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9784866694184

悲惨な結婚を強いられたので、策士な侯爵様と逃げ切ろうと思います

鬼頭香月 / 著
緒花 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-418-4
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/07/27
ジャンル フェアリーキスピュア

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内容紹介

《婚約破棄のため、貴方と仮初めの恋をします…!》
婚約した王太子から突然浮気を告げられた侯爵令嬢ジュリアナ。しかも、結婚してやるから愛人の後ろ盾になれ、とも――。屈辱のあまり婚約破棄を願い出るが、何故か彼は断固拒否して外堀を埋め始める。そんな時救いの手を差し伸べたのは幼馴染のキースリング侯爵。彼が新恋人として名乗り出ることで非道な王太子を退けようというのだ。建前上のことと思い承諾するが、長年募らせた恋心を明かし守ってくれる彼の姿に、次第に心は揺れ始め……

立ち読み

「ジュリアナ……っ。君ならわかってくれるよね? これは僕が初めて手に入れた、真実の愛なんだ! 君の侍女と恋仲になってしまい、すまなく思ってる。だけど、どうか彼女を許してあげて!」
 彼はジュリアナに理解を求めていた。その眼差しは、ジュリアナを信じ、疑い一つ抱いていない。
 ――恋をしていたのは、自分だけだった。
 ジュリアナは虚しさに包まれながら、強ばる唇をなんとか動かす。
「……いつから、ビアンカ嬢と交際なさっていたのですか……?」
 侍女として雇っていたため、ジュリアナは普段、ビアンカを呼び捨てにしていた。しかし王太子の恋人なら、それも改めねばならない。
 ジュリアナは衆目の中、最大限自らの婚約者を奪った侍女に配慮して問うた。
 そんな質問をされると考えていなかったのか、バーニーは一瞬怯む。その反応に、ジュリアナはうっすらと瞳に涙の膜を張りながらも、優しく微笑んだ。
 怒っていないと態度で示すと、彼は目を泳がせながら答えた。
「い……一年半くらい前かな……」
 交際期間の長さに、周囲がどよめく。
 ――一年半。丁度、バーニーの態度に変化が出始めた頃だ。
 なぜ変わったのだろうと、少し不思議だった。年頃になったからかと思っていたが、あれは、ビアンカと一緒に過ごしながら学んだのだ。
 エスコートをするタイミングも、髪や頰に触れる仕草も。ジュリアナがときめかされてきた、青年らしい振る舞いの全ては、ビアンカのために身につけた所作。
 鼓動が激しく乱れ、顔は醜く歪みそうだった。けれど侯爵令嬢としての矜持が、なんとか表情を穏やかなまま保たせた。ジュリアナは、そっと扉口に目を向ける。
 タイミングよくビアンカをエスコートしてきたフリードが、青い顔で立っていた。
 恐らく彼女は、ジュリアナたちが待機する予定だった控えの間にいたのだろう。議事堂まで付き添う近侍が新たにエスコートするなら、控えの間が最も手近でよい距離にある。
 この計画は、バーニーが立てたに違いない。
 ビアンカの生家が、あれほど上等なドレスを仕立てられるとも考えられない。
 バーニーは、事前にジュリアナと似たドレスをビアンカに調べさせ、この日に合わせて新調した。当日は、ジュリアナと鉢合わせせぬようルートを決め、近侍に案内するタイミングをよく言い聞かせて、そして恋人の存在を公にした。
 一年半もの間、ジュリアナの目を盗んでビアンカと逢瀬を重ねていたのと同じように――計算高く動いた。
 震える息が、鼻から漏れた。裏切られ、絶望的に泣きたいのに、侍女と睦まじく過ごしていただろう彼を想像すると、激しい嫌悪感が湧いた。
 彼は、いつだって穢れを知らぬ明るい笑顔で、ジュリアナと接していた。
 だが裏では、女性への接し方を着実に学べるような触れ合いを、ビアンカと繰り返していた。
 そして自分はといえば、主人の婚約者と恋仲になりながら、平然と過ごす侍女を雇っていた。
 いっそ滑稽で、笑ってしまいたいくらいだ。
 しかしジュリアナは、そのどんな感情も呑み込んだ。高貴なるオルコット侯爵家の娘として、平静を装い、落ち着いた声音で穏やかに応じる。
