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親友の恋愛騒動に巻き込まれた私の恋の話。

ユキミ / 著
篁ふみ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2025/06/27

電子配信書店

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内容紹介

ここまで溺れるなんて思わなかった
幼い頃に両親を失った佐伯梓は、慎ましくも一人で堅実に生活していた。ある日、親友の起こしたトラブルによって、紳士的で美しいがどこか謎めいた男・高宮と出会う。そんな中、毅然とした態度で親友のピンチを助けた梓を気に入ったと、高宮はいきなり交際を申し込んできて!? 揶揄われているだけだと思う梓だが、それを知った高宮は…「あなたに誤解されて私は深く傷ついています――どう落とし前をつけていただけますか?」強かで何枚も上手な高宮に、初心な梓はあっという間に囲い込まれてしまって…。余裕たっぷりな大人の男の執着心は想像以上です!?

立ち読み

 週の真ん中、水曜日。この日もいつも通りの日常が始まるはずだった。
 なのに、この状況は一体なんなのだろう。
「おはようございます。朝早くから突然押しかけて申し訳ございません」
 申し訳ないと思っているのが全く伝わってこない穏やかな微笑みと淀みない口調。佐(さ)伯(えき)梓(あずさ)は考えることを一瞬放棄して、自分とは全く縁のない世界に住んでいそうな、高級スーツを隙なく着こなした美形を呆然と見上げた。

 ◇◆◇

 梓はいつも通り朝の六時半に起きて、お弁当作りに取り掛かった。おかずは昨日の夜ごはんに作った野菜炒めの残りだけ。贅沢はできないし、少食なのでこれで充分だ。
 テーブルの上に本日の朝ごはんである食パン一枚と、コップ一杯の牛乳を置いて正座すると、手を合わせる。
「いただきます」
 一日経ってもふわふわ食感の食パンは、ほんのり甘くてとてもおいしい。パン屋の販売員として働いているおかげで、たまに売れ残りをもらえたりするので助かっている。
「ごちそうさまでした」
 手を合わせる。さて、次はパジャマ代わりにしているよれよれのスウェットから、通勤用の服装に着替えようかと立ち上がったところで、カンカンッとすごい勢いで誰かが階段をあがってくる音が響いた。
 梓が住んでいるのは、二階建ての年季の入ったアパートだ。1Kで、風呂は無い。だけどトイレがあるだけ満足しているし、階段が錆(さ)びていようと窓ガラスにヒビが入っていようと、雨風をしのげるのだから特に問題はない。
 こんな朝早くに元気な人だなぁ、と梓は呑(のん)気(き)に思った。まだ七時を少し回ったところだ。出勤など、人が動きだす時間ではあるが、それにしても朝からこれだけ活発なんて、どんなテンションの持ち主だろうか。
 まぁ、自分には関係ないか、と他人事のような感想を抱いたところで、玄関ドアがドンドンと激しく叩かれた。ギョッとしてすぐ、悲鳴にも似た声。
「梓! いるんでしょ!? 開けて!」
「え、由(ゆ)梨(り)?」
 聞き覚えのある声に、梓は驚いた。慌てて玄関に向かい、といってもたった数歩の距離なのですぐに辿(たど)り着き、ドアを開ける。途端に、ものすごい勢いで抱きつかれた。
「梓ぁぁ! もう駄目、私はもう終わりよ!」
「えぇ? ちょっと、なに、どうしたの?」
 百五十六センチの梓より十センチ近く高い人間に思い切り抱きつかれ、梓はよろめいた。
「どうしよう! どうすればいいの!」
 なにがなんだかわからないが、親友の新(にい)倉(くら)由梨が最大級のパニックに陥っていることだけはわかる。
 梓は開けっ放しだったドアを、由梨に抱きつかれた体勢のまま腕を伸ばして閉めると、由梨の背中をさすった。
「由梨、大丈夫だから落ち着いて。ね?」
