書籍詳細
生まれ変われなかった三年後の世界で、ヤンデレ公爵の溺愛が待っていました
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/09/29 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
1 すっぽかされた初夜だった……はず?
ジュリエットは、人質(ひとじち)としてこのルキハルス王国に一人でやってきた、クラシュア公国の公女だ。
建前上は賓客(ひんかく)とされ、後見人は国王陛下となっているのだが、国王は最初に挨拶したきりジュリエットの存在をしまったようだ。
そのため周囲からは、事実上の属国である田舎小国の人間として見下され、同世代の令嬢の戯れで嫌がらせも受けた。
また、貴族の男性にとっては条件のよい結婚相手ではないので、舞踏会に出てもダンスに誘われた経験は一度もなかった。
しかしジュリエットは、それでかまわないと考えていた。
いいことも悪いこともない、退屈な毎日。壁の花にもなれない雑草として、目立たずにいればいじめが酷くなることもなく、祖国を離れてから五年もたてばなんとなく自分の立ち位置を確立し、悪口を聞き流す対処方法も見つけた。
人質として相応(ふさわ)しい、空気のような存在として生きていく。楽しい人生ではないが、耐えきれないほど辛いものでもなかった。
——十八歳の壁際のジュリエットの前に、五歳年上の美貌の男性……リンドリー公爵、ルーカス・アシュトンが現れるまでは。
「ジュリエット公女。どうか私に、あなたの手を取る許可をお与えください」
ルーカスは銀に近い金色の髪を輝かせ、紫色の瞳に熱を携えて、ジュリエットの前で跪(ひざまず)いたのだ。
素敵な男性を前に、乙女心がときめかないわけがない。
ずっと一人で心細かった。はじめて男性から優しくされて、泣きたくなるくらい嬉しかった。しかも相手が誰もが憧れる、リンドリー公爵なら、なおさらだ。
このときばかりは、普段ジュリエットに対して嫌がらせをしてくるほかの令嬢たちの悔しがる顔を見て、勝ち誇った気持ちになっていた。でも、それがいけなかったのかもしれない。
ジュリエットはすぐに、手痛いしっぺ返しをくらってしまう。
ルーカスはジュリエットに惚れたわけでなく、策略があって近づいてきたのだ。それを知ったのは、ルーカスからの正式な求婚を受け入れてしまってからのことだった。
「お気の毒な公爵様。きっと、国王陛下のご命令でしょう?」
「典範にあるもの。王妃は自国の女性に限る——と。ジュリエット様はご存じでした? 勘違いなさってはいけませんよ」
「王太子殿下のご病状がよろしくないと聞いておりますわ。その影響でしょうね」
「外国人だからという理由であの素敵な男性の妻になれるのなら、わたくし今からでも隣国出身の母方の祖父母の養女になりたいわ」
ある三人の令嬢たちに呼び出されたジュリエットは、どうして属国の人質公女が公爵の婚約者となりえたのか、彼女たちに得々と説明をされた。
舞踏会など、人がたくさんいる場所では余計な言葉はすべて耳に入れないようにしているジュリエットだが、四人だけのお茶会ではそうはいかない。いつものように曖昧(あいまい)に笑ってごまかすことができず、会話に応じなければならなかった。
「典範……? ですか?」
普段は法や政治の話などしないはずの令嬢たちが、疑問だらけのジュリエットを見て笑う。
「ほらみなさい。無知なよそ者は、やはり高貴なかたの妻に相応しくありませんね。よろしいですわ! 教えてさしあげます。この国の王室典範では、外国人が王妃になることを禁じています。ルーカス様はご病床の王太子殿下、そして大切にしていらっしゃる王女殿下のために、やむをえずジュリエット様に求婚なさったのですわ」
