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じゃじゃ馬ならし ~傲慢辺境伯の溺れる激情~

ひなのさくらこ / 著
笹原亜美 / イラスト
本体価格 本体1,200円+税
発売日 2021/04/30

内容紹介

君は俺が傅くただ一人の女性だ
「王命だ。お前は黙って嫁いでくるほかない」
兄の犯した罪を償うため、辺境伯ギデオンの婚約者となったアナスタシア。困窮した伯爵家の管理だけに身を捧げてきた自分に、多くの女性と噂が絶えないギデオンが満足するはずない。事実、彼の冷ややかな態度に、この婚約はなかったことになるものと思っていたが――。「君を欲しがる俺を許してくれ」官能を直撃する甘い声で理性を蕩かされ、懇願するように快楽を埋め込まれる。甘美な誘惑に溺れていき…。愛の乞い方を知らなかった放蕩辺境伯が、気丈に生きてきた令嬢を包み込む、深き激愛。

立ち読み

「………畏れながら、今一度ご説明いただけますでしょうか」
 アナスタシア・フランシス・ハイドは血管が透けて見えるほど色白の顔を青ざめさせ、紅がなくとも赤い唇を開いて喘(あえ)ぎながら問いかけた。
「そなたの兄であるロチェスター伯爵ローレンスの後見を、余が務めてやろう」
 玉座の主(ぬし)は足を組み、肘掛けにもたれながらそう言った。姿勢から想像するほど尊大に見えないのは、手足が短く小太りでどこかユーモラスなことと、常に微(ほほ)笑(え)みを絶やさない柔和な表情のせいだろう。
「ありがたき、幸せにございます。なれど」
「うん? ……そうか。そなたが今一度の説明を乞うたのは、そのほかのことか」
 サンプトン国王ヘンリー二世は元から細い目を更に細くして、アナスタシアが二度と聞きもらすことのないようはっきりと告げた。
「アナスタシア。そなたが余の弟であるゲルベンブルク辺境伯ギデオンの妻となるのならば、そなたの兄ロチェスター伯爵ローレンス・オーブリー・ハイドのしでかした罪を不問にし、困窮するロチェスター伯爵家の抱える借金を肩代わりするばかりでなく、その後の領地運営が軌道に乗るよう余が後見までしてやろうと、そう申したのだ」
 アナスタシアは乾ききった喉を潤したくてたまらなかった。それは、今まで幾度となく借金取りの対応をしてきたおかげで、交渉事において動揺を表に出す愚かさを知り尽くしているからであり、そして今自分が口を開けば、狼狽(ろうばい)を示すかすれた声しか出ないことが分かっていたからだ。
「発言することを、お許しいただけますでしょうか」
 完全ではないまでも、どうやら聞き苦しくない声が出てホッとする。
「許す。ここは非公式の場であり、余はそなたを断罪するつもりはない」
 ――今はまだ。
 王の心の中で付け加えられたであろう言葉が聞こえた気がして、アナスタシアはごくりと唾を飲んだ。
「畏れながら申し上げます。陛下のお言葉は大変ありがたく、身に余る光栄にございますが、私のように取るに足らない者が武勲の誉れ高いゲルベンブルク辺境伯様に嫁ぐなど、あまりにも身分違いがすぎると身の縮む思いでございます」
「ほう。アナスタシア、そなたは余の弟のことを知っておったのか」
「敬愛するヘンリー二世陛下。陛下の弟君であられる辺境伯様のご高名は、隠れることなく王国の隅々にまで轟(とどろ)いております」
「うむ。あ奴の華々しい功績は遍(あまね)く知れ渡っておるようだな」
 王は声に笑いを滲(にじ)ませた。アナスタシアの言葉に込められた、王弟の私生活に関する指摘を正しく理解した証だ。言いすぎたかと一瞬ヒヤリとしたが、間違ったことは言っていない。最強の呼び声高い辺境伯軍を率いるギデオンの武功と共に、彼の派手な私生活もまた広く知られた事実だった。
「そのギデオンの妻は自分には務まらぬと、そう申すか」
「はい。身の程知らずを懲らしめようと、曾祖父が墓から這(は)い出てきかねません」
