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お見合いマリッジ ~破談させるつもりが、なぜか溺愛されています~

水島忍 / 著
敷城こなつ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/10/15

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内容紹介

僕のものだ、ずっと傍にいたい。
母親と二人でつつましく暮らしていた杏璃は、離婚した父親から強引に政略結婚させられる双子の姉・愛璃の身代わりとなり、お見合いをすることに。見合いを壊そうとするも、イケメン御曹司・本条から「結婚を強要されて疲れたから」と『形だけの結婚』を提案されて!? 父に仕返しするためと協力関係を結んだとたん、ラグジュアリーな食事と甘い囁きの至れり尽くせりに戸惑う杏璃。都合がいいから選ばれただけなのに、彼の色香の誘惑に負け、スイートルームでの熱い抱擁に乱される――。杏璃は本条の優しく濃厚なキスに勘違いしそうになって……。大企業御曹司と姉御肌な双子の妹の溺愛ラブ!!

立ち読み

   第一章  お見合いぶっ壊し作戦でまさかの出会い


「それで、わたし、本当に困ってるの……ねえ、聞いてる? 杏(あん)璃(り)?」
 須(す)沢(ざわ)杏璃は電話の相手である愛(あい)璃(り)にすぐに答えた。
「聞いてるよ。結局、愛璃はカレと別れたくないんでしょ?」
「うん。そうなの。でも……お父さんが……」
 杏璃は溜息をつきたくなるのをなんとか抑えた。さっきから愛璃は同じことばかり繰り返し喋っている。
 愛璃と杏璃は二十四歳の双子の姉妹で、一応、愛璃のほうが姉である。だが、杏璃は自分のほうが姉のような気分でいた。
 二人は十歳のときに両親が離婚して、それから別々に育った。杏璃は身寄りのない母に引き取られ、かなり苦労することになったが、愛璃は裕福な父親の許で金銭的には何不自由なく暮らしてきたのだ。
 別にそのことで愛璃を羨(うらや)んだことはない。何故なら、父親は横暴な人間だったし、同居していた父方の祖父母のことも杏璃は大嫌いだったからだ。
 愛璃には愛璃の苦労があったはず。けれども、お嬢様として育った彼女はどこか浮世離れしていて、世間知らずだった。女子大を卒業してからも、家事見習いという名目で家にいて、父からお小遣いをもらっている。
 そう。見た目もお嬢様そのものだし……。
 ストレートの黒髪をウエストの辺りまで伸ばしていて、白い清(せい)楚(そ)なワンピースやつばの広い帽子がよく似合う。色白でどこか儚(はかな)げな雰囲気があった。物腰も柔らかで、いかにも育ちがよさそうな感じがする。
 一方、杏璃は愛璃と顔立ちや色白なところは同じなのに、印象がまるで違う。髪を少し茶色に染めているし、ロングヘアではあるが、愛璃ほど長く伸ばしてもいない。服装はファストファッションを楽しんでいた。Tシャツにジーンズを穿(は)くこともあれば、ミニワンピを可愛く着たり、ロングスカートで大人っぽい雰囲気になることもあるのだ。
 何より愛璃と違うのは、その性格だろう。言いたいこともあまり言えないおとなしい性格の愛璃とは対照的に、杏璃は言いたいことははっきり言う。目を伏せてぼんやりと微笑む愛璃とは違い、時には相手を見据えることもあった。
 いいものはいいし、悪いものは悪い。曖(あい)昧(まい)なままにしておくのは苦手で、物事ははっきりさせておきたいタイプだった。少なくとも、今まではそういう生き方をしてきた。
 十歳で母と共に家を追い出された杏璃だったが、数年後にSNSで繋がって以来、愛璃とは連絡を絶やさなかった。つらいことがあっても絶対に愚痴を言わないと決めている杏璃とは違い、愛璃はよくこうして電話やメッセージのやり取りでなんでもかんでも打ち明けてくる。
