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耳ボロエルフは育てた弟子に囲われる

桃瀬わさび / 著
すがはら竜 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-779-6
サイズ 文庫本
ページ数 288ページ
定価 836円(税込)
発売日 2025/06/18

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内容紹介

欲を抑えるのに必死でした
稀代の魔術師として知られるエルフのシェフィーリエは、邪竜討伐で瀕死になった弟子のレウテリアを救うため、自分の魔力や寿命を代償にして彼を蘇生する。全てを失ったシェフィーリエは悪徳商人に捕まり闇オークションにかけられてしまう。しかし、なんと自分を落札したのは英雄となったレウテリアだった! 6歳の頃に拾ってから大切に育ててきた彼をまだまだ子どもだと思っていたけれど……「好きだ、穢してしまいたいと願うほどに」積年の想いをぶつけるように情熱的に求められて!?
★初回限定★
特別SSペーパー封入!!

人物紹介

シェフィーリエ

こう見えて実は140歳のエルフ。魔術師として名高く、類稀なる美貌の持ち主だが、生活力はゼロ…。

レウテリア

魔術師団の副団長で26歳。幼い頃に自分を拾い育ててくれた師匠であるシェフィーリエのことがずっと好きだった。

立ち読み

 1

 その日、稀代の魔術師シェフィーリエは姿を消した。
 骸も、遺品も、手掛かりも、なんの痕跡も残さないままに。
 まるで最初から存在さえしなかったかのように―朝露のように消えてしまった。

     +

 狂いし邪龍が地を轟かせて咆哮する。
 鼓膜が破れているのか音が遠い。身体が熱くて冷たくて、どこか深いところに沈み込んでいくかのようだ。
 枯渇しきった魔力では、浮遊魔法はもちろんのこと、簡単な治癒魔法さえ掛けられない。
 俺はきっと、助からない。
 その確信を抱きながらも、閉じかける瞼を懸命に開いた。
 満身創痍で怒り狂う邪龍の前に立ちはだかるのは、あまりにも小さな師匠一人。
 魔術師団の者たちがみな倒されて地に臥せる中、ただ一人邪龍に立ち向かっている。
 その背で舞い踊る、初夏の木漏れ日のような金緑色の長い髪。理性の欠片もない邪龍さえ、恐れ慄くほどの魔力。初めて耳にするエルフの詠唱。
 邪龍に肩を引き裂かれても微動だにせず詠唱を続けていた師匠が、翠の瞳を俺に向ける。
『ばーかばーか。ばか弟子ー』
 もちろん、声に出してはいない。だが間違いなくそう言いたいのだろう責めるような目を向けられて、内心だけで苦く笑った。
 心残りはたくさんある。
 俺が死んだら誰が師匠の面倒を見るのか。誰が師匠の絡まりやすい髪を梳いて、式典のために結い上げるのか。誰が師匠を叩き起こして、無理やりに布団を引き剥がすのか。
 まだ師匠への恩も返し終えていないのに。
 想いも伝えていないのに。
 剣を握る手から力が抜けて、指先から感覚がなくなっていく。
 ―死は、こういう感覚なのか……。
 もっと冷たく重苦しく、よそよそしいものだと思っていたけれど……どちらかというと、風のようだ。
 強風に砂が煽られるように、静かな湖面にさざなみが立つように、命が少しずつすり減っていく。全身を満たしていた温かいものが、ほろほろとこぼれ落ちていく。
 そうしてすべてがゼロになったときが、命の終わりなんだろう。
『ボクはシェフィーリエ。エルフ語で風って意味』
 出会って間もないときの師匠の声が耳に蘇り、気の抜けるままふっと笑った。
 最期に見たのは師匠の姿で、思い返したのは師匠の声で。師匠の名前の由来になった風に攫われるようにして、俺の命が無に帰っていく。
 どこまでも師匠ばかりな自分に呆れながらも、全身の力を抜いていく。
 心残りもやり残したこともたくさんあって、まだ死にたくないとも思うけれど―師匠に拾われ、師匠を愛し、恋に振り回されたこの一生は、そう悪くない人生だった。
 愛おしいばかりの日々だった。

