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今夜、一線を越えます 〜エリート鬼上司の誰も知らない夜の顔〜

木下杏 / 著
小島ちな / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-427-6
サイズ 四六判
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/09/15
レーベル チュールキスDX

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内容紹介

もう全然待てる気がしないんだけど
「あーやばい。かわいすぎてめちゃくちゃにしたくなる」 営業事務として働く澪は、課の飲み会に参加中、ルックスも実力も抜群だが、仕事での厳しさのせいで『鬼軍曹』と呼ばれ敬遠されている課長・軍司と急接近。プライベートでの彼のくだけた雰囲気に心地よさを感じていた矢先、「なに、俺の家にそんな興味あんの? 来る?」突然軽い口調で自宅に誘われ戸惑う澪だが…。甘い言葉にスマートな彼女扱い、その手慣れた態度に、彼の真意を聞けないまま。「もう全然、待てる気がしないんだけど」仕事ぶりからは想像もつかない甘い手つきで快楽に堕とされて…。エリート上司と秘密のオフィスラブ!

人物紹介

菅原 澪(すがわら みお)

建材メーカーの営業事務として働く26歳。 軍司から「家来る?」と突然言われて戸惑い…。

軍司悠太(ぐんじ ゆうた)

30歳で課長代理につくが、仕事に厳しく陰で『鬼軍曹』と呼ばれている。 社内恋愛はしないという噂があるが…?

