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「邪魔になった」と離縁された伯爵令嬢、次期皇帝(元夫)に再婚要求される

あさぎ千夜春 / 著
Ciel / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/11/24

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内容紹介

愛してる。俺の小鳥。
家族に虐げられ屋根裏部屋に住む伯爵令嬢・セレスティアのところへ、十年前に自分を一方的に捨てた元夫・アルフレッドが迎えに来た。当時第六皇子だった彼はなんと、次期皇帝に成り上がっていて!? 尊大な態度に初めは反発心を抱くセレスティアだったが…。「この十年、お前を傷つけたことを忘れたことはない」アルフレッドから悔いるように真相を告げられ、とめどない感情が湧き上がり…。「俺の心を癒せるのは、生涯でお前しかいないんだ」傲慢で孤独な次期皇帝が清らかな姫にかしずく。かけがえのない愛の物語。

立ち読み

プロローグ



「美しくなったな、セレス。俺を覚えているか?」
 ビロードの天幕の向こうから低く艶のある声が響く。
 深く跪(ひざまず)いていたセレスは、薔薇(ばら)の花冠をのせていた後頭部を雷で打たれたような衝撃を受けた。
(この声は……)
 おかしいと思ったのだ。
 継母と妹から使用人同然に扱われていた自分が、お城の舞踏会に招待されるなんて。
 そんな夢みたいなことがあるはずがないと頭ではわかっていたのに、亡き母の形見のドレスに袖を通せる機会ができたことが嬉しくて、ノコノコと舞踏会に来てしまった。
 王宮の広間から別室に呼び出され、なぜ自分が? と思いつつも、もしかしたら亡くなった両親と親交があった貴族の誰かと思い出話ができるのだろうかと、自分に都合のいいことを考えてしまった。
 そんなことあるはずがないのに——。
(どうして……どうして今、殿下がここに、いるの……?)
 セレスは何度か瞬きをしつつ、かつて自分を捨てた男の前に跪いている。
 もしかして夢でも見ているのかと、セレスは自分の頬をつねりたい気分だった。
「面(おもて)を上げよ」
 側仕えの騎士の威厳ある声とともに、アーマイン王国の紋章であるウタツグミが刺(し)繍(しゅう)された天幕が、するすると引き上げられる。天幕の向こう——その人は輝くような純白の軍服に身を包み、豪奢(ごうしゃ)な椅子に長い足を持て余すように組み座っていた。
 こちらを見おろすグリーンアイズの煌(きら)めきは昔と少しも変わっていない。
(あぁ……懐かしい。十年ぶりの殿下だわ……)
 帝国の第六皇子だった彼の元を離れてから、一度だって忘れたことはなかった。
 フレド。大好きだった、セレスの元夫アルフレッド。
 薄い褐色の肌に銀色の髪。新緑を映しとったようなペリドットグリーンの瞳。アルフレッドの堂々とした精悍(せいかん)な美貌は十年前から少しも衰えておらず、むしろ年を重ねて風格を増した迫力のようなものを感じる。
「……フレド?」
 吐息交じりの小さな声で問いかけると、胸の奥がかすかに痛んだ。
 懐かしさと、寂しさが入り交じった、甘い痛み。
『邪魔になった』と一方的に捨てられても、セレスは彼を忘れることができなかった。
 彼と過ごした日々の思い出はいつまでも輝いていて、セレスがその気になればいつでも胸の奥から取り出して眺めることができる。とはいえ、捨てられたセレスのアルフレッドへの思いは、愛憎が入り交じった不思議なものでもあるのだが。
「帝国の皇太子殿下を愛称でお呼びするとは、不敬であるぞ」
