書籍詳細
王立図書館司書の侯爵夫人は離縁を望む 忘れ去られた王女の日記が紡ぐ運命の赤い糸
| ISBNコード | 978-4-86669-880-9 |
|---|---|
| 定価 | 1,485円(税込) |
| 発売日 | 2026/09/29 |
お取り扱い店
電子配信書店
その他の書店様でも配信中!
内容紹介
立ち読み
「あなた、リリアさんでしょう」
彼女は赤い唇を三日月型にして、何かしら確信めいた口調でリリアの名を呼ぶ。
「あなたは、ルイーズさん……?」
「私を知っているの?」
「え、ええ……」
なんと言っていいかわからずに、リリアは曖昧に頷いた。
彼女は今日、エラドと共にいるのではないのか。
何故、わざわざリリアの元に。まさかただ、アプリコットジャムを買いに来たというわけでもないだろう。
「リリアさんは、エラド様の奥様なのよね?」
「そうですけれど、それが、何か……」
ルイーズとエラドの関係をリリアは知っているが、皆が礼拝に訪れる神聖な教会前で口にするような事柄ではない。
戸惑いながらも言葉を選んで口にするリリアを、ルイーズは挑発的だった表情を一変させて、潤んだ瞳で縋るように見つめた。
「リリア、お願いよ。エラド様を解放して。エラド様はいつも言うわ、あなたなんかと結婚したくなかったって。私と結婚したいけれど、あなたが金を握っているから私を救うことができないのだと」
女優らしい、哀れみを誘う声と表情で彼女は訴える。
思わず同情してしまいたくなるような儚さが、そこにはある。
「……救うというのは、何から」
「私はね、リリア。あなたと違って恵まれない星の下に生まれたわ。父は誰なのかわからない。母は私を残して死んだ。昔の私は、この小さな瓶詰ジャム一つ買えなかった」
何事かと、教会前広場に集まっている皆の視線がリリアたちにそそがれる。
イルマや侍女たちが不安そうにしながらもリリアを庇おうとしてくれるので、リリアは大丈夫だと彼女たちを制して、まるで舞台の上にいるような仕草と声音で話すルイーズと対峙した。
「でもね、私は美しかった。だから……拾われて、育てられたの。王都劇場の支配人は育ててやった分、金を稼いで返せと言うわ。でも、二千万ファブリスなんて、どんなに頑張ったって返すことなんてできない」
はらりと、ルイーズの瞳から涙が落ちる。
リリアは彼女の境遇を思う。きっと、不幸なのだろう。
舞台で喝采を浴びても、彼女は救われない。彼女の人生は、彼女ではない別の誰かに支配されているからだ。
「エラド様は私を助けてくださると言った。私を閉じ込めている鳥籠から、私を救ってくださると。でも、あなたがいるから……あなたが邪魔をしているから、エラド様にも自由がないの。リリア、エラド様のことは諦めて。彼は私を愛しているのよ」
「何て無礼な女なの。庶民が、軽々しくリリア様の名を呼ぶなど……!」
たまりかねたように、イルマが怒鳴る。
リリアはイルマの腕を掴んだ。そして、静かに首を振る。
「イルマさん、大丈夫です。これは私の問題です。私が対応します」
「ですが、リリア様!」
「大丈夫です。……彼女と、話がしたいの」
「……わかりました」
リリアは胸に手をあてて、深く息を吐きだした。
二千万ファブリスという金額は、庶民が一生かけて働いても稼げないほどの大金だ。
つまり彼女を支配している者たちは、彼女を解放するつもりはないのだろう。
ルイーズが誰かに縋りたくなる気持ちは、リリアにはよくわかる。
リリアもエラドに期待をしていた。彼は自分の運命。幸せになれるかもしれないと、甘えたことを考えていた。
「ルイーズさん。あなたの気持ちは、わかりました。ですが、私は邪魔などしていません。する気も、ありません」
「嘘よ!」
「嘘ではありません。エラド様が私を愛していないことぐらい、はじめからわかっていました。けれど、結婚は……義務だと思い、自分ができる仕事を日々続けています。ただ、それだけです」
「嘘つき。あなたがエラド様を縛り付けているのでしょう。全てを持っているくせに!」
何を持っているというのだろう。
リリアにだって、何もない。居場所も、愛も、自由に使える金も、何一つ。
だから必死に、自分の居場所を探している。
