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籠の鳥の公女は亡国の王子に愛を乞われる 上

泉野ジュール / 著
Ciel / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2025/07/25

内容紹介

俺が欲しいのはあなただけです。
「仰せのままに。俺だけの姫」ヴィオラが森の小屋で目覚めると、美貌の男性ガブリエルから怪我を手当てされていた。以前の記憶を失くしたヴィオラに、木こりだというガブリエルから「姫」と呼ばれ、彼の献身的な看病に心が揺れる。体は回復しても記憶は戻らず、そして気付いた。森の中にある、この小屋からは出る事が出来ないことに……。「この命ある限り、あなたをお守りする」ガブリエルの苦悩の貌で愛撫され、燃えるような熱い腕に翻弄され貫かれる――。純潔を散らされたヴィオラは、永遠にふたりきり愛しあえると喜びを感じるが、彼には何か秘密があるようで……。四十三と呼ばれるガブリエルと公女ヴィオラとの運命に導かれた溺愛。

立ち読み

   プロローグ


 どうしてこんなことになってしまったんだろう?

 夏の終わりを迎えた森は、すでに落ち葉が大地を覆い隠している。
 少女と呼ぶには少し大人になりすぎているかもしれない、でも、女と呼ぶにはまだ明らかに若すぎる黒髪の乙女が、日の落ちかけた薄暗い森を駆け抜けていた。
 焦れば焦るほど、幾層にも重なった乾いた葉が少女の足を滑らせた。でも止まるわけにはいかなくて、彼女はひたすらに走り続けた。
 遠くから悲鳴が聞こえる。
 もしくは、聞いたばかりの悲鳴が、耳から離れないだけかもしれない。
(とにかく今は逃げなくちゃ……逃げて、これからどうするべきか考えないと……)
 日没が近づいているのは、彼女にとって有利とも、不利ともいえた。
 きっと敵は彼女を見つけにくくなる。でも、自分の視界も限られていくのだから、あらゆる危険が増してくるのも明らかだった。
 サテン生地を表面に使った華奢な桃色の靴は、すでにあちこちが擦(す)り切れている。彼女が何度目かの転倒をすると、靴紐として使われていたリボンがプツリと切れた。
「そんな……」
 彼女は大地に膝をついたまま、震えた声を漏らした。
 しかし、自己憐憫に浸っている時間はない。敵はすぐそこまで迫っているはずだった。捕まってしまったらきっと……。
 目に溢(あふ)れる涙を服の袖で拭くと、彼女は立ち上がった。使い物にならなくなった靴を脱ぎ捨て、再び走り出す。
 いや、走り出そうとした。
 森全体を震わせるような爆音が背後から聞こえて、空気をつんざいた。
 彼女は背中に激しい衝撃を感じ、そのまま前のめりに倒れた。言葉にできないほどの痛みが襲ってきたのは、そのすぐ後だった。
「あ……う……」
 背中から腹部にかけてが、焼けるように痛む。
 ほのかに紅葉した葉っぱの絨(じゅう)毯(たん)にうつ伏せに倒れたまま、彼女は体の中から自分の命が消えていくのを感じた。
 どうして、という疑問は、もう意味をなさなくなっていて、彼女は考えることを放棄した。ただ、悲しくて寂しかった。
(お父様……)
 そして、幼い頃に彼女を守ってくれた優しい茶色の瞳を思い浮かべながら、重くなっていく目蓋をそっと閉じた。


