書籍詳細

これを恋だと呼べたのならば
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/05/30 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
プロローグ
肩の辺りを、誰かに押された感触がした。
蒸し暑い夜だった。
中学に入ってから初めての夏休みが終わり、九月の半ばを過ぎた頃だった。
「――み、珠(たま)美(み)」
母の声だ。
ずいぶんと焦った様子で、揺り起こされる。
「ん……なにぃ……?」
顔をしかめてろくに開いていない目で窓の方を見る。外はまだ真っ暗だった。
「起きなさい、病院行くよ」
母の声は、少し震えていた。
「えっ?」
まず思ったのは、歩いて十分のところに住んでいる母方の高齢の祖父母になにかあったのか、ということだ。
しかし珠美の予想は外れていた。
「お父さんが、交通事故に遭ったって」
「……え?」
「すぐ着替えなさい。お母さん、秀(しゅう)斗(と)起こしてくる」
母が弟を起こすため部屋を出ていっても、珠美はすぐには動けなかった。
机の上に置いてある時計は、午前三時半を指している。
こんな時間に、なぜ父は外にいたのか。交通事故とは、どのくらいのものなのか。命に別状はないのか。
横になったままそんなことを考えている場合ではない。早く起き上がって、着替えなければ。
わかっていても、手が、脚が、うまく動かない。
真っ白になった頭のなかに墨汁を一滴垂らしたみたいに、嫌な思いが広がっていく。
もしお父さんが死んでしまったら。
――それは、私のせいだ。
第一章
1
うんざりするような暑さがようやくやわらいできた九月の中旬。
食肉加工品メーカー、東(とう)京(きょう)ハムに入社して三年になる岡(おか)田(だ)珠美は、広報部の同僚である山(やま)中(なか)麻(ま)衣(い)と一緒に、東京本社の小会議室で大量に届いたはがきを整理していた。
官製はがきもあれば、『食べて当てよう!』と書かれた懸賞応募専用はがきもある。
当たるのは、サッカー全日本代表選のエスコートキッズになる権利だ。応募してくるのはだいたいがサッカーをしている子供とその親なので、ウインナーの袋から切り取った応募券を貼るだけでなく、はがきいっぱいに熱い思いをしたためているものも多い。他のはがきより目立たせようとしているのか、縁にマスキングテープを貼ったり蛍光ペンで枠を描いたりしているものもある。
はがきの他にWEBからの応募も受け付けているので、合わせると応募は三千を超えるだろう。
「いやー、すごい数。キャンペーンは大成功だね」
麻衣が扇子を広げているみたいにはがきを持って大喜びしている。小柄でリスっぽい風貌の麻衣が笑っていると、どんぐりをたくさん見つけたみたいで可愛い。
珠美もよかったな、とは思っているのだが、テンションはいまいち上がらない。
「そうだね……」
「なに。嬉しくないの?」
「そんなことはないけど。応募が多いっていうことは、当たらない子も多いってことじゃない」
なんて、適当なことを口にする。
「それもそうか」
人のいい麻衣は、はがきの山を見て納得したような顔をした。
実際のところ、珠美は落選する子たちに大して同情してはいない。エスコートキッズに選ばれるのは、たった三十人弱。当たる確率が低いのはみんなわかって応募してきているはずだからだ。
そんなことよりも、もうサッカーはこりごりだと思って就職を機にわざわざ北(ほっ)海(かい)道(どう)から上京してきたのに、結局こうしてサッカーに関わってしまっているのが複雑な気分だった。
物心ついたときから、サッカーというスポーツは珠美の身近にあった。親に連れられてサッカー場に行ったことは数えきれないくらいあるし、いい思い出がたくさんある。
