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エリート医師は規格外 〜夫の溺愛は重症です〜

立花実咲 / 著
カトーナオ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/08/25

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内容紹介

清廉な誓いのキスだけじゃ足りない
電気機器メーカー派遣社員の葵は、体調が不安定なため生涯独身を覚悟して毎日懸命に働いていた。貧血で倒れたところを医師の鷹宮に助けられ、数年ぶりの再会に二人は意気投合する。恩人でもあり憧れの人である鷹宮からなぜかデートに誘われ「ここで一緒に暮らさない?」と告白される。大病院の跡取り息子という超おすすめ優良株の鷹宮。甘いプロポーズに心を蕩かされて、独占欲たっぷりの肉食の獣のような鷹宮に甘く愛を囁かれ「清廉な誓いのキスだけじゃ、足りない」と何度も挿入されて……。精悍なエリート医師と気弱な新妻の溺愛ラブ!

立ち読み

プロローグ 性急な愛の営みは……


「待って」
 葵(あおい)は慌てていた。今夜、そういうつもりで彼の部屋にきたわけではない。しかし颯樹(さつき)はすっかりその気になっている。
「待つ必要、ある?」
「だ、だって、展開が早くないですか……!?」
 のこのこと男性の部屋についてきた自分も自分だ。葵は今さら反省した。颯樹のことをとやかく言えた立場ではない。
「君の身体に興味はあるけれど、身体だけが目当てではないよ」
「ずるい。そんなこと言って、早々に飽きないとも限りませんよ」
 葵は颯樹の性急さを咎(とが)めるが、その実は求められたい欲求がないわけでもなかった。
「僕の場合は逆だよ。ますます君から離れられなくなる」
 情熱を灯した二つの瞳に捉えられ、葵の鼓動がとくりと高鳴った。
 颯樹の顔が近づいてきて、葵はドキドキしながら瞼(まぶた)をゆっくりと下ろす。唇をやさしく吸われ、それから角度を変えながら、幾度となく啄(ついば)まれ、息があがっていく。首筋にキスされて、葵は思わず唇を開いた。颯樹の手が服の中に入ってきて、ブラジャーを外そうとしていた。
「……だめならやめるよ」
 甘い囁(ささや)きにぞくぞくするのを止められない。もっと彼に触られたいという欲求がこみ上げてくる。
「……だめ、じゃないです」
 欲してもらえることが嬉しい。そんなふうに葵は感じていた。もっと彼に求められたい。また距離が開いて会えなくなってからでは遅いのだ。何より優先すべきことは、彼との関係を深めることだ。
「いいの?」
 耳や首筋にキスをしながら、颯樹が確認するように問うた。葵の意思を大事にしてくれている彼のことを愛しく思う。それが葵の背中を押した。
「連れていって」
「このまま明るいところで君を愛するのもいいと思ったんだけど」
 名残(なごり)惜しそうに颯樹は囁く。
 葵が膨(ふく)れると、颯樹は笑って彼女を抱き上げた。
?


