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恋人のふりをお願いしたら、カリスマ社長に捕まりました

桔梗楓 / 著
高山千 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/02/24

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内容紹介

好きなんだ。俺には君しかいない。
若きカリスマ社長・諏訪の秘書になって六年目の小雪。尊敬できるところはあるけれどワンマンな諏訪と真面目な小雪は、そりが合わず意見がぶつかってばかり! そんな中、父に強引にお見合いを勧められた小雪は、思わぬ出来事から諏訪の弱みを握る。「口止め料として一日限定で私の恋人になってください!」お見合いを断るため、ダメ元で頼んでみると、意外にも諏訪は偽の恋人に乗り気で…!? 「俺がどれだけ君のことが好きだったか。六年分の想いを身体に教えてやる」敏腕社長の手腕から逃げられそうにありません!

立ち読み

 第一章 弱味を握って脅……お願いする

 尊大なる諏(す)訪(わ)夏(なつ)樹(き)はいつも完璧。
 今日も今日とて、カッチリスーツをきっちり着こなして、見た目もパーフェクト。たまには寝癖をつけるくらいの愛(あい)嬌(きょう)があってもよろしいのでは?
 なんて考えている私こと稲(いな)葉(ば)小(こ)雪(ゆき)は、決して諏訪さんの忠実な部下ではない。
 彼は社長、私は秘書。お給料に見合う分のお仕事はしっかりやるけど、信奉者ではないのだ。
 だからこそ——。
「諏訪社長。人には人のキャパシティというものがございます。その人の許容を超えた仕事を振る、つまり無茶振りはお止(や)めください」
 こうやって、はっきり彼に意見も言う。
「そんなことでは、いつまで経(た)っても成長できないぞ。稲葉君、私は機会を与えているんだ。もちろん私が満足する結果を出してくれれば、相応の報償も出すつもりでいる」
 しかし諏訪さんも諏訪さんで負けていない。さすが一代でこのデザイン会社『スフィーダルネディ』を急成長させた人だけあって、言うことにはいちいち説得力があるし、有無を言わせない迫力もある。
 なんとなく、この人の言うことを聞いてしまう。……そんな力が、彼にはある。
 人はそれをカリスマと言うのかもしれない。
 実際、雑誌のインタビューを受けたり、テレビのコメンテーターとして出演したりする時、いつだって彼の紹介は『若きカリスマ社長』だ。経済に関して天賦の才を持っているとか、大学の頃に立ち上げた会社を急成長させた経済界の申し子とか、皆揃(そろ)って諏訪さんを褒め称(たた)えている。そして彼の成功にあやかろうと、たくさんの信奉者だっている。
 だが、私は彼のワンマンな言動がどうにも気に食わない。
「皆が皆、諏訪社長のようにはなれません。あなたが過度に期待すると、社員は萎縮します。中には、あなたのギラッギラしたプレッシャーに耐えられなくなって辞める人もいるのですよ。その人が有能な人材だったら、あなたが自ら手放していることになるのですが、それこそ会社の損失ではないでしょうか?」
「痛いところを突くな、君は」
 ようやくダメージを食らった様子。
 どうやら諏訪さん、最近社員のひとりが他のデザイン会社に転職したことを痛手に感じていたようだ。その社員はデザイナーで、繊細かつ緻密なデザイン力に定評があった。しかし創作には性格が出るのか、彼はとてもナイーブな感性の持ち主だった。
 それなのに、このカリスマパワーバリバリの、歩く太陽みたいなキランキランした諏訪さんが彼を手放しに褒めちぎり、更なる活躍を期待してしまったせいで、その社員はプレッシャーに負けてしまった。
 彼が退社する時、私にだけ零(こぼ)した言葉がある。
『諏訪社長は素晴らしい人だけど、彼が放つ圧倒的な光が眩(まぶ)しすぎて辛(つら)いと思う人もいるんだよ』
 わかる、と彼に言いましたとも。諏訪さんは、黙っていてもカリスマオーラがキラキラ輝いているものね。
