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お願いだから俺を見て ~こじらせ御曹司の十年目の懇願愛~

あさぎ千夜春 / 著
天路ゆうつづ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/05/27

内容紹介

俺はいつだってお前を愛したい
「お前は俺の中でずっと、特別な女だった」かつての同級生・堂島千秋とNYで偶然再会した彩羽。旧財閥系企業の御曹司で並外れた美貌の千秋に、六年前、恋人にこっぴどく振られるところを見られ――「お前は不感症じゃないと思うけどね」たった一晩ですべてを塗り替えられてしまうほど。しかし千秋は、顔がいい男だけは選ぶまいと固く誓っていた彩羽とは縁遠い男。それ以来疎遠になってしまった彼に、あの時のことを謝りたい。そう思い会いに行くと…。「俺に溺れてくれよ」極上の男に積年の思いごと貫かれ――。

立ち読み

プロローグ


「自分だけが特別だなんて、思ってるのね」
 長い三つ編みが目の前で揺れる。
「女なら誰でもいいみたいだけど、私からしたら、あんたみたいな男こそみんな同じよ」
 物おじしない瞳が俺をまっすぐに見据える。
「女だからこういうのが好きだって決めつけて……ダッサ」
 そう言って、心底軽蔑すると言わんばかりに立ち去った彼女は、最後まで一度もこちらを振り向かなかった。
(ダサい……この俺が?)
 お前なんかどうでもいいと言われたのは、生まれて初めてだった。
 思わず自分の胸を手のひらで押さえて、その違和感の存在を確かめる。
 手のひらの下、胸の奥で、わけのわからない感情がグルグルと渦巻き、のたうちまわっているのを感じた。
 少し考えてみて、己が動揺していることに気が付いた。どうやら彼女の言葉に、自分は落ち込んでいるらしい。
(そうか……俺にも人並みに傷つくような『心』があったんだな)
 周囲からはずっと、なにを考えているかわからないと言われていた。それはある意味正しかった。
(実際、なにも考えてなかったし)
 家族に反発して、吐き出せない鬱屈(うっくつ)した感情を荒れた生活で晴らそうとしていた。他人をおもんぱからず自分勝手に生きてきたというのに、誰もがそんな俺に好かれたがっていた。そしてそんな自分の一挙手一投足に一喜一憂する人間を、ひとり残らず見下していたのだ。それを見抜かれた気がして、一気に恐ろしくなった。
 あの時からずっと――彼女の存在は心に根を張っている。
 深く、楔(くさび)のように突き刺さり、今でも、まるで生まれた時からずっとそこにあったかのような近しさで、心に棲(す)みついているんだ――。 
一話「傷心旅行というわけではないけれど」


『彩(いろ)羽(は)~! 次はこっちお願い!』
 左耳につけたイヤホンからの呼びかけに、
「はーい!」
 天沢(あまさわ)彩羽は元気よく返事をして、テーブルの上を布巾で拭いた後、いそいそと厨房へと向かった。
 ここは二月の極寒ニューヨーク。
 母方の叔母、弓(ゆみ)子(こ)が経営する高級割烹(かっぽう)『とみ田(た)』は、ワシントンスクエアから徒歩五分とかからない、ウェストヒューストンストリートの一角にある。座席はメインのテーブル席が六つ、L字型のカウンターには十人座ることができ、さらに個室が四部屋もあるのだが、人気店のため常に満員御礼だ。
