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エリート弁護士との秘密の婚姻関係 ~愛する旦那様でしたが、契約結婚解消します!~

佐木ささめ / 著
森原八鹿 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/04/26

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内容紹介

何度だって君に恋をする
契約結婚して戸籍上だけの夫婦となり、義父の暴力から桃華を守ってくれた弁護士の伊藤國弘。当時は仮初の妻であっても彼の妻になれたことが嬉しく、いつか本当の妻になる時がくるのかも、と淡い期待を抱く桃華。しかし日本とNYで離れて暮らす國弘に恋人が出来たと知り!?独り立ちするため離別を決意した桃華だったが、形だけの夫婦だったはずが、離れたとたん、國弘からの執着が強まって!?なぜか同棲状態まで距離を詰められ、囲い込まれて――。極上の快感に溺れる、激甘の日々が始まって……。モデルのようなイケメン弁護士と平凡OLの遅くやってきた執着愛!!

立ち読み

◇第一章


 天国から地獄という言葉がある。今の心境はまさにそれだった。
「うわぁ、隅(すみ)川(かわ)主任の彼氏、めちゃくちゃイケメン!」
「ほんとだ! かっこいい!」
「主任との身長差すっごい。彼氏さんって百九十センチぐらいありますよね」
 同僚の女子社員たちがはしゃぐ声を聞きながら、伊(い)藤(とう)桃(もも)華(か)は放心していた。
 ――この人、私の旦那さん……
 どう見ても自分の夫である伊藤國(くに)弘(ひろ)が、隅川と寄り添って写っている。この類(たぐい)稀(まれ)な美貌は間違いない。
 桃華は心臓が潰れそうな痛みを覚えて、一歩後ずさった。気分はジェットコースターが頂点から降りるときのようで、目眩(めまい)さえ覚える。
 たまらずその場から静かに離れた。

 四月上旬の金曜日、今日は会社の歓迎会だ。
 愛知県名古屋市にある大手住宅(ハウス)メーカーのサワノイホーム株式会社では、自社ビルの大会議室を使って立食パーティーを行うのが伝統だった。
 全部署の新入社員だけでなく役職付きも参加するため、れっきとした仕事になる。行きたくない者も欠席は不可。
 もちろん桃華も参加した。
 そして本日の主賓の中に、アメリカ事業所から戻ってきた女性の社員がいた。桃華が所属する住宅事業部で新しく主任になった隅川だ。
 桃華たちが隅川を囲んで談笑していたところ、話の流れで恋人の有無になり、新卒の女子社員が隅川へ、「彼氏はいるんですか?」と聞いてしまった。
 隅川は一瞬、真顔になったが、すぐに微笑むと彼氏とのツーショット画像を見せてくれた。ニューヨークで執務する弁護士で、遠距離恋愛しているという。
 彼女たちが話す声を聞きながら、桃華はふらふらと大会議室を出た。階段で上の階へ行くと無人の化粧室に入る。
 わざわざ上階へ移動したのは、誰とも会いたくなかったからだ。
 鏡に映る自分は蒼ざめていた。
「ひどい顔……」
 二十五歳にしては華やかさがない自分の顔は、いつ見ても地味だった。夫のように他者を惹きつけるような魅力やカリスマ性など、かけらも見当たらない。
 それに比べて隅川は美人だ。
 彼女はサワノイホームに入社して数年後、社内公募による海外事業所のポストを勝ち取り、実績を積み上げて帰国したバリキャリだ。赴任先はニューヨークだという。
 國弘もそこで働いているから、現地で知り合ったのだろう。
「……お似合いだな」
 ぽつんと零(こぼ)れた言葉が、胸に黒い染みとなって広がっていく。本当に、自分よりもよほど似合っている。
 特に経歴が。
 國弘は東京の大学へ進学して、在学中に予備試験と司法試験に合格した後、東京の大手法律事務所へ就職した弁護士だ。
 数年後、アメリカに渡ってロースクールを修了し、ニューヨークの法律事務所で執務をしている。
 彼もまたグローバルエリートなのだ。隅川と同じで。
 ――いつかこういうときが来ると覚悟していた。
 自分が夫にとって妹のような存在でしかなく、大切にされているが男女の愛はなく、人助けで妻にしたと理解している。
 自分たちは契約結婚だ。双方にメリットがあるから、婚姻届に記入をして役所へ提出した、それだけの関係。
 当然、夫婦らしいことは何もしていない。一緒に暮らしたこともない。……肌を合わせたことすらない。
 だから桃華は二十五歳になっても処女のままだ。
 でも本音では、いつか妻として見てくれるんじゃないかって期待していた。彼に女として意識してもらう努力もしてないくせに、都合のいい夢を見てきた。
 そんな奇跡など起きるわけがないのに。
 ――もうそろそろ、あの人を解放するべきなんだろうな。
 一年ほど前に、桃華が契約結婚をする原因となった人物が亡くなった。そのため國弘と別れても問題ない状況に変わっている。
 離婚との単語が脳裏に浮かび、いきなり涙がこみ上げて視界がぼやけた。
 ――泣くな。ここはまだ会社で今は仕事中!
 唇を引き結んで目尻にハンカチをそっと押しつける。深呼吸をして悲しみを抑え込むと、素早くメイクを直してから大会議室へ戻った。

