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元王太子妃候補ですが、現在ワンコになって殿下にモフられています

モンドール / 著
朝日川日和 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-359-0
定価 1,320円(税込)
発売日 2020/12/26
ジャンル フェアリーキスピュア

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内容紹介

《財産目当ての結婚で、この溺愛は予想外!?》
とある夢を叶えるべく、王太子妃を目指して努力してきた伯爵令嬢ルイーザ。けれど肝心の王太子は紳士的なだけで手応えなし。おまけにライバル令嬢のせいで性悪のレッテルを貼られ、挙句何者かの呪いで毛並みフサフサの大型犬に変身させられちゃった!? 真相解明のため王宮で渋々番犬のふりをするものの、そうとは知らず近づいてきたのは王太子。紳士の仮面を取り去りデレデレと犬(注・中身ルイーザ)をモフっては弱音を吐く彼に、ルイーザも徐々に放っておけなくなり——

立ち読み

「きゃぁ」
 あと僅かで、王太子殿下のもとにたどり着くと思ったところで、目の前にいたストロベリーブロンドの令嬢が躓き王太子にまとわりつくように抱き付いた。
「も、申し訳ございません……」
 令嬢――メリナ・ノイマン伯爵令嬢は、すぐさま王太子に謝罪をすると、ちらりとルイーザを見る。
(え……何?)
 怪訝に思い首を傾げると、メリナがびくりと肩を揺らす。
 ルイーザが近寄ったタイミング、この距離、行動。
 この状況で、自分たちが周りからどう見えるのかルイーザは瞬時に理解した。
(まるで私が突き飛ばしたみたいじゃ――)
「……ルイーザ嬢、人が多いところでは前方に気を付けた方がいいよ」
「……!」
 困ったような表情で、ヴィクトール王太子が言う。彼から見てもまた、ルイーザがメリナを突き飛ばしたように見えたのだ。
 ふわふわとした砂糖菓子のように可愛らしい容姿と時折見せる無垢な少女のような笑顔、小動物のような頼りなげな仕草をするメリナは同年代の男性から非常に人気が高い。
 もちろん、ルイーザはそれが上辺のもので、実際はかなり強かな部類の女性であることを知っている。
 啞然としているルイーザをよそに、メリナは健気な表情で口を開く。
「違うのです、わ、私も周りを見ていなかったので……私の不注意でごめんなさい、ルイーザ様」
「あら……手練れの武人でもない限り、後ろから近づく人物を避けるなんてできませんわ?」
 メリナの援護をするように、近くの令嬢が言った。ヴィクトールと令嬢たちの目が、ルイーザに向かう。
 もちろん、ルイーザはメリナに一切触れていない。近くまで来ただけだ。
(や、やられた……!!)
 困ったような王太子の目と怯えたようなメリナの目。
 そして蔑むような令嬢たちの目。
 援護をした令嬢も、決してメリナの味方ではないと思うが、婚約者候補筆頭と目されるルイーザを蹴落としたいのだろう。
 ルイーザは歯嚙みしたが、ここで言い訳をしても仕方がない。完全にこちらがぶつかったと思わせる状況を作られてしまった今、何を言っても容易には覆らないだろう。
 何もメリナにしてやられたのはこれが初めてではない。家格が同じ伯爵家であるせいか、互いに意識することが多く、ちくりちくりとした嫌味の応酬などは今までにも多少はあった。
 女性だけの茶会であれば、社交界の中心となる夫人たちとの人脈を重視するルイーザの方が若干有利ではあるが、今の状況では分が悪い。愛想が良く、顔立ちも仕草も花のように愛らしいメリナは、独身の令息をはじめとする男性陣からの人気が非常に高いのだ。
