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浮世渡らば豆腐で渡れ! ~あなたと小さなアップデート~

海野 幸 / 著
逆月酒乱 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-778-9
サイズ 文庫本
ページ数 288ページ
定価 836円(税込)
発売日 2025/06/18

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内容紹介

強面Z世代攻×かわいいオジ受
上司の重圧も、部下とのジェネレーションギャップも、自分さえ耐えれば波風は立たない。そう諦観していた営業部次長・40歳の慶一。ある時担当工場からクレームが入り、工場勤務の強面の青年・深見とともに体制を整えることに。自分にない視点で物事を捉える深見に、次第に心を開いて……。「豆腐? そんな霞みたいなもん頼む人いるんすね」「年をとるとね、もたれるんだよ、胃が」年の差16歳。居酒屋のメニューから対人関係まで、価値観の違う二人が見つける、恋と小さなアップデート。
★初回限定★
特別SSペーパー封入!!

人物紹介

渋谷慶一(しぶやけいいち)

営業部次長、40歳。自分をおじさんと思いすぎているが、周囲はそうは思っていなくて……。

深見祥吾(ふかみしょうご)

工場勤務の24歳。倒れた工場長の代わりに、営業部との会議に凄んだ態度で乗り込んできたけど……?

立ち読み

 一月の末、街路樹の葉もすっかり落ちた殺風景な街を歩いていると、冷蔵庫の底を歩いているような気分になる。
 スーツの上にダウンコートを着て、首元にマフラーまで巻いてもなお、革靴の裏から冷気がしみ込んでくる。正午を過ぎて太陽は天頂にあるはずだが、今日は分厚い雲に遮られ、日差しのぬくもりも感じられなかった。
 寒空の下を歩いて客先から会社に戻ってきた慶一は、ビルに入るや深く息を吐いた。
 外とは打って変わってぬくぬくと暖かいエントランスでエレベーターを待ちながら、目にかかる前髪を掻き上げる。柔らかな癖のついた髪はすぐ乱れてしまっていけない。スン、と鼻を鳴らしたところでエレベーターのドアが開き、一拍遅れて中に乗り込んだ。
 寒いと体の動きが鈍くなる。なんだか年々寒さに弱くなっている気がする。
 気がついたら自分も四十歳で、「もう若くないから」なんてかつては笑いながら口にしていた言葉に重たい実感が伴うようになってきた。
 エレベーターが自社のフロアに到着する。疲れた顔などしていてはますます老け込んで見えそうで、慶一は意識して口角を上げてからエレベーターを出た。
 エレベーターホールから続く廊下を歩き、「戻りました」と声をかけてオフィスに入れば、その場にいた社員たちが「お帰りなさい」と返事をしてくれた。
 昼休みも終わりに近く、デスクが整然と並ぶオフィスの席はほとんどが埋まっている。
 慶一の勤める叶エレクトロニクスは電源装置メーカーだ。身近なところでは携帯電話やパソコンにも内蔵されている電源装置だが、叶エレクトロニクスで扱うのはもう少し特殊な、車両や船舶などに搭載される多出力大容量のスイッチング電源である。
 都内にある本社ビルには営業部と購買部、それから技術部が席を並べている。本社とは別に工場も二つあり、そちらも合わせれば従業員数が六十名を超える中小企業だ。
「渋谷さん、午前中にお客様から電話が入ってましたよ。机にメモを置いておいたので、確認お願いします」
 自席に向かう途中、購買部の女性社員に声をかけられて慶一は足を止める。
「ありがとう。確認するね」
「それから、お客さんの要望で納期を前倒しにした機種、どうにかなりそうです。部材が集まるか心配だったんですけど」
「本当? わぁ、助かる! ありがとう」
 年末からの不安材料が解消して満面の笑みを浮かべた慶一は、相手がにこにことその様子を見ていることに気づいて慌てて表情を引き締めた。いい年をした人間が浮かべる表情ではなかったな、と思い直し、おもむろにビジネスバッグを開ける。
「お礼にこちらを」
 重々しい声音で言って慶一が取り出したのは、コンビニで買った黒飴の袋だ。それを見て、相手が弾かれたように笑う。
「びっくりした、何が出てくるのかと思ったら」
「疲れてるときは糖分をとるのが一番だからね」
「にしても黒飴って、渋いですね。お好きなんですか?」
「好きというか、黒糖は体にいいでしょう。もういい年だし、健康には気を使わないと」
「またそんなオジサンぶって。渋谷さん、まだお若いじゃないですか」
「四十過ぎたらもう若くはないよ」
 苦笑しながら答えると、さりげなく慶一たちの会話に耳を傾けていたらしい他の購買部員たちが「あれ、渋谷さんもう四十でしたっけ?」と会話に参加してきた。
「渋谷さん、すらっとしてるから全然オジサンには見えませんよ」
「ありがとう、君にも飴をあげよう」
「年を重ねても、渋谷さんなら渋いイケオジになってるでしょうねぇ。もとの顔がいいし」
「そんなに褒めても飴以外は出てこないからね?」
 慶一は苦笑しながら購買部のメンバーに飴を配り歩く。
 自分も年をとったんだな、と思うのはこういうときだ。若手に気を使わせてこんなお世辞を言わせてしまうなんて。とはいえ普段から清潔感を心掛けたり、腹部が出ないよう節制したりと地味な努力を続けているだけに、お世辞だとわかっていても嬉しいものは嬉しかった。