立ち読み

「一課の佐藤あかねが軍司課長のことを狙って撃沈したらしいよ」
 大きな窓から光がたっぷり降り注いでいる明るい店内は、ランチ時を迎えてややざわついていた。壁際のテーブル席は、隣のテーブルとは通路を挟んでいたがそれでも周囲の話し声が時折耳に飛び込んでくる。
 その喧騒に加えて、目の前に置かれたパスタランチのボロネーゼを熱心にフォークに巻き付けていたため、澪は前から投げかけられた言葉に対して、やや反応が遅れてしまった。
「え? 佐藤さんが誰を狙ったって?」
 今日は軽く寝すごして朝はグラノーラバーしか食べていないからすごくお腹が空いている。セットに付いていた申し訳程度のサラダなどあっという間に食べ終え、中途半端に活動を始めた胃がもっとボリュームのあるものをと求めていて、巻き付けたパスタを一刻も早く口に運びたかったが、一回聞き逃した以上、何度も聞き返すのは失礼だろう。
 澪は仕方なく手を止めて、目の前にいる友人に視線を合わせた。
「だから、軍司さん。おたくんとこの『鬼軍曹』だよ」
「え」
 営業一課の佐藤あかねと言えば、各部署につき一人は元彼が存在するという、本当かどうか真偽のほどはわからないが、まあそんな噂がまことしやかに囁かれるほど、なかなかに肉食な女子社員だったはずだ。だから社内の噂話によく登場していて、個人的に話したことがほとんどないにもかかわらず、澪はよく知っているような気になっていた。
 しかし今までの噂話から総合すると、そのターゲットとなるのは、割とキラキラした爽やか系の男性だったはずだ。どうせ自分には縁遠い、よく知らない男性社員の名前が返ってくるものと高をくくって、さして興味はないものの、お付き合い程度で聞き返したはずだった。だがしかし、澪は返ってきた名前の意外さに思わず目を瞠った。心なしか鼓動が跳ねた気もする。
「それは……チャレンジャーだね」
 若干の動揺をなぜか相手には悟られたくなかった。澪はフォークを持つ手とは反対の手でコップを掴んで水を一口飲み、あえて何気ない風を装った。
「だって、佐藤あかねだよ」
 間髪を容れずに言葉が返ってくる。
「いや、そうだけどさ。軍司さんって……」
「イケメンじゃん。ほら、佐藤あかねってイケメンハンターらしいから。ちょろそうなイケメンはあらかた食い尽くしたから、高みを目指してちょっと難しいところにいった感じ? でもあの佐藤あかねだって、さすがに軍司さんは無理でしょ。おっかないし。私だったらイケメンでも無理。怖すぎる。ま、さすがに付き合った子には優しいかもしれないけどさ。そこに辿り着くまでの道のりがさー、険しそう」
 半笑いを浮かべながら梨花は捲し立てるように喋る。ゴシップ好きな彼女がこの手の話題になると舌が滑らかになるのはいつものことだった。
 火曜の昼下がり、澪は、部署は違うが仲良くしている佐々木梨花と会社の近くのパスタセットが人気のお店でランチをしていた。
 梨花とは昼休みのタイミングが合えばよくこうやってランチを共にしている。
 会話の中であがった軍司というのは、澪の直属の上司の名前だった。フルネームは軍司悠太。澪の勤める、そこそこ大手である建材メーカーの本店事業部営業三課の課長。正しくは課長代理だが、ほとんど課長と変わらない権限で働いているので、みんな役職で呼ぶ時は課長と呼んでいる。
 だけど、肉食系女子のターゲットとして軍司の名前があがったことに澪が驚いた理由は、自分の直属の上司だったから、というだけではなかった。
 ——鬼軍曹。
 先ほど梨花も言っていたが、それは軍司の陰の呼び名だった。
 仕事においては非常にやり手で優秀。一営業マンだった頃から成績は抜群でその功績を認められて、営業三課を任せられたと言われている。そして三課の実質トップに君臨してからは今度は統率力と見事な管理能力を発揮して三課をまとめ上げた。彼の就任以来、一課は常に秀でた営業成績を叩き出している。
 会社では「できる人間」として有名な人物。澪の会社では通例として、役職がつくのはせいぜい三十代半ばで、それも大体は主任クラスからだ。軍司は現在三十歳。早い段階で頭角を現したため、課を任せられることになったものの、年齢的にまだ課長は早いという会社の判断で課長代理の職で留め置かれていると聞いている。現在、三課の課長は営業部長が兼任している体となっているが、それはあくまでも形式的なもので、三課を実際に仕切っているのは軍司だ。おそらく正式に課長になるのも最早時間の問題だろう。
