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離宮の引きこもり大公様から、なぜか溺愛されました

蒼磨奏 / 著
コトハ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/11/24

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内容紹介

君を愛する許可をくれないか——。
医者一族の令嬢イルゼは、医療の勉強のため留学していたが、帰国した際、一人の患者を託される。大公ダリウスは腕の怪我は治ったが、後遺症で腕がうまく動かせず、医者たちを拒絶し離宮で過ごしていた。「療養師」としてイルゼは離宮に泊まり込み、ダリウスを診ることに。医師として尊敬する父から託された仕事を全うするため懸命に向き合うイルゼ。どの医者も諦めた後遺症を、イルゼだけは諦めず向き合う姿勢にダリウスは次第に心を許していって——。「こんな女性ははじめてだ」押し倒され淫らな甘い交わりにイルゼは戸惑うばかりで!? 眉目秀麗な大公様と健気な乙女の溺愛!!

立ち読み

 プロローグ


 ある人に伝えたい言葉があった。
 生きる意味を見出せず、失意の底にあった時、その人は目の前に現れた。
 心の内を明かした会話からは、自分も前向きに生きていこうと勇気をもらえたのだ。
 だから、また、どこかで会えたら伝えたかった。

 あの時に見つけてくれて、ありがとう――と。



 第一話 引きこもりの大公様


 ダリウス・ウィスペルデ・レクイアの人生が一変した日、彼はいつもどおり“役目”を終えて王都へ帰還する途中だった。
 しかし、その道中、黒衣の武装集団から奇襲を受けた。
 護衛の兵士が「お逃げください!」と叫んだ瞬間、ダリウスには飛んでくるボーガンの鏃(やじり)が見えていた。
 だが、避けきれなくて左腕に激痛が走る。
 熱した鉄の棒を押し当てられたような痛みに貫かれたが、ぎりぎりと歯を食いしばって耐えた。その場から離脱すべく馬の腹を蹴る。
 右手で手綱を握りしめて、前屈みになりながら一心に馬を走らせた。
 けれども疾走していた馬が身を捩(よじ)った時、その揺れが肩の傷に響いて、ダリウスの全身を激痛が貫く。思わず手綱を握る手が緩んでしまった。
 その、ほんの一瞬が彼の人生の明暗を分けた。
 痛みに硬直した身体が鞍(くら)からずるりと滑り落ちる。
 追いかけてきた衛兵が彼を支えようと腕を伸ばしてきた。けれども間に合わない。
 ダリウスは疾走する馬から放り出されて勢いよく地面に叩きつけられた。
 利き手である右腕を下にしながら落馬したため、バキバキと骨の折れる音がする。
 今までの人生で味わったことのない痛みだったから、その衝撃で今度こそ意識が飛んだ。

