書籍詳細 一覧へ戻る

鬼畜な乙女ゲームの危険度MAX兄のために悲恋エンドをめざしたら

日車メレ / 著
藤咲ねねば / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2025/08/29

内容紹介

私なしでは生きられなくなればいい
「あなたを傷つける者はすべて、この兄が排除しますから」公爵令嬢のエミリアは、国内随一の魔力を持つ過保護すぎる兄・ヴィンセントと二人きりで暮らしていた。あるときここが、前世でプレイした成人向け鬼畜ゲームの中であると気がつく。エミリアはこれから、伴侶に純潔を捧げることで莫大な魔力を与える力を持つ薔薇姫に選ばれる。そして大好きな兄は、ほとんどすべてのルートで死ぬ運命にあるラスボスだった。彼が生き残る道は「悲恋エンド」しかない。どんな結末が待っていても、ヴィンセントを守ることを決意するエミリア。そんな中、ヴィンセントの言いつけで、純潔を守るためにヴィンセントの魔力を流した貞操帯をつけることになって!?

立ち読み

第一章 ここは鬼畜な乙女ゲームの中である


 エミリアは規則正しい生活を心がけている。
 起床後に呼び鈴を鳴らすと、世話係であるクマと猫のスタフト・アニマル(ぬいぐるみ)たちがやってきて朝の支度を手伝ってくれた。
 クマはアンバー、猫はエメラルドという名だ。
 二匹ともエミリアより少し低い身長で、まるまるとした可愛らしい見た目をしている。
 首元に巻かれたリボンの中央に、それぞれの名を象徴する黄色と緑の宝石が揺れていた。
『エミリア様、今日のドレスは何色にしますか?』
 軽いあくびをしていると、アンバーからの問いかけがあった。
「午前中からおば様が、淑女教育のためにいらっしゃるの。だから、できるだけ地味なデイドレスがいいわ」
『地味、デイドレス……承りました。紺色のドレスをご用意いたします』
 アンバーは短めの足で歩き出し、衣装部屋へと向かう。
 そのあいだにエメラルドが鏡台の前にぬるま湯を用意していた。
 エミリアが顔を洗うと、エメラルドがすかさずタオルを差し出してくれる。
「ありがとう」
 顔を拭き終わったところで、ちょうどドレスを手にしたアンバーが戻ってきた。
 二匹に手伝ってもらいながら、着替えを済ます。
 終わった頃に扉がノックされた。声かけがなくてもわかる。兄のヴィンセントがやってきたのだ。
 アンバーたちはヴィンセントの魔力で動いていて、彼に自分たちの状況を伝えられるらしい。
 エミリアの着替えが済んだことを、主人であるヴィンセントに教えたのだろう。
「兄様、どうぞ」
 ゆっくりと扉が開き、背の高い青年が笑顔で入ってきた。
「おはようございます、リア」
 リアは、兄だけが呼ぶエミリアの愛称だ。
 ヴィンセント・グレア・レヴァイン――二十六歳の若き公爵家当主にして軍の魔法師団長でもある彼は、今日も妹より早く起床し、身なりを整えていた。
(どうして兄様は、いつもこんなにも完璧なのかしら……?)
 朝の挨拶をしてくれるときの笑顔を直視しただけで、油断するとうっとりしてしまう。
 上着はまだ羽織っていないが、軍服のズボンにしわのないシャツという服装で、ネクタイもしっかりと締めている。エミリアは兄のだらしない姿を、ほとんど見たことがない。
「おはようございます。……兄様は今日も格好いいですね!」
 実の兄に対する言葉としてはやや行きすぎているのかもしれないが、これが兄妹の日常だった。
 ヴィンセントは短めの黒髪に赤い瞳を持つ青年だ。整いすぎている顔立ちのせいで冷たそうに見えるが家族に甘い優しい人だ。なによりひかえめな笑顔が素敵で、毎日顔を合わせているのにドキドキしてしまう。