   第一章


「動いてはだめですよ、姫。動かないで」
 そんな熱のこもった優しい声が聞こえてきて、自分が体を動かそうとしていたのに気がついた。途端に肌を切り裂かれるような痛みが腹部に走り、眉をひそめて歯を食いしばる。
「ん……」
「そう、落ち着いて……。ゆっくり息を吸って。無理はしないで」
 すぐに目を開くことはできなかった。
 でも、この声を知っていると思った。誰のものかは思い出せないけれど、何度も聞いたことのある声。
 彼女は小さな吐息を漏らし、開こうとしてもなかなか言うことを聞いてくれない目蓋を、ゆっくりと開いていった。
 優しい光が彼女の目に飛び込んでくる。
 歓迎すべきその柔らかな明かりも、そのときの彼女の目にはまだ刺激が強く、何度か瞬きを繰り返す必要があった。次第に慣れてきて、なんとかトロンと目を開く。
 まず視界に映ったのは見慣れない天井だった。
「ここ……は」
 声を出そうとすると、喉の奥と腹部がキリキリと痛んで息が詰まる。
 ……どうしてこんなに体が痛むんだろう?
 それだけじゃない。全身が熱くて、炎の中に放り込まれているみたいだ。喉の奥が痛いのは乾きからだと、それだけはなんとなく理解できた。
「み、水……を……」
 誰かはわからないけれど、さっきひとの声がした。
 だから彼女は、助けを求めて素直に自分の懇願を口にした。
 どうしてその声の主が彼女の願いを叶えてくれると確信があったのか、よく考えれば不思議だ。でも予想通り、彼女を「姫」と呼んだ人物はぬっと動いて、なにかを彼女の唇にあてがってくれた。
「どうかゆっくり飲んでください。慌てる必要はないから」
 口内を潤す冷たい水の恵みにうっとりとして、彼女はまた目を閉じた。だから、その人物の姿形をきちんと目視していない。
 でも男のひとだ。
 おそらく若くて背の高い、男のひと。
 なんとかひと口飲み込むと、彼女はどっと疲労を感じて頭の後ろに当てがわれた枕に深く沈んだ。
 どうしてこんなに疲れているんだろう……。
 それにこの、脇腹の辺りの焼けつくような痛みは、なに? どうしてこんなに頭が朦朧とするの……。
 でも、そんな疑問を口にするだけの力さえ湧かなくて、彼女は震える唇でささやいた。
「あり……がとう……」
 すぐに強烈な眠気が彼女を誘う。
 ちょっと気を緩めて意識を手放しただけで、彼女はまた深い眠りに落ちていった。
「俺に礼を言う必要などないんですよ、姫」
 少しかしこまった口調の低い声が、彼女の鼓膜に優しく響く。それを最後に、彼女の記憶はしばらく途切れた。

 それからどのくらいの時間が経ったのだろう。
 次に目を覚ましたとき、彼女が目にしたのは薄暗い部屋に灯る蝋(ろう)燭(そく)の光だった。
 夜だ。周囲は静かで、聞こえるのは時々ゼエゼエと鳴る自分の荒い呼吸と、火が燃えるパチパチという音だけ。
 彼女は何度か瞬きを繰り返して、置かれた状況を理解しようと思考を巡らせた。でも、頭の中に靄(もや)がかかったようにぼんやりとして、考えがまとまらない。
 ここはどこ……?
 腹部の痛みは治まるどころかさらに鋭いうずきを訴えている。全身を炙られているような熱も変わらない。痛みと熱。もしかしたら自分は怪我をして、それが化膿したか、感染するかしてしまったのかもしれない……。そのくらいの知識はあった。
 だとしたら、待っているのは死だ。
 恐怖に囚われ、彼女はパッと目を見開いた。
「だ……誰か……」
 それをつぶやくだけで、息が上がり額に脂汗が浮いた。
 不安に押し潰されそうになって必死に体を起こそうとするものの、やはり手も足も言うことを聞かない。絶望感に襲われて、彼女はひと粒涙をこぼした。