(せめてパンツだったら、もっと早く往復できるのになぁ……)
 彩羽が身に着けているユニフォームは、現代向けにアレンジされた花柄と格子柄のセパレート着物だ。ポケットがついた真っ白なカフェエプロンを着けるのがお約束で、非常にかわいらしい装いなのだが、いかんせん機動力に欠けるところがある。
 たった十日程度のアルバイトなのだから、白いシャツに黒のパンツでいいのではと思ったのだが、弓子からは『こういうのは風(ふ)情(ぜい)が大事なのよ』と却下されてしまった。
(まぁ、それもそうよね。いいお値段を取るわけだし)
 合理性より風情が勝ることはあるはずだ。彩羽自身、悲しいかな、自分のことを『情緒のないつまらない女』だと自覚しているので、そこは素直に受け入れている。
「戻りました~!」
 長い髪を後ろで編み込んだ彩羽が、戦場のように忙しい厨房に顔を出すと、
「あ、来た来た、彩羽。これ『萩の間』のお客様のお酒だからよろしく~!」
 和服姿の女将が美しいガラスの酒器をのせた盆を差し出す。
 夜会巻きに小紋の着物を身に着けた彼女が、割烹『とみ田』のオーナーだ。
 彩羽は十日ほど前から、叔母である弓子の家に居候をしており、その対価として店の手伝いをしている。経済学部卒業の彩羽の英語力は、あくまでも義務教育程度だ。流暢(りゅうちょう)な会話ができるほどではない。とはいえ基本的に日本のお客様の席を担当しているので、今のところそれほど苦労はなかった。
「『萩の間』了解です」
 彩羽はこくりとうなずいて、くるりを踵(きびす)を返す。
「それが終わったらすぐに戻ってきてね!」
「はーいっ!」
 弓子の急(せ)かすような声を聞いて、彩羽は急ぎ足で厨房を飛び出していた。
 店内の席はほぼ満席で、ヘルシーな日本食を愛するニューヨーカーで埋まっている。器用に箸を使い、食事を楽しんでいるようだ。
 それにしても、このやりとりを今日はいったい何度繰り返しただろう。金曜の夜ということを差し引いても、忙しすぎる気がする。
(まぁ、気が紛れて助かるけど……。なにもかも、日本と全然違うし。なんだか夢を見ているみたいだし……)
 そんなことを思いつつ、盆を両手に持ったまま、彩羽は『萩の間』へと向かう。
「ここね……」
『萩の間』と小さく書かれたプレートをチェックして、
「Thank you for waiting.」
 部屋の中に呼びかけて、それから障子を引いた。
 座席は畳ではなくテーブルと椅子だが、部屋自体は掛け軸があったり生け花が飾られていたりと、和風にまとめられている。部屋の中には身なりのいいスーツ姿の男性が六人ほどいて、彩りのいい料理を前にして、盛り上がっていた。どうやら日本企業にお勤めのビジネスマンたちらしい。
 彩羽は手早く空いた食器を引きつつ、日本酒の入った酒器とグラスをテーブルの上にのせようとしたのだが、
「ねぇねぇ、お姉さん。ニューヨークは寒いねえ。よかったらお酌(しゃく)してくれない?」
 いきなり手首をつかまれて、仰天してしまった。
 年の頃は六十手前くらいだろうか。男の暴挙に、一瞬で軽く殺意を覚える。
(ニューヨークが寒いのとお酌に、いったい何の関係が……?)