 セレスの発言に、そばに立っていた帝国騎士のひとりが低い声で咎(とが)める。
「もっ……申し訳ございませんっ……」
 その声に、セレスは慌てて目線を下げ唇を引き結んだ。
 心臓が胸の奥でドキドキと激しく、鼓動を打つ。
「アルフレッド・バンテッド・エルンスト=ケイオス・ケイオニア。それが今の俺の名だが……いい。セレスは特別だ。俺をどんな名で呼ぼうと、許す」
 アルフレッドはそう言って椅子から立ち上がり、夜の闇色に似たマントを引きずりながら、セレスに向かって一歩一歩、踏みしめるように歩み寄る。彼の気配に顔をあげると、片膝をついて跪いたアレフレッドがセレスの手を取り、ゆったりと優雅に微(ほほ)笑(え)んだ。
「俺は皇太子として認められ、父の跡を継いでケイオニアの皇帝になる。戴冠(たいかん)式は少し先だが、権力のすべては俺の手の中にあるというわけだ」
 そしてアルフレッドはにやりと笑った。
 楽しそうで子供っぽい、彼らしい微笑みだ。
(あぁ……懐かしい)
 間違いない。過去に何度も見た、いたずらをしてセレスを驚かせることに成功した時の顔だった。
 別れてから十年、なんと元夫はケイオニアの皇太子になっていた。王国が帝国からお招きしたという『貴賓』は皇太子殿下だったらしい。
(でも……どうして私はここに呼び出されているのかしら……。意味がわからないわ)
 色々聞きたいことはあるのに、また言葉を間違ったら騎士に叱られるかもしれないと思うと、少しためらってしまう。
 だがアルフレッドは、セレスが何度か唇を震わせつつ言葉を選んでいるのに気が付いたのだろう。セレスの手をぎゅっと握り、低い声でささやいた。
「セレスティア・アリア・メロディ。お前を迎えに来た」
 普段はずっとセレスで通しているが、セレスティアが正式な名前だ。
 改めて名を呼ばれて、
「え……?」
 とセレスは首をかしげた。
「もう一度、帝国でともに暮らそう」
「——」
 セレスは五歳で、アーマイン王国から遠く離れたケイオニア帝国に嫁入りし、十二歳で離縁された。元々政略結婚だ。年も離れていたし、夫婦というよりも兄妹のように一緒に過ごしただけである。
 その後お払い箱になり国に帰ったセレスの居場所は、なくなっていた。
 最愛の父は死に、後妻の継母と連れ子である妹からは使用人扱いされて、十年があっという間に過ぎていた。
 我ながら過酷な人生だとは思うが、誰かを恨んだりしたことは一度もない。
 だが——目の前の男は違う。
 セレスの心を唯一乱す、嵐のような男。
 妻でなくても、妹のように娘のようにかわいがってくれたはずなのに、幸せの絶頂でセレスを手放した、ひどい男。
『お前が邪魔になった』
 脳裏にかつての夫が、冷めた眼差しで言い放った言葉が浮かび、ふつふつと煮える怒りがさざ波のように押し寄せてくる。
 思い出に過ぎなかった、彼を懐かしいと思う気持ちが、じわじわと灰色の感情で塗り替えられてゆく。
 そうだ、許さない。許してなるものか。
 彼に思い入れがあるからこそ、絶対に言いなりになりたくない。
(フレドの言うことなんか、絶対に聞きたくない!)
 セレスは、体を強張らせながらもつぶやいた。
「……です」
「ん?」
 元妻の声を聞こうと、アルフレッドがセレスの顔に耳を寄せた次の瞬間、
「絶対にっ、いやですっ!」
 セレスは悲鳴交じりに叫ぶと、頭ひとつ大きい元夫の体をえいっ! と突き飛ばし、くるりと踵(きびす)を返し走り出していた。
「セレス!」
 アルフレッドが声をあげたが、無視して部屋を飛び出した。
 大広間から漏れるオーケストラの音楽だけが、遠くに聞こえた。
(こんなの、おかしい。間違ってるわ……!)
