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王立図書館司書の侯爵令嬢は、公爵令息から溺愛される 〜祝福の花嫁〜

佐木ささめ / 著
氷堂れん / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/05/26

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内容紹介

君のことを諦めることはできない
社交界が嫌いなウィステリア侯爵令嬢は、皮膚病が原因で結婚を諦め図書館司書として生きる道を選ぶ。遣り甲斐ある司書の仕事に邁進していると、閉架図書を探しに来た公爵令息シリルと出逢う。膨大な書物の位置を記憶するウィステリアの聡明さに惹かれたとシリルから求愛されるが、冗談に違いないと断るウィステリア。「君のことを諦めることはできない」何度も真剣な眼差しで求婚してくるけど、王族が関わる事件に巻き込まれてしまい……。押し倒されて甘い愛撫に蕩かされ、純潔を散らされる。溺れるほどの愛を与えてくる公爵令息と、受け入れられない司書のロマンティックラブ!!

立ち読み

プロローグ


 本格的な冬に入ろうとする晩秋の十一月。ウィステリア・グレイゲート侯爵令嬢は、マルサーヌ王国王立貴族学院での授業を終えて帰宅するところだった。
 しかし教室から正門へと向かう途中、廊下の曲がり角で令嬢の一行とぶつかりそうになる。中心人物らしき令嬢の顔を見て、内心でゲンナリしつつ素早く頭を下げた。
「申し訳ありません。失礼いたしました」
 一歳年下のメリガン公爵令嬢エスターだ。
 ウィステリアは彼女から目の敵にされているため、その姿を見かけたらすぐ違う通路を使うようにしていたのだが、今日は運が悪かった。
 エスターはこれ見よがしに顔をしかめ、嫌悪と蔑(さげす)みの表情を見せつける。
「まあ、嫌だわ。醜い病(やまい)が移ってしまったら、どうしてくれるのよ!」
 ウィステリアの顔面には赤い湿疹が広がっているため、エスターはそれをネタに侮蔑の言葉を投げてくる。
 ウィステリアの皮膚病は四歳の頃に発症し、体中に湿疹が発生していまだに完治していない。特に頬骨の辺りに赤く広がった湿疹は、痕が残るほどではないものの、かなり目立つ。
 とはいえウィステリア自身はあまり気にしていないが。
「これは人に移る病ではないので大丈夫ですよ」
「なんですって! わたくしがそのような醜い顔になってもいいと言うの!?」
 ……なぜそうなるのだろう。この皮膚病は移りませんと言っただけなのに。
 まあ、こちらが何を言っても気に食わないと知っているため、エスターが落ちつくまで口をつぐむことにした。なにしろ相手は自分より高位なので、逆らわない方がいい。
 ウィステリアの実家、グレイゲート侯爵家は貴族の中でも序列が高い。だから皮膚病のことで周りから遠巻きにされても、いじめられることは少なかった。
 しかしエスターは別だ。公爵令嬢の彼女からは、あからさまに嫌味を投げつけられたり、いわれなき中傷をばら撒(ま)かれたりしている。
 私物に水をかけられたときは、その執念を違うことへ向ければいいのにと感心したほどだ。
 そのエスターはひとしきり喚(わめ)いた後、「わたくしの前から消えなさい! この醜女(ブス)!」と捨てゼリフを吐き、取り巻きのご令嬢を引き連れて去っていった。
 はぁーっと大きく息を吐いたウィステリアは、そそくさと馬車止めへ向かう。エスターのことで悩んでいる暇はない。
 帰宅したウィステリアは、指導教官から手渡された書類を見つめて思う。
「……やっぱり働くしかないわ」
 十八歳になったウィステリアは、十二月の中旬に王立貴族学院を卒業して成人する。すでに社交界デビューは済ませているものの、ここマルサーヌ王国では、貴族の子女は王立学院を卒業しないと一人前とは認められない。
 逆にいえば、卒業した途端に貴族の義務が発生する。国に仕えるか領地を治めるか、はたまた家に益をもたらす結婚をするか、選ばねばならない。
 この年齢になると、高位貴族の令嬢は婚約者が決まっている場合がほとんどで、卒業後は花嫁修業をしたり結婚準備をしたりと、家庭に入る道を歩むものだ。
 ウィステリアも豊かで広大な領地を持つグレイゲート侯爵家の令嬢として、親が決めた婚約者に嫁ぐ仕度をするはずなのだが……
 その婚約者が決まっていないのだ。
 皮膚病が原因で、何人かの婚約者候補から敬遠され、この時期になっても未来が選択できないでいる。
 とはいえ大貴族のグレイゲート家とつながりたい家からは、縁談の申し込みは絶えなかった。
 しかしそういう貴族に限って、『病持ちの醜(しこ)女(め)を嫁にもらってやるんだ。ありがたく思え』との侮蔑や高慢が滲(にじ)み出ており、グレイゲート侯爵の怒りを買っては屋敷から追い出されている。
 ウィステリアが学院に通い始めても、クラスメイトは『病気が移るかも』『顔が赤くて怖い』と気味悪がって近寄らず、ウィステリアも静かに本が読めればいいと達観したのもあって、とうとう婚約者が決まらないまま卒業間近になってしまった。
 最近では症状はだいぶ落ち着いているものの、顔や手足に発疹が残っているため、もう結婚は無理だろうと将来について悩んでいた。
「……働くならなるべく人と接することが少ない仕事がいいわ。先生がおっしゃった王立図書館の文官に応募するべきかしら」