「……バーニー殿下。私が、ビアンカ嬢に許しを与える必要はございません。どうぞお望みのまま、ビアンカ嬢を娶られませ。殿下にご満足頂ける婚約者となれず、大変申し訳ございませんでした」
 多くの諸侯貴族らの前で、自分よりも身分の低い、更には雇っていた侍女に出し抜かれていたという恥辱を与えられながらも、ジュリアナは王太子に敬意を払い、膝を折って謝罪した。
 彼にとってジュリアナは、姉のように慕うことはできても、色恋の対象にはできなかった。それだけだ。
 潔く身を引こうとするジュリアナに、バーニーは首を振る。
「そんなことないよ、ジュリー。君は十二分にできた人だ。僕たちには、君が必要なんだよ」
「……はい?」
 不可解な返事に、ジュリアナは顔を上げる。バーニーの背に守られていたビアンカが、ひょこっと横から顔を出し、潤んだ目で訴えた。
「私はジュリアナ様のように教養高い娘ではありません。外交や公式行事など、とてもではありませんが対応できないでしょう。ジュリアナ様には、私と共にバーニー殿下を支えて頂きたいのです」
 ジュリアナは彼女が言わんとするところを即座に理解したが、驚きのあまり、口を閉ざした。
 それを伝わっていないからだと判じ、バーニーが口添えする。
「僕と婚約破棄なんてする必要はないんだよ、ジュリアナ。恋をしたといっても、君を投げ出すほど僕は無責任じゃない。君には予定通り僕と結婚したあと、王宮でビアンカを教育してあげてほしいんだ。彼女は普通の令嬢として生活してきただけの子だから、少しでも王宮に馴染めるように」
 ジュリアナは、目立たぬように握り締めた拳を震わせた。
 彼は、ジュリアナの名誉のために結婚する代わりに、ビアンカの後ろ盾になれと命じていた。
 バーニーの妃となったジュリアナが、愛妾であるビアンカに教育を施していけば、正妻が愛妾を認めている構図になる。そうすればビアンカは、仕えていた主人から婚約者を掠め取った悪女の誹りも受けず、王太子と王太子妃の庇護のもと、安息を得られる。
 言葉の裏にある真意は容易に見透かせるもので、ジュリアナは信じられない思いで彼の瞳の奥を覗いた。そしてそこに、自分への哀れみを見つけ、全身の血が逆流するほどの憤りを感じた。
 ――どこまで私を、軽んじるの。
 王太子と婚約した時点で、ジュリアナの人生は定められていた。
 王太子との婚約は誰もが知るところで、それを破棄されれば、一生不名誉がつきまとう。未婚であろうと、再婚と同等の扱いになるのは必至だ。
 それらを承知の上でビアンカと浮気をした彼は、自らがジュリアナを救ってやろうとでも言いたげな目をしていたのだ。
 ――よくもそんな、偽善を……っ。
 議会の場で浮気を公言された時点で、ジュリアナの名誉は失墜していた。この日の出来事は、数日中に社交界に広められ、ジュリアナは自らの侍女に王太子を掠め取られた、愚かな主人だと嘲笑われるだろう。
 バーニーと結婚しようとしまいと、この不名誉な出来事は、一生ジュリアナにつきまとう。
 ――それなら、名誉などいらない。
 結婚し、愛人と睦まじく過ごす彼を漫然と見守るなど御免だった。その上、公務の傍らで、愛人の世話まで任せられるなんて、どんな地獄だ。
 一生愛されず職務に没頭するだけの、その実、ジュリアナこそがバーニーの側室に甘んじなくてはいけない提案になど、絶対に頷きたくなかった。
 けれど宰相であり、国王に忠誠を誓うオルコット侯爵の娘としては、感謝し、受け入れねばならないのか。
 恋した相手から、残虐とさえ言える仕打ちを受け、彼女は頭に血が上っていた。怒りと悲しみの激情の中、今にも泣いてしまいそうなのを堪えるので精一杯。常に冷静に、教養ある令嬢としての振る舞いを忘れるなと躾けられていても、何が正しい判断なのかわからない。
 ビアンカを愛妾として抱えたバーニーとの異様な結婚生活は、想像するだけで吐き気をもよおした。
 ジュリアナは、震える掌で口を押さえる。
 ――早く答えなくてはいけない。でも正しい答えが、わからない。
 喉は引きつり、鼻の奥がツンと痛んだ。視界は無様に涙で揺らぎ、もはや表情も保てそうになかった。それでも涙を堪え、無理矢理に答えようと口を開きかけた時、それまで事態を静観していた者が間に入った。
「――少々、お時間を頂きたい」