「……セレス!」
 自分を呼ぶアルフレッドの声にも、セレスは立ち止まらなかった。
 こんな現実があってたまるものか。
(夢なら、いい加減覚めて!)
 そう心の中で叫びながら、ドレスの裾をつかみ、誰もいない廊下を全速力で走り抜けたのだった。?



一章「元夫との再会」



「いたいっ! セレス、もっと丁寧に!」
 妹の金切り声とともに、セレスの左手の甲が扇子で打たれる。セレスをぶったのは隣で様子を見ていた義母だ。彼女はなにをするわけでもなく、椅子に座って優雅に紅茶を飲んでいたはずだが、セレスのちょっとしたミスを決して見逃さない。
「お前はかわいい妹の髪すら、上手に扱えないのかい?」
 持っていた扇子を口元に運び、ほっそりとした眉を吊り上げてため息をつく。
「っ……」
 手の甲がみるみるうちに赤く腫れてゆくが、痛がっているふりをすると、さらにぶたれてしまうのがいつもの流れだ。
「……ごめんなさい」
 必死に奥歯を噛みしめて、セレスは謝罪の言葉を口にした。
「本当にもうっ、グズなんだから! だから夫に離縁されるのよ、この役立たず!」
 化粧台の後ろに立ち尽くすセレスを肩越しに振り返りながら、セレスが手にしていたブラシを強引に奪い取ると、自分でゴシゴシと亜麻色の髪を梳(す)き始める。
 継母は猫なで声で、不機嫌そうな妹の機嫌を取るように「お前にはもっといい夫を用意してあげるからね」と、微笑みかけた。
 妹も当然とばかりにうなずく。
「そうね。うんとお金持ちがいいわ。セレスの元夫みたいな貧乏第六皇子なんて、ぜったいに嫌。しかも生粋の帝国民じゃなくて、異国の血が混じっているんでしょう? きっと目も当てられないくらい醜いに決まっているわ」
 元夫に未練はないが、悪(あ)し様(ざま)に言われるとセレスも傷つく。
(ひどい……)
 言い返せないまま口ごもっていると、
「あぁ、やだ。セレスの辛気臭い顔を見ているとこっちまでイライラしちゃう。あっちに行って!」
 妹はまなじりを吊り上げ、大げさにため息をついた。
「……畏まりました」
 だが、出て行けと言われたのは好都合だ。これ以上叩かれずに済む。
 セレスはぺこりと頭を下げ、妹の部屋を出て自分の部屋——メロディ伯爵邸の屋根裏部屋に戻ることにした。
 屋根裏はかつては物置として使っていた場所で、十年前からセレスの部屋でもある。置いてある家具は小さなベッドとクローゼット、そして天窓の下に書き物机があるだけの粗末な部屋だが、掃除はいき届いている。リネンもパリッと洗濯されて清潔に保たれて、慣れてしまえばなにも悪いことはない。
 敷地外への外出禁止、お客様の前に姿を現すことも禁止。
 義母にそう命令されているセレスが人目を気にせず過ごせる部屋はここだけだ。
「はぁ……また機嫌を損ねてしまったわ」
 セレスはベッドの縁に座ってため息をついた。
「私、そんなに辛気臭い顔をしているかしら……?」
 妹に言われた言葉を思い出しつつ、ベッドサイドに置いていた手鏡を手に取り、自分の顔を覗き込んだ。
 普段は後ろで長い三つ編みにしている髪は、解くと葡(ぶ)萄(どう)の蔓(つる)のように波打ちながら広がる淡い金髪で、瞳は夏の空を思わせるさわやかなブルーだ。細く高い鼻筋に薔薇の花びらをそっとのせたような赤い唇は、使用人仲間から陶器のように白く滑らかだと言われる小さな顔に、バランスよく収まっている。
 古参の使用人たちはそんなセレスを『亡き奥様にそっくりでいらっしゃいますよ』と言ってくれる。記憶に薄い母と自分が似ているのなら、それはセレスにとって何物にも代えがたい喜びだ。
(結局、私が嫌われているだけなのよね……)
