書籍詳細

最上位スキル剣聖を授かりし子爵令嬢は、王太子殿下から寵愛される
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/05/30 |
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内容紹介
立ち読み
第一話
護衛の騎士たちの怒号と母の悲鳴。下(げ)卑(び)た盗賊たちの笑い声が聞こえる。
ああ、これはまた、いつもの悪夢だ。内容は毎回ほとんど変わらないから、自分がどうなってしまうのかも、よくわかっていた。
母のひときわ大きな悲鳴によって、体内で強大な力が発現する感覚。己の全身を巡る闘志。初めて触れた剣の硬さ。肉と骨を斬る感触。全身に浴びた鮮血の生温かさ。むせかえるような血の匂い。樹木より高く跳躍したときに見た地平線。命乞いをした男たちの首――
悪夢は、それが悪夢だとわかっていても己の意思で止めることができない。だからマルティナは八年前から悩まされている悪夢を、見たくもないのに見続けるしかなかった。
やがてマルティナが悲鳴を上げて目を覚ましたとき、全身が汗だくになっていた。
のろのろと柱時計へ目をやれば、もう少しで起床時刻になろうとしている。悪夢を見た翌朝は体を拭かないと汗臭いため、早めに身支度をしようと体を起こした。
さわやかに晴れた一月上旬、今日はランセル王立貴族学院の入学式だ。
マルティナは雪が止んだタイミングで学生寮を出ると、転ばないよう石畳の道をゆっくり歩いて学び舎(や)へ向かう。学院と寮は同じ敷地内にあるため、雪道を長く歩かなくていいのは幸いだ。
しかし広い庭園を抜けた途端、見知らぬ令息が大声を張り上げてきた。
「おい、ブルネットにライトブルーの目の女! おまえがマルティナ・ギルマンだな! そうだろう!」
ビシッと人差し指を突きつける失礼な男子生徒に、マルティナは目を瞠(みは)る。紳士とは到底思えないふるまいだ。
彼の制服のジャケットには、マルティナと同じ一年生を示すブローチがつけられている。同い年の初対面の淑女にする態度ではない。
「はい、そうですけど……」
マルティナが困惑を隠せないで答えると、令息はあろうことか模擬剣を投げつけてきた。
「きゃっ!」
素早く避(よ)けたものの、当たっていたらどうするのかとドキドキする。
「俺と勝負しろ、マルティナ・ギルマン!」
「あの、私は剣の修練などしておりませんから、勝負などできません……」
「何を腑(ふ)抜(ぬ)けたことを言っている! それでも“剣聖”か!」
剣聖という言葉に、周囲にいた学生たちが驚いてざわつき始める。目立ちたくなかったマルティナは注目を集める事態に悲しくなった。
――お父さまの予想通りになっているわ。どうしよう。
父親からは、「学院に入れば武門貴族の子弟から勝負を挑まれるだろう。気をつけなさい」と言われていた。目の前にいる彼が武門貴族の出身かはわからないが、血の気が多そうなので、たぶん間違いないだろう。
まさか入学初日にこうなるとは思っていなかったので、泣きたくなる。
――でも剣の勝負なんてしていたら、入学式に遅れるわ。初日から遅刻したくないし、本当にどうしたらいいの……
寮へ逃げ帰るべきかと迷っていたら、令息の背後、学舎の方角からもう一人の青年が駆けてくる。彼もどうやら一年生だ。
「待て、俺が先だ! マルティナ・ギルマン、俺に剣聖の力を見せてみろ!」
「俺が先に声をかけただろ! おまえは引っ込んでろ!」
「なんだと! 俺の父上は第一騎士団の騎士団長だぞ! 剣聖の力を知るのは俺が先だろう!」
「ふざけるな! 俺はバルシュ辺境伯の嫡男だぞ! わが辺境伯家の武力は王立騎士団に劣るとでも言うのか!」
二人の令息が言い争いを始めてしまい、ますます困惑するマルティナはこの場から動けない。
彼らは学院の制服を着ている以上、ここの生徒で貴族だ。しかも彼らの自己紹介が真実なら高位貴族の出身である。マルティナは弱小子爵家の令嬢なので、高位の貴族から声をかけられた場合、無視して置いていくことができないのだ。
