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堅物副社長は見かけによらず、契約妻を甘く優しく抱くつもり

木下杏 / 著
カトーナオ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/02/24

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内容紹介

期待して可愛いな。俺も限界だ。
大企業の秘書というキャリアを諦め、地元に戻ってお見合いすることを決めた葵。御曹司であり副社長の祐吾に退職の意向を告げると、「提案がある。俺と結婚しないか」と言われて!? 私生活が謎に包まれた彼からの突然の提案。到底受け入れられないと思ったが、仕事同様の手際の良さと距離感で、いつの間にか結婚準備は進められて…。さらに、契約結婚だと思っていたのに、祐吾の方は思いがけず葵を抱くつもりで!? 「期待して可愛いな。俺も限界だ」ハイスペ御曹司×こじらせ秘書の秘密の結婚生活!

立ち読み

「この書類はいちいち印刷しなくていい。前にも言ったがすべてデータで送ってくれ」
「……承知いたしました。申し訳ありません」
「それと、この間のトリタニとの会食の店、壁が薄くて隣に会話が筒抜けだ。今後、リストから外してくれ」
「承知いたしました。申し訳ありません」
「新しい店はそのあたりも確認するように。別に食事を楽しむ会ではない。話したいことが話せないんじゃただの時間の無駄だ」
「はい。申し訳ありません」
「副社長」
 ここは大手食品会社カデナホールディングスの副社長室。第一秘書である早坂(はやさか)葵(あおい)は第二秘書の増山(ますやま)と一緒に、デスクを挟んで上司である相原(あいはら)祐(ゆう)吾(ご)と対(たい)峙(じ)していた。
 大きな窓を背後に、高級感のある落ち着いた雰囲気のエグゼクティブデスクに座る祐吾はただの上司ではない。カデナホールディングスの取締役であり副社長なのだ。葵はそんな祐吾の第一秘書であった。
 祐吾に先ほどから淡々と指摘を受けて、その度に謝っている増山は気の毒なほど委縮している。その強(こわ)張(ば)った顔をちらりと見ると、葵はかばうように一歩前に出た。
「私の方でも確認が甘く申し訳ありません。今後、重々気を付けるようにいたします」
「そうしてくれ。話は以上だ」
「はい。申し訳ございませんでした」
 二人一緒に頭を下げ、「失礼いたしました」と副社長室を退室する。すると、後ろで増山がはあああと長いため息をついた。
「一緒に謝ってもらってすみません」
「全然。私の確認が甘かったのも本当だし」
「いえ、私の担当範囲なので、そこまで先輩にしてもらうわけには……あああ、本当に怖かったです……副社長の威圧感半端ないですね」
 増山はまだ緊張の余韻が残っているようで、自身を落ち着けるように胸に手を当てている。その様子を見ながら葵は苦笑いを浮かべた。
「言っておくけど、副社長は怒っているわけではないからね……? たぶんただの連絡事項ぐらいの感覚なはずだよ」
「先輩はいつもそう言いますけど、無表情で淡々と言われるので逆に怖いんです。すぐにでも見切りをつけられそうで……容赦なくばっさりいかれそうじゃないですか」
 よほど先ほどのことが尾を引いているのだろう。増山はまた顔を強張らせた。
 葵は励ますように笑いかける。秘書課に配属される前、葵は総務で増山と一緒に働いていたことがあった。異動で総務からは先に離れ別々の部署となった時期もあったが、付き合いは長い。お互い人となりを理解し、打ち解けた関係性を築いていた。
 確かに増山は大雑把なところがあり、今日みたいな確認漏れをたまにやってしまうことがある。しかし、素直な性格で反省点はきちんと次に生かそうとするし、明るくて話していても楽しい。そんな増山のことを葵は好ましく思っていて、彼女にあまり落ち込んでほしくなかった。
 実は葵にとっては大変残念なことに、増山は二年付き合っていた彼氏との結婚を機に、退職が決まっているのだ。なんでも相手に海外赴任の話があり、それについていくということだった。それもあって、残りの日々を先輩としてなるべく穏やかな気持ちで過ごさせてあげたいと思っていた。
「そこまでじゃないよ。もっと寛容なはず……でないと私ごときが第一秘書を三年も続けさせてもらえるはずないし」