 腕組みをして考え込むウィステリアだが、その表情に悲壮感はない。
 皮膚病が治らなかったのは悲しいけれど、両親や祖父母からは惜しみない愛情を注がれ、兄からは精神的・物理的に守られてきたので自己肯定感は低くない。
 もとから前向きな性格というのもあって、婚約者が決まらなくても、「それなら働けばいいわ。なんとかなるでしょ」と楽観的にとらえていた。
 貴族令嬢ならば行き遅れになるなど人生に絶望するところだが、「社交界に出なければ自分の悪口も聞かなくて済むし、そのうち周囲もわたくしのことを忘れるでしょうし、皮膚病で死ぬわけでもないし!」と、どこまでも前向きだ。
 そして本日、指導教官から卒業後の進路を聞かれた際に働きたいと相談したところ、王宮での文官を勧められたのだった。
『あなたほどの好成績なら行政官に推薦することが多いのだけど、あまり目立ちたくないのよね? それなら王立図書館の司書はどうかしら。同僚は本しか見ていないから働きやすいのではなくて?』
 との言葉に、がぜんやる気になった。
 ウィステリアは教官から渡された推薦状を持って、父親がいる書斎へいそいそと向かう。晩(ばん)餐(さん)が近づきつつある時刻だが、父親はぎりぎりまで仕事をしているのが常だった。
 ノックをして名乗れば、やはり父親の声で入室の許可が下りる。
 デスクで本を読んでいたグレイゲート侯爵家当主、チェスター・グレイゲートはウィステリアの姿を認め、読んでいた本に栞(しおり)を挟むと愛しげに娘の愛称を呼んだ。
「可愛いリア。こちらにおいで。——この時間に来るということは、皆に聞かれたくない話があるのかね?」
「そういうわけではありませんが、まずはお父様のお許しをいただこうと思いまして」
「おや。婚約したい貴公子でも見つけたのかい?」
 父親が手を伸ばして娘の美しいハニーブロンドを優しく撫でる。しかしウィステリアの方は、「まさか!」とおかしそうにクスクスと笑った。
「わたくし、王宮で働くことを決めたのです!」
 高らかに宣言しつつ、推薦状を父親のデスクの上に置く。グレイゲート侯爵はウィステリアの労働宣言に、諦念を含んだため息を漏らした。
 貴族の子女は基本的に働かない。王宮や高位貴族の家で働く令嬢は下位貴族がほとんどだ。グレイゲート侯爵家のような高位貴族の令嬢が仕官するなど、聞いたことがない。
 王族の乳母や教育係として王宮に招(しょう)聘(へい)される場合はあっても、それは大変名誉なことで、ウィステリアの労働とはまったく意味合いが違う。
「リア……我が家には君を生涯養う財力があるんだよ? わざわざ働かなくても……」
「それだと私は何をすればいいんですか? 社交をしない令嬢なんて、刺繍ぐらいしかすることがないじゃないですか」
 社交界デビューした後、ウィステリアも家族と共に夜会やお茶会へ出席したことがあった。
 しかし学院にいるときと同じように腫れ物あつかいされて、それ以降招待を断り続けていたところ、今ではまったく誘われなくなっている。
 おかげでとても心が安らいでいる毎日だ。
 しかしその分、やることがない。貴族の令嬢や夫人は社交が使命なのだから。
 それでも侯爵は引き下がらなかった。
「では私の補佐として領地で暮らせばいい。領民のために、領地をよりいっそう豊かにしようじゃないか」
「それにはわたくしも心惹かれますが、よくよく考えるとお兄様がご結婚されて跡を継がれると、地獄だと思いません?」
「えっ、地獄?」
 すごいセリフが娘の口から飛び出して、侯爵が仰(の)け反(ぞ)っている。
「だって未来の侯爵夫人にとって、未婚の義妹などあつかいづらい小姑(こじゅうと)じゃないですか。お兄様の幸せのためにも、わたくしは家を出るべきなのです」
「……ヘンリーは、決してそのように思わないぞ」
「それはそうですけど、お兄様にべったりと妹がくっ付いていたら、嫁いできてくださった方はどう思うでしょう」
「いや、そんな、適切な距離を取って暮らせば……」
「——お父様」
 ウィステリアは重厚なウォールナットのデスクに両手を突くと、グッと身を乗り出して真正面から父親の瞳を射貫く。
「あのお兄様が、結婚できない哀れな妹と適切な距離を取って暮らすと、本っ気でお思いですか?」
 クワッと目を見開く娘の迫力に、父親は気まずそうに視線を逸らした。なにせグレイゲート家の長男はシスコンなので。
 妹を溺愛する兄のヘンリーは、ウィステリアの皮膚病を嘲(あざ)笑(わら)った男へ決闘を申し込んでは、ボッコボコに打ちのめす危ない男だった。
 ウィステリアは、兄が他人を再起不能にする前に離れた方がいいと真剣に悩んでいる。あと兄妹愛が重すぎて、兄の伴侶になる女性が自分をどう思うか想像すると怖い。
 やはりお互い、遠く離れて幸せになるべきではないか。
 そういう考えもあって働くことを決意したのだ。……と簡潔に話せば、娘の言い分に父親も迷いながら頷いてくれた。
「……家に残ったり、貴族の家に嫁いでつらい思いをするより、いいかもしれないな……おまえが決めたのなら反対はしないよ」
「ありがとう、お父様!」
 ウィステリアは父親の頬にキスをすると、礼儀正しく退出の挨拶をしてから部屋へ戻る。
 自分は一人娘だから他家へ嫁ぐのが当然なのに、家にいればいいと、政略結婚をしなくても侯爵家(うち)の立場は揺るがないと、娘の自由を認めてくれる懐の広い父親には感謝しかない。
 頬を紅潮させて喜ぶウィステリアは、明日さっそく王宮の文官登用試験に申し込もうと、申請書類を書き始めた。
?


