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「君を愛することは決してない」と言った王太子が、毎晩私の淫夢を見ているなんて聞いてません!

茜たま / 著
天路ゆうつづ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/06/28

電子配信書店

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内容紹介

君を抱きたくてたまらなかった
公爵令嬢のシャノンが眉目秀麗だが冷酷無情の王太子殿下・ダリウスの婚約者となって三年。二人の仲は完全に冷え切っていた。そんなある日、まさかのハプニングでシャノンを相手に妄想したダリウスのエッチな夢を見るはめに!? 「君を愛することは決してない」と言っていた王太子の妄想がこんなだったなんて! 「違うんだ、落ち着いてくれ。これは…」「ダリウス様の変態!」戸惑うシャノンだけれど、夢で見たダリウスの執拗な愛撫はあまりに情熱的で…。見た目はクールなむっつり王子×初心な公爵令嬢、淫夢が巻き起こすこじれた恋の行方は?

立ち読み

第一話「彼の淫夢に囚われました」


 王宮の磨き込まれた長い廊下を、一人の令嬢が歩いていく。
 襟が高く細身のドレスは年の割に落ち着いた濃紺だが、すっきりと編み込まれたピンクゴールドの髪の下でアーモンド形の瞳はキラキラと輝き、笑みの形に口角が上がった唇は花びらのよう。さらに、肌は透き通るほどに白い。
 まるで歩いたところから花が開いていくような、明るく朗らかな愛らしさである。
 しかしふと、その青い瞳に陰りがにじんだ。唇が、緊張したようにすぼめられる。
「ダリウス殿下、セラルド王国の昇りゆく太陽。ご機嫌麗しゅう」
 侍女たちを数歩下がらせて完璧なカーテシーを披露した彼女の前で立ち止まったのは、すらりと背の高い青年である。
 銀のパイピングをあしらった純白のテールコートには皺一つなく、金の肩章がキリリとまぶしい。狼のようなプラチナシルバーの髪の下に、冷たい美貌を備えている。
 意志の強さを感じさせる引き結ばれた薄い唇と、完璧な比率で通った鼻(び)梁(りょう)。耳に光る青いピアスが彼の美しさを際立たせている。鍛えられた全身のラインはしなやかに引き締まっているが、特に印象的なのは濃いグレイの瞳である。切れ上がり冷たい光を発するそれが、酷薄な感情を隠さないままに微かにすがめられた。
 先ほど開いた花々が、震え上がって凍りついていくようだ。
「シャノン・ランバルト公爵令嬢。変わりないか」
「はい。つい先ほど、王太子妃教育の午前の授業が終わったところです」
 ダリウスは、わずかに顎を持ち上げて話す。どうしてこんな話し方をするのだろうと、シャノンはいつも思っている。ただでさえ身長がだいぶ違うのに、これでは完璧に見下ろされているようで、居心地がとても悪いではないか。
(だめだめ、イライラしちゃだめよ。ここではみんなの目があるわ!)
 自分を鼓舞してにっこりと、シャノンはできる限り最高の笑みを披露する。
「ダリウス殿下、よろしければ一緒にお茶でもいたしませんこと?」
 返事の代わりにこの国の王太子は、ぎろりとした視線を浴びせてきた。
(あ、これはきっと駄目な感じ)
 そう思いつつも、一応粘ってみる。
「ずっと探していた歴史書をやっと見つけられたのです。謎に包まれたこの国の建国秘話について、興味深い検証が記されたものですが、一緒にご覧になりませんか?」
「一緒に? 無意味だな」
 案の定、ダリウスは切り捨てた。
「同じ本を二人で読んでどうする。非効率的だ」
「あ、そうですか」
「それにその本ならとうに読んだ。検証とやらもおとぎ話と似たり寄ったりで、大して学びにはならなかったな」
「それは残念でございます」
 断ってくれてよかったと思おう。一緒のテーブルに着いたところで、ただ苦痛な時間が過ぎるだけなのだから。
(だけどこれも義務と思ってお声がけしてあげたのにその態度! どうかと思う。どうかと思うわ!)
「では失礼」
 短く返すとダリウスは、シャノンが来た方へと足早に進んでいく。
 ほっと息をついた時だ。
「ダリウス・リセンブルグ殿下、お願いがございます!」
 柱の陰から飛び出してきた壮年の男が、ダリウスの前に片膝を突いた。
 服装は高価そうだが手入れが行き届いておらず、髪は乱れ、髭も伸びたままである。
「どうか通告を取り下げていただけませんでしょうか。わずかな領地すら取り上げられては、私の家族は暮らしていけません!」
 侍女たちが、すかさずシャノンを背に庇う。
 シャノンは驚きつつも、目を血走らせた男と彼を見下ろすダリウスの様子を見比べた。
 沈黙を破ったのは、ダリウスの冷ややかな声だ。
「王家御用達の承認を餌に、貴様が商人たちから大量の賄賂を受け取っていた調べはついている。自業自得という言葉を知らないか」
「しかし殿下、私にはまだ小さな子供もおりまして!」
 男を見下ろしたまま動かないダリウスの瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「その子供に言えないようなことをしたのは誰だ。育てられないなら、孤児院にでも預ければいい」
「なんと冷酷な……殿下に人の心はないのか!」
 男は声を荒げ、不意に立ち上がると血走った目をシャノンへと転じた。ダリウスにはかなわないと分かっているので、狙いを変えたのだ。
 シャノンが息を呑んだその刹那、空気が揺れた。
 ダリウスが腰から剣を抜き放つ。
 その切っ先は男の襟元を貫通し、次の瞬間には、廊下の壁に突き立てられていた。
 何が起きたか分からぬままに壁に縫い留められた男は、呆然と目をしばたたかせている。
「覚えておけ。それが本物の王家御用達の剣だ」
 ダリウスの指示で、従者たちが男を拘束していく。もはや男はされるがままだ。
 最後にダリウスはちらりとシャノンを見たが、何も言葉をかけることなくマントをひるがえし、背を向けてしまう。
「近衛騎士の配置換えをしろ。次こんな者を通したら、騎士隊ごと処分する」
「はっ」
 従者に告げ、カツンと靴を鳴らして去っていくその姿を見つめながら、シャノンは胸に両手を押し当てた。