「ふ……っ」
 そのときだった。
「なにをしているのですか、姫? 動いては駄目だと、あれだけ何度も言ったのに……」
 すぐそばから一度耳にした男性の低い声が聞こえて、彼女は「あ……」と声を漏らした。
 ゆっくりと頭を動かし、声のした方に視線を向けると、とても美しい銀髪の男性がこちらを見つめていた。
 自分の見たものが信じられなくて、彼女は数回パチパチと瞬きを繰り返した。
 美しい……と表現していいのか……。
 肩より少し下まで伸びている銀の髪は、確かに美麗で、女性的でさえある。でもその男性の女性っぽさはそこで終わっていて、顔つきは息を呑むほどに雄々しかった。目元に影ができるほど彫りが深くて、高くて真っ直ぐな鼻筋に、肉感的で広い唇。
「あ……あなた……は」
 彼女はなんとか声を振り絞った。
 銀髪の男性はやんわりと、しかしちょっと困ったような顔で、微笑んだ。
「ああ……そうですね。あなたを助けたのが俺で……申し訳ない。しかし、あなたを看病できるのは今、俺だけなんですよ」
 まるで彼女を知っているような物言いだった。
 前回目を覚ましたときに、おそらくこのひとの声を聞いたという以外に、彼に関する記憶はひとつもないというのに。
 なにかがおかしい……。
 それにどこか、奇妙な感じがする。
 ――わたしはこのひとを知っているのだろうか? このひとは、わたしを知っているの?
 そのとき、意識の奥に火花のような煌(きら)めきが散った。おかしいのは、この男性を覚えていないということだけではない。
 ここがどこだかわからない。
 現在がいつなのかの想像もつかない。
 ここに来る前になにをしていたのか、思い出せない……。なにひとつ。
「あ……あなた、は……だれ……?」
 男性は軽く片眉を上げて彼女をじっと見つめた。その形のいい唇が固く引き結ばれる。
「なにかの冗談ですか?」
 ボソッとしたかすれた声で問われる。どこか彼女を責めるような響きを感じて、なにも言えなくなった。彼女が黙っていると、男性は軽く頭を振った。
「すまない。あなたが俺を遠ざけたがる理由はわかります。ただ、俺は言い訳をするつもりはない」
「あ……あの」
「あなたを失うわけにはいかなかった。たとえ恨まれるとわかっていても、こうする以外になかった。なぜなら――」
「待って……ください。待って。お願い……」
 横になっているのに目(め)眩(まい)を感じて、彼女は銀髪の男性に黙ってくれるよう頼んだ。彼が言っている情報を頭が処理しきれない。
 失う? 恨まれる? 遠ざけたがる理由? まったく理解が追いつかなくて、考えようとするだけでこめかみの辺りに鈍痛を感じた。
「あなたがそう望むなら」
 と、短く答えて、男性は口を閉じた。
 まるで、彼女の願いを叶えるのが、さも当然とでも言うように。まるで彼女の命令を聞くのが、彼の使命であるかのように。
 とはいえ、彼はこの場所から離れる気はさらさらないらしく、寝台の隣に膝をついたまま彼女の黒髪を優しく撫でた。
 黒髪……そう、彼女の髪色は黒なのだ。そんな事実が、なぜか新鮮な驚きをともなって心にすとんと落ちる。
 男性が沈黙すると、ふたりのいる部屋は静寂に包まれた。彼女は再び目を閉じて、どうして自分がここにいるのかを考えた。どうしてこんなに体が痛んで、どうして原因不明の頭痛がするのか。
 隣にいる彼に聞けば答えてくれるのかもしれない。でもきっと、その答えは彼女にとって喜ばしいものではないと――なぜかそんな気がして仕方なかった。
(もう駄目。これ以上なにも考えられない。疲れたわ……。少しだけ……静かに……)
 眠りたい。
 そう願って、彼女は再び夢路をたどった。

