書籍詳細

劇薬博士の溺愛処方
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/02/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
◇chapter,1 勃(た)たぬなら、勃たせてみせよ、薬剤師
「貴女あたくしをバカにしているの? ゼリーといえば、アッチの、潤滑ゼリーの方よ!」
「も、申し訳ありませんお客様! ただいま持ってまいります!」
マダム然とした年配の女性に怒鳴られ、日下部(くさかべ)三(みつ)葉(ば)は顔を真っ赤にして薬棚から商品を探し、先ほどまで手にしていた小児用投薬ゼリー『おくすりのめました』をもとの場所へ戻すのだった……。
* * *
自分では上手くやっていけたと思っていても、周囲の評価は異なっていたりする。
六年間の大学生活を終えて総合病院の調剤薬局で薬剤師として働き始めた三葉にとって、この決断は苦渋の選択だった。
けれど、自分がいることで人間関係がこじれるというのならば、自分が舞台から退場するしかないではないか。
いつまでも引きずっている方が後々まで影響を及ぼしてしまう。
それならば逃げることも正しいのだと、そう思って一年経たないうちに辞めた。
自分にとって馴染みのあった病院から離れて、叔父が昔から営んでいる街の薬局に転がり込んだ。
『新(しん)宿(じゅく)広(ひろ)小路(こうじ)薬(やっ)局(きょく)』。名前を聞いたときはもっとおおきな薬局だと思ったのだが、実際のところはうなぎの寝床のように店の奥が深く細長い、古くてちいさな薬局だった。
JR新宿駅の西口改札を出て小滝橋通りまですこし歩き、青梅街道とぶつかった交差点を東口方面へ向かう新宿大ガードの手前のごみごみした金券屋や飲み屋が並ぶ細道に位置しているため、広小路でもなんでもないのだが、先代が名付けた頃はもっと土地が広かったから広小路の中でも目立っていたのよと叔母は笑いながら説明してくれた。ギャンブルで大敗して泣く泣く土地を切り売りして辛うじて残ったのがこの薬局だということもいまでは笑い話らしい。
『三葉ちゃんも驚いたでしょ。こんなちいさな薬屋さんで』
午前九時から午後九時まで。叔父夫婦が営むこの薬局はかつて三葉が勤めていた都立病院の処方箋も受け付けており、日中はいちばん奥の調剤室にもうひとり、パートのおばちゃん薬剤師が入っていることがある。三葉もはじめは、もうひとりいた調剤室担当のパートさんが旦那さんの転勤で辞めるというのでその代わりとして店に入ったのだ。
だが、それからひと月もしないうちに叔父が交通事故で入院して店頭に立つことができなくなってしまった。
そのため急(きゅう)遽(きょ)自分が店長代理として調剤室の外も担当することになったのだが、病院で出された処方箋のお薬を淡々と準備するだけの仕事とは異なり、店頭で市販薬やサプリメントを前に説明したり販売したりする仕事は口下手な三葉の新たな試練になったのである。
――今日は金曜日か……あぁ、気が滅入る。
日用品も取り扱うような広々としたドラッグストアとは異なり、お客さんはカウンター越しにいる白衣の薬剤師と対面で会話をしながら薬品を購入する。三葉が店頭で最初に行った作業は商品名とそれが置かれている場所を暗記することだった。
見舞いに行った際に叔父は「三葉ちゃんの知らない商品もいっぱいあるだろうから勉強しろよ」と労(ねぎら)いの言葉をかけてくれたが、実際に商品棚を見るまでは気にもかけていなかった。
たいてい、叔父の馴染みの客がほとんどで、新顔の三葉が探すのに戸惑っていると、どこの棚に何があるのか教えてくれたからだ。
けれど、そうでない客もいる。
店頭に立った最初の金曜日の夕方に、小児用投薬ゼリーと性交渉で使う潤滑ゼリーを間違えて怒られたのは記憶に新しい。
ただでさえ金曜日は忙しいのだ。なぜなら……。
「いらっしゃいませ」
「『皇帝液』」
「九百円です」
仕事帰りのスーツ姿の男性が栄養ドリンク剤を購入し、その場で飲んでいく。入れ替わるようにカップルが来て、コンドームを買い求めてきた。OLらしき女性が店のドリンク棚に並んでいる精力剤を興味深そうに眺めている。結局男性は彼女のためにと奮発して一番高い、一万円の精力ドリンク『マムシホルモンオット精』を買っていった。
