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国王陛下は恋を知らない王女を愛でる〜略奪の花嫁〜

姫野百合 / 著
白崎小夜 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2020/08/28

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内容紹介

どんな手を使っても俺の妻にする
「抗うことは許さない。俺の妃になっていただく」ナイトフォールベイの王女フィオナが嫁ぐ前夜、元許嫁でありランズエンドの国王陛下となったライアンが、フィオナを攫いにきて監禁してしまう。別の国に嫁ぐのはフィオナの心変わりと誤解され、ベッドへ押し倒され、ライアンからの熱い愛撫を与えられ、強引に純潔を散らされてしまう。誤解が解けないまま、ふと優しく触れてくる指先に縋りたくなるけど、ライアンは初恋の人が忘れられないと聞かされて……。父王を追放し国王陛下となった王子×国のため身を捧げる王女の真実の愛
※1〜4話『略奪の花嫁』改稿版

立ち読み

 初めて会った時、彼は小さな男の子だった。
「お会いできて光栄です」
 きらきらと緑の瞳を輝かせ、頬を初々しく薔薇(ばら)色に染めながら、年齢に見合わない礼儀正しさできちんと挨拶をするのがとてもかわいかったのを覚えている。
 フィオナは、自分よりも随分と背の低い彼のために膝を折り、頬に彼のキスを受けた。
 この小さな男の子が、やがて自分の夫になるのかと思ったら、とても、不思議(ふしぎ)な気がした。
 二度目に会った時の彼は少年だった。
「あなたにお会いしたくてたまりませんでした」
 はにかむように微笑む彼のキスを頬に受けた時、彼の目線が自分と同じになっていたのに気づいた。
 三度目に会った時、彼の背丈はほんの少しだけフィオナを追い越していた。
 フィオナが彼を見上げる時、彼が誇(ほこ)らしそうな顔をするのが少ししゃくだった。
 別れのキスは頬にではなく唇の上に落ちてきた。それは、ふわりと落ちてきた瞬間に溶けていく春の雪のように淡いキスだったけれど、フィオナにとっては初めてのキスだった。
 きっと、彼とはこうしてお互い大人になっていくのだろう。
 そして、そう遠くない将来に、フィオナは、彼と神の前で永遠の愛を誓い、生涯添い遂げるのだ。
 それはもうすべて決まっていることだった。
 フィオナが望んでいても、いなくても。
 だが———。
 四度目に会った彼は、フィオナを冷たい目で睥睨(へいげい)した。
 そこにいたのは、あのかわいらしい男の子ではなく、フィオナの知らない人だった。
 彼は男になっていた。


          ◇◇◇


 岬の上を一羽の海鳥が舞っていた。
 白い鳥だ。
 大きな大きな鳥だった。
 フィオナは、絹のドレスの裾をひるがえし、南の塔の上の胸壁から身を乗り出して、海鳥の行方(ゆくえ)を追いかける。
 ナイトフォールベイは深い入り江の奥にある国だ。国土のほとんどは海で、フィオナが生まれ育ったこの城も海の上にある。
 厳しい海風をしのげる入り江に恵まれたナイトフォールベイには、季節ごとにたくさんの海鳥が訪れた。
 赤い嘴(くちばし)のパフィン。白と灰のハーレキンのようなカモメ。濡れ羽色の鵜(う)。
 海鳥たちは、華麗に空を飛ぶ姿と、それとは裏腹な陸での愛(あい)嬌(きょう)のある仕草とで、いつでもフィオナの目を楽しませてくれた。
(でも、あんなに大きな白い鳥は初めて見るわ)
 どこから来たのだろう? このナイトフォールベイの穏やかな内海を求めて、長い長い旅をしてきたのだろうか?
 それとも、もっともっと遠いところを目指しているのか?
 岬の向こうは外洋だ。穏やかなナイトフォールベイの入り江とは違い、荒れ狂う風と波とが海鳥を待っている。
 それでも、そこへ向かうというのだろうか?