 そして、今日の愛璃の愚痴はなかなか終わらなかった。杏璃がどんなアドバイスを口にしても、すべてが愛璃の頭を通り過ぎているようで、堂々巡りで元に戻ってしまう。杏璃は在宅でフリーのプログラマーとして働いているから、そろそろ仕事に戻りたいのだが、彼女の話はなかなか終わらない。
 愛璃が悩んでいるのは判るし、力になりたい気持ちはあるんだけど……。
 このまま延々と愚痴ばかり聞いていても、なんの解決にもならない。愛璃が自力でどうしていいか判らないなら、自分が代わりに答えに導いてあげようと思った。
「ねえ、愛璃。ちょっと状況を整理してみようよ。愛璃はカレ……謙(けん)治(じ)さんだっけ。そのカレとの仲をお父さんに反対されても、こっそり付き合っていた。ところが、お父さんが急にお見合いの話を持ってきたのよね。どこかのお偉いさんとの……」
「お父さんと親しい人の息子さんなんだって。本(ほん)条(じょう)グループの社長さん。お父様が会長らしいわ」
 本条グループと言えば、不動産系の会社だったと思うが、多くの傘下の会社がある。つまり、かなりの大企業だ。そんなところの社長と愛璃が結婚なんて、想像もできない。
「社長なの? ねえ、その人、まさかおじさんなんじゃ……」
「写真はおじさんって感じじゃなかったわ。三十四歳だって」
 十歳も年上なのか。とはいえ、思ったほどの年齢差ではないようだ。あの横暴な父が押しつける相手だから、どうせ碌(ろく)な男ではないだろうと思ったのだが、それは杏璃の偏見だったみたいだ。
「お父さんは愛璃とその人を結婚させたいの? もしかして、政略結婚みたいな感じ?」
 なんとなくだが、ただお見合いを勧められたという感じがしなくて訊いてみた。
「そうだと思う……。嫌だって言ったら、おまえに拒否権はないって。結婚しないなら家から追い出すって言ってるの」
「そんな!」
 そこまで強制されているのかと思うと、父に対して腹が立ってくる。
「いいじゃないの。出ていけば。謙治さんだって、そのほうがいいんじゃない?」
 もし杏璃が愛璃の立場だったらそうする。結婚は大事なことだ。それなのに、自分の意志に反して、無理強いされるなんて絶対に嫌だった。
「でも……だって……お父さんに怒られるわ……」
 愛璃は急に弱気な声を出し始める。
 さっきから愛璃の話が堂々巡りなのは、父から怒られるのが怖いからだった。そのくせ、政略結婚させられるのは嫌なのだ。
「出ていけば、お父さんがいくら怒ったってどうでもいいじゃない。愛璃はその場にいないんだから」
「……こっそり出ていくの?」
「面と向かって言えないでしょ? わたしは出ていくって」
 杏璃なら言うが、愛璃には無理だろうと思った。それなら、こっそり出ていけば済む話だ。
「言えないけど……。荷物を持っていったらバレてしまうわ。そうしたら、お父さんが……」
 愛璃の話を聞いていると、本当に歯がゆくなってきてしまう。自分の人生を、父に勝手に決められようとしている。それなのに、出ていくこともできないのだろうか。
 いや、愛璃は温室育ちのお嬢様なのだ。そして、性格も杏璃とは違う。父や祖父母に叱られないように、今まで黙って従ってきた。そんな人生を歩んできたのだから、おいそれと決断できないのは仕方ない。
「……謙治さんに相談した?」
「え……まだ何も……。だって、お見合いなんて聞いたらショックを受けるでしょう?」
 杏璃はまた溜息をつきたくなるのを堪えた。
「ねえ、愛璃。よく聞いて。このままそこにいたら、お見合いをさせられる。お見合いをして、相手が乗り気だったら、愛璃は断れなくなる。結局、その社長と結婚しか道がない状況になったところで話を聞かされたら、謙治さんはどんな気持ちになると思う?」
 愛璃は息を呑んだ。ようやく事の重大さに気がついたらしい。
「ショックどころじゃないでしょうね……」
