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完璧令嬢の大誤算 よろしい、ならば婚約破棄ですわ

イチニ / 著
鈴ノ助 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-832-8
定価 1,430円(税込)
発売日 2026/01/30

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内容紹介

婚約者の不貞はまさかの自慰行為…だった!?
自己肯定感高すぎな完璧令嬢×不憫で一途な王太子のずれまくり勘違いラブコメ、WEB版から大幅加筆して書籍化!
ヴィオレットは王国建国以来の才女だと評されるほど、全てにおいて完璧な令嬢。そんな彼女の婚約者は王太子のトリスタン。幼い頃は病弱で、気弱な性格だったが、ヴィオレットと共に過ごすうちに逞しく立派になっていった。しかしある夜会にて、ヴィオレットはトリスタンの浮気現場を目撃してしまい、衝撃を受ける。こうなれば婚約破棄しかないと彼に詰め寄るが、トリスタンは浮気を否定し、その上あれは「自慰をしていた」のだと言ってきて……!?
「その代わり……みっともない姿を晒すのだ。責任をとり、私と添い遂げてもらうぞ」

立ち読み

 翌日。昼食前にヴィオレットは、薬湯と一冊の書物を手に王宮へと向かった。
 政務を終えたトリスタンとともに、王妃主催のお茶会に参加する。
 お茶会後、彼の自室に入るやいなや、ヴィオレットは鞄から書物を取り出してトリスタンに渡した。
「こちらを、殿下」
「何だ……これは?」
「先日入手しました閨の教本……いえ、閨について詳細に記されている恋愛小説ですわ」
 トリスタンは戸惑った表情を浮かべながら、本を受け取る。
「教本に書かれていない性技や体位が書かれておりました。わたくし、こういう露骨な性表現のある読み物は大衆には受けがよくとも風紀を乱すだけ、と少々否定的な気持ちでおりましたの。ですが、間違いでしたわ。どのような読み物にも、読み物としての価値があるのです」
 ヴィオレットは『固定観念に囚われていたわたくし』を失笑し、恋愛小説の素晴らしさを語った。
「文体がわかりやすく、心情が豊かに書かれていて、登場人物には共感しやすく、自然と感情移入できるのです」
「そうか……ずいぶんと感銘を受けているな。どのような話なのだ」
「新婚夫婦が交合するお話ですわ」
「……それで?」
「交合して、愛を深めていくのです」
 トリスタンは「そうか」と呟き、パラパラと本を捲った。
「教本には書かれていない性技が書かれておりました。殿下のお読みになった教本には、相互口淫が書かれておりましたか? 頭と足を反対同士にして、互いの性器を舐め合う性技です。あと、交合の仕方で背面立位というものがありました。立ったまま、それも背後から、女性器に男性器を挿入するそうです」
 トリスタンは本を捲っていた手を止める。ヴィオレットは構わず続けた。
「本を読んで、少々いやらしい気持ちになってきましたの。そう、性欲を覚えたのです。そして自身の女性器を確認すると、濡れておりましたの」
 トリスタンはパタンと本を閉じ、溜め息を吐く。
「……ヴィオレット」
「殿下もきっと、その本を読めば、おそらく勃起なさるでしょう。そういうときに、これですわ! 自慰を行う前に、試してくださいませ」
 ヴィオレットは懐からガラスの小瓶を取り出した。
「……それは……?」
「安定剤の一種です。精神を落ち着かせる成分が入っておりますの。高まった性欲が和らぎ、早漏改善の効果があるかと。もちろん量は調節しておりますのでお身体に影響はありません」
 マリシアの一件後から、ヴィオレットはトリスタンの射精訓練を手伝っていた。
 会うたび毎回訓練に付き合っているわけではないので、訓練に付き合ったのは五回。
 一回目は自慰を見守り、二回目からはヴィオレットが彼の男性器に手淫を施していた。