第一話


 二月の終わりに近づく今日は曇天で、かなり気温が低い。王宮の中庭はうっすらと雪が積もっており、まだまだ春の息吹は感じなかった。
 シリル・アディントン公爵令息は、国王の執務室から退室した直後、冷えた廊下の空気を吸い込み「寒い……」と疲れた声を漏らした。ほとんど風邪を引かない健康な体ではあるが、こうも疲れていると寒さにやられそうになる。
 今のシリルはたいそう疲れていた。
 二年にもおよぶ留学から帰国した途端、国王や王太子、大臣や上級官(かん)吏(り)たちに呼び出され、何度も同じ話を繰り返しているのだ。
 滞在国や周辺諸国の情勢を知りたいというのは分かるが、こっちだって遊びに行ったわけではない。早く次の計画に取りかかりたいのに、こうして毎日のように王宮へ呼び出されると、なかなか思うように進まない。
 どうして彼らは、こうも平気で他人の時間を消費するのか。
 ——こっちは国費で留学したわけじゃないんだ。そんなに知りたいなら自分で行ってこい。
 と言いたかったが、軋(あつ)轢(れき)を生むから言わないでおいた。でもやっぱり言ってやりたいから、よけいにイライラする。
 シリルはむしゃくしゃする気持ちを抑え込みつつ、王宮の行政区画から、サロンやボールルームなどがある外宮へ出る。
 このときあまり会いたくない人物が、回廊の奥から近づいてくるのを認めた。
 慌てて回れ右をして違う道を使う。幸いなことに相手——ターナー伯爵はこちらに気づかなかったようだ。
 伯爵は元老院の一員で悪い方ではないのだが、一族の令嬢を『婚約者にいかがでしょう?』としつこく勧めてくるからつらい。
 シリルは二十五歳という、貴族の令息ならばそろそろ身を固めるべき年齢だ。しかしまだ婚約者も決まっていないため、年頃の令嬢をあてがおうとする者が後を絶たない。
 ターナー伯爵が紹介する令嬢が、アディントン公爵家当主の多忙さを知ったうえで嫁ぐ覚悟があるなら、シリルだって一考する。
 しかし彼女らは公爵夫人になりたいとか、贅沢な暮らしをしたいとか、虚栄心を満たす野望しか抱いていないのだ。
 ターナー伯爵は一族のご令嬢たちを、勤勉で有能な類(たぐい)稀(まれ)なる淑女だと評している。が、身内への評価が甘すぎるのではないか。
 深くて重いため息をついたシリルは、仕方なく遠回りになる道を使って王立図書館へ向かった。
 王宮へ来たのは、探している本が書籍商でも見つけられなかったため、王立図書館ならばあるかもしれないと思ったのが理由だ。早い時間から訪れたはずなのに、もう夕方近いとは、いったいどういうことなのか……
 肩を落としつつ、一度外宮を出て渡り廊下を使い、図書館がある離宮へと歩く。
 午(ご)餐(さん)会の帰りらしき貴族令嬢たちとすれ違うたびに、ちくちくと突き刺さるような視線を頬に感じられてうっとうしい。
 ここで足を止めたり一(いち)瞥(べつ)すれば追いかけてくるので、絶対に反応しないと決めている。
 空気の塊がうろついていると思うことにした。
 それというのもシリルは顔が整っているので、女性の目を引きやすいのだ。
 しかも燃えるような赤い髪に金色の瞳の組み合わせは、アディントン公爵家に現れる身体的特徴で、こちらの身分を推測しやすい。
 見た目のよさに加えて、マルサーヌ王国筆頭貴族という肩書きまである。王宮を歩くたびに女たちから秋波を送られ、居心地が悪かった。
 男に睨(にら)まれるときの感覚とは違い、なんというか、まとわりつくように粘り気のある感覚が怖ろしい。背筋がゾクゾクする。
 ——いや、やはり寒さに負けて風邪を引いたのかもしれない。
 と、シリルは思いながら足早に離宮へ向かった。