 海鳥は岬の上をゆっくりと旋回し続けている。目には見えない道を捜し求めるように、何度も、何度も、ただ、ひたむきに。
 空には雲一つない。
 海は鏡のように凪(な)いで、ただ静かに空の色を映している。
 もう、どこからが空でどこからが海なのかもわからないほどの青を、海鳥はひとりじめにしていた。白く大きな翼を、ぴん、と伸ばし、悠々と風を捕らえるその姿は、どこか誇らしげでさえある。
(もしも、あの鳥が岬を越えていったら……)
 フィオナは、ふと、今日という日を占ってみたくなった。
(もしも、あの鳥が岬を越えていったら、今日は、きっと、いい日になるわ)
 ほんとうは、今日がいい日になることなど決してない。フィオナはそれをよく知っていたけれど、それでも、占ってみずにはいられなかった。
 今日が、ほんの少しでも、いい日でありますように。
 今日が、ほんの少しでも、いい日になりますように。
 海鳥よ。岬を越えていけ———。
 ふいに、海鳥の身体が、ぐん、と高く持ち上がった。
 風が変わったのだ。
 フィオナは天を仰ぎ見た。美しく結い上げたプラチナブロンドがほつれて風に舞い上がる。瞳に空の色が映る。海のグレーと呼ばれる灰味がかった薄青の瞳が、今だけは真っ青に染まる。
 海鳥は上昇気流に乗ってぐんぐん高く上っていった。まるで天上にも届けとばかりに、青の中を突き進んでいく。
 夏の終わりの太陽の光に、白い翼がきらめき、そして。
「あ……」
 フィオナが小さく声を上げた時には、もう、海鳥の姿はどこにも見えなくなっていた。
 飛んでいってしまった。あっけなく岬を越え、広い広い外海へと海鳥は消えていった。
 残ったのはなんとも言えない虚しさだけ。
 馬鹿なことをした。
 今日がいい日になるなんて、ただの、夢、まぼろし。
 ほんとうは、今日はとても悪い日。できるものなら、永遠に来なければいいとさえ願った日。
 何かが全身から抜け落ちてしまったような心地だった。
 いっそ、連れていってくれればよかったのに。あの海鳥と一緒に、空と海の青の中に溶けてしまえればよかったのに。
 呆然と立ち尽くしていると、ふいに、下の階からフィオナを呼ぶ声が聞こえてきた。
「姫さま! 姫さま! どちらにおいでです?」
 侍女のエンマの声だ。
「姫さま! お返事をなさってください」
「ここよ!」
 フィオナは下の階に向かって答えた。
「エンマ! わたしはここにいるわ!」
 声が届いたのだろう。よろよろと石段を上ってきたエンマが、階段の出口からこちらに向かって声を張り上げる。
「姫さま。また、こんな危ない場所においでになって。早く! 早く、こちらへ! エンマと一緒に戻りましょう」
「まだ戻りたくないわ」
 フィオナは海に視線を向けたまま小さく首を横に振った。わがままだとわかってはいたが、言わずにはいられなかった。
「なりません!」
 エンマの声は半ば悲鳴のようだ。
「国王陛下に知れたらなんとおっしゃることか!」
 ナイトフォールベイの国王であるフィオナの父が、フィオナのこのささやかな楽しみを快く思っていないことはよく知っている。
 南の塔は海上の城であるナイトフォールベイの城の中でも最も高い建物だ。
 無骨な石組み。吹きすさぶ風。天を仰げば空しかなく、最上階から身を乗り出せば真下はもう海。
 屈強な騎士でさえ、身一つで天に突き出されているように感じられると、恐れ、近寄らない、古(いにしえ)の砦。
 昔、戦が激しかった頃は、たくさんの兵士がここに常時配備され、一日じゅう海を監視していたという。
 戦の始まりは、いつも、この南の塔から告げられた。
 確かに、一国の王女が足繁く通うような場所ではないのだろう。
 だが、この城でフィオナに許された楽しみはほかになかった。たったのこれだけしかなかったのだ。
「もう少し……、もう少しだけ、お願い……」
 フィオナはか細い声で訴えた。
「だって、最後ですもの……」
 今日、これより、フィオナは生まれ育ったこのナイトフォールベイを離れることになっていた。幼い頃よりの許婚(いいなずけ)であったあの緑の瞳をした少年ではない、別の男に嫁(とつ)ぐために。
「おお……。姫さま……」