 忙しく飴を配る慶一を眺め、購買部のメンバーが溜息をつく。
「お世辞じゃないんだけど、渋谷さん全然自覚ないよねぇ」
 黒飴を口に含んだもう一人は、「気取ってないところもいいんだけどね」と苦笑いだ。
 実際のところ、慶一はすらりとした長身でスタイルがいい。少し目尻の下がった甘い顔立ちは美形の部類に入るのだが、基本的に褒め言葉を世辞として受け取ってしまう性格のため、本人ばかりが自身の端整さを自覚していないのだった。
 買ったばかりの飴の袋を半分空にして自席に戻ってみると、営業部で慶一と机を並べている鈴原から「渋谷さぁん」と情けない声で呼びかけられた。
「あ、鈴原君も飴いる? クエン酸入りのちょっと酸っぱい飴も買い置きしてあるよ」
「だったら僕、そっちのクエン酸入りがいいです。それよりも渋谷さん! 今期も終わるのに僕まだ売上目標達成できてないんですけど……!」
 泣き言を漏らしながらも、ちゃっかりと好みの飴を受け取って鈴原は溜息をつく。
 鈴原は入社二年目の新人だ。沈んだ表情の鈴原に、慶一は「年度末まであと二か月あるんだから頑張れ」と声をかけてやることしかできない。
 以前なら自分の売り上げを少しばかりつけてやることもできたのだが、慶一は先日次長に昇進してしまった。これまで自分が担当していた案件は、すでに鈴原たち若手に引き継いだ後だ。自力でどうにかしてもらうしかない。
 役職につき、売り上げを立てる必要のなくなった慶一を鈴原などは羨ましがるが、代わりに無茶な納期短縮や予期せぬトラブルの対応に飛び回らなければいけない。大変なのはお互い様だが、慶一は親身になって鈴原の愚痴に耳を傾ける。これも年長者の務めだ。
「渋谷、ちょっといいか」
 鈴原のぼやきに相槌を打っていたら、今度は営業部長の古賀から声がかかった。
 古賀は慶一より一回り年上の五十二歳。ゴルフが好きで一年中日焼けをしている。
 オフィスの奥まった場所に離れ小島のように置かれた古賀の席に向かった慶一は、「古賀さんも食べますか」と黒飴の袋を差し出した。自身が黒飴のような顔をした古賀は椅子に座ったまま、顎に皺を寄せて慶一を見上げる。
「鈴原が食ってた酸っぱいやつは?」
「あれはもうなくなってしまって」
「なんだ、じゃあ新しいの買ってこい」
「わかりました。部長のご命令とあらば」
 言いざま踵を返そうとすると、「やめろ、冗談だよ。パワハラ扱いされるだろ」と止められた。当たり前だが、慶一だって本気で古賀のお使いに出ようと思ったわけではない。お互い他愛もない冗談を言える程度には気心の知れた仲だ。
 古賀は慶一から受け取った飴を口に含むと、デスクに片肘をついて声を落とした。
「午前中、第二工場から電話があった。工場長が朝方倒れて病院に運ばれたらしい」
 古賀の口の中で、黒飴がカコッと小さな音を立てる。のどかな音とは似つかわしくない内容に、慶一は眉根を寄せた。
「どこか具合でも……?」
「過労らしい。意識はあるみたいだし深刻な状況じゃなさそうだが、念のため精密検査を受けるそうだ。今はその結果待ち。今日中に何か一報が入るだろ」
 命に別状はなさそうで安堵したものの、午後からは第二工場とオンラインで会議がある。
「なら午後の会議は中止ですか? いつもは工場長と、生産管理部の杉本さんに出てもらってましたよね」
「いや、やる。今日のところは杉本さんが対応してくれるそうだ。今後は工場長代理を立てるとも言ってたぞ。工場長もいい年だ。いつ戻ってこられるかわからないからな」
 工場長は御年六十七歳。とうに定年を過ぎているが、嘱託として毎年契約を更新している。
 工場長を筆頭に、第二工場の平均年齢は高い。従業員のほとんどが六十歳を超えている。生産管理部部長の杉本は五十三歳だが、それでも工場内では若手扱いされているほどだ。
「第二工場、そろそろ若い社員を増やした方がいいのでは?」
 古賀は飴を舐めているとは思えないくらい苦々しい顔で「俺もそう思う」と返す。
「でも第二は若いのを採用してもすぐに辞めちまうんだよな。去年だって中途採用した奴が半年と持たなかったろ。古株の爺さんたちと反りが合わないんだかなんだか知らんが」
「まあ、第二工場はちょっと特殊な環境ですしね」
 叶エレクトロニクスの生産ラインには、第一工場と第二工場の二つがある。主力は創業当初から稼働している第一工場で、製品の八割はこちらで製造されている。
 対する第二工場は六年ほど前に新しくできた工場だ。こちらは完全受注品の特殊電源を扱っており、従業員数も九人と少ない。
 慶一は入社以来、第一工場で製造される製品の営業を担当している。そのため第二工場の従業員たちとはほとんど顔を合わせたことがない。月に二度ほど第二工場と営業部の間で行われるオンライン会議で、工場長と杉本の顔を画面越しに見るのがせいぜいだ。
 それでも毎月会議をしていれば、工場の稼働状況くらいは大まかに把握できている。
「第二工場、かなり工程が逼迫してませんでした? 工場長がいなくて大丈夫ですかね」
「大丈夫だろ、工程表の管理をしてるのは実質杉本さんだしな。杉本さんが工場長代理になって、そのまま工場長になってもおかしくない」
 古賀が腕時計に目を落とす。すでに昼休みは終わっていて、第二工場との会議が三十分後に迫っていた。
「とりあえず、今日のところは杉本さんが上手いこと仕切ってくれるだろ」
