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将軍閣下は不治の病(自称)

戸瀬つぐみ / 著
逆月酒乱 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-459-7
サイズ 四六判
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/01/14

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内容紹介

君は未来永劫私の唯一の妻だ
異世界転移してすぐ、マリカは戦勝記念の凱旋パレードで、救国の英雄・イライアス将軍がその逞しさで周囲を魅了する姿を目にする。しかし次の瞬間、彼は倒れ落馬して…。
――それから三年。女王陛下の命により、パレード以後表に出ないイライアスの元に嫁ぐことになったマリカは、かつての屈強さが見る影もなく、痩せて病人のように変わり果てた彼の姿に驚く。政略結婚とはいえ、良き夫婦になろうとあれこれ奮闘するマリカだったが…。「私が不治の病だと言ったら、不治の病なのだ」旦那様には何か秘密があるようです!?
電子書籍版の内容に加え、紙書籍限定大量書き下ろしを収録!!
さらに初版は限定SSペーパー入り!!

人物紹介

マリカ

事故による異世界転移後、王宮勤めをしていたが、女王の命で病気のイライアス侯爵の元へ嫁ぐことになる。

イライアス

かつて救国の英雄として称えられた将軍だが、現在は重篤な病のため領地に引きこもっていると噂。

立ち読み

 1 女王陛下の仰せのままに

 雲ひとつない澄んだ青い空は、もう戻ることができないだろう故郷と同じ色をしていた。
 はじめて訪れたその場所の華やかさと活気に、茉莉香は驚く。
 王宮へ向かう一番賑やかな通りは、人で溢れかえっている。花売りが売る花には、一本ずつリボンが付けられ、人々は好きな色の花を買い、大切そうに持って群衆に紛れていった。
 通りを挟んで向かい合う家と家の二階の窓は、旗の付いた紐で結ばれ、街全体が飾り付けられている。視界に入る人すべてが、茉莉香の目にはまばゆく映った。眺めているだけで、なんだか心が弾んでくる。
「今日は、お祭りがあるのでしょうか?」
 興味が湧き、一緒にいた女性に尋ねる。彼女とは出会ってからそれほど時間がたっておらず、特別親しい関係というわけではない。これから王宮で侍女として働く茉莉香のために、この王都まで案内してくれた付き添い人だった。
 離れた場所から旅をしてきた二人だが、これまではあまり余計なおしゃべりをしてこなかった。それは、ここにたどり着くまでに起きた様々な出来事から、茉莉香が塞ぎ込んでしまっていたせいだ。
 でも今、茉莉香はこの世界も明るい色で溢れていることを知り、久しぶりに空を見上げた。内側にばかり向いていた思考が、本来の好奇心を少しずつ取り戻していく。
 その心の変化が相手にも伝わったのか、付き添い人はにっこりと微笑んだ。
「いいえ、パレードですよ。戦勝記念の凱旋パレードです。せっかくだから見物していきましょうか。先の戦争はあなたにも無関係ではなかったのですし、一緒にお祝いをしましょう」
「いいのですか?」
 ただの群衆の一人だったとしても、国の大きな行事に参加することが許された。もともとよそ者だった茉莉香にとっては、嬉しいことだ。
 付き添い人は、茉莉香に花を買ってくれた。そして、人垣のできているところへ移動する。
「これから軍の隊列が通ります。その時にこの花を投げてお祝いするのですよ」
 今からここを、戦争で活躍した軍の兵達が通るのだという。茉莉香は背伸びをしてみるが、ただ集まった人達の背中と頭が見えるだけだった。これではパレードがはじまっても何も見えない。何度か背伸びをしていると、弾みでかぶっていたフードが脱げてしまった。肩で揃えられた黒髪が、風で揺れる。あわててかぶり直そうとしたが、その前に近くにいた街の女性に声をかけられた。
「お嬢ちゃん、見ない顔立ちだねえ、もしかして違う世界から来たっていう『渡り鳥』かい?」
 興味津々のその態度に、茉莉香は気圧される。
「えっ……ええ。そうです」
「まあ、珍しい」
 自分のように異世界から渡ってきた人間でも、ここではそれを理由に忌避されることはないと聞いている。しかしこの国の女性は皆、髪が長い。手入れされた長い髪が、美しさと豊かさの象徴なのだ。だから、もともと短く揃えていた茉莉香は目立たぬよう、旅の間は髪をフードで隠していた。
 思わず構えてしまったが、街の女性はただ茉莉香の髪を珍しく感じ、気安く尋ねただけだったらしい。とても親切な彼女は、自身が持っていた砂糖菓子を分け与えてくれる。
「小さいのに大変だったね。ほら、これあげる。子供は、もっと前で見るといいよ」
「でも……」
 頷くことができなかったのは、前に行きたくても行けない状況と、女性が、茉莉香のことを子供と勘違いしていることに気付いていたからだ。
 しかし女性は遠慮はいらないと言い、「小さい子を前に入れてやって」と声を上げていた。その時前方にいた人達が、彼女の知り合いだったのかはわからない。それでも確実に声は届き、反応した人達が、嫌な顔をせずに茉莉香と付き添い人が入り込める隙間を作ってくれる。
「ありがとうございます」
 茉莉香は豪胆な街の女性と、譲ってくれた人達に礼を言う。この世界にも優しい人達がいる。茉莉香がここに来た時に助けてくれた人、そして今いる付き添い人の女性、それに親切な街の人。今までいろいろあったけれど、自分は恵まれているのだと実感した。
 しばらく最前列で待っていると、曲がり角のあたりで歓声が上がった。すぐにその方角から隊列が見えてくる。
 軍の兵は、馬に乗って現れた。馬はよく訓練されていて、足並みがぴったりと揃っている。隊列の中には、名の知れた軍人もたくさんいるらしく、主に若い女性達が呼びかけながら祝福の花を投げていた。花が舞う情景はとても美しく、特別な時間に立ち会えたのだと茉莉香に教えてくれる。
「すごい!」
 興奮の声を上げると、付き添い人も頷く。
「そうでしょう。イライアス・クロウ将軍閣下の部隊ですよ。今回の戦いは将軍閣下の活躍がなければ、簡単に収められなかったでしょう。彼は救国の英雄です。そして、あなたを保護してくれた兵達の指揮官でもあります。クロウ将軍と部隊の皆さんに感謝なさいな」
「はい」
「閣下は、この戦争中にご家族を亡くされているのです。それでも最後まで戦い抜いて、女王陛下に勝利を捧げられたのです」
「ご家族を……」
 なぜ付き添い人がそんな話をしたのか。それは、茉莉香も最近、家族との悲しい別れを経験したからだ。
「ほら、ごらんなさい。もうすぐクロウ将軍がやってきますよ」
 茉莉香達の前に、一際大きな黒馬がやってきた。その黒馬には、たくさんの勲章の付いた軍服に、一人だけ立派なマントを付けた男性が乗っていた。将軍という高い地位から、髭をはやした年嵩の男性を想像していたが、まったく違う。三十歳に届いているだろうか、亜麻色の髪をきらきらと輝かせた、精悍な顔立ちの男性が、イライアス・クロウ将軍の姿だ。
 生まれながらの気品と、鍛え抜かれた逞しい身体。惚れ惚れするような端正な顔立ちに、茉莉香の胸は高鳴った。
「あれが、イライアス・クロウ将軍……」
 忘れない。命の恩人の名を心に刻む。
 とても強い人なのだろう。見た目だけでなく、きっと心も強い人だ。でなければ、家族を亡くしてあんなふうにしっかりと立ってはいられない。英雄と並べて考えるのは不謹慎かもしれないが、自分も強くならなければと茉莉香は素直に思った。
 この日一番の喝采と、色とりどりの花が舞う。茉莉香は鼓動を高鳴らせながら、周りの人達に倣って持っていた花を投げた。――その、次の瞬間のことだった。
 将軍の顔が、急に険しくなる。そして、身体がぐらりと傾いだ。そのままクロウ将軍は、石畳の地面に落下してしまう。
(何が起きたの?)
 歓声が、悲鳴に変わる。何が起こったのかわからない。人々は混乱し、敵襲かと逃げ惑う者までいる。
 茉莉香は今すぐ飛び出して、駆けよりたい衝動にかられた。実際に足が一歩踏み出していたが、怒声のような声に阻まれる。
「邪魔だ。一般人は下がりなさい!」
 茉莉香の行動を止めたのは、警備をしていた兵士だった。兵士の言う通り、茉莉香が行っても迷惑にしかならない。自分は医師でも看護師でもないのだから。なのに、あの場所に行かなければならない、という焦る気持ちがなかなか消えてくれない。
 将軍は、あっという間に部下の兵士達に囲まれていく。見物人はすぐに解散するようにと、強い命令が下ってしまえば、茉莉香達はそこから立ち去るしかなかった。
 あとになって、倒れたクロウ将軍が無事だったことを知るが、この日はずっと震えが止まらなかった。