このまま歌舞伎町のホテル街へ向かうのだろう。お互いに腕を組んで店を出ていった。
……なぜなら、そう、金曜日の夜は長いから。
――お楽しみはこれからなのね。
三葉は病院の調剤薬局ではけして見ることのなかった光景を見送り、苦笑を浮かべる。昼間は病院の処方箋調剤が主要業務だが、夜になるとこの薬局は精力剤のメッカに変わる。
ちいさいけれど、精力剤の種類の豊富さならどこの薬局にも負けない自信があるのだと叔父が偉そうに教えてくれたが、うら若き姪っ子薬剤師が精力剤を売りつけることになるとは考えていなかったのだろう、すこしだけ申し訳なさそうな顔をされてしまった。経営戦略として間違っているわけではないので三葉が文句を言う筋合いはないが、たしかに叔父の代わりに店頭に立って精力剤を販売した当初はお客さんに驚かれていた気がする……。
商売だから恥ずかしがってもいられない。二ヶ月経ってようやく客とのやり取りも板についてきた。酔っ払いに絡まれても笑顔でかわせるだけの度胸も、精力剤についての知識もついた。それに、お店にやってくるお客さんたちを観察するのは意外と楽しい。
新しい職場で三葉はようやく自分の居場所を見つけたと思っていた。
時刻は午後八時五十五分。
ガタガタと音を立てながら自動扉が開き、金曜日の夜の最後であろう客がやってくる。
「いらっしゃ……え」
「やっぱり三葉くんだったのか」
(――どうして彼がここに? わたし、黙って前の職場から姿を消したのに)
「探したよ」
カウンター越しに瞳を合わされて、硬直する三葉に彼は告げる。
そして。
「君がいなくなってから、勃たないんだけど、どうしてくれる?」
ここには有数の精力剤があるのだろう?
にやりと笑いながら、彼……医学博士、大(おお)倉(くら)琉(りゅう)は三葉に迫るのだった。
* * *
大倉琉が、勤め先の病院で運命を感じたのはこれが初めてのことであった。
「トリック・オア・トリート!」
「お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうぞ?」
病院の女性スタッフたちが小児科患者たちと一緒に仮装パレードをしている。看護師たちはふだんと変わらないナース服だが、子どもたちはゴミ袋で作ったちびっ子オバケやトイレットペーパーを巻きつけたミイラ男……ミイラ小僧? に流行りの戦隊ヒロインのコスチュームを誇らしげに着た車椅子の女の子などがくちぐちに「お菓子ちょーだい!」と外来病棟内をゆっくりとした速度で闊(かっ)歩(ぽ)している。
午前の外来を終えて昼休憩に入っていた琉は、エントランスを抜けるところで、その集団に捕まった。
「大倉先生、お疲れさまです」
「トリック・オア・トリート!」
「……そうか、今日はハロウィンだったな」
「お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうよ?」
馴染みの看護師と会話している最中も子どもたちがわらわらと琉の周囲に集まって、お菓子をよこせの合唱をしている。
――弱った、子どもたちに渡せるようなお菓子、手元にないんだよな。
無邪気な子どもたちに囲まれて困惑する琉を、看護師も微笑んで見つめている。事情を説明すればわかってくれると思うが、子どもたちを興ざめさせてしまうだろう。なかなか外に出てイベントに参加できない小児科の子どもたちを前に、琉は思わず硬直してしまう。
子どもは別に嫌いではない。整形外科外来にも負傷した子どもたちが日常的に手当を受けに来るし、従兄弟の子どもたちの遊び相手になることもある。
ただ、長期間入院生活を送っている小児科病棟の入院患者と接する機会は滅多にない。外来がメインの琉にとって、オバケに扮した子どもたちは未知なる存在なのだ。琉がお菓子を与えたとしてそれにアレルギー物質が入っていたらどうするんだ、とか手元にお菓子がないのに心配してしまう始末である。
「お菓子が欲しいオバケさんたちはどこかな~?」
そんな琉に、救いの手が差し出された。手ではなく、声だが。
「三葉ねぇちゃん!」
「トリック・オア・トリート!」
「かわいいオバケさんたち、いらっしゃい」
琉が振り向けば、エントランス近くにある調剤薬局の待ち合い椅子に、可愛らしい包装の小袋が並べられている。