 王太子、ダリウス・リセンブルグ。
 公爵令嬢、シャノン・ランバルト。
 現在二十歳の二人は、三年前に婚約した。ダリウスの即位を待って、式を挙げる予定である。

 しかし。
 ――俺が君を愛することは、決してない。
 かつて投げつけられた言葉が、今も耳の奥に残る。
(冷酷無情の次期国王、ダリウス殿下……あんな方の妻になんて、私は本当になれるのかしら)
 振り向かず去っていく背中を、シャノンは不安な気持ちで見送るのだった。


 駆けつけてきた近衛騎士に状況を説明しているうちに、お茶ができる時間はとうに過ぎてしまった。
「お嬢様、今日もあの場所に寄っていかれるのですか?」
「少しだけよ。探している本を見つけたら、すぐに戻るから待っていて」
 まだ不安そうにしている侍女たちに笑顔を見せて、シャノンは石で造られた塔に向かって足を進めていく。
 先ほどの事件は驚いたが、無情なダリウスの政策が恨みを買いがちなことは、シャノンもよく分かっている。実際、直訴を目の当たりにしたことは今までもある。
 しかし巻き込まれかけたのは初めてだ。なのに労る言葉の一つもかけられなかったのは、やはりどうかと思ってしまう。
 そうなると、その直前の「その本は大して学びにならない」発言に対してもふつふつと怒りが再燃してくるというものだ。
(何よ。おとぎ話の何が悪いのよ! 伝承にこそ、真実があるものではないの?)
 ぷりぷりとしながら扉をくぐったシャノンだが、塔の中に足を踏み入れた瞬間に、ささくれ立った気持ちがすっと凪いでいくのを感じた。
(やっぱり私、この塔が好きだわ)
 王太子の婚約者としてふさわしい振舞いを求められ、気を抜くことができない王宮において、唯一素の自分に戻れる場所。
 この王国で最も古い塔。通称「物語の塔」である。
 王宮の広大な敷地の北端に、忘れられたように佇(たたず)むその石造りの塔は五階建てで、四階までは吹き抜けとなっている。四方の壁には背の高い棚が作りつけられ、そこにはびっしりと物語やおとぎ話に関する書物や資料が並んでいるのだ。
 ずっとずっと昔、この大陸には妖精や魔法使いが住んでいたという。どこまでが真実でどこからが創作か分からない、そんな伝承をダリウスなどはくだらないと片付けるが、シャノンは幼い頃から、その真実こそが物語の中に隠されているのではないかと想像してしまうのである。
 この塔だってそうだ。
 なぜわざわざ物語にまつわる蔵書だけを集めているのか、誰がこの塔を作ったのか。三百年に及ぶセラルド王国の歴史に埋もれ、今や知る者はいない。しかしそれすらもまた、物語のように神秘的ではないか。
 塔の中は、しんと静かだ。そして涼しい。
 元々、読書は大好きだ。特におとぎ話や物語に目がないシャノンにとって、ここは宝箱のような場所である。
 だから隙を見ては、この塔で時間を過ごしている。塔の蔵書を読むことはもちろん、勉強道具を持ち込んで自習することだってある。ここでなら、苦手な科目も集中して取り組めるのだ。
(王太子妃になるんだもの。せめて恥ずかしくないくらいにはならなくては)
 三年前にダリウスと婚約してから、シャノンは礼儀作法といった王太子妃教育だけではなく、地政学に経済学、政治学や異国の言語などの習得にも自主的に励んできた。
(だって、あの男に馬鹿にされるわけにいかないもの)
 ダリウス・リセンブルグ。
 挑発的なほどに整った美貌を持ち、若くして政治の表舞台に立った王太子。
 彼のもとで、この国は腐敗から立ち直った。しかし一切の情を挟まないその姿勢から、「冷酷無情の王太子殿下」などと呼ばれている。