勝ち誇ったかのようにジュリエットの疑問に答えてくれたのは、ソルミッツ侯爵令嬢のビアンカだ。この集まりの主で、社交界の花である彼女がルーカスに懸(け)想(そう)をしていたのは有名な話だが、この場では自分の気持ちなどないものとして、王女とルーカスの深い関係を示唆してきた。
「……そう、だったのですね」
ジュリエットは動揺しつつも、納得するしかなかった。
ルキハルス国王には二人の子がいる。
一人はダレン王太子で、次の国王になる人物だ。しかし身体が丈夫ではなく、最近寝込むことが多いため、この先重責を担うのは難しいのではないかと囁(ささや)かれている。
もう一人、セアラ王女はジュリエットより二歳年上の美しい姫君だ。為政者として申し分ない才覚を持つ人物なのだが、もし王太子殿下になにかあった場合でも、彼女が代わりに後継者として指名を受けるのは難しい。
この国の王位継承権は男性が優位であり、王太子の次に継承順位が高いのは王女ではなく、国王の甥であるルーカスなのだ。
しかしこの継承順位をひっくり返す方法が、ひとつあるらしい。ビアンカはそれこそジュリエットに持ち込まれた、このありえない婚姻の背景なのだと言う。
ビアンカは無知なジュリエットが理解できるようにと、建国前までさかのぼって説明してくれた。
「百年も昔の話ですわ。前王朝が絶えた理由は、国外から王妃を迎えてしまったことに起因しております。ご存じありません? 傾国の王妃のお話を。子どもの頃に誰だって習うことですけれど?」
「……申し訳ありません。なにぶんクラシュア公国育ちなものですから」
ジュリエットからしてみれば、逆に彼女たちはクラシュア公国の歴史を知らないだろうと主張したいが「小国の歴史なんて学ぶ価値はない」と一蹴されるだけなので、余計なことは言わないでおいた。
すっかり萎縮(いしゅく)したジュリエットに対して、ビアンカは澄ました顔で話を続ける。
「簡単に説明しますと、その傾国の王妃のせいで飢(き)饉(きん)が起き、国が荒れたのです。王妃は離縁され、そのあと国王も崩御なさり、数年の空位時代を経て今の王朝の初代国王が即位なさいます。そのときに二度と悲劇を繰り返さないために新しい法が整えられました。そのうちのひとつが、外国から王妃を迎えてはならない……というものです。これが我が国と他国との一番の違いであり、現在の王家の血の尊さに繋がっております」
周辺諸国では、王族同士の国をまたいだ婚姻が盛んだ。それは平和と安定のための政略なのだが、ときには混乱を招くのも事実。
ジュリエットは、この国の制度が尊いものだと主張するビアンカに反論する気などない。そもそも話の論点は法の正しさではないのだから。
「理解いたしました。つまり公爵様は、王位継承の意思がないことを示すために私を妻に迎える決断をなさったのですね?」
ジュリエットがそう答えると、ビアンカはゆっくり、そして優雅に頷(うなず)いた。
(……まあ、そうよね。なにか裏があるとは思ったわ)
人生で一度もモテたことなどないジュリエットに、家柄と容姿が最高水準の男性が理由なく求婚してきたことは確かに不自然だった。
この結婚に感情など必要ない。
知らなければよかったのか、知っておけたことを喜ぶべきなのか、ジュリエットにはわからない。
でも……それでも夫となるルーカスは、誠実そうな人で、今のところジュリエットに対して優しい。先日ははじめて二人で外出をして、とても楽しかった。
(なにより……顔が、とってもとっても好みなのよ)
ビアンカたちは、ジュリエットが事実を知って愛されていないことを悲観し、結婚を辞退することを望んでいるのだろう。
しかしジュリエットの考えは違う。
これでも一応公女として生まれた身だ。政略結婚に否定的な考えは最初から持っていない。