 頷きつつ、慶一は杉本の顔を思い出す。髪を七三に分け、顔半分を隠す大きな眼鏡をかけた杉本は、いつも工場長の後ろで控えめに笑っている物静かな人物だ。工場長が不在でも、会議が荒れることはないだろう。そう思うのに、どうしてかみぞおちの辺りがざわざわと落ち着かない。まるで胃痛の前兆のように。
 不思議に思いながらも、慶一はスーツの上からそっと腹部に手を当てた。


 野生動物は危機を察知する能力が高いという。
 先ほどの胃のざわつきは、この状況を予期してのことだったのかもしれない。
 慶一の頭にそんな考えが浮かんだのは、第二工場とオンラインでつながった画面が会議室のプロジェクターに映し出された瞬間だった。
 会議室に集まっていた営業部のメンバーは総勢七名。すでに古賀から第二工場の工場長が倒れたことを聞かされていた面々は、プロジェクターに杉本の人の良さそうな笑顔が映し出されると信じて疑っていなかった。というより、それ以外の光景を想像していなかった。
 それゆえに工場と映像がつながった瞬間、プロジェクターに大写しになった若い男性を見て、全員が口をぽかんと開けた。それはもちろん、慶一も例外ではない。
 二十代と思しきその若さにも驚いたが、青年の髪型がサイドを刈り上げたツーブロックだったことにも度肝を抜かれた。少し癖のある硬そうな黒髪は毛先が跳ね、中分けにした前髪が軽く目にかかっている。巷でよく見る今時の若者らしい髪型ではあるが、六十代の従業員が大半を占める工場のどこにこんな若人が隠れていたのだろう。
 絶句する本社営業部を前に、青年は睨むようにカメラを見て、こう言ってのけた。
『工場長代理の深見祥吾です。早速ですけど始めていいっすか』
 ―工場長代理!? と、会議室にいた全員の頭上に疑問符まじりの驚嘆が浮かんだのが目に見えるようだった。
「すっ、杉本さんは?」
 古賀が咳き込むような調子で尋ねる。間を置かず、スピーカーから『いますよー』という杉本ののんびりした声が響いてきた。画面に映っていないが近くにはいるらしい。
『深見君の言う通り、しばらくは彼が工場長代理になります。深見君は製造部に所属しているんですが、普段から私と工程の確認をしてますし、現場の状況もきっちり把握してますのでご心配なく』
「いや、しかし……」
 さすがに若い。どう見ても工場の最年少だ。よりによってなぜ、という営業部全員の疑問を無視して、深見はさっさと本題に移ってしまう。
『とりあえず注残の確認からいきたいんですけど、二月十日納期のモジュール電源七台。あれ絶対間に合わないんで、客先と納期調整して後ろに倒してください』
 深見の声は重低音で、古賀のだみ声とは別種の迫力がある。口調にも遠慮がないのでうっかり頷きかけてしまったが、今、とんでもないことを言われなかったか。
「えっ! 間に合わないってなんですかそれ!」
 間を置いて悲鳴じみた声を上げたのは鈴原だ。自分が担当していた製品だったのだろう、あたふたとカメラの前に身を乗り出す。
「工場長は一度もそんなこと言ってなかったじゃないですか! 前回の会議のときだって特に問題ないって……!」
『そうっすね。その無茶な納期に間に合わせるために工場長は輪をかけた無茶やって、今朝方倒れたわけですよ』
 カメラを睨んだまま淡々と喋る深見を見て、慶一はごくりと喉を鳴らした。
 深見の顔は彫りが深く、二重の目元や高い鼻筋がくっきりと際立っている。少し厚みのある唇は肉感的で、胸に苗字が刺繍された紺色の作業着など着ていなければモデルと言われても納得できそうな見目だった。
 しかしいかんせんその表情が険しすぎる。少々輩じみているというか、やんちゃな印象が拭えないというか―正直、怖い。
 気圧されつつも口の中でもごもごと反論を転がす鈴原に、深見は語調を緩めず言い放つ。
『七台は無理です。せめて分納にしてください。どれだけ急いでも十日までに三台、残りは月末ですね。七台全納なんて端から無理なスケジュールだったんですよ。あと、DC/DCコンバーターも調整してください。こっちも十日納期って、さすがに無茶苦茶でしょ』
「えっ、そっちも!?」と別の営業部員が声を上げる。古賀もさすがに黙っていられなくなったようで「杉本さん!」と声を荒らげた。
「工場長が倒れて大変なのはわかりますけど、どうしたんですか急に! ちゃんと杉本さんが仕切ってくださいよ」
『いや、工場長代理は俺なんで。言いたいことがあるなら杉本さんじゃなく俺にどうぞ』
 二十歳そこそこの若者が、五十を超えた古賀に毅然と言い返す姿に慶一は衝撃を受けた。古賀も年下の従業員からこんな扱いを受けるのは初めてらしく言葉を失っている。
 凍りつく会議室の空気を無視して、深見は低いがよく通る声で言った。
『無理なんですよ、こんなスケジュール。工場長がどうにかしてくれるからってみんな平気な顔で短納期の仕事突っ込んできてましたけど、さすがに工場がパンクします。もうちょっと客先と調整してください』
「そんなことを言われても、お客さんの都合が―」
『お客さんだけじゃなくて工場の都合も考えてください。そこをすり合わせてどうにかするのが営業の仕事でしょう』
 一刀両断だ。取りつく島もない。
 その後、古賀や鈴原がどんなに説得しても深見は『無理なもんは無理です』の一点張りだった。最後は『ちゃんとそっちで優先順位決めてから改めて連絡してください』と告げ、一方的に会議自体を切り上げてしまう。
 かつてない事態に騒然とする会議室の中、慶一は重たい溜息をつく。会議の後半から、古賀がちらちらとこちらに視線を送っているのに気づいていたからだ。