 この異世界に迷い込んでしまった茉莉香の、新しい生活のはじまりの日。くすんで見えていた世界が、鮮やかな色を取り戻した日に起きた衝撃的な光景は、イライアス・クロウという人物の名と共に、ずっと心に焼き付いている。

   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 それは王宮勤めをするようになって三年、はじめて寝坊してしまった日の午後。気まぐれな女王陛下が、突然マリカに声をかけてきた。
「そこの小鳥。渡り鳥の娘、名はなんと言ったかしら? こちらにいらっしゃい」
 予期せぬ出来事に、マリカは心の中で冷や汗をかく。ただの侍女が、国主から直接声をかけられることは異常事態だ。当然のことながら名前すら知らない様子だが、ここで渡り鳥の娘とは確かにマリカのことを指している。
 女王陛下はとても恐ろしい人だ。昨日までのお気に入りが、翌日には王宮から消えていたという話もよく聞く。違う世界からここに迷い込んでしまい身寄りのないマリカが、もし女王の機嫌を損ねてしまったら、職も住む場所も失って路頭に迷うだろう。
 朝寝坊の件なら、午前中に先輩にこってり絞られている。まさか、女王とほぼ接触することがない侍女一人の寝坊についてまで、女王自ら叱責なさるのだろうか。朝、急いでいたせいで、ようやく伸びた髪が今日に限ってきっちり整えられていないことも、不安要素だ。
 とにかく声がかかったからには、緊張と恐れで震えそうになる足を叱咤して、女王の御前に駆けつけなければならなかった。
「マリカと申します。女王陛下」
 焦る内心を隠し、優雅に静かに、そして深々とお辞儀をして女王の言葉を待つ。
「いいのよ、楽にして顔を上げなさいな。昨日、庭で遊んでいた迷子の子供を助けたそうね。私はただ、そのお礼をしたいだけなの」
 あっ、とマリカは顔を上げた。
「はい。偶然泣き声を聞きまして。でも、私はただ保護者を探しながら少しお相手をさせていただいただけです」
 その子供は五歳くらいで、いかにも身分の高そうな身なりの男の子だった。一緒に来たはずの使用人とはぐれ、転んで泣いていたところにマリカが出くわして、声をかけたのだ。
 転んだせいで膝が痛いと言っていたので、よくあるおまじないをしたあと、彼の使用人を探す手伝いをした。薔薇の垣根より高い位置に顔が出るよう肩車をしてあげたら、大喜びで元気になったので、大事がなく安心した。
 どうやら朝の遅刻までは耳に届いていないらしい。女王を怒らせたわけではないとわかり、マリカはほっと胸を撫で下ろす。