 両親を早くに亡くし、レヴァイン公爵家の住人は二人きりだけれど、エミリアは兄のおかげで寂しいと感じたことがない。
「リアも、可愛いですよ。ですが、もっと可愛くなるために髪を整えましょう」
 そう言って彼はエミリアの肩を軽く押し、鏡台の前に座らせた。
 髪を梳(と)かし、結うのは兄の役目で、兄妹にとってこれも当たり前の光景だった。
 ヴィンセントはブラシを手にして丁寧にエミリアの髪を梳(す)いていく。
 引っかかる場所がなくなってから櫛(くし)に持ち替え、美容液も塗ってくれた。
「そろそろ、少し切ったほうがいいでしょうか?」
 毎日の手入れに時間がかかるものだから、兄の負担を考えての提案だ。
 例えば、肩の下のあたりがいいかもしれない。エミリアは指二本で髪を挟んで、長さを示してみた。
「こんなに綺麗なストロベリーブロンドを? ダメですよ……もったいない。兄の楽しみを奪わないでください」
 この髪と、ピンクサファイアの瞳をヴィンセントはいつも褒めてくれる。彼がそう言うのなら、このままでいいのだろう。
(それにしても、兄様と私って……どうしてこんなに似ていないのかしら?)
 容姿はそれなりに整っていると自負しているが、兄とは共通点が少ない。
 ヴィンセントは長身で引き締まった身体をしている美しい青年。
 エミリアは平均より背の低い、痩せ気味の娘だ。顔立ちも子供っぽい気がして、年齢以上に兄との差を感じてしまう。
(兄様の髪が黒いのは、お父様に似たのよね?)
 エミリアは、両親のことを覚えていない。けれど肖像画は残っていて、父が黒髪、母がエミリアと同じストロベリーブロンドだったことは知っている。
 両親それぞれに似たのだから満足すればいいのだが、どうしてもたった一人の肉親である兄との共通点を探したくなってしまう。
 唯一似ているのは赤みを帯びた瞳だろうか。
 もっともヴィンセントのほうが濃く、見つめられたらドキリとする情熱的な色なのだが……。そう思いながら鏡越しに兄を観察していると、ふいにルビーの瞳がこちらに向けられた。
「どうしたんですか?」
「い、いえ……なんでもありません。そ、そういえば兄様、高位貴族は本来自動人形ではなく人間の使用人を雇うものなのですか?」
 ずっと見つめていたことをごまかすために口にしたのは、アンバーたちについての疑問だった。
 ヴィンセントがスタフト・アニマルと名付けているアンバーたちは、一般的には自動人形と呼ばれている。
 本来は人にそっくりな見た目をしていて、貴族の屋敷で働いたり、生身の人間が行うには困難な作業を請け負ったりしてくれる存在だ。
 エミリアが自動人形の無機質な見た目を恐れたから、可愛い動物のぬいぐるみに改造されたものがアンバーとエメラルドだった。
「誰がそんなことを……?」
 櫛を動かすヴィンセントの手が止まる。声がわずかに低かった。
 聞いてはいけない内容だったのだろうか。
「だ、誰だったかしら? ちょっと小耳に挟んで……。伝統ある貴族ならば、機械ではなく人を使うべきだって、どこかで……」
 本当はエミリアの教育係としてやってくる縁戚のギリングズ侯爵夫人から聞いたのだが、ヴィンセントが眉を寄せる様子から犯人を晒(さら)し上げている気分になり、言えなくなってしまった。
(人付き合いをあまりしないから、すぐにバレてしまうかもしれないけれど……)
「どうせどこかの年寄りでしょう? いいですか、リア。新しい技術というものは最初は必ず古い世代に否定されるものなのです」
「どうしてですか?」
「新技術により世間の価値観が変わって、その者の優位性が損なわれる事態を懸念しているのかもしれません。……とくに自動人形を動かすにはかなりの魔力が必要ですから、否定したい気持ちはわかりますが」