 古賀とのつき合いは長い。あれは面倒な仕事を押しつけられるときのサインだ。
 いよいよ痛みを訴え始めた胃を庇い、慶一は片手で目元を覆ってもう一度溜息をついた。


 第二工場の平均年齢は、本社や第一工場と比べても突出して高い。その理由は、第二工場が成立した特殊な事情に起因している。
 第二工場にいる人間のほとんどは、もともと叶エレクトロニクスとは別の会社に勤めていた人間なのである。
 かつて第二工場の従業員たちが勤めていた広洋電機は、船舶用の特殊電源を製造していた会社だった。その会社が経営破綻に陥りかけているという噂を聞きつけ、いち早く動いたのが叶エレクトロニクスである。会社が倒産する直前に、貴重な図面とともに一部の従業員たちを受け入れた。
 そうやって別の会社からほぼ部署ごと転職してきた人間を、本社から離れた場所に集めた結果どうなったか。
 第二工場では、本社の人間が介入できないほど従業員同士の結束が強まった。
 もともと長年同じ会社で働いてきたメンバーだ。本社の指示などなくともいくらでも仕事は回せる。本社とやり取りをするのは工場長くらいで、その他の従業員たちがどんなふうに業務に従事しているのか本社の人間にはわからない。
 わからなくても問題はなかった。この六年間、工場長はどんな納期にも対応してくれたし、そのことに対して第二工場の従業員から不満が出ている様子もなかったからだ。
「だからって、さすがに第二工場を放置しすぎたか」
 第二工場との会議後、パソコンを閉じた古賀が疲弊しきった声で呟いた。会議室にはまだ営業部のメンバーが全員残っていて、言葉もなく頷いている。
 空気は重く、誰も口を開こうとしない。仕方ないので慶一が口火を切った。
「さっきの工場長代理……深見君でしたか。第二工場にあんなに若い人がいたんですね。鈴原君、知ってた?」
 鈴原は突然の納期遅延宣言にかなりのダメージを食らったらしく、伏せていた顔をよろよろと起こす。
「まあ、はい……。一人やたらと若いのがいるなぁとは思ってましたけど、製造部の人とはあんまり話す機会もないんで、喋ってるところを見たのは今日が初めてですね……」
「そうなんだ。古賀さん、さっきの彼は広洋電機からの引き抜きではないんですか?」
 古賀は「あー」と低く唸り、記憶を揺り起こすように掌で耳の後ろを叩いた。
「第二工場を立ち上げるときに高卒の新人を採用した覚えがあるから、たぶんそいつじゃないかなぁ。本当は第一工場に回すつもりで採用したんだが、第二にも新人を入れた方がいいだろうって話になって」
「六年前に高校を卒業したなら、今は二十四歳くらいですかね」
 となると、大卒で入社二年目の鈴原と同い年だ。けれど深見は鈴原よりずっとどっしり構えていて、もう少し年上に見えた。
「しかしなぁ、これまで順調に仕事が進んでたはずなのに、工場長が倒れた途端なんだってこんなことになっちまうんだ?」
 頭の後ろで手を組んだ古賀が苦々しい表情で呟く。それに答えたのは慶一と同年代の社員だ。
「さっきの若いのが『働き方改革』とか言い出してごねたんじゃないんですか? 去年本社で新しいスローガン打ち立てたじゃないですか。人的資本ってやつ。あれを聞きかじって都合よく解釈したのかもしれません」
 ああ、とどこからともなく納得したような声が上がった。
「結局のところ根性がないんだよ、今時の若いのは」
「もう年度末も近いんだし、何もここで我儘言わなくてもいいのになぁ」
 深見に対する不平不満が会議室内に渦巻く。
 嫌な空気だ。本人のいないところであれこれ言ってもなんの改善にもならないだろうに。狭い会議室の酸素が薄くなってきたような気がしてネクタイの結び目に指をかけたら、古賀から「渋谷ぁ」と名指しされた。
「悪いけど、この後すぐに第二工場の様子見てきてもらえないか?」
 ネクタイの結び目に指をかけたまま慶一は目を丸くする。工場の視察を押しつけられるくらいは覚悟していたが、今からか。口ごもったが、「頼むよ、次長」と言われては断れない。こういう面倒なトラブルを任されるからこそもらえた肩書きだ。溜息の代わりに微苦笑を漏らし、「承知しました」と答えるしかなかった。
「悪いな。様子見ついでに、今時の根性のない若造に社会の厳しさを叩き込んできてやってくれ」
 根性のない若造、という言葉と、プロジェクターに映し出された深見の姿がすぐには重ならず一瞬返事が遅れた。一方的に話を進めていく深見の強引さには驚いたが、本社の面々を前に怯むことなく自分の意見を押し出していくあの姿は、むしろ気骨のある人物のように思えたのだが。
 とはいえ営業なんてその場の空気を読んで合わせるのが仕事のようなものだ。慶一も自分の意見を脇に置いて調子を合わせた。
「わかりました。仕事のなんたるかをわかっていない若者にお灸を据えてきますよ」
「がっちりやってきてくれ。そうだ、鈴原も一緒に工場に顔出しに行くか?」
 第二工場の注残の中で、最も緊急度が高いのは鈴原が担当している製品だ。担当者本人が直接出向いた方が工場の人間にも危機感が伝わりやすいだろうと慶一も思ったが、鈴原はとんでもないとばかり首を横に振った。
「ここから工場まで二時間近くかかるんですよ? そんなことしてる暇あるわけないじゃないですか! 渋谷さん、お願いできます? 僕これから忙しくなっちゃうんで」
 まるで、渋谷さんは忙しくないですもんね、とでも続きそうな言い草だ。