 ――すまない、オーガスト。

 気絶する寸前に頭を過(よ)ぎったのは、王都で待っている異母弟の顔だった。

      ◇◆◇

 白い帆が海風を受けて大きく膨らみ、蒼(そう)穹(きゅう)をカモメの群れが横切っていく。
 大海原の向こうに港が見えてきたので、アンゲルス伯爵家の長女、イルゼ・アンゲルスは甲板の手すりから身を乗り出した。
 風になびく黒檀の髪を手で押さえて、赤みがかった琥珀色(アンバー)の目を眩(まぶ)しげに細める。
「懐かしい港が見えてきたわね、ナタリー」
「ええ、ようやく見えて参りましたね……はぁ、やっと船酔いから解放される……」
 侍女のナタリーが手すりに突っ伏して、げっそりとした顔で呟く。
「大丈夫なの? 吐く?」
「いいえ……お嬢様の前で、そのような、みっともない真似はできません」
「わたしは気にしないけど。吐いたほうが楽になるわよ」
「本当に、大丈夫です……うっ……」
 吐き気を堪(こら)えるナタリーの背中を優しくさすってやる。
 侍女のナタリーはアンゲルス家に仕える執事の娘で、イルゼと同い年だ。
 どこへ行くにも同行してくれる旅の相棒であり、何かと気の利く侍女なのだけれど船だけは苦手だった。航路では、いつも青白い顔で船室に引きこもっている。
 一方のイルゼは海が荒れて船が左右に激しく揺れようが、平然と読書ができるほど船酔いに強かった。
 ナタリーには「お嬢様の三半規管は頑丈な鋼鉄でできている」と恨みがましい目を向けられるが、こればかりは体質なので仕方ない。
「気持ち悪かったら無理しないで。もう少し我慢すれば港に入るから」
「……はい……久しぶりに、家族にも会えますし……」
「そうよ。頑張って」
 弱々しく笑うナタリーを励ましてから、イルゼは近づいてくる港を見つめた。
 これから入港するのはイルゼの祖国――レクイア王国の王都にある港だった。
 諸国との交易の要所で、異国の商人が多く行き交う。
 港の市場を歩くだけで異国情緒あふれる品々を目にすることができた。
 ――懐かしいわ。ここに帰ってくるのは三年ぶりだもの。
 イルゼは十八歳の時、療養師になるために海の向こうにあるライ皇国へ留学した。
 療養師というのは、怪我の後遺症で苦しむ患者を補助する仕事だ。
 精神的なケアはもちろんのこと、後遺症の状態を診ながら日常生活に戻れるよう訓練指導を行なう。
 療養師になるためには基礎的な医学の知識を身につけ、実務経験を積む必要があった。
 ライ皇国は医療技術の研究が盛んで、療養師の育成にも力を入れている。友好国であるレクイア王国からの留学生も積極的に受け入れていた。
 イルゼも三年前に留学生として渡海したが、これまで一度も里帰りをしていない。
 本来ならば、もう数年は帰国せずに経験を積むつもりだった。
 だが、つい先日、ライ皇国で皇位継承権を争う内戦が勃発してしまった。
 それにより、留学生は祖国へ帰れと通告が出されたのだ。
 イルゼは医師ではない。しかし医学を齧(かじ)り、怪我の手当ての心得があった。
 世話になった人も多くいたから、自分でも役に立つならライ皇国に留まりたいと希望したけれど、師と仰ぐ療養師のタルコットから「祖国へ帰ったほうがいい」と諭された。
『イルゼ。あなたの熱意は誰よりもすばらしい。祖国へ帰ってもやれることはたくさんあるわ。多くの患者と触れ合い、学び続けなさい』
 ライ皇国を発(た)つ際、タルコットはそんな言葉をくれた。
 無力感から意気消沈していたイルゼは師の言葉を胸に刻みつけて、帰国しても自分にできることをやり続けようと心に決めたのだ。
 ――これから休戦の交渉が始まると言っていたけど、本当かしら。早く治まってほしい……。
 ライ皇国の行く末を、今はただ心の中で祈ることしかできない。
 イルゼは気を取り直すように頬を叩き、間近に迫った港に目線を戻した。
 ――みんな元気かしら。
 家族とは連絡を取り合っていたが、顔を合わせるのは三年ぶりだ。
 港街の磯の香りすら懐かしく、しんみりしているうちに船が接岸して錨(いかり)が下ろされる。
 イルゼは鞄(かばん)を持ち、港に降り立った。活気ある港を見渡すと、遠くのほうにレクイア王の住む城が見える。
 尖塔の白い壁と空に溶けこみそうなアクアマリンの屋根が目に鮮やかだ。
 桟橋を歩き出してすぐに懐かしい声が聞こえた。
「イルゼ!」
「お姉様~!」
 桟橋の向こうで、迎えに来てくれた母テッサと、妹のモニカが手を振っている。
 イルゼは駆け寄ってくる家族と抱擁して「ただいま」と笑った。
 王都の屋敷へ帰宅すると、今度は父のアンゲルス伯爵が出迎えてくれた。
「イルゼ、おかえり! よく無事で戻ったな!」
「お父様、ただいま」
 父に抱きしめられると、軽い刺激臭が鼻(び)腔(くう)をかすめる。
 幼少の頃から嗅(か)ぎ慣れている消毒液の匂いだった。きっと病院から帰ってきたばかりなのだろう。
 その匂いも懐かしくて、イルゼは深く息を吸いながら父の胸に顔を埋めた。
 傍らでは執事のランディと娘のナタリーも再会の抱擁を交わしている。
 イルゼの生まれたアンゲルス伯爵家は、もともと爵位のない平民の家柄だった。
 しかし代々有能な医師を輩出していて、先々代の頃、王立病院の設立に多大な貢献をしたことでレクイア国王から伯爵位を賜った。
 当代のアンゲルス伯爵――イルゼの父も医師の資格を持ち、一族で経営する“アンゲルス病院”の院長をしていた。
 アンゲルス病院は王立病院と提携し、貴賤を問わずに患者を受け入れて、院長自ら診察をこなす。そのためアンゲルス伯爵は日々多忙を極めていた。
 男爵家に生まれた母も経営の勉強をして、今は病院運営の主軸となっている。
 イルゼはそんなアンゲルス家の長女として生まれたので、ゆくゆくは医療に携わりたいと考え、レクイア王国では従事者の少ない療養師の道を選んだのだ。
 ちなみに妹のモニカも病院の経理を手伝い、婚約者はアンゲルス病院に勤務する医師である。
 親類縁者もことごとく医療従事者であるため、レクイア王国の上流社会において、アンゲルス家は特異な家系とみなされていた。