 マリカは三年前、二十一世紀の日本からこの世界に迷い込んだ。本当の名は漢字で「茉莉香」と書く。
 異世界トリップと言われる現象は、この国では稀に起こることらしい。マリカ達は、世界を渡ってきた者という意味で「渡り鳥」と呼ばれている。
 渡り鳥はこの地で何かしらの才能を発揮することが多いため、保護され大切にされる。才能とは、科学などのまだこの世界にない知識だけでなく、もとの世界にはなかった魔法のような異能を指すこともある。
 一緒にこの世界にやってきた妹は、癒しの力があるとされ神殿に預けられている。マリカも判定を受けたが、特別な才能は発見されなかった。そのため妹とは離ればなれの生活だ。
 無能として捨てられてもおかしくはなかったが、一般人としてそこそこ素養があると評価され、こうして王宮で侍女として働かせてもらっている。
 普段は目立たぬよう淑やかにしているが、もともと陸上競技をやっていたので、他の侍女達より少しばかり逞しい。昨日、久々に小さな子供と出会ったことで、そのありあまる逞しさをつい発揮してしまった。そんなマリカに女王は言う。
「あの子供は私の遠縁にあたるのだけれど、本人も両親もあなたに感謝していたわ。何か、褒美をあげないといけないわね」
「めっそうもございません。陛下から直接お言葉をいただけただけで身に余る光栄です」
 マリカがそう言うと、女王は持っていた扇をぴしゃりと閉じた。
「気に入ったわ、マリカ。決めました。私からの褒美をぜひ受け取ってちょうだい。……あなた、独身ね?」
「はい」
「ちなみに、生娘かしら?」
「……は? はい」
「渡り鳥の中には、奔放な環境で育った者もいると聞くけれど?」
「私の生まれた国でも婚前交渉は禁じられてはいませんでしたが、そういう機会はありませんでした」
「でも、知識はあるのね?」
「はい。本などで、いつでも知ることができる環境にありました」
 女王の考えがわからないまま、マリカは次々飛んでくる質問に答えていく。素直に答えていいのだろうかとハラハラしていたが、無闇に質問の意味を尋ねることも、嘘をつくこともできない。幸い機嫌を損ねるような返事はしていないらしく、女王は満足気な表情を浮かべた。
「完璧だわ! よろしい。では、あなたに夫を与えます」
「オット……でございますか?」
 オット、それは美味しいのだろうか、それとも高いものだろうか、売ればいくらになるだろう。「褒美」という言葉はとても魅力的だ。つい、期待に胸を膨らませてしまう。
 そんなマリカの様子から、いまいち理解できていないことが伝わったのか、女王は少しだけ不機嫌になってきっぱりと言った。
「夫、よ。あなた、結婚しなさいな。今すぐに」
「……夫、でございますか」
 ようやく言葉の意味だけはわかった。それは食べ物でも宝石でもない。人生の伴侶、結婚相手という意味だ。でも、女王がなぜそんなことを言い出したのかわからない。たった今、名前を確認した程度の認識しかない者に、一体どうしたというのだろう。
 話についていけないが、それをこれ以上態度に出すわけにもいかず、理解したことを表すためにこくりと頷いた。
「相手はシャッフベリー侯爵。……いえ、イライアス・クロウ将軍と言ったほうが、きっとわかりやすいでしょうね。救国の英雄の名は、渡り鳥でも知っているでしょう?」
 その名を聞いて、どきりと心臓が音を立てた。忘れもしない、三年前、ただ遠くから眺めることしかできなかった、あの人のことだ。
「……ちなみに、あなたは今いくつになるのかしら?」
「二十歳になります。陛下」
「イライアスは三十二歳よ。お似合いだわ」
 御年五十歳の女王陛下は、少女のようにかわいらしく手を合わせて喜んだ。とってつけたようにお似合いだと言うが、十二歳という年齢差は、一般的には夫婦として、驚くほどではないにしても離れているほうだと思う。おそらくこの国でも。……しかし女王陛下が白と言えば、黒でも白くなるのが世の理だ。
(でも、クロウ将軍は……)
 すぐに思い出せる。あの凱旋パレードの折りに垣間見た雄々しい姿を。
 あれは、この世界にやってきた年。マリカが最初に迷い込んだ場所は、国境の戦場だった。危ないところを保護されてから、施設で能力の判定を受けたあと、侍女になるべく王都にやってきていた。そこで偶然パレードに遭遇して、見物させてもらうことができたのだ。でも……。
「恐れながら女王陛下、将軍閣下は数年前からお加減が悪いと聞き及んでおります」
 クロウ将軍が倒れたのは、パレードの馬車がマリカが立っていた場所を通り過ぎた直後だ。目の前で倒れた将軍の姿をはっきり覚えている。それからマリカはずっと彼がどうなったのか気になっていた。王宮に勤めていれば、自然と情報が耳に入ってくるもの。将軍は、命こそ無事だったが一度も公の場に姿を見せていない。重篤な病にかかっているという噂だった。もし今も病が癒えていないのであれば、結婚どころではないはずだ。
 マリカがおそるおそる将軍の体調について口にすると、女王はもう一度扇を開いて、けだるそうにゆっくり扇ぎはじめた。
「心配はいらないわ。まだ生きているそうよ」
「まだ!?」
 穏やかではない。まったく穏やかではない。
「夫亡きあとは遺産をたくさんもらえるように、しっかり婚前契約を結んでおきましょうね。私の署名付きです。文句は言わせなくてよ!」
 高笑いする女王は、まさに悪の親玉。突然の話に、マリカはかなり混乱した。だが、断れば自分に未来はないということだけは理解していた。
「……なぜ、私なのでしょうか?」
 クロウ将軍は中央軍から退いているが、同じ頃シャッフベリー侯爵家の当主となっている。由緒正しい侯爵家と、身寄りがない上に渡り鳥としてなんの才能も持っていないマリカでは、釣り合いがとれない。
「生意気なイライアスにね、死ぬ前に花嫁を迎えて世継ぎをもうけなさいと以前から命じているのだけれど、理想の女性像があるから妥協してまで結婚しないとゴネているのよ。で、このような女性が実在したら結婚してもいいと……」
 女王は控えていた側近から何かを受け取ると、「こんなものを送り付けてきたのよ」と憤りながらマリカに見せてきた。