   ◇   ◇   ◇

 桃華の父方の実家である石(いし)倉(くら)家は、戦前から不動産業で財を成した資産家の家だった。しかし桃華の祖父が放(ほう)蕩(とう)を尽くし、大半の土地を手放すはめになった。
 しかも後継となる桃華の父親の代になっても、苦労知らずのお坊ちゃんである父は、働かず結婚もせず遊び暮らし、遺(のこ)された資産を食い潰す生活を続けた。そして彼は五十代になってようやく結婚を決意する。
 相手はキャバクラで見初めたキャバ嬢――友(とも)佳(か)だった。なんと三十歳も年下の女性で、いわゆるトロフィーワイフというものだ。
 石倉の周囲は友佳との結婚に反対し、いずれ友佳が初老の石倉を裏切って若い男でも作るだろうと想像した。
 しかし石倉と友佳は意外なほど仲のいい夫婦となり、結婚してすぐに娘の桃華が誕生し、幸せな家庭を築いていた。
 それなのに石倉は不摂生な生活を続けていたせいで糖尿病を患(わずら)い、心筋梗塞で突然死した。桃華が中学二年生のときのことだ。
 妻の友佳は夫を喪(うしな)った寂しさに耐えられず、ホストの安(あん)西(ざい)にのめり込んだあげく、喪が明けた途端に彼と再婚してしまう。
 父親に愛されていた桃華は安西を拒絶したが、実母が再婚した以上、嫌々ながらも義父と暮らすしかなかった。
 それから三年後、桃華が高校三年生になった頃、友佳が乳がん、しかも末期との診断が下って余命を宣告された。
 友佳はショックを受けたものの、長年世話になっている弁護士に勧められて遺言書を作成することにした。
 友佳の法定相続人は、夫の安西と実子の桃華の二人になる。
 友佳は亡き夫の石倉から相続として、高級住宅街にある土地と自宅、名古屋市の中心部にあるオフィスビルを所有していた。
 そこで友佳は、安西が広い自宅を気に入っていたこともあって、自宅を彼に遺し、オフィスビルを娘に遺すと決めた。
 自宅は二百坪近い広さを有し、市内でも特に地価が高いエリアに建てられているため資産価値は高い。
 安西は自宅が自分のものになることを喜んだが、欲の皮が突っ張り、やがてオフィスビルの賃料収入も手に入れたいともくろむようになる。彼は友佳が入院している隙に、桃華を従属させようと暴力を振るい始めたのだ。
 家を逃げ出した桃華が頼ったのが、のちに夫となる國弘だった。