 ルイーザは内心で盛大に溜息をつきながら、なるべく優雅に礼をとった。
「王太子殿下にご挨拶を申し上げたかったのですが、本日は少々体調が優れずふらついてしまいました。メリナ様、申し訳ございません。お怪我はございませんか?」
「そ、そんな! 大丈夫です! 殿下が支えてくださいましたから……」
 ぽ、と頰を染めたメリナは可愛らしい顔を王太子に向ける。白々しい、と眉をひそめそうになるのを懸命に堪えてルイーザは再び王太子に礼をとった。
「……王太子殿下、ご無礼を申し訳ございません。本日はこれにて失礼いたします」
「ああ、大事にするようにね」
 明らかに、ヴィクトールの表情がほっとした。「揉め事にならなくて良かった」と顔に書いてある。
 ルイーザは確かに少々気の強さが表れた顔立ちをしているし、物言いがきつくなることもある。
礼儀がなっていない相手には苦言を呈することもあるし、相手から喧嘩を売られた時には買うことも多いが、常識から外れた行いはしていないし、多少の嫌味や牽制など貴族社会ではままあることだ。言われっぱなしでいれば気概がない、誇りがないと舐められてしまい逆に今後の立場が悪くなる。
 それでも、こんな場で揉めるような愚かなことなどするつもりはないというのに。
 そんな浅慮な人間と思われているのかと思うと、悔しさや悲しみ、怒りがないまぜになったような感情を抱いてしまう。
 ギリリと扇を握りしめながらも、あくまで憤怒を悟られず、優雅に見えるよう、ゆっくりと踵を返す。
 体を後方に向ける瞬間――一瞬ではあるけれど、メリナの薔薇色の唇が僅かに弧を描いた。
(……!!)
 言い訳一つする隙もなく濡れ衣を着せられたこと。
 王太子の困った表情。
 そして、メリナが最後に見せた笑み。
 腸が煮えくり返る、とはきっとこういうことを言うのだろう。叫び出したい気持ちを淑女のプライドゆえに呑み込み、ダンスホールから出る。
 トレイを持ちながら会場内を回る給仕の一人から果実酒のグラスを差し出されたので、ニコリと笑いグラスを受け取った。
 王太子が踊るということで、人々は皆ダンスホールに注目した。今、彼と手を取り合っているのは忌まわしきメリナ・ノイマン伯爵令嬢だ。
 どうせ誰も見ていないからと、ルイーザはグラスを傾けて一気に果実酒を呷る。
 果実の甘みと酸味が喉を通る。アルコールが弱いものではなかったらしく、喉から胃にかけてがじわりと熱くなった。
 苛立つ気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吐き出したところに、父ローリング伯爵が声をかけてきた。
「ルイーザ、王太子殿下のところへは行かなかったのかい?」
「お父様……。ええ、少々誤解をされてしまったの。収拾がつかなくなる前に下がってきたわ」
 ルイーザの言葉を聞いて、王太子をめぐって令嬢たちと何かあったと察したのだろう。伯爵は、身を屈めて周りに聞こえないよう小声で話した。
「そうか……。辛かったら、いつでも辞退していいんだからね。私たちは、お前の幸せだけを願っているのだから」
 娘が王太子妃の座を射止めるというのは、貴族にとって何よりの誉れだ。けれど、父は心からそれを望んでいるわけではない。むしろ同格の貴族と縁づき穏やかな生活を送ってほしいとすら思っているようだ。
 父の心配を嬉しく思うものの、王太子妃の座を望んでいるのは、両親ではなくルイーザ自身だった。
 ルイーザは緩く首を振る。今回は出し抜かれてしまったが、完全に負けたわけではない。
「私はまだ、諦めません。でも、今日はもう下がろうと思います。先に、休憩室で休んでおりますね。あら、お母様は?」
「ああ。マチルダはあちらでご夫人たちと話をしているから、ひと段落ついた頃を見計らって声をかけるよ。休憩室で待っていなさい」