 エンマは、石畳の上を這(は)うようにして歩み寄ってくると、両手でフィオナの右手を包み込む。エンマの手は、小さく、皺だらけで、どこかひんやりとしている。
「姫さま。そのように子供じみたことをおっしゃってはなりません」
 エンマの口調は、たしなめるというよりは、懇願のようだった。
「姫さまはダルモアの大公妃となられる身なのですよ。それでダルモアの大公妃が務まりましょうか」
 ダルモアの大公。
 エンマがその名を口にした途端、背筋をゾッと冷たいものが走った。
 青ざめ唇を震わせるフィオナを、エンマが懇々(こんこん)と諭す。
「姫さま。ダルモアは大国でございます。ダルモアの大公妃となることは、姫さまにとって、大変な名誉なのでございますよ」
 そうかもしれない。
 この小さな入り江の国ナイトフォールベイとは違って、ダルモアの領地は広大の一語に尽きる。大公の住まう城は、金銀で埋め尽くされた、それはそれは豪華なものだと聞いた。
 フィオナがダルモアの大公妃となれば、その暮らしは、おそらく、フィオナには想像もつかないほど贅沢なものになるのだろう。
(この衣装だって……)
 フィオナは、今朝、エンマが着せつけてくれた衣装におそるおそる目を向ける。
 これは、旅立ちの際に着るようにと、ダルモアの大公から贈られた婚礼のための衣装だ。
 とても手ざわりのいい生地だった。触れると、ひんやりとした生地が指の下をさらさらと滑っていく。薄く軽やかなのに張りがあり、最上級の絹であることはまちがいがなかった。
 生地だけでもかなり高価だろうに、ぬめるような光沢を放つ絹の上には、更に、金糸銀糸でふんだんに刺(し)繍(しゅう)が施され、たくさんの宝石が惜しげもなく縫い込まれている。
 色は、ダルモアの色である真(しん)紅(く)。
 これほどまで華やかな衣装はフィオナも初めて目にした。たとえ、特別な日のための特別な衣装だとしても、ナイトフォールベイのものとは桁違いだ。
 エンマはたいそう満足して衣装とフィオナを褒めちぎったが、どんなに豪華なドレスに身を包んだところで、フィオナの胸が弾むことはわずかだってない。
 これだけのものを、こんなのはした金だと言わんばかりに簡単に送って寄越すダルモアの大公が怖かった。
 国土は小さくともナイトフォールベイだって豊かな国のはずなのに、それをはるかに上回る財力と権力とを見せつけられ、圧倒されて、フィオナなどぺしゃんこに押し潰されてしまいそうだ。
 こらえていたものがあふれ出す。
 言っても仕方がないと胸の中にしまってあった言葉が、唇からこぼれ落ちる。
「だって、わたし、今まで、ずっと、自分はランズエンドに嫁ぐものだと思っていたのよ。今になって、いきなりダルモアへ行けと言われても、どうしたらいいのか……」
 エンマの瞳に憂いが満ちた。
「おかわいそうな姫さま……。まさか、このようなことになろうとは……」
 その言葉には、口先だけのものではない、心よりの同情に溢れている。
 幼い頃に母を失い、腹違いのきょうだいとも馴染めぬまま育ったフィオナにとって、侍女のエンマは唯一の心の拠(よ)り所(どころ)だった。
 誰にも言えない胸のうちをこうして明かせるのはエンマにだけだ。
 だが、そのエンマだとて、フィオナの心のすべてを、受け止め、抱き締めてくれるわけではない。エンマは、いつでも、最後にはフィオナではなく父の味方をする。
「でも、これは国王陛下がお決めになったことなのです。国王陛下には、誰も、逆らうことはできません」
 やさしいやさしい声で突き放され、フィオナは押し黙る。
 ダルモアの大公はフィオナの父親よりも年上だ。
 噂ではたいそう好色で、既に老齢に差しかかろうという年齢でありながら、いまだ幾人もの妾(めかけ)を持ち、夜毎閨(ねや)に侍(はべ)らせているのだという。
 先年五番目の妻と離別し、現在は独り身だが、フィオナを正妻として迎えたところで、その女癖を改めるとも思えない。
「ダルモアの大公さまは、きっと、わたしを大切にしてはくださらないわ」
 そんなことはないと、エンマは言わなかった。遠回しな慰めの言葉を口にしただけだ。
「大公さまは姫さまが嫁いでおいでになるのを心待ちにしていらっしゃるそうですよ」
 心待ちにしている?