 胸の表面を何かが掠める。けれどこんな言葉にいちいち引っかかってしまう自分を知られたくなくて、慶一は穏やかに返した。
「わかった。鈴原君はお客さんへの説明をよろしくね」
「任せてください! 結構難しい展開になると思いますけど、僕こういうの得意なんで!」
 握りこぶしを固める鈴原を見て、毎度のことながらすごい自信だ、と密かに感心する。
 慶一が昇進する際、自分の担当していた案件を誰に振り分けるかという話になったときも、鈴原は威勢よく「僕できます!」と挙手していた。
 慶一にはできない芸当だ。どうしたって失敗する可能性が頭をよぎり、威勢のいい言葉は引っ込んでしまう。
 鈴原の言葉に触発されたのか、古賀も声を張る。
「第二工場の言い分は予想外だったが、まだ今期の営業目的は十分達成可能なラインだ。前期も達成できた。今期もできる! ここで手を抜くなよ!」
 古賀もまた、未来のことに関して「できる」と断言できる人物だ。そうやって周りを鼓舞し、牽引していく。
 鈴原にせよ古賀にせよ、自分に自信があればこそ自ら動くことができるのだろう。
 慶一にそれだけの自信はない。だからこそ、上から振られる指示には可能な限り応えたい。不言実行が慶一の信念だ。
「ということで、渋谷もしっかりやれよ!」
 突然古賀の声が飛んできて、「はい」と慶一は姿勢を正す。
 とっさのことで声を張ることができなかった慶一を見て、古賀は大げさに眉を下げた。
「おい、腹から声が出てないぞ、次長。鈴原を見習わないと駄目だろ!」
 古賀の言葉に、周りがどっと声を立てて笑う。
 ただの冗談だ。わかっている。わかっているが、こういうとき慶一の頭には、セーターの網目に鞄の金具が引っかかる情景が浮かんでしまう。
 心の中の平らな部分に硬くて尖ったものが触れ、糸の一部がほつれて飛び出す。気になるけれど目くじらを立てるほどでもない。でもそのほころびは消えずにずっと残って、気がつけばその場所を何度も指で辿ってしまう。
 鈴原に恨みはないが、入社二年目の新人を見習えと言われていい気がするわけもない。だが周りはみんな笑っている。いちいち気にしている自分がおかしいのだろう。
「そうですよ渋谷さん、僕でよければいつでもアドバイスしますから」
 話の引き合いに出された鈴原が、芝居がかった仕草で自身の胸を叩く。笑顔が引きつりそうになったが、それに答えたのは慶一ではなく、古賀だった。
「鈴原ぁ、そうは言ってもお前、あんまり調子に乗るなよ。今期の個人売上目標に全然届いてないの、お前だけだからな!」
 鈴原に軽口を重ねられたことより、古賀の声が低くなったことにひやりとした。自分が叱責されたわけでもないのに身を硬くしたが、当の鈴原はまるで動じたふうもない。
「それはこれからですって、これからの僕の躍進を見ててください!」
 慶一が逆の立場で同じことを言われたら、冷や水をかけられた気分で黙り込んでいただろうに、鈴原は屈託なく笑って周りの笑いを誘ってしまうのだから強い。
 慶一も一緒になって笑いながら、どうして自分ばかりこうなのだろう、と密かに思う。
 どうしても、他人の言葉に引っかかりやすい。
 ただの冗談を軽く聞き流せない。馬鹿にされたようで逐一傷ついてしまう。自分が言われるばかりでなく、他人が悪く言われているのを耳にしても気がふさいでしまう。
 何よりも、そうやって小さなことにいちいち反応してしまう自分を恥ずかしく思う。
 十代の頃ならいざ知らず、四十にもなってまだこんなことでくよくよしてしまうなんて情けない。
 笑いに包まれる会議室の中、新たにできた胸のほつれを無言で撫でて、慶一は工場に向かうべく静かに席を立った。


 午後の電車に飛び乗って、都心にある本社から西に移動すること二時間弱。第二工場の最寄り駅に到着する頃には、空は淡い茜色に染まっていた。
 駅を出た後、夕暮れの道を十分ほど歩き、ようやく慶一は工場に到着する。
 第二工場で扱う製品はひとつひとつを従業員が手作業で製造している。当然、製造レーンなどはなく、工場という名に反しその規模は小さい。外から見ると、二階建ての小ぢんまりとした社屋にしか見えなかった。
 慶一がここに来るのは第二工場が設立された直後、本社の面々と見学に来たとき以来だ。
 工場の前に立った慶一は、会議中愛想笑い一つしなかった深見を思い出して溜息をつく。
 あの仏頂面が中で待ち構えているのかと思うと気が重かったが、覚悟を決め、曲がっていた背筋をしっかりと伸ばした。
 第一印象は大切だ。相手が客であれ同僚であれ、舐められたり、頼りないと思われたりしては後の交渉が難しくなる。なるべく余裕のある人物に見せるべく、穏やかな笑みを口元に浮かべて工場内に足を踏み入れた。
 表通りに面したガラス戸の向こうは、カウンターの置かれた受付だった。
 しかし受付には誰もいない。カウンターの脇に扉があるが、勝手に奥に進んでいいものか。
 まごついているとカウンター脇のドアがガチャリと開いた。その奥から出てきたのは、上下揃いの作業着を着た杉本だ。
 発送伝票の貼られた段ボール箱を数個抱えた杉本は、慶一を見て眼鏡の奥の目を見開く。
「あ、渋谷さん? さっそく来てくれたんだ。ありがとうね、お疲れ様」
 画面越しとはいえ営業会議で何度か慶一と顔を合わせているせいか、杉本はこちらに親しげな笑みを向けてくる。慶一も和やかに挨拶を返しつつ、さりげなく杉本の様子を観察した。