 ことりと鼓動が止まるのと同時、俺の思考はぶつりと途絶えた。

     +

 どこか遠くで、朝告鳥が鳴いている。
 そろそろ起きて、朝食の準備をしなければ。
 身支度をしたら師匠に声を掛け、朝食を作る前に師匠を揺り起こし、作り終えたら毛布を剥がして叩き起こして、どうにかして目覚めてもらわないと―といつもより重たい目を開けると、見覚えのない女性がいた。
「レ、レウテリア様、お目覚めですか……!」
「ここは……? 師匠はどこに……?」
「王宮の医務室です。人を呼んできますので少々お待ちください!」
 医務室、と内心で繰り返した直後、キンとした耳鳴りにこめかみを押さえる。
 そうして思い出したのは、俺が最期に目にしたはずの、邪龍に立ち向かう小さな背中。俺を見下ろした翠の瞳。
 その向こうにいたはずの強大な邪龍は、あれからいったいどうなったのか。
 不毛の地の中心で長く生き、この国を滅ぼさんと牙を剥いた恐ろしき邪龍。
 あの邪龍との戦いで、俺は瀕死の重傷を負って、命がこぼれ落ちていくのを感じて―自らの鼓動が止まる瞬間さえも、確かに味わったはずなのに。
 風に攫われるようにして、無に帰ったはずだったのに。
 どうして再び、王宮の医務室で目覚めたのか。
 邪龍の咆哮さえ聞こえなくなっていた耳は、今は正常に聞こえるようだ。
 ぼやけていた視界もはっきりしているし、何より全身の痛みがない。感覚がなかった手も足もちゃんと動くし、体内の魔力も正常―いや、あの戦いで一度枯渇したせいで、少し総量が増しただろうか。
 それでもエルフである師匠の半分程度だろうが……と自分の状態を確認し、落ちかかる髪を掻き上げる。
 あの状態の俺を救えるのは、師匠しかいない。
 ということはつまり、師匠はあれからすぐに邪龍にとどめを刺し、残った魔力で死の淵にいた俺を呼び戻したのだろうか。
 そうして転移魔法で帰還して、俺を医務室に運び込んだのか?
 ―だとしたら、その師匠はどこに?
 これまで、俺が怪我をしたときは必ず、師匠は隣にへばりついていた。
 椅子に座ったまま寝ていたり、病人を押しのけてベッドの大半を占領したりしていたが、必ず目の届くところにいてくれた。
 そして俺と目が合うと一瞬だけ目を和らげて、すぐにわざとらしく唇を尖らせ『不甲斐ないなぁ、ボクの弟子のくせにたるんでるぞ』と文句を言ってくるのが常だった。
 既に百年以上生きているエルフとはいえ、見た目の年齢は十四歳前後。
 どう見ても子どもにしか見えない姿で嫌味ったらしくため息を吐かれると、それが師匠なりの照れ隠しと知っていても、頬をつねりたくなったものだが。
「師匠……?」
 不安に衝き動かされるようにして立ち上がり、清潔な布団を思い切りめくる。
 部屋を見回してベッドの下を覗き込み、次に天井に目を向けて―師匠が浮遊魔法を使って隠れていないことを確認して、眉間にぐっと皺を寄せた。
 何かがおかしい。
 師匠は、ずぼらで、いい加減で、素直じゃなくて、口が悪くてだらしがなくて……だけど意外なくらいに面倒見がいい人だ。
 ずっと昔の国王に助けられたからと魔術師団長になってみたり、百年ほどこの国を見守ってみたり。縁あって保護したガキのことを、弟子にしてここまで育て上げたり。
 その弟子がヘマをして傷つくたびに得体の知れない薬湯を作り、ひどい味に顔を歪める様子を笑いながら見守って、治るまでずっとそばにいるような人だ。
 ひねくれているし、掴みどころがまるでない、その名の通り風のような人だけど―瀕死の重傷を負った弟子を一人で放っておくような人ではない。
 絶対に違う。
 ―だとしたら、師匠も動けずにいるのか?
 俺を治すために魔力を使ったせいで回復できずに、他の部屋で寝込んでいるのか?
 ここに師匠が俺を運び込んだんじゃなくて、二人揃って医務室に運び込まれたのか?
 そして今も、俺の病室に来られないほどひどい体調なのか?
 そう思ったら居ても立ってもいられなくて、裸足のままで部屋を飛び出す。
 元魔術師団長である師匠が寝かされるとしたらおそらく個室。それも現副団長の俺の近くの部屋だろう。
 性格はあれだし見た目は少し幼いが、師匠の美貌は団員全員が認めるところだ。誰かと同室にしたら襲われかねないし、そうなれば襲った者はただでは済まない。だからきっと個室で、おそらく団長が入口に警備も付けているだろうと思うのだが。
 廊下に出てすぐに左右を確認したけれど、警備の者が立っている部屋はない。
 読みを外したか、と眉間に皺を寄せて、少し悩んで廊下の奥へと歩みを進める。
 清潔な廊下に並んだ同じ形の扉。使用者の名前なども書かれていないし、一つ一つ当たっていくしかないか―と一つ目の扉を叩こうとしたところで、背後から掛かる声があった。
「レウテリア、目が覚めて良かった。体調はどうだ」
「マルクス団長。あの、師匠は」
「それなんだがな……悪いが、着替えて少し付き合ってくれ」
 団長の表情が硬い。俺のほうを見ない。
 最初に掛けられた言葉には安心したような色が乗っていたが、師匠について聞いたときの、曖昧に濁すようなこの態度。
 緊張に強ばった口元は引き結ばれて、逸らされた視線は気まずげに宙をさまよっている。
 ―まさか、何かあるのか?
 師匠とは数十年来の付き合いだという、五十歳近い歴戦の団長。
 俺自身も長く世話になり、父のように慕っているが……師匠との気の置けないやりとりにはいつも平静ではいられなかった。
 二人の間に流れる入り込めない雰囲気に、師匠が『マルぅ』と甘えたように呼ぶ声に、心を掻き乱されていた。
 師匠がどんな問題を起こしても、文句を言いつつ完璧にフォローしてしまうから、悔しさと同じくらい憧れて。簡単には人に頼らない師匠が『困ったときはマル頼みで!』と言い切る姿に、弟子として庇護される身では得られない全幅の信頼に、拳を握って歯噛みして。
 早く師匠に頼ってもらえるようになりたいと懸命に背伸びを続けても、師匠はおろか団長に追いつくこともできなかった。
 ―そんな有能な団長が言葉を濁し、緊張をあらわにしているところなんて、今まで目にしたことがないのに。
 いつもの団長らしからぬ様子に違和感を強く覚えながら、拡張空間から予備のローブと靴を取り出し、無言のままで身につけていく。
 下に着ているのが病人着ではいまいち様にならないが、寝巻きにそのままローブを羽織っていた師匠はいつも『どうせ周りには見えないじゃんー』『レウもやってみなよ、楽だよー』などと言い張っていた。
 傍目には見えなくとも、さすがにだらしないと思うのだが……思っていた通り、楽というよりむしろ落ち着かない。
 しかし一刻も早く師匠に会うためだと切り替えて、団長の背についていく。
 さっき団長が師匠の居場所を濁したのは、俺を急いでどこかに連れていこうとしているのは、師匠の容態が危ういからではないか。
 医務官でも治癒魔術師でもどうにもならず、魔力量の多い俺が必要な事態になっているのでは―。
 そんな不安を覚えながら転移門をくぐった先は、かの邪龍との戦いの地だった。