   ◇   ◇   ◇

 歓迎会の翌週、月曜日。
 桃華が始業二十分前に住宅事業部へ出勤すると、驚いたことに隅川の姿があった。自席ですでにパソコンを開いている。
「おはようございます、主任。早いですね」
「おはよう伊藤さん。M銀行との打ち合わせがねじ込まれたから行ってくるわ。さっそくだけどF邸の図面、修正版が上がってきたから確認してね」
「あっ、はい」
 慌てて自席でパソコンを立ち上げると、隅川が「午後には戻ります」と告げて颯(さっ)爽(そう)と部署を出ていった。
 桃華は肺の中を空にするほど大きく息を吐く。隅川にはなんの罪もないのだが、國弘の恋人だと思うと心理的に構えてしまうのだ。
 ――日本とニューヨークの間で遠距離恋愛してるってことよね。続くのかしら。
 そう思う裏には、隅川が國弘といずれ別れるなら自分は離婚しなくてもいいのでは、という狡(ずる)い願いがある。
 もともと國弘は結婚願望がない。結婚に対するメリットが感じられないと、本人から聞いたことがある。
 だから桃華と契約で婚姻関係を結ぶことで、國弘との結婚を望む女たちの夢を砕いたのだ。
 二人で作成した婚前契約(プリナップ)には、互いに交際相手を作っても構わないことを盛り込んでいるから、当然、偽装結婚中にも彼には恋人の一人や二人はいただろう。……実際に隅川がいた。
 隅川は契約妻の存在を知らない様子なので、國弘が既婚者であることを聞いてないのだと思う。
 それなら二人が別れるまで、自分は何もせずこのままでいいのでは。
 ……そんな卑怯なことを考えていたから、罰が当たったのかもしれない。

 昼過ぎに客先から戻ってきたとき、ちょうど自社ビルのエントランスで隅川と鉢合わせした。
「伊藤さん、お疲れ様。ランチがまだなら一緒に行かない?」
 新任の上司からの誘いを断るのは勇気がいる。桃華は笑顔で頷いた。
 近くのトラットリアへ入ってパスタランチを注文する。幸いにも会話は仕事のことだ。
「午後からは打ち合わせだったかしら?」
「はい。ショールームに行ってきます」
 桃華はインテリアコーディネーターとして働いている。暮らしやすい住まいの実現に向けて、家具や床材などのエレメントをコーディネートするのが仕事だ。注文住宅や、分譲住宅のセミオーダーを担当することが多い。
 今回は二十五年前にサワノイホームで建てたオーナーから、リフォームの依頼が入っていた。
 オーナーは当時担当したインテリアコーディネーターに依頼したかったようだが、その社員はすでに退職していたので桃華が担当することになった。
 オーナーの奥様がキッチン環境を重視しているため、ランチ後はお客様と一緒にドイツ製キッチンメーカーのショールームへ向かう予定だ。
 仕事の話なら普通にしゃべれるわ、と桃華は食事をとりつつ密かに安堵する。だが隅川の方が話題を変えてしまった。
「もうすぐゴールデンウィークね。伊藤さんはどうするの?」
「勉強ですね」
 二級建築士の資格取得を目標にしているため、七月の学科試験に向けて勉強の日々である。
 インテリアコーディネーターは二級建築士の資格があると、住宅の構造体に関わる仕事が一人でできる。
 桃華は将来設計に独立という選択肢も入れているため、資格はぜひとも取っておきたい。何より勉強した方がお客様への提案に説得力が増す。
「主任は連休中の予定は決まっているんですか?」
「そうねぇ。……ニューヨークに行きたいわ」
 ぴたりと桃華の動きが止まった。
「えっと、ニューヨークって彼氏さんがいるんですよね。会いに行くんですか?」
「うん。そろそろ結婚も考えたいしね」
「そう、ですか……」
 隅川の表情を見れば、こちらの反応を探っている様子はない。少し難しい顔つきでパスタを見つめているだけ。
 桃華は隅川に気づかれないよう、細く息を吐いた。
 結婚の話になったら、さすがに國弘も既婚者であることを話すはず。そのとき隅川はどうするのか。
 契約妻である自分と別れてほしい、と訴えるのか。
 ――そりゃ言うでしょ。既婚って言っても夫婦生活の実態がない婚姻関係なんて、未婚と同じようなものじゃない。普通じゃありえないわ。
 もしそのとき隅川が桃華の名前を知ったら、職場で気まずいなんてものじゃない。
 もう引き際なのだと嫌でも自覚する。歪(いびつ)な婚姻関係が八年も続いた方が奇跡だ。
 いいかげん彼のためにも離婚しないといけない。自分の側に契約結婚を続ける理由がなくなったのだから。
 それに國弘から別れを切り出されるより、自分から告げた方がまだましだ。
 でないと彼への気持ちを終えることができない。
 未練を断ち切れない。
 ――別れ際に揉めるより綺麗に離婚して、美しい思い出として私を覚えていてほしい。
 それが女のエゴであるとわかっていても、願わずにはいられない。
 桃華は顔面に微笑を貼りつけながら、急に味を感じられなくなったパスタをむりやり飲み込んだ。