このまま人質として飼い殺されるくらいなら、別の道を選んでみるのも悪くない。ルーカスとの生活は、きっと今よりほんの少しだけ自由なはずだ。だから、突きつけられた真相は聞き流すことに決めた。
これは半分演技だったが、ジュリエットが傷つき落ち込んだ顔を見せると、ビアンカたちは満足した様子で微(ほほ)笑(え)んでいた。
お茶会以降、婚約を白紙にしないジュリエットに対して、ビアンカたちはなかなか陰湿な嫌がらせをしてきたが、その後も婚約破棄を申し出なかった。結婚さえしてしまえばと、未来にわずかな希望を持っていたのだ。
ジュリエットは、リンドリー公爵、ルーカス・アシュトンの妻となった。
結婚式……そして続く晩餐は、筆頭貴族である公爵家の当主のものとは思えぬ簡素なものだったが、政治的な駆け引きがあるものだから特に不安はなかった。
もし招待客がたくさんいたら、ジュリエットを認めない者たちと顔を合わせることになっただろうから、避けられて好都合だ。
でも、そのあとのことは、さすがに心が折れそうになった。
「……クシュン」
ルーカスとはじめての夜を過ごすため、念入りに身支度を調えたジュリエットは、ただ冷え込んでいくだけの夜に戸惑いながら、寝室で一人くしゃみをした。
豪華な寝台は、ジュリエット専用のものだ。夫婦であっても部屋は別にするようで、今夜はここにルーカスがやってくると教えられた。
……でも、いくら待っても彼は姿を見せない。
最初はとても緊張していた。そのあとは不安が徐々に大きくなり……そしてジュリエットの心は、身体とともに冷えていった。
コンコン、コンコンと扉が叩かれたのは、日付が変わろうとしていた時刻だ。
よかった……ほっとしかけたのも束の間、ジュリエットは自分の早とちりだったことに気づかされる。
扉から入ってきたのは、この家の侍女頭だ。彼女は少し厳しい印象のある女性だった。
「あの……公爵様は? どちらに?」
「急な問題が発生したそうです。先ほど、王女殿下と領地に向かわれました。今夜はこちらにお越しにならないとのことです。その代わりに、奥様への贈り物を預かっております」
侍女頭が布張りのトレーを差し出してくる。その上に載せられたものは、パールと、それに紫色の宝石がついた首飾りだ。
どんなに光り輝く石でも、今のジュリエットの心を満たす存在にはなりえない。
「急な問題とはなにかしら? 直接お話ししてくださる時間もなかったというの?」
ジュリエットはつい、侍女頭に不満をぶつけるような問いかけをしてしまった。すると彼女の表情が途端に険しくなる。
「ご主人様が国や領民のために動かれているというのに、不満を口にされるのは感心いたしません」
「私はただ確認をしているだけよ」
「一介の使用人である私が、ご主人様のお考えを代弁することはできません。ただこの贈り物を届けるようにと指示されたのみです。ほかになにかご用はございますか?」
ジュリエットはこの侍女頭の態度にがっかりした。同時に、自分が今回の婚姻で得るものに期待をしすぎてしまっていたことに気づかされる。
侍女頭は王宮にいた女官たちと同じだ。基本的に、ジュリエットを見下している。これまでとなんら変わりはない。味方などいなかったのだ。こういう場合、戦うのは時間の無駄だと経験で知っている。
「いいえ、なにもありません。贈り物はとても嬉しいわ。今夜はもう休むことにします。公爵様がお戻りになったらお出迎えしたいので、教えてくださいね」
そう強がって軽く微笑んでみせる。
「ええ、承知いたしました。それではゆっくりおやすみください」
「おやすみなさい」
扉が閉まった瞬間に、思わず深いため息を吐いた。
ジュリエットは初夜をすっぽかされたのだ。
こんな日に領地で問題が起きたなんて、にわかに信じがたい。これは初夜を回避するための言い訳なのではないか?
