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崖っぷち令嬢は騎士様の求愛に気づかない

日向そら / 著
八美☆わん / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-390-3
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/04/27
ジャンル フェアリーキスピンク

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内容紹介

社交界一のモテ男と偽装恋人!?
モテ男の裏に隠された意外な真実とは!? 美貌のカリスマ騎士×貧乏貴族令嬢のデンジャラスラブコメディ❤
「私の『恋人役』になって頂けませんか?」美貌の騎士隊長ライネリオから偽装恋人の取引を持ちかけられたルチア。公爵家のお家騒動をかわすため、ド田舎の貧乏貴族ゆえ得意な剣の腕を買われたのだ。はるばる王都へは婚活のためにやってきたハズが、予想外の展開に困惑するルチアだが――《目を合わせただけで妊娠する》と囁かれる色気満載の偽装恋人っぷりに翻弄されまくり! しかし社交界一のモテ男の裏に隠された彼の意外な一面を知って!?
「駄目です。逃がさない、と決めましたから。存外自分は執念深い性質だったみたいです。新しい発見ですね」

立ち読み

 王都の関所を抜け、途中で一度馬車を止めて遅めの朝食を取り、そしてお昼を過ぎた辺りに、予定通り領地に到着した。
 飾り気のない大きな建物がいくつか並び、その一番手前に建てられたやや小ぶりの建物から、ルチアの父親と同世代らしい男女が出てくる。
「ライネリオ様! お待ちしておりました!」
 恰幅のいい腹を揺らした男が、姿に似合わぬ機敏さで駆け寄ってくると、帽子を取り頭を下げた。続く女性も同じように礼を取る。どうやら夫婦らしく、お揃いの腰巻きエプロンがなんだか可愛らしくて、初めての場所に密かに身構えていたルチアの緊張も和む。
「工場長、久しぶりですね。元気でしたか?」
「ええ、勿論です。さぁさぁ中へどうぞ。陽射しもありますし、馬車の中は暑かったでしょう!」
「いえ。今日は日帰りの予定ですから、あまり時間がないんです。屋敷にも寄るつもりはありません。伝えていた通り、書面に纏めておいてくれましたか? 彼女を案内しながら確認します」
 ライネリオの説明に、ルチアははっとする。
(もしかして視察はいつも、日帰りじゃなくて泊まりだったのかしら……)
 ここは領地なのだから当然、領主一家が過ごす為の別邸があるはずだ。周囲を見渡せば、奥の方にお屋敷の一部らしき屋根が見えた。おそらくあれがそうなのだろう。
「おや、左様ですか。それはマチルダ夫人が悲しみますな」
「……マチルダ夫人?」
 ルチアが初めて聞く名前を繰り返すと、ライネリオは「乳母です」といやにきっぱりとした声で紹介してくれた。
「母代わりとして幼い頃から私の面倒を見てくださった方なんです。本邸は何かと騒がしいので、数人の古参の使用人達と共に、こちらの別邸の管理を任せているんですよ」
「はぁ……」
 あまりにも流暢な説明なので、逆に何かやましいことでもあるのかと疑ってしまうが、これも以前突然主張した『プレイボーイではない』キャンペーンの続きなのだろう。ルチアが誤解しないように、いつもより少し早口で話すライネリオはなかなか珍しくて、つい口がムズムズしてしまう。けれど、笑うまでいかなかったのは、ライネリオと工場長がその前に話していた内容のせいだった。
(やっぱりいつもは泊まりなんだわ。私が見学に来たことで、日帰りになっちゃったから忙しくさせたのよね……)