 軍司が鬼軍曹と噂されるのは、とにかく仕事に厳しいからだった。課に配属されてきた新任者は必ず徹底的に仕込まれる。教育係を付けさせ、次々と課題を与え、合格ラインに達するまで鬼のようなだめ出しとやり直しが繰り返される。それは鬼の扱きと言われ、軍隊でいうところのブートキャンプみたいだなんて言う人もいる。
 その噂と軍司という名前が相まって「鬼軍曹」と言われるようにまで至ったらしい。
 しかし、そうやって仕事を叩き込まれた者はほとんどが優秀な営業マンに育っているので、軍隊三課なんて言われてはいるが、意外と三課へ転属を希望する者も多いらしい。そうやって軍司が優秀な人材を育て管理しているからこそ、三課は常に高い営業成績をキープできているのだ。
 仕事ができて、ルックスも悪くない。そうなると女子社員が群がりそうなものだが、梨花のように敬遠している者も少なくない。それはやはり、仕事ができるという評判とセットで付いてくる鬼軍曹という名に裏打ちされる、怖いイメージからだろう。実際顔付きも、目付きが鋭めであるため、澪も何度となく見たことがあるが怒るとなかなかの迫力だった。物言いも、平時からちょっときつい。だから表立って軍司を狙う女子はあまりいないし、肉食系女子がハンティング感覚で軽く手を出す対象になるとも想像しがたい。だからこそ澪は驚いたのだった。
「でも、澪もよくやってきたよねぇ。あの軍司課長の下でさ。もうけっこう長いよね」
 適当に相槌をうちながら、ボロネーゼを口に運んでいたところでいきなりしみじみと言われて澪はぱちぱちと目を瞬いた。咀嚼していたパスタを飲み込むとナプキンで口の端を拭う。
「いや私営業じゃないし。そりゃ最初慣れるまでは厳しく言われることもあったけどさ。事務にはそんなに高度なことは求めてこないよ。それに、慣れたらけっこう優しいところもあるし」
 これは本当のことだった。確かに最初は、頼まれて行った資料作成で鬼のようなだめ出しを食らって半泣きになったこともあったが、慣れてくると次第に、自分がどんなことを求められているのかがわかるようになる。軍司はそのあたりが割合はっきりとしているので、実はそのポイントさえ明確になればやりやすい上司だった。
 澪が今まで軍司の下で働いて経験してきたことを総合して考えると、軍司に対する印象は、「言われているほど怖くはない」といったものだ。しかし外から見ている分には、そのあたりはわかりづらいらしい。若干尾ひれが付いたような感もある、噂による先入観もあるのだろう。現に梨花はあまりピンとこなかったようだ。明らかに信じてなさそうな顔でえーほんとにー? と語尾を上げた。
「澪はスルースキル高いからなあ。得意ののらりくらり戦法で鬼軍曹もかわしてきたんでしょ」
「いや、そんな戦法ないし」
 澪はその言葉に苦笑いを浮かべた。梨花は総務課で働いている。澪も元々は総務だった。澪は現在二十六歳だが、入社してから営業三課に転属される前までは、ずっと総務にいた。梨花は社歴は一つ下なので一応後輩にあたるが、一年浪人して大学に入っているらしく、年齢は同じ二十六歳だった。なので打ち解けてからは自然と友達のような関係になり、澪が総務を離れ仕事での接触が激減した今では、すっかり友人ポジションに納まってしまった。
 澪の会社では、総務というのは会社の便利屋的な存在となっている面があり、どこが担当するのか曖昧な業務は総務に回されることが多かった。中には、それは総務の仕事ではないということまで当然のように頼んでくる輩もいる。運悪くそのオファーを投げられてしまうと、かかる火の粉を自分で振り払わなければならなくなるのだが、澪はそんな時は何を言われても上手く受け流して、何とか引き受けないよう立ち回っていた。
 もちろん、基本的にできないことはできないと断らなければならないのだが、中には一回断ってもしつこく粘り、時には強く出てくる者もいる。けれどそんな時でも、同じ社内の人間が相手では角が立つような断り方をするのは後々のことを考えるとなかなかできないので、お茶を濁していたのだ。梨花はよほどその掴みどころのない対応が印象的だったのか、総務から異動してもまだそのことを冗談交じりにたまに引き合いに出してくる。
