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アーシェ・バルトルの王命婚姻 ~麗しき二人の夫たちに毎日激しく愛されています~

宵の月 / 著
氷堂れん / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/12/22

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内容紹介

美麗な夫たちに溺愛されています!
幼馴染で、砂糖菓子のような美貌の夫ロイド・バルトルの、重すぎる愛に振り回される日々を過ごしていたアーシェ・バルトル。ある日王命により、滴るような色香を纏う国の至宝・エイデン・クロハイツと、結婚することを命じられる。なぜなら、彼は人の気配までも嫌がる極度の人間嫌いだが、アーシェに対してのみ××××が勃ち上がることが判明したからで……!? 「私だけを見ていてほしい」「ねぇ、側にいて。僕の幸せは君だから」二人の麗しい夫たちに毎晩愛され過ぎています!? 国の至宝と護国の英雄と過ごす溺愛ストーリー!!

立ち読み

第一章 バルトル夫妻の離婚調停


「どうして……」
 アーシェ・バルトルは荘厳な大法廷を見上げ、その威容に悲しげに俯(うつむ)いた。
「只今より第二回目のバルトル夫妻、離婚調停を開廷します」
 裁判長の高らかな宣言に、法廷内は盛大な拍手に包まれた。離婚調停なのに。
 本来は小法廷で行われるはずだった調停は、傍聴希望者の多さに急(きゅう)遽(きょ)大法廷に変更された。離婚調停なのに。
 今お茶の間の話題を独占している調停は、満員御礼の賑(にぎ)わいを見せている。
 他人の離婚調停に興味津々すぎる野次馬の多さに、アーシェは今日もデルバイス王国の平和さを感じて悲しくなった。

 デルバイス王国は、周辺諸国から頭一つ分抜けた豊かさと平和を誇る強国だ。
 肥(ひ)沃(よく)な大地と豊かな水源に恵まれた、広大な領土を有している。国民は神からの贈り物とされる様々な種類の《ギフト》と呼ばれる固有能力を、生まれながらに最低一つは所有していた。
 一人一人が何かしらの特別な力を持って生まれ、本能的にその力の使い方を理解しており、そのギフトで賄(まかな)えない部分も魔石を利用した魔道具で補うことができる。「デルバイスの至宝」と呼ばれる一人の天才が、現在進行形でその魔道具の性能を向上させ続けていれば、豊かで平和なのも当然だった。
 貴族だけでなく平民に至るまで富裕層。他人を気にする余裕もあり、娯楽に飢えている。つまりは刺激的な砂糖(ゴシップ)を求めるアリ(暇人)が、この大法廷に詰めかけているのだ。
 話題沸騰の離婚調停に、みんなワクワクと身を乗り出している。
 また新聞の一面を飾る予感にしょんぼりしながら、アーシェは本日の主役の一人として、裁判長の目の前の席に静かに着席した。
「アーシェ」
 左席から呼ばれて、アーシェが振り返る。
 夫、ロイド・バルトルが砂糖菓子のような美貌を綻(ほころ)ばせている。
「頑張るからね!」
 やる気満々らしい。アーシェは眉尻を悲しげに下げた。そのやる気は調停を提起される前に見せて欲しかった。
 提起される前は全然頑張る気はなかったらしいロイドは、記録が残ってしまう調停開始後にすごくやる気を見せている。
 国の公式記録として残すには、あまりにも紙とインクが無駄。
 アーシェはこれ以上残したくない記録が増えないよう、ロイドに祈るような視線を向けた。ロイドが光り輝く微笑みを返してくる。だめっぽい。
「……っ!!」
 ロイドに微笑みかけられるアーシェを、右席の人物が呪い殺さんばかりに睨みつけてくる。
 エヴリン・ドドルマン伯爵令嬢だ。
 王立魔術学園の同級生で、親戚でもない赤の他人。三人目の主役の一人の真っ赤な他人。
 この全然関係ない赤の他人が、今回の申立人だった。
 離婚する気のない夫婦に、赤の他人が離婚を申し立てるという斬新さ。他国であれば他人による離婚調停の提起など、鼻で笑われまず受理されない。他人にはその権利は当然ないのだから。
 恋愛に寛容なデルバイス国は痴(ち)情(じょう)に纏(まつ)わるトラブルも多く、「やっとくか。面白そうだし」程度の気軽さで開廷を認められてしまった。
 そんな出だしからして残念な調停が、今まさに開廷しようとしていた。
「申立人、エヴリン伯爵令嬢。自身が受けた多大なる恥辱に対して、バルトル夫妻の離婚、およびロイド氏との婚姻請求。この申立てに意思変更はありませんか?」
「ありません!」
「ではロイド・バルトル侯爵。貴方はアーシェ……」
「断固拒否します。絶対に離婚しないし、イヴリン嬢との結婚なんてあり得ません! 僕の妻は未来永劫アーシェただ一人です!」
「ロイド氏、イヴリンではなくエヴリン嬢です……」
 ロイドは裁判長の言葉に被せ指摘も無視。アーシェを振り返って甘い笑みを浮かべて見せる。
 褒められると信じて疑わない表情。アーシェは曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だった。褒めるポイントが一つもない。もうこの調停が提起された時点でだめだと、全然気付いてもらえそうにない。
「では第一回調停からの概要を読み上げます。内容に異議がある場合は都度申告してください」
(また読み上げられるのね……)
 アーシェは遠い目をして色んなものを諦めた。
 第一回目の調停で明かされた、とんでもない供述内容。
 争点は、ロイドとエヴリンの「不貞疑惑」。
 争点自体は非常に離婚調停らしかったが、内容はあまりにも斬新でものすごく残念だった。