「そう。だから、できるだけ早く謙治さんに相談して。わたしでできることがあれば、なんでも協力するから。なんなら、愛璃の代わりにお父さんに話をつけてあげてもいいわ」
 本当は父とは顔も合わせたくないが、愛璃のためならそうしてもいい。
「杏璃……ありがとう。こんな愚(ぐ)図(ず)なわたしのために……」
 愛璃の涙声が聞こえる。その声を聞いた途端、杏璃も何故だか泣きそうな気分になってしまった。
 これが双子の絆ってものなのかな……。
 さっきまで愛璃の愚痴にうんざりしていたのだが、急に彼女を守ってやりたくなってくる。できるものなら、今すぐ家まで押しかけて、父に文句を言ってやりたいくらいだ。
「愛璃は自分の人生を好きに歩む権利があると思う。お父さんこそ愛璃に結婚を強制する権利なんてないのよ。謙治さんが好きなら、その気持ちを大事にして」
 杏璃は愛璃の気持ちが変わらないように、しっかりと釘を刺しておいた。
 後は、謙治に任せよう。杏璃も彼に会ったことがあるが、爽やかで真面目な青年で、愛璃を本当に大事に想っているようだった。彼になら愛璃を任せられる。
 でも、わたしだって、できる限りのことはしたい。愛璃と連絡を絶やさないようにしよう。
 彼女の力になれるように。
 杏璃はそう心に誓った。


 そんな愛璃の愚痴を聞いてから十日ほど経ったある日のことだった。
 その日の午前中、杏璃は母の通院に付き添うために出かけた。母はガンで手術して、少し前まで入院していた。今は退院して家で療養しているものの、まだまだ以前のような体力は戻っていない。母は一人でも大丈夫と言ったが、杏璃は心配で付き添うことにしたのだ。
 杏璃は運転免許を持っていないし、そもそも車もないので、タクシーで病院へと向かった。病院はそこまで遠くではないけれど、総合病院なので、ずいぶんと待たされることになった。
 幸い今のところ予後はいいようだった。とはいえ、まだしばらくは家で療養しなくてはならない。
 杏璃は母の手助けになることはなんでもしたいと思っていた。もちろん杏璃にとっては当然のことで、それを負担に思うことは一切ない。しかし、母のほうは非常に申し訳なく思っているようだった。
 帰りのタクシーの中でも、母はしきりと杏璃に謝ってくる。
「ごめんね、杏璃。仕事もあるのに……」
「大丈夫。こういうときはフリーで仕事をするって便利よね。いくらだって時間を好きなように使えるから」
 本当のことを言えば、ここで時間を使った分をどこかで帳尻を合わせなくてはならず、睡眠時間などを削らなくてはならないのだが、そのことを母に言うつもりはない。フリーは時間の都合が利くと言われれば、母はそういうものかと思っているようだった。
「入院中も毎日来てくれていたし、本当に迷惑ばかりかけてごめんね」
「またそんなことを言う。わたしとお母さん二人だけの家族なんだから、当たり前のことだって言ったじゃない。もしわたしが入院したら、お母さんは同じことしてくれるでしょ?」
「それはそうだけど……」
「そうなの! だから、ごめんねってもう言わないで。お母さんのおかげでわたしはここまで大きくなれたんだし、お母さんが大変なときはわたしが支える。ね? わたし達、今までだって助け合って生きてきたんだから」
 母はそれでも申し訳なさそうな顔をしている。
「でも、仕事にも早く復帰したいのに、家事もまだ碌にできないし……」
「じゃあ、たくさん休んで、早く元気になって。家事は少しずつしてもらえればいいから」
 できることなら、母にはずっと休んでいてほしいくらいだが、家事をすることで体力もついてくるから、そういうわけにはいかない。しかし、仕事に関してはもう無理をして続けさせたくなかった。
 ただ、杏璃も母を養えるほど稼いでいるわけではない。それに、フリーで働いているから、毎月入ってくるお金は一定ではなかった。
 でも、母はずっと苦労してきたから……。
 やはりもっと楽をさせてあげたい。