1 奇跡の再会


 朝からふわふわ眩(め)暈(まい)がしていた。
 あとから振り返れば、このときの異変は何かの予兆だったのかもしれない。


 遠坂(とおさか)葵は満員電車に揺られながらスマホで天気予報と頭痛予測アプリをチェックする。
 眺めている画面には、低気圧と高気圧の乱高下に注意というアイコンが表示されていた。
 やっぱりね、と葵は安堵のため息をつく。
 気休めかもしれないが、何かしら結びつく原因を見つけられることで、人は漠然とした不安から解放されるものだ。かくいう葵もそうだった。
(今回はいつまで続くのかな……なるべく早く落ち着くといいけど)
 げんなりとした気分で葵は電車の揺れから意識をそらした。
 葵はいつも季節の変わり目に体調を崩しやすく、毎年桜の開花宣言がニュースで流れる頃には狙い澄ましたかのように頭痛や眩暈に襲われる。それが今年は今日だった。
 せめて週末だったらいくらかマシなのに、月曜日の朝から気分は最悪だ。不規則な生理が来る予兆も同時に感じている。目の奥が痛いし、肩こりは重たいし、気分は憂(ゆう)鬱(うつ)だ。訳もなくイライラするし、暴飲暴食に明け暮れたくなる。まるで人格が変わったみたいになるこの症状——月経前症候群PMS——が体調の悪化を後押ししているらしい。こうなったらもう自分ではコントロールできない。ただ嵐が過ぎるのを待つように願うだけだ。
 天気予報によると、どうやら今日は夏日になるらしい。寒暖差に注意というコメントが流れている。電車の閉じられた空間の中、独特のむっとした空気に微(かす)かに漂う整髪剤や香水の匂いによって吐き気がこみ上げてくる。
 三駅ほどどうにかやり過ごし、やっと目的の駅に到着してドアが開いたとき、砂漠の中に見えたオアシスにたどり着いたような泣きたい気持ちになった。
 葵は喉の渇きを潤すべく自動販売機で水を購入し、ミントタブレットを口の中に放り込む。やっとひと息つけてほっと胸を撫(な)で下ろした。清涼感がせめてもの救いになる。
 葵は電気機器メーカーに派遣社員として勤めており、主な仕事は商品サポートセンターの電話応対業務だ。職場に到着したら、他のコールスタッフと同様に見えない顧客相手に声の笑顔を絶やさないようにしなければならない。こういうとき裏方でよかった、と葵は思う。
 気を取り直して再び改札口に続くエスカレーターに向かおうとしたのだが、朝の通勤ラッシュの人波にもまれるうちに階段の方へと押し出されてしまった。猛烈に押し寄せる人の波を逆行する気力はなかった。
 今日はとことんついていない。仕方なく階段を昇りはじめた葵は、うしろから煽(あお)るように急かされ、必死に足を動かしていたのだが、次第に動(どう)悸(き)と息切れを感じて一(いっ)旦(たん)立ち止まった。
 後から追い抜かそうとする人の邪魔にならないように体勢を変えようとしたそのとき、波が引くようにさあっと血の気が引いた。頭の中に危険信号が点滅する。これは早々にどこかに逃げ場がないとまずいと直感的に思う。しかしその時間はなかった。おさまったはずの眩暈が狙い澄ましたように襲ってきて、高波に攫(さら)われたかのように世界が歪(ゆが)む。咄(とっ)嗟(さ)に手すりにつかまろうとしたその手は宙をかき、急ぐように後から押してきた人の肩にぶつかった。
 落ちる——バランスを崩した身体はどうすることもできないまま、階段を転げ落ちていった。
 きゃああという女性の甲(かん)高(だか)い悲鳴と一体何が起きたのだとざわつく男性の声が遠くの方に聞こえた。肩や腕や腰や足に次々に衝撃を受けたことだけはわかった。
 冷たい地面の感触が伝わってくる。頭がじわじわ痛いのは打ったせいなのか。流血したのだろうか。眩暈はおさまらないし今にもブラックアウトしそうだ。動こうにも力が入らず、その場でうめくことしかできない。
 立ち上がらなければ。葵は無意識に手を伸ばした。生きたいという人間の本能かもしれなかった。
 そのとき、なぜかあの人の姿が浮かんだ。今ごろあの人はどうしているだろう、と。
(生きている間にちゃんと真剣に恋愛をして、一回くらい結婚してみたかったな……)
 自分自身さえ御(ぎょ)せないのに他人との生活なんてできるはずがないかもしれない。恋をしたとしても相手からお荷物だと思われるのが怖かった。必要のないものだとレッテルを貼られるのが恐ろしかった。だったらもうひとりでいいと思っていたけれど、心配してくれる人がいないのは寂しい。
 しかし薄れゆく意識の中、ああ、このまま私は死ぬのかも、と葵は思った。心残りは他にはない。死んだらもうこんな症状に惑わされることもないのだ。そんなことまで考えてしまうのもすべて虚弱体質とPMSのせいだろう。せめて自分のせいで巻き込んで怪我をしている人がいないといい。確認しようにも目が開かない。
 すべてを放棄しようとしたそのとき、
「どうしましたか……!」
 大声が響きわたった。
 緊迫したその声は、男の人のものだ。駅員が駆けつけてくれたのだろうか。動けないので顔が見られない。その人はうっすらと目を開けただけの葵の肩を少しだけ強くとんとんと叩き、耳の側(そば)で尋ねてきた。
「どこか痛いところはありませんか? そのまま動かなくて大丈夫ですよ。質問にハイかイイエで答えてください」
 朦(もう)朧(ろう)とする中で、葵は聞かれるままに痛いと思うところを答えた。しかし回答した側から自分が何を言ったのかを忘れていく。
「誰か、救護連絡!」
 その人が声を張り上げた。そして葵の傍らに膝(ひざ)をつき、手当をはじめる。手慣れた動作だ。看護師か或(ある)いはお医者様なのかもしれない。
「止血のために傷口を縛りますよ。少し痛むかもしれません」
「……っ」
 こういうときにむやみに動かしてはいけないことは知っている。どこか折れているかもしれないからだ。
「君は——」
 と、その人が息をのむ気配がした。
 葵は瞼をぎゅっと閉じた。痛みのせいだ。
 それから程なくして駅の救護係が数名やってきて、葵は担架で駅の外へと運ばれていく。なるべく揺れないようにしてくれているが、揺れるたびに吐き気を催し、そのたびに葵は顔をしかめた。
 体調が悪いからなのか、打ちどころが悪かったからなのか、今はどちらなのかわからない。その両方かもしれない。
 悪(お)寒(かん)をじっと堪(こら)えているうちに外に出たらしい。日差しが閉じかけている瞼の裏を照らす。
 やがて救急車の音が聞こえてきた。人のざわめき、信号機の音、ひんやりとした風、そして救急隊員の声が聞こえた。
 担架に乗せられた葵は救急車に移されたが、すぐには出発せず、搬送先が決まらず揉めているようだ。どこもいっぱいで受け入れ先をあたっているらしい。
 葵の側に人の足音が近づいてきた。
「鷹宮(たかみや)総合病院に連絡を入れてみてくれないか。僕はそこの医師だ」
 葵は病院名を聞いてハッとしてその男性を見た。さっきは朦朧としていたけれど、今ははっきりとその人の顔や声を認識できる。葵は目を丸くした。
「鷹宮、先生……?」
 思わずといったふうに呟くと、彼はこちらを向いて葵の頭をやさしく撫でてくれた。
 ぼんやりと思い浮かんだその人が、今側にいてくれる。とてつもない安心感に包まれ、葵は力を抜いた。
「他に、怪我……の人は?」
「心配しないでいい。君自身のことを考えて。大丈夫だから、もう少しだけ頑張るんだ」
 さっき必死に声をかけてくれたのは彼だった。
 ああ、彼が助けてくれたのだ、と判明した途端、葵の中にえもいわれぬ安心感が広がっていく。
 大丈夫。きっと、彼が側にいてくれるなら——。
 彼は救急車に同乗してくれ、搬送先の病院に到着するまで手を握っていてくれた。それは嵐の真っ只中にいる葵にとって唯一無二のこの世に繋ぎとめてくれる救いだった。