******

 先ほどの出来事を振り返ると、燃え上がるような悔しさが襲う。
 頭痛に加え、目の奥も痛くなってきたようだ。
 次期王妃になることに、ルイーザは幼少期から全てを捧げてきた。
 貴族女性が必要以上に知識を身につけることは、「可愛気がない」と忌避されがちだけれど、王妃を目指すためには必要だと両親を説得して勉学にも励んだのだ。

 ルイーザが「王妃になりたい」などという上昇志向を抱いたきっかけは、外交官をしている叔父が外国のお土産として贈ってくれた一冊の本だった。
「叔父様、私はもう小さな子供じゃないわ。絵本は卒業したのよ」
 叔父から絵本を渡された八歳のルイーザは、そんな言葉を返した。今思い返しても、可愛気のない子供である。
 しかし、ルイーザは幼い頃から勉強面では非常に優秀だった。八歳になる頃にはとっくに絵本を卒業して、様々な本を読むようになっていたのだ。
 絵本なんて、その頃のルイーザにとっては面白くもなんともない。全て同じようなありきたりのもの。祖父母の代から変わらない定番の昔話が、作家を代えて何度も出版されているだけの子供向けの娯楽としか思えなかったのだ。
 そんな可愛気に欠けるルイーザの態度を気にする風でもなく、叔父は優しく微笑んだ。
「きっとルイーザは気に入るよ。開いてごらん」
 渋々と、ルイーザは本を手に取る。普通の絵本よりもいくらか分厚く、頁の間に何かが挟まっているかのように少し紙が浮いている。
 ぱき、と厚い紙が擦れる音を微かに立てながら、恐る恐る本を開く。
 その瞬間、王城の一室が現れた。紙で作られた立体の家具の上を、キラキラとした光が舞う。
「仕掛け絵本と言ってね。開くことで折られていた紙が飛び出るようになっているんだ。キラキラしたものは、ここに埋め込まれた小さな魔石から出ているんだね」
「すごいわ! 綺麗! ……でも、字が読めないわ」
「これは王女の誕生の場面だね。ほら、ここに王妃がいて、産婆もいるだろう。この絵本は全ての頁に、色々な仕掛けがあるんだ」
 叔父の指が、紙で作られた人型を指す。
「叔父様、こんなに素敵なものをありがとう。……文句を言っちゃってごめんなさい」
「素敵と言ってもらっただけで十分さ」
 ルイーザの言葉を聞いた叔父は、お茶目にウインクをした。
 外交官をしている叔父は頻繁に国内外を行き来しているために滅多に会うことはないけれど、こうして会うたびにルイーザのことを可愛がってくれる。
「不思議ね。こんな絵本、見たことないわ」
「先日までいた国では、これは子供に贈るちょっと小洒落たプレゼントの定番なんだって。その国は製紙技術が高くて、芸術を尊ぶ国だったからね」
 こんなに素敵で特別な絵本が定番と聞いて、ルイーザは驚いた。この国では、絵柄こそ様々だけれど絵本は全て似たり寄ったりだったから。
 更に言えば、魔術は日用品に使われることはあっても、このように娯楽……ましてや子供向けの玩具に仕込まれるなんて聞いたことがない。
 ルイーザは、夢中で絵本を眺める。頁を捲るたびに現れる新たな仕掛けに感動した。
「知らなかったわ。国が違うと、こういうのも全然違うのね」
「うちの国は少し保守的で、あまり外国の文化を取り入れようとしないからね。だからこそ、外の国を見るのはとても面白い」
「……外国にはこんなに素敵なものがあるのに、どうして保守的なのかしら?」
「もちろん、保守的なのは悪いことばかりではないんだよ。保守的だからこそ、守られている国独自の文化というものもある」
「他の国の良いところも、この国では取り入れないの? それってすごく勿体ないことだと思うわ」
 ルイーザの問いかけに、叔父は困ったように微笑んだ。
「全く取り入れていないわけではないけれどね。私たち外交官は、異国の文化を受け入れることに慣れているけれど、普通はそうじゃない。人々の中には、知らないことを知るのを素敵と思える人と、怖いと思う人がいるんだよ」
「……? よくわからないわ」
 首を傾げるルイーザの小さな頭を、叔父が優しく撫でる。その手つきが、ルイーザは好きだった。母の弟だからか、少し母の撫で方と似ているのだ。
「外交官の人と結婚すれば、私も異国のことをたくさん知れる?」
「……どうだろうなあ。この国の婦人は、あまり外を出歩かないからね。妻を国に置き、単身赴任する者も少なくないから、夫となる人次第かなあ」
「女だと、あまり外国に行けないのかしら?」
「王妃様なら、国賓を招いたり稀に陛下についてご公務で異国を訪問したりしていたよ」
 叔父はなんとなく答えただけだったと思う。
 しかし、その瞬間ルイーザの中で将来の夢が決まってしまった。
 抱いたのは、知識欲。自分の知らないことを知りたいと思ったのだ。働くことが推奨されない貴族の女性の中で、働くことを求められる女性――王妃になりたいと。
 まだ結婚や恋愛に夢見る年頃にもなっていなかった幼いルイーザが、突然王妃になりたいと宣言したことで父は顔面蒼白。母は「娘に何を吹き込んだの」と叔父を叱りつけた。
 姉である母に叱られてしょんぼりと肩を落とす叔父を少々可哀想に思ったけれど、ルイーザの知りたいと思う気持ちは止められなかった。