 今でもこういうおじさんがいるのかと、ピキピキとこめかみのあたりがひくついたが、顔には出さずにっこりと微(ほほ)笑(え)む。
「申し訳ありません、そういったサービスは……」
 そっと手を振り払おうとした瞬間、
「女性の手をつかむなんて、とても失礼なことですよ」
 テーブルを挟んだ向こうから伸びた大きな手が、彩羽をつかんだ男性の手を、あっという間に引きはがす。
 どうやら正面のテーブルに座っていた若い男性が、助けてくれたようだ。
 明らかに彼のほうが年下で注意しづらいだろうに、その動作にはまったく躊躇(ちゅうちょ)がなかった。
「あ……すみません……」
 制止を受けて、中年男性は慌てたように若い男性に頭を下げる。
(若い人のほうが立場が上なのかな)
 露骨な態度の変化に、謝る先が違うだろうとモヤモヤしたが、とりあえず彼の機転に助けられたのは間違いない。
「失礼します」
 彩羽はぺこりと頭を下げて、目線を下げたまま、そのままそそくさと萩の間を後にした。
(助かった……)
 アクシデントに心臓がドキドキしたが、まだ仕事の途中だ。こんなところで立ち止まっている暇はない。
 ふうっと息を吐き、急いで戻ろうと一歩踏み出したところで、
「待って、彩羽」
 と名前を呼ばれた。
「え?」
 振り返るとそこには、さきほど自分を助けてくれた男性が立っていて――。
 その姿をはっきりと確認した瞬間、彩羽は頭に雷が落ちたような衝撃を受けていた。
「え、ま、まさか……ど、堂島(どうじま)くん?」
 堂島千(ち)秋(あき)――。
 衝撃すぎて、目の前に立っている彼をうまく認識できない。
 まるでVRでも見ているかのようだ。声が震えて二の句が継げない。
(日本から遠く離れたニューヨークで、彼と再会するなんて、そんなこと、ある……?)
 だが、彩羽の唇からこぼれた言葉を聞いて、
「なんだ。俺のこと覚えてるじゃん。無視すんなよなぁ」
 堂島千秋は切れ長の目を細めて笑うと、背後でドアを閉め、長身の体をかがめるようにして、彩羽の顔を覗(のぞ)き込んできた。
 ふわりと、学生の頃使っていた香水とは違う、少しウッディな香りが鼻先を漂う。
 少しだけ波打った、艶のある黒髪が額からこぼれ落ちて、その奥から切れ長の奥二重の瞳がきらめいている。
 彼は人より黒目が大きくて、とても印象的な瞳を持っている。そのどこか物憂げに見える眼差しのせいで、昔は『魔性の男』とも呼ばれていた。
 そう、昔から――彩羽もずっと思っていた。
(ムカつく男だけど、きれいな目をしているって……)
「……彩羽?」
 千秋が軽く首をかしげる。
 当然のように名前を呼ばれて、心臓がきゅっと締め付けられる。動揺を知られたくなくて、彩羽はぎこちなく微笑んだ。
 頬にかかる髪を指で耳の後ろにかけながら、
「あ……ううん。びっくりして。無視したわけじゃないよ。本当に久しぶりだったから、気づかなかったの」
 当たり前のようなことを口にして、彩羽は視線をさまよわせた。
 千秋の顔を見て話せない。どんな顔をしたらいいか、わからなかった。
(私、普通に話せてる……?)
 昔、もし堂島千秋にばったり会うことがあったら、どんなふうに話したらいいだろうかと、何度も妄想した。だが社会人として働き始めて数年経ったくらいで、そんな夢のようなことを考えることはしなくなった。仕事が忙しくなったのもあるし、恋人ができたせいもある。
 恋人でもなく、友達というほど親しくもない男性のことを、いつまでも考えるのは間違っている。恋人がいるからには、その人のことだけを考えるのが誠実であると、彩羽は思っていたのだ。だからこの状況はまさに『青天の霹靂(へきれき)』で『寝耳に水』だ。