 マジックアイテムを使うことは、大いなる魔法使いを先祖に持つ貴族にとって権威の象徴でもある。
 けれど魔力使用量が膨大となる複雑な道具は、貴族の中でも限られた者にしか扱えない。
 操る能力のない者の気持ちも、エミリアにはわかる。
 なぜならエミリア自身がアンバーたちを動かせない側の人間だからだ。
「自動人形の改良は、兄様の功績でしたよね? それまでは決められた呪文で決められた動きをするだけだったとか……」
 ヴィンセントは十代前半で自動人形に革新的な変化をもたらした。
 一流の魔法使いが一流の研究者だとは限らないのだが、兄はどちらも超一流だ。
「ええ。……まぁ、私のことは置いておきましょう。自動人形と人間の使用人……どちらも一長一短です。私にとっては自動人形のほうが都合がいい。もちろんそう考えない者もいます。ですが性能すら知らずに『伝統』だけで変化を拒む者たちの言葉にはまるで価値がありません」
 冷たく言い放つヴィンセントに、エミリアは頷(うなず)く。
 彼の語る長所と短所がなにか、ちゃんと予想できていた。
 二大公爵家の一つレヴァイン家の主人であるヴィンセントには敵が多い。
 実際、エミリアたちの両親――先代レヴァイン公爵夫妻も暗殺されたのだ。
 もしかしたら人間の使用人のほうが機転が利くのかもしれないが、暗殺や情報漏洩を気にしなければならなくなる。
 兄の言葉はいつも正しいのだが、冷たいもの言いにひやりとしてしまう。
 きっと彼には、弱い人間を卑下する気持ちなんてない。
 自分より強い者に対し間違った嫉妬を向け、引きずり下ろそうとする者たちを嫌っているのだ。
 エミリアは弱い側の人間だから、せめて兄が嫌悪する卑屈な言動だけは避けようと心に誓う。
「さて、髪を結ってしまいましょうか?」
「お願いします、兄様」
 ヴィンセントは耳の後ろあたりの毛を少し取り、三つ編みを作った。出来上がった三つ編みを頭頂部に回し、反対側の耳の後ろ付近で留める。
 最近エミリアが気に入っている髪型だ。
 仕上げに耳の上あたりにシルバーのリボンをつけてくれた。
 今日の装いはやや地味な紺色のデイドレスだったが、それだけで少し華やかになる。
「いかがですか?」
「いい……と思います」
 可愛い――なんて言ってしまうと自画自賛のようで憚(はばか)られる。
 そんな心情すら、完璧なエミリアの兄は見透かしているのだろうか。そう思うと、頬が火照(ほて)ってしまう。
 鏡越しに目が合い、ヴィンセントが満足そうに笑っているのが見えた。
 やはりすべてお見通しなのだろう。
「今日はギリングズ侯爵夫人の講義でしたね?」
「はい、兄様」
「どうですか、夫人は。役立つことをちゃんと教えてくれますか?」
 正直エミリアは、自動人形を批判した張本人でもある夫人を好きになれずにいた。
 それでも、レヴァイン公爵家を支える縁戚だから、安易に拒絶してはならない気がしている。
 ヴィンセントは妹に対し過保護だ。エミリアが少しでも嫌だと口にすれば、なんでも排除しようとしてしまう。
 兄と二人きりでいるほうが好きだけれど、彼の甘やかしを受け入れ続けると気づかぬうちに横柄な人間になりそうで怖かった。
 だからエミリアにとって夫人の講義は必要なものだ。
「もちろんです。私……頑張ります」
「ならばよかった。ですが、なにかあれば……いつでも私を呼んでください。職務中だろうが、国王陛下との謁見中だろうが遠慮はいりません」
 そう言って、エミリアの首元にあるチェーンを引っ張り、ルビーのネックレスを持ち上げ、そっとキスをした。
 魔法使いの家系に生まれた者としてはエミリアは凡庸だ。石にはそんなエミリアを守る魔法が仕込まれている。そこに魔力を注いだのだった。