しかも周囲からじろじろと無遠慮な視線が向けられて、すごく居たたまれない。
王立貴族学院の入学初日に、二人の男子生徒が一人の女子生徒を巡って言い争えば、痴情のもつれのようで注目を集めてしまう。猛烈に恥ずかしい。
誰か助けて……、と遠い目になったとき、またしても学舎の方から二人の青年が走ってきた。
これ以上、面倒事に巻き込まれたくないと後ずさりしたとき、近づいてくる青年の一人の顔を認めて目を瞠る。
――あの人って、まさか。
記憶の中の容姿とだいぶ変わっているが、たぶん間違いない。濡れた石畳に鞄(かばん)を落とし、すぐさま淑女の礼(カーテシー)をとる。
その青年は輝くような金髪に、美しいロイヤルブルーの瞳の持ち主だ。特に髪の色は普通の金色ではなく、白金に近い透明感がある。プラチナブロンドと言い切るには金色寄りだが、とにかく美しくて珍しい色と艶だ。
これは王家によく現れる色である。
そして現在、ランセル王立貴族学院に通う王族は王太子殿下しかいない。
マルティナのカーテシーに気づき言い争っていた令息たちも、王族の登場に慌てて紳士の礼(ボウアンドスクレープ)をとる。
恐縮する生徒たちへ、王太子が威厳のある声を放った。
「全員、楽にしてくれ。学院では私も君たちも学生であって身分の隔(へだ)たりはない」
そう言われて、素直に態度を気安いものへ変える馬鹿はさすがにいなかった。それでも王族に言われた手前、三人はおそるおそる体を起こす。
マルティナはガルムスハルト王国の王太子――ユリウス・ディハイニ・ガルムスハルトの端整な顔を複雑な心境で見つめる。
彼と会うのは八年ぶりだった。十歳の当時と違って背は見上げるほど高くなっており、天使のごとく可愛い顔立ちは男らしい精悍なものに変わっている。あの頃は声も可愛らしかったのに、今は低くて落ち着いたものになっていた。
まだ十八歳という若さであるが、気高さと品格が滲(にじ)み出ており、次期国王にふさわしい存在感があった。しかもとびっきりの男前なので、不本意だが直視すると顔が熱くなってしまう。自分は面食いじゃないのに。
慌てて視線を彼の口元に移したとき、王太子は二人の男子生徒を見て厳しい声を放った。
「バルシュ辺境伯令息と、第一騎士団の騎士団長子息か。学院内での私闘は禁じられていると知らなかったのか?」
「はっ、はい、お恥ずかしながら……」
「俺、いえ、私も、存じませんでした……」
「そうか、ではこの機会に覚えておきなさい。私闘禁止もそうだが、模擬剣の使用も授業やクラブ活動でしか認められていない。規則を破った者は厳重注意のうえ庇護者を呼び出すことになる」
二人の男子生徒がみるみる蒼ざめていく。貴族の令息が、素行の悪さで親を呼び出されるなど恥でしかない。彼らが震えているうちに、ユリウスに付き従う男子生徒が模擬剣を没収した。
それを横目で見ながら王太子が静かに告げる。
「だが、私闘はまだ始まっていなかったようだ。今回のことは不問に付(ふ)す。二度とやらないように」
その言葉に二人の男子生徒が目に見えて安(あん)堵(ど)し、「申し訳ありませんでした!」と叫んで逃げていく。一人が途中ですっ転んでいた……
マルティナが彼らを目で追っていると、ユリウスがすぐそばまで近づいてくる。彼はやや緊張を孕(はら)ませた顔つきでこちらを見つめてきた。
最後に見たユリウスは少年だったため、この美しい青年が同じ人だと、わかっていても動揺する。過ぎた時間の長さを知って落ち着かなかった。
「久しぶりだ、マルティナ」
「……はい。お久しぶりでございます」
家族でも友人でも婚約者でもない異性に名前を呼ばれて、少し恥ずかしい。普通なら「ギルマン子爵令嬢」とか「ギルマン嬢」と呼ぶべきなのに。
とはいえ彼からもらう手紙では「マルティナ」と名前で呼ばれているから、今さらかもしれないが。
「あと、助けていただきありがとうございます」
「入学早々、災難だったな。もしかしたら今後もあのような生徒が近づいてくるかもしれない。困ったことになったら私や彼に助けを求めるといい」
