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忘れ去られた聖女

ユキミ / 著
芦原モカ / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-740-6
定価 1,430円(税込)
発売日 2025/01/29

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内容紹介

《第4回Jパブ大賞金賞受賞作》
平和の代償として奪われた、聖女の恋と騎士の記憶
不遇の聖女×彼女を忘れた騎士。失われた恋と聖女の心を取り戻すため、騎士が捧げた純愛の行方は――
悪竜討伐の聖女として召喚され、同行する国一番の騎士レインフェルドと恋に落ちた美咲。無事討伐するも、なんと悪竜の呪詛を受けて人々の記憶から存在を忘れ去られてしまう。もちろん恋人からも。それから五年、絶望から立ち直った美咲が王都の片隅で新しい人生を歩んでいると、悪竜が復活して失われた記憶が戻ったという知らせが。二度目の悪竜討伐のため、美咲はレインフェルドと再会することに。彼との恋はもう終わったことと割り切って生きてきたはずが、「どうしてもきみを諦めることができない」と愛を乞われ……。
「きみを愛していると、死ぬまで証明していく」

立ち読み

 ――誰よりも愛している。きみだけを。
 レインフェルドの真摯な瞳が美咲を射貫く。
 ――触らないで!
 しかしすべてを拒絶するように、美咲はレインフェルドの手を払いのけてしまった。
 レインフェルドに気持ちをぶつけるつもりなんてなかった。
 過去のことは過去のこととして割り切ろうとしているのに、レインフェルドが許してくれない。美咲を見つめる眼差しには五年前と同じような、いや、それ以上の熱があって、美咲を絡めとろうとする。
 旅が始まる前は、平気だと思っていた。
 もうレインフェルドへの恋心は過去のもので、旅の仲間としてやっていけると、――やっていかなければならないと決めていた。
 それなのにいざ旅が始まると、美咲の心は全然思い通りにならない。それどころかどんどん揺さぶられてもはや手に負えないところまできている。美咲にとって自身の心境の変化は、足元がぐらつくような恐怖と痛みを伴った。
 レインフェルドから逃げるように走り去ったあと、隊はすぐに出発した。だけどどうしてもレインフェルドの馬に乗ることができず、リュシーの馬に乗せてもらった。きっと色々と思うところはあるだろうが、リュシーは特に深追いはしてこなかった。移動の間、レインフェルドからの視線は感じていたが、美咲は知らぬふりをした。

 ゆらゆらと揺れる炎をぼうっと見る。細い煙が一本の筋となり、星が瞬く夜空に吸いこまれる。美咲は火が消えないように新たな薪をくべた。
 日中は春のような過ごしやすい気候だが、夜は少しばかり冷える。用を足しにいったマウロが戻ってから寒くないように、美咲はテントの前で火の番をしていた。
「薪は足りるか?」
 不意に掛けられた声に顔を上げると、ノアがにこやかに美咲を見下ろしていた。
「えぇ、大丈夫」
「そうか」
 ノアは美咲の隣に腰を下ろすと、小さな丸い果実を手渡してきた。日本でいうライチのようなもので、皮を剥いて食べると瑞々しい甘さが疲れた身体に染み渡る、この世界でよく食べられる果物だ。
 美咲は礼を言って一個貰い、皮を剥いていく。
「……ノアも、私はひどい女だって思う?」
 ぽつりと問いかける。
 昨日、レインフェルドと話してから、美咲は彼にどう接すればいいかわからなくなった。
 レインフェルドと美咲の道は、もう交差することはない。そう思ってこれまで生きてきた。そう思わないと生きてこられなかった。
 それなのに。
 美咲は、抱えた膝に顔を埋める。
 レインフェルドは、閉じた美咲の心を無理やり押し開こうとする。
 また互いの道が交差してしまう。美咲はそれが怖くて、レインフェルドを避けてしまう。