「曾祖父というと……隻(せき)眼(がん)卿(きょう)エドモンドだな。それで? 他にも言いたいことがあるのだろう。遠慮なく申せ」
「はい。当家の窮乏は先ほどの陛下のお言葉どおりでございます。私は日々の生活に追われ、貴族令嬢の嗜(たしな)みを身につける暇(いとま)もございませんでした」
「嗜みの代わりに、何を身につけたと?」
「まず、料理」
「料理か。確かに貴族令嬢の嗜みとしては珍しいが、然程非常識なものでもあるまい」
「そのような生易しいものではございません。窮乏のあまり料理人を解雇したことによる、やむなき仕儀にございます」
「なるほど。他は?」
「次に、掃除」
「掃除か。それは召使いを」
「はい。窮乏により解雇したためでございます」
「ほう。次は?」
「庭の手入れを」
「花壇に咲く花々の手入れなら、世の令嬢もすることであろう」
「いえ、花壇ではなく庭木の剪定(せんてい)を」
「庭木の剪定!」
 国王ヘンリー二世は叫ぶと、細い目を見開きながら訊(たず)ねた。
「それも、庭師を」
「はい。窮乏のあまり解雇いたしましたが、放置していた樹木が街路を覆うほどに茂ってしまい、見よう見真似で」
「……ロチェスター伯爵邸はサローネにあったな。使用人は何人いるのだ」
「祖父の代から勤めている執事と、母が嫁ぐ時に実家から連れてきた侍女の二人にございます」
「何と! あの広大な屋敷をたった二人で管理しておるのか」
「屋敷の部屋は兄と私の居室と来客用の部屋を除き、その殆どを閉じております。また、領民たちが交代で手伝いに来てくれますので、それでどうにか」
 王はううんと唸った。
「伯爵領は昨年まで、二年連続の不作に苦しんでおったな。今年はどうだ」
「おかげさまで、昨年までの苦しみが嘘のような豊作に恵まれました。来年も同じであれば、少しは領地からの収入を見込めるかと考えております」
「それはよいことだ。先代ロチェスター伯爵デレックは領民から慕われていたと聞く。代が下がってもそれが続いているのであれば喜ばしい。治める領民の生活に目途が立ち、博打紛(まが)いの投資で財産を失った頼りない兄の後見を、一国の王が務めると言うのだ。もはや嫁ぐのに何の憂いもなかろう」
 まだその話は続いていたのか。アナスタシアは焦りを募らせた。
「畏れながら申し上げます。身につけるべき嗜みを疎(おろそ)かにしてきた私が、敬愛するヘンリー二世陛下の弟君に嫁ぐなど、恐れ多さのあまり身の置き所もございません。叶うならば私は嫁ぐことなく、領地の片隅で生涯を送りたく存じます」
 アナスタシアの頭上に静寂が訪れる。もしこれが罪人の取り調べならさぞ効果的だっただろう。この威圧、この沈黙に耐えかね、やってもいない罪まで自白してしまいそうだ。
 冷や汗を流すアナスタシアだったが、ふと空気が和らいだのを感じて希望を抱いた。
「そうか。そなたはどうあってもギデオンの妻にはなりたくないと、そう申すのだな」
「なりたくない、などとは決して。私ごときでは勿体なく、畏れ多いことと申し上げるばかりでございます」
 そこは譲れないと言葉を重ねた。こんなところで不敬の罪まで着せられてはたまらない。
「……アナスタシア・フランシス・ハイド。年齢は十九歳。現ロチェスター伯爵ローレンス・オーブリー・ハイドの妹。母を十五年前、父である先代ロチェスター伯爵デレックを四年前に亡くし、以後は事実上の領主として領地運営を行っている」
 身じろぐことすらできないアナスタシアに王は言った。
「兄とは違いそなたは大層熱心に学問に励んでいたと報告を受けている。特に歴史と算術に興味があったようだな。他国との関係を作るには歴史を識(し)ることは欠かせん。また、国内の各種産業に流れる金は莫大で、高度な算術を理解しているそなたの知識は貴重なものだ。余のたった一人の弟で、国防の要であるゲルベンブルクを治めるギデオンのよき妻となるであろう」
 反論しようとしたアナスタシアを抑えるように王は片手を上げた。