ユリウスが視線を隣の男子生徒へ向ける。黒髪にダークブラウンの瞳の彼は、王太子の側近候補の一人だという。マルティナと目が合った彼は柔らかく微笑み、一歩前に進み出る。
「リュディガー・オルロハスクと申します。ユリウス殿下と共に三年のAクラスに在籍しています。何かあれば遠慮なく頼ってください」
マルティナは微笑んで頷(うなず)くものの、内心では困ってしまう。
――オルロハスクといえば侯爵家のはず。王太子殿下と高位貴族に助けを求めるなんて、しがない下位貴族には難しいわ……
そう考えていたら、リュディガーが懐(ふところ)から懐中時計を取り出した。
「殿下、もうすぐ入学式が始まります」
そう言いながら、リュディガーはマルティナの鞄を持ち上げる。
「そうか、急ごう」
ユリウスがマルティナの背に手のひらを添えて、歩くようやんわりとうながした。
「えっ、あの、一人で行けます」
「また先ほどのような生徒が近づいてくるかもしれないだろ」
「――そうですよ、ギルマン嬢。それに我々は生徒会役員なので裏方として入学式に参加するのです。ちょうどいいので一緒に行きましょう」
リュディガーまで隣に並んで歩きだしてしまう。最上級生、しかも王族と侯爵令息に挟まれて、マルティナは変な汗が脇の下に滲むのを感じた。
――おっ、畏れ多いです! どうか捨て置いてください。
ガルムスハルト王国は身分社会であり、貴族階級は上から公爵・侯爵・伯爵までは高位貴族、その下の子爵・男爵・準男爵・騎士爵は下位貴族とみなされている。伯爵と子爵の間には越えられない壁があると言われるほど、同じ貴族でも身分差が存在した。
本来ならマルティナでは話すことも叶わない二人と連れ立っているうえ、ユリウスの手がいまだにこちらの背中から外れていないから、だんだんと胃が痛くなってくる。
――王太子殿下って、こんなふうに軽々しく令嬢に触れる方なの? 女性に対しては慎重だって聞くのに……
ユリウスは令嬢たちと一定の距離を取り、夜会でダンスを踊っても儀礼的な態度を崩すことはなく、誰にも期待させないという。
そんな王太子が新入生の背中に手を添えて寄り添っているから、同じ新入生らしき男女がこちらを見てヒソヒソと囁(ささや)いている。
マルティナへ向けられる視線にも尖(とが)ったものを感じるため、萎縮して泣きそうだった。
◇ ◇ ◇
この世界の人間はすべて“スキル”と呼ばれる固有能力を持って生まれてくる。
スキルとは神から授かる超常の力のことで、早ければ五歳ぐらいで発現し、だいたい十歳前後か、遅くても十五歳ぐらいでどのようなスキルを持っているか判明した。
といっても、たいていの人は「そよ風を起こせるスキル」とか、「人より遠くを見ることができるスキル」とか、「髪を早く伸ばすことができるスキル」などなど、あったら便利だが別になくてもいい能力がほとんどだ。
そのためスキルを重視する風潮はなく、どのようなスキルを保持しているか公表する者もほとんどいない。スキルが発現したタイミングで教会へ行きスキル鑑定を受けて、スキルの内容を国に報告する義務があるのに、平民は面倒くさがって調べない者の方が多かった。
なぜ神がこのような取るに足らない能力を数百種類も人に与えたのか、まさしく「神のみぞ知る」ことである。
ただ、ごくまれに奇跡ともいえる強大なスキルが現れることもあった。本当にめったなことでは現れないが。
そのめったに現れないスキルを持って生まれたのがマルティナだ。彼女は大変珍しく貴重な“剣聖”スキルを保有していた。
そして剣聖スキルは、王家が求め続けていたスキルでもあった。
◇ ◇ ◇
入学式が終わると、生徒は振り分けられたクラスに移動してカリキュラムの説明を聞き、その日は午前中で終了になった。
明日からさっそく授業が始まるため、テキストの内容を確認したマルティナは図書室へ向かう。必修科目は家庭教師から習っていたので授業についていけそうだが、選択科目は不安があるため、さっそく勉強したかった。
しかし途中の廊下で足を止める。
「ここ、どこ?」