 ――俺が君を愛することは、決してない。

 かつて投げつけられた言葉がまたも耳に蘇(よみがえ)ってしまい、思わず深いため息をついた。
(いけないわ。落ち込んだって仕方がないのに!)
 上位貴族の結婚に、愛情などを期待することが間違っているのである。
 リセンブルグ王家唯一の正当な後継ぎであるダリウスと、宰相も務める筆頭公爵家の令嬢・シャノンの結婚は、間違いなくこの国にとって有益だ。それだけで、結婚するには十分な理由になる。
「そうよ。前向きに考えなくちゃ。たとえばこの塔に入れること。これはもしかして、ダリウス殿下と婚約して唯一の良かったことかもしれないわよね!」
 気持ちを鼓舞しようと大声で宣言しつつ、並ぶ棚の一つを通り過ぎた、その先に。
 まさに、その当人が立っていた。
「……」
「……」
 二人無言のまま、しばし見つめ合ってしまう。
「君は、独り言も賑やかなんだな」
 ふう、とため息をついて、ダリウスは手にした本を閉じた。
 黒いベストに白いシャツとアスコットタイ。黒いズボンにブーツ。先ほどと比べて、幾分ラフな服装だ。
「ダリウス殿下……なぜここに?」
「別に。時間が余っただけだ」
 古代の物語の書物が並んだ棚に寄り掛かっていたダリウスは、しれっと言った。
(私とのお茶は断ったのに?)
 言いたいことはあったけれど、シャノンはすぐに笑みを顔に貼りつけた。
 王宮には、最新の書物がずらりと並んだ巨大な図書館も併設されている。賑わうそちらと違い、この「物語の塔」を訪れる者はほとんどいないのだが、なぜかここでダリウスと顔を合わせることは珍しくなかった。
(一体こんなところで何をしているのかしら。物語とかおとぎ話とか、馬鹿にしているくせして!)
「そうですか。それは奇遇ですね。それではそれぞれ別々に有意義な時間を過ごしましょう。では」
 ダリウスを迂回して、奥へと向かおうとしたが。
「ずいぶんここが気に入ってるんだな」
「はい。ここに来るととっても落ち着いて、自習もはかどるのです。素敵な場所ですよね。本も資料もたくさんあって」
 思わず嬉しくなって、振り返ってしまう。
 しかしダリウスは書棚の端に背をもたれて腕を組んだまま、冷ややかに言った。
「この塔は老朽化が進んでいて、今年中に取り壊す計画だ」
「えっ」
「そもそも、物語だけに蔵書を限定した図書館など、費用対効果が悪すぎる」
「そんな……」
「残念だったな、これで俺との婚約で良かったことが何もなくなってしまったか」
 さすがにシャノンは目を見開いた。
「お言葉ですが、そのような言い方は不本意です。たとえいいことなんて何もなかったとしても、私は殿下との結婚を滞りなく進め、形だけの王妃となる覚悟はできておりますから」
「形だけの?」
「ええ。だけどご安心ください。心の中がどうだとしても、表向きは責任を持って、王妃の役割を果たしてみせます」
(この結婚が嫌なのが自分だけだと思ったら、大間違いなんだから!)
 するとダリウスは、わずかな沈黙の後ぼそりと言った。
「それは、心の中では別の男を想うということか」
(何よそれ、どういう意味?)
 あまりに失礼ではないか。そう口を開きかけた時だ。