 事はロイドが夜会に、アーシェを伴わず一人で参加したことで始まった。
 申立人のエヴリンは滅多にない機会に、一世一代の勝負に出て事件は起きる。
 エヴリンは学生時代から、それほどまでにロイドに夢中だったのだ。
「エヴリン嬢。貴女はロイド氏に夜会会場で媚(び)薬(やく)を盛った。間違いありませんか?」
「はい。”媚薬・最高傑作”をすかさず盛りました」
 開発者のネーミングセンスはアレだが、最高峰と称賛されている媚薬。堂々と認めるエヴリンに、法廷はざわつきアーシェは俯いた。
 古来より伝わる、既成事実を作って奪いとってしまおう作戦だ。結構使い古されたこの作戦は、媚薬に朦(もう)朧(ろう)とするロイドを、既成事実を証明しやすい休憩室に連れ込むところまでは成功したらしい。
 ただ、エヴリンの思惑通りには進まなかった。なんか斜め上に進行していった。
”媚薬・最高傑作”を盛った後、エヴリンは下着姿でロイドにゴリゴリ迫る。だが、ロイド断固拒否。媚薬で昂(たかぶ)っていても、ロイドは徹底抗戦の構えを見せた。そこでエヴリンは、とっておきの切り札を切る。
『ロイドが他の女と寝たってなったら、さすがにアーシェも嫉妬に狂うでしょうね』
 頑(かたく)ななロイドに、エヴリンの会心の一撃。触るなと暴れていたロイドは、その一言に動きを止める。
(アーシェが嫉妬……? なんていい響きなんだ……)
 媚薬でアホになっていたロイドは、その甘言にあっさりと唆(そそのか)された。さらに斜め上へと。
 媚薬で股間の準備は万端でも抵抗を続けるロイドのやる気に、エヴリンは目を輝かせる。自慢の胸を寄せながら、ロイドへとしなだれかかった。
「ロイド氏。貴方は自身のギフトを活用し、迫るエヴリン嬢を縛り床に転がして拒んだとしていますが、その後どうしましたか?」
 ロイドのギフト《影糸》は、能力の一つとして、魔力の糸を出すことができる。
 その魔力の糸でエヴリンを拘束し拒んだらしいが、傍聴人はロイドに疑いの目を向けた。ツンと澄ましたエヴリンの美貌がロイドの偽証を疑わせる。しかしロイドは堂々と言い放った。
「僕はたまたま所持していた、愛する妻との愛の記録映像を再生、自己処理しました」
 まさかの自家発電。爽やかな笑みを浮かべたまま言い切った美貌のロイドに、法廷は先程の比ではないほどざわめいた。変態だ。
 もう「記録映像」を撮ること自体が特殊なものをたまたま所持。その上ウェルカムなエヴリン(美女)を放置し、その夫婦の愛の記録で自己処理に勤(いそ)しんだと証言するロイド(超美形)。とんでもない変態だ。
 傍聴人から生温かい視線を感じ、いたたまれなくなったアーシェは両手で顔を覆った。アーシェが存在を知らなかった夫婦生活の映像を、不貞相手の前で垂れ流しその上まさかの自家発電宣言。つらい。
「僕の妻がその場にいなくて本当に大変でした……」
「そうですか……」
 切々とさらに追撃をかましたロイドに、裁判長はそれしか言いようがなかった。
「僕は妻を心から愛しているので、イヴリン嬢に一切触れていません!」
「エヴリン嬢です……ではそれほど愛している妻を残し、なぜ一人で夜会に参加したのですか?」
 確かに。美形の変態発言にざわめいていた傍聴人が頷(うなず)き、アーシェは気まずげに身じろぎした。
「それは……」
 至極当然の疑問に口(くち)籠(ご)もったロイドが、悲しそうにアーシェを見つめてくる。
「アーシェの……僕の妻の過去に傷ついていたからです……一緒にいたら責めてしまいそうで……」
 瞳を潤ませたロイドの美貌に、傍聴席のあちこちから感嘆のため息が漏れ出した。輝く美貌で顔面勝訴を勝ち取りにきたロイド。アーシェは諦めて顔を上げた。
「アーシェ夫人。ロイド氏が一人で夜会に参加した理由に、心当たりはありますか?」
「……はい。私側の有責による、婚約破棄の申し出が原因かと思います……」
 傍聴人がざわりと揺れる。とんでもない映像を持ち歩いて、自家発電する変態(ロイド)。でも最高に顔がいい。法廷はすっかりロイドの味方だ。
「ロイド氏、アーシェ夫人の……」
「アーシェは何も悪くないよ! 僕が気にしすぎたせいだ。ごめんね。愛してるよ、アーシェ……」
 裁判長を遮って有責側のアーシェを庇(かば)うロイドの姿に、傍聴人たちは感動したようにため息をつき、エヴリンがアーシェを鋭く睨(にら)む。
 アーシェは切なげに微笑むロイドを見つめた。きっと誰もが思っている。彼の何が不満だったのかと。