 母は早くに両親を亡くしたこともあって、家族が何よりも欲しかったのだという。まだ若いときに年の離れた事業主の父と結婚することになり、これから幸せになれると思っていたのだが、そうはいかなかった。事業を拡大したかった父は、母が持っていた多額の遺産目当てで結婚したのだった。
 言葉巧みに父から遺産を奪い取られ、強制的に義両親――杏璃からすると祖父母と同居することになり、やがて愛璃と杏璃が生まれた。
 杏璃が物心ついたときには、母はいつも祖父母に厳しい言葉をかけられていた。理不尽なこともたくさん言われていたように思う。そして、無料の家政婦みたいにこき使われていた。
 ところが、父は母を庇(かば)うどころか浮気までしていた。母は再び家族を失うことを恐れ、ただただ我慢し続けた。
 父の会社、スザワ興産はどんどん大きくなっていき、自宅は新しくなり、豪邸となった。だが、その豪邸の中は惨(さん)憺(たん)たるものだった。
 杏璃は度々、母を庇って祖父母に反抗したし、父にも文句を言った。愛璃はおとなしくて言うことを素直に聞く子供だったから、祖父母や父にも可愛がられたが、杏璃は邪険にされた。母はどちらの子供にも平等に優しく接してくれていたものの、祖父母や父が愛璃だけを贔屓(ひいき)にしていたため、ずっと杏璃のために心を痛めてきた。
 杏璃達が十歳のとき、母は突然、父と祖父母から離婚を求められた。理由は跡継ぎを産めなかったから。男の子を産まない嫁はいらないと言われたのだ。
 母は双子を出産後、体調を崩したことが不妊の原因と言われていたが、本当にそうだったのかは判らない。ただ、夫婦仲は冷え切っていたように見えたし、それに祖父母の言動がストレスで子供を授からなかったのかもしれない。
 ともあれ、母は父と祖父母に責め立てられ、精神的に参ってしまい、言われるままに離婚届に記入をした。そして、いつも母の味方だった杏璃と共に、少額の慰謝料で追い出されたのだった。
 大人になった今なら、もっと有利な条件で離婚できることもあったと判る。財産分与もされなかったし、さんざん浮気されていたのだ。証拠を確保していれば、もっと多額な慰謝料を取れただろう。
 杏璃の養育費も愛璃の分と相殺されることなく、せめて愛璃と同じ教育を受けられるくらいの額はもらえたはずだ。
 しかし、当時の母にはそんな気力も知識もなかった。弁護士を雇えるくらいのお金を持っていればよかったかもしれないが、それさえもなかったのだ。
 すべてが父と祖父母のいいように進められてしまった。
 母は身を寄せる実家もなく、杏璃を連れて、なんとか住み込みの仕事を得た。母がやったこともない工場の仕事だったが、杏璃と二人で住める寮があることが母にとっては重要だったのだろう。
 貧しいながらも、杏璃は母と暮らす毎日が楽しかった。おいしいおやつもお小遣いもなかったし、自分の部屋もふかふかのベッドもなく、新しい服もなかなか買ってもらえなかった。それでも、父や祖父母の母に対する仕打ちを見なくて済んだ分、心安らかに暮らせたのだ。
 もちろんお金があまりないことで苦労はあった。どうしても学校の友人と自分が同等な感じがしなかった。コンプレックスを抱くこともあった。だが、母が頑張って仕事をしてくれているのだからと、家ではそんな素振りは絶対に見せなかった。
 できる限りの家事をして母を助け、バイトができるような年齢になってからはバイト代を家に入れた。母は自分の好きなように使っていいと言ってくれたのだが、そんなことはできなかった。少しでも家計を助けたかったのだ。
 高校卒業後はプログラミングの専門学校に通い、やがて就職した。その頃にはもう寮は出ていて、今の2LDKの古いマンションに引っ越していた
 これからは毎月給料をもらえて、二人の生活はもっと楽になる。そう思っていたのに、勤めた会社はブラック企業で、できるだけ頑張ってみたものの、身体を壊して退職をした。