 何を?
 ナイトフォールベイとの同盟を? 父が持たせてくれるはずの持参金を?
 それとも、孫ほども年の離れているフィオナの……。
 背筋が、ゾッ、と冷たくなった。
(いやよ……。ダルモアには行きたくない……)
 顔も見たことのないダルモアの大公と結婚なんかしたくない。
 だが、エンマの言うとおり、フィオナは父に逆らう術(すべ)を持たなかった。
 国王である父の命は絶対だ。ランズエンドの王子との婚約を一方的に解消し、ダルモアの大公のもとに嫁げなどという理不尽極まりない言葉にさえ、おとなしくうなずくほかはない。
「こんなことをして、ランズエンドとの同盟はどうなるの?」
 フィオナの問いに、エンマが表情を曇らせる。
「申し上げにくいことではございますが、姫さまとライアンさまとの婚約が破(は)棄(き)となれば、自(おの)ずと同盟も破棄となるでしょう」
 ナイトフォールベイは海の国だ。古くから、その海上の城で領内を行き来する船を見張り、通行する船から通行税を取ることで潤(うるお)っていた。
 一方、ランズエンドもナイトフォールベイと同じく海沿いの国である。
 けれども、穏やかな湾内に位置するナイトフォールベイと違い、外海に向かうランズエンドの海岸線は峻烈(しゅんれつ)で、小船ならいざ知らず、大きな船を着けられるような良港となり得る入り江は一つもない。海路を利用するためには、陸路を使って一度ナイトフォールベイまで出て、改めて船を利用することを余儀なくされている。
 ナイトフォールベイの気候は温暖だ。入り江を流れる海流はあたたかく、ランズエンドであれば大地さえも凍(い)てつくような真冬であっても、ナイトフォールベイでは入り江が氷に閉ざされることはない。
 ランズエンドにはナイトフォールベイとは友好関係を保っていなければならない理由があった。
 ナイトフォールベイはナイトフォールベイで、古より武力に優れるランズエンドの力を拠り所にしている。
 たとえば、交通の要所であるナイトフォールベイを滅ぼし我がものとしようとする者が現れた時、ナイトフォールベイを守るのはランズエンドの兵士たちなのだ。
 そうやって、両国は、好むと好まざるとによらず、互いに互いを、必要とし合い、その時々で利用し合って、今日(こんにち)まで来たのである。
 ランズエンドの第一王子のライアンとナイトフォールベイの王女フィオナとの婚約も両国の絆をいっそう深くするためのものだった。
(なのに、お父さまは……)
 父は長く同盟関係にあったランズエンドを捨てる気なのだ。そして、次は南の大国ダルモアと誼(よしみ)を結ぶことにした。
 なぜ?
 そんなの、考えるまでもない。
 ランズエンドよりもダルモアのほうが利用価値があると判断したからだ。
 以前は、ランズエンドの武力が必要だったから、ランズエンドとの同盟をよりいっそう強固にするためにフィオナをランズエンドの第一王子であるライアンと婚約させた。
 けれども、ランズエンドよりもダルモアに気持ちが傾いた今は、簡単に掌(てのひら)を返し、ダルモアの大公のもとにフィオナを嫁がせることで、自身のダルモアへの発言権を高めようとしている。
 他国の王だけでなく、国民にさえ『国王ではなく商人』などと揶(や)揄(ゆ)される父らしい、腹黒いやり方だ。
 フィオナは、海のグレーの瞳を憂いに曇らせ、つい先日まで自分の婚約者であった少年のことを考えた。
 礼儀正しく、聡明で、ひたむきな緑の目をした王子さま。
 あの子はフィオナとのことが破談になったと知って、どう思っただろう?