 それから数日がたち、土曜日になった。
 時刻は午後十時五十五分。一時間ほどで日付けが変わろうとする夜中なのに、桃華はきっちりとメイクをして普段着を着ている。
 何しろ今から國弘とビデオ通話をするのだ。風呂上がりのすっぴんでパジャマ姿なんて、好きな男には見せられない。
 日本とニューヨークは現在、十三時間の時差がある。そのため彼の休みとなる土曜日の午前中に話をするとなれば、こちらはこの時間帯になるのだ。
 早くメイクを落としたいが仕方がない。
 桃華は隅川とランチを取った日の夜、國弘へ相談をしたいとメッセージを送っておいた。できれば顔を見て話したいと。
 忙しい彼の手を煩わせたくなくて、今まで連絡事項はメッセージで済ませてきた。でも別れを告げるのにメッセージでは失礼すぎる。
 すると昨日のうちに、『オンラインで話そう』との返事が来た。そこで桃華はこの時刻に話すことをお願いしたのだった。
 桃華はリビングテーブルに置いたウルトラブックの前で正座をすると、國弘から送られた招待URLにアクセスする。
 待機する間もなく國弘が画面に現れた。
 久しぶりに見た夫に、桃華は思わずウッと仰(の)け反(ぞ)ってしまう。
 ――まっ、まぶしい……美しすぎる……
 と、心の中でつぶやいてしまうほど彼は美形だった。
 柔らかなウェーブのかかった髪は茶色く、知的な印象を受ける瞳はグレー。彼の父親は北欧系の人だそうで、國弘はいかにもハーフといった顔立ちで色合いは薄かった。
 そして顔のパーツが完璧な位置で配置されており、美男子のお手本ともいうべき容貌だ。
 白(はく)皙(せき)の美貌との言葉が、こここまで似合う人もいないだろう。ちょっと大げさな表現だが、そのぐらいイケメンだと桃華は心から思っている。
 しかもこれで三十五歳だなんて信じられない。若い。
 その絶世の美男子は、こちらを見て目を丸くしていた。すぐに優しげに微笑むから、何かに驚いたような表情は見えなくなったが。
『久しぶり、桃ちゃん。元気だったか?』
 笑うとタレ目が色っぽくてクラクラしそうだ。今みたいに微笑まれたら、絶対に卒倒する女子がいるだろう。自分もときめきすぎて気絶しそうだ。
「……お久しぶり、お兄ちゃん。朝早い時刻にごめんね」
 生まれた頃から交流がある彼を、物心つく頃には「お兄ちゃん」と呼んでいた。結婚しても変わらなかった。
『もう十時だからそんなに早くないよ。桃ちゃんの相談ならもっと早い時間でも構わないから、遠慮するな』
 桃華は國弘から、「桃ちゃん」と呼ばれるのが好きなので、こうして話しているだけで幸福度がゴンゴンと上がっていく。
 しかし今日はその幸福度がマイナスに転落する日だから、気を引き締めた。