 そして、これからはフリーで頑張っていこうと起業し、ようやくなんとか仕事が取れるようになってきたと思った矢先、今度は母が病気になった。
 長年働いてきた母の身体にも負担がかかっていたのだろう。思えば、ブラック企業で働いていた間、杏璃は家事などまったくしていなかった。それどころではなかったとはいえ、その分、母が仕事と家事をやっていたことになる。
 そんな経緯があったからこそ、母をできるだけ休ませてあげたい。何より再発が怖いからだ。今回は手術してよくなったが、これから先のことを考えると、ストレスがかからないようにしてあげたいと思う。
 生活のためだけに仕事に復帰してもらいたくない。工場の仕事が好きなら、それでも構わないが、そうでないなら、別の仕事に就いたらどうだろう。杏璃がそう言ったら、母は笑いながら『この年齢で他に雇ってくれるところなんてないでしょう?』と返してきた。
 でも……やっぱり……。
 お金さえあれば、母が苦労することはないのに。
 今更ながら、父の仕打ちには腹が立つ。離婚してから十四年も経った今では、本当にどうしようもないのだが。
 父は離婚後すぐに、若い女性と再婚した。きっと元々の浮気相手だろう。男の子が生まれることを期待していたはずだが、結局、その二人の間には子供ができず、五年ほど前に別れたらしい。
 愛璃によると、壮絶な夫婦喧嘩が行われたそうで、再婚相手はちゃっかり多額の慰謝料をもらって離婚したのだという。
 やはり世の中は図々しいほうが勝つことになっているのだろう。控えめでおとなしい母には、父に逆らうことさえできなかった。
 ふと、杏璃は横に座る母の顔をちらりと見た。以前より痩せてやつれている。前のようにふっくらした体型に戻るまで、一体どれだけかかるだろうか。
 とにかく、わたしがなんとかしないと……。
 杏璃は決心を新たにした。
 タクシーはやがてマンションの前に着いた。杏璃はお金を払い、車から降りる母の手助けをする。
「大丈夫よ。歩けないほどの年寄りじゃないんだから」
 母は笑いながら言う。それは判っているが、母が入院してからというもの、つい手を貸したくなってしまう。
「でも、疲れたでしょう?」
「そうね。しばらく家に籠りっきりだったから、体力がないのよね。これからは買い物に出かけたりしなきゃ」
 買い物はまだ早いと言いたくなったが、それはなんとか抑えておく。これでは、まるで自分が過保護な母親になったみたいだからだ。
「散歩から始めるといいと思うわ。とにかく今日は少し休んで」
「判ったわ」
 言い返さずに素直にそう言ったところを見ると、本当に疲れているらしい。昼食を食べて、母は自室に戻った。昼寝でもするのだろう。杏璃はキッチンを片付けてから、自分の部屋へ入り、仕事を始めた。
 しばらく仕事に没頭していたところで、突然、机の上に置いていたスマホの着信音が鳴り響いた。
 見ると、知らない番号からだ。少なくともスマホに登録はしていない。杏璃は眉をひそめたが、とりあえず電話に出た。すると、杏璃の耳に初老くらいの男性の野太い声が聞こえてきた。
『杏璃か?』
 一瞬誰だろうと思ったが、すぐに思い出す。それは杏璃が絶対に会いたくない人物、自分の父親の声だった。
「そうだけど? お父さん?」
 冷静になろうとしたが、声が震えてしまった。
 どうして父がこの番号を知っているのだろう。調べたのだろうか。しかし、父が自分に用事などあろうはずがない。
『愛璃の居場所を知っているんだろう? 教えろ』
 父は相変わらず居(い)丈(たけ)高(だか)な物言いをする。十四年経った今も変わらないのだと思うと、不思議なことに肩から力が抜けた。
 とはいえ、愛璃の居場所とはどういうことなのか。ひょっとして、彼女は杏璃のアドバイスを受け入れて、謙治に相談したのだろうか。
 謙治だって、むざむざと愛璃を他の男と結婚させたくないはずだ。きっと愛璃を口説いて、家から連れ出したのだ。