 みんながなにか言いたそうにしているのは気づいている。だけど美咲の強張った態度に傷ついた顔をするレインフェルドに、どうすればいいのかわからなくなるのだ。
 美咲に対して誠実に過去を謝罪し、一途に想いを伝えているのに、意地を張ってレインフェルドを傷つけるひどい女性だと周りからは見られているかもしれない。記憶を失ったのは不可抗力で、レインフェルドが悪いわけではないのだから、その態度はどうなのかと。そんなことを思う仲間たちではないと頭では理解していても、弱った心は考えをどんどん卑屈にさせる。
 ふと、頭にふわりとなにかが触れた。ノアが美咲の頭を優しく撫でている。
「ミサキをひどい女性だなんて思ったことは一度もないよ」
 微笑むノアの瞳に、いまにも泣きだしそうな情けない自分の顔が映りこんでいる。
「ミサキには本当に申し訳ないと思っているんだ。本来なら、のこのこミサキの前に顔を出せる立場じゃないこともわかっているし、その上、また危険な旅に同行させる羽目になった」
「……それは、別にノアたちのせいじゃないから」
 呟くと、ノアが小さく笑った。
「あまり優しいことを言うと、悪い大人につけこまれるぞ」
 どちらかといえば、美咲のセリフじゃないだろうか。ノアの方こそ、優しすぎて大丈夫かと心配になるときがある。
 大柄で強面な見た目に反して、隊の中で一番穏やかで紳士的な性格をしているのがノアだ。いつも隊のみんなを包みこむように見守っていて、だから美咲もついポロッと弱音や本音をこぼしてしまうことがあった。
「……リゼに避けられたとき、辛かった?」
 美咲を忘れていた罪悪感から、ノアは婚約者のリゼに避けられていた。いまは昔みたいに仲睦まじい姿を見かけるので、関係は修復し仲は良好のようだ。
 ノアは苦笑する。
「辛くなかったと言えれば格好いいんだけどな。でも、リゼの気持ちもわかったから」
「ノア……」
「ミサキが悩んでることや苦しんでること、すべてわかるなんて、軽はずみなことは言えない。俺たちは、ミサキもレイも大切だから、二人がこれ以上傷つかなければいいと思ってるだけだよ」
「……私も大切? 私があなたたちの大切な隊長を傷つけても?」
 ノアは優しく目を細めた。
「俺たちは、ただ見守るしかできない。だからミサキの選択を否定しない。きみは自分を責めているようだけど、ひどいというなら俺たちの方がよっぽどひどい。きみのことを忘れて、この国に知り合いもおらず、なにもないまだ少女だったきみを放りだしたのだから。同じように記憶を失ったから、心情的にはどうしてもレイに寄ってしまうところがあるのかもしれない。でもそれはきみには関係のないことだ。外野の声に惑わされず、自分の心の内とだけ対話すればいい」
 その心の内を覗くのが怖いのだ。
 しかしこれ以上泣き言を漏らすのはためらわれ、口を結ぶ。
「そんなにしんどいなら、もうはっきり言ってやれば?」
 突如背後から声がした。驚いて振り返ると、ヴィンセントが後頭部で手を組んで、つまらなそうに美咲を見下ろしている。その隣にはリュシーもいる。リュシーは両手を合わせ、「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど……」と申し訳なさそうだ。
「あなたのことが嫌いです。憎いです。だからもう必要最低限のこと以外で話しかけないでって」
「そんなひどいこと」
「ひどい? どこが? ミサキにそう思われてもしかたないことを隊長も、そして僕たちもしたよ」
「でもそれは別にみんなのせいじゃなくて」
「僕たちのせいじゃないから許してくれるって?」
 許すとか許さないとか、そういう話ではないのだ。
 うまく説明できずに俯く美咲に、ヴィンセントは肩をすくめる。
「ミサキの態度って中途半端だよね」
 これにはさすがにムッとした。色んな葛藤を抱えて、それでも旅の仲間として接しようと足搔いていることをすべて否定されたみたいで。
 思わず振りあおぐと、ヴィンセントは口調に反して意地悪な顔はしておらず、むしろ真摯な瞳で美咲を見ている。
「生殺しだよ。誰も悪くない。誰も責めない。だからみんなそれ以上踏みこめない。隊長が憎いなら憎い、嫌いなら嫌いってはっきり言うべきだ」