どうやら子どもたちのお目当ては調剤薬局の薬剤師たちが予(あらかじ)め用意してくれていたようだ。思わずホッと胸を撫でおろす琉に、看護師が苦笑しながら「お騒がせしてごめんなさいね」と一礼して過ぎ去っていく。その後ろをワッと子どもたちが追いかけていく。
子どもたちが呼んでいた「三葉ねぇちゃん」がこちらを見て、呆然としている琉を手招きする。
「よかったら、先生もどうぞ!」
長身の白衣を着た姿勢のよい薬剤師の女性に微笑みかけられ、琉の心臓が早鐘を打ち始める。
――なんだ、この美しい骨格を持つ女性は……。
* * *
日下部三葉は当時社会人一年目の新人薬剤師で、琉が勤める病院に併設する薬局の調剤部で慌ただしく過ごしていた。
毎年ハロウィンに病院内で小児科に入院している患者たちの仮装パレードが開催されており、子どもたちに調剤部の人間がお菓子の詰め合わせを作ってあげるのが定番なのだという。
調剤部で一番若い三葉は先輩方の指図を受け、業務の間に子どもたちへのお菓子の詰め合わせを用意し、昼休憩に合わせて椅子に並べる役目を担っていた。
小児科に入院している子どもたちの薬もこの薬局で処方しているため、子どもたちのアレルギー情報や病状によっては与えてはいけない禁忌となるものなど事前にわかっているため、それぞれ準備するお菓子のレパートリーも決まっている。
三葉は待合椅子に並べた青やピンクの小袋を満足そうに見て、子どもたちの行列を待つ。
――あれ、「トリック・オア・トリート!」って子どもたち、病院受付で騒いでない?
エントランスにほど近い受付前で、カラフルな仮装に身を包んだ子どもたちが白衣の男性を囲んでいる。あれは外来を終えたばかりのドクターじゃなかろうか。傍にいる看護師のおばちゃんが微笑ましそうに見ているけど、入院棟のイベントに外来のドクターを巻き込んで大丈夫なのだろうか。
ここからだと白衣の男性の顔は見えないが、子どもたちのことを迷惑がっていないだろうか……と視線を向けたところで、最年長のヒーローの仮装をした少年が三葉に気づいて声をあげる。
「三葉ねぇちゃん!」
「トリック・オア・トリート!」
白衣の医師からはなれて三葉の方の、待合椅子に並べられている小袋を発見した子どもたちが歓声をあげる。よかった、気づいてくれた。
「かわいいオバケさんたち、いらっしゃい」
顔見知りのヒーローの少年が看護師の後ろから三葉の方へ歩き出せば、他の子どもたちも彼につづけとばかりにぞろぞろと調剤薬局の方へ動いていく。さながら仮装をした民族大移動だ。
あっけにとられた表情のドクターが、滑稽に見えるほどで。
思わず三葉は声をかけていた。
「よかったら、先生もどうぞ!」
まさかこの先、彼と恋愛関係に陥ることになるなんて、このときの三葉は夢にも思わなかったけれど。
社会人一年目のクリスマスは仕事に追われてひとりで淋しく過ごすものだと思っていた。
だが、そんな三葉の予想を裏切るようにひとりの異性が急接近してきた。二十四年間生きてきたなかで一度も縁のなかったハイスペックなドクター、ただし性癖に問題アリ、が。
「日下部くんの脚は羚(かも)羊(しか)のように美しいな。全体の骨格を見ればわかるが平均的な形よりも脚が長いんだろうが……」
「大倉先生仕事中です! 新人の女の子を困らせないでください!」
「こっちは外来終わったから問題ない」
「薬局はまだ閉まってないでしょうが!」
キビキビ働く先輩薬剤師が、琉に口説かれて困惑する三葉を隠しながら文句を言えば、うむ、と彼も黙り込んでしまう。
「君は困っていたのか」
「えっと、ええ……まあ」
先輩のように患者さまのご迷惑になるから出て行けと言い返せない三葉は、ぷい、と顔を背けて調剤室へ逃げていく。そんな三葉を猛(もう)禽(きん)のように狙う琉を見て、先輩薬剤師の坂(さか)江(え)がぽつりと呟く。
「大倉先生、スタイルのいい女の子を見るとすぐに口説きだす性癖、どうにかなりません?」
「どうにもならないんだ。申し訳ない」
そう言って、患者に混じって調剤室前の待合椅子にちょこんと座る。すでに仕事を終えている彼は白衣を脱いでいるものの、病院の患者と呼ぶには違和感のある男性がきょろきょろと薬局内を見回す姿は悪目立ちしていた。だが、患者に迷惑をかけるつもりはなさそうなので仕方ないなあと坂江は業務に戻っていく。彼女は琉が以前付き合った彼女のことも知っているから、あれこれ口を出すのだろう。薬局まで押しかけてる琉の自業自得である。