 そんなふうに現実と夢の間を何度も行き来しているうちに、彼女の体調は少しずつ回復していたらしかった。
 朦朧としていた意識が次第に明瞭になってきて、発熱による苦痛もだんだんと和らいでくる。自分の置かれた状況がわからなくても、これが良い兆候なのだろうということは、なんとなく察せられた。
「ん……」
 次にはっきりと目を覚ましたとき、彼女はゆっくり慎重に上半身を起こした。
 寝台に肘をついて、よろよろと頭部から胸部までを枕から浮かせる。
 また腹部に重い痛みが走ったが、それでも以前の激痛に比べれば、なんとか耐えられる程度のような気がした。彼女はギュッと目を閉じると歯を食いしばって、姿勢を正した。
「ふう……」
 苦しくないと言えば嘘になる。でも、久しぶりに体を起こせた感動は大きくて、安堵のため息を漏らした。
 部屋の全貌をゆっくりと見渡す。
 あまり飾り気のない質素な家だ。小屋と呼んでいいかもしれない。丸太を組んで造られた壁に、年季の入った板張りの床。暖炉だけが煉瓦で固められていて、煤(すす)けた薪(まき)がくべられているものの今は燃えていない。天井は屋根の鋭角が剥(む)き出しで、丸太の梁(はり)が縦横に張り巡らされているさまは興味深かった。
 部屋の端には木製の食卓があり、ひとが使った形跡がある。
「あの……誰かいませんか……?」
 彼女はすぐ、前に目を覚ましたときに顔を合わせた美しい銀髪の男性を思い出した。彼以外は誰も思い出せなかった。
 誰も……なにも。
 しばらく待っても答える声はなく、静寂だけが返ってくる。すぐに不安が深まって、彼女はもう一度「誰かここにいませんか?」と声を出した。
 またしても静寂。
 もしかしたら……あの銀髪の男性はいなくなってしまったのだろうか?
 右も左もわからない場所で、やっと上半身が起こせたばかりだというのに、自分はこれからひとりで身の振り方を考えなくてはいけないなんて……。
 もちろん、あの男性に甘え切るわけにはいかないけれど、せめてここがどこなのか……彼女が何者なのか、教えて欲しかった。
(わたしが何者なのか、教えて……。え……?)
 そのときやっと、頭に落雷を受けたような衝撃をもって、彼女は気がついた。
(わたし、誰……? どうしてなにも……思い出せないの?)
 おかしい。そんなはずはない。何度か目を覚まして、あの銀髪の男性の低い声を聞いたのを覚えている。彼は彼女を姫と呼んだ。姫。なぜなら……。
 なぜなら……?
「そんな……」
 思い出せない。
 彼女の記憶は、痛みと熱の中で銀髪の男性と短い会話をしたところで、綺麗に途切れてしまっていた。それ以外……それ以前が、なにひとつ思い出せない。
 唯一の記憶である銀髪の男性も、今はいない。
 彼女はひとりぼっちだった。
 せめて小屋の周りの状況を知りたくて、首を伸ばして部屋の向かいにある窓から外を覗(のぞ)いた。すると大きな人影がすっと外を横切る。
 逆光で顔までは見えないが、確かに人間の影だ。彼女は藁(わら)にもすがる思いで叫んだ。
「そこの誰か……! 待ってください! お願い……行かないで! 助けて!」
 久しぶりに大きな声を出したせいか、喉の奥がヒリヒリと痛む。出た声はかすれていて、彼女の叫びが聞こえたかどうかはわからない。
 でも、小屋の扉がガタガタと音を立てて、取っ手が回るとすぐに開いた。
 現れたのは、あの銀髪の男性だった。
「あ……」
「姫……いったいどうしたんですか」
 その低い声を再び耳にしただけで、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
 まだ数回聞いたことがあるだけにもかかわらず、懐かしささえ感じる声だった。彼は前回下ろしていた銀髪を後ろに結っていて、それが男らしい輪郭をさらに際立ったものにさせていた。なにかがいっぱいに入った木籠を腕に抱えている。
「ここにいたんですね……。よかった」
「いるに決まっているでしょう。俺があなたのそばを離れるなど――」
 と言って、彼は一瞬言葉の選択に詰まった。
「……本当にどうしようもない理由がないかぎり、ありえない」
 彼は無造作に木籠を食卓に置くと、真っ直ぐ彼女のそばにやってくる。木籠には食料が入っているのか、食欲をそそる香りがふんわりと立ち上っていた。
「そう、なのですか」
 他に答えようがなくて、そうささやいた。彼はわずかに陰のある切ない微笑を浮かべた。
「そうです。信じてもらえたら嬉しい」
 なにがどうなっているんだろう。
 すぐに事情を説明するべきだろうか? でも、自分の名前さえ思い出せないなどと言ったら彼を怖がらせて、今度こそ本当にいなくなってしまうのではないだろうか? 今の彼女には彼だけが頼りなのに……。
「あなたがそう仰(おっしゃ)るなら、もちろん信じます。でも……」
 彼女がまごついていると、銀髪の男性は寝台のそばにさっと片膝をついた。
 まるで騎士のような動きだった――少なくとも彼女は、騎士がどんな動きをするのか覚えている。
 寝台で上半身を起こしている彼女が、彼を見下ろす体勢になった。
 鈍い輝きを放つ銀髪に目を奪われて気づかなかったが、彼の瞳は優しい茶色をしていた。どちらかというともっと肌色の濃いひとに多い目の色だが、そのミスマッチさが彼にミステリアスな印象を与えている。