「何言ってるんですか」
 場を和(なご)ませるためにおどけたように笑いを浮かべた葵に向かって、増山はきりっと表情を引き締めた。
「先輩は総務から役員の第一秘書まで上り詰めたスーパーエリートじゃないですか」
「す、スーパーエリート?」
 とても自分にはそぐわない言葉が飛び出して、葵は呆気(あっけ)に取られたように増山を見た。
「あの副社長の要求を完璧にこなして本当すごいですよね。私、超尊敬してますもん。副社長に指摘されているところ、一度も見たことがないですし、いつも先回りして何が起きても常に備えてて、冷静沈着に対応。私のカバーまでしてくれて……ほんと、先輩は秘書の鑑(かがみ)ですよ。見た目も、メイク、ヘアスタイル、洋服、アクセ……上から下までいつも手抜きなしに整えて完璧ですし。そこまでばっちりだと、毎日何時に起きてるのか逆に心配ですよ」
「そんな。言いすぎだよ……」
「いや、絶対そんなことないですよ。私なんてちょっと指摘されたぐらいでいつも半泣きなんですよ。あの副社長の鬼プレッシャーの中、よくそんな平然とこなせますよね。もはやそれだけですごいですよ」
 増山は本当にそう思っているらしく、周囲を憚(はばか)って声を潜(ひそ)めながらも、至極真剣な顔で葵を見た。そこまで言われるとなかなか否定もしづらく、仕方なく葵は苦笑いを浮かべて曖昧(あいまい)に頷(うなず)いた。

「退職の希望を出していると聞いたが」
 ただいま、午後の六時。朝に祐吾からのダメ出しで増山がへこむという出来事はあったが、それからは何事もなく仕事をこなし、大きなトラブルもなく時間が過ぎてそろそろ終業時間が近付く頃合いだった。今日は残業が発生しそうな気配もなく、スムーズに帰れそうだと葵は少々油断していた。
 そんな中突然、祐吾から呼び出された。何事かと急いで副社長室に行くと、祐吾は窺(うかが)うように自分を見ている葵に向かって、開口一番そう言ったのだった。
 普段からあまり感情が出ない祐吾は端正な顔立ちなことも相まって、黙っていると威圧感がある。むっつりされるとなかなかに迫力があるが、もう五年、祐吾の下で働いている葵はそんなことでいちいちびくびくはしなかった。
(もう副社長に伝わっているのか……そんなところで仕事を早くしなくてもいいのに)
 秘書課の課長である村西(むらにし)に退職の意向を伝えたのはつい数日前だ。祐吾は葵の上司ではあるが別に直属の上司というわけではない。葵の所属は秘書課で、直属の上司はその課長、村西になる。なので、退職の意向を固めた際に、村西に相談したのは当然の流れと言えるが、それがそんなにすぐに祐吾に伝わるとは思っておらず葵は少々動揺した。
(一旦保留であとで話し合おうって言ったのはこのためだったのね)
 その時の村西とのやり取りを思い返しながら、苦々しく思う。その一方で葵は実に冷静な面持ちで頷いた。
「はい。五年もお世話になり心苦しくはありますが、やむにやまれぬ事情がありまして」
 元々葵は総務部で働いていた。それが五年前、当時専務だった祐吾の第二秘書のポジションに空きが出て、なぜか代わりとして選ばれたのが葵だった。
 今は増山が就いている第二秘書というのは、第一秘書のアシスタントのような存在で、来客の案内やお茶出し、電話応対、各種手配、資料作成等を請け負う役割の者だ。役員に常に付き従う第一秘書とは違って、大体は社内にいる。第一秘書と比べるとそこまで難しい業務ではないので、常日頃から手配関連の業務を行っていて、仕事の内容が似通っている総務部所属の女子社員から選んで、たまたま白羽の矢が立ったのが自分だった、というのが当時の葵の見立てだった。
 すぐに業務にも慣れて、自分なりに真面目に勤めながら過ごすこと二年。幸い大きなミスもなく、順調に日々業務をこなしていた。そんな時に、当時第一秘書を務めていた人が体調を崩し、入院が必要となったため、長期の休みをとることになった。
 祐吾は既に専務から副社長に昇格していたこともあり、代役は秘書課の中でもベテランの社員が割り当てられると葵は思っていた。第一秘書だった社員も三十代の男性で、秘書としての経験は長かった。それと同等の能力のある社員が引き継ぐべきなのは、誰の目から見ても明らかだからだ。