「実は、その、今日はお願いがあって、お時間をいただきました……」
『俺に直接話したいってことは、婚姻関係?』
「うん……」
『もしかして離婚の申し出かな?』
「……はい」
 國弘に言わせてしまったことに、己の狡さを感じて臍(ほぞ)を噛む。
『好きな男でもできた?』
「えっ! まさか、そうじゃなくって……」
 好きになった人なんて國弘しかいない。少女の頃から十歳も年上の彼が好きだった。同級生なんて子どもっぽくて関心を持てなかった。
 國弘が初恋で、ずっと好きで、他の男にまったく目がいかなくて、とうとうこの歳(とし)まで恋愛をせずに過ごしてきた。
 好きすぎて、形だけの妻ではなく本当に夫婦になりたいと高望みするほどに。
「……その、去年、義(ぎ)父(ふ)が亡くなって、契約結婚をしてる理由はなくなったじゃない」
『うん』
「私、もう二十五歳なの。そろそろ先のことを考えるようになって」
『うん』
「普通の結婚とかも、憧れるようになって……それで」
 本当は告白しようと、國弘のいる海外へ行くことを何度も考えた。
 でも日本に帰ることさえない多忙な彼に迷惑をかけたくなくて……面倒くさい女だと思われたくなくて、彼に嫌われたくなくて、ずっといい子のふりをしていた。
 契約妻の誕生日にさえも連絡を寄こさない……誕生日おめでとうのひと言さえない男など、自分に興味がないのだと気づいていたから。
 もういいかげん、幼い恋を終わらせないといけない。
 誰よりも大切な人に幸せになってほしい。
 彼は自分の恩人でもあるから。
『そうだな。俺たちの結婚は普通じゃない。桃ちゃんが普通の結婚に憧れる気持ちはわかるよ。そろそろ契約関係を解消しようか』
 いつもと変わらない彼の口調と声のトーンが、こちらに対する無関心を表しているから胸が痛い。
 離婚したいと告げれば、考えることもなく了承されるとわかりきっていた。引き止めてほしいと願いながらも、そんな奇跡など起こらないと理解していた。
 自分は彼にとって、それだけの存在でしかないと突きつけられて泣きそうだ。必死に感情を押し殺す。
「……ありがとう。急にごめんね。手続きは私の方でやっておくわ」
『ああ、頼むよ』
 その後は事務的なことを話し合って通話を切った。想像以上にあっけない終わりだった。
 電源を落とした暗いディスプレイに自分の顔が映っている。
 その顔が急に泣き出したから、なんとか彼にみっともない姿を見せなくて済んだと、心からホッとした。
「さよなら。私の旦那様……」
 八年もの間、私の心を守ってくれた大好きな人。
 私の初恋。
 もう他人になってしまうけれど、彼と戸籍上だけでも夫婦になれたことは、生涯忘れないと強く思った。