「一介の秘書が超有能カリスマ社長に意見などおこがましいと重々承知しておりますが、黙って社員の成長を待つのもまた必要なことではないでしょうか」
「…………。君がそう言うということはつまり、それは多くの社員の本音でもあるということか。稲葉君は昔から、私の耳には届かない本音を聞くのがうまいからな」
 腕を組み、熟考モードに入る諏訪さん。
 彼は一見、尊大で偉そうでゴーイングマイウェイなワンマン社長に見えるけど、意外と真面目に意見すればちゃんと聞いてくれるのだ。このあたりが、カリスマ社長と持て囃(はや)される所以(ゆえん)だろう。
 本来、社長の方針に口を出せるような立場ではない秘書の私が、面と向かって意見が言えるのだって、諏訪さんの懐の深さによるものだ。
 彼は傲岸不遜に見えて、謙虚で柔軟な思考も持ち合わせている。まあ、そういう人でなければ一代で会社を急成長させることなんて無理だと思うけど。
 ——私はスフィーダルネディの採用面接を受けた時、なぜか社長自ら面接官をしていた諏訪さんに、こう問われた。
「君は、自分の中に確固とした正義を持っているか?」
 何言ってんだコイツ。
 ……と、百回くらい思ったけど。
 残念なことに、私にはあったのだ。己の正義というものが。
「持っています」
 そう、はっきりと答えたら、諏訪さんは更に質問をたたみかけた。
「それは例えばの話、上司が間違いを犯したら、君はどうする?」
「もちろん本人に間違いを指摘し、正そうとします」
「その結果、上司の逆(げき)鱗(りん)に触れ、仕事を辞めさせられるとしても?」
「ええ。どちらにしろ、曲がったことを良しとする上司の元では働けません」
 迷いなく言い切った。この時点で「あっ、この面接落ちたかな〜」と思った。
 でも、私は昔からそういう人間だった。間違いだと思ったことも、正しいと思ったことも、すべて隠せず、口に出してしまう。たとえ空気を読めとか、正論を振りかざすなと批判されても、私は自分の心を言葉にしてしまう性格をしていた。
 それは、大人になっても、変わらない。
 清濁併せて呑(の)み込んでこそ、誠に大人になれたということなのだと言ったのは誰だったか。父さんだったかな。
 私は、二十歳を過ぎても濁りを呑み込むことができなかった。
 東(とう)京(きょう)にある、江戸時代より続く大きなお寺に、私は産まれた。父さんは住職で、母さんは父さんを支えながら寺の経営をやりくりしている。
 人道に沿う道を進むべし。
 父さんから教えられたこの言葉を正しいと思った私は、そのように人生を歩んだ。
 いわゆる『ズル』が嫌いで、嘘(うそ)もつけない。品行方正に生きることに心の平安を感じる。
 健全な精神は健康な身体から。悪に屈することなかれと、幼稚園の頃から柔道を習い始めた。おかげで高校では全国大会に出場するくらいには強くなってしまった。
 実際のところ教師ウケは非常に良かったし、常に真面目ちゃんだった私はいつだってクラス委員に任命されていた。
 もちろん、私みたいな人間が嫌いな人はいる。イイ子ぶってると陰口を叩(たた)いてる現場も何度も見た。
 今思えば、私の妙に達観して可愛(かわい)げのないところが気に入らなかったんだろう。正論振りかざして偉そうにしていると言われたこともある。
 でも逆に、何でもはっきり口にする私の性格が好きだと言ってくれる友達もいた。
 人には好き嫌いがある。合う、合わないの相性がある。私のことが嫌いな人もいれば、好いてくれる人もいるということだ。私はそんな人たちに囲まれて、己の正しさを曲げずに生きてきた。
 そうして大学で就職活動をしているうちに、諏訪さんの会社が気になったのである。
 落ちたと思って諦めていた面接はなぜか合格して、私は社長秘書として就職した。
 出社初日、諏訪さんは私にこう言った。
「稲葉君の正義に従い、思ったことは何でも言うように。それがどんなに失礼な意見だったとしてもだ。君には期待している」
 つまり、私は今、彼の言葉に従って、自分の意見を口にしているに過ぎないのだ。
 それなのに毎回不機嫌そうに聞くのはなぜなのだろう。なんだかんだ結局意見を聞いてくれるからいいけど、たまには素直に聞いてほしいなと思う時もある。