 しかし、驚くべきことに、新しい第一秘書として祐吾が選んだのは葵だった。理由は、真面目で努力家なところを買ったとのことだった。祐吾はストイックな性格で、自分にも厳しいが他人にも厳しい。それは第一秘書ほど接することが少ない葵でも分かっていた。社内でも仕事の鬼でシビアなことで有名なのだ。努力しない人間のことをとにかく嫌っているらしい。半面、きちんと努力する人間に対しては割と好意的らしいので、とにかく常に真面目に業務をこなそうと努めていた葵が良く映ったのかもしれなかった。
 当時はとにかく驚いて動揺し、かなり尻込みもしたが内示が出たら断ることもできない。仕方なく受け入れたが、それからは大変だった。
 第一秘書と第二秘書では全く仕事の難易度が違った。とにかく頭の回転の良さが求められるし、咄嗟の機転も必要になってくる。ビジネス、プライベート問わず祐吾の交流関係を把握し、時には趣味嗜(し)好(こう)やもっと詳しいパーソナル情報を知っておかなければならない。他にも、難しい業界用語や契約関連の知識がなければ務まらないこともあるし、英語も必要になってくる。
 増山はスーパーエリートと言ったが、そんな言葉で評されるような実力は葵にはない。第一秘書となって最初の二年ほどは睡眠時間も休日もすべて犠牲にして、語学や業界知識を懸命に勉強した。
 業務中は気付いたことはすべてメモをとり、それを活かせるよう細かく整理して自分なりのマニュアルを作り上げた。そうやってできること、思い付くことはなんでもやり、とにかく必死だった。
 三年という年月を経て今でこそ何とかなってはいるが、当時は努力だけでは追い付かなかったことも多々あった。
 ある時、スケジュール管理に不備があり、葵は祐吾に怒られたことがあった。自分なりに頑張っているが、なかなか上手くいかないことやできない自分に対して苛(いら)立(だ)ちや情けなさが込み上げ、あろうことかその場で泣きそうになってしまった。そんな葵を見て、祐吾は一言こう言った。
「泣いてもどうにもならないから泣くな」と。
 その通りだが、その冷たさが当時はけっこう堪(こた)えた。以来、葵は祐吾の前では絶対に感情を表に出さないと決めている。努力の甲斐あってかポーカーフェイスが身につき、こうやって本当は動揺している場面でも、内心を押し隠して平然と受け答えができるようになっていた。
「理由を聞いても?」
 切れ長の目が無表情に葵を捉える。内心では困ったことになったとげんなりしていたが、ポーカーフェイスを貫きながら落ち着いた口調で答えた。
「一身上の都合とさせてください」
「本当の理由を」
 ずばり言われて、ため息が出そうになる。本当は、言いたくないのだ。祐吾だけではなく、社内の誰にも。しかし、これだけ押しを強くしている祐吾に下手な誤魔化しは利かないだろう。葵はしぶしぶ口を開いた。
「実家に戻って結婚するつもりです」
「……結婚? 早坂が?」
 耳を疑うというのがぴったりの表情をしている祐吾に、葵は内心苦笑いを浮かべた。
(そんなに私と結婚が結びつかないの? 失礼しちゃう)
 しかし表面上は落ち着き払った顔で一つ頷いて見せた。
「はい。まだ予定ですが」
「相手がいるのか?」
 また質問がきて、葵は違和感を覚えた。祐吾は人のプライベートに興味を持つタイプではない。五年間下についていて、その手の質問をされたことなど一度もなかったからだ。
「早坂の故郷は長(なが)野(の)だったか」
「そうです。相手はまだおりません。お見合いをする予定なんです」
「見合い……」
 そう呟(つぶや)いた祐吾は考え込むような表情を見せた。それを見ながら葵は珍しいなと思う。先ほど増山も訴えていたが、普段は鉄仮面かと思うぐらい、本当に表情に変化がないのだ。常に冷徹な雰囲気で、祐吾を怖がっている社員も多いと聞く。切れ長の目、高い鼻梁(びりょう)、形の良い唇と顔立ちは整っていて十分にイケメンと言って差し支えのない容姿を持ち、父親はカデナホールディングスの社長。生まれも経歴も輝かしく、それ故相当にモテるだろうが、浮いた話はほとんど聞かない。秘書という立場上、彼女がいたら絶対に分かるはずだが、この三年の間、女性と食事に行っている姿さえ見たことがないのは、この近寄りがたい性格のせいもあるのではと葵は内心こっそりと思っていた。
「早坂は秘書課に配属されてから常に努力を重ね、今では第一秘書としても前任者と同等に業務をこなせるぐらいまでに成長した」
「恐れ入ります」
 突然、祐吾が葵を持ち上げるような発言をして、葵は澄ました顔でそれに答えた。しかし、心の中では、なんだなんだ? と戸惑いを覚える。