図書館の仕事、夜の雨宿りカフェ、青空市場。少しずつ、少しずつ。
好きなものを増やせるように――怒りと悲しみに心を奪われてしまわないように。
でも――何もない。
何も、ない。
母はリリアを捨てた。父は、リリアを愛さない。エラドはリリアを嫌っている。
「エラド様を解放して!」
激高と共にルイーズは、アプリコットジャムの瓶をリリアに向かって投げつけた。
心の中の空虚さに意識を奪われていたリリアは、顔に向かって迫ってくる瓶を避けることができなかった。
顔にぶつかる――と思った瞬間、瓶はその寸前で誰かの手にぱしりと受け止められた。
「……無事か、リリア」
「オーウェン様……」
「叔父様、ナイスキャッチ!」
瓶を受け止めたのは、オーウェンだった。人だかりの中から、愛らしい少女が現れて飛び跳ねながら喜んでいる。
「ひどいことをする人ね! お父様、叱って!」
「あまり目立つなと言っただろう。全く、困ったものだ」
「だって硝子の瓶を投げるなんて! 怪我をしたらどうするの、危ないじゃない! それに、私は知っているわ。浮気は、いけないのよ!」
「……そう大声を出すんじゃない」
少女の後ろから、立派な髭をたくわえた身なりのよい男性が現れる。
男性は少女を連れてリリアたちの元にやってくると、胸に手をあてて軽く礼をした。
「はじめまして、リリアさん。クリストファーからもオーウェンからも君の話は聞いている。私はハーヴェイ、そしてこちらが娘のナルヴィラだ」
「国王陛下……!」
思わず声をあげるリリアに、ハーヴェイはしっと、口に指をあてた。
だがもう手遅れだろう。皆に、リリアの声は届いてしまった。
ざわめきが、青空市場を支配する。ハーヴェイはやれやれと肩をすくめて、それから周囲の人々を見渡した。
「今日は、私の考案した青空市場の視察に来た。賑わっているようでとても嬉しい。今までは商売を一部の商人が独占していたが、多くの人々に広く門戸を開きたいと考えている。皆、何かよい考えがあれば、遠慮なく市民院の目安箱に意見を送ってくれ」
ハーヴェイの言葉に、皆が恭しく頭をさげた。
それからハーヴェイが「今日はお忍びだ、どうかそっとしておいてくれるとありがたい」と、堂々と言うので、集まっていた人々は顔を見合わせると、もう一度礼をしてリリアたちから離れていった。
ルイーズは悔しそうな表情を浮かべると、逃げるように去っていく。
これ以上ここにいたら不利になると判断したのだろう。国王に逆らうことのできる者など、この国にはそう多くはいない。
イルマや侍女たちは彼女の背に向けて、しっしと動物を追い払うように手を振った。ナルヴィラも侍女たちの真似をする。それをハーヴェイが「はしたないぞ」と、とりあえずといった様子で咎めた。だが彼もそこまで本気で注意しているわけではなさそうだった。
オーウェンは受け止めたアプリコットジャムを握りしめて、深い溜息をついた。
リリアは予想外の出来事に呆気にとられていたが、慌ててオーウェンやハーヴェイ、そしてナルヴィラに礼をする。
「ご挨拶もせずに、失礼しました。リリア・グリースともうします。お恥ずかしい姿をお見せしてしまい、もうしわけありません。オーウェン様、助けていただいてありがとうございました」
「気にしなくていい」
「叔父様の好きな……ええと、えーと、そうじゃなくて、その、叔父様が! リリアさんの作ったハンカチがすごく可愛いと言うので、欲しかったの。だから、お父様に頼んで連れてきてもらったのよ」
ハーヴェイが落ち着いた声音で言った後、ナルヴィラが両手をぱたぱたさせたり、軽く跳ねたりしながら事情を説明してくれる。
可愛らしい姫君の様子に、リリアは微笑んだ。イルマたちも恐縮しながらも、微笑ましそうに口元をほころばせている。
「私も、ハンカチが欲しかったの」
「もうしわけありません。もうハンカチは売り切れてしまって。もしよければ、好きな動物を教えてくださったら、刺繍を縫いますね。オーウェン様にお渡ししますので、ナルヴィラ様に届けていただくようにします」
「いいの? やった! ありがとう、リリア。私もミミズクがいいわ、叔父様とお揃いの!」
「え……?」
「いや……その……」
思わずリリアは、オーウェンをまじまじと見つめた。
オーウェンは眉間に皺を寄せて、視線をそらす。それからどこか諦めたように、口を開いた。