 2

 小山ほどもある邪龍は、死してなお瘴気を放っている。
 あの戦いのときは周囲に影響が出ないようにと師匠が結界を張っていたが、今は魔術師たちが複数人で結界を維持しているようだ。
 ぬらりとした光を放つ闇色の鱗と、どろりと濁った赤の瞳。その背中から腹にかけて大きく開いた風穴は、おそらく師匠の仕業だろう。
 戦闘に特化した魔術師を三十人集めても足止めがやっと。魔法剣を使う俺が全力で挑んでも殺すことはできなかった強大な敵が、鋼のような強靭な鱗が、師匠の手に掛かればまるで粘土細工だ―と目に焼きついた小さな背中を思い出し、改めて団長に向き直った。
「なぜここに? 師匠はどこです?」
「……それが、わからんのだ」
「わからないって……容態は? 意識はあるのですか?」
「それもわからん。あいつは、シェフィーリエは忽然と消えた。手を尽くして捜索してはいるんだが、亡骸も痕跡も、何一つまだ見つかっていない」
「は……?」
 師匠が消えた?
 亡骸とは、どういう冗談だ……? まさかとは思うが、師匠が死んだ疑いがあるとでも?
 痕跡も何もないなんて、遠く離れていても感じ取れるあの強大な魔力を、見失うほうがよほど難し……い、はず、なのに。
 無意識のうちに周囲の魔力を探り始め、探査の範囲を広げていっても、師匠のそれが見当たらない。
 俺のすぐ近くにある大きな魔力は団長のもの。
 だが師匠のそれは、団長のゆうに六倍はあって、眩いほどに輝いていて―真っ暗な魔力感知の世界を、太陽のように照らしていたのに。
 六歳で師匠に拾われてから二十年以上、毎日近くに感じていた魔力が、ない。
 どこにもない。
 探す範囲をさらに広げて、いくつもの街を越え、国全体を覆い尽くしてもどこにもない。
「レウテリア、そこまでだ」
「っ、でも!」
「国境を越えて魔力を探ることは、一魔術師には許されない。……それに、やつは消えたと言っただろう?」
「どういう、ことですか」
「現状わかっているのは、やつの魔力がどこにも感知できないこと。やつが移動したことを示す時空の歪みの痕跡が観測されていないこと。亡骸も足跡も残されていないことだ。この険しい不毛地帯から、転移魔法を使わずに、どうやって消え失せることができると思う?」
 いくつもの情報を浴びせかけられ、混乱しつつも歯を食いしばりながら整理していく。
 師匠の魔力が感知できないのは俺も確認した。
 だが時空の歪みの痕跡がないというのは……団長が嘘を吐く理由がないとわかっていても、どうしても疑いたくなってしまう。
 邪龍が発見され討伐に至ったこの地は、国の南方にある不毛地帯の中心。人が足を踏み入れることもできない急峻な山々のさらに奥、地底から溶岩が噴き出している過酷な土地だ。
 邪龍の瘴気で空気が穢れ、水は腐り、土も枯れきった荒れ果てた地。
 魔法を駆使しなければ討伐前の調査さえも難しく、長年邪龍の存在が見落とされ―禍々しさを増した邪龍の放つ瘴気が街の近くに届いてようやく、その存在に気づいたほど。
 慌てて兵を向けようにも転移魔法がなければ近づくこともできなくて、魔術師団の精鋭を掻き集めて討伐に向かった。
 そんな場所から、どうやって忽然と消えることができるのか。
 邪龍討伐後、意識を取り戻した団員が魔力の回復を待って転移で帰還。怪我人の搬送のために転移門を設置したそうだが、治療のため医務室へと運ばれた者の中に師匠はいなかった。
 ならば師匠が自分で転移魔法を使ったと考えるのが妥当だが、時空の歪みは残されていないという。
 だとすると他の方法でこの地を去ったということになるけれど―と死してなお瘴気を放つ邪龍を見て、その周辺の山々に目を移す。