 ――あーあもう、素直じゃないんだからなあ。

 不意におかしな声が聞こえた気がして、シャノンはあたりを見回した。
 しかしこの部屋にいるのは二人だけ。周囲を取り囲むのは天井まで続く、本がびっしりと収まった書棚のみだ。
(気のせいかしら……)
 しかしダリウスも、怪訝そうに周囲の書棚を見上げている。
「殿下にも聞こえましたか? 今、おかしな声が……」
 思わず一歩ダリウスに近づく。するとダリウスは、ぴくりと避けるように身を引いた。

 ――お? いいないいな? ぐつぐつと、腹の底から湧き上がってきたぞ?

 まただ。
 大人のような子供のような、甲高くよく響く声が図書館の高い天井にこだまする。

 ――これだよこれ。行き場のないこの熱い想い。愛欲・肉欲・独占欲。魂を焦がす極上の欲望。最高だ!! ぜんぶぜーーーーんぶ、おいらが形にしてやるぞ!!

 声がどんどん大きくなる。それに呼応するように、足元が大きくぐらついた。
「えっ……?」
 まるで波の上に立つように、ぐらんぐらんと床が揺れる。
「きゃっ」
 しゃがみ込もうとした足がもつれて、近くの書棚に身体ごとぶつかってしまった。
 ぐにゃりと歪(ゆが)んだ書棚から、本が一斉に降ってくる。
 息を呑んで見上げた先、棚の一番上から大きな黒い塊が、ずるりと落ちてくるのが見えた。

「シャノン!」

 叫ぶ声と共に、全身が何か温かいもので包まれたような気がして。
 その直後、強い衝撃にシャノンは意識を失った。


 ――シャノン。
 懐かしい声に呼ばれたような気がして、重い瞼(まぶた)を持ち上げた。
「え……?」
 自分が冷たく黒い床の上に横たわっていることに気付く。
 恐る恐る身を起こした。あたりは暗闇で、シャノンの身体の周りだけがぼんやりと薄く光っている。
「ここは……?」
 手探りで、目の前の床に両手を突いた。大理石だろうか。すると今度は手を突いた場所の周辺が、ほのかに照らし出される。
(まるで魔法みたい……)
 そんなはずはない。魔法なんて、伝説の中にしかないはずだ。
 シャノンは、胸元を右の掌でそっと押さえた。欠かさず身に着けている、お守りのペンダント。服の下にその小さな石の存在を感じながら、どうにか心を落ち着かせる。
(大丈夫、冷静に思い出して)
 ついさっきまで塔の中にいたはずだ。この国ができる前からあったという、蔦(つた)の絡まった石造りの「物語の塔」。そしてどこからか不思議な声が聞こえて、棚の上から何か大きなものが落ちてきて――。
 そこまで記憶をたどった時、シャノンは顔を跳ね上げた。
「ダリウス殿下……?」
 あの時、揺れる床の上で、誰かが自分に覆いかぶさってきたのではなかったか。
(まさか。あの方がそんなことをするはずがない。だけど……)
「ダリウス殿下!」
 あんなことがあったのに、シャノンの身体はどこも傷ついていない。それはダリウスが、身を挺(てい)して庇ってくれたからではないだろうか。
 最初は這うように、だけどすぐに立ち上がり、シャノンは前へと歩き出した。
 相変わらず周囲は真っ暗だ。しかしシャノンが進むたび、足元の周辺だけはぼんやりと照らし出されていく。
 両手を左右前後に振ると、ひたりと冷たい壁に指先が触れた。そのまま壁を伝い、手探りで進んでいく。洞窟だろうか。いや、床も壁も大理石でそれはあるまい。それに遠くて高い天井には、青白い光がぽつんぽつんと頼りなく、点いては消えてを繰り返している。道は何度も折れ曲がり、そのたびに分かれ道がある。
 何の手掛かりもないので直感に従って進んでいったシャノンだが、そのうちにだんだんと、この場所のイメージが頭の中に描かれてきた。
 ここはまるで、迷路のようだ。複雑に入り組んだ細い道が、果ても分からないほど何重にも続いているのである。
(まるで、物語の中みたい)
 迷宮を攻略する冒険物語なら、何冊か読んだことがある。しかし実際に迷い込みたかったわけではない。当たり前だろう。物語の迷宮には、たいてい怪物が潜んでいるのだから。そう、まさに次の角を曲がった先に――。
 心臓がどくんどくんと鳴る。
「殿下! どこにいるのですか? 返事をしてください!」
 萎(な)えそうになる勇気を奮い立たせて、また一歩を踏み出した時。
 囁(ささや)く声が聞こえた気がした。この空間に不釣り合いな、どこか浮き立ったような声だ。
(誰かいるの……?)
 シャノンは息を呑み、声のする方向へと進んでいく。気持ちがせいて、歩く速度も上がっていく。
「ダリウス殿下? いるんでしょう? 隠れているのではないですよね?」
 少し先の曲がり角の向こうから、光がこぼれてきているのが見えた。ピンク色の光だ。この空間に違和感があるほどに明るい。
 ほっとして、シャノンはさらに足を速めた。
「ダリウス殿下!」
 角を曲がった先は、大きく開けていた。
 降りそそぐピンク色の光がまぶしくて、とっさに目を庇う。
 そしてその先に、シャノンは信じられないものを見た。