◇◇◇◇◇

「――俺と交際しようか、ジュリアナ」
「……え?」
 意味がわからず、ジュリアナはきょとんとする。エリックは明るく言った。
「要は君が可哀想じゃなくなればいいだけの話だ。王太子の婚約者でなくなり、次の縁談もないだろう君を哀れむからこそ、バーニー殿下は結婚を強行しようとしている。でも君にちゃんと爵位も領地もある恋人がいたらどうだろう? お互い恋人がいて幸せですね、それじゃあサヨウナラ――となるはずだ。偶然にも俺は今、婚約者もいなければ恋人もいない。万事解決だよ」
「……えっと……そ……そう、かな? ……そう?」
 考えてもいなかった提案に、ジュリアナはやや混乱する。エリックの掌の温かさに安心感を覚えながら、考え込んだ。
「……だけどバーニー殿下は、ビアンカ嬢を苦しめたくないから私を妃に置くともおっしゃっていたわ」
 万事解決とは行かない要素を挙げると、エリックは鼻で笑った。
「王太子の寵愛を得るなら、ビアンカ嬢は勉強くらいしないといけないと思うよ。……恐らく陛下がバーニー殿下の意向を退けないのは、論拠に筋が通っているからだ。バーニー殿下は陛下に対し、婚約を解消すれば、ジュリアナの名誉は傷つき、その後の嫁ぎ先も見つけにくくなる。そんな目に遭わせるくらいなら、予定通り娶った方がよほど彼女のためだ――と言っているはずだ」
 ジュリアナはまあそうだろうなと頷く。
「そしてそこに恋人の話は差し挟んでいないだろう。端から自分の恋人が可愛いからジュリアナに面倒な仕事を全部丸投げしたいなんて言えば、あの国王陛下がお許しになるわけがない。怒り心頭で、彼を世継ぎの座から外してしまう可能性だってある。なにせアメテュスト王国の王家には、もう一人優秀な王子がいるからね」
 エリックの想定を聞き、ジュリアナはオルコット侯爵との会話を思い出した。
 確か父は〝陛下は愛人の方を諦めさせようとしている〟と話していた。ビアンカの話をしないで、ジュリアナのために結婚したいとだけ述べれば、国王もそんな方向へ舵を切るだろう。
 ジュリアナはエリックを見返す。
「でも、貴方は? 今の状態で私と恋人だなんて公言したら、王太子から婚約者を掠め取ろうとしている悪者扱いになるのじゃないかしら。ヘタをしたら、王家に楯突く者として罰せられるかも」
 そうだ。エリックの立場が酷く危うくなる。ジュリアナは眉根を寄せ、首を振った。
「やっぱりダメ……」
 エリックは彼女が断ろうとするのを、握った手に力を込めてとめる。
「そこは大丈夫かな。誰も俺を咎め立てはしないだろう。……色々とあるから」
 さらっと返され、ジュリアナはどうして――? と思った。だけど彼の顔には、聞き返してはいけないと書かれていて、口を閉じる。
 もしや、以前戯れに考えた、〝裏で悪い仕事をしている〟説が濃厚なのだろうか。
 聞きたいような、聞きたくないような、それでもやはり聞きたいと顔に書いてある彼女に、エリックは苦笑し、その目尻を指の背で拭った。
「泣きやんだね、よかった。……うん、エレンはいい腕をしてる。化粧、全然崩れてないよ」
 言いながら、言葉とは裏腹に指の腹で目の下辺りを整え、涙の痕を消してくれる。
 宴の始まりから化粧を気にしていたジュリアナのため、崩れを指摘せずに直してくれた彼の優しさに、頰が染まった。
「……ありがとう……」
「――何してるの?」