ちらりと調剤室を見ると、不安そうな顔をしている三葉と目が合った。彼女は自分のことを意識しだしただろうか。あともう一押しか二押しすればいけそうな気がするが、琉はふいに立ち上がり、坂江に声をかける。
「また来る」
それだけ言って颯(さっ)爽(そう)と去っていく琉を、坂江はふんとつまらなそうに鼻を鳴らして見送る。それを見ていた三葉は思わず口に出していた。
「坂江先輩、もしかし」
「まだ仕事中です、日下部さん!」
顔を真っ赤にして言い返す坂江に何も言えなくなる。三葉はことあるごとに自分を口説きに来る琉が職場の空気をかき混ぜている現実にいたたまれなくなった。毎日懲りずに自分のスタイルを誉めちぎる整形外科医。なぜここまで彼が三葉に執着するのか、彼女は知らないまま、琉の毒牙にひっかっかる。
年の瀬で忙しい病院の調剤部はギスギスしている。
「日下部さんもしたたかよね、坂江ちゃんが大倉先生のこと狙っていたの知ってたくせにあっさり彼の恋人になっちゃって」
「ほんと、先輩もお人よしすぎじゃないですかぁ、前も後輩ちゃんに恋人奪われてぇ、それでも笑顔で結婚退職した彼女見送って」
「同じ病院勤務とはいえ医局と薬局じゃ出逢うこともなかなかないでしょう? だからこっちまで顔を出すドクターってやっぱり周りから憧れの目で見られるし」
「大倉先生はちょっと変わり者だけどほら、見た目はいいからねぇ」
「そのぶん女性に向ける要求もアレみたいだけど」
「骨格だっけ? 口説く場所そこ? ってなるわ」
仕事終了後のロッカーでわいわいと楽しそうに意地悪なことを囁く同僚たちの声がイヤでも耳に入ってくる。三葉はまたこの話題かとうんざりしながら白衣をハンガーに吊るし、物音を立てずに退出する。
――だってつい最近まで知らなかったんだもの、坂江先輩の想い人が琉先生だったなんて。
毎日のように薬局に現れ、三葉を口説く医学博士(ドクター)の姿は目立ちすぎていた。自分とは違う世界の人だし、まだ恋より仕事に夢中だった彼女は断ろうとしたものの、周りからの痛い視線に耐えきれなくなってお付き合いを受け入れた経緯がある。十一月に入ってから、三葉に一目惚れしたのだと言い出した彼は、外来終了後や休憩時間を縫ってことあるごとに口説きに来ていた。たいていは先輩薬剤師の坂江が大倉を追い返してくれていたが、諦めない彼についに根負けしたのか、十二月になる頃には何も言わなくなってしまった。今思えば、それだけ三葉を欲する琉の姿に坂江の精神が参ってしまっただけなのだろう。
クリスマスの翌日、お付き合いに是と返してからも琉は毎日のように三葉のもとへ会いに来た。自分より年上のくせに子どもみたいにまとわりついてきたかと思えば、夜になると獣へと変貌する。
職場からほど近いラブホテルで何度も身体を重ね、互いの温度を分かち合い、へろへろになりながら二人して翌日のシフトに入る、なんてこともざらにあった。
彼に甘やかされながら過ごす日々に溺れつつあった三葉だったが、そんな彼女を職場の若い女性たちは羨み妬み、嫌みを言ったり物を隠したりなどの子どもじみた嫌がらせをするようになってしまった。なかでも人懐っこい笑顔が印象的だった先輩薬剤師の坂江の豹(ひょう)変(へん)に、三葉は恐怖を抱くようになっていた。
自分ひとりが標的になって被害に遭うだけなら問題ない、けれど坂江がこの先琉を逆恨みすることもあるかもしれない。ここは病院で、自分たちはときに生命に関わる薬剤を取り扱っている。何かが起こってからでは遅いのだ。
――彼に迷惑をかけたくない。だけど琉先生はほんとうにわたしのことを見てくれているの?
過剰なまでに三葉を可愛がる琉の姿にいつしか疑問を持つようになっていた。一目惚れだと彼は言っていたけれど、前の恋人もショートカットの似合う臨床検査技師だったという先輩の言が引き金になって、思わず彼の前で癇(かん)癪(しゃく)を起こしてしまった。
「わたしのこと、前の彼女さんに重ねているんでしょ。見た目とカラダの相性が良ければ他の女のひとでもいいんじゃないの?」
問い詰めたところ、琉は目をまるくしたのち、いけしゃあしゃあと応えたのだ。
「……たしかに三葉くんの見た目とカラダは俺と相性ぴったりだな。オーダーメイドの家具みたいに」
わたしはあなたのオーダーメイドの家具かい!?