【ああんっ……】
 甘く甲高い声が、高い天井に響き渡る。

 ぽかりと開けた空間の中央は周囲より一段高くなり、ピンク色の照明に照らし出されていた。王都の中央にある貴族の社交場、王立歌劇場を思い出す。あの舞台をぐっと小さくしたようなものだわ、とシャノンはぼんやり考える。
 そう、ピンク色の光の下、まさにそこでは芝居のようなものが繰り広げられていたのである。
 無機質な周囲から隔絶した空間に作り上げられた、もう一つの世界。書物がびっしり収まった書棚、木の机、石畳みの床。
(「物語の塔」の、中……?)
 ぽかんと口を開いたシャノンの目の前に再現されているのは、まさについ先ほどまで自分たちがいた、塔の一画に違いなかった。
【だ、だめです、お待ちください、ダリウス様、あっ……んっ……だめぇ】
【そんなことを言って、君のここはすごく喜んでいるようだが】
 しかし今問題なのは、どう考えても舞台の精巧な再現性ではない。
 その中央にいる二人の人物により、行われていることである。
 プラチナ色の髪に濃いグレイの瞳。青いピアスを光らせた青年が、机に身を乗り出している。
(うそ、でしょう……?)
 その整った横顔は、どこからどう見てもこの王国の王太子であり、シャノンの婚約者である――ダリウス・リセンブルグ、その人だ。
 さらに、舞台上にはもう一人。
 机の上に行儀悪く腰を乗せ、左右に突かれたダリウスの腕で逃げ場を失った女性がいた。
 濃紺のドレスは詰襟で、この季節には少し暑い。最近は夜会の治安も良くなって、令嬢たちの間では、デコルテを大きく開いたドレスが流行しているのは知っていた。しかしそういうものを着ては、はしたないとダリウスが眉をひそめるのではないか。そう思い、常に胸元が詰まった保守的な服を着るように心がけていたのだ。
 しかし今はそのドレスも、首から腰まで続くホックがすべて外されて、真っ白な肌が露(あら)わになってしまっている。
 彼女のこぼれた胸元から覗くシルクの胸当て。彼はそのカップの中に指先を差し入れて、無遠慮に中をまさぐっているのだ。
【あっ】
 敏感なところに触れられたのか、彼女は肩を跳ね上げて、ひどく高い声を上げた。
 舞台上のダリウスが、呆れたように息をつく。
【やはりそうか。この小さなところがぷっくり硬くなっている】
【だめ、ダリウス様、いけません。外にいる侍女や護衛に、何をしているのか見られたら……私、恥ずかしい】
 舞台上の女性は甘えた声で訴える。しかし目元はほんのり赤く染まり、瞳は揺れるほどに潤み、言葉とは裏腹に、何かをねだっているようだ。
 ダリウスは、すべて分かっているというように言ってのける。
【なるほど。俺にだけ見せたいということだな】
【そ、そんな……!】
【いい心がけだ。君の可愛い声も俺だけが聞けばいい。ほら、もっと鳴いてみろ】
 ダリウスは、彼女の喉元に唇を当てて強く吸い上げる。胸当ての中の指は、相も変わらず彼女の胸の先をなぶっている。
【やっ……ああん、ダリウス様ぁ……】
 舞台の上のダリウスは、濃いグレイの瞳に熱をにじませ、彼女のことを見つめている。普段シャノンを見る時の瞳とは大違いだ。
 まるで肉食動物が、愛情と肉欲という相反する感情の間で葛藤しつつ、それすらも楽しんでいるような。ダリウスの指先は、彼女の胸当ての中で執拗に動いている。そのたびに、彼女はぴくぴくと肩を震わせる。
 そしてついに、ダリウスの指先が、女性の胸元の布をすべて引き下げる。
 ぷるんと上下に弾みながら、白く大きな胸が溢れて揺れた。
【あっ。だめ。恥ずかしい】
 とっさに隠そうとした彼女の手首を、ダリウスは容易く拘束した。そのまま、彼女の胸の先に密(ひそ)かに息づく小さな突起に唇を落とす。
【あんっ……ダリウスさまあっ……だめえっ……】
 拒絶の言葉と裏腹に、ひどく甘く蕩(とろ)けるような声があたりに響き渡る。