 エリックのおかげで凍えきった心が再び温かさを取り戻しかけた時――彼女を再び凍りつかせる、不機嫌な声がその場に響き渡った。
 ジュリアナは反射的に立ち上がり、エリックと繫いでいた方の手を離そうとする。だが彼は、逆に手に力を込めてそれを許さなかった。
 真っ青になって見返すも、一拍遅れて立ち上がった彼は、ジュリアナではなく、現れた人物に目を向ける。そしてそのまま、普段通りの柔和な笑みを浮かべた。
「これはこれは、バーニー王太子殿下とビアンカ嬢。ダンスはいかがでしたか?」
 ジュリアナは恐る恐る背後を振り返る。
 エリックが人目を忍ぶために選んだ柱の脇に、凍てついた眼差しで自分たちを見る、バーニーが立っていた。ビアンカは彼の斜め後ろに、遠慮がちに控えている。
 彼はエリックを無視し、ジュリアナを睨みつけて問いただした。
「ジュリアナ。こんな人目も届かない場所で、男と二人、何をしていたの?」
 先ほどはジュリアナを心ない振る舞いで放り出したのに、不貞は許さないと言わんばかりの態度だった。
「わ……私は……」
 彼と結婚しないといけないなら、言うことを聞かなくてはいけない。エリックと共に解決策を見いだしたはずなのに、先だって抱いた恐怖が心を色濃く染めていて、ジュリアナは狼狽した。
「ジュリアナは私と逢瀬を交わしていたのですよ、バーニー殿下」
 前置きもなくエリックが爆弾発言をし、ジュリアナはひゅっと息を呑んだ。今し方そうしようと話したばかりだけれど、即実行するとは聞いていない。
 額に汗を滲ませて見上げれば、エリックは実に平然と微笑んでいる。
 バーニーは目尻を痙攣させ、鋭い眼差しでエリックを睨みつけた。
「……何を言っているのか、わかっているのか? 冗談ではすまされないぞ、キースリング侯爵」
 エリックの家名を敢えて強く呼び、バーニーは暗に、王家より爵位を賜った臣下の分際で、過ぎた行いだと彼を咎めていた。同時に、全てを取り上げるぞと脅してもいる。
 ――やっぱり、誰も咎めないなんてあり得ないじゃない……っ。
 大丈夫だと請け負ったあの言葉は気休めだったのだ。ジュリアナは青ざめたが、エリックは、ははっと爽やかに笑った。
「冗談でこのような話は致しません。実を言うと、ジュリアナと私の間には愛が生まれていたのです。殿下ならば、私たちの気持ちはよくおわかり頂けるのではないでしょうか? ……そちらのご令嬢と、真実の愛を育んでいらっしゃるそうですから」
 エリックが視線でビアンカを指し示すと、彼女はまんざらでもなさそうに頰を染める。しかしバーニーはビアンカの方は見ずに、ジュリアナに目を向けた。
「……そうなの? 僕を欺いて、この男と通じていたの、ジュリアナ?」
 バーニーの反応に、ジュリアナは戸惑う。ちらっとエリックを窺えば、彼は大丈夫だと視線で応じて頷く。
 ジュリアナは、自身の心を叱咤した。エリックは立場を懸けて協力してくれている。自分の問題に自身で立ち向かわずにどうする。
 ――もう、この方とは添い遂げないと決めた。どんな汚名を被ろうと、私はバーニー殿下と別れて、自由になるのよ……!
 ジュリアナは、エリックと繫いだ手をぎゅっと握り、その顔に優美な微笑みを浮かべた。
「……さようでございます。私を慮り、責任を取ろうと奔走してくださった殿下には、感謝の言葉もございません。ですが私は、キースリング侯爵が迎え入れてくださいます。どうぞもう、形ばかりの婚約者など気になさらず、ビアンカ嬢を正式に娶られ、お幸せになられませ」