 国内有数の資産家の嫡(ちゃく)男(なん)で、スラリと背の高い綿菓子のような甘い美貌の貴公子。家格も容姿も能力も、アーシェは全く釣り合えていない。
(不満なんかちょっとだけ……もうそうするしかなかったから……)
 アーシェは疲れたように嘆息した。そう、不満はちょっとしかなかった。
 出会った時からなぜかアーシェに夢中だったロイド。六歳になるとバルトル側の強烈なゴリ押しで、二人の婚約は成立した。
 豊かな現状に呼応するように恋愛にも寛容なデルバイス王国では、同性婚、一夫多妻、一妻多夫も珍しくない。他国のように家門や血筋のための婚姻は廃れて久しい。
 そんな相当珍しい幼少期からの婚約関係は、ロイドの熱烈な希望で維持されていた。ロイドは時が経っても冷めるどころか、ますます燃え上がりどんどんアーシェへの想いを拗(こじ)らせた。現在進行形で。
 対してアーシェにとって、ロイドは大切な幼馴染。男女の愛より親愛の情が強い。ロイドもその温度差を理解していて、全力でその差を埋める努力をしていた。本当にもう全力で。
 仮病から始まり、泣き落としに縋(すが)り付き。愛ゆえの付き纏(まと)い。挙句は浮気未遂に野外行為まで。ありとあらゆる手を使って幼少期から今に至るまで、割と度を越しながらロイドは元気にやらかしまくっていた。この辺が具体的な不満ポイントだ。
 とはいえ幼少期からの大事な幼馴染。ロイドの重すぎる愛に振り回されながらも、アーシェも特に婚約解消を考えてはいなかったのだ。”謎すぎる事故”が起きるまでは。
 謎すぎる事故は本当に謎すぎて、説明が難しかった。何がどうなってそうなったのか、未だにアーシェ自身微(み)塵(じん)も理解できない事故。
 ただ結果として、「ロイド以外の異性に、絶頂させられた」という事実だけが残った。一線を超えていなくても、字面として明確な不貞行為。黙っていられるわけもなく、アーシェは自身の有責として婚約破棄を申し出た。それが今回のロイドの暴走の引き金となった。
 婚約破棄にロイドは猛反発。見たことがないほど取り乱し、結局有責側からの破棄は認めないと、王立魔術学園の卒業と同時に、光の速さで結婚は強行された。
 結婚はしても謎すぎる事故はロイドにとって、相当な痛手となった。気を紛らわすために普段は断る夜会に、やらかす気満々で一人で参加したことで今回の「不貞疑惑」事件が起きてしまった。
 ロイドはアーシェに嫉妬してもらう。その目的のためにそれっぽい痕跡を積極的に残すと、縛り上げたエヴリンと何もないまま夜を明かしたという。
「あー……ロイド氏。エヴリン嬢との間に、何もなかったことを証明できますか?」
「はい。帰宅の際に手配した医師と神官に、処女証明を依頼しています」
 初恋を拗らせすぎてアーシェの前ではだいぶ残念だが、ロイドは優秀だった。媚薬によろめきながらも、医師と神官を手配。動けないまま放置されていたエヴリンは、派遣された医師と神官によって処女検査後解放された。
 得意げに書類を提出するロイドから、裁判長が微妙な表情で証明書を受け取り確認する。
 ロイドに心底惚れていたエヴリンは、ロイドに捧げるために未だ純潔。ロイドは二人の間に何もなかった証拠を、しっかりと残した。そして今回の離婚調停が提起されるに至る。確かにエヴリンは嘘偽りなく、多大なる恥辱を与えられていた。
(それなのにエヴリンはロイがいいのね……)
 媚薬を盛って迫ったのに全裸で放置され、恋敵とのベッドシーンをおかずに自慰で夜を明かされる。ロイドのやらかしが、だいぶヤバい。正直、この扱いにキレたエヴリンから、離婚調停を起こされても文句は言えないと思う。
「……確かに処女証明書です。エヴリン嬢とロイド氏の間に、肉体関係がないことが証明されました」
 媚薬を服用してもアーシェ一筋の深い愛を証明したロイド。裁判長の一言に、にっこりと笑みを向けてきた。流石(さすが)に笑顔は返せなかった。
 確かに不貞行為はなかったのだろう。証拠まである。でも無断で記録した夫婦の性行為映像を、エヴリンの前で流しながら自慰をする。アウトだろう。不貞以前に完全にアウトだろう。人として。
 ロイドは不貞行為がなかったことを証明できて、とても満足そうだ。
(ロイ……もうね、そこじゃないの……)
 エヴリンとロイドにとっては、学生時代からの攻防戦の延長かもしれない。それに否応なく巻き込まれたアーシェは、もらい事故感を拭えなかった。