「……実は、ここで君が店を開いていることを、知っていた。以前、ミミズクのハンカチを買ったんだ。……君には言わないつもりだった」
「そうなのですね、ありがとうございます。どうして秘密に?」
彼がリリアのハンカチを買ってくれたことは、リリアにとってはありがたいことだ。
教えてくれたら、きちんと礼を言うことができたのに。
客の顔を全員覚えているわけではない。オーウェンが店に来たことはあっただろうかと、リリアは記憶を辿る。
「ごめんなさい、叔父様。つい言ってしまったわ」
「いいんだ、ナルヴィラ」
「あ……あぁ! そういえば、ミミズクのハンカチを買ってくださった男性に、古代文字の話を少ししました」
リリアは両手をぱちんと合わせる。
身なりのいい紳士に、古代文字の話をしたことを思い出した。あの時オーウェンは帽子をかぶっていて、顔がよく見えなかったのだ。
けれど、声や唇の形が、よくよく思い出してみると似ている。
「オーウェン様だったのですね。まさかお客様だとは思わずに、気づきませんでした。なんて、偶然なのでしょう」
「それを、運命というのではないかな」
冗談めかしてハーヴェイが言う。
リリアはとんでもないと、首を振った。運命という言葉は、どうにも好きになれない。
「ともかく、リリアが無事でよかった。瓶を投げるなんて……あたっていたら、大変なことだった。打ち所が悪ければ、失明していた可能性もある」
オーウェンがやや怒りを込めた口調で言った。その怒りに煽られるように、ナルヴィラも声を張りあげる。
「そうよ、ひどいわ! 最低よ!」
「ナルヴィラ、落ち着きなさい。まぁ、怒りたくなる気持ちもわかるが。リリア、今のようなことは、頻繁にあるのか?」
ハーヴェイがナルヴィラの両肩に手を置いて、彼女を宥めた。
リリアは彼に尋ねられて、恐縮をしながら口を開く。
「王女殿下や、陛下にまでご心配をかけてしまい、もうしわけないです。彼女と話すのは、これがはじめてです。あんな風に思われているなんて、知りませんでした」
ルイーズは、リリアを恨んでいるようだった。
エラドに愛されて、幸せなのかと勝手に思い込んでいた。
「助けていただき、感謝します。こんなことになってしまったのは、私の不徳の致すところなのでしょう。夫と、きちんと話し合いをしようと思います。私も、身の振り方を考えなくてはいけません」
「別れてしまえばいいのよ。ね、叔父様」
「……それを決めるのは、リリアだ。私たちが口を挟めることではない」
「そうか? だが助言ぐらいはできるだろう。リリア、水替えのされない水槽の中で生きていられる魚はいない。俺の母は腐った水の中で死んだ。そういう風にしか、生きられなかったからだ」
ハーヴェイが、懐かしそうに目を細める。
ハーヴェイの母は、正妃だ。だが、彼女は王国史の中では存在感が薄い。
前王が立て続けに何人もの妻を娶ったからだ。それまでも二人、三人と妃を娶る王はいた。
これは、男児が生まれなかったり、そもそも子が生まれなかったりしたため仕方なくという意味あいが強い。
だが前王の場合は違う。己の享楽のために後宮を復活させたのだと言われている。
後宮で正妃は、どんな思いで生きていたのだろう。
彼女もまたリリアと同じ。選ばれなかった者だったのだろうか。
「誰が悪いわけではないぞ。人の心など、操ることはできないからな。要するに、全て気の持ちようだ。どこで生きるか、どのように生きるかを決めるのは、自分自身ということだ」
「ありがたいお言葉です。忘れないよう、大事に、胸にしまわせていただきますね」
「クリストファーが、君のことを褒めていた。いつも楽しそうに働いていると言ってな。素晴らしい学歴があるのに、テネグロ図書館に来てくれてありがたいと言っていた」
「クリストファーさんには、いつもよくしていただいています」
「オーウェンも、君を心配している。君を想っている人がいることだけは、忘れないでほしい。時には助けを求めてもいい。君は一人きりではないのだから」
ハーヴェイはそれから、オーウェンの手の中にあるアプリコットジャムを指さした。
「最後の一つだろう。あの女性はこれがいらないようだから、私がもらいたい。とても美味そうだ」