図書室がある北棟は学院の中でもっとも大きく、中が入り組んでいる。地図はもらっているものの、広すぎて迷ってしまったようだ。
――困ったわ、寮に帰るのが遅いと食堂が閉まっちゃう。
空腹を抱えて勉強しても集中は続かないだろう。焦(あせ)りながら地図と周囲の位置を確認していたら、曲がり角から現れた教師らしき男性に声をかけられた。
「その様子だと迷子ですか?」
二十代半ばぐらいの、黒髪黒目の背が高いひょろっとした人だった。なかなかの美形で女子生徒に人気がありそうだ。
「はい、図書室へ行きたいのですが、道がわからなくて」
「それなら途中まで行き先が同じです。案内しますよ」
「ありがとうございます!」
助かったと安堵の息を吐くと、マルティナの様子を見て彼は微笑んだ。
「学院は広いですからね。毎年この時期は君のような生徒がたくさん現れます。でも今日は入学式なので、北棟を歩く生徒がいるとは思いませんでした」
通りかかってよかった、と話す彼の目は優しい。穏やかな雰囲気で好感が持てる人だ。
……でもなぜだろう、さっきから胸騒ぎがして落ち着かない。自分の中のスキルがざわめいているようで。
「あの、先生のお名前と担当科目を聞いてもよろしいですか?」
「これは失礼しました。僕はマルク・ゾマーです。担当は古典なので、選択科目はぜひ古典を選んでみてください。古(いにしえ)の言語や文学は意外と面白いですよ」
「古典ですか、考えてみます。私はマルティナ・ギルマンと申します」
ぴたりとゾマーが足を止めて、まじまじとマルティナを見下ろす。漆黒の瞳に見つめられるとなぜか焦燥感が湧き上がり、マルティナはそっと目を伏せた。
「あなたが、そうですか」
「私をご存じなのですか?」
するとゾマーが苦笑する。
「教師の間では有名ですよ。何しろ九百年ぶりに現れた剣聖ですから」
「ああ、そうでしたか」
スキルは秘(ひ)匿(とく)されるものではないが、わざわざ公開されるものでもないため、本来は当人か家族ぐらいしか知らない。
マルティナのスキルが国中に広まっているのは、八年前、某貴族家から剣聖が現れたと新聞に載ってしまったせいだった。
剣の勝負をふっかけてきた生徒がいるぐらいだ。マルティナについて知らない人は学院にいないのかもしれない。
「――ここの突き当たりが図書室ですよ」
分かれ道にたどり着いたとき、ゾマーが右側の廊下を指した。
「助かりました、ありがとうございます」
「いえいえ、ちなみに僕は古典クラブの顧問もしているので、新入生は大歓迎です。よろしく」
古典クラブへの入会をアピールしてゾマーは去っていった。ふと気づけば、奇妙な胸騒ぎは消えている。自分の中のスキルも落ち着いている。
なんだったんだろう? とマルティナは首をひねった。
ランセル王立貴族学院の図書室は、図書館と呼んだ方がふさわしいほどの広さと蔵書数がある。マルティナは受付の司書に挨拶をしてから、目的の書棚を教えてもらい本と辞書を探し始めた。
選択科目は宗教学、語学、家政学、経済学、経営学、法学、哲学、古典、工芸から四科目を選ぶが、マルティナは経済学、経営学、法学を取ることはすでに決めている。それというのも学院を卒業したら、領地に戻って分家か有力者の子息に嫁ぎ、家を継ぐ弟を支える予定なのだ。
そのため学院では官(かん)吏(り)科を選択しており、領政の手助けになる勉強をするつもりだ。
ギルマン子爵領は歴史はあるものの領地は小さく、一族の人数もさほど多くない。したがって分家といっても平民ばかりで、その家に嫁ぐとマルティナも平民になる。でも弟は少し体が弱いのもあるから、領内に補佐となる姉がいれば心強いだろう。両親も賛成してくれた。
今は結婚相手を選んでいる最中である。なんなら裕福な商家の後妻でもいい。
そんなことを考えつつ歩いていたら、経済学の本がある書棚を見つけた。背表紙へ順に視線をすべらせていくと、一番上の棚に目的の本がある。腕を伸ばしてみたが、爪先立ちしても指先が届かない。
――脚立を取りに行くほどじゃないのよね。あと少しで取れる……!
