。
 ラウノとノルドマンは、もうすぐやってくるレントランド王国の使節団を迎える準備をしている真っ最中だ。
 しばらく途絶えていたスヴァリナ港でのレントランド王国との交易が本格的に再開されることになり、記念の行事がいくつか予定されていた。
 ラウノがノルドマンに連行されていったところで、もう一人、別の人物が部屋の中に入ってくる。
「朝からお騒がせしております。お迎えに上がりました、総督夫人」
「お待たせしてしまってごめんなさい。クランツさん」
 ノルドマンと正反対の印象を持つ、細身で眼鏡をかけている男性は文部局のクランツ副局長だ。彼もノルドマン同様スヴァリナ人であり、かつて公国で文官として働いていた経歴を持っている。
 ラウノは総督に任命されたあと偽公子事件を解決し、反カルタジア勢力を黙らせてからは、一貫して融和政策を取り続けていた。
 カルタジア併合前に起きた、公国内の政変により地位を失っていたスヴァリナ人を呼び戻している。
 その代表格とも言えるのが、ノルドマンとクランツだ。
 二人とも政変前の大公家に仕え、大公の弟であったエンシオが大公の座を奪ったあとは、引退して田舎でひっそりと暮らしていたのだという。
 ラウノが総督府にスヴァリナ人を増やしていく過程で、過去の評判を聞き呼び戻した人達だった。
 つまり、二人ともベアトリスの父に仕えていたことになるが、成人前の大公家の子ども達は公の場に出ることがほとんどなかったため、面識はなかった。
 彼らはまだまだカルタジア人が多い総督府に素早く溶け込んで、公国時代の出来事を必要以上に語らない。
 でも頼もしく豪快なノルドマンと、厳しくも紳士的なクランツの人柄を知ると、つい父のことを考えてしまう。
 約十五年前、総督府がスヴァリナ城だったとき、ここで父と彼らはどんなことを話して、スヴァリナをどんな国にしようとしていたのだろうかと、想いを馳(は)せた。
 自分の年齢が記憶の中の両親に近付くにつれ、今のベアトリスは、尊敬すべき両親のように信念を持った立派な大人になれているのだろうかと、ふと考えてしまう。

 ベアトリスは、クランツと共に宝物庫に入っていった。数日前から、ここで所蔵品を博物館に移す作業を進めている。
 ひとつひとつ、目録と品物が一致しているか確認しながら運搬係に託していくのだが、この作業も今日でようやく目処がつきそうだ。
「なんだか、広く感じますね」
 すっかり殺風景になった宝物庫を見回しながら言うと、クランツも感慨深げに頷いた。
「それにしても、カルタジア政府がここに手を付けていなかったことに、スヴァリナ人は感謝しなければならないでしょうな」
 カルタジア王国はスヴァリナの支配者となったあとも公国時代の宝物を、ここで丁重に保管していた。
「夫が言うには、これ以上嫌われたくなかったから……だそうです」
 実際、この事実が公になってから、スヴァリナ人のカルタジアと総督府に対する反発感情はかなり和らいだようだ。
 多くのスヴァリナ人は、公国が滅ぶまでに起きた出来事を「大公家の悲劇」と呼び、すべてカルタジア王国の策謀であると認識していた。
 四年前の偽公子事件の折に、「大公家の悲劇」はカルタジアの策謀ではなく、大公の弟エンシオによって計画された簒奪(さんだつ)であったことが認識されるようになったが、カルタジア王国が略奪行為を行っていなかったという事実は、スヴァリナ人の信用を得るのに一役買っていた。
「人間は、自分にとって都合のいいほうを事実としたがるものですからね」
「クランツさんは、事実をご存じだったのですか?」
「私は、政変が起きたときにこのスヴァリナ城におりましたから。すぐに逃げ出して隠れるように過ごしてきた臆病者です。総督からお声がかかったとき、今更何ができるだろうと悩みましたが、結局こうしてのこのこと戻ってきてしまいました」
 それはベアトリスも一緒だった。