ルーカスは、ジュリエットと真の夫婦になりたくないのでは? ……それはきっと、ほかに想う人がいるから。
婚約期間中、周囲から嫌というほど聞かされたのは、セアラ王女との親密でいて複雑な関係だ。二人は好き合っていて、ルーカスは彼女を国王にするために泣く泣く恋心を捨て、家臣として忠誠を誓っているなどと。
(王女殿下のために、私とは白い結婚を望むのかしら?)
侍女頭の前ではどうにか押さえ込んだ不満が、ふつふつと湧き出てくる。
ジュリエットはその不満を抱えたままゆっくりと立ち上がり、机の引き出しを開ける。
取り出したのは、一冊の黒い表紙の日記帳だ。かけてある鍵を解いて、そこに思いの丈を書き殴る。
『くそったれ! 地獄に落ちろ!』
誰にも見せる予定のない日記帳に、普段は絶対に使わない言葉を綴(つづ)る。
『——神様、どうかお願いいたします。明日、夫の美貌を奪ってください。私はきっと彼の性格を慈しむでしょう。もし彼が平凡な顔だったら、もう高慢ちきな令嬢たちに虐(いじ)められなくなります。王女殿下と奪い合いをしなくても済むでしょう。それが叶わぬなら、私を生まれ変わらせてください。国主の娘でもなく、公爵夫人でもなく、できればパン屋の娘がいいです。明日目覚めたら、私にとって優しい世界になっていますように!』
みっともなく叫んだり、怒ったりすることができないジュリエットは、こうやって嫌なことを日記帳に書きつけて気持ちを整理する。
書いた直後は鼻息が荒くなっているし気分が晴れるわけではないが、数日たち冷静になれば、実は子どもっぽい自分のことが恥ずかしくなり、書いた愚痴は黒歴史として封じられる。
ジュリエットは気の済むまでペンを走らせたあと、しっかり鍵をして引き出しに戻し、一人寂しく寝台に戻った。
領地に向かってしまったという夫。もしかしたら、新婚初夜にそれはなかったと思いとどまり、引き返してくるかもしれない。それか明日の朝には問題を解決して……。
(いいえ、絶対に無理よ)
彼の領地まで何日かかるのか正確にはわからないが、一日では往復できないことだけは確かだ。
最悪これからしばらくのあいだ、初夜をすっぽかされた花嫁として、屋敷で一人過ごさなければならない。
ジュリエットは消えた夫を恨みながら、布団をかぶる。
怒りでなかなか眠れそうにないと思っていたのに、花嫁として朝早くから気の休まることない一日を過ごしたせいか、疲れで瞼(まぶた)が重くなっていく。
そうしてこの夜は、とても深い眠りについた。
夢を見ていたような気もするが、意識の覚醒に伴ってすべてが消えていく。
「——ジュリエット……。ジュリエット。頼むから目を覚ましてくれ」
誰かがジュリエットの手を握っていた。
まだ眠たいのに、どうして起きなければならないの? 不満を口にしようとしたところで声の主が誰だかわかり、早く目覚めなければと心が騒ぎ出す。
どうにか目を開けると、ぼんやりと浮かんでくるシルエット。白金色のさらさらとした髪の持ち主は、間違えようがない、夫のルーカスだ。ジュリエットの願いが叶い、彼が戻ってきてくれたのだ。
「おはようございます、公爵様。……いつ、お戻りになったのですか? 初夜のすっぽかしはさすがの私でも傷つきます。でもよかった……目覚めたとき一人だったら、悲しくて泣いてしまうところでした」
きっと昨日は本当にどうしようもないことが起きていたのだろう。今こうして申し訳なさそうな顔で、手まで握ってジュリエットに寄り添ってくれている……それなら許すしかない。
でもなにかがおかしい。
ルーカスの美しい顔に、包帯が巻かれている。それは昨日なかったものだ。それに髪も。……昨日までは短かったはずなのに、今は飾り紐でまとめることができるほど、襟足が長くなっている。風貌までどこか違って見え、悲壮感さえ漂っている。
「大変! 公爵様、どうしてお顔にお怪我を?」