 ヴィオレットが男性器に触れると、すぐに射精をしてしまう。トリスタンは遅漏ではなく、やはり早漏だったようだ。
 ――最近は以前よりも、射精時間は延びているけれども……。
 それでも、三十回ほど擦って射精は早いのではなかろうか。
 初夜まで一か月だ。
 婚儀が近づけば、お互いに今以上に忙しくなる。トリスタンと対面できるのは数度しかない。訓練の時間が足りなかった。
「殿下、わたくしに会えない間、こちらを飲んで自慰行為をしてくださいませ。自主練習ですわ」
「………………承知した」
 トリスタンは長い沈黙のあと、無表情でガラスの小瓶を受け取った。
「全部飲み干してもお身体に悪影響はありませんが、ひと口で大丈夫ですわよ」
「……ああ」
「お時間があるのなら、今から射精訓練して、その効果を試しましょう」
「……いや、やめておこう」
「お忙しいのですか?」
「このあと、おそらくだが、宰相から呼び出しがある。さすがに……君とそういう行為をしたあと、宰相と顔を合わすのは気まずい」
「お父様からお呼び出しがありますの?」
「今協議中なのだが……君に頼むことになりそうだ」
 トリスタンは本と小瓶をテーブルの上に置き、長椅子に座る。促され、ヴィオレットは彼の隣に腰をかけた。
「遊学中のタガー・ルペエス殿下が来国することになった」
「ルペエス……ビルタ皇国の皇子が我が国にいらっしゃるのですか?」
 大陸でもっとも古い歴史を持つ東方の国、ビルタ皇国。
 ルペエス皇家はその国を治めている一族である。
 遠方に位置しているのもあり、ラングリア王国とビルタ皇国に国交はない。皇族どころか、要人の来訪も記録に残っている限り初めてだった。
「タガー殿下はビルタ皇国の第三皇子で、知見を広げるため若い頃から諸国を遊学しているそうだ。先日ビルタ皇国から、タガー殿下の滞在を要請する正式な書簡が届いた」
 滞在といっても長期間ではなく、十日程度の予定らしい。
「まあ。かの国と縁ができる、またとない機会ですわね」
 ビルタ皇国が誇るのは歴史だけではない。領土も広く、資源にも恵まれている大国だ。
 ビルタ皇国と国交を結べたならば、ラングリア王国の国益になる。
「良好な関係を築くためにも丁重にお迎えしたいのだが……ビルタ語、それも古語に堪能な者が、出払っているのだ」
 ラングリア王国の公用語は大陸語だ。
 ビルタ皇国の公用語はビルタ語。そのうえビルタ皇国の皇族や彼らに仕える者、由緒ある貴族は、ビルタ語の元となった、大陸でもっとも古い言語である古語を使う。
 ラングリア王国では古語を流暢に話せる者は二人しかおらず、二人のうちの一人である言語学者は妻とともに長期旅行中で、もう一人の外交官は隣国を訪問中であった。
「辿々しい者に通訳を任せれば失礼にあたる。ヴィオレット、君はビルタ語も古語も堪能だろう?」
 魔術師の多くが古語を使うのもあり、ヴィオレットは古語を学んでいた。もちろんビルタ語も完璧である。
「ええ。……わたくしにタガー殿下の通訳を?」
「ああ。ちょうど今、それを協議中なのだ。言語学者や外交官を呼び戻すのは難しい。おそらく、君に頼むことになる……婚儀を控えていて忙しい君に、このようなことを頼むのは気が引けるのだが」
「わたくしでよければ、よろこんでお受けいたしますわ!」
 ヴィオレットは弾んだ声とともに、大きく頷く。
「……ずいぶん、嬉しそうだな」
「わたくし、ビルタ皇国に昔から興味がありましたの」
 ビルタ皇国は芸術と産業が盛んで、教育制度や福祉などの取り組みも他国に比べて進んでいるという。
 遠方なので訪問できる機会はないと諦めていたが、かの国の文化に触れられるまたとない機会である。
 もちろん個人的な興味だけでなく、ラングリア王国のために働けるのも、やりがいがある。
「わたくしに任せていただけるのならば、タガー殿下を完璧にもてなしてみせますわ!」
 安心なさいませ、とヴィオレットは胸を張り、トリスタンに言った。
 まだ決定していないというのに、やる気満々過ぎたからだろうか。
「よろしく頼む」
 そう口にしたトリスタンの表情は、どこか冴えなかった。