 そのマチルダ夫人にも申し訳なくなったルチアは、気まずくなって身体を縮こませる。
 そう、行きの馬車の中。最初は移動の間くらい休んでもらうつもりだった。それに改めて久しぶりに二人きりになると緊張しそうなので、眠ってくれているくらいがちょうどいいとも思っていた。しかしライネリオは以前の約束を覚えていたらしく、馬車に乗り込んで早々、ルチア自身の話や、今までのリムンス領地での過ごし方を尋ねてきた。最初こそ田舎の話なんて子守歌代わりにちょうどいいかも、と話し出したルチアだったが、いかにも楽しそうに頷き、続きを強請られるので、随分喋りすぎてしまった。
 途中、弟のスタークが生まれてから母が亡くなった話をしている時、気を遣わせたのか何度かライネリオが顔を曇らせた部分もあった。少し気になったものの、そのまますぐにまた新しい話題が振られ、結局ライネリオは休むことなく、ルチアの話を聞いてくれたのである。
「なるほど。では纏めておいたものをお持ちしますね。風に飛ばないように綴ってきますので、少々お待ちいただけますか」
「余分な手間をかけさせて申し訳ありません。その間に工場の方に視察に向かうつもりですが、構いませんか? 特に案内はいりませんので」
「ええ。それは勿論。見ていってください。工員も喜ぶでしょうし。ではお嬢様はこちらでお待ちになりますか? 一応客室はございますよ」
 急に話を向けられて、ルチアは一瞬口を噤む。まだまだ女性がこういった領地の見学や視察に向かう例は少ない。純粋な好意だと分かる申し出に、ルチアがどう説明しようかと思ったその時、ライネリオがすっとルチアの肩に手を置いた。
「いいえ。彼女はリムンス領の伯爵令嬢で、領地の為にうちの工場を見学したいと申し出てくれたんです。ああ、そうでした。後で農業学者のエドを呼んでおいてもらえますか?」
「分かりました。はぁ……いやしかし、なんという勤勉で親孝行なお嬢様でしょうか。まだ若いのにしっかりなさって……リムンス伯爵様や領民は幸せ者ですな。ウチにも娘がいますが、見習って欲しいものですよ」
「……そうでも、ありませんよ」
 ルチアは顔を上げて、控えめな笑顔を作った。
「うちはなかなか土壌にも商売にも恵まれなくて、当主になる弟の手助けがしたいだけなんです」
「おお! こんな立派な姉上がいるなんて弟君も心強いでしょう」
 ルチアの言葉に感動したらしい工場長は、人好きのする笑顔をルチアに向ける。しかし続く賞賛は、なぜかルチアを居心地悪くさせた。
「そんな」
 立派なものではない――のに。
 自然と足が一歩後ろに下がったその時、とん、と背中に硬い何かが当たった。
「……ライネリオ様?」
「小石にでも躓きましたか? お喋りはそれくらいにして向かいましょう。あまり時間がありませんしね。工場長、視察が終わったらあの丘の辺りで待っていますから、書類を持ってきてください」
「おおっそうでしたな! 引き留めて申し訳ありませんでした」
 ライネリオは話題を切るようにそう言うと、少し強引にも思える仕草でルチアの手を取った。するりと指が絡まり、触れ合う面積が広くなる。
 そんな仕草に二人の関係を察したらしい工場長は、ますます笑顔を深めて「こりゃ、お邪魔しました」と嬉しそうに肩を弾ませた。軽い足取りで妻と共に、建物へ戻っていった。
「……」
 ルチアは繫がれた手を見下ろす。すっかり慣れてしまった大きな手は違和感もなく、ルチアの手を包み込んでいた。そういえば今日は改まった場所ではないせいか、手袋はない。だからだろうか。絡まる指が、緊張に一瞬で冷えてしまったルチアの指先を温めていく。
 ルチアは自然と強張っていた肩から力を抜く。途端に握り締める手の力が緩められ、すぐに解けるくらいになった。けれど。ルチアはやっぱり指先を絡めたまま、ライネリオの横に並んで歩き出したのだった。