   ◇ ◇ ◇

 朝食のあと、イザーテ王国軍魔法師団の本部へ赴くヴィンセントを送り出す。
 マント付きの黒の軍服はヴィンセントが一番素敵に見える姿だ。
 毎日のことだというのにエミリアはいつもドキドキしていた。
「リア?」
 うっかり彼に見とれて、立ち尽くす。
 名前を呼ばれてハッとなり、エミリアは慌てた。
「……い、いってらっしゃいませ。兄様」
「いってきます。……今日もリアが穏やかに過ごせますように」
 別れ際に軽く抱きしめてくれる。温かくて心地よいせいで、いつまでもこのままでいたいと思ってしまう。
 けれど見送りをする側が遅刻の原因になってはいけない。
「兄様ったら! 遅れてしまいますよ」
 名残惜しい気持ちを押し殺し、エミリアはヴィンセントの胸を軽く押す。
「そうですね……諦めます」
 半日程度の別れとは思えないほど寂しげにしながら、ヴィンセントが離れていく。
 彼が出かけたあとは、任された仕事をこなすのがエミリアの日常だった。
 魔法師団長としての職務で忙しいヴィンセントを助けるため、公爵家当主としての仕事の手伝いをしている。
 といっても決定権はなく、書類の分別や領地に関する予算の計算など、ヴィンセントが滞りなく当主としての職務をこなせるようにするための下準備のみだった。
 余った時間は、本を読んだり、少しだけ街へ買い物に行ったりして過ごすのが常だ。
 この日は午前中から淑女教育があるため、教師であるギリングズ侯爵夫人が到着するまでは先週のおさらいをして待つ。
 一時間ほどで夫人の訪問があった。
 アンバーたちと一緒に出迎えると、そこには茶色の髪をした五十代くらいの貴婦人と、彼女によく似た令嬢が立っていた。
「あらあら、エミリア様ったら何ヶ月も同じお花を飾っているの? 公爵様はお忙しいのだから、そういうところはあなたが気を利かせるべきよ。客人を迎えるのなら季節感を大切にね?」
 さっそくエミリアの至らなさを指摘してきたのは、夫人の娘であるコリーンだった。
 ここのところ夫人からの提案で、現在二十歳のコリーンが話し相手として公爵家にやってくるようになっていた。
 確かにエントランスには、魔法によって枯れにくくなっている花がずっと飾ってある。前回彼女が訪ねてきたときと同じ花のままだったかもしれない。
 なんとなくモヤッとしてしまうが、コリーンの指摘はきっと正しいはずだ。
 友人のいないエミリアは人を招くときの常識に自信がないため、気持ちを抑えて素直に受け取ることにする。
「教えてくださってありがとうございます……コリーン様」
「どういたしまして。……ねぇ、せっかく天気がいいのですから、庭園に行きましょうよ。いいでしょう? エミリア様」
 季節は秋。天気がいい日は庭園の噴水前にテーブルと椅子を並べてお茶を楽しむのも一興だ。けれど今日は北風の影響で肌寒い。室内のほうがよさそうだった。
「でしたら、庭を臨めるサロンはいかがですか?」
「いやよ。庭園がいいって言ったでしょう?」
 エミリアとしては、客人のためを思っての言葉のつもりだった。
 けれどコリーンがあからさまに不機嫌になってしまう。
「……わ、わかりました。すぐに準備をいたします」
 どうしてコリーンが庭園にこだわるのかはわからないが、客人の要望なら仕方がない。
 エミリアはアンバーとエメラルドに指示を出して、急いで噴水前に席を用意した。
 慌ただしい出だしになってしまったが、どうにかおもてなしはできそうだ。
 そんなふうにしてようやく始まった講義だが、エミリアにとって楽しいものではなかった。
 この日のテーマは正しいお辞儀の仕方だ。