   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 
 見目は麗しく、すみれのように
 気立てよく学もある、心根の優しい良家の娘が望ましい
 人に囲まれて暮らすのが耐えがたく使用人が少ないので
 自分のことは自分でできることが大前提
 領地は田舎ゆえ、カエルや蛇、蜘蛛に動じることない強い精神の持ち主を欲す
 しかし一番の条件は、病床の私を支え守れるだけの逞しさがあること

   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 最初のふたつだけなら、都にいる貴族令嬢の中に、候補になる娘はたくさんいるだろう。だがその「良家の娘」と言える女性で、あとの三つの条件も満たせる者など、この国には絶対にいない。
「あなたはどう思うかしら? この条件」
「このような女性、実在するとは思えません」
 深窓の令嬢に逞しさを要求する。相反するような条件を求めていることに、女性として怒りすら湧きそうになる。しかし噂で聞く女王と将軍の関係から察するに、結婚から逃れるために、わざと無理難題な要望を出したのだろうとも想像できるのだが。
 女王は、マリカの返事に満足して頷くと、ため息を吐きながら言った。
「私も無理だと思っていたのよ。……あなたに出会う前はね」
 まったく笑っていない瞳で笑いかける女王の言葉は、まるでマリカがその「理想の女性」であるかのようだ。おかしい。
「私は良家の娘ではありませんし、すみれのように可憐でもありません。蛇は大丈夫ですが、蜘蛛が苦手で……」
 とても条件を満たせない。顔は平凡だと思うが、典型的な日本人顔なので国の平均で考えると全体的に何かが足りない。ここでは親もなく孤児のようなものなので、良家の娘でもない。マリカは貴族令嬢と違い、最初のふたつの条件すら満たせないのだ。
「身分などいくらでも与えてあげられるわ。容姿は、私がすみれと言えばすみれなの。もっと自信を持ちなさいな。蜘蛛はあなたなら克服できてよ。克服しなさい。虫は友達、怖くない。そうでしょう?」
「……女王陛下の仰せのままに」
 マリカがどうにかお辞儀をすると、女王は微笑む。
「ものわかりのよい子は好きよ。マリカ、これからは文通相手として仲良くしましょうね。そして、早く子を産みなさい。大丈夫、イライアスが万が一にも早世してしまったら、私が子供の後見人になってあげますからね」
 女王は、言いたいことだけ言って、高笑いしながら立ち去っていった。
 女王陛下と将軍は、とにかく不仲なのだと聞く。そして三代前の王の系譜に連なり、王位継承権を持つクロウ将軍は、女王陛下の後継問題に大きく関わっている。
 これはもしや、政治的な闘争というものに巻き込まれているのではないか。――ただ、他の娘より少しばかり逞しかったせいで。