◆ ◇ ◆

 協議後、ヴィオレットは父から正式にタガー・ルペエスの通訳を頼まれた。
 念入りに打ち合わせをし、タガーを迎える準備を整える。
 そうしてビルタ皇国皇子の話を聞いてから三日後――。
 五人の護衛兵を従え、タガー・ルペエスが来国した。
 王宮の広間で、国王とトリスタン、宰相や大臣らとともにヴィオレットは皇子一行を出迎えた。
 他の者たちが黒色の軍服姿の中、一人だけ見るからに仕立てのよい白色の貴族服を纏っている男がいる。
 長身でがっちりとした体つき。金髪碧眼の整った顔立ちの妙に色気のある男性だ。
 彼がタガー・ルペエスで間違いなかろう。
「ようこそ、ラングリア王国へ。タガー・ルペエス殿下の来訪を心より歓迎する」
 国王の挨拶を、ヴィオレットは古語にして皇子一向に伝えた。
 金髪碧眼の男が、一歩進み出る。
 片眉だけ上げて、ちらりとヴィオレットを一瞥したあと、男は国王へ丁寧に頭を下げた。
『タガー・ルペエスと申します。ラングリア王国の文化に触れる機会をいただき、感謝しております』
 流暢な古語で、タガーが挨拶をする。ヴィレットは彼の言葉を大陸語に訳した。
 続いて宰相が、夜にタガーを歓迎する夜会が開かれることを話す。
 ヴィオレットがそれをタガーに伝えると、彼は『楽しみにしております』と答え、ヴィオレットをじっと見下ろしてきた。
『君、古語が上手だね。名前は?』
『タガー殿下の通訳を務めさせていただきます。ヴィオレット・シュツーレンです』
 ヴィオレットは優雅に笑んでみせ、淑女の礼を取った。
『ヴィオレット。素敵な名前だ。よろしく頼むよ、ヴィオレット』
 タガーは笑みを返し、そっとヴィオレットの右手を取る。
 そして、ヴィオレットの手の甲に軽く唇を押し当てた。
「タガー殿下は、諸国を巡り、様々な文化を学んでおられると伺っております。今回のラングリアを訪問地に選ばれたのは、我が国に殿下が興味を持たれる文化があったからでしょうか?」
 トリスタンが朗々とした声音で、タガーに話を振る。
『文化ももちろんですが……ラングリア王国には、もっとも美しい宝石があると聞きました。実は僕は無類の石好きでして』
 トリスタンの言葉を伝えると、タガーは目を細めて、そう言った。
 どうやらタガーの目的は、ラングリア王国の宝石のようだ。
 ――これは好機でしてよ。
『打算的なわたくし』が目を輝かせ、にんまりと微笑む。
 タガーを介し、ビルタ皇国にラングリア王国の宝石の素晴らしさを売り込みする。国交を結び、宝石を輸出する絶好の機会であった。
『タガー殿下は我が国の宝石に興味があり、入手したいとお考えですか?』
『ええ。ぜひとも僕に相応しい宝石を持ち帰りたい』
 ヴィオレットの問いに、タガーは頷く。
『その宝石探し、ぜひわたくしにもお手伝いさせてくださいませ』
 タガーは大きく目を瞬かせた。
『あなたに協力していただけるのなら心強い』
「……ヴィオレット」
 宰相が咎めるように、ヴィオレットの名を呼んだ。
 二人の会話を聞き取れないため、周りの者たちは戸惑いの表情を浮かべていた。
「失礼いたしました。タガー殿下はラングリア王国の宝石に興味をお持ちのようです。宝石商にご案内しようと考えております」
「……君が案内するのか?」
 トリスタンが僅かに眉を寄せ、訊いてくる。
「古語を話せる者はおりませんし、タガー殿下に失礼があってはなりませんので」
「宝石店に向かうときは、王宮からも護衛のため兵を出そう。ではヴィオレット、タガー殿下の案内を頼む」
「承知いたしました」
 宰相の指示にヴィオレットは頷く。
 タガーと彼の護衛兵たちを先導し、賓客室へと案内した。