 常に新しいことを発信し、挑戦し続けるデザイン会社、スフィーダルネディ。
 会社の理念と同じく、諏訪さんはいつも新しいことに挑戦している。すごいのは、その挑戦がどれも大成功を収めていることだ。チートしてるのか、人生二回目の転生者なのかと巷(ちまた)では騒がれているが、実際は単にめちゃくちゃ賢いだけなのだと思っている。頭の回転が速く、キレもある諏訪さんは、常に時代を先取りするのだろう。
 ところで、諏訪さんはまだ腕を組んで悩んでいるようだ。どうすれば最も効率よく社員教育ができるのか考えているのかもしれない。
 私は腕時計をちらりと見た。うむ、そろそろタイムリミットだ。
「諏訪社長、あと十分でインタビューの時間です!」
「はっ!」
 私がパンパンと手を叩くと、ハッと我に返る諏訪さん。頭脳明(めい)晰(せき)な人なんだけど、一度思考モードに入ると他のことを一切考えなくなるのが玉に瑕(きず)。でも天才ってそういうものかもしれない。
「第三会議室にて、インタビューの用意はできております。原稿のチェックをされますか?」
「それは頭に入れてあるから問題ない。確か、オンラインでのインタビューだったな?」
「はい」
 頷(うなず)いて、私は諏訪さんの首に手を伸ばす。
「ネクタイが少し曲がっていますよ。画面上での会談だからこそ、身なりは実際に会うよりも完璧になさったほうが、相手への印象は良いと思います」
 そう言って、曲がっていたネクタイをまっすぐに伸ばして、結び目を整える。
「…………」
 いつもきっちりしてる諏訪さんが、より一層完璧になった。うん、まっすぐネクタイは見ていて気持ちがいい。
 ところで諏訪さんが黙っているのだが?
「……いつも可愛くないことばかり言うくせに、そういうところが……くっ」
 なぜか諏訪さんは悔しそうに歯ぎしりした。何が気に食わないんだ。私みたいな庶民にお高いブランドのネクタイを触られたのがそんなに嫌だったのか。
「どうしましたか?」
「何でもない。第三会議室だったな、行ってくる。インタビューが終わったあとはテレビ局か。車の用意をしておいてくれ!」
 諏訪さんは雑な手つきで資料を手に持つと、足早に社長室を出て行った。
 相変わらず忙しい人だ。インタビューにテレビ番組のコメンテーター。彼は相貌が素晴らしく整っているので、メディア受けがとてもいい。
 会社のイメージアップに繋(つな)がるならと、基本的にそれらの仕事を断らないが、実は諏訪さんは自分がメディアに露出することをあまり望んでいない様子である。
 普段は派手なふるまいを好まないし、自慢話など一度も聞いたことがない。基本的に笑わないし、不機嫌な顔が多いし、愛想笑いなんてインタビューでの写真か、テレビでしか見たことがない。
 ちなみに私は、一度だけ興味本位で諏訪さんが出演している情報番組を見たことがあったのだが、彼が人受けの良さそうな微(ほほ)笑(え)みをたたえて意見を述べている姿を見た瞬間、えもいわれぬ悪寒を感じてテレビを消したことがある。
 なんだろう、こう、ニセモノくさいというか。胡(う)散(さん)くさいというか……とにかく、嫌〜な気持ちになったのだ。翌日、諏訪さんに正直にその時の気持ちを口にしたら「君は本当に失礼な人だな!」と憤慨なさっていた。ごめんなさい。
 さて、車と、次の仕事の資料を用意しよう。
 私が社長室を出ると——途端に、わっと人だかりができた。
「稲葉ちゃん、ありがとう〜!」
「なっ、なんですか!」
 どうやら社長室前で聞き耳を立てていた様子。主にデザイン部門の人たちだ。
「社長に意見してくれたでしょ。助かったよ〜」
「デザイン部門を今より成長させるなんて、社長からメールが来た時には、冷や汗が滝のように流れたもの。もしかして僕たち、おうち帰れなくなる? とか思っちゃったし」
 若手のデザイナーが涙を流さんばかりに喜んでいる。まあ、私もあのメールを読んで思うところがあったから、さっき諏訪さんに意見したのだけど。
「前に辞めちゃったデザイナーさんの仕事を穴埋めしなきゃいけないから、焦ってるのかなあ……社長」
「いえ、それは違うと思いますよ」