 三歩歩くのさえ嫌がってすぐに魔法を使う師匠が、この険しい山を徒歩で下りようとするはずがない。
 しかし浮遊魔法で飛んでいくには、人里はあまりにも遠いだろう。
 第一、それだけの魔力が残っているなら転移魔法を使えばいい。わずかな魔力しか残っていなくても、回復するまで待てばいい。
 団員の誰かが目を覚ますのを待つことだってできたのだし……そもそもあの面倒見のいい師匠が、怪我をした俺や団員を置いて去ること自体がおかしい。
 師匠はなぜ、俺たちを置いてこの場を去ったのか。
 どうやって消えてしまったのか。
「もう一つ。今回の邪龍討伐において、死者はただの一人もいなかった」
「は……?」
 死者がいない? そんなまさか。
 邪龍との決死の戦いの最中、何人もの部下たちが命を落とした。
 咆哮にすくんでいる間に、邪龍の炎で半身を失ったライネン。ユーティを庇って爪で引き裂かれたメイツェフ。間近で瘴気を浴びてしまって肩からどろりと溶け崩れていたのは、果たして誰だったのか。背中だけでは判断がつかず、遺体を回収する余裕もなかった。
 かく言う俺も、数え切れないくらい邪龍の攻撃を受け、最後には全身で痛まないところはないほどで、自らの死を確信していた。
 もう一度目を覚ましたことを不思議に思うくらいには、実感のありすぎる死の感覚だった。
 それなのに、全員が無事だなんて……死者がいないなんて、そんなことがありえるのか。
 俺が夢を見ていたわけではないのなら、なんらかの超常の力が働いたのか、誰かが意図的にそれを成したのか。
「まさか、師匠、が……?」
「わからん。だが、魔法は魔力を対価に奇跡を成すものだ。蘇生魔法など夢物語としか思えんが……死を覆すほどの奇跡の対価は、果たして魔力だけで済むのかどうか」
「師匠はッ! ……あの人は、殺しても死なない人です」
「だと良いがな」
 淡々と返した団長にそれ以上食ってかかることもできず、奥歯を噛み締めて拳を握る。
 団長の言いたいことはわかる。
 死んだはずなのに生き返った者たちと、代わりに忽然と消えた師匠。そこになんらかの因果関係を見出すのは自然なことだ。
 突然なんらかの奇跡が起きたというよりは、師匠が自らの意思でそれを起こして消えたと考えるほうが理にかなっている。
 だが、師匠が自らの命を捧げてそれを成したとは思いたくない。
 師匠が、稀代の魔術師シェフィーリエが、そう簡単に死ぬはずがない。
 たとえ邪龍と戦って、全員の蘇生を成し遂げたのだとしても―『疲れたからおんぶしてー』などと言って、俺の背にふわりと乗ってくるのがいつもの師匠だ。
 俺の気も知らないで油断しきった顔で眠り、甘えて頬を擦り寄せてくるのが、憎らしくも愛しい俺の師匠だ。
 死と引き換えに他者を蘇らせるなんて……師匠がそんな殊勝なことをするはずがない。
「現状で確かなのは、邪龍は倒され、シェフィーリエも消えたという事実だけだ。調査の指揮は俺が取るが、何か気づいたことがあったら教えてくれ」
 端的な指示に頷きで答え、ずっと働かせていた魔力感知をようやく止めた。
 団長の言った通り、どれだけ精度を上げてもそれらしき魔力は見つからない。
 ならばと団長に背を向けて、部下たちに混じって痕跡を探す。
 俺を守るように邪龍に立ちはだかっていた、凛とした背中。その記憶を頼りに師匠が立っていた場所を探し出し、両膝を地につけて目を凝らす。
 赤茶けた大地に、血の跡はない。
 千年生きるエルフの師匠が、俺より早く逝くはずがない。
 そう自分に言い聞かせながらも、言い知れない胸騒ぎに唇を噛んだ。
 俺をからかう師匠の声は、いつまでも聞こえてこなかった。