 セレスはしょんぼりと肩を落としながら鏡を置き、うなだれた。
 妹は継母とよく似ていて、大変な癇癪(かんしゃく)持ちだ。彼女たちはセレスがなにをやっても気に入らず、罵(ば)声(せい)を浴びせかける。辛くないと言えばウソになるが、セレスにはほかに行ける場所などどこにもない。なにより両親の思い出があるここから離れたくなかった。
(ちょっと我慢すればいいだけだわ)
 そう、妹も継母も気分屋でもあるので怒りは継続しない。不満はのみ込み、やり過ごせばいい。
 これから先も、ずっと——。
 それから間もなくして、下から屋根裏部屋へ続く階段を上がってくる足音が聞こえた。セレスの部屋を訪ねてくれる人はそれほど多くはない。
「ミラ?」
 呼びかけると同時に、床からひょこっとメイドのミラが顔を覗かせた。
「はい、お嬢様。ミラでございますよ」
 ミラ——彼女はセレスより五つ年上の二十七歳で、そばかすと長い三つ編みがキュートなメイドだ。
「ここに来ていいの?」
「奥様たちは、もうお城に向かわれたんで大丈夫ですっ!」
 彼女はよいしょ、と屋根裏部屋にあがってくると、エプロンワンピースのポケットから軟膏(なんこう)を取り出した。
「薬を塗っておきましょう」
 先ほどセレスがぶたれたのを誰かに聞いたのだろう。
「ありがとう」
 思いやりに感謝しつつセレスは小さくうなずいて、ミラが座れる分のスペースを空ける。
 ミラは隣に腰を下ろすと、セレスの赤く腫れた左手の甲に、丁寧に軟膏を塗ってくれた。
「今日の舞踏会には、王国中の貴族女性が招待されているらしいですよ。セレスティア様にもお城の舞踏会に行く権利があるのに、どうして招待状が来ないんでしょう」
 ミラが不満そうに唇を尖らせる。
 今日、継母と妹は王城で行われる舞踏会に参加するのだ。なんでもアーマイン王国の最大の同盟国である大帝国ケイオニアから、貴賓をお招きしているのだとか。そのため国中の美女が集められているらしい。
 ケイオニアはこの大陸の三分の一を占める大国なので、年頃の娘を持つ貴族は皆、必死に娘を売り込む準備をしているという。
 ちなみに舞踏会は明け方まで続くので、使用人たちも朝までは平和な時間を過ごせるというわけだ。
「いいのよ、ミラ」
 毎日の掃除洗濯炊事ですっかり硬くなった指先をさすりながら、セレスは首を振った。
 使用人のような扱いを受けているが、セレスも一応メロディ伯爵令嬢だ。
 両親を失った以上、一応どころか正式に女伯爵として爵位を継げるはずの身分なのだが、なぜかそうはならない。継母は夫亡き今でも、伯爵夫人としてメロディ家に君臨している。
 セレスが幼いころから長くこの国を離れていたせいでもあるのだろう。誰かに訴え出ようにも親族の縁は薄く、相談できるような相手もいない。
 ミラは悲しそうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
 自分の不運を嘆いても仕方ない。誰もが生きるのに必死なのだから。
「でも舞踏会、かぁ……。参加はできなくても、見てみたいな。私の両親もお城の舞踏会で知り合ったんですって」
 帝国の子爵令嬢だった母は母国で開かれた舞踏会に参加し、留学していた父と知り合い、恋に落ちたという。
「そしてセレスティア様がお生まれになった、というわけですね」
「そうよ」
 セレスはニコッと笑った。
 だが母は、セレスが四歳になるかならないかくらいの時に流行(はや)り病で亡くなってしまった。最愛の妻を亡くした父は悲しみに暮れ、その悲しみを紛らわせるかのように子連れの未亡人と再婚したのだ。新しい母親ができたと言われた時は驚いたが、当時のセレスは、新しい家族の存在が本当に嬉しかった。