 バーニーはショックを受けたように目を見開き、しばし硬直した。ジュリアナはまたも、想定外の反応を訝しく感じる。ビアンカの方もまた、表情を曇らせていた。
 ビアンカはバーニーを気にかけつつ、ジュリアナに非難がましい視線を注いだ。
「……ジュリアナ様は、バーニー殿下のご厚意を無下になさるおつもりですか……?」
 ジュリアナは、何を言っているのだと眉根を寄せた。だけど考えてみれば、議事堂で交際を公にした時から、ビアンカはバーニーを独り占めしたいとは言っていなかった。ジュリアナに共にバーニーを支えてほしいと願い出ていた。
 彼女自身がそう思っているのか、バーニーが上手く丸め込んでいるのか知らないが、ジュリアナには同調できない考えだ。
 疑わしく視線を向けると、バーニーは我に返り、苛立ちを滲ませて口角をつり上げる。
「……そう。僕には聖女みたいな顔をして、清廉潔白に見せていたくせに、裏では男を誑かしてたんだ?」
 ジュリアナは目を見開く。――それはバーニーだ。ジュリアナはバーニーに恋をし、結婚を待ち望んでいた。だけど彼は他の女性と恋をして、裏切り続けていた。
 失恋の傷は今もじくじくと胸で血を流し、自分を棚に上げて詰るバーニーには、困惑しか感じない。だが、とジュリアナは思う。
 どう罵られようと構わない。ジュリアナは、新しい人生を始めると決めた。
 彼女は胸一杯に息を吸い込み、その顔に敢えて清らかな笑みを湛えた。
「――はい。私のような不心得者など、もうお捨て置きください。今までありがとうございました、バーニー王太子殿下」
 これまでの感謝を込め、エリックからそっと手を離して膝を折り、深く頭を下げる。さらりと肩口から艶やかな金色の髪が一束垂れ落ち、バーニーはその美しい所作を、しばらく無言で見つめた。
 彼女がゆっくり顔を上げると、彼は静かに応じる。
「それは、許さない」
「え?」
 ジュリアナは目を丸くした。彼は感情の読み取れない眼差しをジュリアナに注ぎ、抑揚のない声で言う。
「……ジュリアナ、君は僕のものだ。君は僕と結婚するために、人生の全てを捧げてきた人だ。だから君を娶るのは、僕でなくてはいけない」
「……バーニー殿下。もう、責任を果たされる必要はないのです!」
 ジュリアナは胸に手を置き、身を乗り出して訴えたが、彼は顔を背ける。
「……その男と通じるのは、許してあげる。だけど君は僕のものだから、結婚はさせてあげない。正妃として、君は必ず僕の妻にする」
 ジュリアナは免れるはずだった運命をなぜかまた目の前で提示され、頭が真っ白になった。
 エリックが不快げに息を吐き、彼女を抱き寄せる。頰が彼の胸に押しつけられ、ジュリアナの鼓動が跳ねた。その様を横目に見たバーニーが、カッとなり声を荒らげた。
「――キースリング侯爵! 僕の目の前で、彼女に触れるのは許さない……っ」
 初めて見たバーニーの怒りに、ジュリアナはびくりと肩を震わせる。だがエリックは彼女の腰に手を添え、平然と笑い返した。
「殿下は堂々と、諸侯貴族の前で恋人と仲睦まじくダンスをなさっていたではありませんか。貴方はよくて、ジュリアナはいけないだなんて法はないでしょう。私と通じるのを許すとおっしゃるなら、これくらい寛容にならねばいけませんよ――王太子殿下」