「リンゼイ公爵家のクリステンを知っておるか。余の姉であるコンスタンスの娘だから姪(めい)にあたるのだが、素直な愛らしい子でな。公爵家では大変な溺愛ぶりだ。男ばかり三人続いた後の、それもとうに諦めた頃にできた娘とあってはやむを得んだろうが、深窓の姫として可愛がりすぎたようだ。よもや国内の、使用人をたった二人しか雇えぬ貧乏貴族と駆け落ちするなど、誰も予想していなかったであろう」
「……陛下」
「ああ、よいよい。そのように硬くなるな。そなたを責めているのではない。ただ事実を話しているだけだ」
 組んだ足の上で指をトントンと打ち付けながら、ヘンリー二世は目を細めた。
「よいのだ。駆け落ちと言ってももう三月も前のこと。しかも、たった一晩で連れ戻したではないか。それだけでも相手は余程計画性のない、知恵の回らん甲斐性のない男だと知れる。何せ困窮する家計を助けようと、残り少ない資産を根こそぎ胡散臭い投資話につぎ込んだばかりか、借金まで作った挙句の一文なし。妹に残された母の形見の宝石までも売り払い、その金を手にリンゼイ公爵家の秘宝とまで言われるクリステンを攫(さら)うなど、呆れ果ててものも言えぬわ」
 アナスタシアは下唇を噛みしめた。その悲痛な表情を憐れんだのか、王は僅(わず)かに口調をやわらげる。
「醜聞(しゅうぶん)はもみ消した。クリステンの三人の兄が血に飢えた獣さながらの様相だったが、それも言い聞かせ抑えておる」
「なぜ、陛下は、そこまでして……」
 もはやかすれ声を取り繕えずに問えば、意外そうに首を傾げられた。
「なぜ? 決まっておるではないか。可愛いクリステンが泣くのだ。ローレンスが恋しい、愛しいと。日も夜もなく泣き暮らしておる。父であるリンゼイ公爵もほとほと困り果て、余に相談してきたのだ。無理矢理どこぞに嫁がせても、下手をすれば自ら命を絶ちかねん。こうなった以上、本人たちの望むとおりにしてやるしかあるまい」
 だからこそ、国王直々の後見であり、資金援助なのだ。確かに有難い話ではあるのだが………。
「だ、だからといって、私がゲルベンブルク辺境伯様に嫁ぐ理由には」
「アナスタシア。そなた、クリステンが嫁いできたらどうするつもりだ」
「どうする、とは」
「小姑(こじゅうと)として居座る気か」
「居座る……、そのようなことは。ただ、家政に関しては私が」
「余が後見すると言ったはずだ。領地運営だけではなく家政についても十分な手当てをするつもりでいる」
「それは……大変、有難く」
「アナスタシア」
 特別大きな声でもないのに、場を制する響きがあった。
「アナスタシア。クリステンだけではない。余は年の離れた弟が可愛くてならん。母は違うがギデオンは昔から余を慕ってくれている。国と余に忠誠を誓い、日々その身を賭(と)しているのだ。だが、なかなか身を固めようとせず困っておった」
 王はこれ見よがしにため息をついてみせた。
「そこで余は考えた。想い合う二人のすぐ側に、年頃の男女が二人。片や荒事の多い地で兄に忠義を果たそうとする男。片や頼りない兄に代わり懸命に伯爵家を守ってきたが、今やその役目を終えんとする美しい令嬢。この二人を娶(めあわ)せ夫婦とすれば、万事丸く治まるのではないかと」
 滔々(とうとう)と語る王の前で、アナスタシアは血の気の失せた面(おもて)を伏せていた。
 父を亡くしてから……いや、父が病に倒れてから、アナスタシアは懸命に伯爵家を支えてきた。やる気のない兄ローレンスを助け、尻を叩き、父の教えを忠実に守ってきたのだ。
 聞く気がないのか下手にアナスタシアができるのがいけないのか。兄は詩だの歌だの楽器だの、一銭にもならないことに夢中になるばかり。床についた父がアナスタシアをすまなそうに見るたび、自分が男であったならと何度思ったことか。
 しかし現実は無情だ。父を亡くし兄が爵位を継いだ結果、歴史あるロチェスター伯爵家は斜陽も極まれりと口々に囁(ささや)かれる有様だった。
 だが何よりもアナスタシアを絶望させたのは、王家の血脈を受け継ぐリンゼイ公爵家の姫君と兄が駆け落ちしたことだ。