 鷹宮総合病院に搬送されたあと、外傷の有無を確認され、傷口を処置してもらう頃には、葵の体調にもようやく回復の兆しが見られた。
 頭部を打ったかどうか、はっきりとした本人の自覚がないことから、念のためレントゲンやMRIの検査を勧められた。
 擦(す)り傷や打撲はあとあと痣(あざ)になるかもしれないが、幸い骨折などの大怪我はしていないようだ。ショックを受けた精神的なダメージが一時的に痛みを強めていたのかもしれない。
 気分が落ち着いたあと、葵は職場に連絡を入れて直属の上司に事情を話し、今日一日休ませてもらうことになった。
(とんでもないことになっちゃったな……)
 ふと、葵の脳裏に週末の予定が浮かんだ。姉の結婚式が控えているのだ。葵に万が一のことがあれば、両親や姉を心配させてしまっていただろう。
 MRIの検査結果を待つ間、病室のベッドに横たわっていると、医師が様子を見にやってきた。
 怜(れい)悧(り)な面(おも)差(ざ)しをした見(み)目(め)麗(うるわ)しい彼は、鷹宮颯樹、この鷹宮総合病院の院長の息子であり、脳外科専門のドクターだ。そして、葵を救護してくれた男性その人だった。
「どう? 身体は動かせる?」
「はい。鷹宮先生、助けてくださり、ありがとうございました」
 葵は深々と頭を下げる。彼がすぐに救護してくれていなければ、また違った状態だったかもしれないのだ。
「目の前に落ちてきたのがまさか君とは驚いた。君は譫(うわ)言(ごと)ですら他人のことばかり心配して、自分自身には無頓着で困るよ」
 颯樹は呆れたようにため息をついた。しかし言葉の端(はし)々(ばし)でとても心配してくれたのだろうということが伝わってくる。
「ごめんなさい。ご迷惑おかけしました」
「迷惑なんてことはないさ。あれは事故だったんだ。あとで詳しく話をするけど、別段問題はないと思うよ」
 葵はほっと胸を撫で下ろす。颯樹がそういうのだからきっと大丈夫だろう。
 実は、颯樹とは顔見知りだった。彼は葵にとって憧れの人でもある。
 葵は颯樹の端整な顔を見つめながら、昔のことを振り返っていた。