     +

 通常の魔術師団の仕事に加えて、邪龍討伐の詳細な報告に邪龍解体の補助、何よりも重要な師匠の行方探しと、やることは信じられないほどたくさんあった。
 邪龍討伐からもう二週間。
 魔術師団の中では、師匠が己を犠牲にして全員を蘇生させたという噂がまことしやかに囁かれているし、国王は国葬の手配を進めようとしている。
 ふざけるな。
 師匠を勝手に悲劇の英雄に仕立て上げて、泣ける美談を捏造して、それで終わりなんて冗談じゃない。
 師匠は絶対、死んでない。
 今もどこかで生きていて、何かヘマをして動けなくなっていたりして、俺が見つけ出すのを待っているはずだ。
 そして、俺がやっとの思いで見つけ出したら『レウ、おっそーい』などとふくれっ面で文句を言ってくるに決まっているんだ。
 荒れた内心のまま家路につく間も、あちこちに師匠の姿を探す。
 師匠お気に入りの青果店。雑多なガラクタと本が無造作に置かれた行きつけの書店。腕はいいが変わった魔導具ばかりを扱う魔導具店。
 そのすべてに頻繁に足を運び、師匠が来ていないかを聞き続けているが、今に至るまで空振り続きだ。
 街外れにある俺たちの家にも、師匠が帰ってきた形跡はない。日に数度行っている魔力感知に、師匠の金緑色の魔力が引っかかることもない。
 ―どれだけ微かでも、見逃すことはないはずなのに……。
 生きとし生ける者はみな、多かれ少なかれ魔力を持っている。
 血液と同じように全身を巡っている魔力がゼロになるのは、罪を犯して魔力を封じられたときか、死んだときだけ。
 瀕死の状態であれば魔力がその身からこぼれ落ち、ゼロに限りなく近づいていくが―それも想定して感知の精度を上げているのに、俺が見落とすはずがない。
 なのになぜ、どこにも師匠はいないのか。
 これだけ時が経ち魔力が回復していれば、帰ってくるのは容易いはずなのに。それでなくても意識さえあれば、人づてに連絡くらいはできるはずなのに。
 なぜ。どうして。