 しばらく優しくゆっくり撫でていると、どうやら少し冷静になってきたようだ。そのタイミングで靴を脱ぐよう促し、狭いキッチンスペースを突っ切り、簡易ベッドと丸テーブルしか置かれていない居室へと由梨の手を引く。
 由梨はベッドにポスンと力無く座った。梓は由梨の隣に座り、ゆっくり背中を撫でる。背中までのゆるくパーマのかかったふわふわの髪と、切れ長の整った目。美人で手足が長くスタイルのいい由梨は、梓の密(ひそ)かな憧れでもある。眼鏡をかけ、肩より少し長い真っ黒の髪を首の後ろで一つ結びにしているだけの、絵に描いたように地味な自分とは違う。由梨は一見すると気が強くわがままに見られがちだが、とても心根の優しい子であることは、親友である梓が一番知っている。
「なにがあったの?」
 幼子を相手にするようにことさら優しく問いかけると、由梨がこの世の終わりのように呟(つぶや)いた。
「私、殺されるかも……」
「え!?」
 不穏すぎる言葉に、梓は仰天する。ただの大学生にすぎない由梨の口から、なぜそんな物騒な言葉が出てくるのか。
 ゆっくりでいいからなにがあったか話すように促すと、由梨はぽつぽつと説明しだした。
 由梨は今日、いつもより早く目が覚めたという。カーテンを開けると、外は早朝の静けさに包まれ、七階のマンションから眺める住宅街に人(ひと)気(け)はない。由梨は朝の空気を吸い込もうと、窓を開けた。すると、眼下に見える駐車場の、通りを挟んだ向かい側の空き店舗の前に、黒塗りの高級車がとまっていたという。去年までお洒落なカフェがあり、気に入っていたのに残念ながら閉店してしまいショックを受けていたらしい。それからずっと空き店舗になっていたのだが、そんなところに車がとまっていたので由梨は不審に思って何とはなしに見ていた。すると、空き店舗の中から数人の人影が出てきた。全員スーツ姿で、どこか重々しい雰囲気が早朝の住宅街には明らかに浮いている。一体なんなのだろうと首をかしげていると、さらに不思議な光景が目に入った。スーツ集団の死角になる曲がり角のところ、由梨にとっては丸見えな場所から、一人の男がスーツ集団を遠巻きにじっと見ているのだ。由梨はなんだか目が離せず、ただ様子を窺(うかが)っていると、男は懐からおもむろになにかを取りだし、構えた。それがなにか、由梨にもわかった。テレビや映画でしか見たことのない、拳銃だった。
「け、拳銃!?」
「しー!」
 黙って話を聞いていたのだが、思わず声を出してしまった梓の口を、由梨が血相を変えて両手で塞ぐ。梓はもごもごとごめん、と謝った。
 由梨は続ける。
 銃口はスーツ集団に向けられている。一(いっ)行(こう)は気づいていない。やばい、このままだと目の前で殺人事件が――。由梨は咄(とっ)嗟(さ)に、叫んだ。
 伏せて! と。
 静かな早朝の住宅街に、その声はきれいに響いた。男たちはすぐに反応した。まず、スーツ集団は一人の男を庇(かば)うようにしながら車の陰に誘導し、残りが盾になるように立ちはだかる。拳銃を構えていた男はハッと由梨の方を見て、顔を歪ませると、由梨から目を逸らし、建物の陰から飛びだしてスーツ集団に向かって走りだした。もちろん、手には拳銃を構えたまま。
 おそらく、何発か撃った。だが、映画やドラマで見るようなサイレンサーでもつけているのか、発砲音は由梨のところまで届かなかった。
 走りながらで狙いが定めづらかったのか、男の腕が悪いのか。弾は命中することなく、誰かが投げつけたなにかが男の手首にあたり拳銃が弾き落とされた。一斉に取り囲まれる銃撃犯。己の終わりを悟ったのか、絶望したようにへたりこんだ男に、護衛さながらに俊敏に対応したスーツ集団の中の一人が一歩近づき、地面に転がった拳銃を拾いあげる。そしてなんのためらいもなく引き金を、引いた。瞬間、銃撃犯は後ろに倒れた。
 任侠映画のワンシーンのような一連の流れを、由梨はただ呆然と見ていた。魂が抜きとられたように、ただ呆然と。
 そして、目が合ったのだ。銃撃犯が狙っていただろう人物。スーツ集団が身体を張って守ろうとしていた男と。
 鋭い視線に射(い)貫(ぬ)かれた瞬間、悟った。これはやばい、と。