 帰国した日の夜、イルゼは久しぶりの家族だんらんを楽しんだ。
 賑やかに夕食をとったあと、父の書斎に呼ばれる。
 出し抜けに、こう切り出された。
「イルゼ。実は、お前に任せたい患者がいる」
「お父様ったら急すぎるわ。わたしはまだ帰国したばかりなのよ」
 父が仕事人間なのは分かっているけれど、留学から帰国したその日に頼むことではないだろうと呆れてしまう。
「すまないな。だが、早急に対応したい患者なんだ」
「いったい、どういう患者さんなの?」
「怪我はとっくに治っているんだが、深刻な後遺症がある。日常生活にも支障が出てしまっている。私が往診に行っても、最近は患者本人に拒絶されてしまうんだ。先日、もう来るなとまで言われてしまった」
 愛想よく接するのが苦手なイルゼと違い、アンゲルス伯爵は人当たりがよく、患者に好かれやすい。信頼を得るのも上手かった。
 その父が手を焼くほどだから、よほど気難しい患者なのかと、イルゼは思案顔をする。
 療養師は精神的なケアもするため、患者を受け持つとかかりきりになる場合が多い。
 イルゼは留学から帰ったばかりだし、しばらくは実家の病院で看護助手の経験を積ませてもらおうと考えていたのだ。
「お前にとってもいい経験になるだろう。私も共に経過観察を行なうから、やってみないか」
「お父様がいるなら心強いのは確かだけど、まずは患者さんに会って、今の状態を把握してからじゃないと答えられないわ。会うことは可能なの?」
「もちろんだ。ただ、少しばかり複雑な事情があってな。患者本人に会わせる前に、もう一人お前に会わせたい方がいる」
 含みのある表情を向けられたので、イルゼは怪(け)訝(げん)に思いつつも応じた。
 翌日、早朝から馬車に乗せられて王の住む城へ連れて行かれた。
 王都の城は屋敷から馬車で二十分ほどだ。
 港からも白い尖塔が見えたが、ロータリーに入って正面から見る城は圧巻だった。
 純白のタイルが敷き詰められたロータリーの両側には広い庭園があり、気品ある白亜の城が聳(そび)え立っている。
 城の左右には尖塔が立っていて、白い壁とアクアマリンの屋根が対比となって美しい。
「お父様。会わせたい方って、まさか……」
 馬車を降りたところで、イルゼは不安げに父を見やったが笑顔で誤魔化された。
 衛兵の案内で階段を上がり、三階の奥にある一室まで案内される。
 そのまま国王の執務室へ通されると、中で書き物をしていた茶髪の青年が立ち上がった。
「よく来てくれたね、アンゲルス伯爵」
 若く精(せい)悍(かん)なレクイア国王――オーガスト・レクイアがアイスブルーの目を細めて、親しげに笑いかけてくる。
 仰(ぎょう)々(ぎょう)しくお辞儀をする父に倣(なら)い、イルゼは慌ててスカートを摘まんでお辞儀をした。
 今から五年前、先代王が亡くなり、当時二十一歳だったオーガストが王位を継いだ。
 即位直後は若くて頼りないとか、国の行く末が不安だと声を上げる国民もいたが、この五年で評価は高まった。
 現在、オーガストは二十六歳という若さで英明な国王として周知されている。
「こちらから出向こうと思っていたんだが、なかなか時間が取れなくてすまなかったね」
「とんでもないことでございます。陛下がお呼びであれば、どこへなりとも参りますよ。こちらが娘のイルゼです。イルゼ、陛下にご挨拶をしなさい」
「――はじめまして、国王陛下。イルゼと申します」
 緊張していたせいか少々ぎこちない口調になってしまった。
 即位式の折、遠目にオーガストを見たことはあったが、イルゼは社交界デビューをする前に留学したので謁見するのは初めてだった。
 オーガストが目鼻立ちの整った顔を綻(ほころ)ばせる。