 まばらになってきた民家を足早に通りすぎると、師匠と暮らす家が見えてきた。
 屋敷というほど大きくはないが、堅牢なレンガ造りの一軒家だ。裏手には広い庭があり、周囲にも木が植えてあるため、遠目からだと緑に埋もれているように見える。
 その木々の隙間を縫うようにしてオレンジの光が漏れているのが見えて、即座に転移魔法を使った。
 一瞬の浮遊感ののち、降り立ったのは門の前。
 人の動きを感知してぽわぽわと光る魔導具に照らされ、慌ただしく前庭を駆けていく。
 魔法を使って鍵を開け、玄関扉を押し開けて、煌々と明かりの灯る室内へ。
「師匠っ!」
 庭には誰もいなかったし、居間にも師匠の姿はない。
 台所に作り置いてある食事もそのままで、師匠お気に入りの大きなソファーには、毛布が畳んで置かれている。
 それを素早く確認して研究室に向かうけど、ここにもなんの形跡もない。
 俺が寝落ちした師匠を運び込んでいた寝室も、最後に整えたときのまま。いつもだらしなく寝そべって『レウ、おかえりー』と迎えてくれる師匠は、今日も帰っていないらしい。
 ため息を吐いたら力も抜けて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
 師匠がいつ帰ってきてもいいようにと、家の明かりをつけたままにしている。
 腹を空かせていたらすぐに何かをつまめるようにと、日持ちのするものを作り置いている。
 ひどく散らかった研究室も、少しほつれたお気に入りの毛布もそのままにして、師匠が家を出たときと寸分違わぬ状態を保っている。
 ―それなのに、なんで……。
 自分の意思で帰ってこないのか。帰ってこられないような状況にあるのか。
 すぐに散らかす師匠がいないと、部屋がほとんど汚れない。
 あれが食べたいこれが食べたいとうるさい師匠がいないと、食事も作り甲斐がない。
 炊事も洗濯もできないくせに俺を引き取って、二人まとめて団長に面倒を見てもらって。少しずつ家事を覚えた俺がまずい飯を作っても『いいお嫁さんをもらったなー』なんてふざけていた師匠。
 魔法だけは天才的で、何もかもだらしないくせに変に老成したところもあって、何度も魔力暴走を起こす弟子をさりげなく守り続けていた―あの殺しても死なない師匠が、何が起きてもけろりとしていた師匠が、俺を置いて死ぬはずがない。
「そうですよね、師匠……」
 ぽつりと漏らした声はひどく不安げな色を帯びていて、きつく唇を噛み締める。
 出会ってから二十年。
 ずっと近くにいた師匠の消失に、心は千々に乱れていた。

 3

 師匠は、轟音とともに降ってきた。
 荒れ狂う俺の魔力をものともせずに、風のように受け流して。今にも崩れそうなほどあばら家が軋み、炎と雷がほとばしる中で、やけに楽しそうに笑っていた。
 忘れもしない。
 あれが、俺が師匠に初めて会った日で―あの日師匠が浮かべていた笑みが、人生で初めて俺に向けられた笑顔だった。