「い、一体……あなたたちは、一体何をしているの……!!」

 ようやく、凍りついていたシャノンの身体が動いた。
 ドレスの裾をたくし上げると、目の前の舞台上へと駆け上がっていく。
 しかしその瞬間、舞台は蜃気楼のようにかき消えた。
「えっ!?」
 振り返ると、さっきまでシャノンが立っていたあたりに同じ舞台がぽわんと姿を現したところだった。その上では何事もなかったように、二人が卑猥な行為を続けている。
 ダリウスに胸の先をなぶられている女性が激しく首を振ったので、しっかりと編み込まれていた髪がほどけてふわりと広がった。ピンクゴールドの、たっぷりとした髪。
【可愛い声をもっと聴かせてみろ――シャノン?】
 舞台上のダリウスが、煽(あお)るように顎を持ち上げ、ゆっくりと唇を舐めた。
 彼が見下ろす女性の顔が、シャノンにはっきりと見える。いや、最初から見えていた。しかし理解することを頭が拒否していたのだ。
 彼女は……舞台の上で服をはだけさせ、胸の先端をダリウスになぶられ、とろんとした目で甘い声を上げているのは……。
 まごうことなく、シャノン・ランバルト自身――と、同じ形をした、何かだったのだから。

「きゃ、きゃあああああああああああ!?」

(あれは何? 何をやっているの? どうしてあの女性は、嫌とか駄目とか言いながらも、決定的な拒絶をしないの? ううん、ううん、そうじゃなくて、そもそも一体なぜ、私がもう一人いるの? そして一体、あっちの私は何をしちゃっているの!?)
 不意に、自分とその舞台の間に、黒い影が割り込んでくる。
「シャノン、ここにいたのか。周囲を一周して探していた」
「いゃあああああああ!!」
 目の前でシャノンを見下ろしてくるのは、軽く息を弾ませた――ダリウス・リセンブルグ。
 反射的にシャノンは後ずさった。ふー、ふー、と肩で息を繰り返す。
「落ち着け。落ち着けないだろうが落ち着く努力をしろ」
「黙って触らないで近寄らないで!」
 両手を突き出して、全身で警戒の姿勢を取るシャノン。
【ああんっ……】
【恥ずかしがらなくていい。全部分かっているからな】
 ダリウスの背後の舞台からは、変わらず偽シャノンの嬌声が響いてくる。続いて、そんな偽シャノンを煽るもう一人のダリウスの声も。
(ダリウス殿下が……二人……?)
 目の前のダリウスは、ため息をついて荒々しく髪をかき上げると、両腕を開いて断言した。
「いいか、シャノン・ランバルト。セラルド王国の玉座に誓おう。あれは俺じゃない」
「――――はい?」
「あの舞台の上で不(ふ)埒(らち)な行為をしている男だ。あれは俺じゃない」
「そそそそっくりですけど!?」
「それを言うなら君だって、舞台の上のあれは、そっくりだが君ではないだろう」
 何を言い出すのだ。冗談ではない。
「わ、私のはずがないですよ!?」
「あれが君じゃない前提が成り立つなら、あれは俺ではない。証明としては成立しているはずだが?」