 ヴィオレットは夜会の準備のため、一度シュツーレン伯爵家へ戻った。
 今夜の夜会は、トリスタンの婚約者やシュツーレン伯爵家の伯爵令嬢としてではなく、タガーの通訳として出席する。
 通訳なので、トリスタンのエスコートもない。
 華美なドレスは通訳らしくないので、ドレスは紺色で簡素なものにして、髪はきっちりと纏めて結い上げた。
 通訳としてどうかと迷ったが、タガーにラングリア王国の宝石を見せたい。
 大粒の水晶のイヤリングとアメジストのネックレス。
 小粒で上品なラピスラズリの指輪をつけた。
 準備を済ませたヴィオレットは、再び王宮へ向かいタガーを賓客室へ迎えに行く。
 タガーは細やかな刺繍の施された黒い夜会服に着替えていた。
『ああ……本当に、美しい』
 タガーはヴィオレットを見るなり、感嘆したように目を細めた。
『これほど透明度のある水晶は非常に希少です。こちらのアメジストのネックレスは、ラングリア王国が誇る宝飾職人によって、楕円に研削、研磨されております。この小粒のラピスラズリも、深みのある青色でございましょう』
 ヴィオレットは指輪を見せるため、手をタガーの前に差し出す。
 するとタガーはそっとヴィオレットの手を取り、指先に口づけをした。
 手の甲への口づけは、尊敬や敬愛の意味合いを持つ。公の場でも、挨拶代わりに頻繁に行われていた。
 しかし甲ではなく指先への口づけは、ラングリア王国では親密な相手にしかしない。
 指輪を見せるために手を差し出しただけで、口づけをされると思っていなかったのもあり、ヴィオレットは戸惑ってしまった。
 目を丸くしタガーを見ると、彼は悪戯が見つかった子どものごとくニヤリと笑んだ。
『美しいという僕の言葉はね。宝石じゃなくて、君への賛辞だよ』
『……え』
『君がつけているからかな。宝石が一段と美しく光り輝いて見える』
『まあ。ありがとうございます』
 タガーはトリスタンと並んでも引けを取らないほど、端正な顔立ちをしていた。
 体つきも逞しく、二人とも長身だ。
 けれど美形で同等の体格でも、系統は真逆である。
 生真面目で朴訥、誠実な雰囲気のあるトリスタンと違って、タガーは華やかな色気があり、少々軽薄な雰囲気があった。
 必ずしも外見と性格は一致するわけではない。けれどもタガーは、外見どおりの性格らしい。
 ヴィオレットがつけることにより、宝石が一段と美しく光り輝いて見えるのは事実だが、口調や態度が軽薄で気障ったらしく感じる。
『案内してくれるんだよね。行こうか、ヴィオレット』
 タガーが微笑んで、腕を出してくる。
 通訳なのでタガーにエスコートしてもらうのは違う気もしたが、夜会前に機嫌を損ねられても困る。
 ヴィオレットはそっと彼の腕に手をかけた。
 広間はすでに参加者で賑わっていた。
 王族の他に高位貴族、大臣たちが招かれている。
 タガーが現れると男たちは目を瞠り、女たち……特に若い令嬢たちは色めき立った。
 タガーは独身で器量もよいうえに、ビルタ皇国の皇子である。愛妾でもよいので彼に見初められたい。そう願う令嬢も多くいそうだ。
 タガーの元へ、大臣たちが次々と挨拶に来る。
 ヴィオレットは大臣の名前や身分を添えて、彼らの言葉をタガーに伝えた。
『ヴィオレット、僕と踊ってくれるかい?』
 大臣たちの挨拶が一段落し、ホッと息を吐いているとタガーにダンスに誘われた。
 広間には、弦楽器の奏でる華やかなワルツが響いていた。
 ヴィオレットは周囲に目をやる。
 令嬢たちが、自分たちも挨拶に行ってよいものか、こちらの様子を窺っていた。
『タガー殿下。実はわたくし、一か月後に結婚を控えておりますの。殿下のような素敵な方とダンスを踊っていたら、婚約者が嫉妬してしまいますわ』
 ヴィオレットは冗談っぽく言い、タガーの誘いを断った。
『殿下とダンスを踊りたいと、声をかけようとしている者たちがたくさんおりますわ。ダンスならば、彼女たちとぜひ』
 ヴィオレットの視線を追うように、タガーは周囲に視線を這わせ、首をゆっくりと横に振る。
『彼女たちは、古語はおろかビルタ語も話せないのだろう? 一緒に踊るのは嫌だな』
 言葉が通じない者と踊るのが嫌……という感覚がよくわからない。
 会話ができないのが不安なのか、それとも古語やビルタ語を話せない者に対し差別意識でもあるのか。
 彼の本意を知ろうと探りを入れようとしたとき、タガーは眼差しをヴィオレットの背後へと向けた。
『ヴィオレットと踊りたいのだけれど、いいかな?』
 振り返ると、トリスタンが立っていた。
『彼が許可してくれたら、君と踊れるのだろう?』