「はじめまして、イルゼ。ライ皇国から帰国したばかりだと聞いたが、朝早くから呼び立ててすまなかった。できるだけ早く話をしたかったんだ。伯爵、イルゼにはどの程度話してあるんだ?」
「任せたい患者がいるとだけ話しました。詳細は、陛下からお話しいただいたほうがよろしいかと思いまして」
「そうか。とりあえず立ち話もなんだから座ってくれたまえ」
 来客用のカウチを示されて、イルゼは父とともに腰を下ろした。
 人払いをして、向かい側に座ったオーガストがおもむろに話を切り出す。
「まどろっこしいのは嫌いだから単刀直入に言おう。任せたい患者というのは、異母兄(あに)なんだ」
「陛下の兄君ということは……まさかウィスペルデ大公様のことですか?」
 瞠(どう)目(もく)しながら問うと、オーガストが深刻そうな面持ちで頷いた。
 ウィスペルデ大公――ダリウス・ウィスペルデ・レクイア。
 オーガストよりも一つ年上の異母兄だ。実母の身分が低いため王位継承権はないが、国王の右腕と呼ばれ、オーガストを支えてきた人物として有名である。
 ちなみにレクイア王国における“大公位”は王族の血を引く男子に与えられるもので、公爵の一つ上の地位だ。
「一年前、ダリウスは両腕に大怪我を負った。以来、後遺症で手が動かなくなった。アンゲルス伯爵をはじめとする何名もの医師に診てもらったが、今は本人が診察を拒絶している。診察を受けたところで無意味だからとね。私が会いに行くと顔を見せてはくれるが、離宮に引きこもって外へ出ようとしない」
 どうにかしてあげたいんだと、オーガストが力なく笑う。
「イルゼ、君はライ皇国で療養師になるべく学んできたんだろう。この国ではまだ療養師という存在がさほど認知されていないし、従事者も少ない。私も伯爵から聞くまでは知らなかったが、もしダリウスの助けになるならと思って、君を呼んだんだ」
「……事情は分かりました。ただ、父にも話したのですが、まずは大公様にお会いしたいのです。本当にお役に立てるかどうか確認しなければなりませんから」
 イルゼは慎重に言葉を選んだ。
 すでに経験豊富な父や他の医師たちが診察をし、その後の経過も見守ってきたはずだ。
 ましてや相手は国王の異母兄であり、もし受け持つとなれば責任は重大だろう。
「分かった。ひとまず会ってみてくれ。それから決めてくれて構わないよ」
「承知いたしました、陛下」
「それと、もしかしたらダリウスは君に冷たく当たって追い返そうとするかもしれない。他の医師たちにしたようにね」
 目をパチリと瞬かせるイルゼに苦い笑みを向けて、オーガストは声量を落とした。
「今は少し荒(すさ)んでしまっているだけだから、どうか許してほしい。本来の彼はまじめで優しい人なんだ。きちんと話をしてみれば分かると思う」
 ――陛下は大公様のことを、とても大切に想っていらっしゃるのね。
 留学先のライ皇国では皇位継承権を巡り、骨肉の争いを繰り広げていた。
 その緊張感を肌で味わったからこそ、国王が異母兄を気遣う姿には感じるものがある。
「追い返されそうになったら、私の命令で来たと言ってくれ。王命なら、さすがのダリウスも逆らわないだろう」
「陛下のお名前を出してもよろしいのですか?」
「ああ。彼も強情なところがあるからね、少し強引な手をとらないと聞かないと思うよ。ダリウスが回復する望みがあるのなら、試してみる価値は大いにある」
「かしこまりました」
「よし。ならば離宮へ行くための馬車を用意させる」
 国王が頷いてすっくと立ち上がり、側近を呼んで馬車の支度を言いつけた。
「私はこれから政策会議があって抜けられないんだが、先に離宮へ連絡を入れておこう。あとは伯爵に任せても大丈夫だろうか」
「はい。お任せください、陛下」


