書籍詳細

籠の鳥の公女は亡国の王子に愛を乞われる 下
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/08/29 |
内容紹介
立ち読み
プロローグ
深い眠りの底で、ヴァネッサは懐かしい夢を見た。
その夢の中で、ヴァネッサはまだ小さい。七歳の頃だろうか。
当時のヴァネッサは、家庭教師に文字を習いはじめていた。
ヴァネッサが最初に教師に教えてくれとせがんだのは「四十三」という番号の書き方だったのを覚えている。
すでに、ヴァネッサにとってはそのくらいガブリエルの存在が大きく、大切なものになっていたのだ。
「……どうしてまた唇が切れているの、四十三番?」
城の中庭にある薔(ば)薇(ら)園(えん)を散歩しながら、いつものように公女の一歩後ろを歩く奴隷騎士四十三番――ガブリエル――を振り返って、ヴァネッサは訊(たず)ねた。
唇の右端に、まだ血の色が残る傷が走っている。
「どうしてだろうな……。きっと不注意なんでしょうね、俺は」
ガブリエルはそんなふうに質問をかわした。
「もう、四十三番ってば。次は気をつけてね。また内緒でお薬を持ってきてあげるわ」
「ありがとうございます。でも、無理をする必要はありませんよ」
「大丈夫! ばあやってば、わたしが薬の棚を開けても、いつも気がつかないの。でも不思議ね。わたしと一緒にいるときに四十三番が転んだことなんて一度もないのに……」
多分、ヴァネッサが「ばあや」と呼んでいた養育係の初老の女性は、ヴァネッサが護衛の奴隷騎士のために薬草を失敬していたことに、しっかり気づいていた。しかし見て見ぬふりをしてくれていたのだろう。
それは、ヴィルヘルム二世大公――独裁者であるヴァネッサの父――に対する、静かな反抗だったのかもしれない。
暗示はあったのだ。
ヴァネッサがそれに気がつかなかっただけで。
「確かに、そうですね」
ガブリエルは穏やかに微笑んでくれた。
ヴァネッサを見つめるときにいつも浮かべる、優しげで、なにかの感情に溢(あふ)れた、あの熱い瞳で。
「あなたと一緒にいると、俺は迷いなく歩めるんです、姫。あなたは俺の……方位磁針のようなものだから」
「ほうい、じしん?」
「自分の向かっている方角を知るための道具です。今に家庭教師から習うでしょう」
「そ、そうかしら」
なんとなく、難しい単語を使ってくれたことが嬉しくて、ヴァネッサは頬(ほお)を赤らめた。まるで大人として扱われたような気がしたのだ。
足元の茂みには、開花期を迎えた薔薇が大輪の花を咲かせている。もったりと花首をもたげさせてしまうほど大きな薔薇は、甘い芳香を四方に放っていた。
そこに蜜蜂が集まっているのを見て、ヴァネッサはつぶやいた。
「じゃあ、その……ほういじしんっていうのは、薔薇の香りみたいなものなのね」
「はい?」
「ほら、ここにいる蜜蜂はみんな香りを頼りにして花に向かっているわ。薔薇の香りが、『ほういじしん』みたいに、蜜蜂に方角を教えてくれているんでしょう?」
痛々しい傷のある口元を緩めると、ガブリエルは声を上げて笑った。
ああ、そのガブリエルの笑顔が、どれだけヴァネッサの一日を明るいものにしてくれたか……きっとガブリエルには想像さえできないだろう。
「姫、あなたは賢い」
「どういうこと?」
「あなたが薔薇の香りのようなものであるというのは、確かだから」
七歳の少女が、憧れの男性からこんなことを言われて、ときめかないはずがない。
ヴァネッサはさらに赤らんでくる頬を隠すためにうつむき、薔薇の茂みに視線を移した。わずかなそよ風に乗った甘い香気が鼻腔をくすぐる。
いい匂い。
四十三番はヴァネッサのことを、こんなに心地いい香りと同等に感じてくれているのだ……。
「わ……わたしは薔薇の香りが好きよ。四十三番も、好き?」
それは幼いヴァネッサにとって、大きな勇気を要する小さな告白だった。
――わたしのこと、好き?