   ◇ ◇ ◇

 裁判所前でアーシェの両手を握り、別れを惜しむロイドは目をキラキラさせて小首を傾けた。
「……ねぇ、アーシェ。何もなかったってわかってくれた?」
「……よくわかったわ」
 よくわかったけど、そこはもう大して重要ではない。それ以外がだいぶ問題。
「怒ってる……?」
「怒っては、いないわ……」
 窺(うかが)うようなロイドにアーシェは首を振った。怒ってはいない。ただ、どういう感情を抱けばいいのかわからない。
 無断で夫婦生活を記録していたこと。それをたまたま持ち歩いていたこと。自分に想いを寄せる相手の前で、その映像を流して自家発電したこと。夫婦生活の映像に怒り狂った相手から、離婚調停を起こされた上、全国民に知れ渡ったこと。
 正解の感情も受け止め方もわからない。でも本当に怒ってはいなかった。ロイドの一連の行動の原因は、婚約解消の申し出だけではない。もっと根本の問題だとアーシェにもわかっていたから。
《寛容》《精神耐性》。自身に作用する内部干渉型のアーシェのギフトが、うなりを上げて心の安定を図っている。精神が乱れると自動的に発動する自分のギフトが、勢いよく魔力を消費しているが今すぐ笑うのは無理そうだ。
「ねえ、アーシェ。もう離れてるのやだ。帰ってきて……」
「ロイ……調停中は無理よ」
 あんな内容でも離婚調停。調停中は別居しなくてはならない。今はその猶予が有り難かった。ギフトはフル稼働でも、心は安定しない。
「じゃあ、すぐ終わらせるよ。そしたら帰ってきてくれるでしょ?」
「終わらせるって……」
 絶対離婚しないとせせら笑うロイドと、自分と結婚しろと喚(わめ)くエヴリン。それを見守る野次馬と、うんざりする裁判長。今日も結論は出なかった。
「ねぇ、終わらせたら帰ってくるよね?」
 ロイドの透き通るアイスブルーの瞳が、僅(わず)かに銀色を帯び始める。ギフトの発動を知らせる変化に、アーシェは眉をひそめた。
「ロイ、ギフトで何をするつもり?」
「…………」
「ギフトを使って大丈夫なの……?」
 薄く笑ったロイドに、ため息をつく。
 ロイドのギフトは《影糸》と《魔力制御》。自分自身に影響するアーシェの内部干渉型とは違い、他人や物に影響する外部干渉型で情報収集系の能力。らしい。アーシェも詳しくは教えられていない。
 血筋が影響するギフトは、基本的に他人に明かさないものだ。それに魔道具が発達した今は、それほど能力の優劣に差異はなくなっている。
 それでもロイドの《影糸》は魔道具で代用できない希少能力。名前は教えてくれても、何ができるかははぐらかされていた。あまりいい予感はしない。
「平気だよ。もうわかってくれたもんね? 媚薬を盛られたってアーシェ一筋だって」
「……それは、うん……」
 アーシェだけでなく、世間にも広く知れ渡った。できれば自分だけに穏便に知らせて欲しかった。俯いたアーシェのつむじに、ロイドがキスを落とす。
「だからもういいかなって」
 笑みを見せたロイドは手を離すと、迎えにきていた馬車にアーシェを詰め込んだ。
「調停は多分すぐに取り下げになるよ。だから早く帰ってきてね。約束だよ」
 ニコニコと手を振るロイドに、アーシェは曖昧に頷く。ロイドがそう言うならそうなのだろう。大体いつも不思議なほどその通りになる。
 走り出した馬車を見送るロイドが、視界の先で小さくなっていく。ずっと見送ってくれるロイド。その瞳はギフトの発動を示す、銀色に変化したままで。
 そればかり気にしていたアーシェは、たまたま持ち歩いていたという、同意のない愛の記録を消させるのを忘れてしまった。