包帯は、ルーカスの左目を覆うように巻かれている。
まさか目を負傷してしまったのだろうか? 視力に関係する怪我だったら大変だ。
無意識に、震える手をルーカスに向けて伸ばしていたが、その自分の手にも違和感を持つ。
「あれ? 私も手が……」
はっきりとした痛みを感じる。その手首には、ぐるぐると包帯が巻かれていた。
「ジュリエット、あなたもかなり酷い怪我をしている。手だけではなく、足やほかの部分も。すまない、痛むだろう……急に動かないほうがいい」
言われてみると、身体のあちこちが痛くて気分はとてもだるい。もしかしたら熱があるかもしれない。
「私、いつ怪我をしたのかしら?」
わからないことだらけだ。
だって昨日は結婚式で、二人とも怪我なんてしていなかった。ジュリエットはそれより何日も前から傷などできないよう心がけ、磨かれた身体を維持していたはずだ。
結婚式が終わったあとルーカスは姿を消して、ジュリエットは一人で眠っただけ……。
そのあいだに、大暴れした人のようになっている。……そう、たとえば夜中に戻ってきたルーカスにブチ切れて、はじめての共寝ではなくはじめての夫婦げんかを勃発(ぼっぱつ)させてしまったとか?
「まさか……私がやってしまったんですか? そのお顔」
武器はどこだろう。護身用の木剣などなかったから、燭台(しょくだい)で殴ったのだろうか? それとも素手で? それならジュリエットの手が痛いのも頷ける。
しかし国宝級の顔に傷を付けたとしたら、それは重罪だ。ジュリエット個人が責任を負えるレベルではない。国同士の問題になり、故郷のクラシュア公国は今度こそ滅ぼされてしまうかもしれない。
ジュリエットは最悪の予見を膨らませ、顔を青ざめさせる。
「ジュリエット、あなたは……」
そんなジュリエットに、ルーカスは険しい視線を向けてきた。これはなんだろう? 困惑、悲痛、戸惑い……それに怒り? いろいろな感情がひしめき合っている。
彼はなにかを言いかけてやめた。互いに状況の整理がついていないので、二人は自然と沈黙してしまう。
そうしているあいだにノックの音が響き、別の人物が部屋の中に入ってきた。
「失礼いたします。お薬をお持ちいたしました」
どうやら侍女がやってきたらしい。まだ、公爵家の使用人の顔と名前を覚えきれていないジュリエットは、彼女のことを知らなかった。
「ジュリエット様! お目覚めになられたのですね。ああ、本当によかった……。そうだ、水分をとられたほうがよろしいですね。お食事はどうしましょう? あと、お着替えや入浴も……」
ジュリエットが起きていることを知った侍女は、興奮している様子だった。うっすら涙さえ浮かべている。
「ええっと……あなたは、誰だったかしら?」
まだ若い彼女は知らないのだろう。初対面で紹介も済まないうちに話しかけたり、気安く女主人の名前を呼んだりしてはいけないと。それでもこの使用人からは、ジュリエットに対しての溢れんばかりの思いやりを感じ、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
彼女がルーカスに叱られてしまわないとよいのだが。……心配になってルーカスの表情をうかがったが、彼は片方の目を大きく開いて、ジュリエットを見つめていた。
「エマがわからないのか? あなたのお気に入りの侍女だ。もう随分長い期間、あなたのそばにいるじゃないか」
「私の侍女? だって私は昨日ここに来たばかりで、王宮でも専属の侍女はいませんでした。すべて公爵様が用意してくださるっておっしゃって……。私、なにがなんだか……」
ルーカスが言っていることが理解できない。彼もこのエマという若い侍女も、ジュリエットのことを珍獣でも見つけたときのような目で見てくる。この場でおかしな言動をしているのは、ジュリエットなのだと言われている気分だ。
「ジュリエット……あなたの中では、私たちは結婚したばかりなのか?」