 マリカは、気持ちの整理と覚悟をする時間も与えられず、「地獄の花嫁修業」を受けたあとに、嫁ぎ先に送り出されることが決まった。
「夢も希望もないわ……」
 花嫁修業が、蜘蛛との触れあいになる人間は、異世界広しといえどもなかなかいないだろう。それに「あなたならこれくらい平気でしょう」と、夜の作法もいろいろと学ばされた。
 保護されたあとにかけてもらったまじないのおかげで、言葉は素早く習得できたのだが、文字ははじめから自力で覚えた。長い文章を読むのにはまだ時間がかかる。そのため他の同僚達と違い、図書館に通うこともなかったし、誰かが持ち込んだ乙女な物語の回し読みにも参加してこなかった。
 はじめて懸命に読解しながら読んだ厚い本が、刺激的な教材だったことにやるせなさを感じる。内容がどうしても理解できず、講師に単語の意味を教えてもらう時の気まずい空気といったらない。
 そして、悩みはもうひとつ。
 救国の英雄の婚姻は、大きな話題になっていて、マリカが教育を受けるために、王宮の中で以前までは出入りしなかった場所を歩くようになると、噂話の標的になってしまうことだ。
「あれが侍女上がりの娘か」
「どうやって女王に取り入ったんだろう」
「奇妙な容姿の娘だな。果たしてあれが将軍に受け入れられるのか」
 今回の婚姻について陰口を叩いているのは、この国で二番目に高貴な人物で、女王のいとこにあたるヒンシェル公爵の一派のようだ。そこからも、女王をとりまく政治的な問題が見え隠れしている。
 だが、マリカはもうすぐここからいなくなる。だから、それほど気にしても仕方ないと自分に言い聞かせるしかない。
 この日も、付き添いの教育係より前に出て、さっさとその場を立ち去ろうとした。しかし、前しか見ていなかったマリカの足は、何かに躓いてしまう。
「危ない!」
 一緒にいた教育係の声が聞こえたが、もう遅かった。マリカは平らだったはずの回廊に突然現れた障害物に引っかかり、その場にどさりと倒れ込む。
 くすくすと、複数の笑い声が聞こえた。近くでドレスの裾が、笑いに合わせて揺れている。
(随分古典的ね!)
 令嬢達に足を引っかけられたのだ。甲高い笑い声に聞き覚えがあった。彼女達は、侍女だったマリカと自分達が同列に扱われることが気に入らないらしい。数日前に、侍女としての用事をわざと言いつけてきたのであしらったことを、根に持っていたのだろう。
 やられたことはそれほど頭にこない。ここは宮殿だ。彼女達は当然の行いをしているつもりなのだろうが、良識ある人間も絶対に見ている。恥をかくのは自分ではないと、冷静に受け止めて立ち上がろうとした。その前に、笑い声が消えて、別のざわめきが起こる。
「――やめぬか。見苦しい」
 決して大きくはない。だが、はっきりと声を上げた人がいた。マリカは転んで膝をついたままの状態で、声の発生もとを探す。
 そこにはとても身分の高そうな白髪の男性が立っていた。
 令嬢達は白髪の男性に一瞥され、恥ずかしそうにその場から立ち去っていく。
 マリカにとっては意外なことだった。彼こそが、マリカに冷たい視線を向けてくる者達のボス、ヒンシェル公爵だったからだ。そしてもう一人。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
 倒れたマリカに、手を差し伸べてくる人がいた。
「あ、ありがとうございます」
 最初に、プラチナブロンドのサラサラとした髪が視界に入ってきたから驚いたが、声をかけてきたのは、若い男性だ。
「お怪我はありませんか?」
 女性と間違えられてもおかしくない中性的な顔立ちと、美しい長い髪を持つその青年は、マリカに手を差し出してくれる。
 彼の手を借りて、マリカは立ち上がった。青年は自分のハンカチを取り出すと、マリカが着ていたドレスに付いたかもしれない汚れを払い落としてくれた。
「ありがとうございます。でも、ドレスは平気です。怪我はありません。丈夫なことが取り柄ですから」
「それならよかった」
 にこっと、彼はマリカに微笑みを見せてくれた。とても紳士的で優しい人のようだ。
 その後、ヒンシェル公爵は、特にマリカに興味は示さず、連れの青年に「さっさと行くぞ」と声をかけて立ち去っていった。
「ヒンシェル公爵閣下と、もう一人はどなただったのかしら?」
「あの方は公爵の甥にあたる人物で、宮廷随一の貴公子……と言えば聞こえはいいですが、マダムキラーの異名を持つアーキス伯爵閣下です。甘い言葉に惑わされ、毒牙にかからぬようくれぐれもご注意を。塩をまきましょう」
 教育係はそんな心配をしたが、それっきりヒンシェル公爵とも、アーキス伯爵とも会うことなく、一ヵ月が過ぎた。
 そうしていよいよ、クロウ将軍の領地、ラナメルに出立することになった。

 たくさんの荷物が積まれた馬車の前で、女官長と教育係の見送りを受ける。
「これだけのものを陛下が揃えてくださったのです。出戻りは許しません」
「は、はい。心得ております」
 持参金や花嫁道具などは、女王がすべて用意してくれた。伯爵家の養女という身分も。涙が出るほどありがたいことに、女王自らの人選で専属の侍女まで付けてくれる好待遇だ。突き返されるような失敗をおかすことは、やはりできない。
 同行する侍女として女官長の脇に控えていたのは、マリカより少し年上と思われる女性だった。
「エリゼと申します」
 エリゼと名乗ったその人は、伏目がちに落としていた視線をすっと上げて、マリカをしっかりと見た。金髪に碧眼、人形のように綺麗な容姿をしている。整いすぎていて、その瞳を恐ろしいとすら感じてしまった。彼女はただ者ではない。そんな気がした。
「エリゼさん、よろしくお願いします」
「私のことはエリゼと呼び捨てに。あなた様のことは婚姻が成立するまではマリカ様、以降は奥様とお呼びいたします」
 エリゼの感情はよく見えない。すぐに打ち解けられそうにはなかった。そしてつい、彼女が一緒にいる意味を考えてしまう。
 ただマリカが役目を果たすように見守るだけの存在とは思えなかった。もっと重要な役目――たとえば将軍に対しての監視の目的があるのかもしれない。どこの誰だかわからない無能の娘と、やたら目つきの鋭い娘……この二人の組み合わせで歓迎されるのだろうか。
 マリカの両親はとても仲がよかった。子供達の前でも、平気でいちゃいちゃする両親を見て育ったものだから、それが当たり前の夫婦のありかただと思っていた。
(でも、私には難しいかもしれないわね……)
 たとえ政略結婚だとしても、冷めた関係になるとは限らない。そうならないように努力はしたい。でも、入り口から拒絶される可能性だってある。自分が望まれない花嫁であることが簡単に想像できるから、心は沈む。
「マリカ、どうしましたか?」
 知らずうつむいていたマリカを咎めるように、女官長が声を発した。
「いえ、妹に伝えられなかったことが心残りで……」
 妹が預けられている神殿は戒律が厳しいらしく、直接会うことができない。たまに神殿から使者がやってきて「巫女様はお健やかにお過ごしです」と伝えられる。マリカも「私も元気です」と伝えるだけの虚しいやりとりをしている。そして、その使者からの報告もここ最近途絶えてしまっていた。
「心配はいりませんよ。巫女殿のことは、女王陛下が直々に気にかけてくださっていますからね。あなたはきっちりお役目を果たしてきなさい。そうすれば妹君だけでなく、すべての渡り鳥が今後も安心して暮らしていけるでしょう。不安があれば、これからはエリゼになんでも聞くのですよ」
 それは事実上の人質ではないか。しかし、この状況から逃れる方法はなく、ただ「はい」と返事をすることしかできなかった。