ガブリエルはそれに気づいてくれただろうか。彼は声を出して笑うのをやめると、代わりに優しげな微笑を浮かべて、答えた。
「もちろん好きですよ。甘くて、いつまでもそばにいたくなる」
ガブリエルはあくまで薔薇の香りについて言及したのであって、ヴァネッサについてではないはずだ。でも当時のヴァネッサにはそれで十分だった。
ガブリエルは、彼が好きなものとヴァネッサを似たようなものだと言ってくれた。つまり、好かれているとまでは断言できなくても、悪からず思ってくれていることだけは確かだ。
それが嬉しかった。
それだけで十分幸せになれた。
これが、まだ出会って間もなかった頃のふたりだ。
年月が経つにつれ、ヴァネッサの四十三番に対する気持ちはさらに強くなっていった。それは信頼でもあり、友情でもあり……もちろん恋でもあった。
ヴァネッサの自(うぬ)惚(ぼ)れでなければ、ガブリエルも彼女に対し、月日が経つほど深まるなんらかの形の愛情を育んでくれていたと思う。
それがただの同情や保護欲であっても、特別な絆を感じていてくれたはずだ。
ふたりは切っても切り離せない仲になっていた。
たとえ身分は天と地ほどに違っても。
そして十八歳の誕生日を目前にした春の終わり頃、ヴァネッサに縁談が転がり込んできた。
ヴァネッサの美貌の噂は大陸中に届いていたというのに、それまで彼女に正式な縁談が申し込まれたことはなかった。
おそらく、どの周辺国家もアルマベール公国が斜陽の運命にあるのを見抜いていたのだろう。だから公女であるヴァネッサと婚姻関係を結ぼうとする者はいなかった。そうでなければ、ヴィルヘルム二世大公がすべてを断ってきていたのかもしれない。
とにかく、ヴァネッサは父に呼び出され、四ヶ月後に輿(こし)入(い)れすることがすでに決定している、と告げられた。
「お前は今からちょうど四ヶ月後に相手の国に嫁ぐことになる……が、男児を身(み)籠(ごも)ればそれはわたしの跡取りとなる取り決めとした。いいか、アルマベール公国を継ぐ者を産むのだ、ヴァネッサ。それが女であるお前の仕事だ」
ヴァネッサは父の言葉に絶句した。
仕事……。
父が愛情深い人間だと思ったことはあまりなかった。それでも父のヴァネッサに対する歪(いびつ)な過保護さは、彼なりの不器用な愛の形なのだろうと信じていた。
母も兄弟姉妹もなかったヴァネッサは、そう思い込むことで、唯一の肉親からの愛情を確保したつもりでいたのだ。
その幻想は粉々に砕かれた。
ヴァネッサはただ、父の世継ぎを産むための道具に過ぎない。男児ではなかったヴァネッサは、父にとって落胆そのものだったのだ。
悲しかった。
でも、父親から愛情を否定された落胆さえも、四十三番以外の男性と結婚しなくてはならないショックに比べれば小さなものだった。
父から縁談の話を聞かされた日の宵、ヴァネッサはこっそりガブリエルが寝泊まりしている厩舎の隣に向かった。
どういうわけか、いつもそばにいてくれる彼が、その日に限って暇を出されていて会えなかったからだ。
ヴァネッサはすでに、こうやって何度かここをこっそり訪ねたことがある。
そのほとんどはもっと幼い頃のことだが、そのたびに「危ないから帰りなさい」とやんわり、しかし断定的に言い渡されてしまうので、しばらく近づいていなかった。どちらにしても朝になればずっと一緒にいられるのだ。
でも、結婚してしまったら、そうはいかない。
それは、雲のない夜空に下弦の三日月が浮く、静かな夜だった。
ヴァネッサは目立たないように黒のショールを被り、ガブリエルの部屋に唯一ある鉄格子がはめられたガラスさえない小さな窓から、そっと中を覗(のぞ)いた。
「四十三番? いるの……?」
明かりとなる蝋(ろう)燭(そく)さえない。
部屋と呼ぶにはあまりにも心許ない、独房のようななにもない空間で、かすかな月と星だけがふたりの光源だった。
「姫?」
ささやくような声が聞こえ、ガブリエルはすぐに窓の前に現れた。端整な彼の顔が鉄格子越しにヴァネッサと向き合う。
「ここにいては駄目ですよ。帰ってください」