第二章 至宝 エイデン・クロハイツ


 王宮の中庭で王太子・カイザーは優雅にカップを傾けた。教育が行き届いているはずの侍女たちが落ち着かない様子で給仕を終えさがっていく様子にムッと眉をひそめる。
(王太子は俺なんだけど……)
 給仕を終えた侍女たちがソワソワしながら、できるだけ長くこの場に留まろうとする原因が、目の前の男のせいだとカイザーはきちんと理解していた。
 燃えるような赤金の髪と瞳。凛々しく精(せい)悍(かん)な美貌のカイザー。ちゃんとモテてはいるが、それは付近にデルバイスの至宝、エイデン・クロハイツが存在しない場合と但(ただ)し書きがつく。カイザーはちらりと目の前のエイデンを盗み見た。
 淡く輝くプラチナブロンドは、緩く結ばれて背中でさらさらと風に靡(なび)いている。神聖な知性を湛(たた)えた藍の瞳は、金色の虹彩は光を放ち極上のラピスラズリのよう。ストイックで繊細でどこか危うげな美貌は、穏やかな陽光の下で眩(まばゆ)く輝いているが全くの無表情。爽やかな色気はただただ垂れ流され、侍女たちの様子などお構いなしだ。
(どうにかならないもんかね……)
 エイデンは他人に関心がなくても、他人はエイデンに興味津々。鮮烈すぎるその存在の、関心を引きたいと思うのは理解できる。それがどれほど無駄なことかは別にして。
「……なぁ、結婚、そんなに無理なのか?」
 父王が懲(こ)りずにエイデンを呼び出し、どうか結婚してほしいと懇願する最近の定例行事。カイザーは先ほどまでその行事に付き合っていた。そしてエイデンが綺麗に聞き流しているのを眺めていた。父王には早くこの時間が、ものすごく無駄だと気付いてほしい。
「全く、これっぽっちも可能性はないのか?」
 エイデンは政治的にも最重要人物で、カイザーにとっては手のかかりすぎる弟分でもある。このまま一人で生きていくことは、純粋に心配。そしてこの先も自分がずっと面倒をみることになるのは、だいぶ遠慮したかった。コブ(エイデン)付きでは、自分の結婚もままならない。
 カイザーの内心を知ってか知らずか、のんきにお茶を啜(すす)っていたエイデンは、無表情のまま平坦に答えた。
「結婚が無理なのではなく、陛下が求める結婚は無理だと言わざるを得ない」
「まあ、結婚ってだけなら書類一つで済むもんな……」
 ため息を吐き出したカイザーに、エイデンは頷いた。
『妻を愛……するのは無理でも、信頼と安らぎを構築……するのは無理でも、子供作って、この国にいて! 子孫残して! その血筋を絶やさないで! お願いだよ、エイデン君!!』
 自分の息子より五歳年下のエイデンに、半泣きで取りすがる父親の姿は割と情けなかった。でも、気持ちはわかる。
 エイデンは天才だ。生来の脅威的な記憶力と理解力を備えた頭脳。生まれもった超希少ギフト《深遠の知識》《創造主》《完璧なる助力》。それが合わさりエイデン一匹で、デルバイス王国の魔道具・魔法薬の水準を飛躍的に向上させ続けている。
 特に大きい功績でいえば、魔石鉄道の開発。国内どころか国外にも大きな影響をもたらし、移動と物流に革新的な変化をもたらした。エイデンが他国へ流出すれば、国家間の力関係は容易に覆ることになる。
 王家としては当然、国に留めて希少なギフトと頭脳を存続したい。なんとか継承しようと、祈ったり拝んだりしているが、その願いは今のところ、絶望的に叶いそうになかった。
 カイザー個人としては長い付き合いの弟分(エイデン)に、せめて多少は特別視できる相手ができればと願っている。
(俺の心配なんて気付きもしてないんだろうけど……)
 天つ才は斜め上すぎて、思考や言動は基本的に理解不能。おまけに気配さえ嫌う人嫌いで、他人に興味も共感もない。
 カイザーさえ、天才というより奇才。要人というより変人。の方がよほどしっくりくると思っている。ステータスは顔と能力だけに極振りしないで、もう少し人格にも振るべきだと思う。
 カイザーは麗しいエイデンの無表情から、やさぐれたように視線を逸らした。
「結婚しようにも勃起もしないんじゃ話にならん。書類だけ結婚しても夫婦生活もないんじゃ、あっという間に離婚だ。はぁ……もうなんなの? 煩(ぼん)悩(のう)はどこに落としてきたの? 解(げ)脱(だつ)でもしたの? 一回も勃起したことないなんてあり得るの?」
 ぶちぶちと不満を垂れ流しながら、カイザーは頬杖をついたまま疲れたように項(うな)垂(だ)れた。
「男として機能しない」それこそが、王家を悩ませる理由。エイデンの結婚の難易度を跳ね上げている、最大の障壁だった。
 カイザーは使い道のない、エイデンの光り輝く無駄美貌を睨みつける。本当に無駄でムカつく。
「あるぞ?」
 勝手に苛立ち始めたカイザーに、エイデンは小首を傾げながら抑揚なく言い放つ。
「ふぇっ!? えっ? なんて?」
「だから、あるぞ」
「は? え? なに、本当に?」
 思わずカップを取り落とし、カイザーはテーブルに紅茶を派手にぶちまけた。迷惑そうに顔を顰(しか)めたエイデンの目の前で、上等な絹のシャツが紅茶のシミで台無しになっていく。侍女は既に下がり目の前の迷惑そうなエイデンには、カイザーに布巾を差し出すという機能は付いてない。だが、今はそんなことはどうでもよかった。