   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 五日に及ぶ旅の間、エリゼと二人で馬車に揺られ、宿の部屋も同室だった。彼女は余計なおしゃべりをしないから退屈だ。持て余した時間で、マリカは王都で学んできたことと、同僚達から聞いた様々な情報について、つい考えてしまった。
 ラナメルというこれから向かう地のこと。そしてクロウ将軍とその家族に起こった不幸な出来事についてだ。
 ラナメルはとても豊かな土地だ。先代の侯爵も素晴らしい人物であったと聞いている。それだけに、侯爵家の悲劇も有名な話だった。
 それはクロウ将軍がまだ侯爵家の跡取りではなく、中央軍の幹部として名声を得ていた頃の話。ちょうどマリカがこの世界にやってきた時期まで遡る。
 隣国との戦いがはじまると、クロウ将軍は自ら志願し兵を率いて出陣していった。兵力差から不利とされていた戦況は、将軍の活躍によりあっという間に形勢が逆転し、敵の撤退も間近というところまで追い詰めた。
 その頃の王都の新聞は、将軍を称える記事で埋め尽くされていたのだという。ところが、数日後。クロウ将軍の両親と兄が、次々に謎の死を遂げたという衝撃的な記事に変わってしまった。
 侯爵夫妻は事故死、兄は病死ということになっているが、事件に巻き込まれた可能性を多くの人が考えただろう。
 最初に囁かれたのは、敵国の陰謀説だった。家族の不幸により、将軍が戦場から消えることを狙ったのではないかと。しかし、すでに戦力をほとんど失っていた敵国に、そんな余裕があったのかという疑問の声を上げる者もいた。そのため、国内の闘争説も取りざたされた。さすがに大声で唱える者はいなかったが、女王や他の有力貴族が手を回したのだと、まことしやかに囁かれた。
 そしてもうひとつ、イライアス・クロウ将軍自身が爵位欲しさに仕組んだという説も一時期浮上した。しかし、戦に勝ち帰還した将軍までもが倒れたため、この疑惑はすぐに消えたのだという。
 凱旋パレードで倒れたあとの公式な発表は、戦地で重篤な病にかかっていたというものだ。当分の間領地で休養することが伝えられたが、病ではなく、王都に来てから毒を盛られ、生死の境を彷徨ったとも言われている。
 そして毒にしろ病にしろ重い後遺症が残り、表には二度と出てくることができないという噂は、この三年一度も公の場に姿を見せなかったことにより、ほぼ事実と認識されていた。
 三年前……あの時、遠巻きにただ眺めるだけだった人。純粋な憧憬の念を抱いたそのままのクロウ将軍に会えるとは思っていないが、せめて病魔か毒を打ち負かして、少しでも健康を取り戻してくれているといい。
 マリカは将軍にとって意に添わない相手だろう。好きになってくれなくても、嫌わないで欲しいと、そんなことを考えた。
 他の渡り鳥は、きっとそれぞれ宿命のようなものがあってこの世界に呼ばれたはずだ。でもマリカだけはたぶん違う。自分が無能でなかったら、妹のそばにいることができたのに。脳裏に焼き付いているのは、別れ際の妹の泣き顔だ。妹と離ればなれになってからのマリカは、自分の居場所を探している。