ガブリエルは小さく忠告した。
いつもならガブリエルが罰を受けてしまうリスクを考えて、大人しく従っただろう。
でも、この日だけはそうはいかなかった。
ヴァネッサはガブリエルが好きで、ずっと恋をしていて、他の男と結婚などしたくないことをどうしても伝えたかった。……伝えたところで、一公国の公女と奴隷騎士がどうやって運命を変えられるかは、わからなかったけれど。でも。
「聞いて、四十三番。お父様が、わたしの結婚を勝手に決めてしまったの」
ヴァネッサは精一杯に爪先立ちして、鉄格子を両手で掴(つか)んでガブリエルに顔を近づけた。
三日月が降らせるささやかな月光など、ひとの顔を浮かび上がらせるには儚すぎたはずなのに、ヴァネッサは彼の苦しげな表情をはっきり見ることができた。
「知っています」
ガブリエルはささやいた。
「知っている? どうして? 今日、あなたは一緒にいなかったのに」
「ヴィルヘルム二世大公……あなたのお父上が、わざわざ俺に知らせにきましたから」
「お父様が?」
「俺は長い間、あの男が俺をあなたの護衛にしたのは、俺に屈辱を味わわせるためだけだと思っていた。でも違ったんだ。すべてはこの日のためだった……。俺の手に天国を与えておいて、それをもぎ取る残忍な遊び……」
ガブリエルが父のことを「あの男」などと呼ぶのははじめてだった。
それだけじゃない。いつもは冷静で抑制の利いた彼の声が、怒りに震えている。
こんなガブリエルの姿は見たことがなかった。
ガブリエルの大きな手が、鉄格子を掴むヴァネッサの指先を包むようにギュッと握った。
彼の顔が近づいてきて、ヴァネッサはそれに応えるようにさらに背を伸ばす。
「姫」
ガブリエルがヴァネッサを呼ぶと、彼の吐息が鼻先にかかった。
肉体はそのくらい近いのに、ふたりの身分は遠く隔てられている。このままではふたりの未来が交わることは……おそらく、ない。
「四十三番……好きよ。わたし、あなたのことが好き。あなたとずっと一緒にいたい。知らない国にお嫁になんて行きたくない」
ヴァネッサが我(わが)儘(まま)を言うと、固く引き結ばれていたガブリエルの口元がほんの少しだけ緩んだ。
彼はその茶色の瞳で、じっとヴァネッサの顔を見つめている。
「なにか言って……四十三番」
ヴァネッサの目に涙が溢れる。
――馬鹿な小娘。なにを期待していたんだろう?
ガブリエルが鉄格子を突き破ってヴァネッサを横抱きに奪い去り、どこか遠くへ駆け落ちしてくれること?
そうかもしれない。
父によって籠の鳥のように育てられたヴァネッサは世間知らずで、夢見がちで、現実をよくわかっていなかった。
「姫……。今の俺には、なにもできない」
外にいるはずの見張りに聞こえないように、そう小さくつぶやいた。それがガブリエルの答えだった。
自分の心が砕ける音が聞こえた気がした。
「四十三番……いや……」
「今の俺は、あなたになにも約束できません」
「や……約束なんていらないわ。わたしはただ……」
「四ヶ月後……。あなたの父上は、婚姻は四ヶ月後と言った。そうですね?」
「ええ……」
ガブリエルの真意がわからず、ただ言われるままにうなずく。ヴァネッサの指先を包むガブリエルの掌に、さらに力が入った。
「俺は……なにがあっても、あなたを守ります」
静かなガブリエルの声が、胸に切なく滲(し)み入る。
ヴァネッサの告白に、彼は答えてくれていない。あくまで護衛として、その義務を果たすと宣言しているだけだ。
溢れていた涙が頬を伝った。
「でも、お父様は、輿入れ先にあなたを連れて行ってはいけないと言ったわ。わたし達、離れ離れになってしまうのよ」
「……そうかもしれません」
あまりにもあっさりとガブリエルが告げるので、ヴァネッサは一瞬なにを言われたのかわからなくなった。わかりたくなかった、だけかもしれない。
「四十三番……」
「姫、よく聞いてください。そしてよく覚えておいてください。俺がここに留まっていたのは、あなたのそばにいるためです。これから先、なにが起きても、どう運命が巡っても……俺はあなたのために生きます。俺は永遠にあなたのものです」