 どれだけ控えめに言っても、魅惑的なひとだ。
 こんなひとがなぜ彼女を「姫」と呼び、他にひと気のない質素な小屋でふたりきり、彼女を甲斐甲斐しく看病してくれているのか……。
 それになぜ、彼はいつも敬語を使うのだろう。
「でも?」
 優しい声で問われる。
「でも、あなたは、どうしてここにいるのですか? ほかに行く場所があるのではないですか? ここは……その、寂れた場所ですし……」
 と言ってしまってから、もしかしたらここが彼の家であるかもしれない可能性に気がついた。自分は怪我を負ってひとの家に転がり込んで看病までしてもらった挙句、寂れた場所だなどと言ってしまったことになる。
 途中で言いよどんだ彼女の顔を、彼はじっと探るように見つめていた。
「辛辣ですね……。もちろん、あなたにそうとられても仕方のないことをしたのは、わかっています」
 辛辣……。やはり彼女は失言をしたのだ。毛布をギュッと握り、なにをどう説明するべきか悩んだ。
「ご……ごめんなさい。そういう意味ではないんです。ここに置いてくださって感謝しています」
 男性の茶色の目が疑わしげに細められる。彼女はますます強く毛布を握り、思い出せない答えを必死で探したが、やはりなにも浮かばない。
 すると、手の甲に男性の大きな手が重なった。最初は触れるか触れないかのかすかな接触だったが、彼女が抵抗しないのを見ると、男性はギュッと彼女の手を包んだ。
「あなたがなぜ、俺に敬語を使うんです?」
 咎(とが)められているとは思わなかったが、それでも穏やかではない口調でそう問われる。
「だって……失礼をするわけには……」
 確かに彼の服装は簡素で、身分の高い者の装いではない。とはいえ自分自身の身分がわからないのだから、どちらが上だとか下だとかいう想像はつかない。そもそも自分の年齢さえ知らないのだ。
「俺のことを、王子だと思う必要はないんですよ」
 銀髪の男性は静かに告げた。
「王子……」
 血の気が引くのを感じる。「姫」に続いて「王子」?
 いったい自分は、どんな記憶を忘却の彼方に置いてきてしまったのだろう……?
「あなたにとって、俺はいつまでも四十三です。それでいい。あなたが許してくれるなら、ずっと変わらずにあなたに尽くすつもりでいる」
 もう、なにもかもがわからなくなった。
 四十三。彼は四十三歳なのだろうか? もっと若く見える。もちろん少年ではないし、青年と呼ぶにも少し貫禄がありすぎるかもしれない。二十代後半くらい……もしかしたら三十になったばかり。それが彼女の目に映る彼だった。
 でもなぜ、「いつまでも」?
 自分は、この魅惑的な男性と深い関係だったのだろうか……。それとも家族だったりするのだろうか? 見えないだけで、自分も彼に似た顔つきをしていたりするのかもしれない……。
「あなたの名前を教えてください」
 思わずささやいていた。
 もうこれ以上、記憶がないことを隠し通せるとは思えなかったからだ。きっと怪訝な顔をされると思ったのに、男性は小さくうなずいて表情を引き締めた。
「ガブリエルです」
 という短い答えが返ってきて、彼女に重なった手に、さらに力が込められた。
「ガブリエル……。素敵な名前ですね」
「ありがとう。もちろん、今まで通り四十三でかまいませんよ。あなたを従わせるつもりではない。それだけは知っていて欲しい」
 ――またしても四十三。
 どうしてこのひとは、この数字にこだわるんだろう。彼女が彼の名前を知らないことを、彼は疑問に思わなかった。つまりふたりは家族でも恋人でもない。それにガブリエルはなぜか彼女に敬語を使う。
 彼女はガブリエルの名前を知らなかったのに、ふたりの間にはなにか強い絆があったかもしれないなんて……ありえるだろうか。
「ガブリエル、あなたは……わたしの名前をご存知なんですか?」
 結局、好奇心がすべてに勝って、彼女はそう聞いていた。彼の名前を尋ねたときはまったく動じなかったのに、ガブリエルは怪訝そうに眉間に皺を寄せる。
「どういう意味ですか?」
 口調こそ穏やかだが、ガブリエルの瞳にはあきらかな苛立ちが浮かんでいた。確かにこんな奇妙な質問をされたら、きっと誰でも苛立つだろう。
 だから彼女は彼の鋭い視線を受けてうなだれ、つぶやいた。
「言葉通りの意味です。わたしは……自分の名前を知りたいんです」
「姫……俺はどんな叱責でも受けとめるつもりでいた。しかしこんなくだらない駆け引きはしたくない」
「わたしもできるならこんな質問はしたくありません。でも、ここにはあなたしかいないし、わたしは……自分の名前が思い出せないんです」
 しばらくうつむいていると、重ねられていた彼の手が、そっと彼女の手から離れた。
「本当ですか?」
 ガブリエルの声は、覚悟していたよりもずっと穏やかで優しかった。だから彼女は恐る恐る顔を上げた。
 なぜかガブリエルは静かに微笑んでいて、ほっと安堵を感じてうなずく。
「本当です」
「いつから?」
「おそらく数日前に……。前に目を覚ましてあなたと話したときのことは、覚えています。でもそれ以前がなにも思い出せないんです」


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