     +

 顔も名前も知らない父は貴族で、娼婦だった母はその美しさから父に買われて囲われていたらしい。
 母の言葉に嘘がなければ、昔の父は本妻よりずっと母を大切にしていて、高価なものをたくさん与えてもらっていたのだそうだ。
 俺が生まれる前までは。
 茶髪に水色の目をしていた母と、灰髪に赤の目だったという父。
 その二人の間に生まれた俺は闇を煮詰めたような不気味な黒髪と、冬の曇り空のような薄い灰色の目をしていた。顔立ちも母に瓜二つで、父に似たところはどこにもなかった。
 強すぎる魔力が髪や瞳の色を変えることがある。そう師匠に教わったのは、それから何年も経ってからのこと。
 そんなことを知る由もない母が不貞を疑われ、父の寵愛を失い立場をなくすのは、必然だったと言えるだろう。
 広く豪華な本邸から粗末な別邸に部屋を移されて、父が会いに来なくなるまで、そう長くは掛からなかったらしい。
『お前さえいなければ』と、何度母に言われたかわからない。
 俺さえ産んでいなければ、貴族の妾として優雅に暮らせたはずだった。俺が何度も魔力を暴走させたりしなければ、別邸から追い出されることもなかった。父に捨てられて娼婦に戻り、貧乏に苦しむこともなかった。
 そう恨み言を吐きながら俺を叩くのが母の癖で、物心ついてからの俺はいつも、身の内で荒れ狂う魔力に耐えて身を縮めていた。
 母と恋人が住むあばら家の天井裏に閉じ込められて、最低限の食べ物しかもらえなかったけれど、その生活を失うことが何よりも怖かった。
 次に魔力を暴走させてしまったら、今度こそ母に捨てられてしまうかもしれない。その想像だけで心臓が凍りつき、魔力がゆらゆらと暴れ出す。
 幼い頃の、闇の中でうずくまるばかりだった俺にとっては、その感覚がすべてだった。