 それから、ルイーザは両親に頼み込んで更に勉学に励むようになり、図書館に通っては異国の本も読み漁った。多くの友好国の言葉も覚え、知らない世界に夢中になっていった。
 成長し、書物で異国の知識を得るにつれ、この国にはない制度や歴史、文化の虜になっていく。
 例えば、国民の学力の水準を上げる学校制度。例えば、孤児たちを救う福祉制度。
 反面、保守的なこの国で異国に心酔しすぎると、時には売国奴のごとき扱いを受けることも理解できるようになった頃には、新しいものを取り入れることと古き文化を守ることの匙加減についても考えるようになった。
 最初のきっかけは、素敵な絵本だった。自分の知らない素敵なものを、もっと知りたい、周りの人にも知ってほしいと。
 新たな知識を得ることの素晴らしさを広げるのがルイーザの夢だった。
 しかし知識を得るのも、生かすのも、貴族の一夫人では難しい。この国の最高位の女性になるのが一番だと子供心に思ったのだ。
 色々なことを学んで考えるようになるにつれて、自分が王妃になった時にやりたいことが増えていった。そのために必要なことは何でも学んだし、積極的に社交に勤しんで人望だって集めた。
 王太子と顔を合わせられるようになってからも、彼に気に入られようと淑女らしい振る舞いを心掛けたり、嫌味にならない程度の教養を会話に滲ませたりとアピールしてきたつもりだ。
 王太子に対して、流行りの舞台やロマンス小説で描かれるような恋情があったわけではないけれど、彼は物腰が柔らかく横暴な人ではないし、振る舞いも王族らしく品がある。そんな彼の伴侶となるのは悪いことではないと思っていた。
 ――ただ、肝心の王太子の心を射止めることができていないだけで。

 頭の痛みを誤魔化すように片手で瞼を覆いながらソファに寄り掛かると、部屋にノックの音が響き両親が入ってきた。
「ルイーザ、大丈夫かい?」
「……まあ、どうしたの、真っ青じゃない!」
「お父様、お母さ……ま……うぅ」
 痛むのは頭だけではない。体中が痛い。体中の節という節が、軋むような音を立てた気がする。ルイーザは体勢を維持していられなくなり、ソファから崩れ落ちるように蹲った。
「ルイーザ! ルイーザ!」
「う、うう……痛……」
 焦ったように自分を呼ぶ両親の声が、段々と遠くなる。
 関節が痛い、体が熱い。更に、骨が歪むような感覚が襲う。
 次の瞬間、皮膚の上を何かが這うようなぞわりとした感触が全身を襲い、ルイーザは息を止めた。
 ぱきぱきと体内の何かが軋むような音が響き、寒くもないのに鳥肌が立つ。呼吸が浅くなり声も出せないまま身を縮ませて、突然の異変をやり過ごそうとした。
「ルイーザ!?」
 父が息を呑む音と、母の叫び声を最後に、体の異変がすっと止まる。
(な、なんだったの……? もしかして、毒でも盛られた……?)
「マチルダ!」
 無言でいる両親に目を向けると、母はふっと意識を失った。父は慌てて母が倒れないよう抱きかかえるも、その顔は蒼白で、唇が微かに震えている。
「わぅん」
(お父さま、どうなさったの?)
「わぅ」
(あれ、声が出ない? 心なしか、視界も低いような……あら私ったらなんで四つん這いなのかしら、はしたないわ)
 急いで立ち上がろうとしても、体が上手く言うことを聞かない。頭に疑問符を浮かべながら父に再び目を向けると、父は震える指先で窓を差した。
 夜の闇を映した大窓は、室内の光によって鏡のようになっている。
 そこに映るのは、窓を指差す父と、父に支えられて意識を失っている母。
 対峙するような位置でこちらを見返しているのは、今までルイーザが身に着けていたドレスから顔を出した、大きな犬だった。