◇◇◇◇◇

「君の心の全てを俺のものにしたい。誰と婚約していようと、恋人は俺一人だと、何人たりとも入る隙なく、君の心を染めたいんだ。君を誰よりも大事にすると、神に誓う。毎日飽きるほど愛を囁き、君を慈しむと約束する。今後俺が愛する人は、この世に君一人だ、ジュリアナ。――だからお願いだ……俺を君の恋人にしてくれないか?」
 懇願するかのように苦しげに問われ、ジュリアナは、かああっと赤面した。
 国家機密を暴露し、逃げ道を塞いで言う内容ではない。その告白は、今応じなくても、彼は永遠にジュリアナを想ってくれると約束しているようにすら聞こえた。
 応えてはならない。理性は警告したが、ジュリアナは弱々しく息を吐き、か細い声で答えた。
「……はい……」
 返事を聞いた瞬間、エリックの瞳が輝いた。喜びを目の当たりにし、ジュリアナの心臓が大きく跳ねる。彼は青の瞳を細め、そっと囁いた。
「……ありがとう、ジュリアナ……。一生君を、大事にする」
 心の準備も何もなく、彼の吐息が唇に触れ、ジュリアナはぎゅっと目を閉じる。
「ん……っ」
 柔らかな感触が自らの唇に重ねられ、ジュリアナは身を竦めた。
 彼は数秒唇を重ね、ちゅっと音を立てて離す。息をとめていたジュリアナは、頰を火照らせ、はあ、と息を吐いた。一瞬で終わった。
 なるほど、そんなに怖くないかもしれない。
 ドキドキしながらも安堵すると、エリックがまた顔を寄せた。
「え……っ、んん……っ」
 ――二回も!? と、驚いて逃げかけた彼女の後頭部に手を回し、エリックはちゅ、ちゅと啄むキスを繰り返す。
 ジュリアナはどうしたらいいのかわからず、エリックの胸に手を置き、再び息をとめた。何度も唇をはまれ、柔らかく互いの感触を味わう大人びたキスに、鼓動がどんどん乱れていく。
 肉感的なキスを何度となく与えていたエリックは、ふと唇を離し、間近でジュリアナを見つめた。苦しくて、目尻に涙を滲ませていた彼女は、ぷはっと大きく息を吸う。
 その仕草に彼は甘い笑みを浮かべ、指の背で彼女の頰を撫でた。
「……ねえ、ジュリアナ。……ちょっとだけ、無粋な質問をしてもいいかな……?」
 緊張して微かに震えていた彼女は、潤んだ目で彼を見上げた。
「なあに……?」
 彼は軽く濡れた彼女の唇を親指の腹でなぞり、優しい声で聞く。
「……もしかして、初めてだった……?」
「――っ」
 ジュリアナは息を呑み、動揺のあまり呼吸をとめた。
 彼が意外そうに確認した理由はわかる。ファーストキスなんて、十二、三歳で終わらせる子が多いというのは、貴婦人主催の茶会に参加して知っていた。政略結婚もあれど、一般の貴族子女は、社交界デビュー前に家同士で交流を持ち、軽い色恋を経験する者が割といるのだ。
 八年間もバーニーと婚約していたジュリアナが、一切手出しされていないなどあり得ないと考えるのは、自然だ。
 手も出す気になれなかった女だと答えるのは辛かったが、ジュリアナは羞恥心を堪え、頷く。
「ご、ごめんなさい……。大人の女性らしい振る舞いが、できてなかった……?」
 キスの仕方など習っておらず、経験不足が知れる態度だったのかな、と不安になって聞き返した。
 その答えを聞いた瞬間、エリックの瞳に妖しげな炎が灯った。ジュリアナは先だって感じた、肉食獣に狙い定められた小動物になった心地で、身を竦める。
 彼は色香いっぱいに微笑み、また顔を寄せた。
「そっか……。それじゃあ、たくさん俺と練習をしようね、ジュリアナ」
「練習……」
 キスと練習という単語が、今ひとつ繫がらない。首を傾げると、彼は顎に手を添えて答える。
「……ほら、息の仕方とか、わからないでしょ?」
「あ、うん……。そうね」
「……可愛いね、アナ」
 素直な反応にふっと息を吐いて笑い、彼はぽかんとしているジュリアナの唇に再度食らいついた。
「……えっ、ん、ん……っ」


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