 マルサーヌ王国の王立図書館は、かつて離宮の一室にあった。しかし蔵書が増えすぎて一室では収まらなくなり、隣室の壁を取り壊して部屋を拡張した。
 しかし何年かたつと再びスペースが足りなくなって、また部屋を広げて……と繰り返した結果、離宮そのものが図書館と化したのだ。
 王国の頭脳とも呼ばれる知識の宝庫。
 あるいは、言葉と書物の神殿。
 王立図書館には世界中から集めた書籍や稀(き)覯(こう)本(ぼん)が、天井まで伸びる頑丈な書架にぎっしりと詰められている。おかげで書架が建物を支える柱になっているほどだ。
 さらにここは、我が国の公文書を収める唯一の図書館でもある。
 そこへ足を踏み入れたシリルは、紙とインクの匂いとかすかなカビ臭さに、ささくれていた気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
 留学する前まで、ここにはよく出入りしていたので懐かしい。それに娯楽本を置かないせいか、貴族令嬢や文官以外の女性が利用することは少ないため、煩わしい思いをしなくて済むというのも大きかった。
 閲覧用のデスクがある一角では、必死の形相で本の内容を書類に書き写す者や、静かに図書を読む者がいる。そのほとんどが文官だ。
 ペン先が紙を引っかくざらついた音や、ページをめくるわずかな音を聞きながら、シリルは館内に入ってすぐ脇にあるカウンターへ近づいた。
 本の修繕をしている司書へ、荷物と外(がい)套(とう)を渡して番号札を受け取る。これは図書の盗難を防ぐ意味があった。
 目的の書籍がどの辺りにあるか尋ねてみると、多分あの辺りだろうと曖(あい)昧(まい)な言葉が返ってくる。
 シリルは気分転換も兼ねて、ゆっくりと本の背表紙に視線をすべらせつつ、独特の雰囲気がある書物の海を泳ぐことにした。
 ……しかしこれだけの蔵書があると、なかなか目当ての本が見つからない。一冊はなんとか発見したが、後の三冊の場所がさっぱり分からなかった。
 手の空いている司書に探すのを手伝ってもらうべきかと思ったとき、数冊の本を抱えて顔を伏せる女性とすれ違った。
 左腕の腕章には、王立図書館を表す本と羽ペンの紋章が刺繍されている。間違いなく司書だ。
 ——女性の司書なんて珍しいな。初めて見る。
 探している本の場所を聞こうかと思ったのと同時に、女性へ声をかけたくない気持ちが膨らんで少し迷う。女性蔑視というわけではなく、顔と身分のせいで嫌な思いをし続けている反動で。
 カウンターにいる司書へ頼むべきかと悩んでいたら、視線を感じたのか女性司書が顔を上げて振り向いた。
 目が合ったシリルは、内心の動揺を押し殺すことができなかった。容姿があまりにもちぐはぐすぎて。
 その女性は美しい絹糸のようなハニーブロンドに、極上のエメラルドを思わせるグリーンアイという組み合わせの持ち主だった。
 さらに生命力に満ちた双(そう)眸(ぼう)や、形のいい柳(りゅう)眉(び)や鼻が、完璧に配置されている。
 絶世の美女と評しても申し分ないほど、整った容貌の持ち主だった。
 それなのに赤い発疹が頬に散らばって美しさを損ねているため、美醜が混じり合っているように見える。
 しかも美しいブロンドをひっつめ髪にして、紺色の地味なドレスを着ているから、若いようなのに老けている印象が強くてひどく戸惑うのだ。
 それでも女性の容姿を貶(おとし)める態度は取りたくないと、すぐさま無表情を取り繕う。さらに目が合っていながら無視するのは失礼と思い、冷静な声で話しかけた。
「司書殿とお見受けする。本を一緒に探してもらえないだろうか」