(エイデンが、あのエイデン・クロハイツが勃起!?)
 もう、煩悩やら性欲やらから解き放たれた、精霊的なものだと囁(ささや)かれているあのエイデンが!?
「だからあると言っている。嘘をつく理由がない」
「確かにそうだけど……」
 クロスに広がる紅茶のシミを避けながら、呆然としているカイザーにエイデンが僅かに眉をひそめた。
「うえぇえ~……本当か? えっ? いつ? 何に?」
 誰に? がまず出て来ないくらいには、カイザーはエイデンを理解していた。オカルト的な「事象」とか、魔道具などの「無機物」に対して、と言われる方がまだ信じられる。なにせ媚薬を飲んでもだめなのだ。なんて頑固な息子さん。
 だが、勃起するとなれば話は変わってくる。絶命ではなく長めの反抗期なら希望がある。カイザーは力強く拳を握った。
 女なら問題解決。男でも許容範囲。もうこの際動物でもいい。勃起してくれたら精子から子孫を残すとか、この男がなんとかしてくれるだろう。
 勃起したところで結局、正しい手順を遂行できなければ意味がないことにも思い至らない程度には、カイザーにとってエイデンの言葉は衝撃的だった。
「女だ。学生の時だった。あとは愛液だな」
「ん? 女? え、本当に? 嘘だろ? それになに、愛液って。愛液に勃起!? え、こわっ!! いや、正しいのか? いや、おかしいって! なんだよそれ、こえーよ!? エイデン、俺の理解できる言語で話せ!」
 予想外の回答に、脳みそは機能不全を起こした。その混乱を巻き起こした当の本人は、冷静にお茶を啜っている。
「カイザー、うるさい。私は公用語で話している」
「は? お前がおかしなこと言うからだろ! なんだよ愛液って。俺の反応の方が正常だ!!」
「落ち着け。何もおかしなことは言っていない。通常、勃起は性的興奮を覚えた時に発生する現象だ」
「え、あぁ。まあ、そうだけど……確かに、確かにそうなんだけど……」
 通常から彼方にかけ離れている男にたしなめられたカイザーは、ムッとした。しかし、落ち着くことには賛成だった。あのエイデンが女に勃起したという。確かにこれは落ち着いて詳細を把握せねばならない。
 落ち着くためにカップに手を伸ばしたが、さっきぶちまけたばかりだった。仕方がないので深呼吸をして冷静さをかき集める。
 エイデン・クロハイツが女に勃起。何それ、普通に興味ある。
「……あー、それで、相手は誰なんだ?」
 カップを傾けたエイデンは僅かに眉根を寄せた。
(ん? あれ?)
 カイザーはその惑うようなエイデンの様子に戸惑った。
「……アーシェ・タンハイムだ」
「アーシェ・タンハイム……」
「ああ、今は結婚してバルトルになっているな」
(え? 結婚? 人妻? ……じゃなくて)
 カイザーは目を見開いて、エイデンの美麗な顔を食い入るように見つめた。
「どうかしたか?」
「……お前……」
(気付いてないのか?)
 訝(いぶか)しそうなエイデンに、カイザーは驚愕した。特定の人物に勃起した事実だけでも驚きだが、本質はそこではなかった。名前を出すことを躊躇(ためら)ったのだ。他人を慮(おもんぱか)る思考が存在しないこの男が。
 良くも悪くも嘘をつかず、ただ事実だけを淡々と語る男が躊躇った。相手の名誉だとか配慮したとまでは思わないが、何らかの感情が僅かでもエイデンの心を揺らして躊躇わせた。そんなエイデンを一度も見たことがない。
 しかも、アーシェ・タンハイムが結婚したことを把握していた。さらには婚姻後の家名まで。ありえない。エイデンが、だ。カイザーは国王が望んでいた結婚が、百万回積み重ねた奇跡の先にある夢物語じゃない可能性に瞳を輝かせた。
「おい、エイデン! その話、詳しく聞かせろ!!」
 国と自分の未来のため。やることが斜め上過ぎて、理解の範(はん)疇(ちゅう)をいつだって軽く超えていく。それでも長年共に過ごした弟分の、幸せな未来のために!
 ゴミを見るような目で睨まれてもめげずに、衝撃の勃起事件の詳細を根掘り葉掘り問い詰める。カイザーは紅茶まみれのシャツのまま、大興奮で身を乗り出していたがすぐに着席した。ちょっと何を言ってるのかわからなかった。
「エイデン……?」
 愕(がく)然(ぜん)とするカイザーには構わず、エイデンはお茶を啜って頷いた。
「以上が詳細だ」
 理解の範疇を超えた供述に、カイザーはそれきり口を閉じた。
「もういいか? 私は研究室に戻る」
 こくりと頷きながらカイザーは、エイデンから聞き出すのは諦めることにした。
「……アーシェ・バルトルと、その夫について調査を頼む」
 一(いち)縷(る)の望みに賭けて、カイザーは王家の影にお使いを頼んだ。第三者の目を通せば理解できるかもしれない。それでも無理な時は、もうアーシェ・バルトルを呼び出そう。カイザーはそう決意して、王家の影を見送った。
 数日後、微に入り細を穿(うが)つ迅速丁寧な仕事ぶりを見せた影から、特別機密報告書を受け取ったカイザーは、何度も何度も読み返し、結局アーシェ・バルトルを王宮に呼び出すことにした。