 会議中、杉本は深見に発言を任せてほとんど喋っていなかった。古賀たちは「若い深見の暴走を温和な杉本が止められなかったのでは」と推理していたが、杉本は深見の発言をどう捉えているのだろうか。本心を尋ねようとしたそのとき、再びカウンター脇のドアが開いた。
「杉本さん、こっちの荷物も今日発送でいいんですよね?」
 腹に響く低い声にどきりとしてドアに目を向ければ、そこには杉本と同じく紺の作業着を着た深見がいた。
 段ボール箱を抱えた深見の姿を目の当たりにした慶一は、うわ、と口の中で呟く。
 画面越しではわからなかったが、深見は想像以上に背が高かった。慶一だって百七十センチは超えているが、それでも深見の顔を見ようと思ったら顎が軽く上向いてしまう。百九十はあるのではないか。強面に加え、こんな大柄だなんて聞いていない。
 慶一は内心の動揺を押し隠し、深見を見上げて「お疲れ様です」とにっこり微笑んだ。
 深見も一応は頭を下げ返してくれたが、その顔には、誰だこいつ、と言いたげな表情が滲み出ている。そこに笑顔で割って入ってくれたのは、杉本だ。
「深見君、こちら本社の営業部から来てくれた渋谷さん」
 杉本が慶一をそう紹介するや、深見の表情が劇的に変化した。
「本社の人? よかった! 今日の今日で本社から誰か来てくれるなんて思わなかった!」
 険しかった深見の顔つきがほどけ、わっと満面の笑みに変わる。目の前で打ち上げ花火が上がったような、予想だにしていなかった全開の笑みだ。
 深見は段ボール箱を床に置くと、大股三歩で慶一に近づいてガバリと頭を下げた。
「早々にありがとうございます! ほんと、助かります」
 会議中からは想像もできない人懐っこい笑顔に目を白黒させていると、杉本に袖を引かれた。
「ちょっとこの三人で打ち合わせしようか。渋谷さん、二階にどうぞ」
 杉本が先に立って、カウンターの脇のドアを抜ける。ドアの向こうは床にリノリウムが敷かれた薄暗い廊下だ。廊下は三方に延びており、正面が更衣室で、右手は食堂と作業場につながっているようだ。左手奥には、二階に上る階段がある。
 二階の階段脇にある事務所を通り過ぎ、通されたのは会議室だった。
 ホワイトボードと長机くらいしか物のないがらんとした会議室で、慶一は杉本に勧められるまま椅子に腰かける。その向かいに杉本と深見も腰を下ろした。
 正面に座った深見は、慶一と目が合うなり白い歯を見せて笑う。犬歯の目立つ笑顔は大型犬のようだ。その豹変ぶりについていけずにいると、杉本に「びっくりしたでしょ」と含み笑いで言われた。
「本来の深見君はこの通り、笑顔が素敵な好青年なんだ。でも今日の会議ではちょっと強硬な姿勢を見せる必要があったから、敢えてああいう態度をとってもらった。だってほら、僕なんかが凄んだところで、誰も深刻に受け止めてくれないでしょ?」
 杉本は眉間にぐっと皺を寄せてみせるが、元来の顔立ちが優しいせいか、凄んでいるというより困っているようにしか見えない。
「でね、会議でも言ったけど、もううちの工場の工程はパンク寸前なわけ。だから注残のほとんどは納期に間に合わないと思ってほしい」
 表情を和らげた杉本の口から飛び出した言葉に、慶一は声を失う。
「で、ですが、工場長は今まで一言もそんなことは……」
「工場長がいればねぇ、納期通り納入できたとは思うんだけど」
「どうして工場長がいなくなっただけで仕事が進まなくなるんです?」
 矢継ぎ早に尋ねれば、杉本の顔に弱りきった表情が浮かんだ。
「というより、工場長がいたときが異常な勤務体制だったんだよね。あの人は無理を通すためならなんだってやったから。工場長だけじゃなく、他のメンバーもみんなそのタイプだったから困っちゃって」
 異常、と慶一は口の中で呟く。異常なのはむしろ、工場長の消えた今の状態ではないのか。
 まだぴんと来ない顔の慶一を見て、「つまりね」と杉本は胸の前で両手を合わせた。
「この工場のお爺ちゃんたちは、営業部から到底さばききれない数の仕事が舞いこんできても、絶対『できない』とは言おうとしなかった。なんでって言われたら、まあ意地だよ。僕たち、もとはよその会社の人間だから、本社や第一工場と張り合っちゃったんだろうね。そうやって無理に無理を重ねて、この工場では残業と休日出勤が当たり前になった」
 手の内をさらすかのように、杉本はぱっと両手の平を慶一に向けてみせた。
 白くかさついたその手を、慶一は呆然と見詰める。
 慶一が知る限り、第二工場では残業も休日出勤もほとんど発生していなかったはずだ。
 人件費削減のため、本社は工場に残業を減らすよう通達している。残業が増えれば、現場監督である工場長に対してペナルティが与えられるはずだ。だが、これまで本社から第二工場に対してなんらかの業務改善を課したことは一度もない。
「従業員の勤怠表を改竄して、サビ残しまくってたんですよ」
 混乱する慶一に、あっさりとネタばらしをしたのは深見だ。
 まさかと思っていたことを言葉にされて、慶一は眉根を寄せる。
「工場長が独断で従業員たちにサービス残業を強いていたと? だったらどうして、今まで誰も……」
「独断じゃなく、製造部の爺ちゃんたちも工場長に同調してたからっすよ。あの人たち、働き方改革とかしゃらくせぇって本気で思ってるから。無茶すると労基に引っかかって本社にも迷惑かかるって言っても聞く耳持ってくれなくて」
 心底呆れた顔をする深見を前に、開いた口がふさがらなかった。