   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 無事、シャッフベリー侯爵邸に到着したマリカを待っていたのは、デナムと名乗る、眼鏡をかけた黒髪の男性だった。この屋敷の家令なのだという。
「はじめまして、マリカと申します。これからお世話になります」
 印象を悪くしないようにと緊張を隠して微笑むと、相手もレンズの向こうの黒い瞳を細めてくれた。歓迎されているのかわからないが、少なくとも今ここで追い払われる雰囲気ではない。
 どうぞ、と招き入れようとしてくれたデナムに付いて、屋敷の中に向かって一歩踏み出した。しかし、二歩目はなぜかエリゼに阻まれてしまう。
「……女王陛下がお選びになった花嫁をお迎えする人間が、たった一人とはどういうことでしょう?」
 咎めるようにエリゼは言った。さっきまで穏やかな春の風を感じていたのに、あたりには一気に冬の冷気が襲ってくる。
(エリゼさん! どうしていきなりケンカを売るの!?)
 この正体不明の侍女に対して、はっきりそう声に出すのが恐ろしく、彼女の服の袖口を控えめに引っ張ってみる。だが、エリゼは目を合わせてもくれない。そして家令のデナムはわずかに顔をしかめながら、エリゼをまじまじと見つめている。
「……申し訳ありません、ただいま結婚式の準備を整えております。もとより、使用人が少ないものですからご容赦を」
 突き返される可能性も覚悟していたが、結婚式の準備をしてくれているらしい。それを聞いただけで、マリカにしたら十分な対応だった。だが、エリゼは納得してくれそうにない。二人の睨み合いが続き、マリカはこの場から一人で逃げ出したくなった。
「でしたら女王陛下にお願いして、王宮の優秀な使用人を何人か連れてまいりましょう」
 マリカは焦った。この屋敷の当主の意向を無視して、女王陛下の名前を盾に何かを要求するなんて、印象が悪いに決まっている。
「あ、あ、あの、エリゼさん。いきなりは失礼だと思うの。私達を受け入れてくださるなら、感謝すべ……ごめんなさい」
 振り返ったエリゼの視線に刺され、マリカは反射的に謝罪してしまった。咎められるのかと身を震わせていると、エリゼは小さなため息を吐く。
「いいえ、私が出すぎた真似をいたしました。申し訳ありません」
 そう言って、エリゼはマリカとデナムの二人に謝罪をしてくる。
(あれ……エリゼさんって、思ったより話を聞いてくれる人なのかしら?)
 それまで、マリカがエリゼに抱いていた感情は「とにかく怖い」だった。ものすごく整った顔立ちで無表情だから、思考が読めないのだ。でも、今はうつむき加減で少しばつが悪そうだ。もしかしたら、不器用なだけで本当はいい人なのかもしれない。
 マリカがエリゼのことで、そんなお気楽に構えていられたのは、数日の間だけだったが。