   * * *

「遅くなりまして申し訳ありません!」
 柔らかな陽光と愛らしい鳥の鳴き声。王宮の中庭に並べられた丸テーブルにつくなり勢いよく頭を下げたアーシェに、カイザーはカップを置いた。
(……やっぱ普通、だよねぇ……)
 王太子の仮面をしっかり被ったカイザーは、笑みを浮かべたまま鋭くアーシェを観察した。
 王家の影からの特別機密報告書には、隠し撮りした記録魔道具も添付されていた。もう何十回と見返した映像と、目の前のアーシェは完全に一致している。そして抱いた感想も実物と対面しても、大きく変わらなかった。
 柔らかな亜麻色の髪。落ち着いた濃いはちみつ色の瞳。今は居心地が悪そうな表情も、記録映像では穏やかな笑みを浮かべていた。
 容姿だけで言うならなかなかの美人だが、華やかなとか楚(そ)々(そ)といった修飾語が自然に出てくるほど、飛び抜けたところがなく気を引くような特徴もない。謝る姿も華奢で細身でごく普通。
 カイザーはチラリと胸元に視線を走らせ、ひっそりと頷いた。
(もうちょっと欲しいな……)
 カイザー的には少し、膨らみが物足りない。デルバイスの王太子は巨乳派で、割と最低だった。
(でも……雰囲気は柔らかい。その辺がエイデンのバグの原因かね……?)
 アーシェが来た途端、和らいだ空気。おそらく長く一緒にいても疲れない人なのだろう。エイデンの供述と報告書ではさっぱりわからなかった、らしくない行動を取らせる要因。
 実物に会ってわかったバグの理由の一端にあたりをつけたカイザーは、改めて愛想良く笑みを浮かべた。
「よく来てくれたね。ところで呼んだのはアーシェ夫人だけなんだけど?」
 混じりっけなしの黄金に輝く金髪。透き通るようなアイスブルーの瞳。アーシェにピッタリと寄り添う、美貌だけならエイデンと並びたてる極上の優男に視線を向ける。
「妻を心配するのは当然でしょう?」
 腹の底が読めない笑みを浮かべながら、ロイドが僅かに顎(あご)を反らしてくる。
(ロイド・バルトル……こいつ、厄介なんだよなぁ……)
 特別機密報告書で事前にロイドの情報を履修していたカイザーは、内心でため息を噛み殺した。