 タガーがヴィオレットを見下ろし、訊いてくる。
 ヴィオレットがトリスタンの婚約者だということを、知っていたらしい。
 婚約者が嫉妬する、というのはダンスを穏便に断るための建前だった。
 タガーが令嬢たちの誰かを気に入ってビルタ皇国へ連れ帰れば、ラングリア王国出身の者が皇家に名を連ねる可能性が生まれる。
 国益のために、タガーにはすでに結婚相手のいる自分ではなく、他の令嬢たちと知り合ってほしかった。
 そういう事情を、正直に打ち明けるわけにはいかない。
 ヴィオレットは『そうですわね……』と相槌を打ち、どう対処すべきか悩む。
「ヴィオレット。タガー殿下は、何とおっしゃっているのだ?」
 悩んでいると、トリスタンが僅かに眉を寄せて訊いてくる。
 タガーに無理難題を言われ、ヴィオレットが困っていると思ったのかもしれない。
「タガー殿下は、わたくしにダンスを申し込まれております。婚約者が嫉妬するからと断ったのですが、殿下が許可をするならばよいだろうと」
『一曲だけでいい。すぐに婚約者殿にお返しするよ』
 ヴィオレットがトリスタンに状況を説明していると、タガーが古語で会話に割り込んでくる。
「一曲だけ、とおっしゃっています」
「……君は、タガー殿下と踊るのが嫌なのか?」
 トリスタンの言葉に、ヴィオレットは首を横に振る。
「嫌ではありませんわ。わたくしより、他の令嬢方と踊っていただきたかっただけです」
「君が嫌でないのなら、応じてよいと思う」
 無表情だったが、声音は低い。不機嫌そうだ。
 通訳だけでなく、賓客を丁重にもてなすのもヴィオレットの役目である。
 タガーが頼んでいるのだから、さっさと応じるべきだと苛立っているのかもしれない。
 ――確かに。断り続けるのは、失礼ですわね。
「わかりました」
 ヴィオレットは頷き、タガーに向き直る。
『タガー殿下、わたくしでよろしければ、喜んでお相手させていただきます』
『嬉しいよ、ヴィオレット』
 差し出された手に手を重ね、タガーとともに広間の中央へと向かう。
 ワルツの軽快な音に合わせて、ステップを踏んだ。
 ――さすがビルタ皇国の皇子様。
 タガーのダンスは、動作のひとつひとつが円滑で、洗練されていた。そのうえ独り善がりにならず、ヴィオレットをリードしている。
 ヴィオレットは今まで、トリスタンを始め幾人もの紳士とダンスを踊ってきた。国王や、他国の要人とも踊ったこともある。
 けれどタガーは今までの誰よりも……ダンスの師よりも、ヴィオレットを完璧にリードしていた。
『タガー殿下は、ダンスがお上手なのですね』
『君こそ。ビルタ皇国でも、君ほどダンスが上手い女の子はいないよ』
 タガーは目を細め、ヴィオレットのダンス技術を讃える。
 ダンスには自信があった。けれども目が肥えているであろうタガーに褒められるのは、素直に嬉しかった。
『お世辞でも嬉しいですわ』
『僕はお世辞は言わないよ』
 ダンスを終えると、自然と周りから拍手が起こる。
『約束だからね。一曲で解放するよ。次は婚約者殿と踊るといい』
『タガー殿下も』
『僕は疲れたから少し休憩させてもらう』
 他の令嬢たちとぜひ――と続けようとしたヴィオレットの言葉を制し、タガーはヒラヒラと手を振った。
 彼に熱い視線を送っている令嬢たちの相手をするつもりはないらしい。
 ヴィオレットは小さく息を吐き、トリスタンの元へと歩を進める。
「殿下、踊りましょうか」
「タガー殿下とは……もうよいのか?」
「一曲だけの約束でしたから。満足されたようです」
「君は……不満そうだな」
 トリスタンが目を眇め、ヴィオレットを見る。
「ええ。他の令嬢方とも踊っていただきたかったのですが、断られてしまいましたわ」
「…………他の令嬢方?」
「タガー殿下が我が国の令嬢と恋仲になれば、国交の架け橋になりますもの」
 トリスタンは目を瞬かせたあと、フッと息を吐いた。
「そうか」
 今度はトリスタンのエスコートで、広間の中心へと向かう。
 少年の頃のトリスタンは、ダンスが下手くそであった。
 リズム感がなく、ヴィオレットの足を踏んでばかりいた。
 それに比べると、ずいぶんと上手になったと思う。
 ――でも……タガー殿下の足下にも及ばない。
 ステップの正確さは訓練でどうにかなっても、生まれついてのリズム感はどうしようもない。
 ヴィオレットはさりげなくトリスタンをリードしながら、心の中で苦笑を浮かべた。
 ちらりと周囲に目をやると、壁際に立ったタガーが興味深げにこちらを見つめていた。


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