 我が兄ながら一体何を血迷ったかと正気を疑った。リンゼイ公爵と言えば代々宰相を務める国のナンバーツーだ。妻は王の同母姉。公爵家の息子たちは宰相の跡を継ぐ長男が文官に、二男と三男は軍と近衛に身を置き、いずれも筋骨逞(たくま)しく貴族令嬢たちの憧れだと聞いている。
 その兄たちに囲まれていながら、ローレンスのどこに惹かれたのか全くもって理解できない。もしや強引に拐(かどわか)したのかと恐怖に震えたが、どうやら男臭い兄たちとは全く逆の、中性的で優しげな姿にクリステンが参ってしまったらしい。
 公爵家の追っ手により、二人はただちに連れ戻された。さすがリンゼイ公爵と言うべきか、たった一晩とはいえ致命的なはずの駆け落ち騒動は完全になかったこととなり、もしやこのままやり過ごせるのではと淡い期待を抱いていた時、王家を示す剣と大鷲(おおわし)の封蝋(ふうろう)が施された手紙が手元に届いた。しかもなぜか元凶である兄ではなく、妹のアナスタシア宛に。
 恐る恐る開封し、慄(おのの)きながらも呼び出されるまま城へと赴く。無論断ることなどできはしない。そして告げられた二組の縁談の話に驚いたのも束の間、這いつくばって有難がるのが当然であるかのような物言いに、アナスタシアは腹の底から憤(いきどお)りが湧き上がるのを感じた。
 二人を娶せるためかついでかは知らないが、なぜ王の弟と結婚しなければならないのか。父亡き後、自分がどれだけ苦労し辛酸をなめてきたか知りもせず、用済みの道具のごとく遊び人の弟に充てがおうというのか。
 絶対君主制のサンプトン王国に於いて、王の言葉は神に等しい。そんなことは百も承知で、それでも易々とその言葉に頷(うなず)くことはできなかった。
 どんな苦境の中にあっても、ロチェスター伯爵家が税を滞納したことは一度もない。適齢期を迎えたアナスタシアの社交界デビューを見送り、貴族の体面が保てないほどの困窮の中にあってさえ、王国の臣民として義務を果たしてきたのだ。
 ローレンスを罰するのならまだ分かる。伯爵家に対し処分を言い渡すのなら受け入れよう。だが、思いつきとしか思えない婚姻を強いるのが、眇(びょう)たりとはいえ国家に尽くしてきた者に対する仕打ちなのか。そもそも自分のような貧乏貴族を充てがわずとも、王弟殿下であれば国内はおろか国外の姫君まで選(よ)り取り見取りではないか。
 アナスタシアは険しい目で玉座を見上げた。しかし、身の内に渦巻く怒りをぶつけようと口を開きかけたまさにその時、幾度となく夢に見た光景がふいに蘇(よみがえ)ってきた。
『ローレンスを頼んだぞ、アナスタシア』
 病み衰えた父のかすれた声。
 目眩がするほどの強さで耳鳴りがして、アナスタシアはきつく目を瞑った。追い打ちをかけるように目に浮かんだのは、涙に汚れた兄の顔だ。
 父を亡くしたあの日。罪悪感に押し潰されそうなアナスタシアを、ローレンスは決して責めたりはしなかった。ただひたすらに嘆き悲しみ、幼子のように助けを求めて妹に縋りついてきただけ。
 アナスタシアは拳を強く握りしめると、知らず浅くなっていた息を意識して深く吸う。そして目を開き、よく通る声ではっきりと言った。
「畏れながら陛下。先ほども申し上げましたとおり、私は誰とも結婚するつもりはございません」
「なぜだ。我が弟に何の不満がある」
「誰に不満があるかないか、そのようなことを申し上げているのではございません。そもそも愚兄とリンゼイ公爵家の姫君とが無事婚儀に至ったとして、私の存在が邪魔であれば嫁がずとも方法はいくらでもございます」
「ほう。申してみよ」
「修道院で神に身を捧げるもよし。もはや貴族としての体面を取り繕う必要もないとなれば、陛下のお言葉どおり算術の心得を生かして働くことも不可能ではないと存じます」
 王は指先で顎(あご)を撫で、組んだ足を解いた。
「そなたはどうあっても、我が弟に嫁ぐことはしないと、そういうことか」
「畏れ多いことながら」
「ロチェスター伯爵家への援助と後見は取りやめると、そう言っても?」