 ――そして二時間後。
 見学を終えたルチアは建物から少し離れた小高い丘の上で、絶望感に打ちのめされていた。叔母が今のルチアを見たなら、確実に夕食を抜かれるであろう、みっともなく哀れな姿である。しかし叔母はいなくても一人ではなかった為、拳を地面に打ちつけて世界を呪って嘆くのはやめた。それだけでも誰かに褒めて欲しいほどの慟哭だった。
「資金が……っ、設備投資資金が欲しい……!」
 ルチアが喉から絞り出すようにそう呻く。
 ちなみにライネリオは呆れるでもなく、そんなルチアを楽しげに見守っているのだが、ルチアに振り返る心の余裕はない。
 ルチアが案内された建物は、アトリエめいたものではなく、全てが細分化され、安定生産が確立されたとても効率的な工場だった。
 しかも職人といえば男性というイメージも根本から覆され、工場にいたのはほぼ女性だった。見学したのは領内の森で切り出してきた、建築用木材から出てくる廃材を扱う木工細工の部屋だ。ライネリオの説明によると、女性の方が器用で、細工物に関しても、その感性が購買層である若い女性に受けるらしい。
 力仕事は男性に回され、完全に分業化されていて、ルチアが使い方すら分からないくらいの最新の道具や機械も整備されていた。必要に応じて機械につけ替えられる部品も多種多様で、全ての手入れも行き届いていた。
 そしてメイン取引物である建築用の木材は、なんと領地から王都まで流れる川を使って運んでいるらしく、運搬費がほぼかからないのだという。
 恵まれすぎでは? とルチアが憤る一方で、だからこそ公爵領なのだと納得する。それに川の流れに任せてまるごと切った木を運ぶなんて、きっと思いつきもしなかっただろう。木材は乾かすもの! という思い込みから抜け出すことは、常人にはなかなか難しい。
「何か参考になりましたか?」
「参考……」
 期待するようなライネリオの質問に、ルチアは身体を起こし、その場に座り込んで考える。
 正直に言えば工場の設備や技術的なことに関しては、リムンス領の参考にできるものはなかった。木材の加工にしても繊細な彫り物が多く、同じように加工できたとしても、リムンス領とミラー領では王都までの距離が違う。リムンス領からでは、運搬費用が高くなってしまうので、単価が上がってしまうだろう。……得たものといえば。
「……女性も立派な労働力であるという意識と、適材適所ってところでしょうか……」
 ルチアがしどろもどろにそう答えると、ライネリオは目尻を僅かに下げた。そして青々とした下草を踏みしめてルチアに近づくと、ぽん、と、ルチアの帽子越しに頭を撫でた。
「実は意識を変えるのが一番難しいのですよ。それができれば、柔軟な考えも出てきます」
「柔軟な考え……」
 ライネリオの言葉は教師のようだ。ルチアが頭の中で纏めきれなかったことを言語化して整理してもらった気がして、ルチアは振り返ってライネリオを見上げた。ルチアを見下ろす蒼海の瞳は穏やかでとても優しい。――けれど、なんとなく物足りなく感じてしまったのはなぜだろうか。
(……綺麗な瞳。やっぱり海みたいな……)
 人間が海に思うのは、憧憬と郷愁――いつか本で読んだ一節を思い出す。海とは美しい反面、恐ろしいものだ。引きずり込まれるのか、自分から向かうのか、心一つで何もかも変わる。ライネリオの蒼海の瞳を前に、ルチアが思ったのは、甘やかな誘い――。
「ルチア?」
 こく、っと中途半端に喉が鳴る。それに気づいたライネリオは蕩けるような甘い瞳で、ルチアを見つめた。一瞬前まで静かに凪いだ海のような色だったのに、その奥に揺らめく熱が見えて、そわっと身体の奥が震える。深海の底よりも深いその場所を覗きたくなって、ルチアは自然と腰を上げた。宝物に触れるように静かに、優しく、髪に、額に、眦へと落ちてくる唇も、抵抗すらできなかった。
(違う。私とライネリオ様はただの『恋人役』で、ここまで……こんなことまで、どうし、て)
 ちゅっと軽い音を立てて、前回と同じく瞼に唇が落ちる。反射的に瞳を閉じたせいで、ライネリオの香水が濃厚に感じられた。思考が完全に固まって、唇に僅かな吐息を感じたその時すら、ルチアは瞳を閉じたままだった。
 唇に冷たい感触が触れる。あ、と思う時間もなく、すぐに離れた唇が再び角度を変えて合わさった。下唇を嚙まれて、味わうように啄まれる。何度か繰り返し、少しだけ開いていた口の中にそろりと熱い舌が入ってきた。上顎の辺りを舌先で撫でられ、背中に甘い痺れが走った。
「……んん……っ」
 赤い舌が僅かに開いてしまった視界に映る。ちゅ、ちゅ……じゅっ、と鼓膜に直接響くような水音に、頭が真っ白になる。
「………んっ……ふっ」
 呼吸の仕方がよく分からなくなって声を漏らせば、ゆっくりとライネリオの顔が離れていった。
 蒼海の瞳は舐めたら甘そうほど蕩けていて、抜けそうになったルチアの腰をライネリオが支える。そして丘下から吹き上げる強い風に緩くなっていたルチアの帽子のリボンを結び直した。
「残念ですが、早く可愛い顔をしまい込んでください。人が来ましたよ」
 ルチアは狼狽と羞恥心から、言われるままに両手で顔を覆う。そっと振り返ると、丘の下から工場長と細身の男性が手を振りながら上ってくるのが分かり、ルチアはぎゅうっと帽子の鍔を引っ張って深く被り直し、顔を隠したのだった。