 公女だった頃にエンシオから逃れ、運悪く奴隷商に捕まってしまったところを偶然ラウノに助けられた。以来名前を偽り、祖国を離れ、過去を忘れたふりをしてきた。
 そんな自分達が、十四年も経ってこの場所で何かできることを探しているのだから不思議な縁だ。
 本当はクランツともっといろいろなことを話したいが、過去をつまびらかにできないベアトリスは、その気持ちをそっと胸の奥に隠した。
「さて、あと残っているものは……」
 クランツが目録に添って次の場所へ移動していったので、ベアトリスもあとに続く。
 まだ手をつけていないのは絵画が所蔵してあるあたりだ。
 有名な画家が描いた貴重な絵画がいくつもあり、それらを確認していったのだが……。
 クランツは幕で覆われた壁のほうに視線を向ける。
「そこにある絵は、非公開としてこのまま残す予定です」
「大公一家の肖像。……でしたな」
「はい。四年前の偽公子事件のような問題を再び起こさないための処置で、表には出さないほうがよいだろうと……」
 ベアトリスは後ろめたい気持ちを隠しながら、クランツに伝えた。
 何か思うことがあるようなクランツの様子に不安になるが、彼がこの場でかけられた幕に触れることはなかった。
「ええ、それがよろしいでしょう」
 そうしてクランツが、興味を失ったように続きの作業をはじめてまもなく、彼の部下が声をかけてきた。
「クランツ副局長、少しよろしいでしょうか?」
 彼らはその場でいくつかのやりとりをはじめたあと、ベアトリスに向き直った。
「総督夫人、休憩を入れて午後からまたこちらで作業を再開させましょう」
「ええ……では、またあとで」
 クランツはベアトリスを残し、部下達を引き連れて去っていく。彼は文部局の副局長で、まとめ役として何かと忙しい。
 この宝物庫での作業は部下に任せることもできるだろうに、気長にベアトリスに付き合ってくれていた。そのせいで他の業務が滞っているのかもしれない。
 休憩を入れるふりをして、裁可が必要な仕事を片付けてくる時間を取るつもりのようだ。
 宝物庫の扉が閉まり、静寂が訪れる。
 扉の向こう側には護衛が待機しているが、部屋の中はベアトリス一人だ。
(少しだけ……)
 こういう機会は、なかなか訪れない。博物館が開館してここが閉ざされてしまったらなおさら……。
 総督夫人という立場でも、空っぽの宝物庫に頻繁に出入りするのは不自然で難しくなるだろう。
 だからベアトリスは、壁の絵にかかっていた幕を開けた。
 隠されるようにそこにあったのは、四人の人物が描かれた絵だ。
 高貴な夫妻と、幸せそうな姉弟。
 これは大公一家とその家族……。ベアトリスが公女だった頃の、たった一枚残された家族との姿だ。
「本当に……よく似ているわ」
 淡い髪色であることから、ヴァルテマールは「目つきが愛らしいラウノ」として、どちらかと言えば父親似であると思われている。
 しかしベアトリスは、ふとした瞬間に亡き弟アンセルムの面影を見てしまう。
 決して混同することはない。でも、似ていることは否定できなかった。
 大公一家の肖像画は今後も非公開とし、博物館では展示しないという決定は会議で採択されたものだが、ベアトリスの意を汲(く)んだラウノが、その流れを作り出し誘導したものでもあった。
 肖像画を公開し広く顔が知られるようになると、また公子や公女を名乗る者が現れるかもしれないから……ラウノはそう主張したのだ。その意見は特に疑われることもなく、真っ当なものとして賛同を得て、今日に至る。
 だが本当の理由は、別にある。ベアトリスがこの肖像画に描かれたカティヤ公女であり、ヴァルテマールがスヴァリナ大公家の血を引く者だという事実を伏せておきたいから、人の目に触れさせることができないのだ。
 自分達が、ようやく訪れた平和を乱す新たな火種とならないように……。
「これでいいのよね……?」


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