◇◇◇◇◇

 研究塔を出て、父と二人犬舎への道を進む。番犬が放し飼いになっている範囲外では、念のためリードを付けられるのだけれど、放し飼いスペースに入ってからリードは外してもらった。
 ちなみに、決してルイーザがあちこち行かないようにする意味での『念のため』ではなく、裏門以外でリードを付けていない犬が歩いているのは不自然だからだ。迷い込んだ犬と間違われて騎士に追われたらたまったものではないし、中には犬が苦手な使用人だっている。
 以前、ノアに指示されてルイーザを迎えに来た魔術師見習いはまさに犬が苦手だったらしく、首輪にリードをつなぐのに非常に時間がかかっていた。事情を知らず、本物の『犬』だと思っているのだから仕方がない。そんな人間に依頼するなよとも思ったけれど、不幸にも彼しか手が空いている人が捕まらなかったらしい。
 研究塔と犬たちがいる範囲はそう遠くないので、普段は研究塔を出てすぐに送迎役と別れるのだけれど、父が送迎してくれる時は必ず犬舎までエスコートしてくれる。父は、こんな姿のルイーザでもきちんと娘扱いしてくれるのだ。
 優しい父とつかの間のお散歩を楽しんでいると、最近何度か見かけた人物が城側から歩いてきた。
 短く刈り揃えられた黒髪の背が高い三十歳ほどの男。近衛騎士の制服に身を包むのは、度々王太子殿下を迎えに来るレーヴェ・ライリーだ。
「これはローリング伯爵。珍しい」
「ライリー卿こそ、珍しいところでお会いしましたね」
 城勤め同士顔見知りの父とレーヴェは挨拶を交わす。その姿を眺めていると、レーヴェの黒い瞳がルイーザを捉えた。
「犬の散歩……ですか?」
「ああ、いえ、研究塔に行ったのですが、塔のところで昼寝をしているこの子を見かけまして。犬舎まで連れていこうかと」
(お父様!?)
 父は頭を搔きながら苦笑いで答える。すぐさま言い訳が出てくるのは流石貴族といったところだけれど、いくらなんでもひどいのではないだろうか。
 休む時はちゃんと犬たちの休憩所で休んでいるルイーザにとって、とんだ濡れ衣だ。所かまわず寝るなんて、令嬢どころか番犬としてもだらしがない。
 表情に出ないもののむすりとしているルイーザの前に、突然レーヴェが屈み、ルイーザの頭を撫でてきた。
「……ふむ。お前、殿下が気に入るのもわかるくらい毛並みが良いな」
(気安く触らないで! ……ちょっと! やめて!!)
 騎士らしく無骨な手は、意外と優しくルイーザを撫でる。もふもふと毛並みを楽しむように頭から首元を撫でられた時に、ルイーザの尻尾は耐え切れずに揺れてしまう。
 見なくても、わかる。父の視線が痛い。
(し、仕方ないじゃない……犬なんだもの……撫でられるの好きなのよ、犬って……)
 聞こえることのない言い訳をせずにはいられなかった。
「他の犬はキリッとしているが、お前は少々間が抜けた表情で可愛いな。同じ犬種とは思えん」
(間抜け!?  無礼者!! そして今すぐ撫でる手を止めて……!)
 父は好きにされる娘にどうしていいかわからず、引きつった笑顔だった。ルイーザ的にはすぐにやめてほしいのだけれど、犬を撫でる騎士を伯爵が止める理由がない。
 ひとしきりルイーザの毛並みを楽しんだ後、騎士はとてもありがたくない提案をした。
「ちょうど私は殿下を迎えに行くところです。多分また犬を構っていると思いますので、私が連れていきましょう」
「えっ……あっ、ではよろしくお願いいたします」
「くぅ~ん」
(そ、そんな、お父様……)
「ほう、伯爵は動物に好かれる性質なのですね。こらこら、他の人間にあまり愛想良くすると殿下に拗ねられるぞ」
 父に向ける助けて光線も空しく、レーヴェに腰をぽんと軽く叩かれる。ここで反抗して、更に駄目犬の烙印を捺されるのも癪なので、ルイーザは渋々レーヴェに従った。
 殿下が来ていると前もってわかっているのであれば、なるべく行きたくない。おやつや玩具は魅力的なのだけれど、構い方がしつこいし昨日の犬の子を産ませる発言は軽くトラウマである。