「はい」
「爵位は返上することになるであろう。そうなればアナスタシア、そなたは自活する術を持たない兄を養うために、その細腕で並大抵ではない苦労を強いられることになる。それでもいいのか」
「覚悟のうえでございます」
 王はふむ、と頷き、顔を伏せるアナスタシアを玉座から見下ろした。
「アナスタシア。そなたは要らぬ覚悟をするよりも、もっと賢く立ち回ることを覚えた方が良さそうだ。勘違いせぬよう今一度言うが、余の姪であるクリステンを、爵位のない者と結婚させることはできん。そなたがギデオンに嫁ぎさえすれば、全ては丸く治まるのだ」
 アナスタシアは顔を上げた。
 思えば亡父はよく口にしていた。お前は誰よりも祖父エドモンドに似ている。その冷たくも温かくも見える灰色の瞳も、燃え上がる炎のように赤い髪も。
 このサンプトン王国を大陸の覇者とした立役者。激しい気性とずば抜けた剣の技量で、常に先陣を切って敵地に突撃し道を切り開いた。そのくせ褒賞には無頓着で、部下や戦死した兵の遺族に惜しみなく財貨と名誉を与える。当然のようにその人望は高まり、それは一時王位を揺るがすほどだったという。
 戦で片眼を失い、それでも戦いを求め戦場に留まった。王国軍に赤髪で隻眼の男を見つけただけで敵は恐慌に陥り、たちまち白旗を掲げたという逸話はもはや伝説だ。
「畏れながら陛下。リンゼイ公爵家の姫君が愚兄と結婚できなかったとしても、生憎私にはなんの痛痒(つうよう)もございません」
 思いのほか低い声が出た。だがもう、こうなっては誰にも止められない。たとえ仮に、父がこの場にいたとしても。
 王は細い目を上品に見開いてみせた。
「なぜそのようなことを。クリステンは余の可愛い姪であるぞ」
「陛下には可愛い姪御様でも、私にとっては赤の他人。愚兄の行いは責められるべきではございますが、リンゼイ公爵様のお力により、あの醜聞は完全にもみ消されたものと思っております。そうなれば今更愚兄に拘泥(こうでい)する理由もございますまい。そもそも姫君も、駆け落ちなど恥ずべき行いをすることなく淑女として身を慎み、兄とのことはリンゼイ公爵様の理解を得るため努力をなさるべきでした。それを怠り周囲をキリキリ舞いさせた挙句、叔父とはいえ陛下にまでこのような申し出をさせるなど、私からすればとんでもない我儘(わがまま)としか思えません」
「我儘か。……そなた、自分の言葉の意味を分かっておるのだろうな」
 アナスタシアは許しを得ることもなく立ち上がり、腰まで届く炎さながらの赤い髪を軽く払った。
「不敬は重々承知のこと。腐っても隻眼卿エドモンドの曽孫、権力をかさに我が身を意のままにしようとする輩に屈するわけにはまいりません」
「余に向かって輩と言うか」
「私の物言いがお気に召さずばこの命、たった今この場でお絶ちください。サンプトン王国の隅も隅、木(こ)っ端(ぱ)貴族の娘が手討ちにされたとて、誰も何とも思いますまい。さあ陛下、疾(と)くなさいませ!」
 大陸を統(す)べるサンプトン王国の賢き王であるヘンリー二世は、眼前の令嬢をじっと見つめた。陶器のようになめらかで白い肌に、今は冷ややかに輝く灰色の瞳。そして均整のとれた女らしい肢体。
 大層美しい娘だが、些(いささ)か目元がきりりとしすぎているかもしれない。その瞳は猫を思わせ、長い睫毛(まつげ)が瞬くたびに印象が変わるのを飽きることなく見ていられた。
 だが何と言っても目を惹くのはその髪だ。艶(つや)やかに波うつ豊かな髪は触れれば火傷(やけど)するのではないかと思えるほどに赤く、今は怒りのためか逆立ち白い頬に照り映えている。
「なるほど。隻眼卿エドモンド、またの名を『紅き鬣(たてがみ)の獅子』か……」
 ヘンリー二世は小さく呟いた。エドモンドのことは先王からも聞いてよく知っている。勇猛たるその姿と、国へ対する愚直なまでの献身。そして何よりもその髪色から分かるとおり、大変な癇癪(かんしゃく)持ちであったことも。