 頭は真っ白だし、さっさとこの場から立ち去ればいいのに、足に根が張ったように動けない。過去、あれほど考え抜いた言葉も、なにひとつ出てこなかった。
「そうか」
 そんな挙動不審ぎみな彩羽とは違い、千秋は余裕のある態度でクスッと笑って、目を細める。
 他人に強い印象を与える切れ長の目が、すうっと細くなるのを見て、ふと、笑い方は変わってないな、とそんなことを感じていた。
 今でも覚えている。千秋と最後に会ったのは、大学卒業を間近にした六年前だ。あの頃はまだ少しだけ幼さが頬のあたりに残っていたはずだが、今は大人の色気と硬質な男らしさが増しているように見える。
「あの……」
 どうしたものかと千秋の顔をじっと見上げると、
「悪い、お客さん待たせてるから。連絡して。何時でもいいから、待ってる」
 彼は濃紺の三つ揃(ぞろ)いの上着の中に手を入れ、名刺を取り出し彩羽に差し出した。
「あ……うん」
 勢いで、目の前に出された名刺を受け取ってしまった。
「じゃあまた」
 彼はひらりと手を上げて、また『萩の間』へと戻っていく。
 たったそれだけの動作だが、優雅で美しい。まるでワルツのターンでも見せられた気がした。
 あれが本物の気品というものなのかもしれない。
(びっくりした……)
 貴公子然とした千秋の残像がまだそこにあるような気がして、彩羽は何度か瞬きを繰り返して動けないままだった。


「ええ~! 彩羽って堂島さんとお知り合いだったの!?」
 閉店後、店からほど近いところにあるアパートメントに戻った彩羽が、Tシャツにスウェットで名刺とにらめっこしていると、弓子に目ざとく発見され、千秋から名刺をもらったと打ち明けざるを得なくなってしまった。
 本当は名刺なんかすぐに捨ててしまうべきだったのに、それができなかった自分が悪い。
「高校と大学が一緒だったの……同級生なんだ」
 外気はマイナスだが、部屋の中は十分に暖められている。
 彩羽は名刺をローテーブルの上に置いて、ソファーの上でスウェットの膝を抱えた。
「まーっ、そうだったのねぇ~」
 弓子はお風呂上がりの濡れた髪をゴシゴシとタオルで拭きながら、隣に腰を下ろし名刺を手に取る。
「堂島千秋。北米堂島商事ニューヨーク本社のエグゼクティヴ・ディレクター……。彼、彩羽と同い年でしょ? っていうことは二十八? ありえない若さだけど、彼が堂島グループの御曹司ならさもありなんね」
 堂島グループは、旧堂島財閥を前身とする一大グループだ。銀行、商社、不動産ディベロッパーなど、その関連企業は多岐にわたる。現社長の堂島恵一(けいいち)には優秀な息子が何人かおり、千秋もそのうちのひとりだった。息子たちは堂島関連の企業で要職を務め、世界中を飛び回っているのだとか。
「この名刺って、連絡してくれってことなんでしょ? もうした?」
 ウキウキした表情で顔を覗き込んでくる叔母の顔は、好奇心で輝いている。
 弓子は四十を過ぎているのだが、昔から姪っ子の恋愛沙汰に興味津々なのだ。恋多き家系に生まれたはずなのに、彩羽が一族の中で若干浮いているのを面白がっている節がある。
「するわけないでしょ……」
 彩羽がはぁ、とため息をつくと、弓子は信じられないと言わんばかりに目を見開き、ぷるぷると体を震わせた。
「ええ~っ、なんでぇ!? 新しい恋をするチャンスじゃないのぉ~! 失恋には新しい男よっ、それしかないのよっ!」
「し、失恋とかそんなはっきり、言わないでもらっていい!?」
 改めて旅行の目的を突き付けられて、彩羽の耳は真っ赤に染まった。
 だが弓子は引き下がらない。真剣な表情で言葉を続ける。
「でも失恋旅行でニューヨークに来たんでしょ? 彼氏に振られたからって発作的に会社まで辞めて、いきなりうちに来たんじゃない」