 さくさくと芝生を踏みながらレーヴェの横を歩いていると、彼の予想通り休憩所にはヴィクトールがいた。その手は黒い犬を撫でまわしている。
(マリー、今日は捕まっちゃったのね)
 ルイーザと同室の黒い毛に金の目の雌犬――マリーは、何かと新入りのルイーザを気にかけてくれる優しい犬だ。
 初日は添い寝をしてくれたし、ルイーザが寝坊しかけると鼻でつついて起こしてくれる。通りがかりの使用人がずっとルイーザを撫でて困っている時は、間に入り鼻先で使用人の手を押して助けてくれることもあるのだ。愛想はないけれど。
 しかしそんなマリーはヴィクトールのことが苦手らしく、彼が現れる前に必ず姿を消す。他の犬も、飼い主または仲間と認識している飼育員以外にはほとんど懐いていないのだけれど、マリーは特に触られるのを嫌がるタイプだった。
 そんな彼女が、珍しくヴィクトールに捕まっている。不審者以外に攻撃しないように躾けられている犬たちは、基本的にされるがままである。
 両頰をわしゃわしゃとされているマリーは非常に嫌そうな顔をしていた。犬になりたての頃のルイーザは彼らが何を考えているかわからないと思っていたが、今となっては案外表情豊かだと思う。
「レーヴェ、何故ショコラと歩いているんだ?」
「端の方にいたのでこちらへ来るついでに連れてきました。殿下。休憩時間は終わりです。お戻りください」
「せっかくショコラが来たんだ。もう少しいいだろう。ほら、ショコラおいで。撫でてあげよう」
(そのショコラは殿下が怖がっている令嬢ルイーザですけれどね)
 ルイーザは笑顔で話しかけるヴィクトールに対してぷいとそっぽを向いた。昨日の発言を気にしていないわけではないのだ。『捕食者の目』はいくらなんでもひどい。
 しかしそんなルイーザの抗議は伝わることはなく、ヴィクトールは嬉しそうな声を上げた。
「見てくれレーヴェ! 他の子を構っていたらショコラがやきもちを妬いたぞ!」
「ガウ!」
(違うんですけど!?)
 勘違いをしたヴィクトールは、素早くルイーザのところへ寄ってきて、嬉しそうに撫でまわした。犬の身体能力でも避け切れないほどの素早さで、正直怖かった。
「ああ、可愛いなあ、仕事したくない、ずっとここにいたい……」
「訳のわからないことを言っていないで執務にお戻りください」
「……元々、王の器じゃないんだ。私はアーデルベルトに王位を譲ってもいいと思っているのに……」
「わん! ガウガウ!」
(なに無責任なことを! 義務を果たしなさいよ!)
 ヴィクトールの弱音にルイーザは思わず吠える。王妃になるために十年努力し続けた挙句に無念の辞退となったルイーザにとって、聞き捨てならない言葉だ。
 一人息子として何の憂いもなく玉座を約束され、幼い頃から学ぶ環境を得られ、衣食住を心配する必要もない。更に言えば、両親からは一身に愛情を注がれている。国一番恵まれた立場に生まれついた男の甘えた発言に、思わず苛立った。
 アーデルベルトという男は確かに王甥で王位継承権を持っていた。歴史上、直系王子の適性や健康状態によって傍系の王族が継ぐことがなかったわけではないけれど、王に健康な息子がいながら王位を継がせるなんてとんでもない。
「ほら、殿下が情けないとショコラも怒っておりますよ」
「ショコラ!! 私に活を入れてくれたんだね……!」
(その前向きさを執務でも発揮したらどうなのよ……)
 ヴィクトールは金色の瞳をきらきらと輝かせて微笑む。社交の場で見せるような愛想笑いではない純粋な笑顔に、ルイーザはやれやれと首を振った。
 このような表情は、令嬢であった頃には見たことがない。彼は蕩けるような顔で、そのままルイーザに頰ずりをした。
「いっそのことショコラをお嫁さんにできないかなあ」
「王妃様が怒りで卒倒するでしょうね」
「……レーヴェは無粋すぎるよ。でも、ショコラが応援してくれるなら私は頑張れるよ」
(えっ……ちょっと……)
 ヴィクトールは唐突にルイーザのモフリとした両頰を挟んで正面を向かせ、避ける間もなく唇を寄せたのだ。その瞬間、ルイーザの口に、ふにっとした柔らかなものが当たる。
 今起こったことが咄嗟に理解できなかったルイーザはまるで〝犬のはく製〟のように固まってしまう。
 何秒固まっていたかはわからないが、騎士の慌てたような大声によって硬直が解けた。
「何をなさっているんですか殿下‼ 犬の口には多くの雑菌が潜んでいるのですよ!」
「ガウッ‼」
(ちょっと、失礼ねそこの騎士! 唇を奪われた乙女になんて暴言‼)
 許可なく唇を奪う行為への衝撃以上に、レーヴェの物言いに憤って鼻先に皺を寄せた。現在のルイーザは犬であるので、レーヴェの指摘は至極真っ当ではあるのだが、心はまだ淑女のルイーザ的には納得がいかない。
「ほら、お前がひどいことを言うからショコラも怒ってる。ショコラはこんなにも可愛いんだから大丈夫だよ」
「なんの根拠にもなっていません! 軽率な行動はおやめください!」
「全く、レーヴェは堅すぎるよなあ、ショコラ」
(待って、苦しい……!)
 ルイーザはヴィクトールにぎゅうぎゅうと抱きしめられて更に頰ずりをされる。
(い、今のはノーカウントよ。私は犬だもの。ただ犬の口と人間の唇が触れただけ。ムードも何もなく初めての口づけが奪われたわけではないわ……)
 遠い目をしながら頼れる姉貴分(犬)マリーに助けを求めようとするも、彼女は既にその場から逃げていた。使用人からはいつも助けてくれるのに。