 シャノンは、何度も何度も息を吸い込んでは吐き出して、を繰り返す。
 ダリウスの背に隠れて舞台が見えなくなったのもよかったかもしれない。やがてほんの少しずつだが、頭の一部分が冷静さを取り戻していく。
 確かにあれは自分ではない。そしてダリウスでもないとしたら。
「……それでは、一体あれは何なのですか!?」
「分からない。しかし予想はつく。おそらく、俺たちの結婚を喜ばない勢力の陰謀だろう」
 そういう勢力なら心当たりがある。シャノンの父・ランバルト公爵と権力を競い合う名門・シャルバーン侯爵家などがその筆頭だ。それ以外にも、ダリウスの冷酷な手腕を逆恨みする者は多いはずだ。ついさっきも、そのうちの一人が奇襲を仕掛けようとしたではないか。
「陰謀……」
 権謀術数が渦巻く社交界の頂点に立つならば、どんな狡猾な思惑にも惑わされることなく、真実を見抜く力を身に付けなくてはならない。ダリウスとの婚約が決まった時、父であるランバルト公爵から言い含められたことである。
(い、今こそが、その時なのですかお父様……!?)
「おそらく禁術を使った呪いだろう」
「禁術……!? え? 魔法のことですか……!?」
「ああ。俺たちをここに閉じ込めてありえないものを見せて、仲たがいさせるつもりなんだ」
 形のいい眉をくっとひそめるダリウスを見つめ、シャノンは口をはくはくさせる。
「だけどそんな、魔法が今も本当にあるなんて……」
「君の言う『魔法』というような不可思議な力なら、実は今もわずかにこの世界に残っている。むろん危険すぎるゆえ知る者はごく一部だし、使用は制限されているが」
「な、なんてこと……!」
 シャノンは目を剥(む)いた。
 にわかには受け入れがたい事実ばかりが飛び出してくる。到底信じられないが、信じないわけにもいかないだろう。
【ああんっだめぇっ】
 なんといってもまさに今、相変わらずダリウスの背中越しに、自分と同じ形をした何かがとんでもない嬌声を上げているのだから。
「で、でも、魔法ならば納得です。だって私たちがあんなこと……するはずがないですもの!」
「ああ。あまりに醜悪な状況だ。見るに堪(た)えない」
 こめかみに右手の薬指を押し当てて首を横に振るダリウスに、シャノンは大きく頷いた。
「そうですわ。私たちは、ああいうのから一番遠いというか、たとえ結婚したとしても、あのようなことは一生するはずがないと決まっているくらいに冷え切った関係なのに……ありえない姿を魔法で見せつけるだなんて、あまりにひどい侮辱です!」
「……」
 勢い込んで同意したのに、ダリウスは、なぜかわずかに目を瞠(みは)り口を閉ざした。
「ダリウス殿下?」
「あ、ああその通りだ。君とあんなことをするなんて屈辱的だ。冗談じゃない」
 さすがにその言い方はないのではないかと思ったが、それどころではないので流しておく。
「とにかくここを離れて、この迷宮の出口を探すぞ。こんな下劣な魔術に付き合う必要はない。君もとりあえず目と耳をふさいで……」