「かしこまりました。どのような本をお探しでしょうか」
 外国の医学書のタイトルを伝えると、彼女は数秒目を閉じてから、「それですと三冊ともこちらですわ」と奥へシリルを案内する。
 驚いたのは向かった先が閉架書庫だったことだ。
 道理で見つからないはずだと思う一方、書庫にある本は膨大な量なのに、こちらの問いに瞬時に答えたことに驚く。
 よほど記憶力がいいのだろうか。
 王立図書館の蔵書量は、およそ百五十万冊と聞いた覚えがある。書庫にはそのうち半数以上が収められているはずだが……
 書庫の鍵を開けて右端の書架へ導く司書は、手袋をはめると棚に脚立を寄せて、ためらうことなく上り始めた。
 シリルは慌てて彼女に背を向ける。
 ——スカートで脚立に上る女性を初めて見た。
 司書の方は気にしていないようで、一冊の本を書棚から引き抜いて下りてくる。
「これだと思いますが」
 そう言いながら分厚い本を渡してきた。
「ああ! 間違いない、助かったよ」
 シリルが大仰に喜んだせいか、女性司書は「よかったです」と小さく微笑んだ。
 その淡い微笑には、幼い子どもを見るような慈愛がこもっている気がして、シリルは面はゆい。だいぶ年下らしき女性なのに。
 顔が赤くなりそうなのを精神力で抑えていたら、司書は「次はこちらです」と、さっさと違う書棚へシリルを導く。
 三冊ともかなり離れた場所にバラバラに保管されていたのに、彼女は迷うこともなく目的の本がある棚へ向かった。
 シリルは三冊目の本を受け取ったとき、さすがに我慢できず疑問を口にする。
「君、本がどこにあるか全部覚えているのか?」
「はい」
 あっさりと頷いた司書に軽く仰け反ってしまう。
 この膨大な量の書物の位置を記憶しているなんて信じられない。しかも彼女は特に誇っている様子もない。
 シリルが自分よりずっと若い女性に脱帽していると、彼女はシリルの手にある本を見ながら言葉を続けた。
「ご利用者様。開架の図書はご自身で元の場所に戻していただきますが、書庫の本は司書が戻しますので、読み終わったら入り口のカウンターにいる者へお渡しください」
「いや、これらの本は借りるつもりなんだ」
 シリルは内務大臣が発行した貸出許可証を見せる。
 王立図書館の蔵書は、基本的に館外への持ち出しを禁止している。自宅で読みたい場合は国王または大臣の許可を必要とした。多忙な雲(うん)上(じょう)人(びと)から許可証を手に入れるのは難しく、めったに貸出は行われない。
 女性司書は一瞬、目を見開いて許可証へ顔を近づけた。
 その表情と仕草がとても可愛らしかったので、シリルは彼女に見えない位置で小さく笑ってしまう。
「……本物ですね。かしこまりました、貸出手続きをいたします」
 女性司書と共にカウンターへ戻り、修繕作業をしている男性司書に許可証を見せる。彼は慌てて貸出用の書類を取り出した。
 サインを求められたシリルがフルネームを記すと、アディントンの姓を見た男性司書の表情に、媚びるような笑みが浮かぶ。へりくだった態度で、シリルの荷物と外套をうやうやしく差し出してきた。
 無表情で受け取ったシリルがふと辺りを見回せば、先ほどの女性司書はどこにもいない。シリルをカウンターまで案内し、手続きを終えたのを見届けて持ち場へ戻ったのだろう。
 ほんの少し不思議な気分で図書館を後にした。
 今までシリルの顔を見た女性は、必要もないのにそばから離れず、付きまとうことが多かった。そのためあっさり姿を消した女性司書に好感を覚えたのだ。


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