 これから結婚式を執り行うのだと言われ案内された場所は、大貴族の屋敷には必ずあるだろう祭壇の前ではなかった。
 エリゼに荷物を任せ、黙ってデナムの案内に続く。マリカの数歩後ろには、婚姻を見届けるための女王の使者も続いている。広い居室の奥にある薄暗い部屋に通されると、その中央には大きな寝台が置かれていた。ここは誰かの寝室だ。マリカは緊張しながら、ゆっくりと寝台に近付いていく。
「――我が花嫁。すまないが、少し手を貸してくれるかな」
 天蓋の向こう側に浮かび上がった影の主から、しゃがれた声が発せられた。男性の声だ。
 相手が誰なのか、もちろん想像はたやすい。この屋敷でこんな立派な寝台を使う人物は一人しかいないだろう。それに今マリカに対して、「我が花嫁」と呼びかけられる人物も。
 導かれるようにその声に従い、そっとそばに寄る。囲いの布を除けると、そこにはほっそりとした顔色の悪い男性がいた。
 面影はある。この目の前の痩せ細った男性は、確かにあの時パレードで喝采を浴びていた英雄、イライアス・クロウ将軍だ。でも、あまりにも変わってしまっていた。
「はじめまして、閣下。マリカと申します。渡り鳥ですから本来、家の名はありません。ですがご縁があり、ハドリー家の名を名乗ることを許されております」
「ああ、遠いところをわざわざご苦労だった」
「あの……閣下。お加減はいかがですか? 体調がよろしくないとうかがっていますが」
「すまない。私は見ての通りのありさまだ」
「そんな……」
 もともと彫の深い顔立ちだったのだろう。痩せたせいで顔の窪みは際立ってしまっている。陽の光の下ではきらきらと輝いていたはずの亜麻色の髪は、今はくすんで見える。目の下には隈があり、唇は青紫色をしていた。左目あたりにある傷は、かつての戦いで負ったものだろうか。その傷より印象深かったのは、彼の青灰色の虹彩だ。生気のない姿なのに眼光だけが鋭く、不安定に思えた。
 こんな理不尽なことがあっていいのだろうか。かつては戦いの最前線で活躍していた人物なのに。今はマリカが触れても簡単に壊れてしまいそうなほど脆く見える。
「閣下はご病気なのですか? 医師はどちらに? お薬はちゃんと飲んでらっしゃいますか? 食事は……」
 すぐによくなる、そんな答えが欲しくて矢継ぎ早に質問をしてしまった。なぜだろう、強い衝撃を受けて胸が苦しい。
「泣くほど嫌か。今も昔も子供には怯えられるから予想はしていたが……実際に泣かれるとなかなかこたえる」
 指摘され、自分が泣いていることに気付く。長旅を終え気が緩んでいたところで、悲しい現実に直面し混乱しているのだ。でも、彼――イライアスのことが嫌だなんて、少しも思わない。
「いいえ、そうではありません! ただ、なんて言えばいいのか……」
 おそらく、その感情は怒りだ。マリカは、イライアスを寝台に追いやった何かに怒りを覚えた。この人にベッドの上での静かな生活は似合わない。夫となる人のことをまだ何も知らないが、彼のために自分ができる、すべてのことをしたいと思った。
「閣下が少しでもお元気になられますように、誠心誠意お仕えさせていただきます」
 それは、妻としての心構えではなく、臣下が持つような忠誠心なのかもしれない。だって、彼はマリカの恩人でもあるのだ。敬愛の気持ちは自然に発生する。
「おや、これは罠かな」
 イライアスは小さく呟いたあと、マリカに向かって手を伸ばしてくる。寝台から出ようとしているのだとわかり、マリカはその手を取った。花嫁の手を借りて立ち上がったイライアスは、とても背が高かった。マリカは見上げるように様子をうかがう。
 穏やかそうな笑みに少しの苦しみが混じっている。重なった手に、ずっしりとした重みを感じた。しっかりマリカが支えてあげないと、きっと倒れてしまうだろう。とっさに右と左で繋がっていた手を入れ替えて、自由になったほうの手でイライアスの腕を支えるようにした。こうすれば少しは安定するはずだ。自分が彼を支える。単に介助の意味だけではなく、これからの二人の未来でそうなればいいと願いながら。
 そんなマリカに対して、イライアスは不思議なものを見るような顔を向けていた。
「……なるほど、確かに逞しい女性のようだ。私は女王の命により君と婚姻を交わそう。異議は?」
「ございません」
 マリカに向ける表情は柔らかい。それだけで十分だ。
 すでに部屋の中には簡易的な祭壇が用意されていて、司祭が待ち構えている。木製の台には結婚誓約書が置かれ、あとは祝福を受けた二人が署名をするだけだ。
 マリカが持参した荷物の中には花嫁衣装もあったのだが、どうやら必要がなかったようだ。確かに病床のイライアスに堅苦しい正装をさせるわけにもいかないだろう。
 ゆったりとした部屋着にガウン姿の花婿と、旅用の簡素なドレスの花嫁は、寝室で結婚を誓った。
「閣下、申し訳ありません。これからよろしくお願いいたします」
 誓約書に自分の名前を書く前に、つい謝りたくなってしまった。きっとイライアスにとって、望まぬ結婚のはずだ。
「心配しなくても、君はきっと将来幸せになれるだろう。そういう星の下の生まれらしい」
 それは、夫婦として幸せになれるという意味なのか、それともマリカ一人だけということなのか。前者であって欲しいと願いながら、マリカは誓約書に名前を書いた。なぜか、婚姻前に練習してきたこの国の文字での「マリカ・ハドリー」ではなく、もう忘れてしまいそうな、日本で生きていた頃の自分の名前をそこに綴る。
「これは異界の文字か?」
 イライアスは、不思議そうにしげしげとその文字を見つめている。署名を書き終えた時に離した手を添え直して、マリカは頷いた。
「はい、私の本当の名前です」
「模様のような美しい文字だな。真の名というのもよい。神聖な契約にふさわしいだろう。なんと読む?」
「月村茉莉香です。マリカの読みはそのままです。私の国では家の名を先に名乗っていました」
「なるほど、マリカ……こちらの世界でもよい響きの名だ」
 司祭が婚姻の成立を告げると、イライアスの目配せに従い、家令のデナムが動き出す。誓約書を手に取ると、部屋に密かに控えていた使者に渡していた。
 その使者に対して、イライアスが冷たく告げる。
「これで満足だろう。女王の命令には従った。さっさと飼い主のもとに帰れ」
 旅装束のままの使者は誓約書を受け取ると、無言で部屋から去っていった。
「さてマリカ、私達はこれで正式な夫婦となった。裏切りは決して許さないよ。それだけは覚えておきなさい」
 静かに……だがはっきりと厳しい声が部屋に響く。
「よき妻になれるよう、努力いたします」
 そう答えるのが精一杯だった。マリカが女王から与えられた役目は、イライアス・クロウ将軍の子を産むことと、手紙で近況を報告することだ。邪険に使者を追い払ったイライアスの態度から、マリカの中でくすぶっていた不安が膨らんでしまう。
 もしこの先、彼の考えと女王の命令が相反するような事態になったら、一体どうすればいいのだろう。
 たった今イライアスが放った声には、確かな力強さを感じた。病床の御仁とは思えない、有無を言わせず人を従わせることのできる強さだ。
(――ん?)
 そこで、マリカはある違和感に気付く。
 さっきまでのイライアスは、マリカがふんばっていないと二人で倒れてしまうくらい、立っているのが精一杯の様子だった。しかし今は、体重の預け方が随分軽くなっている。はっきり言うなら、ただ手を繋いでいるだけだ。
(ん? んん? どういうこと?)
 見開いて、まじまじと隣にいる人物の顔を覗き込む。
 顔色は決してよくない。目の下に隈もある。身体もとても細い。だが、なぜだろう……最初は確かに生気のない顔をしていたはずだったのに、今はどこか印象が変わって見える。そう、女王の使者がいなくなったあとからだ。
「どうした? なかなかおもしろい顔をしているぞ」
 驚くマリカの顔をおかしそうに眺めながら笑うイライアスは、いたずらっ子の少年のように活力が溢れ出していた。
「あの、妻として知っておきたいのですが……閣下はなんのご病気なのでしょうか?」
「まだ名のない不治の病だ」
「不治の病……」
 思わず具体的な症状を尋ねたくなったが、その前にイライアスがフンと鼻を鳴らした。
「私が不治の病だと言ったら、不治の病なのだ……さて、疲れたのでそろそろ休むとしよう。しばらくは自由時間とする。以上! 解散」
 そうしてイライアスは、大きなあくびをしながら天蓋の向こうに消えていく。
 取り残されたマリカは、呆然とする。どこかで似たようなことを言った人がいた。なぜだろう……最近関わる人達は皆、我が道を行きすぎていないだろうか。
(それにしても閣下は、本当に病人なのかしら?)
 イライアス・クロウ将軍は、なんだか一筋縄ではいかない人物のようだった。


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