 葵の五つ上の姉、遠坂弥生(やよい)と姉の婚約者の内田(うちだ)拓海(たくみ)、そして鷹宮颯樹の三人は高校の同級生だ。姉の他に何人か女子も一緒によく家に遊びにきていた。
 彼らが高校生の頃、葵はまだ中学生だった。最初の頃は颯樹も拓海も姉の友人という存在でしかなかったが、交流の機会が増えるにつれ、葵は拓海に片思いをするようになった。
 しかしやがて弥生と拓海は付き合いはじめ、葵の淡い恋心は自然消滅した。颯樹はというと、医大に進んだあとは親が院長を務める鷹宮総合病院に勤めることが決まっていた。
 弥生と拓海の付き合いは続いていたが、颯樹とは年に一回、お正月に顔を合わせるくらいに減っていった。彼は病院の跡継ぎとして期待され、優秀な脳外科医として忙しい日々を送っているという話を聞いたので、今まで以上に会えなくなるかもしれないという寂しさを葵はなんとなく感じていた。
 その後、葵は大学進学を機に一人暮らしをするようになった。颯樹はまるで別の世界の住人になったみたいだった。どんどん彼との距離は広がっていき、このままそのうち接点はなくなるだろうと思っていた。
 しかし思いがけず颯樹と再会することになる。それは、今からちょうど五年前、葵が入社したての春の日のことだった。
 帰宅途中の交差点で複数の車と通行人が絡んだ多重事故が発生した。葵は通行人としてその場に居合わせた。奇(く)しくも颯樹もちょうどその近くにいたらしく、医者である颯樹の指導の元、葵は彼と一緒に要救助者のために動くことになった。
 そのときの葵は例の如(ごと)く体調不良の真っ只中だった。しかし怪我人がいる中で放ってはおけず、無我夢中で対応に当たった。必死に救護をしたあと、ほっとした途端ふらふらとその場に倒れ、過呼吸発作を起こしてしまった。そんな彼女の背をさすってくれ、ずっと側に付き添っていてくれたのが颯樹だった。
 彼のことは昔から素敵な人だと思っていたけれど、このとき、葵にとって絶対的に憧れの存在としての地位を固めることになったのだった。
 運命的な再会のあと、彼の近況を知った。彼は難しい手術を幾つも成功させ、着実に医師としての実力と研(けん)鑽(さん)を積んでいることも耳に入ってきた。
 一度離れかけた距離は、不思議なもので少しずつ引き合うように接点を取り戻していく。それぞれが大人になり、社会人としての地固めも落ち着いたということもあるのだろう。いつの間にか季節の節目には顔を合わせる機会が増えていた。弥生と拓海が結婚することになったことで、これからも交流は増えるかもしれない。それは嬉しい話だった。
 颯樹は幾つ年を重ねても変わらない。見目麗しい彼は、会うたびにひとりの大人の男性として、そして医者としての魅力を蓄えていくけれど、十代の頃の透明感は少しも失われていないようだ。
 颯樹という彼の名前を表すように、千年以上の歴史を持つ神社の菩(ぼ)提(だい)樹(じゅ)のように、少しも乱れない涼やかな凛とした気配の中、彼という大きな存在が葵の中にしっかりと根付いていた。いわば聖域といえるのかもしれない。葵にとっては揺るがない安息の場所といってもいい。いつ彼に会ってもすぐにほっとした気持ちにさせられる。実家よりも実家感があるといっても過言ではないかもしれない。
 定期的に嵐のように荒(すさ)んでいる葵の心をなだめ、やさしく癒してくれる。
 颯樹だって医師として働く中で色々なことがあるに違いない。それでも彼はどうして変わらないでいられるのだろう。それとも、葵には見えていない側面が颯樹にもあるのだろうか。それを見ることがこの先あるだろうか。