 それが終わりを告げたのは六歳の誕生日を迎えた頃だ。
 その日は母も母の恋人もやけに上機嫌で、にこやかに酒を飲み交わしていた。
 ごく稀にあるこういう日は、残ったつまみを余分にもらえることがある。
 干し肉の欠片や数個の木の実、食べかけのパンといったものばかりだけど、いつもカビたパンを口に詰め込んでいる俺にとっては、年に数度のご馳走だった。
 だからその日も、天井裏からそっと二人の気配を窺って、交わされる会話に耳をそばだてていて―それを聞いた。
 聞いてしまった。
『ようやく、ね。長い長い六年だったわ』
『ああ、だが待ったおかげで高く買ってもらえそうだ。お前に似て顔だけはいいからな』
『六歳にしては小さいけれど、好事家の方々にはそのほうが悦ばれるんでしょう? あんな化け物のどこがいいのかわからないけれど』
『その化け物が金貨五枚に化けるんだから、我慢した甲斐もあるってものよ』
 化け物。
 それが当時の俺の名前だったから、二人は俺を金貨五枚で売る話をしているのだと、そのために六年待っていたのだと、幼くとも理解するしかなかった。
 不気味な黒髪のせいで人前にも出せない、無駄飯喰いの穀潰し。たびたび魔力を暴走させては部屋の中をめちゃくちゃにする、子どもの姿をした化け物。
 そんな俺を叩き、罵りながらも、母は俺を捨てずにいてくれた。飢えるぎりぎりのパンと水を天井裏に放り込んで、俺が死なないようにと気を配っていてくれた。
 だからそれが母の愛情なんだと信じ込み、母を不幸にしたことを申し訳なく思っていたのに―高く売るために我慢していたと耳にして、拠り所にしていた欠片ほどの愛情も幻だったのだと知ってしまって、どこかの糸がふつりと切れてしまったのだと思う。
 生まれた瞬間からその生を呪われ、母に疎まれ、憎まれて―こんな自分は、もういらない。そんなことを思ったのは、おぼろげながら覚えている。
 雷が轟く音とともにあばら家が裂け、激しい炎が部屋を舐める。吹き飛ばされた屋根の向こうには暗雲が広がり、叩きつけるような雨粒が身体を濡らしていく。
 俺を中心に風が吹き荒れ、具現化した破壊の力が渦を巻いて荒れ狂っているみたいだ。
 空には雷、壁には炎、床を覆い尽くすのは氷だろうか。
 ふと見下ろすと胸までが白く凍りつき、指先の感覚もなくなっていた。
 ―でも、もういいんだ。
 今まではどうにかしてこの力を抑えようと頑張っていたけど、もう頑張る必要もない。
 いい子にしていても捨てられるなら、売るために育てられていたのなら、俺が何をしても無意味なんだ。
 だって俺は、ただの化け物なんだから。
 ここで一人で氷になれたら、きっとそれが一番いいんだ。
 諦めとともに目を伏せて、身体を凍りつかせていく。指が、肘が、肩までが凍り、吐く息が白く結晶になる。
 そのとき、何かが降ってきた。
 暴走する魔力を無理やりにねじ伏せて、垂れ込める暗雲を世界とともに引き裂いて。
 耳をつんざくような音に身をすくめ、自分だけの世界に入ってこられたことに驚いた俺の目の前で、降ってきた何か―見知らぬ少年がにっと笑う。
「おー、いい風! 涼しくていいかもー」
 緑が混じったような長い金髪が風に煽られ、翠色の瞳がきらきらと輝く。
 にこにこと笑ったその子の耳は人より長く尖っていて、翠の石のついたピアスが激しい嵐に揺れていた。
 十二、三歳だろうか。
 俺よりは大きいけれど小さくて細くて、どこからどう見てもまだ子どもだ。
 魔力が嵐のように吹き荒れる状況にはひどく不釣り合いで、現実感がなくて、どうやってこの子が現れたのかもわからない。
 母たちは恐れて逃げ出して、駆けつけた大人たちも近寄れずにいるのに、なんでこの子が降ってきたのかもわからない。
 俺の動揺が伝わったかのように、雷がばちばちと光を放つ。白くつるりとした頬に赤い傷が鋭く走り、傷ついたその子が目を丸くする。
 そのきらきらした大きな瞳に、気持ち悪い黒髪の化け物が映っているのが目に入って、頭を抱えて後ずさった。
「あっち行け……ッ!」
 いやだ。いやだ。
 このままではこの子をもっと傷つけてしまう。
 初めて俺に笑いかけてくれたのに、きっと無惨に殺してしまう。
 その思いで必死に声を振り絞るけれど、魔力の暴走は止まらない。
 風と氷が刃となってその子に向かい、炎が沸き立つように迫りくる。俺が焦れば焦るほど雷が轟き、すべてがその子を傷つけるために向かっていく。
 ―だめ……!
 凍った指先をきつく握り締めて必死に攻撃を止めようとしたとき、その子がめんどくさそうに手を払った。
 パンに寄ってくる蝿を払うような、なんでもない仕草。それなのに一瞬にしてすべての魔法が掻き消されて、その子の頬の傷もしゅわりと消えて、傷一つないその子がゆっくりと歩いてくる。
 一歩、二歩、三歩。
 俺を産んだ母でさえ気味悪がって、叩くときにしか近づかないのに、何も気にしていないかのように、四歩、五歩、六歩。
 手が触れるほど近くまで来たその子が、無邪気に笑ったまま俺の顔を覗き込んでくる。
「おチビさーん、そろそろ落ち着こー? 落ち着かないと手荒にいくよー」
「う、うるさい! 怖いなら早く、あっちに行って……!」
「怖い?」
 きょとんとした顔で首を傾げた少年が、不思議そうに目を瞬く。
 何を言っているんだろう? とはっきりと顔に書いてあるけれど―その背後にはすっかり倒壊したあばら家があって、まだ炎が赤々と燃え盛っている。風の刃は今もその子を傷つけようと次々に襲いかかっているし、雷もまだ落ち着いていない。どう見ても怖いとしか思えない状況なのに、なんでこの子はこんなに不思議そうなんだろう。
 なんで化け物が目の前にいるのに、まっすぐに見つめてくるんだろう。
「なんで自分より弱いものを怖がんなきゃいけないのー?」
「だ、って、俺は、化け物で、生まれてきちゃいけなくて、それで……」
「あっ、やば、マルだ! サボってるって怒られる! ごめんけどちょっと手荒にいくね!」
 そう言うが早いか凄まじい圧力が全身に掛かり、息もできずに膝をついた。
 荒れ狂っていた力が、より大きな何かで握り潰されているみたいだ。
 肩まで覆っていたはずの氷は粉々に砕けて、炎も嘘みたいに消えたらしい。あたりに焦げ臭い匂いが漂い、優しい雨がしとしとと世界を濡らしていく。
 何が起きたのかを確かめたくても身悶えるので精一杯で、懸命に抗おうとするけれどどんどん息苦しくなるばかりで、身体をくの字にして歯を食いしばる。
「耐えるねー。これに抗うなんて、魔力の量も質も下手するとマルより上なんじゃない?」
「な、に……?」
「ちゃんと抑え込んであげるから、おチビは安心して眠るといいよ。子守歌もつけようか?」
「……いら、な……」
「じゃ、おやすみ」
 その言葉と同時にがつんと頭に衝撃を感じて、俺は意識を手放した。
 何かを考えることもできない、深い深い眠りだった。


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