 由梨は勢いよく窓を閉めた。麻痺していた恐怖がじわじわ湧いてきて、その足で梓のところまで逃げこんできた、ということらしい。
 梓は言葉をなくした。
 以前から由梨は、感情のまま行動することが多かった。後先を考えないのだ。瞬間的に思ったことを口にしたり実行に移したりする。そのせいで周りと衝突したり、思わぬトラブルに巻き込まれたり。由梨も都度、一応反省はする。だけどなおらない。だから由梨を煙たがる人間もいるが、打算や計算はなく純粋な気持ちからくるものだから、由梨は多くの人に好かれるし、梓だってそんな由梨が大好きなのだが……。
 話を聞く限り、今回はちょっと状況が深刻だ。どうするべきか、梓は頭を抱えた。
「あのね、由梨。お願いだから危ないことに首を突っ込まないで」
 とりあえず今後、由梨がまた無謀なことをしないように諭(さと)すと、由梨は涙目で訴えてくる。
「だ、だって、目の前で殺人事件とか、後味悪すぎるんだもん!」
 もん、じゃないでしょ、と口を開こうとしたときだった。コンコン、と玄関ドアがノックされた。梓と由梨の肩が、大げさなほどびくりと震える。
 チャイムは壊れていて、部屋を訪ねるときはドアをノックするしかない。今の音は階下でも隣でもなく、間違いなく梓の部屋のドアの外から聞こえた。
 息を殺す。そしてまた、ノック音。
 こんな朝っぱらから訪ねてくるような知り合いは、由梨以外、梓にはいない。なんだか嫌な予感というか、本能的になにかを察知したのは由梨も同じのようで、立ち上がった梓の服を咄嗟に掴(つか)んでくる。
「あ、梓……」
 出るの? と今にも泣きだしそうな不安な目で見上げられ、梓は困った顔をする。
「出ないわけにはいかないよ」
 誰かが梓に――いや、正確には梓ではないかもしれないが、この部屋の中にいる人物に用事があるのだ。出てくるまで帰らないと圧をかけるようにさらにノックされたことで、居留守なんて通用しないと悟る。
 梓は息を大きく吐き呼吸を整えると、玄関に向かいドアを開けた。
 ドアの向こうには、一人の男性が立っていた。百八十センチを軽く超える長身に、隙なく着こなされた高級そうなスーツ。歳は三十代前半くらいだろうか。身長差から必然的に見下ろされているかたちになるのに威圧感がないのは、ほんのりとナチュラルブラウンの柔らかそうな髪質や、色素の薄い茶色の瞳、そして穏やかに口角を上げるさまが全体的に柔和な印象を与えるせいかもしれない。まるで漫画から飛びだしてきたような、少し甘めの整った顔立ちをしている。
「おはようございます。朝早くから突然押しかけて申し訳ございません」
 優しく落ち着いた声と、謝罪には不釣り合いなほど優雅な笑みのせいで、男性が本当に悪いと思っているわけではないことだけは理解した。
「……おはよう、ございます」
 状況はまだ把握していないが、突然現れた見知らぬ男性に気(け)圧(お)され放棄していた思考を無理やり呼び戻し、反射的に挨拶を返す。
 梓の背後から、ひっと息を呑む音が聞こえた。どうやら由梨が、居室から顔だけ覗かせて玄関の様子を窺っていたようだ。
 梓の部屋の間取りは、玄関ドアを開けてすぐにキッチンスペース、そして磨(す)りガラスの引き戸で仕切られた居室だけなので、引き戸を開けっ放しにしていれば部屋の様子はほとんど玄関から丸見えなのだ。
「おはようございます」
 由梨の姿を見て、男性は微笑む。大抵の女性は頬を染めそうな魅力的な笑顔のはずなのに、由梨の顔色は青くなるばかりだ。
「由梨?」
 首をかしげると、由梨はおずおずと近づいてきて、梓を盾にするようにぴたりと背中に張りついてきた。震える声で訴えてくる。
「こ、この人、さっき説明した現場にいた人。し、しかも、落ちた拳銃拾い上げて、ぶっ放した人」
「……えっ」
 梓は絶句した。由梨から聞かされた任侠映画さながらのワンシーンを繰り広げた人物が、今、目の前にいる。なんのためらいもなく、人に銃口を向けた人物が。
 ――この、穏やかに微笑む人が?