そう思った直後、背後から伸びた手がその本を抜き取った。ギョッとして振り返れば、なんとユリウスがいるではないか。
「この本でいい? マルティナ」
「……はい。ありがとうございます」
これほど接近しているのに、まったく気配を感じなかった。
――殿下って、気配を消すスキルでも持っているのかしら?
「入学初日から勉強かい? 熱心だね」
「……今朝は講堂まで送っていただきありがとうございます。王太子殿下も勉強ですか?」
「いや、君に会いにきた」
えっ、とマルティナが呟(つぶや)いたのと同時に、ユリウスが深く頭を下げた。
「八年前、君を傷つけたことを謝罪したい。本当に申し訳なかった」
「あっ、あああのっ、頭を上げてください!」
王族が臣下に謝るなど、絶対にあってはならないことだ。神から与えられた王権に傷がつく。
しかもここは図書室で、入学初日のせいか利用者は少ないものの、いつ誰が来るかもわからない。
――私、不敬罪で罰せられるかも!?
マルティナが慌てまくるのに、ユリウスは頭を下げた姿勢のまま動かない。
「あのとき、君に直接謝ることもできずに別れてしまい、今日まで会うことも叶わず、ずっと後悔していた。本当にすまない」
「わかりました、謝罪を受け入れます!」
だからどうか体を起こして、と内心で悲鳴を上げていたら、やっとユリウスが頭を上げてくれた。
心の底からホッとする。焦りすぎて寿命が一年ほど削られたかもしれない。どっと冷や汗が額や背中に噴き出てくる。
このときユリウスが一歩踏み出し、ハンカチで額をぬぐってくれた。まさかそんなことをされるとは思わなくてびっくりする。
「すまない、緊張させたようだ」
彼が近づいたことで、かすかなグリーン系の香りを感じた。しかも王国一と言われる美貌が覗(のぞ)き込んでくるから、彼に複雑な気持ちを抱くマルティナでさえドキドキして体温が上がっていく。
蒼ざめたり高揚したりと、乱高下する己の気持ちについていけない。マルティナは数歩後退して距離をとった。
「殿下が謝罪する必要なんてありません。あれは事故です。それに国王陛下から賠償金もいただいております」
「それは当然のことだ。しかし当事者の私は隔離されて、君に直接謝ることもできなかった」
「当時の殿下はまだ十歳です。子どもが起こした不運な事故を引きずってほしくないと、陛下はお考えになったのでしょう。それに殿下からの謝罪のお手紙は受け取っております」
ユリウスはマルティナの誕生日には、手紙や贈り物を送ってきた。最初の頃は受け取るたびに困惑しながら返信していたが、さすがに八年間も続けば、彼が心から過去を悔いているのは理解できる。
しかしユリウスはまだまだ納得していないらしい。
「子どものしでかしたことでも、令嬢に大けがをさせたんだ。責任を取りたいと思っている」
「いえいえっ、殿下に責任などありませんから。私はまったく気にしておりませんので!」
責任を取るだなんてやめてほしい。子爵令嬢の身分では妾(しょう)妃(ひ)にしかなれないから、正妃とその実家から睨(にら)まれて生きることになる。
「そうか……では、友人になってもらえないだろうか」
「え?」
またもや理解不能なことを言われて、マルティナは目を剥(む)いたまま反応できない。放心しているとユリウスが右手を差し出してくる。
――友人って、王太子殿下と田舎の子爵令嬢が? なぜ?