 怒りに震えた? それとも、ほっとして、すぐに別の人を探した?
 どちらにしろ、フィオナがそれを知ることはない。
 彼とは、もう、二度と会うことはないのだから。
(ライアン……)
 彼に恋をしていたわけではない。恋を語るには、フィオナもライアンも幼過ぎた。
 それでも、あのきらきらと輝く緑の瞳を思い出すと胸が痛む。
 父はランズエンドを裏切った。フィオナも、また、彼を裏切ることになるのだ。
「ランズエンドの方々はさぞお怒りでしょうね」
「……さようでございますね」
「争いが起きるわ」
 おそらく、父はランズエンドとの戦争も辞さないつもりでいるに違いない。あるいは、今頃はダルモアの大公と結託し、ランズエンドに対抗する策を立てている最中なのかも。
「姫さま。ほんとうに、そろそろお戻りになりませんと……」
「もう、少し……。もう少しだけ……。そうね。城門が開いたら、部屋に戻ることにするわ」
 見下ろせば、満潮の時刻を過ぎたのか、少しずつ潮が引き始めていた。
 海上にあるナイトフォールベイの城と陸地をつないでいるのは石造りの橋だ。
 一本だけしか架(か)かっていないその橋も、満潮時には海中に沈んでしまう。
 陸から隔てられたナイトフォールベイの城は、まるで、海の上に浮かべられたようだった。
 その姿は、天の光景にもたとえられるほど美しい。
 だが、満潮を迎えたナイトフォールベイの城を実際にフィオナが城の外から目にしたのは、生まれてから今まで、たったの三度だけ。
 フィオナはこの城の外の世界をほとんど知らない。
 外とは、ここよりもよいところなのだろうか?
 たとえば、ダルモアはどんなところなのだろう?
 倦(う)んだ気持ちで見るともなしに海を見ていると、ゆらゆらと揺れる水面の下に石造りの橋の輪郭が透けて見えてきた。
 おぼろげだったその姿が徐々にはっきりとして、やがては、石組みの形さえも目で見てわかるほどになる。
 もうすぐ、城と陸とをつなぐ橋が海上に姿を現すだろう。まるで、海の底から一気に浮上してくるようなその様は、何度見ても壮観だ。
 ガラガラと重い鎖(くさり)を引く音が下のほうから響いてきた。
 城門が開かれる音だ。
 ナイトフォールベイの城では、満潮の際には城門を閉めることになっている。城内が海水で浸水するのを防ぐためだ。
 潮位が上がると船着場も使えなくなるので、ナイトフォールベイの城は文字通り孤島となった。
 フィオナは、息を張りつめ、城門が開くのを見守っていた。
 もう行かなくてはならない。
 あの城門が開いたら出発することになっていた。
 ダルモアの大公のもとへと嫁いでいかなくてはならない。
(いやよ。行きたくない)
 気持ちが凍りつく。
 何も考えられない。考えるのが、怖い。
 ふと、視線の端を何かがよぎったような気がした。
 金属が陽光を反射して、きら、と光ったような……。
 フィオナは目をこらしてあたりを見回す。
 何もない。
 見まちがいだったのだろうか?