 にわかには信じられず、梓はこっそりと尋ねる。
「由梨の勘違いじゃなくて?」
 由梨はぶんぶんと首を横に振る。
「私の視力の良さ知ってるでしょ!」
 小声で怒られ、確かに、と頷(うなず)く。由梨は人で溢(あふ)れかえっている街中でも、はぐれた人間をすぐに見つけだすことができるのだ。
 ひそひそとやりとりする二人をしばらく微笑ましげに眺めていた男性が、会話の切れ目を待っていたように口を開いた。
「お忙しいところ恐れ入ります。少しお時間をいただきたいのですがよろしいでしょうか」
 梓は、じっと目の前の男性を見つめた。見れば見るほど整った顔をしている。滲(にじ)みでる空気がエリート然としていて圧倒される。
「お、お名前を伺ってもよろしいでしょうか。名刺があれば、いただきたいのですが」
 由梨の話が本当なら、とても怖い。だが、実際に自分の目でそんな場面を見ていないから現実味がないのか、にっこりと微笑みを絶やさない男性に警戒心がそがれるのか。どちらにせよ、梓より動揺している由梨のおかげで、逆に冷静になれた。目の前の男性は一体何者で、自分たちにどんな用事があるのか。自分がしっかりしなくてはと気持ちが引き締まる。
 梓の要求に、男性は軽く目を瞠(みは)った。しかしまたすぐに笑顔を貼り付け、頷いた。
「大変失礼いたしました。私、こういう者です」
 男性が流れるように丁寧な仕草で差しだした名刺をおずおずと受け取る。由梨と二人で覗きこむと、そこには男性の名前と、彼がとある会社の社長室長だと明記されている。名刺には他にも会社ホームページのURLなどもきちんと記載されていた。
「高(たか)宮(みや)、理(り)人(ひと)、さん」
「はい」
 名前を確認するように呟くと、男性――高宮は微笑みながら頷いた。
「あ、あの」
 差し出された名刺の内容やスーツを着た品のいい雰囲気で判断する限り、民間企業に勤める一般のサラリーマンだ。とても由梨から聞いた非日常なワンシーンの只(ただ)中(なか)にいた人物だとは思えない。だけど由梨が嘘をつくわけもないし――。
「失礼ですが、もしかして、あの」
 ヤのつく職業の方ですか、と喉まで出かかっているが、まさかそのまま疑問をぶつけるわけにもいかない。違った場合失礼だし、肯定されたとしてもどうすればいいのか。
 頭の中でぐるぐる悩み、今にも脳がショート寸前になっていると、頭上から微(かす)かな笑い声が聞こえた。見上げると、高宮がおかしそうに微笑んでいる。
「あの……」
「失礼。とても頭がよく、しっかりした方なんだと思いまして」
 褒められているのだろうか。とりあえず「はぁ……」と曖昧な返事をする。
「ご心配には及びません。あなた方が想像されているような職業と、我々は無縁ですよ」
 高宮が説明するには、彼はレストランやカフェ、バーなどの飲食店を幅広く経営する会社社長の秘書のような仕事をしているらしい。その会社はここ数年、ブライダル事業やホテル事業にも参入しているとのことで、最近オープンしたレストランの名前を教えてもらったが、流行に疎(うと)い梓にはわからなかった。だが現役女子大生の由梨は反応を示した。どうやら人気店らしい。女性ファッション誌などでも取り上げられたりしたようで、なかなか予約も取れないと。会社は日本国内にもいくつか支店があり、海外進出もしており、梓が想像したよりも大きくちゃんとした立派な企業のようだ。
 だとしたら、尚(なお)更(さら)疑問を抱く。
 なぜ、そんな企業の人たちが、恐ろしいワンシーンを繰り広げることになったのか。
 梓の考えていることなんて、聡明そうな男には手に取るようにわかるのか、淀みなく教えてくれる。まるであらかじめ用意していたセリフを読むように。
「成長を続ける会社というのは、風当たりも強くなるものです。我々の存在を快く思わない者がいるのは避けようもない事実。出る杭が打たれるのはしかたがありません」
「……つまり、あなた方をやっかむ人から襲撃をうけたと」
 高宮はテストで満点だった生徒を褒めるように満足げに微笑んだ。
「その通りです。もちろん、我々も不穏な動きがあることは把握していましたし、用心していました」
 新店舗候補地の確認のため、社長自ら今朝はあの場所にいた。スケジュールの関係で時間を割けたのがあのタイミングしかなく、用心を重ね警護の人間で周りをしっかり固めていた。
 しかし懸念していたことは現実となり、人通りの少ない今が好機とばかりに相手側に襲われた、と。