◇◇◇◇◇

 さくさくと、夏の頃より水分の減った芝生を踏む複数の足音がする。
 秋風に乗ってきた匂いで、誰が近づいているのかルイーザにはすぐにわかった。
 今日も、王太子であるヴィクトールが、婚約者候補が犬を受け入れるかどうかのテストをするために来たのだろう。ヴィクトールの香りと一緒に、女性ものの香水の匂いも微かに風に乗っていた。
 ルイーザは、気に入らない令嬢であれば引き合わされた時にちょっと意地悪でもしてやろうかと考えていたけれど、そんなことをする以前に令嬢たちは皆、大型犬を受け入れなかった。
 家に籠ることが多い貴族女性に、触れたこともないような大きな犬を撫でろと言っても無理な話である。
 彼女たちにとってペットといえば、小鳥や兎、せいぜい大きくても女性の手で抱えられるサイズの小型犬か血統の良い猫くらいだろう。ルイーザだって、こんなことにならずに大型犬に引き合わされていたら怯えて逃げていたかもしれない。
 番犬用の休憩スペースに着いたヴィクトールが連れていた女性は、婚約者候補たちの中で最もルイーザが忌避していた女性だった。
(……メリナ・ノイマン伯爵令嬢)
 他者を蹴落としてでも目的に向かういっそ清々しいほどの狡猾さは、次期王妃の座を勝ち取るに相応しい気性かもしれない。
 しかし、煮え湯を飲まされたことはどうにも忘れられない。自分の何が気に入らないのかわからないけれど、社交の場ではやたらと目の敵にされてきたのだ。
 先ほどまで休憩所にいたマリーは、足音が聞こえた時点でどこかへ去っていった。今ここにいるのは、リーダー格の大きな黒毛の雄犬と、ルイーザだけだった。
 令嬢たちと会わせる際はなるべく穏やかな犬を選んでいるらしいヴィクトールは、二匹を見てルイーザのもとへ歩いてきた。もう一匹の雄犬は性格は穏やかなのだが外見が少々威圧的だと判断したのだろう。
 令嬢と共にいる時の彼は一人で犬を構いに来る時と違い、やはり夜会で見るような王子然とした笑顔だ。
「やあショコラ。今日は友人を紹介させてくれ。メリナ嬢だよ」
 ヴィクトールの言葉はいつもと似たようなものだけれど、令嬢の様子はいつもと違う。これまではルイーザや他の犬を見ると、悲鳴を上げたり怯えて逃げたりする人ばかりだったのだけれど、メリナは平然と微笑んでいた。
 ルイーザは、以前父がメリナ嬢は養女だと言っていたのを思い出す。いくつの頃に引き取られたのかは知らないが、庶民の出であれば今までの深窓の令嬢とは違い、大きな動物と触れ合う機会もあったのかもしれない。
「まあ、可愛らしいですわ。大きな体に豊かな毛並み、とっても素敵」
 屈託ない笑顔でメリナが言う。「そうだろう」とヴィクトールは満足そうな表情で頷いた。
 しかし、ルイーザが真っ先に感じたのは、強烈な違和感だった。
 犬になってから、人間の時とは比べ物にならないほど相手の感情に鋭くなった。
 例えば、犬が苦手な使用人が裏庭を通る時。平然と歩いているように見えて、緊張や不安、恐怖などの感情が伝わってくるのだ。
 だから、犬たちもそういった使用人が通る時はなるべく彼らから離れる。相手を思いやって……というわけではなく、負の感情が伝染し犬側も穏やかではいられないからだ。
 緊張している相手にはこちらも構えてしまうし、嫌悪してくる相手にはいつ攻撃されるかわからないと警戒を強めてしまう。
 その動物的な感覚でいくと、メリナの瞳に浮かぶ感情は、決して好意的なものではない。
 侮蔑、嘲り、僅かな憐憫。
 楽し気に上がった口角とは裏腹に、冷たい感情を湛えた瞳にぞくりと寒気が走る。ルイーザは、座った体勢のまま動けなくなった。
(……何? そんなに犬が嫌いなの?)
「この子は、とても人懐っこくていい子なんだ」
 自分のお気に入りを褒められて気を良くしたヴィクトールは、メリナの感情に気づかずにどこか誇らしげな笑顔でルイーザを紹介する。メリナは、頰に手を当てて感嘆の声を漏らしてから言葉を続けた。
「まぁ……わたくしが撫でても大丈夫かしら」
「きっと大丈夫だよ」
 嫌だ、と思ったけれどここで嚙みつくわけにはいかないので、ルイーザはそっと顔を背けるに留めた。
 王宮の番犬が罪のない人――しかも貴族に危害を与えたとなると、大ごとになってしまうだろう。ルイーザが危険な犬として処分されてしまうのはもちろんのこと、他の番犬たちもまとめて〝危険な生き物〟として処分されてしまう可能性すらある。
 そして、ヴィクトールもここの番犬であれば他人に危害を与えないと信頼して令嬢を連れてきているのだ。何故か、その信頼を裏切るようなことはしたくないという気持ちが強かった。
 少々嫌そうなルイーザを気にすることもなく、メリナはルイーザの目の前に屈んで首の横を撫でる。手つきは乱暴なものではないが、ちらりと彼女を見るとやはりその目は冷え切っていた。
(そんなに嫌いな犬を撫でるとは、見事な信念ね)
 他の令嬢は逃げ出したというのに。
 この様子では、婚約者はメリナに決まりだろうか。自分が選ばれなかったとしても、できればもっと好感が持てて尊敬ができる令嬢を選んでほしかったとルイーザは内心嘆息する。
 何気なく再度メリナに目を向けると、彼女の唇が弧を描いたと思ったら僅かに動いた。