「振られたんじゃないです、私が振ったんです~」
 負け惜しみっぽいイントネーションを感じ取ったのか、
「おかしいわね。振ったほうが会社辞めるなんて」
「くうっ……」
 弓子の素直な疑問が、グサグサと彩羽の柔らかいハートに突き刺さる。
「だ……だってムカついたんだもん! 同じ空気を吸うのも嫌になって!」
 彩羽はクワッと目を見開いてソファーから立ち上がると、ふんふんと鼻息荒くキッチンカウンターへと向かった。
「ムカついたって……」
 そこには苦笑しながらコーヒーを淹(い)れている、弓子の夫の姿があった。
「和彦(かずひこ)さん、笑わないでください。ほんと、私の元カレ最悪なんですから……」
 彩羽は唇を尖らせマグカップにコーヒーを注いでもらいながら、力いっぱいため息をつく。
「三年も付き合ったのに……入社一年目の女の子に乗り換えたんですよ。こっちはそろそろ結婚も視野にって思ってたのに」
「それはひどいね」
 和彦の穏やかな同意に、彩羽はがっくりと肩を落とした。
「ですよね~。はぁ……私ってなんでいつもこうなんだろう」
 口に出すと、今でも胸がぎゅうっと締め付けられて苦しくなる。
 それはたった数週間前の出来事だった。
 金曜日、いつものように仕事を終えた彩羽の部屋にやってきた恋人は、彩羽が作った食事をペロリと平らげた後、
「ほかに好きな人ができたから別れてほしい」
 と言い放ったのである。
 一瞬、何を言われたかわからず、ぽかんと口を開ける彩羽の前で、彼はつらつらと、
「お前、仕事が忙しいってばっかりで、全然俺に構わなかっただろ? そういう時にさ、妹みたいに思っていた後輩に頼られて……いや、ほんと、女だとは思ってなかったんだ。だから驚いたんだけど、俺のこと好きだって言う彼女見てたら、ほだされちゃってさ。そういう関係になってしまって。頼られたら見捨てられない俺の難しい立場、わかるよな?」
 なぜかかっこよさげに目を細められて、その瞬間、彩羽は百年の恋も冷めてしまった。
「なにかっこつけてるの。妹とセックスはしないでしょ!」
 そして彩羽は可及的速(すみ)やかに恋人を部屋から追い出し、彼の私物をまとめて着払いで送り、職場もさっさと辞めて、ひとりで住んでいた部屋を引き払い実家に戻ったというわけだ。
 強気に振る舞ったとはいえ、傷ついていないわけではない。
 少なくとも第一志望で入社した、大手不動産会社を辞めるくらい、落ち込んでいた。
 そして彩羽はいてもたってもいられなくなり、そのままの勢いで、大学の卒業旅行以来、一度も海外に出たことがなかったのに、ニューヨーク行きの飛行機に飛び乗ったのである。
(本当に、こんなの私らしくない……)
 彩羽は昔から、恋愛体質で奔放な母や兄を見て育ち、自分はこうなるまいと思って生きていた。他人に人生を握らせるのではなく、自分の面倒は自分でみるのだと決意し、ひたすら勉学に励んできた。なんのとりえもない自分でも、努力でなんとかできるのが『勉強』だったからだ。
 とはいえ、まったく恋愛をしてこなかったわけではない。
 母が選ぶような男だったり、兄のような男を選ばなければいいのだと、いかにも真面目そうな、実直そうなタイプを選んできたつもりだ。
 それが安定した幸せを手に入れられる、唯一の手段だと思っていた。
 それでもうまくいかない。過去の男たちには、浮気もされたし、借りたお金も返さないし、暴力を振るう男もいた。そのたびに彩羽は深く傷つき、落ち込んできた。
 なにも考えていないように見える母や兄のほうが、よっぽど幸せそうに見える。
 結局、自分は不器用なのだろう。うまくやれているつもりでも、そうではないのだ。