 私は首を横に振った。そもそもメールの内容が誤解されている。諏訪さんが言いたかったのは、社員を無理矢理成長させる、というよりは、今よりも効率よく仕事ができるように、どしどし意見を出してほしい、というような感じだった。
 しかし、社員に過度な期待を寄せてしまうという諏訪さんの悪癖のせいで、妙に圧が強く、プレッシャーを感じるようなメール内容になってしまっていて、本来の意図が伝わっていなかったのだ。
 だから私は、人には人のペース配分があって、皆が諏訪さんのようにシャカシャカ機敏に動けるわけじゃないから、あんまり期待を寄せるようなことを書かずに、相手の出方を待ったほうが良いのではないかと言ったのである。
 私がそう説明すると、周りの皆は「なるほどー」と納得した顔をした。
「成長ってそういう意味だったんだね。いきなり、デザイン部は今こそ成長するべき! と書いてあったから、なんでうちをやり玉に挙げるんだよ〜と慌てちゃった」
「そうそう、営業部や企画部だって成長しろよってな」
「多分、順番に各部門に通達するつもりだったんだと思いますよ」
 諏訪さんは良くも悪くも公平な人だから、えこひいきしないけど、容赦もしない。
「それでも稲葉ちゃんが言ってくれて助かったよ〜。私じゃ怖くて言えないし」
「俺も。なんか諏訪社長って常に超人オーラを放ってるから、近づくのも畏れ多いしなあ」
 デザイン部の男性が手をワキワキさせた。どうやらオーラを表現しているらしい。
「カリスマ社長って言われるだけあって、根拠もなく言う通りにしなきゃ! って思わせるところがあるよね」
「そうそう、どんな無茶振りでもやらねえと、ってさ。でも本音ではそんなに頑張れないから、どうしようと思っていたところで稲葉ちゃんが本人にバシッと意見を言ってくれるからさ、本当に助かっているんだよ」
 手を掴(つか)んでブンブンされる。
「確かに諏訪社長は自信家で仕事ができて小憎らしいほど顔がいい完璧超人なところがありますが、他人の言葉に耳を貸さないほど心の狭い方ではありません。だから、皆さんももっと意見を出したほうがいいと思いますよ」
 私が正直な考えを口にすると、デザイン部の皆は揃って困った顔をした。
「言うは易(やす)しだけど……僕らには難しいよねえ」
「そもそもあの諏訪社長に堂々と意見を口にできる人が稀少なのよ?」
「普通なら怖(お)じ気(け)づくよな。だから俺たち、稲葉ちゃんには本っ当に感謝してんのよ。これからも社長の手綱、しっかり引いてくれよな!」
 ポンポンと肩を叩かれ、皆が去って行く。
 ……まあ、気持ちはわからなくもない。
 仕事は完璧、見た目も完璧、現在進行形で実績をどんどん積み上げている超有能社長。
 そんなすごい人に、真っ向から意見できる人は確かに少ないのかもしれない。彼ほどの実力を持っていないから意見できる立場ではない。普通はそう思うものなのだろう。
 でも私は、そう納得する一方、いつも諏訪さんと最初に出会った面接試験を思い出すのだ。
 確固たる正義を持っているか。その正義のため、仕事を辞める覚悟で意見が言えるか。
 ……あの言葉はもしかしたら、諏訪さんの本音だったのかもしれない。
 諏訪さんはずっと周りの人から、デザイン部の人たちみたいな態度を取られ続けていて、誰にも何も言われない状況が嫌だった。だからこそ、私のような大学を卒業したばかりで社会経験皆無の若輩者に、意見を言ってほしいと口にしたのではないか。
 そう思うからこそ、私はどんな細かいことでも諏訪さんにもの申すことにしている。自分の正義が絶対に正しいと思ったことはないけれど、それでも自分の正しさに譲れないものを持っている限り、おかしいと思ったことは口にする。
 それが社長を支える秘書として必要な仕事なら、私は真剣に全うするのみだと思っている。

 ——小さい頃から真面目と言われてきた私は、プライベートもお堅いんだろうと言われがちだ。
 しかし、私は異議を申し立てたい。
 私のプライベートはわりと自堕落なのだぞ、と言いたい。
 だって、お酒が好きですからね。ちなみに仏教には『飲(おん)酒(じゅ)戒(かい)』という教えがある。基本的に煩悩を抹消したい仏の教えにおいて、飲酒は煩悩のひとつであり、推奨されていないのである。