「——また、颯樹さんに助けられちゃいましたね」
 葵が肩を竦(すく)めると、颯樹も彼女の言いたいことに気付いたらしい。遠い過去を思い出すように目を細めた。
「命に別状がなくて何よりだよ」
 社会人になって距離が開いていた分、二人の間にはぎこちない空気が漂う。ただでさえ見目麗しい颯樹がさらに医者としての貫禄を備えている。以前よりも素敵な男性になっていたからこそ、直視しづらいというのもあった。
「ただ、ちょっと心配なことがある。ずっとうなされていたんだよ。他の人の怪我を心配するところまではいいんだけど……このまま死んでも構わないとかなんとか言い出すから」
 葵は気まずくなった。まさか口に出していたとは。
「それは、あの……ちょうどネガティブ期だったからだと思います。本当に意識がぼうっとしていて……」
 元気なときに颯樹に会いたかったな、と葵は情けない自分の状況を悔いた。
「もしも何か困ってることがあるなら相談に乗るけど」
「い、いえ。大丈夫です」
「そう?」
「あの、えっと……颯樹さんは結婚式にいらっしゃいますか? 忙しいから無理かもって姉が気にしていました」
「行くつもりではいるよ。遠坂と内田はどちらも大事な友人だからね。君も、体調には充分気をつけて、無理はしないようにね」
「はい」
 颯樹はほほ笑んで、病室を出て行った。
 心臓は忙しなくリズムを刻んでいる。
 生きている。神様に死ぬことは許されなかった。それなら、またもがいて生きていかなくてはならない。辛い。けれど、今日、颯樹に会えたことだけは奇跡といえるくらい嬉しかった。
?