「……私だって、気持ちをぶつけたわ」
 懸命に抑えていた心の中に澱む複雑な感情をぶつけてしまった。はたから見たら、間違いなくレインフェルドを責めていたように映っただろう。
「それで? 隊長はなんて?」
「彼は……」
 なにも言わなかった。いや、言えなかったのだろう。結局傷ついたレインフェルドの姿を見て、美咲は逃げだしてしまった。
「ふーん。言い逃げしたんだ」
 すべてを察したようにヴィンセントが呆れた声を出す。
「それってひどいね。隊長の意見をミサキは聞くべきだった。そして決着をつけるべきだったんだ」
「決着ってなに?」
 なにをもって決着だというのだろう。
 ヴィンセントは肩をすくめた。
「そんなの僕が決めることじゃない。ただ二人ともずっと、浮かない顔をしてる。それって二人にとっていまの状況が納得のいくものじゃないってことじゃないの?」
「……」
 確かにヴィンセントの言う通りだ。きつい言い方だが、彼が意地悪で美咲に厳しいことを言っているのではないと伝わってくる。その証拠に、ノアは口を挟まない。優しい彼なら、理不尽な場面に居合わせたら口を出すはずだから。つまりこれは、美咲が自分でヴィンセントに向き合わなければいけないのだ。いや、違う。ヴィンセントではなく、レインフェルドに、か。
 美咲はため息を吐いた。
 激しく揺れ動く心情を仲間たちはきっと見透かしているのだろう。
 美咲にとってレインフェルドが本当に過去の人間なら、もっときっぱりと対峙できているはずで、こんなふうにあからさまに悩んだりしていないはずだから。
 なにもかもが宙に浮いた状態で、確かにこのままでは、美咲もレインフェルドも一歩も動けない。動けないまま、再会した日から、同じ場所で苦しんでいる。
「まぁでも、私がミサキの立場なら、二度と顔見せるなってぶん殴ってるから、ミサキは偉いよ」
 リュシーが苦笑する。
「私たちが色々言ってミサキのことを追いつめてしまったのかもしれない。レイのこと、許したくないなら許さなくてもいい。ミサキがレイのことを拒絶したって、ミサキのことを責める人間はいないから。レイ本人にだってミサキのことを責める権利なんてない。ミサキに文句言う奴がいたら私がぶっ飛ばしてやるし」
「リュシー……」
「だからさ、なんていうのかな。私や他の人間の目とか気にしてるならそれはミサキにはまったく関係ないし、ミサキは自分のことだけ考えればいいよ」
 ずっと自分自身の心の内を覗くのが怖かった。だけどもう、そんなことは言っていられないのかもしれない。
 終わったはずの恋だった。でも粉々に砕け散った恋心が、いまも美咲の心を容赦なく傷つける。
 先に進むのか後退するのか。わからないが、もう一度レインフェルドと話し合う必要があるのは確かだった。今度は逃げずに、美咲とレインフェルドがどれだけ傷つこうと、ありのままの気持ちをさらけだして、結果を受け止める。
「……ありがとう、みんな」
 あえて厳しいことを言ってくれたヴィンセントと、美咲を尊重してくれるノアやリュシーに礼を言う。
 話を聞いてもらえたことで、美咲の心は少し軽くなった。きっと各々思うところはあるだろうが、美咲に答えを強要してくることはない。どちらかといえば、みんな本当は美咲にレインフェルドを許してほしいのだろう。美咲なんかよりレインフェルドとの付き合いの方が長いのだから当然だ。でも美咲が選んだ道を肯定し、背中を押してくれようともしている。
 あとは美咲が自分自身と向き合うだけ。美咲が決意したとき、マウロが戻ってきた。
「ミサキ、隊長が話があるって。向こうで待ってる」
「……そう」
 子供を使うあたりが、なかなかの策士だ。呼びだしを無視すれば、微妙な空気を察してくれる大人と違い、なぜ呼ばれているのに行かないのかと不思議がって色々詮索してくるだろう。美咲は立ち上がった。
「疲れているところ申し訳ないんだけど、マウロのこと見ててくれる?」
「もちろん」
 笑顔で頷いてくれたノアにマウロを託し、美咲はレインフェルドが待っている場所に向かった。
「何度もすまない」