「順調にキャリアを積んでいると思っていた。それを捨てて見合いをするというのはよっぽどの事情があるんだろう。できればその事情を聞かせてほしい」
「よっぽどの事情と言うほどのことでもないのですが……」
 真剣な表情で言われて、さすがの葵もポーカーフェイスが崩れ、眉毛がハの字になってしまう。
 ここまで祐吾が葵の退職に首を突っ込んできたのが予想外だったからだ。いつもの調子で「そうか、引き継ぎはしっかりしろ」ぐらいで終わるものだと思っていた。祐吾にあの理由を言うことになるなんて考えてもいなかったのだ。
 しかし、ここまで言われて拒否することもなかなか難しい。そもそも人に言えないほどの深刻な事情でもないのだ。少し躊躇(ためら)いはあったが、葵は心を決めて口を開いた。
「実は、私の両親は結婚相談所を経営しているのです。その地域ではけっこう有名でして。相談に来た人にぴったりの相手を見つけ、必ず結婚させることを売りにしています。それなのに、娘が嫁に行っていないということはかなり世間体が悪いようでして、とても気にしているのです。三十歳になるまでに結婚の予定がなければ戻って見合いをしろというのが、両親とのかねてからの約束でした」
 一気に話して祐吾の表情を窺う。説明したものの、理解は得られないだろうなと思っていた。親の都合に振り回されて、これまでのキャリアを捨てるなんて馬鹿馬鹿しいと一刀両断されそうだ。
 葵だって躊躇いがなかったと言えば嘘になる。これまで頑張って得てきたものを捨ててもいいのかと随分悩んだりもした。しかし、両親にはこれまで何不自由なく育ててもらった恩も感謝もあるし、葵に結婚を迫った背景も理解できるものがある。突っぱねることもできなかった。
 葵の実家があるのは長野の中でも比較的都市部であるが、それでも地方特有の慣習がまだまだ残っている。人と人との繋(つな)がりが強く、コミュニティは閉鎖的だ。何かあればすぐに人の口に上るし、一度悪いイメージがつけば人々の記憶に残り続け何かというと掘り返される。評判というのがとても大切になってくるのだ。『結婚相談所の娘が行き遅れ』なんて噂(うわさ)が流れたらどうなってしまうか分からないという両親の危惧は痛いほど理解していた。
 それに、葵だって何もせずに手をこまねいていたわけではない。一年ほど前からタイムリミットが迫っていることに焦りを覚え、結婚相手を探すべく、色々と行動を起こしていたのだ。友人の紹介や合コンはもちろん、お見合いパーティー、街コン等、葵なりに勇気を出してトライしてみたのだが、どれも惨敗に終わっていた。
 きっと本心から相手に興味を持てていなかったのが見透かされたのだろうと今なら分かる。増山には誤解されているみたいだが、葵は実は器用なタイプではない。一つのことに集中すると、他のことはおざなりになってしまう。生来、頭の回転が良かったり記憶力が優れているわけではないので、仕事も勉強も自分の持てるすべてを投入しないとなかなか身につかないのだ。妹がいて長女気質なので頼られるのは嫌いではなく、期待されると応(こた)えようとしてしまって頑張りすぎるところもあって、なおさらそれだけになってしまう傾向があった。
 学生時代は勉強、就職してからは仕事が葵の第一優先だった。結果、自然と恋愛の優先度がかなり落ちてしまう。長らくそんなスタイルできてしまったせいで、葵の恋愛経験はかなりひどいものだった。付き合ったのは大学生の時に一人だけ。お互いに初めての恋人同士で何とかセックスも経験したものの、かなり淡白な付き合いだった。ガリ勉の結果、偏差値の高い大学に合格して通っていたので、お互い勉強が大変だったのだ。もちろんそれだけが理由ではなかったが、しばらくして別れてしまってそれ以来、恋人ができたことがなかった。
 それは恋愛に興味が持てなかったというのも理由として大きい。恋愛は仕事や勉強と違って頑張ってどうにかなるものではない。例えば好きな人がいて尽くしたとしても必ずしも愛が得られるとは限らない。報われるものではないし、時には傷つきもすると考えると苦手意識が出てしまってなかなか踏み込めず、自然と敬遠してしまっていたところがあった。