 アーシェは思いっきり下げていた頭を恐る恐る上げて、待ち構えていた面子に目を見開いた。
 赤金の髪と瞳の精悍な美丈夫の、王太子カイザー・デルバイス。その隣には「デルバイスの至宝」エイデン・クロハイツ。優雅にお茶を口に運ぶ美しい横顔に、プラチナブロンドがサラリと流れ落ている。
(なんで先輩が……?)
 アーシェはまさかの人物を前に思わず固まった。
「侯爵は何しに来たのかな?」
 カイザーの声にアーシェはハッと意識を戻した。愛想のいい笑みを浮かべてはいても、声音からは「お前は帰れ」と明確な意思表示が伝わってきた。カイザーがロイドを歓迎していない様子に、アーシェは慌ててもう一度深く頭を下げた。
「も、申し訳ありません。どうしてもついてくるって……」
 突然届いた王宮からの招待状。呼ばれたのはアーシェのみ。当然招待(呼び出し)を断れるはずもなく、王宮に向かおうとして、なぜか玄関前にいたロイドに捕まってしまったのだ。絶対一緒に行くと粘られ、もう王宮に連れて来るしかなかった。
「妻が王宮に呼ばれる理由が気になりまして」
 当然の権利を主張するように、恐縮するフリすらしないロイドは、麗しい微笑みを浮かべている。アーシェは申し訳なさに身を縮めていて、無理やりついてきたロイドは平然としている。とても理不尽。
「構わない。ロイド・バルトル。座るといい」
 なんとか追い返そうと口を開きかけたカイザーを、エイデンが淡々と遮る。その場にいる全員が驚愕し、エイデンを振り返った。
(先輩が喋った!)
「え、座らせるの?」
 エイデン・クロハイツが喋る。それぞれの驚き方は違っても、もう喋っただけですごいと思わせられる謎の人。アーシェはまじまじと久しぶりに再会したエイデンを見つめた。
「……僕をご存知なのですか?」
 訝しげなロイドに構わず、エイデンはカップを傾ける。カイザーははっきりと不満そうだが、エイデンは意見を変える気はないらしい。張り詰めた沈黙が流れ、やがてカイザーが諦めた。
 憤(ふん)慨(がい)した様子でどう見ても足りない椅子を用意し、せっせとお茶を注ぎ出す王太子。アーシェは戸惑いを隠せなかった。
(……それは、殿下がやるの……?)
 勝手にロイドの参加を認めたエイデンは、微塵も動く気配がない。なんなら今一番地位が上の王太子が、手際よく一人で準備を済ませていく。あまりにもお世話が板につきすぎていた。
 椅子に腰掛けキリッと王太子の顔になったが、もう手遅れだった。王太子という肩書きが抱かせる威厳は、この短時間であっという間に地に落ちた。
 アーシェもテーブルを囲う一員となったが、ものすごく居心地が悪い。
(なんかすごい眩しいし……)
 学園で人気を二分していた、エイデンとロイド。
 童話の貴公子のような甘い美貌のロイドと、鋭利な知性と優美な容貌まで至宝級のエイデン。常に耳目を集めていた二人だったが、わかりやすく人気だったのは会話が成り立つロイド。いつも令嬢たちに取り囲まれていた。
 一方エイデンはというと、まず会話が成り立たない。その上時々理由のわからない奇行を挟むため結果、遠巻きに視線を集める孤高を保っていた。いつ見ても一人。
 美貌も性格も正反対のこの二人が、至近距離で揃うことはなかった。でも今は思う。揃わなくて良かったと、美醜に頓(とん)着(ちゃく)がなくても、はっきりわからせられるほど二人は非常に美しい。なんかキラキラと眩しくて、あんまり目によろしくなかった。
(目にも心臓にも悪そう……)
 美貌を輝かせる二人に挟まれ、アーシェは呼び出しの用件を切り出されるのを待ったが、真っ先に口を開いたのはロイドだった。
「それで、僕の妻に何の用ですか?」
「ちょっと、ロイ……!」
 お世話が小慣れすぎていても、相手は王族。挨拶もないロイドの態度に、アーシェは慌てた。
「あー……急なことで気を揉ませてしまっただろう。すまなかったね。訪問に感謝する」
 礼を失したロイドの態度を、カイザーは咎(とが)めずいてくれた。その代わりさりげなく無視した。ヒヤリとしながら、アーシェは顔を上げる。妙に親しげな様子に、不安になりながら挨拶を返す。
「……お招きいただき光栄です」
「それで用件はなんです?」
 カイザーが笑顔のまま動きを止めた。多分内心で舌打ちしてる。アーシェは心の中で謝罪した。
(殿下、すいません……)
 ロイドは煽るのが得意な上に、ちょっと無視したくらいでは怯(ひる)まない。鋼どころかメンタルはダイヤモンドで、すごく強い。とても丈夫。
「ロイ、失礼よ」
 挑戦的なロイドを窘(たしな)めつつ、申し訳なさに瞼(まぶた)を伏せる。この場で王族に敬意を払っているのは、どうやらアーシェだけっぽい。不思議。
(殿下、えらいのに……)
 えらいはずのカイザーは、イラつきを堪(こら)えて細く息を吐き出した。ロイドはふふんと鼻を鳴らし、エイデンはお茶を啜っている。
(王太子って大変なのね……)
 この場が破綻しないよう必死に笑顔で耐えているカイザーに、アーシェは心の底から同情した。なぜかこの場にいて優雅にお茶を啜っているエイデンは、会話をする気が微塵も感じられない。できれば早く話を済ませて帰りたかった。居心地が悪すぎる。
 会話の口火になることを祈って、アーシェはとりあえず無難に挨拶をしてみた。
「あの、先輩。お久しぶりです」
「久しぶりだ」
 カップを傾ける手を止めて挨拶をするエイデン。睨み合っていたロイドとカイザーが、驚いたように振り返った。エイデンは二人の視線を華麗にスルーした。
「あの、今日王宮に呼ばれたのは……」
「カイザーが聞きたいことがあるそうだ」
 二人をじっと見つめていたカイザーが、ハッとしたように頷く。
「……あ、ああ、そうなんだ。今日夫人を招いたのは、国の重要事項の確認をしたくてな……だがその前に……」
 カイザーがチラリとロイドに視線を投げて、探るように声を低める。
「バルトル夫妻は離婚調停中ではなかったか?」
「あぁ……ご存知なかったんですね。ちょうど昨日付けで取り下げさせました。いい加減鬱(うっ)陶(とう)しかったので……」
「……鬱陶しいって、だいたいお前のせいじゃん……」
「殿下。僕はアーシェと一緒じゃなければ帰りませんので、ご用件をどうぞ」
 ロイドはせっせとアーシェに、チョコレートを取り分けながら、強気の姿勢を崩さなかった。カイザーがロイドを睨みつけ、ロイドはなぜかふふん顔をする。二人の相性は悪そうだ。
「……どうせ《影糸》で盗聴されれば筒抜けか……呼び出しも突き止めた……ロイド・バルトルだし。性格が悪い(ヤバい)……夫人……苦労してるな……何も気付いてなさそうなとこが、すごくかわいそう……」
「あの?」
 ぶつぶつと呟くカイザーに、急に憐れみの視線を向けられアーシェは戸惑った。
(殿下の方が大変そうなのに……)
 お互いに同情し合うアーシェとカイザーに、ロイドが笑顔の圧を強める。
「そろそろ本題に入りません?」
 引く気配を見せないロイドに、カイザーは諦めて口を開いた。
「……離婚の予定は?」
「当然ありません」
「……それは夫人も同意見なのかな?」
「もちろんです」
「侯爵はね、そうだろうね。でもね、俺は夫人に聞いてる」
 当然のように答えるロイドに、カイザーは不穏な笑みを浮かべる。徐々に険悪になっていく空気に、アーシェはソワソワしながら、チョコレートに癒しを求めた。甘くて美味しい。
「あの離婚調停の内容からして、とても同意見だとは思えないのだが? 夫人、本音を聞かせてくれないか?」
 カイザーから慈愛に満ちた目が向けられた。味方だよと顔に書いてある。アーシェはちらりとロイドに視線を移した。ロイドはにっこりと微笑んでいる。離婚要因など微塵もないと信じ切っているようだ。
 アーシェはチョコレートを飲み込んで、正直に答えることにした。
「……離婚までは考えてはいません」
 当然離婚すると思っていたらしいカイザーが、呆然としながらカップを取り落とした。一方のロイドは胸を張って勝ち誇り、鼻息を荒くしている。ドヤ顔でカイザーを見下しながら、今度はアーシェにマカロンを取り分け始めた。エイデンはプリンを食べ出した。
「……え? なんで? だって夫の不貞相手に離婚調停を提起されたんだよ? もう全部がアウトだったよ? さらにはそれを王国中に広められたんだけど? え? 本当に? 離婚しないの? 怒ってないの?」
 王太子の仮面が剥(は)がれたカイザーに、アーシェは気まずくなりながらも頷いた。
「怒ってはいません……離婚も……」
 言いたいことはたくさんあるけれども。
 小さく俯いたアーシェにカイザーは、衝撃から立ち直れないまま問いを口にした。
「……それは夫人の有責で、婚約破棄を言い出したことへの贖(しょく)罪(ざい)として……?」
「いえ、それだけではなくて……私はずっと……って、え? 殿下、なぜそのことを……?」

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