『み、じ、め、ね』

 その唇の動きを理解した瞬間、ルイーザの体中の毛がぶわりと逆立つ。
(どういう、こと……?)
 ばくばくと、痛いくらいに心臓が脈を打った。
 惨めね、と確かに彼女の唇は形を作った。
 もしかしたら他の言葉を意味するものかもしれないが、間違いなくただの犬に対しての態度ではない。
 理解が追い付かず固まるルイーザを見て、メリナはくすりと笑ったと思ったら立ち上がり、ヴィクトールに向き合った。
「この子、大人しくてすごく可愛らしいですわ。ヴィクトール殿下はいつもここの犬たちを愛でていらっしゃるのですか?」
「時々、暇ができた時にね。動物は温かくて癒されるから」
「そうですわね。私、結婚したら犬を飼いたいと思っておりましたの。こういう大人しくて賢そうな子を飼えたら、きっと生活が豊かになります」
 ヴィクトールとメリナ嬢は、いくつか会話をした後に休憩所を後にした。
 動くことができずに彼らの姿を見送ってから、ルイーザは自分の体が尋常でなく震えていることに気が付いた。
(メリナ嬢は知っている?)
(でも、ノイマン家はそこまで裕福ではない――遠い異国から薬を仕入れられるほどの財力はないはずよ)
(では、何故?)

 ――みじめね。

 彼女の赤い唇の動きを何度も脳が再生する。思考がまとまらず、手足の先が冷えてきた。この体になってから、ほとんど寒さなんて感じなかったというのに。
(メリナ嬢が犯人なの? それとも、私をこの姿にした誰かを知っている?)
『そこには必ず悪意がある』
『最悪の場合、殺されるかもしれない』
 以前、ノアに言われた言葉が同時に脳内を駆け巡る。
(どうしよう、どうしたらいいの? ……助けて、お父様、ノア、でん――)
「ショコラ!」
 思考に埋もれたまま、どれだけの時間が経過したのかわからないが、ハッとした時にはヴィクトールがすぐ傍まで戻ってきていた。
 現実に引き戻されたルイーザは、ある事実に愕然とする。
(私、今誰を呼ぼうとした……?)
 そんなことを考えるよりも早く、ヴィクトールがルイーザの前に片膝をついてゆっくりと背を撫でた。
「ショコラ、ごめんよ……。慣れぬ人に触れさせて嫌な思いをさせてしまったね」
 混乱して取り乱していた気持ちが徐々に落ち着き、ひと撫でされるたびに震えが収まってゆくのがわかる。
 与えられる優しい手のひらの動きに、安堵したルイーザは姿勢を低くしたヴィクトールの肩に顎を乗せて息をついた。
 いつもは無遠慮にぎゅうぎゅうと抱き付くくせに、こんな時に限って気遣うようにそっと優しく抱きしめ背を撫でるものだから、更に緊張がほぐれてゆく。
 そんな安心してしまう心とは裏腹に、人間としてのルイーザの心には戦慄が走っていた。
 認めたくない、認めたくはないのだけれど。
(……もしかして私、このポンコツ殿下に相当懐いてしまっているんじゃ……?)
 ルイーザの犬としての部分は、ヴィクトールにすっかり餌付けされてしまっていたらしい。

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