 だがそれから間もなくして、セレスはわずか五歳にして、遠く離れたケイオニア帝国の第六皇子の妻となることが決まってしまった。
 帝国は船で一か月近くかかる遠い国だ。一度嫁げば二度と祖国の地を踏むことはできない。家族とも会えなくなる。
 セレスは驚き、泣きながら『けっこんなんかしたくない!』と父に取りやめてもらうようにお願いしたのだが、継母が『末席とはいえケイオニアの皇族の一員になれるのですよ。どうせ娘はいつか結婚するのです。セレスの幸せのためですわ』と父を説得してしまい、セレスは単身で帝国に嫁入りしたのだった。
 その後、皇子から離縁されたセレスは帰国することになったが、頼るべき父はすでに亡くなっており、継母親子がメロディ伯爵家を牛耳っていた。
 義母も妹も、セレスを家族として迎えてはくれなかった。
 今でもはっきり覚えている。
 帝国から戻ってきたセレスが『おかあさま』と声をかけるや否や、
『お前は一度嫁いだ身! もううちの娘ではありませんよ!』
 と埃(ほこり)だらけの屋根裏に押し込められたことを。
 しかも帝国から持って帰ったたくさんのドレスやアクセサリーは『お前には身に余るものばかりね』と、すべて継母に奪われてしまった。
 セレスはそれから十年、跡取り娘として扱われず使用人同然に働かされている。
(私たちは家族ではなかったの?)
 そう何度も継母に問いかけようとしたが、そのたびにアルフレッドに『邪魔になった』と離縁されたことを思い出し、なにも言えなくなってしまった。
 あれほど仲良くしていると思っていた夫にも捨てられた自分だ。
(私は誰にも必要とされていないんだわ……)
 諦めればもう、期待して傷つかずに済む。
 それがセレスが選ばざるを得なくなった『生き方』だった。
「あ、そうだ。あとでお茶を持ってきますね。とっておきのマドレーヌがあるんですよ。一緒に食べましょう」
 雰囲気を変えるようにミラが明るい声で口を開く。
「ありがとう、ミラ」
 薬を塗り終えた後、ミラはパチッとウインクをして屋根裏を下りていった。
 継母や妹のようにセレスに厳しくあたる人間もいるが、一方でミラを筆頭に優しくしてくれる人もいる。人生はそう悪いものではない。
 セレスはそんなことを考えながら窓辺に腰掛け、懐かしい歌を口ずさんでいた。
 帝国で覚えた、長い冬が終わり春がきたことを喜ぶ歌である。
 ピチュチュ……。
 セレスの歌声に誘われたのか、明かり取りの天窓の外から小鳥の声がする。
「あら……今日も遊びに来たのね」
 セレスはパッと笑顔になると、天窓を開ける。小さな小鳥たちが羽ばたきながら部屋の中に入ってきて、くわえていた花をひらりと書き物机に落としていった。
「おみやげね。ありがとう」
 セレスは床に落ちた花をつまみ、水差しから浅いガラスの皿に水をそそぎ、その中に拾い集めた花をそうっと浮かべる。天窓から光の帯のように差し込む西日が、器と水に反射して七色に輝いた。
「きれいね……かわいいわ」
 小鳥たちの慰めが嬉しい。
 ぼんやりと頬杖をついて、天窓から空を見上げた。
 日が落ち始める、濃紺の宵闇。
 見飽きることのない雄大な自然を見ていると、ケイオニア時代を思い出す。
 セレスは五歳で、ケイオニアの第六皇子で当時二十一歳だったアルフレッドに嫁いだ。
 メロディ伯爵家の祖はもともと宮廷お抱えの楽士だったという。古い家系だったが名誉職のようなもので、裕福と言えるような貴族ではなかった。とても大帝国の皇子と婚姻が結べるような家格ではない。だが当時のアルフレッドにはそれくらいが『ちょうどよかった』のだろう。結婚は彼の意志だった。