 ――そんな穏やかに言うようなことなのかな。
 一連の流れを、まるでレストランのメニューを読み上げるように爽やかに言い切った高宮に口の端がひくつく。
 しかも一般企業の社長が銃撃されるなんて、説明の内容もいまいち現実味がなく、鵜(う)呑みにしていいのか微妙だ。
 なんだか不気味だ。ここにきて、梓はようやく由梨の怯(おび)えが伝染したみたいに軽く指先が震えた。ギュッと握りしめることでなんとか隠した、そのときだった。
「……長い」
 低く響く声と同時に、高宮の横に別の人物がぬっと現れた。
 高宮と同じくらいの年齢、身長に、隙なく着こなしたスーツ姿。ただ、穏やかな雰囲気で微笑みを絶やさない高宮とは対照的に、表情がない。漆黒の瞳に艶(つや)やかな黒髪、言葉にならないくらい整った容貌をしていた。冷え冷えとした双(そう)眸(ぼう)で見つめられたら、多くの人間はその場から動けなくなってしまうだろう。まさに視線一つで人を操り動かすことのできる、王者の風格が滲みでていた。
「社長。話がまとまるまで待っていてくださいとお願いしたはずですが」
 圧倒的な存在感に言葉を失う梓や由梨とは違い、高宮はごく自然な態度で話しかける。
「お前の話が長いからだ。いつまで経っても進まない」
「そんなことをおっしゃいますが、最低限の説明もしないでこちらの方々にご納得していただけると思っていらっしゃるんですか?」
 こちらの方々、と水を向けられ、梓と由梨の肩が震える。だが、梓はまだマシかもしれない。男性の視線は梓を飛び越え、梓の背中に貼りつく由梨へと一直線に向けられているのだから。
「……さっきは助かった」
「ひ!」
 声をかけられ、由梨の喉から悲鳴が漏れる。怖(おじ)気(け)づくのはわかるが、悲鳴はないだろうと梓は内心ひやひやする。
「社長、まずは名乗るのが社会人としての常識ですがお忘れですか?」
 自身も梓に促され名刺を渡したことは微(み)塵(じん)も態度に出さず、高宮はしれっと言った。慇(いん)懃(ぎん)な口調だが、そこはかとなく砕けた様子が二人の間に漂っている。男性は少し鬱陶しげに高宮を一(いち)瞥(べつ)したが、指摘された通りいささかぞんざいな仕草で名刺を差しだしてきた。
 前面に押しだされている梓が、しかたなく受け取る。
「西(さい)条(じょう)、雪(ゆき)哉(や)、さん」
 肩書きは、社長となっている。つまり二人は社長とその部下、という関係で、由梨が目撃したあの現場で全員が守ろうとし、由梨と目が合った人物が西条なのだろう。
 なるほど、この眼差しに射貫かれたのなら、本能的に危険を察知して逃げだした由梨の気持ちはわかる。
「先ほども申し上げた通り、我々も用心に用心を重ねていたのですが、今回は危うく一大事になるところでした」
 もちろん、どんな状況でも社長にかすり傷一つ負わせるつもりはありませんでしたが、と言って高宮は続ける。
「しかし、こちら側に誰一人怪我人を出すことなく穏便に事を済ませられたのは、そちらの……新倉由梨さんのおかげです」
「……っ」
 まだ名乗ってもいないのに名前を言い当てられ、由梨の震えが伝わってきた。どうやら由梨が現場を目撃し、ここに駆け込んでくるまでの短時間で、ある程度の個人情報は調べられてしまったようだと察する。まるで逃げ道はないと宣言するかのように。
「そこで、ここからが本題なのですが」
 梓たちが冷や汗をかいていることなどお構いなしに、高宮は微笑みを浮かべたまま言った。
「是非ともお礼をしたいと社長が申しておりまして。まずはお食事にご招待したいのですが、いつお時間をいただけますでしょうか」
 由梨はなにも言っていないのに、招待を受け入れること前提で話が進められている。
 唖然とする梓の手を由梨がギュッと握りしめてくる。突発的な行動力はあるし、追い詰められたときの根性のすわり方はすごいのだが、我に返るとそこまで大胆になれない由梨は、わけのわからない展開に完全に混乱の境地に陥っている。これではまともな話し合いなどできないだろうと、代わりに梓が口を開く。
「……お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします。そちらさまは大変お忙しいでしょうし、時間を割いていただくのは申し訳ないので、どうぞお気になさらず」
 背後から由梨が同調するようにこくこくと首を縦に振る。しかし高宮の笑顔は揺らがない。