 若手が働き方改革を振りかざして仕事を減らそうとしているのではないか、なんて営業部の面々は考えていたが、まるで違う。実際は、働き方改革などという言葉が生まれる前から現場で働いてきた従業員たちが、今のやり方は手ぬるいとばかり過剰に働き続けていたのか。
 呆気にとられる慶一を見て杉本は苦笑を漏らす。
「工場長も含めて、あの年代の人たちって仕事以外にすることないみたいでね。若い頃から家庭も顧みずに働いてきたせいで、趣味もない、友達もいない、会社しか居場所がない。働くことがもう生きがいになっちゃってるんじゃないかな」
 杉本の話を聞きながら、慶一は頭の中で第二工場のメンバー表を思い浮かべる。
 生産管理部に所属しているのが工場長と杉本の二人、品質管理部も確か二人で、深見の所属する製造部が五人。全九名だ。
 従業員のほとんどは六十代後半で、杉本は五十代にもかかわらず若手の部類に入る。だからこそ、他の従業員たちとは少し距離を置いたものの見方ができるのだろう。
「杉本さんの考えに賛同している方は、他にも……?」
「深見君くらいかな。深見君は僕たちがもともといた会社とは関係なく叶エレクトロニクスさんに採用されてるし、本社や第一工場に対する確執もない」
「逆に言うと、お二人以外の皆さんは、残業や休日出勤を無給ですることになんら不満を持っていないと?」
「そういうこと」と笑顔で頷いた杉本に何か言い返すより先に、深見が「信じられないっすよ」と慶一の思いを代弁してくれた。
「俺は休日出勤こそ免れてますけど、サビ残は当たり前につき合わされてますから。文句言うと『今時の若い奴は根性が足りねぇ』とか怒られるんです。いつまで昭和を引きずってんだって話でしょう。まだ俺の生まれてない時代ですよ、昭和なんて」
 昭和生まれの慶一は、うっと言葉を詰まらせる。見れば杉本も複雑そうな表情だ。昭和は随分と遠くなった。ショックを隠せない慶一に代わり、杉本が「ともかくね」と話を進める。
「これまでは現状を訴えようにも、全部工場長に揉み消されてたわけ。一応古賀さんに窮状を訴えてみたこともあったんだけど、その後工場長が上手いことフォローしちゃったみたいで。古賀さんもさっきの渋谷さんみたいに、『まさかそんな』って反応だったし」
 ああ、と慶一は納得の声を上げる。
 勤怠表を改竄して、実働以上の給料をせしめようとしていたというならわかるが、逆に無償奉仕をしていたと言われても俄かには信じられない。事実だとして会社に損害を与えるものではないのだから、実態調査など後回しになってしまうだろう。
「こんな無茶苦茶な勤務形態だから、中途採用の人も長く続かないんだよね」
「第二工場になかなか若い人が定着しなかったのはそういう理由でしたか……」
 なるほど、と呟いて、慶一は杉本の隣に座る深見に目を向ける。それだけで慶一の意図を察したのか、問われるまでもなく深見も口を開いた。
「俺は高校卒業してすぐここに就職したんで、世の中の常識みたいなもんがわかんなかったんですよ。製造部の爺ちゃんたちは『残業代が出ないのなんて当たり前』って言って憚らないし、そういうもんなのかって納得してたんです」
 若さゆえの無知が祟ったということか。だからと言って深見を嘲る気にはとてもなれなかった。むしろ周りの大人がちゃんと労働基準法を教えてやってくれと思う。
 しかし一番の問題は、第二工場の無法地帯ぶりを看過し続けていた本社の管理体制だろう。
 慶一は背筋を伸ばすと、深見に向かって頭を下げた。
「我々の目が行き届かなかったばかりに若い人に苦労をかけてしまって、面目次第もありません」
 高校卒業後、右も左もわからず飛び込んだ会社でこんな理不尽な目に遭わされたのだ。怒り心頭だろうと思いきや、顔を伏せた慶一の耳を打ったのは深見の明るい笑い声だった。
「渋谷さん、いい人っすね。全然渋谷さん悪くないのに、そんな申し訳なさそうな顔で謝ってくれるなんて」
 またしても深見の口元にちらりと犬歯が見える。会議中は低い声も相まって重厚な雰囲気をまとっていた深見だが、こうして大きく口を開けて笑う顔は年相応に幼く見えた。
 屈託なく笑う深見の横で、杉本もニコニコと笑っている。
「本社から来てくれたのが渋谷さんでよかった。鈴原君あたりだと手に負えないだろうし」
「いや、私でも手に負えるかどうか……」
「手に負えなくてもどうにかしてもらわないと。このままじゃ後継者も育たないし、現場のお爺ちゃんたちが引退したらこの工場ごとたたむことになるよ。せっかく前の会社から我々を引き抜いて第二工場まで作ったのにもったいない。投資が丸損じゃない」
 杉本の言い分はもっともだ。となればすぐにでも動き出さなくては。
「まずは本社に連絡して、第二工場の現状を理解してもらうのが先決ですかね」
 慶一の言葉に、杉本も表情を引き締めて「そうだね」と首肯する。
「火急の問題は、この工場の人手不足だね。第二工場の受注量は右肩上がりに増えてるのに、初期のメンバーから一人も増えていないんだから。おかげで工程はパンク寸前。でもこれまでは、本社にその深刻さが伝わらなかった。なんだかんだ工場長が納期を守っちゃうから」
「それも実際は、残業や休日出勤をしてどうにか納期を守っていたんですよね……。では、早速この状況を本社に報告して―」
「いや、それだけじゃ足りないと思う」
 杉本が慶一の言葉を遮ったところで、会議室の外から薄くチャイムの音が響いてきた。
 十八時。工場の作業終了時間を知らせるチャイムの音だ。
「渋谷さん、ちょっと一緒に来てもらえる?」