『あ、あ……アルフレッドさま……。はじめまして、セレスティア・アリア・メロディでございますっ!』
 帝国に向かう船の中で練習した挨拶は、自分でもうまくできたかどうかよくわからない出来だった。
(こわいよう。どうしよう、声がふるえちゃう)
 五歳のセレスはプルプルと細かく震えながら目の前の男を見上げた。
 約一か月の長旅を終えたセレスを迎えに来たのは、夫となる帝国の第六皇子だった。数人の供を連れた第六皇子は、船の中で見た月よりも青ざめた銀色の髪をしていて、淡い褐色の肌はなめらかで、緑の瞳は宝石のようにキラキラと輝いていた。
『フレドでいい』
『え……?』
『フレドだ』
 彼は腰に手をあてて小さなセレスをじっと見おろした後、ぱっと笑顔になった。
 冴え冴えとした美貌が、急に人懐っこい表情に変わったかと思ったら、彼はひょいとセレスを腕の中に抱き上げる。
『ひゃあ!』
『想像以上に小さな姫君だな。まぁ、これもなにかの縁だ。仲良くしよう』
 そしてアルフレッドはスタスタと歩き出し、従者が手綱を握っている馬の元へと向かった。
『俺の領地はド田舎だが、メシは悪くない。たくさん食べて大きくなれよ』
 顔は絵本の天使様のように美しいのに、口調と雰囲気はからりと乾いていた。
 だがいやな感じはしない。セレスを腕に抱いた彼はそのままひらりと、馬に飛び乗った。
 彼は王国では見たことがない、不思議な衣装を身に着けていた。
 ゆったりと羽織っている白い長衣は縁に凝った刺繍が施され、腿のあたりまである長い襯(しん)衣(い)の首元は立て襟で、首元から斜め下に向かってくるみボタンがずらりと並び、腰帯を巻いたあたりから左右にスリットが入って、潮風にひらひらと揺れていた。
 帝国風なのかと思ったが、その不思議な格好をしていたのは彼だけだった。
『船旅はどうだった?』
『おふね? おふねはたのしかったの!』
 気軽な調子で尋ねられたから、いつもの調子で返事をしたら、アルフレッドはとても嬉しそうに笑った。
『俺の妻は肝が太いな!』
 そう、アルフレッドはよく笑う男だった。
 彼の笑顔を見ているだけで、不安な気持ちはすぐに吹き飛んだのだ。

(アルフレッド……今はケイオニアでどう過ごしているのかしら)
 彼はかろうじて皇子のひとりと認められはしていたが、母が権力を持たない外国人であることで不当に扱われていた。領地の大半が北の荒れ地で、どの帝国貴族よりも厳しい生活だったのではないだろうか。とはいえ心身ともに強い男だったので、虐(しいた)げられていた環境を気にしている風もなかったのだが。
 セレスは一年の大半を雪に包まれたそこで、アルフレッドと過ごした。
 嫁いだばかりのころは戸惑っていたが、子供だからすぐに順応できたのだろう。アルフレッドは優しかったし、セレスをかわいがってくれた。間違いなく人生でもっとも幸せな時間だった。
 ふたりの関係は純粋に政略結婚だったが、アルフレッドは幼いセレスを邪険にすることもなく、むしろ妹のようにかわいがってくれた。
 アルフレッドは白い肌ばかりの帝国では珍しい、淡い褐色の肌と煌めく銀色の髪を持つ、彫刻のような美丈夫だった。彼の生母は帝国が植民地にした小さな部族の姫君だったという。
 瞳は虹彩が黄金に輝く緑で、幼いセレスは『きれいだなぁ』といつも思っていたものだ。
 だがセレスは十二歳になって間もなくして、いきなり離縁された。
 五歳でケイオニアに嫁がされた時も泣いたが、十二歳まで育ったケイオニアから出て行けと言われた時はもっと泣いた。
『どうしてですか、フレド。どうして私を国に帰すの?』