 ウィスペルデ大公が暮らす離宮は、王都の繁華街から離れた郊外にあった。
 整備された緩やかな山道を上った先にあり、上階の窓からは街が一望できる。
 先代王の側室だったダリウスの母、リゼ妃が暮らしていた宮殿であり、今はダリウスが譲り受けて暮らしているのだとか。
 離宮へ案内してくれた王の護衛兵が門兵に声をかけると、門兵が中に取り次いでくれて、イルゼとアンゲルス伯爵は応接間に通された。メイドが紅茶を出してくれる。
「ダリウス様をお呼びいたしますので、しばしお待ちくださいませ」
 キリル・マグワイアと名乗った執事が、そう言い置いて部屋を出て行く。
 イルゼは紅茶に砂糖とミルクを入れながら、隣に座っている父に胡(う)乱(ろん)な目を向けた。
「お父様。任せたい患者さんが大公様だってこと、どうして黙っていたの?」
「大公様の件は、陛下から内密にと言われていたのだ。大公様の現状を知っているのも診察を行なった医師だけだ。だから、私から説明するよりは陛下にお話しいただいたほうがいいだろうと考えたんだ」
 父はあっさりとした口調で説明して紅茶を飲み始めた。
 長い足を組み、花柄のカップを口へ運ぶ姿は様になっている。
 アンゲルス伯爵は癖のある黒髪と海のような青い瞳で、端整な顔立ちをしていた。
 若い頃は社交界で美青年だともてはやされたようだ。しかし、暇さえあれば医学書を読み耽(ふけ)っている変わり者で、女性関係にとんと疎かったため、手近なところで幼馴染だった男爵家の末っ子――イルゼの母テッサを娶(めと)ったのだという。
 現在、父は四十代の後半に差しかかり、その美貌はやや渋みを増していた。
 イルゼは毛先がふわふわとカールした黒髪と整った容貌が父によく似ている。母譲りなのは琥珀色の瞳だけだった。
 一方、妹のモニカは瞳の色以外は母とそっくりだ。
 だから姉妹で街を歩いたりすると、それぞれ両親の面影があるねと言われる。
 イルゼはため息をついて自分の格好を見下ろした。
 ――出発前に『身なりを整えろ』と言われたのは、陛下や大公様に会うからだったのね。
 いつもの父は寝癖だらけで、よれよれのシャツに白衣を着ている。
 だが、今日は髪型を整えて礼装までしていたので、おかしいとは思ったのだ。
 かく言うイルゼも紺色の上品なワンピースを着て化粧をしていた。
 漆黒の髪も丁寧に編みこみされそうになったが、イルゼはシンプルなほうがいいと言い張ってポニーテールにしている。
 ――お母様が気合いを入れて、わたしの服選びをしていた理由が分かったわ。
 納得しながら紅茶を飲み終えたが、いつまで経ってもダリウスは現れない。
 紅茶のお代わりを持ってきてくれたメイドに尋ねても、執事が呼びに行っているという答えが返ってくるばかりだ。
「随分遅いわね。何かあったのかしら」
「もしかしたら往診に来たんだと思われたかな。前回の往診では、もう来ないでくれと追い払われたんだ」
「大公様は、そんなに気難しい御方なの?」
「即位式の折に挨拶をした時は、優しげで物腰の柔らかい方だったよ。陛下とよく似ていらっしゃって、気難しいという印象もなかった。でも怪我をしてから公の場に出ることが減って、すっかり塞ぎこんでしまっているんだ」
 伯爵が苦笑して、イルゼにちらりと一(いち)瞥(べつ)をくれる。
「身体の怪我は治せても、精神的な問題を易々と治すことはできない。ままならない現状を受け入れるのは難しいものだろう。――その感覚は、お前がよく知っているはずだ」
 ある日突然、当たり前のように持っていたものが奪い取られて、自分の置かれた状況が一変してしまったら受け止めるのに時間がかかる。
 場合によっては心が荒んで人が変わったようになってしまうこともある。
 イルゼはそのもどかしさや苦悩を知っていた。
 ――だからお父様はわたしに任せようと考えて、陛下に進言したのね。でも、まさか相手が大公様だなんて思いもしなかったわ。
 国王の兄、ウィスペルデ大公。
 その名を聞くと、とある出来事を思い出すのだ。
 横目で父の様子を窺ったが、飄(ひょう)々(ひょう)としたそぶりで菓子を食べている。
 二杯目の紅茶を飲み終えたところで、ようやくキリルが戻ってきた。