『彩羽ちゃんは頑張りすぎなんだよ。たまにはゆっくりしておいで』
 と、母と兄は笑って見送ってくれたが、素直に喜べなかった。
(私、強がってるのがバレバレなんだろうな)
 弓子だって、その夫である和彦だって、なんだかんだと彩羽のことを気遣ってくれている。
 早く元気にならなくちゃと思うが、なかなかそれも難しかった。
「だからね、そこで新しい恋だって言ってるのよ~。彩羽はこんなに美人さんなんだから、もったいないわ」
「美人って……身内の欲目だから」
 そんなお世辞を本当の美人に言われると、むなしいばかりだ。
「そんなことないわよっ。さらっさらつやつやの黒髪に、お豆腐みたいに真っ白でなめらかな肌……柴犬みたいなお目目に、ちっちゃくてかわいい唇……! そう、日本人形みたいでかわいいわよっ!」
 弓子がプンスカしながら近づいてきて、そのまま夫の和彦にもたれかかる。
「ね、和彦。私の自慢の姪っ子は美人よねっ?」
「うん。おまけに働き者で努力家だ。彩羽さんはとても素敵な女性だよ」
 そしてふたりはニコニコと彩羽に向かって微笑んだ。
 からかっているのではなくたぶん本気でそう思っている、そんな雰囲気が伝わってくる。
(日本人形……お豆腐……)
 幼い頃、なりたかった自分は、どちらかというと弓子や母、兄と同じような西洋人形だ。
 大輪の薔薇(ばら)のように華やかで、思わず誰もが見とれてしまうような、そんな魅力が欲しかった。ないものねだりと言われようとそれは変わらない。
(まぁ、私はお父さん似だから、仕方ないんだけど……)
 彩羽ははぁ、とため息をつく。
 母は二度の結婚と離婚を繰り返し、現在は独身だ。彩羽は二番目の夫の娘で、兄は最初の夫の息子である。誕生日から逆算すると、なんとなくかぶっているのでは? と思わなくもないが、当時の民法では、女性は離婚して半年しないと再婚できなかったのだ。とはいえ、離婚した今でも全員と交流があり、歴代の父親も一堂に会して食事もする。
 彩羽の実の父は国家公務員で、母や兄からは『実直なところは父親似』と言われてもいた。
「お豆腐は褒めてないんで」
「ええ~!」
 不満げに軽く頬を膨らませる弓子だが、これ以上言っても仕方ないと思ったのか、軽く肩をすくめる。
「でもまぁ、時間が解決してくれるって言うけど、そんないつまでもちんたら傷ついていられないわよ。失恋には新しい恋よっ」
 弓子はそう言って、隣の和彦を色っぽい眼差しで見上げる。
「私もそうだったしね?」
「そうだねぇ。君は離婚したばかりでとても傷ついていた。ぼーっとしている僕は、あっという間に篭絡(ろうらく)されてしまったよ」
「あらやだー!」
 弓子はキャッと頬を染めて、両手で頬を挟み込んだ。
「はいはい、ごちそうさまです……」
 叔母夫婦のいちゃいちゃを見て、彩羽はがっくりと肩を落とす。
 和彦は弓子の二番目の夫で、五つほど年下のグラフィックデザイナーだ。落ち着いた芸術家のようなタイプで、おっとりした雰囲気のいい人でもある。
 彼の言うとおり、三年前、弓子は二番目の夫と離婚した直後に店の客である和彦と出会い、そこから熱烈な恋に落ちて結婚したのだ。
「でも、堂島くんと恋愛なんか無理だよ」
 彩羽はカウンターキッチンの椅子に腰を下ろす。
「どうして?」
 弓子が不思議そうに首をかしげた。
「彼、天は二物を与えずどころか、三物も四物も持ってるの。当然めちゃくちゃモテるし、付き合ったって、うまくいくはずないじゃない」
「あらあら……もったいない」
「もったいなくないです。それに……」
 堂島千秋は――。
 ふと、彩羽の脳裏に大学生時代の千秋の姿が浮かぶ。
 彼はいつだって、光の中心のように輝いていた。世界の中心だった。