「下劣な魔術ってのは聞き捨てならないなあ!!!!」

 煌(きら)めく光が頭上を旋回したと思ったら、キンキンとした声が響き渡った。
 見上げたシャノンの目の前に、すとん、とその光が落ちてくる。
「おいらは魔物の中でも特別な力を持つ『夢魔』だぞ! そんじょそこらのしょぼい魔法なんかと一緒にされちゃ困るんだ!」
 子供のような老人のような、不思議な声に覚えがある。あの時、塔の中で聞こえたものだ。
 目の前で煌めく羽をはためかせているのは、掌に乗るくらいの大きさの……妖精、だろうか? いや、尻尾があるからこれは悪魔……夢魔と言ったか?
 混乱するシャノンをよそに、緑色のツンツン髪に赤くて大きな真ん丸の瞳を持った、赤ん坊のような顔のその生き物は、茶色い葉っぱでできた粗末な服をひらひらとさせながら空中をポンポンと飛び跳ねている。
「これは貴様の魔術か。どこの家の差し金だ」
 呆然とするシャノンの代わりに鋭い声で問うたダリウスに、夢魔は調子よく答える。
「おう、王子サマ! さっきおいらが封印されていた糸車を、おまえがぶっ壊してくれただろ? ありがとな! そのお礼に、おまえがいつも妄想している欲望を、夢の中に具象化してやったんだよ!」
 ほらあそこ、と夢魔はダリウスの背後を指し示す。こんな騒ぎの最中にあってもお構いなしに、舞台の上からは相変わらず嬌声が響いてくる。
【あん、ダリウス様~~】
【シャノン、ほら、よく胸を見せてみろ】
「糸車……?」
 シャノンはつぶやく。
 あの塔にあるのは書物だけではない。王家に代々伝わる様々な道具類や資料なども所蔵されていた。管理が追いつかないのか、書棚の上に雑多に積み上げられているものもあったはずだが。
 あの時シャノンの頭上に落ちてきた黒く巨大な塊。あれは糸車だったのか。
「本来なら実際に体験させてやれたはずなんだけど、まだちょーっとだけおいらの力が足りてなくて、立体映像になっちまった。でも、自分の欲望を客観的に鑑賞するってのもまた一興だろ? アカデミックってやつだ」
(確かに、糸車が出てくるおとぎ話はあるけれど)
 魔女の呪いがかかった糸車に指を刺されて眠りについたお姫様は、王子様の口付けで目覚めるのだ。
(あれはおとぎ話ではなくて、実際にあった話ということ? その糸車が、あの塔の中に残っていたの? 夢魔? 魔女ではなく? えっと、ううん、そうではなくて)
 もっとずっと大切なことを、この夢魔はさっき言った気がする。
「あの」
「おお、お嬢さん! 力使うの久しぶりだから加減が分からなくてさ、おまえも巻き込んじまったな。ごめん!」
「シャノン、下がっていろ」
 ダリウスが、シャノンと夢魔の間に割り入る。しかし横から素早く顔を出し、シャノンは声を張った。
「あそこで変なことをしている二人って……」
 夢魔はぱあっと笑顔になると、薄い胸を精一杯に張り、フンスと鼻から息を出す。尖った尻尾が得意げにひょこりと上向いた。
「すげーだろ? おまえと一緒にいる時に、この王子サマがいっつも抱いている欲望だ。おいらたち夢魔には人間の欲望を夢の中で叶える力があるんだけどさ、まるで本物みたいだろ? おいらの力はもちろんだけど、この男の欲望の力がすごく強くて具体的だったから、再現性もばっちりだ。おい、感謝の言葉はどうしたんだ?」
 ダリウスの顔を得意げに覗き込んだ夢魔が、首をかしげている。
 ぴくりとも動かないダリウスの背中から、シャノンは一歩離れた。
「話を聞くんだ、シャノン」
 ゆっくりと、ダリウスが振り返る。
 いつもと同じ冷静な表情。ほんの少しも揺るがない、冷酷無情のダリウス・リセンブルグ。
「嫌……」
 伸ばされた手を、シャノンは振り払う。
 ダリウスの後ろに見える、相変わらずピンク色に照らし出されたままの舞台。その上では、偽ダリウスが偽シャノンを組み敷いて、露わになった胸を掴み、唇を寄せている。
 偽シャノンが、ひどく甘えた声でダリウスを呼ぶ。
【ダリウス様、や、あん、んっ……気持ちいい、です……】
【いいぞ、シャノン。今日もたっぷり可愛がってやる】
 目の前のダリウスが、舞台からの声をかき消そうとするように声を張る。
「違うんだシャノン。いいか、落ち着け」
 頭がくらくらとする。もう限界だ。何も考えられなくなる。
 シャノンは腕を振り上げた。生まれて初めて、人間の頬に向けて振り下ろす。
「最低!!」


この続きは「「君を愛することは決してない」と言った王太子が、毎晩私の淫夢を見ているなんて聞いてません!」でお楽しみください♪