 王国行きの船に乗る直前、尋ねたセレスに向かって、
『お前が邪魔になった』
 と、アルフレッドは静かに答える。
 彼はまっすぐにセレスを見つめて、そう言い放ったのだ。
 邪魔——。
 夫がなんたるかはわからないが、七年間そばにいてくれたアルフレッドをすっかり好きになっていたセレスの心は、その一言で粉みじんに打ち砕かれた。
 確かに自分はお飾りの妻だったかもしれないが、それでも家族のように過ごしてきた自負があったので、見捨てられた事実にセレスは深く傷つけられてしまった。
 人を恨まないという信条を持つセレスでも、アルフレッドのことを思うと今でも胸が苦しくなってしまう。
 彼と過ごした時間が濃密で幸せだったからこそ、今でも傷が癒えない。
「……はぁ。だめだめ、忘れなきゃ」
 セレスはぶんぶんと頭を振って、かつての夫との思い出を心から必死に追い出した。
 自分の人生は、どうしようもならない事情に振り回されている。
 だから心を凪のようにして生きるしかない。
 人を恨んでも仕方ないのだから——。

「お嬢様、大変ですっ!」
 それからしばらくして、台所でお皿を洗っていたセレスのもとに、慌てた様子でミラが飛び込んできた。
「ミラ、どうしたの?」
「えっと、その……お嬢様にお客様が!」
「私にお客様?」
 すでに、お皿を洗い終わったら寝ようかと思っていたような深夜帯である。
 しかも五歳で帝国に嫁いだセレスは社交界に出ていないため、アーマイン貴族に友人も知人もいない。そもそもこの十年、街に出たことがない。
 心当たりがないのでぽかんとしていると、ミラの背後から頭にフードをかぶった人影がつかつかと近づいてきた。
 ミラが背後を振り返って、目を丸くする。
「ちょっと! 勝手に入ってこられては困ります!」
 どうやらミラに付いて来たらしい。怪しげなフード姿といい、まともな来客ではないようだ。
 セレスが少し身構えたところで、
「悪いが時間がないんだ。あなたがセレスティア・アリア・メロディ伯爵令嬢か?」
「えっ、あっ、はいっ」
 涼やかな女性の声にドキッとして、ついうなずいてしまった。
(久しぶりに私のフルネームを聞いたかもしれない。この人は誰なの?)
 しまったと唇を引き結ぶと同時に、その人は頭のフードを下ろしながらセレスを確認するように近づいてくる。
(まぁ……きれいな人)
 年のころは三十前後くらいだろうか。褐色の肌に美しい黒い目をしたその彼女は、お皿を持ったままのセレスの前に立ち、じいっとこちらを見つめてくる。
 屋敷の外の人と話すことなどほぼなかったセレスが、不(ぶ)躾(しつけ)な視線にたじろいでいると、
「波打つ淡い金色の髪に青い瞳……。なぜメイドの姿をしているのかはわからないが、その美貌……間違いないな。確かに本人のようだ」
 女性はうんうんと確かめるようにうなずきながら、胸元から封筒を取り出した。
「これは招待状になります。急いでお支度をして王城におあがりください」
「えっ?」
「では、失礼いたします」
 彼女はセレスに向かって軽く会釈した後、くるりと踵を返して出て行った。
「ええっ?」
 なにが起こったのかわからない。ぼんやりと立ち尽くしているとミラが近づいてきて、セレスの手元を覗き込み、封筒に押された封蝋を見てギョッとしたように顔をひきつらせた。
「お嬢様これ、招待状ですよっ!」
「なんの?」
 きょとんと首をかしげると、ミラがまたくわっと目を見開いた。
「お城の、舞踏会の、ですっ!」
「えっ!」


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