しかしそのすべてをもってしてもかなわないくらい、重くてつらい出来事があった。
もちろん仕事にはなんら関係のないことだから、麻衣に話したことはないが。
「ところで金曜日、十九時に六(ろっ)本(ぽん)木(ぎ)だから」
唐突に言われ、なんのことだかわからなかった。
「え、なにが」
「なにがじゃないよ。もーっ、先週言ったじゃない、合コンやるよって」
言われてみれば聞いた気もする。バタバタしていたときに言ってきたので、つい聞き流してしまっていた。
「四対四で、今度は向こうも食品メーカーだから、話合うと思うよ」
合コンの大好きな麻衣はうきうきした様子だ。
珠美は麻衣ほど出会いを求めているわけではないが、せいぜい月一回程度の話なので、ほぼ毎回麻衣の企画する合コンに付き合っている。
先月の相手は皆中学校の先生で、悪いひとたちではなかったのだが、正直話はあまり合わなかった。珠美はそのうちのひとりから連絡先を聞かれ、メッセージアプリのIDを交換したけれど、何度かやり取りをしただけで面倒になり自然消滅した。
そんなことを、この三年繰り返している。
「いつも思うんだけど、どこから合コン相手見つけてくるの?」
「えへへ。秘密ー」
麻衣がいたずらっぽく笑う。そういう顔をすると、頬にえくぼができてとても可愛い。自分はともかく、どうしてこれだけ合コンを重ねても麻衣に彼氏ができないのか、不思議でしょうがない。
麻衣に彼氏ができたら、月イチ合コン生活は終わるんだろうか。
それならそれでかまわない。珠美はひとり暮らしを特に寂しく思ってはいなかった。
2
会社から乗り換えなしで五駅のところにある築十年のマンションが、珠美の城だ。間取りは1Kで、広いとはいえないがひとりで暮らすには十分だし、就職と同時に上京してきたときからずっと住んでいるので愛着がある。
残業はめったにない。今日も定時で会社を上がり、スーパーに寄ってから家に帰ってきた。
野菜と社員割引で買ったウインナーを適当に切り、適当に炒め、手早く名前のない料理を作る。自分のためだけの料理なんて、いつもそんなものだ。
できあがったものを皿に盛り、冷凍しておいたご飯を電子レンジで温めて、ローテーブルに運ぶ。
ベッドを背もたれにして床に座り、テレビをつけた。お笑い芸人が、東京の下町にある商店街で食べ歩きをしている。特に興味もなかったが、チャンネルはそのままにしておいた。BGMにしたいだけだから、不快な内容でなければ番組はなんでもいい。
料理は美味しくもまずくもなかった。いつもの自分の味だ。
味わうでもなく、淡々と口に運ぶ。
枯れた生活と言われれば、否定できない。
もう何年も恋人はいない。欲しいのかもよくわからない。
ひとり暮らしのペースを乱されるのが煩わしいとも思うし、たまには誰かに寄りかかりたいとも思う。勝手なものだ。
夕食を食べ終わり、お茶を入れようかどうしようか迷っているとき、ローテーブルに置いてあったスマートフォンが震えた。メッセージではなく電話だ。相手は、弟とふたりで札(さっ)幌(ぽろ)に住んでいる母だった。
あまり気は進まなかったが、スマートフォンを手に取り、電話に出る。
「はーい」
『珠美、あんた全然連絡よこさないんだから……元気にしてるの?』
「元気だよ」
『こっちもみんな元気、と言いたいところだけど、旭(あさひ)川(かわ)のおばさんがさ、この前人間ドッグで引っかかっちゃったらしくて』
「それは大変だ」
テレビのリモコンを持ち、ザッピングする。一度も見たことのないドラマの最終回スペシャルで、国民的人気の女優が涙を流している。
まったく内容のわからないドラマをなんとなく眺め、母のあっちこっちに飛ぶ話に適当に相(あい)槌(づち)を打つ。