 そんな風に言われること自体は特に何とも思わないが、梨花の言う「のらりくらり戦法」とやらが、自分の家庭環境に端を発していることはわかっていた。澪は三人姉妹の真ん中で、上には女王様気質の姉、下にはお姫様気質の妹がいて自己主張の強い二人に挟まれて育ってきた。二人は家庭内で熾烈なマウンティングをよく繰り広げており、その争いに巻き込まれないために澪はとにかくどっちつかずの態度を貫いてきたのだ。これはどちらかに味方した後は、もう一方からの当たりがきつくなって結果的に必ず居心地の悪い思いをすることになるからだ。
 おかげで、面倒なことになりそうな時に無難にスルーするスキルだけが無駄に養われてしまった。
 梨花はふーんと気のない相槌をうってパスタを口に運んだが、次の瞬間、何かに気付いたように口をモグモグさせながらにやりと笑った。
「軍司課長が澪に優しくしてくれるの、それってけっこう特別なこと? もしかして」
 そこで梨花はごくんと口の中のものを飲み込む。まるで新しい玩具を見つけた子どものようにキラリと目を光らせた梨花の顔を見て澪は困ったように笑った。
 梨花は明るくて裏表のない付き合いやすいタイプではあるのだが、色恋沙汰が好物なあまり、何でもすぐ恋愛に結び付けるのが難点だった。
「それはない。軍司さんだって常に怒ってるわけじゃないんだからさ。むしろメリハリ付けられるできる上司ってことだよ。怒る時は怒る。何も問題なければ普通で、人並みに優しくもしてくれるってこと。部下には全員態度は同じ」
 全員というところをわざと強調して言うと、梨花はあからさまにがっかりした顔をした。
「なんだ、つまんない。完璧かよ」
 そのタイミングでテーブルの上に置いていたスマートフォンの画面がメッセージを受信して明るく光る。そちらにちらりと視線を向けながら澪は軽い口調で言った。
「私なんか、相手にしないでしょ」
 しかし、その言葉に梨花はきょとんとした顔をした。
「え? そうかな。澪は意外と男ウケよさそうなタイプだと思うんだけど。メイクとか服とか基本押さえてる感じだし。顔も愛嬌あるじゃん。たまに澪のことカワイイって言ってる人いるよ」
 軽く首を傾けた梨花のきれいにカールされて上向きになった睫毛が、ぱちぱちとした瞬きに合わせて揺れる。スマホに手を伸ばしかけていた澪はそれをやめてぱっと顔を上げた。
「え? 誰?」
「あー……、誰だったかな、忘れちゃった」
「ちょっと、謎のフォローだったらやめてよ」
「いや、ほんとにいたし。作り話じゃないよ」
「まあ別にいいけどさ」
 そこで一旦会話が途切れたのでスマホを触って届いたメッセージの内容を確認する。取るに足らない内容だったので澪はそのまま、ボロネーゼを食べることに意識を切り替えた。梨花はセレクトしたボンゴレパスタがいまいちだったみたいだ。半分ほど食べた後、頬杖をついてあさりをつつきながら話題を探す顔をして澪をじっと見た。
「てかさ。軍司課長が澪を相手にするかどうかは置いておいて。澪的にはどうなの? もうけっこう三課も長くなってきたから大体性格とかもわかるでしょ。それを踏まえて、軍司課長、あり、なし?」
 梨花は本当にこの手の話題が好きだ。
 今までに他の三課のメンバーについては、気になる人はいないのかと何度か聞かれたことはあったが、軍司のことについては、そう言えばまだ話題にあがっていなかった。そう考えると今まで聞かれなかったのが不思議だったな、と思いながら、そうだねぇと澪は気のない返事を返した。
「ありとかじゃなくてさ、梨花はさ、イケメンの芸能人に恋愛感情を持てるかなんて考えたりする? しなくない? 私にとって軍司さんってなんかそんな感じ」
「ん? どゆこと?」
 素直な気持ちを言うと、梨花は怪訝そうに眉を顰めた。
「向こうは仕事ができてイケメン。若くしてもうすぐ課長でしょ。怖いイメージあるからさ、社内の女の子からは敬遠されてるとこあるけど、例えばちょっとでも優しくすれば大抵の子はころっといっちゃいそうじゃん。要は選びたい放題。そんな相手を自分と同じ土俵で考えないでしょ。ありかなしかジャッジする以前の問題って感じ」
「ああ……ふーん、謙虚」
 梨花は自分のネイルにちらっと視線を落としてつまらなそうに答えてから、不意に顔を上げてにやっと笑った。
「でもそれって結局はありってことじゃない? 自分もころっていくかもしれないって思うからこそだよね」
 揶揄うような表情の梨花を見つめながら澪は目をぱちぱちさせた。