「お待たせしてしまって申し訳ございません。ダリウス様は体調が悪いとおっしゃっていまして、本日お会いいただくのは難しいかと」
 キリルが申し訳なさそうに頭を垂れる。
 離宮にはあらかじめ国王から連絡が来ていたはずだし、もし本当に体調が悪ければ、イルゼたちがここへ来た時点で執事がそう告げていただろう。
 この調子だと、日を改めたところで同じように門前払いを食いそうだ。
 イルゼは父を見やった。目が合うなり頷き返される。
「体調が悪い? ならば私が診察しましょう」
 父が先手を打って立ち上がった。
 イルゼもすかさずカウチから立つと、キリルが恐縮した様子で首を横に振った。
「いえ、しかし……そこまでしていただかなくとも……」
「わたしたちは陛下の命でここへ来たの。大公様にお会いせずに帰ったら、陛下に咎(とが)められてしまうかもしれないわ。せめてご挨拶だけでもさせていただきたいの。大公様はどこにいらっしゃるのかしら」
 柔らかい声で、それとなく王命だと告げた途端、キリルは背筋をピンと伸ばして「国王陛下のご命令とあればご案内いたします」と応じる。
 客間を出て、案内を始めた執事の横顔は少しほっとしているように見えた。
 国王以外の面会を拒む主人と訪問客との板挟みとなり、いちいち言い訳を考えるのも大変だろうなと、イルゼは少しばかり同情する。
 玄関ホールの大階段を上って、キリルが向かったのは三階にある図書室だった。
 そこに足を踏み入れた瞬間、イルゼは瞠目する。
 図書室の天井は高く、大きな書棚がずらりと並んでいた。壁に埋めこまれた棚にも隙間なく本が詰まっている。
 王立図書館ほど広くはないけれど、贅沢な書物の量であった。
 ――すごい……ここは宝物庫だわ。
 思わず感動した。書物は知識の源だ。イルゼも留学中は医学書を山ほど読み漁ったものだ。
 執事が部屋の奥へ進んでいくと、日当たりのいい大きな出窓があった。
 その横には安楽椅子があり、一人の男が座って読書をしている。
 男は肩まである金髪をうなじで一つに結び、白シャツに黒いズボンというラフな格好だ。ぎこちない手つきでページを捲(めく)っている。
 彼こそが離宮の主、ウィスペルデ大公だろう。
「ダリウス様」
 キリルの呼びかけにウィスペルデ大公――ダリウスが顔を上げる。
 眉目秀麗な彼を見た瞬間、イルゼはハッと息を呑んだ。
 ダリウスはオーガストと容貌がよく似た美丈夫であった。
 瞳の色はレクイア王族の特徴であるアイスブルー。異母弟よりも少し垂れ目で、長めの髪は蜂蜜色だ。
 鼻筋は通っていて、離宮に閉じこもっているせいか不健康に見えるほど肌が白い。
 イルゼとアンゲルス伯爵を見るなり、ダリウスは不機嫌そうに言った。
「私は診察を受けないと言ったじゃないか、キリル。どうして連れてきたんだ」
「申し訳ございません。国王陛下のご命令でいらっしゃったということでしたので」
「大公様。そう邪険にせずとも、私は診察に来たわけではありません。本日は娘を紹介するために参ったのですよ」
「娘?」
 北海の氷河を思わせる冷ややかな眼差しに射貫かれて、我に返ったイルゼは一礼する。
 穏やかな声色で自己紹介をした。
「はじめまして、大公様。アンゲルス伯爵家の長女、イルゼと申します」
「……ああ、うん」
 気のない返答をしたダリウスが顔を顰(しか)める。
「どういうつもりだ、アンゲルス伯爵。これは私に対する当てつけなのか。それともオーガストの差し金か」
「と、おっしゃいますと?」
「私はギルゴリー侯爵家の令嬢との婚約がなくなったばかりだ。新しい婚約者なんて欲していない。娘と会わせて、取り入ろうとしても無駄だからな」
 噛みつくように言い放った直後、ダリウスの手から本が滑り落ちる。
 彼は前屈みになって本を拾おうとしたが、右手がうまく動かないらしく掴めない。すぐに左手を使って拾い直したものの、それも動きがぎこちなかった。
 イルゼは目をぱっちりと開けて、その一挙手一投足を観察する。
 ダリウスが身体を起こし、穴の開くほど手元を見つめる彼女の視線に気づいたようだ。
「なんだ、伯爵から聞いていないのか。私は見てのとおり両手がまともに動かない。日常生活にすら支障が出ているんだ」