 アンバーとエメラルドがしっかり給仕の役割を果たす中、エミリアだけが噴水の前に立たされて何度も同じ動きをさせられていた。
(さ……寒いわ……)
 予想どおりではあるものの、風が強い。
 せめて温かい紅茶のカップを手にしたら少しは耐えられそうだが、繰り返されるやり直しのせいでそれも叶わない。
「エミリア様、ぜんぜんなっていないわ。……姿勢も悪いし、そんなに速く頭を下げたら優雅ではないでしょう?」
 夫人が冷たく言い放つ。
「はい、おば様。……ですが、さっきはゆっくりすぎると言われて……」
「最初にコリーンが完璧なお辞儀の手本を見せたのだから、それをよく思い出してください」
 ドレスのスカート部分の持ち方、角度、頭を下げる速度や長さ――エミリアとしてはコリーンのやっていたとおりにしているつもりだ。
 それでも及第点には至らないらしい。
 そもそもお辞儀の仕方は十に満たない年齢で兄から習っていたし、マナーに関する本で学び、間違っているとは思えないのだが……。
 寒さのせいで、また悪い方向へ考えてしまっているのだろうか。
(兄様に、相談したほうがよかった……? でも、私がおば様から学びたいって言ったんだから、簡単には投げ出せない)
 約一年前、ギリングズ侯爵夫人から、女性としての振る舞いを教える者がいたほうがいいという提案があったとき、ヴィンセントは突っぱねようとしていた。
 それを、エミリアが強く希望して教育係に迎えた経緯がある。
 夫人を始めとした一門の大人たちは、本家筋にあたるレヴァイン公爵家を大切にしている一方で、エミリア個人のことは「当主の不出来な妹」として嫌っているみたいだ。
 わかっているからこそ、彼らに認められたいという思いが強い。
 けれど、そんな日が来るのかだんだんと不安になってくる。
 最初はただ厳しいだけだと思おうとしたのだが、ここ数回の講義ではその認識が間違っている気がしてきた。
 これは理不尽なのだろうか。それとも理不尽に感じてしまうエミリアが甘ったれなのだろうか。
 それすらも判断できない弱い自分をエミリアは恥じた。
「公爵であらせられるあなたの兄君は、大変ご立派な魔法使いです。ご自身は十に満たない頃から完璧なマナーを身につけていらっしゃいました。さあ、公爵閣下の妹として恥ずかしくない女性になるために……もう一度」
「……はい」
 これで十回目のやり直しだ。
 胸が苦しくて、もう泣きそうだった。そんな気持ちで続けてもうまく行くはずもない。
 十回目のお辞儀のあとに聞こえたのは、夫人たちの盛大なため息だった。
「先代公爵夫妻が早くに身(み)罷(まか)られ、ただ一人の生き残りである妹君に対し公爵閣下が甘くなってしまうのは仕方がないことでしょう。ですが、エミリア様がそれを当然だと思ってはなりません」
「そうよ、エミリア様。十八歳にもなって社交の場にほとんど顔を出さず、マナーがなっていないから婚約者もできず……そんなことでは、公爵家どころか一門の恥となるのだから」
 夫人とコリーンがエミリアのダメな部分を挙げ連ねた。
 指摘どおり、ヴィンセントにはエミリアを甘やかしてしまう理由がある。
 じつは先代公爵夫妻を乗せた馬車が賊に襲われ暗殺されたとき、六歳のエミリアも同乗していたのだ。
 エミリアは、その際に負った怪我と、両親が殺される場面を見てしまったショックにより、当時の記憶を失っている。
 ヴィンセントが過保護なのはきっとそのせいだ。
「コリーンの言うとおりですよ。一刻も早くマナーを身につけ、結婚相手を見つけなければなりません。公爵閣下を解放してさしあげなさい。……これは、レヴァイン公爵家のためを思って言っているのです」