「いえ、どうぞご遠慮なさらないでください。社長はいたく感謝しております。新倉さんの勇気や行動力に、感銘を受けたと。私も同意見です。いまどき、あの状況を目にして咄嗟に反応できるほど度胸がある女性は、そうそうお目にかかれませんから」
 どうです、大学卒業後は是非弊社に就職されませんか。冗談なのか本気なのか反応に困ることを言う高宮に、梓も負けない。親友を守る。なんだか意地になってきた。
「本当に、お気持ちだけで結構ですので。それに、もしかしたら私たちのことを警戒してお礼なんておっしゃっているのかもしれませんが、ご心配なさらなくても、今回のことは誰にも言いません。ね、由梨」
 由梨はこくこくと頷く。
 今は個人が簡単に情報を発信できる時代だ。拳銃で銃撃されるなんて異様な事態を、警察に通報、もしくはネットで拡散でもされたら厄介なことになるだろうし、会社の経営にも関わってくるかもしれない。口止め目的で乗り込んできたのなら、その必要はないとわかってもらわなければ。
 梓も由梨も、なにも見なかったことにして普通の生活を送りたいだけなのだから。
 ところが高宮は芝居がかったように、警戒なんてとんでもない、と返してくる。
「誰彼構わず吹聴するような浅(せん)慮(りょ)な方々だとは我々は微塵も思っておりません。もし万が一そのような事態になった場合は、適正に処理させていただくだけですので。今回はただ純粋にお礼がしたいのです」
「……」
 処理、という単語に不穏な響きを感じ一瞬背筋がひやりとしたが、深く考えないことにする。えーと、と気を取り直す。
「でもですね、先ほど高宮、さんがおっしゃった通り、由梨が行動しなくても別に問題なかったんですよね?」
 隙のない二人の雰囲気から推測することができる。おそらく失態なんてそうそう演じないだろうし、社長にかすり傷一つ負わせるつもりはなかったとの言葉通り、由梨の助けがなかったとしても対応していたはずだ。この二人はきっと、不測の事態が起こっても動じることなく対処する。
 由梨の話が本当なら、高宮は犯人に向かって迷うことなく引き金を引いたというし……。
 ちらり、と高宮に視線を送った梓の瞳に、自分に向けられる隠しきれない怯えを感じ取ったのか、高宮は悠然と微笑んだ。
「あぁ……、なにか誤解が生じているようですが、社長を襲った男はちゃんと生きていますよ」
「そう、なの?」
 反応したのは、由梨だった。高宮は大きく頷く。
「もちろん。いえ、私も人の子ですから、さすがに銃口を向けられて平静でいられるはずがありません。誰だって死ぬのは嫌だし痛いのも嫌でしょう? ですから拳銃が転がってきたときに、犯人の動きを封じなければと咄嗟に考えて、思わず引き金を引いてしまいました。いわば、正当防衛というやつですね。もちろん、急所は外しましたよ。死なれたら意味がないので生けどりにして口を割らせる――、失礼、話し合いができるようにして、然(しか)るべき機関に正当に引き渡しをさせていただきました」
 一気にまくしたてられた言葉の中に、穏やかな口調とは裏腹に不穏な言葉が混じっていたような気がするのは思い違いだろうか。
 しん、と静まり返った狭い安アパート。自分の城で、なぜこんなわけのわからない追い詰められた心境になっているのか。
「さて、すっかり話し込んでしまいましたが。このままではお二人とも遅刻されてしまいますね」
 高宮の言葉に、ハッとなる。
 そうだ、いつまでも押し問答を繰り広げるわけにはいかない。いつもならとっくに家を出ている時間だ。遅刻なんてして職場に迷惑をかけたくない。一回の遅刻でどうこうなるほど不真面目な勤務態度ではないつもりだが、もし職場を追い出されたら梓は路頭に迷ってしまうのだから。
 急に狼(ろう)狽(ばい)しだした梓の考えていることが、由梨にもわかったらしい。由梨は、梓が置かれた状況を知っている。自分のせいで梓の仕事の邪魔をするわけにはいかないと覚悟を決めたのだろう。一度決めてしまったら、由梨は迷わない。
「……わかりました」
 苦々しく、由梨はそう切りだした。
「頷くまで帰ってもらえないようなので、そこまでおっしゃるなら、お誘いをお受けします。ただし!」
 男性陣がなにか言う前に、由梨は強めの口調で制した。
「条件があります。いいでしょうか」
「伺いましょう。どうぞ」
 高宮に促された由梨が、高らかに宣言する。
「私の友達のこの子――、梓も一緒で構わないなら、行きます」
「えぇ!」


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