 こうでなくては面白くない。王は内心にやりと笑うと、そんな思いはおくびにも出さず、穏やかな口調でアナスタシアに言った。
「アナスタシア。そなたをこの場で無礼討ちにしたとて、ローレンスの罪が減じるわけではない。爵位を召し上げるどころか、リンゼイ公爵家の三兄弟がローレンスを屠(ほふ)ったとて文句は言えぬぞ」
「敬愛するヘンリー二世陛下。人の行いは全て己に還(かえ)ってくるものと思っております。それは兄にしてもクリステン様にしても同じこと。その証拠に、愚兄の行いを諫(いさ)めることのできなかったこの私も、今は陛下のお手で成敗されるのを待つ宿命(さだめ)です。数ならぬ身とはいえ私も王国の臣民の一人。おこがましい限りではございますが、陛下の剣が正しいご判断の下振るわれますようにと切に願っております」
 言いたいことを全て言ったアナスタシアは、清々した気持ちで膝をつき頭を下げた。自分はこの場で討たれロチェスター伯爵家は取り潰し。兄は醜聞を表に出さずに制裁するため秘密裡に消されるだろう。
 だが、どのみちこんなやり方では――アナスタシアだけが奔走し、ローレンスがのんびりと日々詩歌を楽しむような状況では――ロチェスター伯爵家は長くはなかった。いっそのこと、この場できれいさっぱり消し去った方が潔いではないか。
 父から「その癇癪を爆発させる時はよくよく場を見極めるのだ」と言い聞かされていたことを思い出して胸が痛んだが、もはや後の祭り。今更泣いて慈悲を乞うくらいなら、この場で舌を噛んだ方がましだった。
「己の行いが還ってくる、か。……アナスタシア。ではそなたの言うとおり、ロチェスター伯爵家の兄妹の罪と、クリステンの罪。これに関わりのないものが悲劇に巻き込まれることがあってはならないと余は思うが、そなたはどうだ」
 王の言わんとすることが汲み取れず、アナスタシアは僅かに眉根を寄せた。
「それは……もちろんでございます」
「罪なきか弱い存在が、両家の思惑や爵位、醜聞のために命を失うことを望まぬと、そう申すのだな」
「は……? それはいったい」
「はっきりと答えるのだ、アナスタシア・フランシス・ハイドよ。そなたは罪なき者が此度の件で命を落とすことを望むか否か、どちらだ」
「望みません」
 戸惑うアナスタシアに王は畳みかける。
「ではアナスタシア、そなたの献身と犠牲により、罪なき無垢な存在が助かるとしたらどうする。その身を捧げるか」
「お待ちください。それは」
「答えよアナスタシア! そなた達の罪を負って死を目前とする無垢な者のために、身を捧げるか否か!」
 迷うことはない。アナスタシアはきっぱりと答えた。
「捧げます!」
「よく言った」
 前のめりになっていた体を背もたれに預け寛(くつろ)ぐ王の姿に、胸騒ぎにも似た嫌な予感を覚える。だが、アナスタシアは自らの言葉に偽りがないことを知っていた。それが誰であれ、自分たちの罪に巻き込まれる者がただの一人でもいてはならない。
 決意を胸に玉座を見上げたアナスタシアに向かい、王は口を開いた。
「身ごもっておるのだ」
「……み、ごもる、とは」
 驚きに目を見開いたアナスタシアは、王の言葉を理解すると共に愕然(がくぜん)として赤い唇を僅かに開いた。サンプトン国王ヘンリー二世は、玉座の手すりに肘をつきながら物憂げに言う。
「クリステンは身ごもっておる。アナスタシア、そなたの兄の子だ。先ほども言ったとおり、余はそなたが弟のゲルベンブルク辺境伯ギデオンの元へ嫁がない限り、クリステンとローレンスの婚姻を認めるつもりはない。そうなればクリステンは修道院に入り、腹の子は流すことになるだろう。どうだアナスタシア。そなたの罪なき甥(おい)か姪の命を助けるため、余の義妹となるか否か」
 丸い顔の、細い目を糸のようにして笑う王を前に、アナスタシアは歯を食いしばり、癇癪を爆発させるのを懸命に堪えた。


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