 ――土壌を変えるより粘土質でも育つ野菜を植えた方がいいですね。いつか麦を育てるのを踏まえてもそうした方がいいと思います。
 ――森が近い土地なら、そこまで土壌は悪くないはずです。ただ植物が多いと土は酸性に偏りすぎますから、堆肥と灰を適量混ぜてみてください。
 ――その状態はもう連作障害が起きていますので、次の年は畑を休ませて――。
 資料を持ってきた工場長と一緒に現れたのは、ライネリオが頼んでくれていた農業学者だった。てっきり老齢の男性を想像していたルチアは、ライネリオと変わらないその若さに驚いたものの、エドと名乗った青年は、公爵家がお抱えにするのも不思議ではないくらい優秀で、ルチアにとって素晴らしいアドバイザーとなった。……話半分に聞いてしまったのが申し訳ないくらいに。
「枯れた土地でも育ちやすい穀物の種を用意してみましたので、試してみてください。研究所にあるので――あの、お嬢様?」
「え? あ、ううん! 有難う! ごめんなさい。聞いていたら色々試してみたくなって、ぼうっとしちゃって……!」
 自分でも苦しいなと思う言い訳を口にして、かろうじて手を動かしていたメモを確認する。ほぼ無意識だったが、大切なところはなんとか書き留めてあってほっとした。
 せっかくの機会だというのに、先ほどのライネリオとのキスが、どうしても頭から離れてくれない。
 焦りが顔に出ていたのか、エドはルチアから半分メモを引き取り、質問の回答を直接記入していってくれた。薬剤の名前やおすすめの果物、その上失敗した辛すぎる作物を使った害獣対策まで伝授してくれ、ルチアは心から彼を尊敬した。そして根っからの研究者なのだろう。一度現地に行って見てみたいとまで言ってくれて、ルチアは感動し、アドバイスが書き込まれたメモを大事にポシェットにしまい込んだのである。そしてエドの骨ばった手を両手で握り締めた。
「有難うエドさん! 感謝します!」
 エドは普段研究に没頭しているせいか、それほどコミュニケーションが得意ではないらしい。顔を真っ赤にしてぶんぶん首を振った。
「ぼ、僕も改めて勉強になりましたし、結果も気になりますから、よかったら……また、……」
 エドの言葉が途切れ、ルチアが首を傾げる。
「ヒッ」と短く悲鳴を上げたエドが、自分の顔よりも随分上を見ていることに気づいて、ルチアは振り返った。途端、ルチアの脇に手がかかり、真上に持ち上げられて後ろに引き寄せられた。エドと繫いでいた手は解け、ルチアの手も足もぶらりと宙に浮く。
 まるで猫の子――いや、彼からすれば兎の子だろうか、そんな小動物を持ち上げるような持ち方だった。
「~~っライネリオ様!」
 少し離れた場所で工場長が持ってきた報告書を読んでいたはずなのに、気配すら感じられなかった。
 そのままぎゅっと抱き寄せられ、非難の声は腕の中で潰れてしまう。一瞬で包み込まれたライネリオの香水に、先ほど交わしたキスが蘇ってしまった。心臓が口から出そうなくらいドキドキして視界が緩む。どうしてキスをしたんですか、なんて聞けもしないことを考えて熱くなる顔をどうにかしたい。下を向くと余計に血が集まってしまうので、ぱっと顔を上げる。しかしそのせいでちょうどルチアを見下ろしていたらしいライネリオと目が合ってしまった。口許には綺麗な笑みが浮かんでいるというのに、威圧感がすごい――のだが、恥ずかしすぎる体勢に、それどころではなかった。
「エド、そろそろ時間ではないですか?」
 その言葉にルチアは慌てて空を見る。そういえば夕方から何かの実験があると聞いていたのだ。ルチアがあまりに多くの質問をするから、なかなか言い出せなかったのかもしれない。
「ヒャィ……」
 語尾が震えて消えかけたエドの返事に、ライネリオは「お疲れ様でした」とにこやかに微笑み労わる。ようやく地面に足をつけたルチアも慌てて頭を下げると、若干緊張が和らいだような気もしたが、ライネリオの顔を再び流し見たエドは、「ぴっ」と再び小鳥のような声を上げた。
「ししし失礼します!」
 丘を転がる勢いで駆け下りていくエドに、ルチアは「もしかしてまた何かやったの……?」とライネリオを疑いつつも、沈みゆく夕陽の影がすっかり濃くなっていることに気づき、やはり自分が引き留めてしまっていたのだと反省したのだった。


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