   ◇   ◇   ◇

 ……桃華との久しぶりの通話を終えた國弘は、しばらく天井を見つめた後、デスクの引き出しからリングケースを取り出した。
 中には愛用するプラチナの結婚指輪が入っている。
 契約結婚をした際、桃華へ指輪を贈ってはいないが、ニューヨークでの執務が始まったタイミングで自分用の指輪を購入していた。
 既婚者アピールをするために。
 もう出番がなくなった指輪を見て彼は独り言を漏らす。
「実際に会ってみないと本心なんてわからないな。そろそろ帰国するか」
 リングケースをしまうと、日本行きの航空チケットを検索し始めた。

   ◇   ◇   ◇

 八年前、義父となった安西から暴力を受けて、家を逃げ出した桃華は國弘のもとへ向かった。
 なぜ彼に助けを求めたかといえば、國弘の母親と家族ぐるみの付き合いがあったからだ。
 友佳が相続したオフィスビルに入居しているのが、伊藤法律事務所――國弘の母親、伊藤由(ゆ)美(み)子(こ)が経営する事務所だった。
 もともと伊藤法律事務所は國弘の祖父が開いた弁護士事務所で、彼と桃華の祖父が友人だったことから、オフィスビルなどの不動産業の顧問弁護士を依頼していた。
 國弘の祖父が亡くなってからは、顧問は娘の由美子が引き継いでくれた。友佳に遺言書の作成を勧めたのも由美子だ。
 桃華にとっても由美子は頼れる小母(おば)さんで、まだ実父が生きていた頃は、國弘に勉強を教えてもらうという口実でたびたび伊藤家へ遊びに行っていた。
 小学校高学年の頃には、すでに大人の國弘に恋をしていたから。
 彼が東京の大学に進学してからは、由美子へ『お兄ちゃんが名古屋に帰ってきたときは教えてね』と頼み込むほどだった。由美子は桃華の幼い恋に気づいて、微笑ましく見守ってくれていたと思う。
 だからこそ桃華は安西から逃げ出したとき、國弘が祖父の法事で帰省していることを知っており、安西が手出ししにくい伊藤家へ走ったのだ。あの男が顧問弁護士を苦手に思っていることを知っていたから。
 桃華の真っ赤に腫れた顔を見た國弘は目を剥(む)いた。
『その顔どうしたんだ!? 誰にやられた!?』
『安西さんに……』
『あのクソ野郎、とうとう本性を現したな』
 激昂する國弘から、たとえ親子間でも司法を介入させた方がいいと力説された。しかし桃華は首を横に振った。
 余命わずかな母親にこれ以上の心配をかけたくない。寂しがり屋の母親にとって、安西が大切な夫であることは子ども心にもわかっていたから。
 その安西と娘が争ったら悲しむだろう。そんな思いのまま逝(い)かせたくない。
 ……もっとも、なんであんなクズ男を選んじゃったかなぁ、と母親の男を見る目のなさを嘆いたものだが。
 このとき桃華の手当てをしてくれる由美子が、気遣わしげに『それでも安西さんから離れた方がいいわ』と警告した。
『桃ちゃんはまだ十七歳だから、友佳さんが亡くなったら親権者がいなくなっちゃうの。それで友佳さんは生きているうちに、今度こそ桃ちゃんと安西さんを養子縁組させたいって言ってるわ。でもそうなったら安西さんに何をされるかわからないわよ』
 この当時はまだ成人年齢が二十歳で、未成年の桃華は親権者か後見人が必要だった。
 友佳が安西と再婚したときも、娘と新しい夫を法的にも親子にしたいと、桃華へ養子縁組を提案した。
 しかし桃華は安西が大嫌いだったので拒否したのだ。
 養子縁組をすると名字が変わるから嫌だと、『お父さんの石倉のままがいい!』と強く主張したところ、友佳は迷ったものの強制はしてこなかった。実父を亡くしたばかりで傷心の娘に、新しい父親を受け入れろとはさすがに言えなかったのだ。
 だから桃華は、実母が“安西友佳”になっても“石倉桃華”のままで、親と名字が違うという状態だった。安西本人とも、同居している義父ではあるが、法的には赤の他人のままだ。
 とはいえ、さすがに友佳も自分の死期が迫っている状況なので焦っていた。娘に保護者がいない状況にしたくはないと。
 自分の夫に高校生の娘を任せるのは自然な選択でもあるため、友佳の意思で養子縁組届は提出されるだろう。
 でも安西が法律上の父親になってしまえば、未成年の桃華が相続する財産は彼が管理できるのだ。
 そこで國弘が口を挟んだ。
『じゃあ桃ちゃんが成人するまでおふくろと養子縁組したら? 安西から引き離してうちで暮らすこともできるだろ』
『友佳さんが了承するかしら?』
『今の桃ちゃんを見せたら納得するしかないだろ。女の子を殴るような下種(ゲス)野郎だぜ?』
『待ってお兄ちゃん、お母さんは今すごく症状が悪いの。こんな顔は見せたくない』
 お母さんが悲しむ、との桃華の涙声に、國弘がものすごく渋い顔になった。
 由美子は申し訳ない表情を見せる。
『私との養子縁組は難しいわ。夫の同意が必要になるけど、あの人、私から逃げ回っているのよ』
 由美子の現在の夫は、國弘の父親ではなく三回目の結婚をした相手だったりする。その男性とは離婚調停の真っ最中だった。
 すると國弘は、いいことを思いついたと言いたげな表情で指を鳴らした。
『じゃあ桃ちゃん、俺と養子縁組をして親子にならないか?』
『……は?』


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