 家出を決行する前に自分に相談してくれなかったのは少しショックだったが、無事に愛璃が逃げられたことにほっとした。
「わたしは愛璃がどこにいるかなんて知らないわ。いなくなったの?」
『友達と旅行に行くと言って出かけたらしいが、ずっと帰ってこない。電話をかけても繋がらないし、あいつの部屋を探して見つけた古いアドレス帳に載っている全員に連絡をしたが、行先は誰も知らなかった』
 つまり、杏璃の携帯番号もそのアドレス帳に書かれていたのだろう。愛璃は几帳面な性格で、いちいち人の電話番号と住所を紙のアドレス帳に記入していた。家を出たのなら、そのアドレス帳も持っていけばよかったのにと思ったが、きっともっと新しいアドレス帳を持っていて、古いものを忘れてしまっていたに違いない。
 そのアドレス帳にここの住所が書いてあったかどうかは判らないが、父がこうして直接自分にかけてくれてよかったと思った。部屋に押しかけられでもしたら、母の病気に障るからだ。
「ふーん。とにかくわたしは何も知らないわ。わたしも忙しいからそんなことに関わっていられないの」
『……本当か? だいたい、いつからおまえとあいつはコソコソ連絡を取り合っていたんだ?』
「コソコソなんて人聞きの悪い。別に不思議でもなんでもないでしょ。今時、SNSってものがあるんだから。愛璃がわたしのアカウントに気づいて、連絡してきたのよ」
 そうでなければ、連絡を取り合うことはなかっただろう。家を追い出された当時は二人ともスマホを持っていなかったし、杏璃のほうは愛璃と会いたいと思っても、父や祖父母のことを思い出すと、あの豪邸の近辺をうろつきたくはなかったのだ。
 そう。本当に嫌な思い出ばかりだから。
『SNS? あいつに携帯なんぞ持たせなきゃよかった』
 そう呟くのを聞いて、杏璃は思わず噴き出してしまった。
「愛璃のことを何歳だと思っているの? そこまで娘の生活をすべて管理したいなんて、とんだ毒親ね」
『うるさい! おまえの口の利き方は相変わらず生意気だな!』
「お互い様でしょ。お父さんも全然丸くなってないみたい」
 実を言うと、子供の頃の杏璃は父に反抗しながらも、どこか怖いと思っていた。けれども、今となっては何も怖くない。ただ軽蔑しているだけだ。
 ろくでもない父親で、あのとき離婚した母に連れていってもらって、本当によかったと思った。
 愛璃も父の手から離れられて、これで幸せになれる。だから、杏璃は愛璃の失踪のヒントも洩らす気はなかった。ただ、その古いアドレス帳に謙治の情報が書かれていないことを祈るだけだ。
 とはいえ、愛璃の恋人の話をしないということは、男性の名前はそのアドレス帳になかったのだろうと推測した。
「とにかく、わたしは愛璃の居場所を知らない。じゃ……」
『待て。切るな!』
 無視して切ろうと思ったが、切っても向こうに用事がある限り、またかけてくるだろう。仕方なく話を聞くことにした。
「忙しいから話は手短にね」
『愛璃から見合いの話を聞いたか?』
「ああ……そうね。愛璃はそれが嫌だったみたいね。それでいなくなったのかな」
『それはどうでもいい。その見合い、どうしてもせねばならん』
「何故なの?」
『どうしても取引したい会社の社長が見合い相手なんだ。向こうの父親が会長で、学生時代の友人なんだが、息子と愛璃が結婚すれば親戚同士になるから、取引してやってもいいと言っている』
 どうやら会社の一大事というわけらしい。羽振りのよかった父の会社も、今は厳しいのだろう。
 そうであれば、愛璃がいなくなって、父が焦る気持ちも判る。しかし、愛璃を父の会社の犠牲にするなんて間違っている。
「でも、当の愛璃がいないんじゃ……」
『おまえがあいつに成りすまして見合いをしてくれればいい』
 一瞬、杏璃は何を言われたのか判らなかった。
 わたしが愛璃に成りすます? それで、見合いをする?