ありえない。王太子のご学友とは、王族にふさわしい身分と人柄と忠誠心を兼ね備えた者から選ばれるものだ。マルティナではすべてがそろわない。
しかし王族の申し出を断るほど命知らずではなかった。
ちらっとユリウスを見れば、ひどく思い詰めたような顔つきで見つめている。……その表情に少し心がグラついた。
二人の令息に絡まれたとき、ユリウスは余裕のある冷静な態度で対応していた。それが今やマルティナの許しを求め、緊張していることを隠していない。
絶対的強者である彼にそんな態度をとられたら、「友人になるぐらい、いいかしら?」と絆(ほだ)されてしまう。
迷いながらもマルティナはユリウスと握手をした。すぐさま彼にきゅっと握り返されて、輝くような笑顔を向けられる。
「ありがとう、マルティナ。夢のようだ」
弱小下位貴族の令嬢と友人になりたいなんて、理由は一つしかない。殿下は“剣聖”のスキルにこだわって打算で近づいただけ。自分はスキルの器(うつわ)でしかない。
そうわかっていても、彼が心から嬉しそうに告げるから己の顔面が熱くなっていく。
――だってこの八年間、手紙を何度も受け取っているうちに、殿下が誠実な人柄なのは察していたもの。信頼に足る方だと認識を改めてもいたし。
うつむいたとき、ユリウスの手から力が抜けてマルティナの指をすくい上げた。彼の形のいい唇がマルティナの指先へ落とされる。
キスをされていると我に返るまで、数秒ほどかかった。
「なっ、ななっ、何を……っ」
とっさに手を引いて唇の感触が残る右手を胸に抱き締める。自分の顔がさらに熱くなるから、絶対に赤くなっているだろう。恥ずかしい。
ユリウスはマルティナの様子を見て、ニコッとうさんくさい笑顔になった。
「何って、友人への挨拶」
「まさか殿下は同性のご学友にもキスするんですか!?」
ユリウスが人差し指を立てて唇に添えたため、マルティナは慌てて口を両手で塞ぐ。動揺しすぎて図書室にいることを失念していた。
「司書に睨まれるかもしれないね。本を選んだら出よう。寮まで送っていくよ」
「……いえ、寮といっても同じ敷地ですから、一人で帰れます」
「淑女を一人で帰すなどありえない。それに年下の友人を気遣うのはおかしくないだろ?」
ユリウスは視線を本棚に向けて、「他に選ぶ本は?」と聞いてくる。
「……経営学と、法学の参考になるものを」
「それならいい本がある」
こちらへ、とユリウスに案内されてお勧めの本を借りることにした。その際、彼が本の内容をわかりやすく説明してくれて、予想外に面白そうだと心が弾む。
わだかまりのある人と再会したら、どのような顔をするべきかと悩んでいたから、緊張するとはいえ、ごく普通に話せることができて嬉しかった。
◇ ◇ ◇
マルティナが持つ剣聖スキルとは、ガルムスハルト王国の始(し)祖(そ)であるガルムス王が持っていたスキルだ。
ガルムス王は九百年ほど前に魔王を倒した英雄の一人で、彼は大陸を滅ぼしかけた魔王を討伐した後、この地を支配していた部族の姫を娶(めと)り、国を興して初代王になった。
彼はその業績から“英雄王”と称(たた)えられている。
ただ、英雄王の子孫であるガルムスハルト王家に、史上最強のスキル“剣聖”は一度も現れないままだった。
教会にはスキルを鑑定する水晶があり、スキルを発現させた者がそれに手を添えるとスキル名が浮かんでくる。しかし剣聖の文字が現れることは、誰一人としてなかった。
スキル研究者からは、「魔王が倒されたので必要ないスキルになったのでは?」と考えられていたが、確実なことはわからないままである。
それが建国から九百年以上もたって、地方の弱小子爵家、しかも令嬢のマルティナに現れたのだ。
◇ ◇ ◇
マルティナは学生寮に戻ると、図書室で借りた本をデスクに置いて制服のままベッドに倒れ込んだ。
「初日から、色々ありすぎ……」
入学式前に二人の男子生徒に絡まれ、王太子と侯爵令息に助けてもらい、さらに王太子から謝罪され、彼と友人になり、寮まで送ってもらった。……一日に詰め込みすぎではないだろうか。
明日の授業の予習をしたいのに、精神的な疲労で体が動かない。頭もうまく働かず、ぼんやりと寝転がってなんとなく辺りを見回した。
学生寮は貴族の子女を預かるだけあって個室だが、それほど広くはない部屋だ。ベッド、デスク、本棚、クローゼットが置かれているだけ。
入寮する生徒は王都にタウンハウスを持たない下位貴族ばかりだから、こんなものだろう。