 美咲は静かに首を横に振る。
「きみに話したいことがある」
 なにか心に決めたように強い眼差しで美咲を見つめるレインフェルドの言葉を美咲は遮った。
「私も話したいことがあるの」
 レインフェルドがなにを言いたいのかはわからない。先にレインフェルドに喋られたら、また心が揺らいでしまうかもしれない。美咲は自分がそこまで強くないことを知っている。だから心が少しでも冷静さを保っているうちに、胸中を明かしてしまいたかった。
「私なりに色々考えたの。私が思ってること感じてきたこと、正直に全部話すから、聞いてくれる?」
 必要なことのはずだ。美咲のすべてをさらけださなければ、本心を隠したままではきっと前に進めない。
 もしそれでレインフェルドが美咲に抱く気持ちに変化が生じたとしても、避けては通れない。
 これまでと違う空気を美咲から感じとったのか、レインフェルドは力強く頷く。
「もちろんだ。聞かせてほしい」
 美咲は覚悟を決めた。小さく深呼吸する。
「みんなね、私のこと優しいって思ってるみたいけど、そんなことないの。自分ではどうすることもできない大きな力に抗えずに、ただ流されてきただけ」
「いや、美咲は優しいよ。私がいままで出会ったどんな人間よりも、優しくて強くてきれいだ」
 間髪いれず断言され、美咲は苦笑する。随分と買いかぶられているが、これから話すことを思えば身の置き所がなくなるのでやめてほしい。
 レインフェルドが思うほど、美咲は立派な人間ではない。聖女という大層な肩書きが霞んでしまうほど弱い自覚がある。本当に強くて逞しい人なら、延々とうじうじ悩んだりしていないはずだし、なによりもっと割り切ってレインフェルドに接していただろう。
 だけど残念ながら、そんなこと美咲にはできなかった。だって美咲にとってレインフェルドは、どんな仕打ちをされても特別な人に変わりなくて。
「この数年間、辛かった」
 絞りだすように、切りだす。
「あなたを忘れられないことが、一番辛かった」
 レインフェルドへの想いは変わらず胸にあるのに、彼は美咲の存在すら記憶にない。二人で交わした会話も一緒に見た風景も鮮明に思い出せるのに、過去を共有できない。こんなにも好きなのに、好きだからこそ、なおさら辛かった。レインフェルドにも他の誰の中にも美咲はいなくて、美咲だけなにもない真っ暗闇の世界に突然投げだされた。
 あのときのことを思い出すと、胸が締めつけられ、気が狂いそうになる。
「……どうして」
 美咲は一呼吸置き、胸の中にずっと巣くって離れなかった言葉を、やっと吐きだした。
「どうして忘れたの」
「ミサキ……」
 レインフェルドが目を見張る。
 ぽつりとこぼした言葉が波紋状に広がり、胸の奥深くに閉じ込めていた感情を掘り起こしていく。どうしようもないことなのだと諦め、行き場を失った感情がじわりと湧き上がる。
「私のこと愛してるって言ったのに」
 召喚されたのも、忘れられたのも。しかたない、しかたない、みんなのせいじゃない、そう思って。諦める以外になにができただろう。実際その通りなのだ。レインフェルドたちの落ち度だと責めるには酷な状況だったし、こんなこといまさら蒸し返したって無意味だとわかっている。だけど理性とは別に、美咲の感情は納得なんかしていなかった。ずっと無理やり、納得したふりをしてきた。
 そうする以外なかったからだ。
 当の本人たちに感情をぶつける術もなく、美咲を救ってくれた恩のある人たちに悲しみをぶつけることもできず。誰かを責められたらよっぽど楽だったのに、それさえ許されなかった。
 苦しくて苦しくて、必死だった日々の中、どれだけ忘れようとしてもふとした拍子によぎる面影が、美咲を余計に悲しみへ突き落とした。息ができないほど辛くても、感情の行き先はどこにもなく、自分の中で処理するしかなかった。手のひらからこぼれ落ちた幸せを想い、ただ唇を噛みしめ耐えるしかなくて。
「あなたはひどい人だわ。いまさらのこのこ現れて、好きだなんて平気な顔で言う。もう嫌だって思うのに、どうして私の中から消え去ってくれないの。放っておいてほしいのに、私の心をいたずらにかき乱す」