2 思いがけず恋がはじまっていく


 翌週の日曜日——休養を経て心身ともに復調した葵は、予定通りに姉の結婚式に出席した。
 ヨーロッパの迎賓館をイメージしたゲストハウスの中に白亜のチャペルがあり、そこで先ほど挙式が滞りなく執り行われた。次の披露宴まで少し時間が開く。
 招待客は披露宴会場に移動し、会場の外に隣接されたガーデンでウエルカムドリンクが振舞われている。鬱(うっ)蒼(そう)とした小さな森に囲まれた庭の中、透かし彫りのテーブルは装花で美しく彩られ、目の前の大きな池のようなプールがきらきらと太陽の光を浴びて波間にきらめいていた。
 葵は会場内を見渡し、颯樹の姿を探した。挙式の時間にはいなかったが、披露宴には顔を出すだろうという話を姉から聞いていた。
(颯樹さん、忙しい人だものね)
 葵もガーデンの方に移動し、ワイングラスをもらった。そのとき、別の方の入口から入ってきた彼の姿を発見した。ダークスーツの中にグレイ色のベストを着こみ、控えめなパステルブルーのネクタイを合わせたその佇まいは、普段の白衣姿とはまた違った、王子様さながらの麗しさが漂っていた。
 すれ違う人の目を奪っていく。葵もまた彼に見(み)惚(と)れた。
 葵の義兄になる新郎の拓海には申し訳ないが、颯樹の方がよほど新郎らしく見える。それは颯樹がスタイルがよく、ブライダル雑誌のモデルのように見えるからなのかもしれない。
 そういえば、姉に初めて拓海と颯樹を紹介されたときも、颯樹が彼氏だと思ったことを葵は思い出していた。並んだときに姉と颯樹がお似合いに見えたせいだと思う。きっといずれ弥生と颯樹は付き合うかもしれないという予感さえあった。
 一方、その頃、葵の初恋の相手といえば、拓海だった。純朴で温厚な性格をしている彼は気のよいお兄さんで、なんとなく親近感を抱いていたのだ。
 姉にはきっと拓海の良さはわからないだろうと、妙な対抗心みたいなものもあった。けれど、結局、拓海が選んだのは姉の弥生だったし、弥生が好きになったのは颯樹じゃなくて拓海だった。
(あのときはショックだったな……)
 失恋したときはしばらく食事も喉(のど)を通らず、姉の幸せそうな顔を見るのも辛かったし、部屋に閉じこもって泣いたりもした。
 もちろん、まだ幼かったときの恋という恋も知らない頃の話だ。恋に恋をするというか、恋している気分だったのかもしれない。
 今はもう拓海にそういう気持ちを少しも抱いてはいないし、姉夫婦には幸せになってほしいと思っている。彼らは恋人同士になってからもう何年にもなるのに今も付き合い立てのようにラブラブな仲良しカップルだ。誰にもつけ入る隙なんてあるはずもない。
 挙式のときの新婚夫婦の幸せっぷりを思い出し、葵はワイングラスに口をつけながら無意識にほほ笑んだ。
 颯樹はノンアルコールのシャンパンを受け取っていた。医者だからこういうときも気を遣っているのかもしれない。
 不意に、颯樹と目が合い、葵の鼓動は大きく跳ねた。うっかり観察してしまっていたので、視線が気になったのかもしれない。
 葵が颯樹の方へ歩みを進めると、示し合わせたかのように、颯樹もこちらへやってきた。彼に会うときに感じていた消毒液の匂いはしなかった。その代わりに、まさに森林の中にいるような、さわやかな香りがふわりと漂った。彼もこういう場では香水をつけたりするのだろうか。プライベートの彼はどんな感じなのだろう。
「あれから、体調はどう?」
「おかげさまで、元気になりましたよ」
 その後、生理がやってきて、嘘のように嵐は去っていった。荒ぶっていた人格も落ち着いている。気圧の乱高下も落ち着いたらしく、葵は本来の自分を取り戻せてほっとしているところだった。
「それならよかった。不慮の事故……というだけじゃなさそうだったんでね。気にかかっていた」
 件(くだん)の譫言の件といい、颯樹の見透かしたような瞳にあてられ、葵はばつの悪い顔をした。
「たしかに、ふらふらしていた自分が悪いんです。あの日、朝から体調が優れなくて。眩暈がしていて、無理をしてしまったことを反省しています……」
 葵はしゅんとして言った。
 通勤のために必死に満員電車を我慢したというのに、結局、仕事に穴を開けてしまったし、打撲の痕はまだうっすらと残っている。踏んだり蹴ったりとか本末転倒とかいうのは、まさしく今回のことだ。
「命に別状がなく、誰かを巻き込むようなことがなかっただけ幸いだよ」
 颯樹のその言葉が救いだ。もしも自分のせいで誰かに怪我をさせたりしていたらと考えるとぞっとする。それこそ、姉の結婚式に出席している場合ではなかっただろう。
「春先になると調子が悪くなるって言ってたけど、今も続いているんだね?」
「……そうですね。まるで自分が自分でなくなるみたいにだるくなったりして。改善していくどころか、年々ひどくなっていくばかりで、いやになっちゃいます」
 季節の変わり目に自律神経が乱れることは誰でも起こりえることだし、生理は女性なら誰でも経験がある。しかし、その程度にはそれぞれ個人差がある。生理を体験することのない男性には理解できないだろうし、軽い生理の人に重い生理の人の気持ちはわからないだろう。生理前になると頭痛や肩こりや眩暈、気分の落ち込みの波が激しいなどの月経前症候群PMSについても、性はもちろん同性にだって経験のない人には理解されないことが多い症状だ。
 この間の葵のように、まるで獣でもついたかのように、別の人格になることだってある。否(いな)、色々な人格が絶え間なく生まれるといっても過言ではない。それに嫌気がさして死にたくなるような鬱々とした日々に苛(さいな)まれるのだ。そして生理がはじまれば腹痛と貧血にぐったりと生気を奪われる。ひどいときは月の半分以上が、不快な症状に支配される生活を余儀なくされる。
 嵐が過ぎればピタッとその症状は治まる。はた迷惑といったらない。これは女性に備わっている数々のホルモンのバランスが崩れることによって引き起こされる現象らしいが、そうだとしたら自分の意志に関係なく左右されるとは、なんて人間は神秘的な生き物なのだろうとつくづく思う。
 颯樹は医師だからというのもあるが、それ以上にきちんと理解を示してくれた。
「なるほどね。そういうときは、あんまり自分を追い込んだりしない方がいい。たとえ周りに理解されないことがあっても、自分自身だけは味方になって病と付き合っていく。しんどいときは堂々と休んだっていいんだよ」
 颯樹に励まされ、葵は気分が軽くなるのを感じていた。まるで肩や背中や腰にぶら下がっていた重りが紐を解いたかのように。


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