母とはべつに関係が悪いわけではない。ただ、珠美の方から母になにかを相談しようと思うような親子関係ではなかった。母はいつだって自分で手いっぱいだ。
『――だから、お父さんの様子、たまには見に行ってあげてね』
「えっ?」
ドラマに向かっていた意識が、急に引き戻される。
『えっ、じゃないわよ。あんたお父さんのお店に全然顔出してないでしょ、東京にいるのに。お父さんが飲みすぎてないか心配じゃないの?』
「……心配じゃないってことはないけど……ここんとこ、けっこう仕事忙しくてさ」
嘘だ。
今日だって定時で上がったのだし、行こうと思えば会社から電車を乗り継いで一時間弱のところにある父の店まで行くのは簡単だった。
『忙しいったって、休みの日くらいあるでしょ。お父さん、肝臓の数値がよくないのにひとりだと全然休肝日を守らないってわかってるんだから、あんたが気にしてあげて』
そんなに心配なら、父が半年前ススキノから上京してきたとき、ついてくればよかったではないか。
そんなセリフをなんとか飲み込み「……わかった」と返事をする。
高校生の弟を転校させるのはかわいそうだと思ったのは珠美も一緒だからだ。
それから小一時間、愚痴やら親戚の近況やらを話してやっと気が済んだらしく、母は電話を切った。
どっと疲れてしまい、珠美は汚れた食器をそのままに、ベッドに寝転んだ。
珠美の父、孝(たか)文(ふみ)は元プロサッカー選手で、日本代表に選ばれたことも何度かあった。しかし十二年前、怪我をしたのを機に引退し、二年ほど荒れて酒浸りになって過ごしたあと、ススキノにスポーツバーを開いた。
経営状態をよく知っているわけではないが、現役時代のファンが訪ねてきてくれるから、店はそこそこうまくいっていたように子供の目からは見えていた。
それが半年前、突然東京に店を移すと言い出したものだから、家族は驚いた。
現役時代最後に所属したチームのホームが東京だからというのが父の言い分だったが、弟は高校二年生になったところで当然絶対転校なんてしたくないと主張したし、高齢の祖父母が住んでいる実家が札幌にある母も弟と札幌に残ると宣言した。
先に上京していた珠美と父が同居するという案は、珠美が固辞した。就職してから築いてきた自分の生活を乱されたくなかったからだ。
父は、良くも悪くも単純なサッカー馬鹿だ。素面(しらふ)のときは普通の気のいいひとなのだが、酒を飲みだすと止まらなくなるのが欠点で、客がいてもべろべろになるし、店で流しているサッカーの試合に大声で悪態をついたりする。
父の酔っぱらっただらしない姿を見たくなくて、珠美は東京の父の店に片手で数えられるほどしか顔を出していない。
寝っ転がったまま、つけっぱなしだったテレビに目をやる。
母と電話していたときは泣いていた女優が、嬉しそうに背の高い男優と抱き合っている。どうやら初恋が実ったらしい。
初恋の相手と結婚できるのは、百人に一人。
そんな話を聞いたのは、どこでだったか。
本当かどうかは知らないが、そのくらい難しいものだというのは感覚としてわかる。
珠美は自分の淡くて苦い初恋のことをふと思い出した。
◇
「『ボールはともだち』って、主人公がよく言うんだよ」
サッカーボールでリフティングをしながら悠(ゆう)希(き)が口にした言葉に、ベンチに座って彼を見ていた珠美は首を傾(かし)げた。
「お友達は蹴っちゃだめなんじゃないの?」
「だよな。俺もそう思う」
悠希の家に全巻揃(そろ)っている、古いサッカー漫画の話だった。世界的に有名で、珠美も題名くらいは知っている。
毎週水曜日、悠希の所属しているサッカークラブの練習がない日、近所の公園でこうしてふたりで話をするのが恒例になってきていた。そのとき、悠希はだいたいリフティングをしている。
珠美よりひとつ上の四年生ながら体格がよく、クラブのエースだった悠希は、練習がなくても常にボールに触っていたいようだった。もう十月だというのに短パンなので、見ている方が寒くなってくる。