 小首を傾げた時、何もないと思ったところから、いきなり、黒い塊が飛び出してきた。
 馬だ。大きい。とても大きな馬。
 鞍(あん)上(じょう)には、鈍く光る黒い鎧に身を固めた兵士。
 兵士は左手で手綱を持ち、右手には槍を携(たずさ)えている。
 兵士がこちらを見た。
 それは、ただ、そんなような気がしただけだったのかもしれないけれど、フィオナは確かにその兵士の視線を感じた。
 そのまなざしは驚くほどに力強かった。
 揺るぎない意志に充ち、真夏の陽光のような輝きを放っている。
 まっすぐに心を打ち抜いていくような激しい瞳。
 ここからでは色はわからない。
 でも、フィオナにははっきりと見えた気がした。
(きっと、緑よ)
 澄み渡る、きれいな緑———。
 槍の穂先が鋭く光った。
 先ほど、フィオナが見咎めたのはあの槍だったに違いない。
 あっと思った時には、その槍の穂先は、城門を半ば開いたまま呆然と立ちすくんでいる衛兵たちに向かって振り下ろされていた。
 黒い鎧の兵士は、長い槍を巧みに操り、逃げ惑う衛兵たちをなぎ払う。
 血(ち)飛沫(しぶき)が舞い、いやな音をたてて、衛兵の身体が転がる。
 一瞬のできごとだった。
 目を瞠(みは)るフィオナの耳を破(われ)鐘(がね)のように打ち鳴らしているのは、鬨(とき)の声。
 どこに潜んでいたのか、あちらこちらから馬に乗った兵士が飛び出してきて黒い鎧の兵士に続いた。
 彼らの手によって城門はこじ開けられ、階下からは正に阿(あ)鼻(び)叫(きょう)喚(かん)とも言うべき悲鳴と怒号が響いてくる。
「ひ、姫さま……」
「なんて、恐ろしいことを……」
 フィオナはエンマと手を取り合い震え上がった。
 部屋に戻ろうにも、身体がすくんで動けない。次々と押し寄せてくる兵士たちを、ただ、呆然と見下ろすばかり。
「姫さま……!」
 ふいに、遠くで、誰かがフィオナを呼ぶ声が聞こえた。
 続いて階段を駆け上がってくる足音。
 敵の兵士ではとフィオナはすくみ上がったが、顔を出したのは先日城に上がったばかりのまだ年若い侍女だった。長い階段を急いで駆け上がってきたのだろう。その侍女は、息が上がり、呼吸もままならないようだ。
 うずくまってしまった侍女にエンマが駆け寄り、その華奢な身体を抱き起こしながら問いかける。
「何があったのです? 報告なさい」
 侍女は、はあはあと大きく息を弾ませながら、苦しげに声を吐き出した。
「……敵襲でございます……。ランズエンドの兵が城内に……」
「ランズエンド!? では、あれはランズエンドの兵士なの!?」
「はい。まちがいございません。旗印はランズエンドのものでした」
 俄(にわ)かには信じ難かった。
 ランズエンドとの戦争が起こるかもしれないとは思ったが、それは、もっと、先の話のはずだった。
 まさか、こんなに早く攻めてくるなんて……。
「姫さま。我が軍は劣勢でございます」
 年若い侍女の息はまだ乱れている。
「報(しら)せによれば、海路も封鎖され、逃げ場はないものと……」
「ああ……。なんてこと……」
 フィオナは瞠(どう)目(もく)する。
 では、この城はじきに陥落するということか。
 そして、ナイトフォールベイはランズエンドに蹂(じゅう)躙(りん)される……。
 頭から、すーっ、と血が引いていくのがわかった。目の前が暗くなり、身体が足元から崩れ落ちる。
「姫さま!」
 いち早く我に返ったエンマが、両手でフィオナの身体を支えた。
「姫さま! お気を確かに!」
「ああ……。エンマ……。大丈夫……。大丈夫よ……」
「姫さま……。いったい、どうしたら……」
 取り乱している場合ではなかった。
 とにかく、行動しなければ。
「とりあえず、ここから降りて身を隠せる場所を探しましょう」
「そうですね……。そうでございますね……」
「うまくお父さまにお会いできればいいのだけれど……」
 おそらく、国王である父は王宮の奥の広間にいるはず。謁見の間として使われるそこが最も守りが堅い場所だからだ。