 とはいえ、今や仏教は宗派がいろいろあって、厳しいところもあればゆるいところもあるので諸説あり。父さんはお酒を一切飲まないが、私は二十歳になって酒の味を知ってしまった。つまり堕落したのである! でも私は寺で生まれたが仏教徒ではないので、別にいいじゃんと開き直っている。母さんも仏教徒じゃないし、めっちゃ晩酌でビール飲むしね。
 というわけで、仕事が終わった私はマンションに帰って、動画アプリでお気に入り配信者のライブ配信を視聴しながら、コンビニおでんをつまみにレモンサワーを飲んでいた。
 おっさんみたいって言わないでほしい。そもそも秘書は社長のスケジュールに合わせて仕事をするので、今日みたいにテレビ局の仕事が入ってくると、私は超忙しくなるのだ。そういう日は帰りが夜の十時とかになってしまう。居酒屋やレストランで一人酒をする勇気が出ない私は、いつもコンビニでサワー系の缶チューハイと適当なつまみを買って、家で過ごすことが多い。
 ……でも、おっさんくさいと言われようが、お酒を飲みながらライブ配信を視聴するこの時間がとても好きなのである。
 と、私がつかの間のおひとり様時間を楽しんでいると、配信が急に途切れて、スマホの着信音が鳴った。
 着信元は、父さん。
 珍しい。正月に電話が一回来たきりだったから、ずいぶん久しぶりだ。
 しかし私の顔はみるみると渋いものになる。なぜなら、その正月の電話がとても面倒くさかったからだ。そろそろ身を固めないのかとか、従兄が結婚して子供の写真つき年賀状を送ってきたとか、遠回しに結婚を匂わせるようなことばかり言ってきたので、そんなの私の勝手ですと一蹴して、電話を切ってしまった。
 またあの話を蒸し返すつもりなのかなあ。嫌だなあ……。
 でも電話を無視するわけにもいかない。私は渋々出た。
「もしもぉし……」
『のっけからそんな嫌そうな声出すなよぉ〜!』
 父さんが寂しそうな声で文句を言った。私が嫌がってるってわかってるなら、こんな時間に電話しないでほしい。メールにしてほしい。
「何よ。今忙しいから、用件なら早く言って」
『冷たい……小雪が小雪のように冷たい……』
「うまいこと言ったと思ってるならお門違いよ。用件ないならもう切る!」
『待て待て! 本当に待って! 今から用件言うから!』
 父さんが情けない声で言った。江戸時代から代々続く由緒正しいお寺の住職のはずなのだが、あまりに威厳がない。しかしこう見えて袈(け)裟(さ)を身に纏(まと)えばそれなりに箔(はく)がつくので、不思議な話である。
 父さんはオホンと咳(せき)払いをした。そして厳(おごそ)かな口調で話し始める。
『小雪よ。お前、結婚を考えないか——』
「そういう予定はありません。おやすみなさい」
 私が電話を切ろうとすると『わーっ待って!』と父さんが電話口で叫んだ。
「何よ。ちなみに、会社でそんなこと聞いたりしたらセクハラになるよ」
『娘の結婚を心配する親心のどこがセクハラなんだよ!』
「世間ではセクハラって言うんです」
『僕の家族間では言わない! いいかい小雪は今年で二十八なんだぞ!』
 ビシッと言われて、私はめちゃくちゃ渋面を浮かべる。
「結婚と年齢は関係ないと思いますけど?」
『なあ、結婚願望がないわけじゃないんだろ? 縁があればいつか、みたいに思ってるんだろ?』
 そう言われると、頷かざるを得ない。
 私は別に結婚願望が皆無というわけではないのだ。生涯仕事に尽くす! とも思っていない。
「そりゃまあ、縁があればね」
 だが、その一言が余計だった。父さんが一気に上機嫌声になる。
『そうだろ、そうだろ。だから父さんがお膳立てしてやる!』
「は?」
『お見合いだよ。何人か見繕ってやるから、好きなのを選べばいい』
「はああ〜!?」
 私は思いっきり口をへの字に曲げた。
『僕も母さんも、そろそろ小雪には結婚してもらいたいんだよ』
「なんでよ」
『孫が見たい』
「めちゃくちゃそっちの都合じゃん! 孫作るために結婚するなんて嫌だ!」
『大丈夫だって。僕が選ぶ男にハズレはない! 皆、誠実でいい人ばかりだよ。小雪も絶対幸せになれる!』
 断言する父さん。ますます不機嫌になる私。
 だって父さんが紹介する男なんて……間違いなく——。
 僧侶に決まってる!