 美咲の強い言葉の数々を正面から受け止め、レインフェルドが視線を落とす。
 まただ。レインフェルドが後悔に顔を歪ませるたび、美咲の心まで痛む。あんなに辛い想いをしたのに、ちょっと弱った姿を見せられたくらいで揺らぐ自分が本当に嫌だった。もうレインフェルドのことなんか吹っ切ったはずなのに。あの辛かった日々を、絶対に忘れないと思っていたのに。
 それなのに。
 美咲は血が滲むほど唇を噛みしめ、震える声で告げる。
「馬鹿みたい。それでもあなたが好きなんて」
「ミサキ……」
 切なげに声を震わせるレインフェルドに、美咲は力無く微笑む。
 もう無理だ。どれだけ必死に目を逸らそうとしても、心はレインフェルドを求めてしまう。
 だってやっぱり、レインフェルドは格好いい。美咲が好きだったレインフェルドとなに一つ変わることなく、立派で素敵な騎士だ。
 野盗に襲われたとき、美咲を命懸けで守ってくれた。自分より立場が上のマリアンヌに対しても毅然と対処してくれるほど。行動の根本にあるのは美咲への変わらぬ想いだと、本当は美咲だってわかっている。
 美咲はそっと目を伏せた。
「だからこそ、あなたの手を取ることができない」
 レインフェルドを好きだったあのころの気持ちが戻らないよう必死になったり、レインフェルドを拒絶したり。感情がこれだけ揺れ動くということは、美咲にとってレインフェルドは過去の人間ではなく、いまでもとても大きな存在であることの証明だ。わだかまりも苦しみも、複雑な気持ちをすべて覆いつくすほどの恋情がある。
 だけどレインフェルドの腕に飛びこむことをためらわせているのは、恐怖心だ。レインフェルドや仲間たちにはきっと一生わからない。
「あなたと再会して、あなたのことを好きだったあのころの私が顔を出す。だから怖い。あなたへの気持ちを思い出せば出すほど、忘れられるのがたまらなく怖くなる。私はもう、傷つきたくないの。……ごめんなさい」
 愛した人や信頼した仲間から忘れ去られることが、どれほどの苦痛を伴うのか。
 今回もまた忘れられたら――。もう二度とあんな辛い思いはしたくない。それならいっそ、初めから手に入れなければいい。そうしたら、失ったときの苦しみも絶望も抱くことはないのだから。
「……きみの言いたいことはわかった。きみがなにを恐れているのかも」
 美咲は唇を噛みしめた。
 これでいい。レインフェルドは美咲のことなんて忘れて、立場に見合う相応しい人と連れそうべきだ。貴族令嬢ならば美しい容姿で、レインフェルドを支えていける教養もある。
 逃げずに自分の本心をすべて話した。これからは旅の仲間としてやっていけるはずだ。いまはお互い辛くても、悪竜を無事に倒し、王都に戻れば、美咲とレインフェルドはもう会うこともない。住む世界の違う人なのだから。
 またきっと、レインフェルドへの想いを封じることができる。一度できたのだから、大丈夫。美咲はマウロの世話をしながらパン屋で働き、これまで通りの日常に戻るだけ。
 レインフェルドがいなくたって、美咲は生きていける。
 そう覚悟していたはずなのに、いざレインフェルドが離れていってしまうと思ったら胸が痛んだ。自分勝手な想いはグッと呑みこみ、立ち去ろうとしたが――。
「だが、私は存外諦めの悪い男だったみたいだ」
「――え?」
 どこか吹っ切れたように、ニヤリ、と彼らしくない好戦的な笑みを浮かべ、レインフェルドは一枚の手紙を取りだした。
「きみに話したいことがあると言っただろう」
 呼びだされたとき、確かにレインフェルドはそう言っていた。気持ちが逸って、先に美咲が話を始めてしまったが。
「私はきみを諦めない。きみの中にまだ私の存在が少しでもあって、可能性が残されているなら。きみの懸念を取り除くために、あらゆる手を尽くす」
「え……」
 呆然と目を見張る美咲に、レインフェルドはこれまでの殊勝な態度とは一変して、なにか決意したように瞳に力強さを宿していた。


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