 ナイトフォールベイにも兵士はいる。あれだけ見事な急襲にどのくらい応戦できたかはわからないが、時間稼(かせ)ぎくらいにはなっていると信じたい。
 気を取り直したのか、エンマが自身を奮い立たせるかのように毅(き)然(ぜん)とした声で年若い侍女を促す。
「そこのおまえ。おまえも早く立ちなさい」
「は、はい」
「なんとしても、わたしとおまえで姫さまをお守りするのですよ」
「はい!」
 年若い侍女が起き上がりフィオナの背に手を回す。
 両側から抱き抱えられ、フィオナが歩き出そうとしたその時、階段を上ってくる新たな足音が聞こえてきた。
 きっと、衛兵の誰かが迎えにきてくれたのだろう。
 フィオナはそう思ってわずかながらも安堵したが、すぐにその期待は打ち砕かれた。
 現れたのは背の高い男だった。鈍く光る黒い鎧に身を包み、右手には血にまみれた長い槍を携えている。
 まちがいない。
 あの男だ。
 先陣を切って城門に攻め入ってきた、あのランズエンドの兵士———。
「ひいぃぃぃっ」
 エンマが悲鳴を上げた。
 年若い侍女は声も出せないまま目を大きく見開いている。
 まさか、こんなに速くここに敵兵が現れるなんて思いもしなかった。
 おそらく、城門を打ち破ったあと、一直線にここまでやってきたのだろう。
 引き返そうにも、ここは塔の上。逃げ場はない。
 立ちすくみ、ただ慄(おのの)くフィオナたちの前に男が立ちふさがる。
 男のまなざしは激しかった。揺るぎない意志と、真夏の陽光のような輝きに満ちた、力強い瞳。
 そして、その色は。
(やっぱり、緑だったわ……)
 間近で見ると、思っていたのよりも、ずっと、若い。あのような豪胆な戦い方をするのだ。きっと、歴戦の勇者に違いないと思っていたのに……。
 緑の瞳の男は、大股で歩み寄ってくると、いきなりフィオナの腕を掴んだ。
「あっ」
 強い力で引き寄せられ、細い腰を捕らえられる。
 エンマがあわてて緑の瞳の男に取りすがろうとした。
「何をするのです! 無礼ですよ! この方は……」
 男はひと睨みでエンマを黙らせる。
「下がれ。女。おまえに用はない」
「しかし……」
「下がれといったのが聞こえなかったのか?」
 男が、手にしていた槍を音もなく振り上げ、エンマの鼻先に、ぴたり、と突きつけた。
「俺の邪魔をすると言うのならば、女だからといって容赦はしない」
「ひっ……」
 エンマは震え上がり石造りの床の上に這いつくばる。
「手荒な真似はしないで!」
 フィオナが悲鳴を上げると、緑の瞳の男はフィオナに激しいまなざしを向けた。
「フィオナ。それはあなた次第だ。あなたがおとなしく俺に従うならほかの者に手出しはしない」
 その言葉に、フィオナは目を瞠る。
 では、この男の目的は自分だったのか。
 あの時、海上の橋の上から、この男の緑の瞳は、南の塔の上にいるフィオナの姿を捉えていたのだろう。そして、一瞬のうちにそれがナイトフォールベイの王女フィオナだと認め、人質にするために、まっすぐここまで駆け上がってきた。
 でも……。
 だとしたら、この緑の瞳の男はフィオナを知っていたということになる。
 初めて会ったはずなのに、迷いなくフィオナの名を呼んだ。
「どうして、わたしがフィオナだとわかったのですか?」
 男は答えなかった。代わりにフィオナの腰を抱き寄せ、とても近いところからフィオナをじっと見つめる。
「下品な衣装だな」
「あ……、これは……」
「ダルモアの大公からの贈り物か?」
 フィオナは思わず顔を背けた。
 これは罪のドレスだ。ライアンとランズエンドを裏切った証。
「ダルモアの赤か」
「……」
「あなたにこの色は似合わない」
 男の手がフィオナの胸元にかかった。
 甲高い悲鳴のような音を立てて、真紅の絹が引き裂かれていく。
 あまりの辱めに声も出なかった。
 青ざめ立ち尽くすフィオナの頬を、男の指先がなぞる。
「やっとつかまえた」
「……ぁ……」
「もう逃がしはしない」
 緑の瞳は凍てつくように冷たかった。


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