「私も食べたいわ、お父様」
「これは……私がもらいます」
オーウェンはハーヴェイからアプリコットジャムを隠すように、両手で包み込む。
「叔父様、意地悪! 大人げないわ!」
それからしばらく、アプリコットジャムは誰のものかという話で彼らは揉めた。
リリアは「たくさん作ってオーウェン様に届けていただきますから……!」と、必死に宥めた。
そうして話をしていると、ルイーズのこともエラドのことも、気にしないでいられた。
ただ、イルマたちが不安気な表情を浮かべていることが気がかりだった。
オーウェンやハーヴェイに丁寧に挨拶をして別れた。
ナルヴィラは「また会いましょうね、リリア!」と、何度も手を振ってくれた。
その仕草に――最近会っていない、弟や妹を思い出した。久々に会いたいなと思う。リリアと彼らの関係は、そう悪いものではない。
だがハーヴェイのように、リリアはまだ割り切れないでいた。
ハーヴェイとオーウェンの間にも、リリアや弟妹たちのような、いや、それ以上に大きな溝がかつてはあったのかもしれない。
だが、今はそれを感じさせない。それはきっと、ハーヴェイの性格によるものが大きいのだろう。
彼はきっと、許したのだ。
母の死を、己の境遇を全て呑み込んで、その心はまるで大空を羽ばたくような自由を手に入れているようにも見えた。
どのように生きるかは、自分で決める。
リリアは、今まで避けていた。生き方を模索してはいたが、エラドと向き合うことをしなかった。
おそらくは、怖かったのだ。エラドは少し、父に似ている。
反抗しないかぎりはその心は凪いでいるが、歯向かった途端に容赦なく叩きのめしてくる、父に。
一度だけリリアは、父に歯向かったことがある。
あれはリリアがまだ十代の時。王立学園に入学する前のことだ。
家の中では口数少なく従順に振る舞っていたリリアだが、十代の多感な時期だ。デビュタントの後、囁かれる噂に打ちひしがれていた。
「あれが、噂の……」
「ティリーズ伯爵家の前妻の子よ。でも、前妻は男と逃げたのだとか」
「まぁ、可哀想に」
「ティリーズ伯爵の子ではないかもしれないわ。顔立ちだって似ていないもの。伯爵も可哀想ね。自分の子ではないかもしれないのに、育てなくてはいけないなんて」
「孤児院に預けてしまえばいいのに」
「ティリーズ伯爵は商人でしょう。子も商品の一つと考えているのよ、きっと。磨けば高く売れると思っているのかもしれないわ」
「どうりで、いやらしい金の匂いがすると思ったら。あの子は誰に売られるのかしら。あの子を買う貴族なんて、ろくなものではないわね」
くすくすと、リリアよりも少し年上の少女たちや、貴族女性たちが扇で口元を隠して話をしている。
それは内緒話ではない。周囲に聞こえるように、内緒話のふりをしながら大きな声で陰口を言っている。
デビュタントを迎えた貴族の子供たちの隣には、必ず両親が揃っているものだ。
だがその時義母は共におらず、父は仕事上で関わりのある貴族たちに挨拶をして回っていた。
一人、城の大広間にリリアは取り残されていた。
皆、遠巻きに噂をするばかりで、誰もリリアに話しかけない。
自分から話しかけることのできる知り合いも、この時はいなかった。
だから、大広間の隅で背筋を伸ばして、ただまっすぐに立っていた。
ただ立っているだけなのに、息を吸うたびに心が冷えた。背筋を冷や汗が滑り落ち、今すぐ消えてしまいたくなった。
帰りの馬車でリリアは、父の正面に座っていた。
「リリア、お前のせいで私は恥をかいた。あの場には王子殿下や、他にも有力な貴族の子息たちがいた。それなのにお前は自ら挨拶にも行かないとは。ただでさえお前の評判は悪い。人一倍努力が必要なことを、理解しているのか?」
「……っ、お父様」
「何だ」
「お父様のせいで、お母様は家からいなくなってしまったのではないですか。お父様が別の女性を愛したから、お母様は傷ついたのではないですか。私の評判が悪いのは、私だけのせいではありません」
「口答えをするのか。お前を家に置いてやり、育ててやっている私に」
「私は、生まれたくなんてなかった……!」
この続きは「王立図書館司書の侯爵夫人は離縁を望む 忘れ去られた王女の日記が紡ぐ運命の赤い糸」でお楽しみください♪