「そうです。昨日結婚式を挙げたじゃないですか……それで」
ルーカスは領地に行ってしまい、ジュリエットは寂しく一人で夜を過ごした。その翌朝が今日だ。どう考えても間違いない。それなのに、ルーカスは首を横に振る。
「私たちは、結婚してもう三年になる」
「それはさすがに嘘でしょう?」
現実離れした話に、ジュリエットはきょとんとした。するとルーカスは、考えを巡らせているように片方の瞳をさまよわせる。
「そんなことがあるのか? ……いや、でもこれは……」
なにやらぶつぶつとつぶやいたあと、一度うつむいたルーカスが再び顔を上げる。
すると、さっきまでの沈痛な面持ちはどこかへ消え去って、ジュリエットが惹かれずにいられないキラキラとした笑みを、惜しみなく向けてくる。一気に意気があがったようだった。
「ジュリエット……どうやらあなたの記憶は混乱しているらしい。そうだエマ、悪いが今すぐ新聞を持ってきてくれ」
ルーカスが命じると、エマは一度部屋から出ていって、言われた通り新聞を抱えて戻ってきた。
ジュリエットはルーカスの意図を汲み取って、手渡された紙面に載っている情報を見つけ出す。
「新暦112年? ……そんな!」
新聞に記載されていた暦(こよみ)は、確かに結婚してから三年後の日付だった。ルキハルス王国現王朝成立と共に改められた新暦で言えば、ジュリエットがルーカスと結婚したのは109年の出来事だったのだ。この新聞を信じるなら、確かにルーカスの言い分が正しい。でも——。
「……公爵様は、実はとてもいたずら好きな人だったのですか?」
ジュリエットは、ルーカスが手の込んだ冗談を言っているのではないかと思いかけた。
しかし、口にしてすぐにそれはありえないと理解する。新聞を偽造するくらいのことは、彼なら簡単だろうが、ジュリエットの身体の痛みは本物だし、きっとルーカスの怪我も同じ。
突然の怪我は冗談では説明できない。
彼のすべてを知っているわけではないが、意味もなく、質(たち)の悪い嘘を吐く人ではないということくらいわかっている。
現にルーカスは笑い飛ばすでも馬鹿にするでもなく、申し訳なさそうにまた首を振って、ジュリエットの言葉を否定した。
「今は間違いなく、新暦112年。でも大丈夫、なにも心配いらない。実は……私たちは馬車の事故にあったんだ。それで今、二人ともこんな状態だし、記憶の混乱もきっと事故が原因だろう。あなたの怪我は治るものだから安心してほしい。傷もほとんど残らないという見立てだ」
「私のことよりも……公爵様のお怪我は?」
ジュリエットの足や手には痛みがあるが、動かすことができる程度だとわかる。だから、大した問題ではない。それよりもルーカスの左目の状態が気になってしかたなかった。
「多少の不自由はあるが、問題ない」
「不自由とは?」
ジュリエットはおそるおそる尋ねる。
「左目の視力は失われた。元には戻らないだろう。傷痕も残る」
「そんな!」
「どうでもいいことだ。むしろ好都合」
「いったいなにが好都合だというのですか?」
片方とはいえ、視力を失うことがどれほど大変なことか。ルーカスがそれを軽んじる理由がわからず、思わず強い口調で問いかけた。
するとルーカスは平然と言い放つ。
「以前から、この顔が煩わしいと思っていた。傷があるくらいがちょうどいい」
「——!」
ジュリエットは驚きのあまり言葉を失う。
ルーカスが自分の美しすぎる顔を厭(いと)うような発言をしたことにも驚きだが、なによりそれはジュリエットが直前の記憶で、密かに願ってしまったことでもあったからだ。
(私は確かに、夫の美貌を奪ってくださいって……神様にお願いしちゃったのよ)
どっと、罪悪感が押し寄せてくる。嫌な汗が滲(にじ)んだ。
(まさか、私が願ったから?)
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