「どう……どういう意味?」
「言葉通りの意味です。俺が今言ったことを心に留めておいてください。さあ、早く部屋に戻って」
そのとき、遠方から犬の遠吠えが聞こえた。
城壁内には不審者を見つけたら襲うように訓練された犬が放し飼いにされている。もしここで見つかりでもしたら、ヴァネッサだけでなくガブリエルも罰を受ける。
ヴァネッサは涙を呑んで鉄格子から手を離した。
――まだ明日がある。
ヴァネッサはそう思った。四ヶ月後には他国へお嫁に行かなければならない身かもしれないけれど、少なくともそれまでは、まだ四十三番と一緒にいられるはず……。
あと四ヶ月。
「四十三番、好きよ」
最後にそうつぶやいて、ヴァネッサは自室に向かって走った。
後ろは振り返らなかったけれど、ずっとガブリエルの視線を背中に感じていた。
(明日になったら、また四十三番と話さなくちゃ。それから、どうにか結婚を回避する方法を探して……)
その夜は眠れなかった。
でもまさか、その夜が、ガブリエル――四十三番の姿を見た最後の夜になるとは、思ってもいなかった。
次の朝、ガブリエルは失踪していたのだ。
第一章
白い朝日に瞼を照らされ、ヴァネッサは深い記憶の底から浮かび上がっていった。
ただの睡眠とは思えない深々とした眠りから覚めるその重い感覚を、ヴァネッサはすでに何度か経験している。
決まってガブリエルからの甘い口づけを受けたあとに起こるから、幸せや安堵のせいだと思っていたが……今度はなにか、違和感があった。
なぜなら、目を覚ましたヴァネッサがいたのは、またしても記憶にない新しい場所だったからだ。
(ここは……どこ……?)
ガブリエルと愛し合った森の奥の小屋ではなかった。
眠りに落ちる前にいた、バローに連れ去られた先の屋敷の部屋とも違う。
ヴァネッサはある寝台に寝かされていた。
四柱式の大きなその寝台には、頭上から四方にかけて厚い織り布が掛けられていたが、タッセルによって左右と足元は開かれていた。
頭が妙に重たい。
ヴァネッサは両手で顔を覆って首を振ると、なんとか体を起こした。
「ガブリエル……?」
胸元からはらりとシーツが落ちて、見覚えのない寝間着姿であることに気づく。レースやシルクがふんだんに使われていて、胸の下がリボンで絞られている上品なものだった。
(誰かに着替えさせられたの……?)
あの不自然な眠りに落ちる前、ヴァネッサはガブリエルと体を重ねた。
彼の熱い杭に貫かれて、彼から放たれる飛沫に体の奥を満たされて、ヴァネッサの迷いや不安は一時的に溶解していった。
でも……。
「ガブリエル、いないの? 誰か……返事をして」
ヴァネッサの声は広い空間に虚しく響いた。
不安になって寝台から下り、立ち上がって周囲を見回す。
まず頭上を見上げると、そこには息を呑むようなステンドグラスがはめ込まれた円形状の天井があった。まるで大聖堂のような高さを誇り、暁光を浴びて煌(きら)めいている。
床は磨き込まれ、上品な調度品が並んでいた。生まれ育ったアルマベール公国の城とはまた少し意匠の異なる、繊細なモザイクが表面に施された机や椅子、箪(たん)笥(す)が揃(そろ)えられている。
静粛な威厳のあるその内装が、どこかガブリエルを彷彿とさせる……。
ヴァネッサはゆっくりその空間を歩いた。静かに調度品を指でなぞっていると、部屋の入り口の扉がコンコンと上品に叩かれる。
「はい?」
警戒を込めた声でヴァネッサが聞くと、スッと静かに扉が開く。薄い茶色の髪をおさげにまとめたほっそりとした侍女姿の少女が、深々と一礼して部屋の中に入ってきた。
「まあ……誰?」
答えはない。
少女は、洗顔用の陶器のボウルが備えてある場所まで来ると、手にしていた水差しの水をなみなみとボウルに注ぐ。
そして、こちらに来てくださいとでも言うように、ヴァネッサに目配せをした。
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