「何を馬鹿なことを言ってるの? そんなことできるわけないじゃない!」
『おまえ達はどちらか判らないくらい、顔はよく似ていた。今はどうだか知らんが、そう違いはないだろう』
 確かにそうだが、愛璃に成りすます意味が判らない。
「あのね、愛璃はもういないんでしょ。愛璃の代わりに見合いの席に出たって、その先はどうするつもり?」
『時間稼ぎだ。見合いは今週末にある』
 開いた口が塞がらない。いくらなんでも無茶なことを言っている。
「だいたい、どうしてわたしがそんなことしなくちゃいけないの? しかも、大嫌いなお父さんのために?」
 嫌味たっぷりに言ってやると、一瞬、父は黙った。大嫌いという言葉に傷ついたはずはない。父にそんな繊細な神経などあるはずがないのだ。
 いつだって強引で横柄で、自分の思うとおりのことをしてきた。たまには、思いどおりにならないこともあるという現実を知ったほうがいいと思う。
『……金をやろう。どうせおまえ達、貧乏な暮らしをしているんだろう? そうだな……愛璃のふりをして見合いに出たら十万やろう』
 会社の存続がかかっているというのに、たった十万円しか出さないのか。どれだけ貧しいと思われているのだろうと思うと、腹が立ってくる。しかし、正直、今の杏璃と母には十万円でもあれば、少しは助かるのは確かだ。
 とはいえ、お金に釣られて父の言うとおりに動かされてしまうのも、なんだか悔しい。だいたい、愛璃はもう戻らないだろう。たとえ戻ったとしても、愛璃に政略結婚なんかさせられない。
 いっそお見合いを壊してやるのはどうだろう。
 そうだ。計略に乗ったふりをして……。
「たった十万じゃね。わたし達、それくらいじゃありがたがらないわよ。わたしだって、もう社会人なんだから」
 父は母に財産分与もしなかった。母はあんなに苦しめられたのに、慰謝料だって大してなかったという。しかも、元々持っていた財産を奪われたのだから、母は一方的に父に搾(さく)取(しゅ)されたのだ。それなら、できるだけ父から搾り取ったところで、悪くはないはずだ。
『がめつい奴だ』
「お父さんだって同じでしょ。お父さんはお金のためにわたしに愛璃のふりをしてほしいんだから」
 電話越しに溜息が聞こえる。
『本当に……おまえはつくづく生意気な奴だ。たかが愛璃のふりをするだけなんだぞ。それで十万もやろうと言っているんだ』
「百万。これから言うわたしの口座に振り込んでくれたら、愛璃のふりをしてお見合いしてあげるわ」
 それだけのお金があれば、母のためにいろんなことをしてあげられる。仕事復帰もしばらく考えずに済むし、なんなら転職してもらってもいい。
 すべては母のため。


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