でもシャワーブースとトイレがあるのはありがたい。それにミニキッチンが設置されているので、好きなときにお茶を飲める。
侍女やメイドを連れてくることはできないが、部屋の掃除は寮の使用人がやってくれるのも助かる。
まあ、もともとマルティナに専属の侍女はいなかったため、自分で掃除もできるけれど。
ギルマン家は専属の侍女を雇うぐらいの収入はあるが、マルティナ自身が断っていた。スキルが現れた八歳のときから、平民と結婚すると決めていたので、一人でなんでもできるようにしたかった。
剣聖のスキルを利用されないために。
――友人になってと言っていたけど、やっぱり王太子殿下はスキルを諦めていなかったということよね。まあ当然かもしれないけど。
まさか入学初日にこうもグイグイ来られるとは思わなかった。接触はあるだろうと予想していたものの、あの事故以来、手紙と贈り物以外の干渉はなかったので気がゆるんでいた。
領地に引きこもったマルティナが自ら王都に出てくるまで、静観していただけなのだろう。
「これからどうしよう……」
幸せが逃げるようなため息を吐いてマルティナは目を閉じる。ユリウスのことで悩んでいたせいか、瞼(まぶた)の裏に彼の美貌が浮かび上がってきた。
八年前はとにかく愛らしい子どもで、ドレスを着せても似合うんじゃないかと思うほど可愛かった。ただし中身は腕白な少年だったけど。
それが美しく凛々(りり)しい、我が国が誇る王太子殿下として目の前に現れた。
……自然と昔の彼を思い出す。
マルティナの剣聖スキルが発現したのは八歳の夏だった。とある事件に巻き込まれた際にスキルが発現したのだ。
教会でスキル鑑定をしてもらったところ、剣聖だとわかった司教が慌てて王宮へ報告した。しかし王家は当初、剣聖スキルの出現に懐疑的だったという。
なぜなら第一王子のユリウスには十歳ながら剣の才能があり、スキルが現れる前だったのもあって、彼こそ剣聖ではないかと期待されていたから。
しかしスキル鑑定用の水晶を何個も替えてマルティナを調べても、すべての水晶に剣聖の文字が浮かんだ。
その結果を聞いた王家は手のひらを返した。
ある日、ギルマン子爵家に王宮からお茶会の招待状が届いた。
初代以降、九百年ぶりになる剣聖スキルの出現に、王家はマルティナの能力を取り込みたいと考えたのだろう。
剣聖スキル保持者を第一王子の妾妃にすれば、王族に流れる剣聖の血脈を濃くすることができる。スキルは血縁者に現れやすいから、マルティナが令嬢であることは王家にとってちょうどよかったはず。
引き合わされた十歳のユリウスは、次期国王として大切に慎重に育てられたせいか、今と違ってやや傲慢なところがあり、腕白で元気すぎる少年だった。
第一王子としていずれは王太子、そして国王になる気概と覚悟はすでに抱いていたものの、活発な性格だったのもあって、勉学以上に剣の修練を好んでいたらしい。
とくに先祖が英雄王であることを誇りに思っており、彼のように武人の王でありたいと望んでいたという。
そこへ剣聖スキルを持った年下の少女が現れたのだ。しかも田舎の弱小子爵家の生まれで、ユリウスのように幼い頃から剣の鍛錬をしてきたわけでもない。
そんなか弱い小娘が、敬愛する祖先のスキルを持っているなど気に食わなかったのだろう。容易に想像できる。
お茶会の席でユリウスはマルティナに、木(ぼっ)剣(けん)で勝負しろと命じた。……入学式前に絡んできた令息たちと、まったく同じことをやらかしたのだ。
しかしマルティナは、今日はお茶会に参加しに来ただけだと王子の命令を聞かなかった。
ユリウスはそれまで、自分の命令を拒否されるという経験がなかった。それは王族であるからだと理解していたものの、実際に拒否されて彼は頭に血を上らせてしまい、周囲が止める間もなくマルティナに打ちかかった。剣聖ならば受け止めると思い込んで。
だがマルティナは、己に振り下ろされる木剣をわざとよけなかった。そのためユリウスの剣が勢いよく左肩に打ちつけられ、骨を砕かれる重傷を負ったのだ。
真っ青な顔で倒れたままピクリとも動かないマルティナ。
悲鳴を上げる侍女に慌てふためく護衛。
そして自分が何をしたかを理解してショックで固まるユリウス……
美しい王宮の庭園が大混乱になった。
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