 杉本は椅子から立ち上がると会議室を出て、慶一を引き連れ隣の事務所にやってきた。
 デスクが四つ並んだ小さな事務所では、品質管理部の人間だろう男性二名が仕事をしていた。どちらも髪は真っ白で、慶一の顔を見て警戒したように眉を寄せる。
 杉本はドアノブを掴んだまま、部屋の入り口から品質管理部の二人に声をかける。
「二人とも、もうチャイム鳴ったよ。今日は本社の渋谷さんが来てるし、早く帰らないと怒られちゃうよ。作業場にいるみんなにもそう伝えておいて」
 二人は慶一をじろりと睨んだものの、特に何を言うでもなく大人しく帰り支度を始めた。それを確認した杉本は事務所を出て、廊下で慶一に耳打ちをする。
「これで今日のところはみんな定時で帰ってくれると思う。でも一応、渋谷さんも後で一緒に作業場を見回ってね」
 杉本とともに会議室に戻りながら、慶一は、「なるほど」と小さく呟いた。
「本社の人間が来ている日は、皆さん残業せずに帰るんですね」
「そういうこと。こういう隠蔽を撲滅するために、これからは本社の人に毎日ここに通ってもらって、みんなを監視してもらわないといけないわけ」
 慶一は口を開いたものの、今度はすんなり「なるほど」と言うことができなかった。
「ま、毎日、ですか?」
「そうしないとお爺ちゃんたち残業をやめないからね。でも本社の人がいれば無断で残業できないし、工程も守れなくなる。実際に工期が遅れないと本社の人たちも動かないでしょ」
 理屈はわかる。その通りだ。
 現に古賀は杉本からの直訴を受けておきながら、「工場長がどうにかしてくれるだろう」と慢心してなんの対策も立てようとしなかった。業を煮やした杉本が強硬手段に出る気持ちもわかるが、本社から工場までは二時間弱かかる。一体誰が通うのだ。
 即答できない慶一を連れて会議室に戻ってきた杉本は、さらに驚くべきことを言った。
「工場長なんだけどね、病院で検査したら脳に小さい腫瘍が見つかったんだって」
「えっ、過労じゃなかったんですか?」
「倒れたのは過労のせい。でも精密検査したら腫瘍が見つかったらしくて、この機会に手術することになったらしいよ。ごく小さい腫瘍だから開頭はしないで、鼻から管みたいなの入れて手術するんだって。でも数週間は帰ってこられない。今がチャンスなんだよ。これを逃したらまた工場長が上手いこと人手不足を隠しちゃう。だから渋谷さん、よろしくね!」
 こちらがやるとも言わないうちに杉本はぐいぐい話を進め、深見の隣の席に戻る。
「でもよかったよ、こんなに早く本社から人が来てくれて。うちで最年少の深見君を工場長代理にして正解だった。さすがに慌てたでしょ。わざと威圧的に振る舞ったのも効いたかな」
 慶一も二人の前に腰を下ろし、ちらりと深見に目を向ける。
 深見は慶一と目が合うと、唇の両端を上げてにっこりと笑った。
 会議中、深見のこの人懐っこい笑顔を封じて高圧的に振る舞わせたのは正解だったと思う。あそこまでけんもほろろな態度をとられたからこそ、古賀も急ぎ慶一を工場へ送り込んだのだ。
 ようやく事態が呑み込めてきて、慶一は授業中に質問する子供のように挙手をした。
「あの、深見君を工場長代理にしたのは、今回の会議で本社を揺さぶるためだった、ということですよね? では、実際の工場長代理は杉本さんがやってくださるということでしょうか」
 さすがに最年少の深見に工場長代理は荷が重いだろうと思ったのだが、杉本は笑顔で慶一の問いを否定した。
「ううん、深見君にはこのまま工場長代理を続けてもらうつもり」
「えっ!」と驚きの声を上げたら、どうしてかそこに深見の声も重なった。どうやら深見もこの話は初耳だったようで、驚愕の表情で杉本を見ている。
「杉本さん、俺そんな話聞いてないですけど……!」
「そうですよ。まだ深見君は若いんですし、ここは杉本さんが……」
 慶一も深見を擁護したが、杉本はにこにこと笑うばかりで前言を撤回しようとしない。
「大丈夫だって。深見君、今までも僕と一緒に工程管理表のチェックしてたじゃない。どうせ工場長が帰ってくるまでの一時的な立場だし、この機会にいろいろ勉強しなよ。年寄りはとっとと引退して、若手を育てないと」
 喋りながら杉本は腕時計に目を落とし、「おっと、僕ももう帰らないと。お疲れ様」と言い置いて会議室を出ていってしまった。
 取り残された慶一は、恐る恐る深見に目を向ける。深見もこちらを見て、眉を下げた情けない表情で唇を引き結んだ。
 ―お互い、大変なことになってしまった。
 深見を見る目に同情がこもる。こちらを見返す深見の目にも同じ色が見えた。以心伝心、という言葉をこれほど体現できた瞬間はかつてない。
 工場に足を踏み入れる前、深見に対して抱いていた警戒心はすっかり消え、気がついたらこんな言葉を口走っていた。
「……よかったらこれから、飲みにでも行く? 今後の相談も兼ねて」
 深見が驚いたように目を見開く。さすがに唐突すぎただろうか。
 最初こそ、無茶な要求を突きつけてくる工場の人間に舐められないようにしなければ、と気を張っていた慶一だが、深見もある意味被害者だ。慶一はもう表情を取り繕うことをやめ、「気乗りしなかったら断ってね」と言って素の顔でへらりと笑ってみせる。
 気の抜けた慶一の表情を見た深見は少し意外そうな顔をした後、満面の笑みで「行きましょう」と誘いに乗ってくれた。


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