「…………」
「これでは政務もできない。国王の補佐も外されて、公の場での影響力も失った」
 すべてを諦めたような、投げやりで自虐のこもった口調だった。
「今の私は役立たずで存在価値がないんだ。婚約者になっても、君にしてやれることはないんだよ。分かったら帰りなさい」
 言い終えたダリウスの顔には一瞬悲痛な影が過ぎる。
 ――なんて自虐的な台詞なの。それで自分を傷つけているかのよう。
 苛(いら)立(だ)ちともどかしさがふつふつとこみ上げてきて、イルゼは奥歯をぐっと噛みしめた。
 アンゲルス伯爵の顔を見上げたら、父の口が「どうする?」と動く。
 ――どうするも何も、こんなの放っておけないわ。
 心に壁を作り、無害な本の世界に閉じこもろうとするダリウスの気持ちがイルゼにはよく理解できた。
 だからこそ、やるせない気分に駆られる。
 ――さっきの大公様の動きを見た限りでは、両手の指は動いていたわ。きちんとマッサージをして、時間をかけて訓練すれば回復の見込みがあるかもしれない。
 できれば詳しく触診させてほしい。
 イルゼは深呼吸をして心を決めると、おもむろに切り出す。
「大公様。先ほど拝見した限りでは、右手のほうが動かしづらいようですね」
 大股でダリウスに歩み寄り、再び顔を上げた彼の右手に触れる。
「ご無礼をお許しください。失礼いたします」
 手首から指先まで触診を始めたら、固まっていたダリウスが慌てたように手を引っこめた。
「なんなんだ、君は……いきなり触らないでくれ。驚くじゃないか」
「ですが、こうでもしないと触診させていただけないかと思って」
「なんだって?」
「両手ともに指は動くんですよね。とりあえず両腕の筋肉をほぐすマッサージから始めましょう。あとは弾力性のある小さなボールを用意して、それを地道に握る訓練ですね」
 唖然とするダリウスを横目に、イルゼはぶつぶつと呟きながら父を振り返った。
「お父様、病院のほうで用意できるかしら」
「用意はできるが、大公様をお任せしてもいいのか?」
「ええ。わたしにできることをやってみるわ」
「待て!」
 置いてきぼりを食らっていたダリウスが口調を強くする。
「話が見えない。イルゼと言ったね。君は医師なのか?」
「いいえ、わたしは医師ではありません。つい先日まで、ライ皇国に留学して療養師の勉強をしていました」
「療養師? それは医師とは違うのか?」
「はい。怪我の後遺症で悩んでいる方々のお手伝いをする仕事です。日常生活を送れるような訓練のやり方や、身体の動かし方をお教えすることができます」
 いったん言葉を切り、穏和な口調で大事なことを付け足す。
「ですから、どうかご安心ください。わたしは大公様の婚約者になるためにここを訪れたわけではないのです。そういった意味で大公様を煩わせることもありません」
 イルゼは誠意を示すために膝を突いて頭を垂れた。
「その代わり、しばらくの間、療養師としてお側に置いていただけませんか」
 驚愕の眼差しで見下ろしてきたダリウスが、本をぱたんと閉じた。眉間に皺(しわ)を寄せながら冷ややかに言う。
「私には、君は必要ないよ。さっさと帰りなさい」
「そんなことをおっしゃらないでください。わたしはただ……」
「これ以上、話すことはないよ」
 安楽椅子から立ち上がったダリウスが荒々しい足取りでイルゼの横を通り過ぎていく。
 その背中に向かって、イルゼはすかさず声をかけた。
「わたしに機会をいただけませんか。もしかしたら、今よりもその手が動くようになるかもしれません」
「っ……!」
「役に立たないと判断されたら、すぐ追い出してくださって構いませんから」
「私からもお願いいたします、大公様。娘は昔から頑固でしてね、一度そうすると決めたら意思を変えないのですよ。どうか機会を与えてやってくれませんか」
 アンゲルス伯爵もイルゼと同じように膝を突いて頭を下げる。
 彼が頷くまで動くものかと見つめ返していると、振り返ったダリウスはアイスブルーの目をわずかに細める。
 数秒の沈黙をおいて重々しいため息をついた。
「はぁ……もういい。勝手にしろ」
 反論するのも面倒だと言いたげに呟き、彼は図書室を出て行ってしまった。