「んじゃ先行くね」
「おつかれ?」
 その後ランチを食べ終えた二人は会社に戻ってきてトイレに寄った。澪は歯磨きをして軽く化粧を直すと梨花とそこで別れる。梨花は化粧直しが長いので、残りわずかな昼休みを使って待っていられないのだ。言葉を交わすとトイレを出た。
 三課のフロアに戻るといつもよりも人気が多かった。三課には澪以外にも事務員が数人いるが、その事務員以外にもデスクに座っている人がちらほらいる。営業の社員は日中は大体出払っているのでこれは珍しいことだった。ランチ中に噂の的だった軍司も自席でパソコンを叩いている。澪はフロアを見渡すように視線を巡らしながら席につくと、ランチバッグを引き出しにしまった。
 休憩明けまであともうちょっとあるはずだと時間を確認するためにスマホを手にした。
(やっぱイケメンだよなあ)
 なんて、さっきちらっと見た軍司の顔を思い出しながらスマホに指を滑らす。
 少し冷たい感じはあるが、切れ長の目、すっとした鼻筋、薄い唇。おそらくワックスなどで整えていると思われる、短めの髪型も顔がいいからかより一層似合って見える。今日は濃いめのグレーのスーツだが、いつも仕立てのよさそうなスーツを着ている。それなりに上背もあるし、もちろんお腹なども出ていない。引き締まった体躯であることは服の上からでも窺えた。
(……ころっといくかなあ)
 澪は梨花との会話を思い出して首を捻る。自分とどうにかなるなんて考えたこともなかった。違う世界の人。いい大人が芸能人との恋愛を本気で夢見ることなんてない。それと同じでそういうことを考えるのはなんだかものすごく身のほど知らずな気がしてしまう。イケメンを見て眼福。それだけに留めておいた方が平和だ。それに……。
 そんなことを考えながら、パソコンにパスワードを打ち込んでいた澪は不意に名前を呼ばれた。
「菅原」
 その声が軍司のものだったので、あまりのタイミングのよさに鼓動が跳ねる。しかし澪はそれを態度には出さず、はいと返事をしながら声の方を向いた。
「ちょっといいか」
「はい」
 もう一度返事をして自分の席を立って軍司の席の近くまで行くと、軍司はパソコンに向けていた切れ長の目を澪へ向けた。
「今日、手が空くか?」
 そう言われて、すぐに午後にやろうと思っていた仕事を思い浮かべる。そして、その中で今日中にやらなくてはいけない仕事はなかったかを頭の中で素早く確認した。
「いえ、急ぎのものはないので、明日に回すこともできますが」
「そうか、よかった。ここ、別のものも押せばいけそうだから追加で提案することにした」
 そう言って軍司は一枚の紙を澪の前に出した。
 受け取って目を通すと、それは見積書で、余白に軍司の字で何か書き込まれている。
「それ、前に先方に出してる見積もりだから。これをベースにそこに書いてあるやつを追加して資料と見積もりを作り直してほしい」
「わかりました」
 澪の返事を聞くと軍司はパソコンの画面に顔を戻して、キーボードをパチパチと叩いた。
「俺は今日はこの後出て戻らない。明日は……」
 どうやら自分のスケジュールを確認しているようで、画面を見ながら軍司は続けた。
「ああ、昼はいる。そうだな、昼休憩に入る前に見れるようになってると嬉しい。元の資料は共有に入ってる。わからないところはあるか?」
「ありません」
「そ。じゃあよろしく。何かあったらメールは見られるから送っといて」
「はい」
 軽く一礼して、手にした見積書に書いてある軍司の字を読みながら席に戻る。早速言われた作業に取りかかっている間にも、軍司の席からはひっきりなしに声が聞こえてきていた。
「最初からこんなに落とすな。一回この間ぐらいの額を提示して相手の反応を見ろ。あまり先方の言うこと聞きすぎんなっていつも言ってるだろ」
 今度は澪と入れ替わりに呼ばれた山川が見積もりの甘さをこんこんと説かれているらしい。はい、はいと何度かの返事の後に、出し直してもう一回持ってこいと言われて山川は席に戻された。すると間髪を容れずに、今度は今しがた外出から戻った二人を呼び止める軍司の声がフロアに響いた。
「はぁ? まとまんなかった? 滝沢、お前は何のために一緒に行った?」
 納品したものにトラブルがあり、担当だった橋口と三課でもベテランの部類に入る主任の滝沢がフォローに入って処理にあたっているということは、澪も何となく把握していた。軍司の声から察するに、現場に入って交渉したのに、上手く話をまとめられなかったのだろう。さり気なくそちらを見やれば、眉を顰め難しい顔をしている軍司がいた。軍司が怒ると迫力があるので、場はぴりっとした空気に包まれている。軍司の前に立つ二人の顔は強張っていた。
「出るまであと四十分ある。もっと詳しく説明しろ」
 言いながらノートパソコンを手に持って立ち上がった軍司は最も席が近い事務員に声をかけた。
「A会議室、空いてるか」
 言われた坂井という事務員は慣れた様子でマウスを動かす。
「大丈夫です」
「今から四十分でいいから使用中にしといて」
「はい」
「あと俺のところに、外出から直帰って書いておいて」
「はい」
「悪い。あ、山川。さっきの見積もりはできたら共有に入れておけ。今日中に見とくから」
 てきぱきと指示を飛ばしながら二人を引き連れ、スタスタとフロアを横切って颯爽と軍司が去っていく。いつもながらの的確な仕事ぶりに心の中で感心しつつ、澪はパソコンの画面に意識を切り替えて自分の仕事に集中した。


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