 そんな葵が急に婚活を始めても上手くいくわけがなかった。男性経験の少なさやいまいち消極的なところが見透かされたのか、一年間頑張ってみたものの、全く相手が見つからず、お見合いパーティーでなんとかデートにまで漕(こ)ぎ付けた相手にすっぽかされてようやく悟った。自力で相手を見つけるのは無理だと。
 そして、三十歳の誕生日を迎える一か月前、すっぱりと見切りをつけ、秘書課の課長に退職を願い出たのだ。
「実は私は来月三十歳になるのです。ですが残念ながら結婚の予定はありません。そこで約束通り、故郷へ戻りお見合いを受けることにしたのです」
 そこまで言うと、葵は祐吾に向かって深々と頭を下げた。
「家の都合で我儘(わがまま)を言ってしまい申し訳ありません。今まで大変お世話になりました」
「困る」
 言い終える前に、遮(さえぎ)るように言葉を被(かぶ)せられて、葵は思わず顔を上げた。
「……申し訳ありません。今なんと?」
「困ると言った。今辞められては困る。代わりになる者がいない」
「……前任の方が復職の予定と聞きましたが」
 病気療養を終えた前任者が来月から復帰すると聞いていた。そのこともあって葵は会社を辞める踏ん切りがついたのだ。後任の者がいない場合、いきなり辞めても困るだろうが、葵より遥かにできる人が戻ってくるならば安心だ。むしろそうなったら葵は第一秘書を外れ第二秘書に戻される可能性が高い。だったらと気持ちを切り替える一因にもなった。
 それなのに、代わりになる者がいないとは一体どういうことだろう。葵は思わず、訝(いぶか)し気な顔で祐吾を見た。
「彼には社長の第一秘書に就いてもらう予定だ」
 淡々と言われ、葵は思わずえっと声を上げた。
「白(しら)井(い)さんは……」
 白井とは社長の第一秘書の名前だった。正確な年齢は分からないが、三十代半ばぐらいの、当然のように仕事のできる、凛(りん)とした立ち姿が美しい容姿端麗の女性だ。
「まだ表には出ていないが白井は妊娠している。産休まではひとまず第二秘書に入る予定だった。そして現在の社長の第二秘書は代わってうちの第二秘書に来てもらうことが決まっていた。ちょうど増山が結婚退職する予定だっただろう」
 増山の名前を聞いてはっとなる。葵に口を挟む隙を与えず、祐吾は言葉を続けた。
「だから今早坂に辞められるのは困る」
 改めてきっぱりと言われて、葵は言葉を失った。何と言っていいのかが分からず、狼狽(うろた)えたように目が泳いでしまう。
 そんなことを言われても、というのが正直な気持ちだった。葵だって生半可な気持ちで決めたわけではない。判断次第でこれからの人生が変わるのだ。それなりに悩んだ末で出した結論だった。
 それにもう両親に地元に戻ると決めたことを伝えてしまった。あの時の両親のほっとしたような声が耳に蘇(よみがえ)る。葵の結婚については随分気にしていたようで、いつ聞いても彼氏がいないことをかなり心配していた。おそらくこっちでの結婚は当分見込めないと分かっていたのだろう。
 けれど大企業の役員の秘書に抜擢(ばってき)され、輝かしいキャリアを歩んでいる娘に対して、仕事を辞めろとも言いづらかったはずだ。両親は、葵が祐吾の第一秘書になってからは「約束」のことは一度も言わなかった。内心諦めていたのだと思う。だからこそ、葵の言葉に心底安堵したはずだった。
 そんな両親の気持ちを思うと、やっぱり無理だとはとても言いづらい。けれど、葵の代わりになる者がいないという現状を聞いて、それでも素知らぬ振りをして退職をするのもなかなかに勇気がいる。他の第二秘書メンバーから優秀な者を連れてきてしばらく二人体制で第一秘書を務め、慣れた頃合いでバトンタッチするのが妥当だろうか。もしそれをするとなれば、どのぐらい退職時期がずれるだろうか。
 そんな風に真剣に考えこんでいた葵は、その間、祐吾が見定めるように自分をじっと見つめていることに気付かなかった。
「実は提案がある」
 二人の間に落ちた気まずい沈黙に、終止符を打ったのは祐吾の一言だった。はっとした葵が視線を向けると、机の上に肘をつき、指を組んだ祐吾はその向こうから真剣な面持ちで葵を見ていた。
「俺と結婚しないか」
「……はっ?」
 葵は祐吾の言葉に耳を疑った。呆気に取られるとはまさにこのことで、ぽかーんと口を開けてまじまじと祐吾を凝視してしまう。
「すみません……今なんと?」
「結婚しないかと言った」
(聞き間違えじゃなかった!)


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