      ◇◆◇

 行儀悪く足音を立てて自室へ戻ったダリウスはどっかとベッドに腰かけた。
 両手を目線に掲げて握ろうとする。
 左手はどうにか拳を作れるが、右手は指先が小さく曲がっただけだった。
 腕に力を込めてみるが痛みが走り、苛立ちをぶつけるように枕を叩く。
「どうして、うまく動かないんだ……くそっ!」
 悪態をつき、今度は左手で壁を殴りつける。
 物だってよく落として壊してしまうし、その都度苛立ちが膨れ上がった。
『もしかしたら、今よりもその手が動くようになるかもしれません』
 アンゲルス伯爵家の令嬢イルゼ。彼女の放った言葉が頭の中でリフレインする。
 ――あんなもの、どうせたわごとだ。期待することは、もうとっくにやめた。
 何名もの医師が、療養に専念すれば元通りに生活できると診断した。
 だが、怪我は治っても深刻な機能不全が残った。
 両手を動かす訓練もしてみたが、未だに細かい作業はもちろんのこと文字も書けない。
 動かしやすい左手が利き手ならよかったのに、あいにくダリウスの利き手は右手だ。
 ペンを持っても、ミミズがのたくったような線しか書けない。
 ――指示されたことは全部やった。腕の筋肉をつけたり、文字を書く訓練もした。しかし痛みが強まるばかりで続かず、何もうまくいかなかった。どの医師も匙を投げたんだぞ。
 そこまで考えて、いいや違うかと唇を噛みしめた。
 アンゲルス伯爵だけは、諦めずに動作訓練をしてみてはどうかと提案してきたのだ。
『後遺症の訓練について詳しい専門家がいるんですよ。今はライ皇国に留学中ですが、帰国次第、大公様にご紹介したいのです』
 前回の往診時、伯爵はそう言っていた。
 あれは、おそらく娘のことだったのだろう。
 ダリウスは力なくベッドに横たわり、その娘――イルゼの顔を思い返した。


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