 いや、差別ってわけじゃないよ。別に僧侶が嫌いなわけじゃないよ! むしろ、寺で育った私の周りには、当然のように住み込みの修行僧がいっぱいいた。
 ただ僧侶って、個人だと別に気にならないんだけど……団体を見続けると疲れるのだ。後ろから見たら、皆、真っ黒の袈裟に坊主姿だから、誰が誰かわからないし。父さんは頭の形で判断できるって言ってたけど、私にはそんな高度な見分け方はできない。
 いい人はたくさんいた。むしろ優しくて気さくな人ばかりだった。
 娯楽がごまんとある今の世の中で、自ら仏門に入る人だ。並大抵の覚悟ではないだろうし、奉仕精神というか、慈愛の心を持っている人がたくさんいた。
 でも私は、僧侶が夫になるのだけは絶対嫌だった。なんか、うまく言えないけど……身内と結婚するみたいな感じになるので嫌なのだ。
 私が大学卒業と共に実家を出たのも、黒袈裟の僧侶から距離を取りたいと思った一心である。中学高校はともかく、大学は父さんお勧めの仏教系大学に入学したため、学生の八割が僧侶を目指す人だった。
 とにかく仏教から離れたかった。外の世界が見てみたかった。
 私はひとつの場所にずっといられるタイプではないし、同じような日々を繰り返すのが嫌だった。
 それに私は、一人っ子である。つまり、僧侶を夫にしたら間違いなく入り婿だ。婿はうちの寺の後継者となり、私は母さんの仕事を継ぐだろう。そして、ゆくゆくは寺の経営をすることになる。
 それは絶対に嫌だ! 寺で一生を過ごすのが嫌で家を出たのに、結婚したら戻らなきゃならないなんて勘弁してほしい。
 私は今の仕事が好きだし、結婚で先の人生まで決められるのは、絶対にごめんだ。
「……父さん、私の結婚なんてただの方便で、本当は寺を継ぐ人が欲しいだけじゃないの?」
 低い声で言うと、父さんは慌てて『違う!』と否定した。
「別に、僕の家系で寺を継続させたいとはそんなに思ってないよ」
 そんなに思ってないってことは、ちょっとは思ってるってことなんだろうな……。
「じゃあお見合いの相手って、僧侶じゃないってこと?」
『いや、それはえっと……』
「やっぱり僧侶なんじゃない!」
『仕方ないだろ! 僕の知り合いで若い男っていったら、僧侶しかいないじゃん!』
「絶対嫌です」
『そう言わずに。会ってみたら考えが変わるかもしれないし』
「変わらないよ!」
『でも今の小雪に出会いがないのも本当だろう? そっちで当てがないのに、こっちが見繕う男に文句だけ言うっていうのは、道理に反するんじゃないか?』
 私はムッと眉間に皺(しわ)を寄せた。
 確かに、私は自分の力で男のひとりも見つけていないのに、まだ会ってもいない男に文句だけつけるのは我(わ)が儘(まま)かもしれない。
「かれこれ六年、小雪がうちを出てから一度も帰省していないじゃないか。さすがに寂しいよ。僕も母さんも、ただ小雪の幸せな顔が見たいだけなんだよ」
「それは……確かに、帰省してないのは、ちょっとは悪いなって思ってるけど。う〜ん……」
 私が唸(うな)っていると、父さんはたたみかけるように言葉を重ねた。
『ま、そういうわけだから、これだっていう男を何人か見繕ったらまた連絡するよ。じゃあおやすみ!』
 ぷちっと通話が終了して、スマホ画面はライブ配信動画に戻る。
「ええ、待ってよ……。なんでいきなりそんな、お見合いとか言い出すの……」
 楽しみにしていたライブ配信だというのに、内容が少しも頭に入ってこない。
 強引に話を進める父さんを腹立たしく思うが、彼は有言実行の男だ。お見合いすると決めたら絶対に相手を見つけてくる。
 結婚は、そのうち、いつか、縁があれば。そう考えて、早二十八歳。
 問題を先送りにしていたツケがここに来て一気に押し寄せた感じがする。
「そんなあ〜!」
 私は頭を抱えた。


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