 そしてその眩(まぶ)しさが、彩羽は苦手で――羨ましくて。
 もしかしたら憎んですらいたのではないだろうか。
 今思えば、半分は八つ当たりなのだが。
「彼は、なに?」
 弓子が不思議そうに首をかしげる。
「ううん……なんでもない」
 彩羽はニコッと笑うと、弓子が持っていた名刺をサッと取り上げたのだった。

 ニューヨークの冬は極寒だが、集合住宅の中はとても暖かい。外気に合わせて建物の中の温度が決められているらしく、建物全体が二十度以上に暖められている。外が雪景色でも、家の中は半袖Tシャツで過ごせるくらい、暖かい。
「おやすみなさい」
 彩羽は先に眠る叔母夫婦に挨拶をしてからシャワーを浴び、ベッドに潜り込んでゆっくりと目を閉じる。遮音性が高いアパートメントだが、窓に面した客間のベッドにじっと横たわっていると、窓の外から雨の音が聞こえてくる。
(なんだか頭がふわふわして、まだ夢を見ているみたい……)
 鼻先に千秋の使っている香水の香りが蘇(よみがえ)る。そんなはずはないのに、手を伸ばせば彼がそこにいる気がした。
 とにかく今日の体験は、ニューヨークに来てから一番のショックを、彩羽に与えたと言っても過言ではなかった。まだ胸がドキドキしているし、うまく息が吸えなくて苦しくなる。意識して深呼吸しないと寝るのも難しい。
 ニューヨークに来てもう十日が過ぎている。
 アルバイトをする以外の時間は、美術館に行ったり、セントラルパークを散歩したり、弓子に付き合ってショッピングをしたりと、それなりにニューヨークを満喫したのだが、やはり気分は晴れなかった。
 弓子からは『ずっとここにいてくれていい』と言われたが、さすがにいつまでも甘えてはいられない。今日の『堂島千秋との再会』は、そろそろ帰国しようかな、と思っていた矢先のことだったのだ。
(学生の頃もすごかったけど、また、ものすごくキラキラしてたな……)
 当たり前のように、瞼(まぶた)の裏に彼の姿が浮かぶ。
 オーダーメイドに違いない、深い紺の三つ揃いのスーツで長い手足を包んだ千秋は、百八十を優に超える長身なのに、粗暴さが微(み)塵(じん)もない、優雅なたたずまいをしていた。
 名刺を差し出す仕草ですら優美で、おそらく彼を見て素敵だと思わない女性はほぼいないのではないだろうか。
 艶のある黒髪は少しだけ波打ち、鼻筋は細く高く、まっすぐで形がいい。唇は引き結ぶと頑固そうに見えなくもないが、口角はやんわりと持ち上がっていて、体は大きいのに人に警戒心を抱かせない、そういう雰囲気がある。
 そしてなにより印象的なのは彼の目だ。
 現代最高の彫刻家が、丹精込めて鑿(のみ)を入れたような切れ長の奥二重をしていて、瞳はまるで碁石のように真っ黒で大きい。
 堂島千秋自身は、軽い口調やノリの良さも相まって、からりと陽気な雰囲気があるのに、彼の目はいつもどこか物憂げなのだ。それがまたアンニュイな魅力として女心をくすぐると、昔から評判だった。
『魔性の男』とも呼ばれていたはずだ。
(そこに大人の色気なんて足されてしまったら、もう普通の女は勝てないわよね……)
 彼はたぶん生まれ落ちた時から、ずっと特別な存在だ。きっとこれからもそうなのだろう。
 世界は彼を中心に回っていくし、自分を含めた平凡な人間は、つい彼を目で追ってしまう。たとえ、彼が振り向くことがなかったとしても――。
「ムカつく……」
 これは堂島千秋にムカついているのではない。六年ぶりに再会した彼に、昔のように振る舞えなかった自分に腹が立っているのだ。
「――はぁ」
 彩羽はむくっと起き上がると、枕元で充電していたスマホと名刺を手に取り、ベッドの上でスウェットの膝を抱えた。
 名刺とスマホを交互に見つめる。緊張のあまり心臓がドキドキと鼓動を打ち始めて、息苦しくなる。