「なあ、岡田のお父さんはサッカー漫画とかあんまり読まないのか?」
「お父さん? 読まないねえ。そもそも本をほとんど読まないひとだから」
「ふうん」
珠美の返事をどう捉えたのか、悠希はお小遣いでももらったような顔をしている。
たぶん、どう答えても彼はそういう顔をするのだ。
半年ほど前のJ1の公式試合で珠美の父のエスコートキッズを務めてから、悠希はことあるごとに父のことを聞きたがるようになった。珠美にしても、プロ選手である父のことが誇らしかったから、あれこれ尋ねられるのは苦ではなかった。
「だけどさ、たまに思うんだ」
「え?」
「試合でドリブルしてるときなんかに、ボールと通じ合えてる感じがフッとして。ああ、こういうのがボールはともだちってことなのかなって」
「そういうもの?」
珠美自身はサッカーをしないからわからない。
「そういうものさ」
悠希がポーンと高くボールを蹴り上げた。
そのときの夕焼けがやけに綺麗だったことを、いまでも覚えている。
3
合コンの約束の金曜日がやってきた。
就業後。会社の化粧室で麻衣は気合を入れて化粧を直している。その隣で珠美も口紅を塗り直した。
「そういえばお相手、食品メーカーって言ってたけど、どういう系?」
「お菓子だって。本社は東京じゃないみたいだけど」
「ふうん」
同業の食肉加工系でなければなんでもよかった。業種が近すぎるとかえって話しづらい。人数は四対四ということで、こちらからは麻衣と珠美の他に総務の同期がふたり参加する。
十九時の約束に間に合うように会社を出て、四人で地下鉄に乗る。
「六本木なんて久しぶり」
「今日のスペインバルはめっちゃ美味しいらしいよ。期待してて。合コン相手にも」
話半分に聞いておく。麻衣が自信満々なのは、いつものことだった。それでいて、合コンが終わると「ちょっと思ってたのと違ったなあ」などと言うのだ。
「向こうのメンバーは、東京支社の営業がふたりに支社長の秘書。それからなんと支社長も来るらしいよ」
「支社長って、それオジサンじゃないの?」
気だけは若くて空気を読まず若者の集まりに交ざってくる中年男性を想像してしまい顔をしかめたが、麻衣は首を横に振った。
「それがまだ二十代らしくて」
「へえ、それはすごい」
「なんでも、社長の息子なんだって」
「あ、そういう」
なんだボンボンかと勝手に納得する。
六本木の駅に着くと、麻衣のスマートフォンに相手方の幹事からメッセージが入った。
「もうお店に着いて、なかで待ってるって」
「オッケー」
特に急ぐでもなく、歩いて三分ほどのところにある商業ビルに四人で向かう。その二階にお目当てのスペインバルがあった。
入り口の扉を開き、出てきた店員に麻衣が名前を告げると、店の奥にある半個室に案内された。
「お待たせしましたー! 東京ハムの山中麻衣です」
麻衣が元気に挨拶し、総務のふたりが軽く頭を下げた。
「高(たか)津(つ)製(せい)菓(か)の田(た)島(じま)洋(よう)平(へい)でーす! どうぞよろしく」
向こうの幹事らしき田島も同じようにテンション高く応えた。
男性陣は皆笑顔だ。年齢はだいたいこちらと同じくらいのように見えた。
そんななか、珠美は一番奥に座っていた男性と見つめ合い、呆然と立ち尽くしていた。
時間が止まってしまったように、指先ひとつ動かせない。
「よ、岡田」
にこっと笑い、軽い調子で声をかけてきた彼から目が離せない。
会うのは十二年ぶりだが、見間違えようがない。
高津悠希。珠美の初恋相手だ。
すっかり大人の男性になってはいるが、整った顔立ちと澄んだ眼差しは昔のままだった。
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