彼のズレた解答に三葉は顔を真っ赤にして言いはなつ。
「もういいです。すこし距離を置きましょう」
「それは物理的に? それとも心理的に?」
「両方です!」
もう知らない! ぷりぷり怒りながらしわひとつない白衣の裾を翻し、三葉は彼の前から姿を消した。
彼は追いかけてこなかった。
もしあのとき追いかけてきてくれたなら、抱き締めて「前の彼女に嫉妬なんかしなくていい」ときっぱり応えてくれたなら、三葉はここまで追い詰められることはなかっただろう。
職場に戻れば入院患者の大量に積まれた処方箋が三葉に押し付けられ、時間以内に片付けられずに嫌みをさんざん浴びる羽目に陥る。いくら三葉が新米だからとはいえ、あからさますぎる職場の嫌がらせだ。
それもこれももとを辿ればぜんぶ整形外科外来担当の大倉医師のせい!
溜まりに溜まったストレスが閾(いき)値(ち)を超えた瞬間、三葉は職場に辞表を叩きつけていた……。
* * *
それから琉とは会わずじまいだった。携帯の着信は無視していたし、メールも「今は距離を置きたいから」と職場を辞めたことだけさりげなく伝えて連絡を絶った。これで自然消滅するのなら仕方がないとも思った。なんせ相手は多忙なドクターだし、自分が姿を消したくらいでそう簡単にダメになるような男ではない。
……と、思ったのだが、現実は異なるらしい。
「そういえばあのお客さん、前からしきりと調剤室の方見てたわね。三葉ちゃん目当てだったのかしら」
「え、丹(たん)羽(ば)さんなんで言ってくれなかったんですか」
「仕事中にじろじろ見られてるって言ったら気になっちゃうじゃない。だから落ち着いたら話そうと思って忘れてたわ」
「忘れないでくださいよ」
パート薬剤師の丹羽が言うには、三葉がシフトに入っていない平日昼間にも琉と思わしき男性がちょくちょく薬局に足を運んでいたらしい。どうやら彼は仕事の合間を縫って、衝動的に職場を辞した三葉の行方を探していたようだ。
『君がいなくなってから、勃たないんだけど、どうしてくれる?』
開口一番訴えてきた琉のことを思い出し、はぁとため息をつく。
先日は驚いて「帰ってください!」と店から追い出してしまったが、あの日以前から三葉が知らないだけで、彼の挙動不審な動きはあちこちで観測されていたらしい。
三葉の「帰れ」という言葉に驚くほどあっさり従った琉は、「また来る」という捨て台詞(ぜりふ)を置いて姿を消した。けっきょく商品は何も買わずに。
「三葉ちゃんの元彼だったの? カッコいいお兄さんがいるなぁっておばちゃんじっくり見ちゃったわ」
「あはは、見た目はいいですからね」
「だけどもしストーカー被害にあってるとかだったらちゃんと警察に相談しなさいね」
「ストーカーじゃないですってば!」
そもそも琉にストーカー気質があるのなら毎日のようにメールや電話をしてくるだろうし、三葉が姿を消してからすぐに自分が住んでいる女子アパートに凸したりその周辺をぐるぐる回っているはずだ。それはそれで怖いなと苦笑しながら、いやでも特に教えていない今の勤務先を彼が難なく突き止めてやってきたのもストーカー行為に近いものがあるのではないかとふと考えて黙り込んでしまう。
あらあら若いっていいわねぇと勤務を終えた丹羽が調剤室から出ていくのを見送り、鍵をかけてから三葉も引き続き夜勤のためレジカウンターへ向かう。
近所の病院の午後の外来が夕方五時に終わるため、調剤薬局の窓口は六時で閉め、それ以降は市販薬の販売のみのため三葉は叔母に代わりレジ応対に立つのである。
――さすがに今夜は来ない……よね?
週末と異なり客足はまばらだが、それでも新宿歌舞伎町にほど近い立地ゆえ、夜の仕事に勤(いそ)しむ人々がドリンク剤や固形のバランス栄養食品などを購入していく。なかには精力剤を楽しそうに選ぶカップルの姿も混ざっている。琉も勃たないというのなら精力剤のひとつでも買ってくれればいいのに。
「いらっしゃいま……せんせー?」
「良かった。今夜も会えたね」
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