(かけてみようか……)
 千秋は『何時でもいいから、待ってる』と言っていた。彼がそう言うのなら、きっと本当に待っている。そんな気がする。
 弓子には連絡しないと言ったが、本当は自分がやるべきことはわかっていた。
 千秋と話すべきことが自分にはある。
(六年前は諦めてしまったけど、こうやって遠いニューヨークで会えたんだもの。これは二度とないチャンスかもしれない……)
 彼は北米堂島商事のエグゼクティヴ・ディレクターで、ニューヨーク在住だ。この機会を逃せば、直接話をすることなどもう二度とないだろう。
 彩羽はこの六年間、ずっと喉に突き刺さった小骨のように、あの夜のことを後悔し続けてきた。失恋のついでというわけではないが、清算するなら今しかない。
「よしっ」
 思い切って名刺に書かれた千秋の携帯番号をタップする。プププ……と呼び出し音が鳴り始めたその瞬間――。
『Hello』
 と、耳元で甘く涼しげなテノールが響いた。
 千秋だ。六年前と変わらない。この声を忘れるはずがない。
「っ……」
 電話をかけたのは自分なのに、一瞬、息が止まりそうになる。
(どうしよう……頭が真っ白だ)
 喉がぎゅうっと締め付けられる。
『――もしかして彩羽?』
 数秒の間があって、こちらの様子を尋ねる言葉は、日本語だった。そこでようやく彩羽はハッと我に返る。
「うん……ごめんね、こんな夜遅くに」
 なにげなく壁にかかっている時計を見ると、夜の十一時を過ぎていた。
『何時でもいいって言ったのは俺だからな。かかってくるだろうと思って待ってたし』
 電話の向こうで椅子から立ち上がるような、衣(きぬ)擦(ず)れの音がする。
「自分の家にいるの?」
『いや、ホテル。日本式の接待を終えてそのまま、な』
「そう……」
 やはりあの場は接待だったらしい。少し会話をしたことで、彩羽の気持ちも少しだけ軽くなっていた。
(よし、言え、言うんだ! 天沢彩羽、勇気を出せ!)
 彩羽は己を叱(しっ)咤(た)激励しながら、ぎゅうっとスマホを握り締める。
「あのね、堂島くん。私っ……」
『あの店でいつから働いてたんだ?』
 だが千秋がさらりと質問を挟んでくる。
「えっ? ああ……えっと……『とみ田』は叔母さんのお店なの。十日前にニューヨークに来て、それで滞在費代わりに働いてるだけよ」
『身内? マジか……。会社でたまに使ってたんだけど、全然知らなかった』
 電話の向こうで千秋が驚く顔が目に浮かんだ。
「そんなの仕方ないよ。おばさん――弓子さんだって、堂島くんが私の同級生だったこと知らなかったんだから」
『そうか。でもお前がニューヨークに住んでるなんて思わなかったな。すごい偶然だ』
 電話の向こうの声が弾んでいる。こんな自分でも会えて嬉しいと思ってくれているのだろうか。そう思うと少しだけ気が楽になる。
「あ、違うよ。もう私、日本に帰るの。遊びに来てただけだから」
『えっ……』
「だから――すごくびっくりしたけど、帰る前に、あそこで堂島くんに会えてよかった。私、ずっと謝らなくちゃって思ってたから……六年前のこと」
 口に出した瞬間、自分の声が少しだけ震えた気がした。
 ふたりの間に沈黙が流れる。電話だからどんな顔をしているかわからない。だがその沈黙を破ったのは千秋のほうだった。
『――彩羽、今から会えないか』
 彼の声は少し強張っていた。
「え?」
『俺、まだアルコールが残ってるから……とりあえず迎えの車をやる。そこ、どこ?』
「あの」
『俺に謝りたいって言うんなら、顔を見て話したい』


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