「は……はい……」
 ヴィンセントが手間のかかる妹のために時間を割いてしまう。
 それは兄の魔力で動くアンバーたちに世話を焼かれ、兄に髪を結ってもらっているエミリアには反論できない指摘だ。
(もう一度……)
 めげずにやり直そうとして姿勢を正す。
 そのとき急に突風が吹いた。
 エミリアは咄(とっ)嗟(さ)に目を閉じて、風が収まるまでやりすごす。やはり、この講義を庭園で行うのは無理がある気がした。
「まぁ! リボンが取れてしまったわよ」
 コリーンの指摘を受けて、エミリアはシルバーのリボンがついていたはずの両耳の上あたりを手で探る。左側のリボンだけなくなっているのがわかった。
(私のリボン……どこへ……?)
 キョロキョロと周囲を見回すと、噴水に浮かんでいるリボンを発見した。
「兄様につけていただいたのに……!」
 エミリアは噴水の縁に手をかけて、反対側の手を伸ばし、リボンを掬(すく)い上げようとした。
「……え?」
 リボンに触れた瞬間、不自然なほど局所的な突風が発生して、背中に衝撃が走る。
 エミリアはそのまま水の中に落ちてしまう。
 悲鳴を上げる暇すらなかった。
 水深は膝丈程度だから溺れるほどではない。けれどドレスが濡(ぬ)れ、布地が肌にまとわりついて不快だ。
 まだ防寒着が必要な季節ではないけれど、水は冷たい。しかも上からも降り注いでくる。
(風のせい……よね?)
 背中に感じた衝撃はおそらく風だ。それはわかっているけれど、どうしても不自然に思えてしまう。
「エミリア様、大丈夫……? 一人で立てるかしら?」
 コリーンがゆっくりと近づいてくる。
「え……ええ……」
 反射的にそう答えたものの、混乱しているエミリアは、なかなか立ち上がれなかった。
「ねぇ、ご存じないの? 貴婦人は落とし物を自ら拾ってはいけないのよ」
 手を差し伸べるでもなく、噴水の近くに立ったままのコリーンがそんなことを言い出した。
 先ほどは気遣う言葉をくれたのに、今はなぜかエミリアを見下ろしながら笑っている。
「あらコリーンったら。仕方がないのよ、エミリア様には人間の使用人が仕えていないのだから」
「そうね、もしこの場に優秀な使用人がいたら、主人を止めてくれるもの。先週、お母様は忠告なさったのでしょう? きちんとした使用人を雇うべきだって」
 人の忠告を聞かないから、罰が当たったと言わんばかりだ。
(もしかして……コリーン様が私を押したの? 手は届かなくても……魔法なら……)
 胸の中が嫌な感情で満たされていく。
 彼女がやったという証拠はない。きっと二人に否定されたら追及なんてできない。
(私が……もっと頑張れば……って、そう思っていたのに……)
 努力してもわかってもらえない、不(ふ)甲(が)斐(い)なさと理不尽さで胸がいっぱいになるこの感覚を、エミリアは確かに知っている。
 噴水から発せられるザー、ザーという水音がやけに耳に残る。
 その音だけがひたすらに聞こえる状況は、以前にどこかで経験したことがある気がした。
 ものすごい既視感と同時に身体に痛みが走る。
「いつまでそこにいるの、エミリア様……」
 もうコリーンたちがなにを言っているのかもわからない。視界が真っ暗になり、そしてようやく思い出す。

(私……の名前……天(あま)野(の)ななみ、だったはず。そうだ……レヴァインは……大好きだった鬼畜な乙女ゲームのヒロインの苗字だったんだ……)

 この日、エミリアは自分の前世を思い出した。

(……ヴィンセント……様……)


この続きは「鬼畜な乙女ゲームの危険度MAX兄のために悲恋エンドをめざしたら」でお楽しみください♪