書籍詳細
変異アルファと幼馴染オメガの秘めたる初恋
ISBNコード | 978-4-86669-697-3 |
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サイズ | 文庫本 |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2024/12/18 |
お取り扱い店
内容紹介
人物紹介
新川星那(しんかわせな)
26歳で実家新川病院のバース科医。オメガ。穏やかで落ち着いている。
塚本阿南(つかもとあなん)
22歳で喫茶カヴァッロの息子。ベータ。人懐こくて世話焼き。
立ち読み
【一】
「今日は緊急用の抑制剤を投与しましたが、今後はご本人に合う薬を体調と相談しながら探していくのがいいと思います」
ベッドに横たわったあどけなさの残る少女を眼鏡のレンズ越しに見つめ、新川星那は彼女の両親に向けて穏やかな口調で続けた。
「現在は抑制剤の種類も多く、体質はもちろん生活スタイルに合わせて選ぶこともできます。はじめてのヒートでご本人が一番不安になっているはずです。どうかご両親は深刻にならず、お嬢さんに寄り添ってあげてください」
街中で突然ヒートを起こしたオメガが救急搬送されたと連絡を受けたのは、この日の業務を終えて退勤しようとしていたときだった。
「抑制剤の副反応があるかもしれないので、今日は入院していただいて、明日体調に問題がないようでしたら退院していただければと思います」
星那がバース科医として勤める新轍会新川病院は、日本国内でもいち早く【バース科】を設けた病院の一つとして知られている。およそ二十年前までは、どの病院もバース性に関係なく診療を行っていたこともあり、度々、医療ミスに繋がるような問題が起こっていた。
この世界の人間は、男女の性別のほかに【アルファ・ベータ・オメガ】というバース性を併せ持っている。日本ではすでに平安時代にはバース性が認識されていた模様で、アルファやオメガといった呼称は時代や地域によって異なっていたが、近代になって世界で統一されるようになった。
先天的に優れた優れた遺伝子とカリスマ性を兼ね備えているアルファは、心身ともに高い能力を有しており、希少種ながら古くから社会的地位の高い者が多い。
バース性においてこれといった特徴がなく、人口比がもっとも多いのがベータだ。
そして、定期的にヒートと呼ばれる発情期が訪れ、男女ともに妊娠出産が可能な超希少種のオメガ―。
かつて世界中ではアルファ至上主義社会が蔓延しており、ベータやオメガは迫害を受けてきた。とくにオメガはアルファの子を授かる確率が高いことや、アルファに劣らない美しい容姿を持つ者が多いことから、繁栄の道具や特殊嗜好の対象として差別されてきた。
しかし、現在はバース性に関係なく人権が保護され、ベータはもちろんオメガも社会進出を果たし、政財界において重要なポストに就く者も増えている。
「不都合がなく、今後も当院へかよっていただけるならば、僕が担当させていただきます。もちろん、すでにかかりつけ医などがあれば、紹介状をご用意させていただきますので」
「ありがとうございます。新川先生」
少女の母親が深々と頭を下げた。
「オメガなんかに産んでしまって、親としてこの子に申し訳なくて……。できるだけのことはしてやりたいと思っているんです」
「妻も私もベータなのに、どうしてオメガなんかに……」
娘の寝顔を見つめ、父親が溜息を吐く。
理解が進んできたとはいえ、現代社会においてオメガはいまだに差別の対象となっているのが現実だ。少女の両親が我が子の未来に不安を抱くのも当然だろう。
二人の心情を理解しつつも、星那は密かに胸を痛めていた。
『どうして、オメガなんかに―』
それは、幼いころから何度も自身に吐きかけてきた言葉だ。
有能な内科医の父親と小児科医の母親はいずれもアルファだ。しかし、生まれてきた星那はオメガだった。アルファの両親からオメガが生まれる確率は〇・〇〇六パーセント程度とかなり低い。
代々続くアルファ家系ということもあって、バース検査の結果を聞いた両親は内心がっかりしただろう。しかし、当時すでに院内にバース科を設立していた父親は、けっして星那を頭から否定したりしなかった。
『オメガだからと、自分を卑下する必要はない』
そう言って、星那の努力を見守り、応援してきてくれた。
オメガであることを負い目に感じつつも、諦めずに努力をしてきた星那は、目の前の少女にも人生を諦めてほしくなかった。
「僕はオメガですが、両親や周囲の人の応援や理解があって、こうして医者になることができました」
「え……」
星那の告白に、少女の両親はハッとしたかと思うと、すぐバツが悪そうな表情を浮かべる。
あえて無言のまま微笑むと、星那はベッドで眠る少女を見つめた。
「僕も子供のころはオメガであることに夢を諦めかけたり、将来を悲観していたころがありました。ですが、ある人に言われて思い出したんです。誰にでも夢を見る権利はあるということを……」
心の奥で大切にしまっている過去の情景に想いを馳せ、さらに続ける。
『ベータだとかアルファだとか関係ない……って言ってくれたの、セナくんじゃん!』
脳裏に浮かぶのは、日焼けした健康的な肌と漆黒の瞳をもつ、あどけない少年の笑顔だ。
「僕はありがたいことに環境に恵まれ、勉強に打ち込むことができました。ですが、オメガであることを理由に諦めず、ひたすら努力したからこそ、こうして患者さんの役に立つ機会が与えられたと思っています」
少女の両親が無言で顔を見合わせる。
二人の顔つきが変化していることに気づきつつ、星那は淡々と話を続けた。
「ですから、お嬢さんがもし何かにチャレンジしたいとおっしゃったときは、どうかオメガだという理由だけで、彼女の夢を否定しないでいただきたいのです」
星那はそう言うと、そばに控えていた看護師に入院の手続きについて説明するよう促した。
「では、僕はこれで失礼いたします」
星那は会釈をしてその場を離れると、夜勤のスタッフへ引き継を行い、白衣からジャケットに着替えて病院をあとにした。
職員通用口から外に出ると、植え込みのつつじが見事に咲き誇っていた。ついこの間、桜が満開を迎えたと思ったのに、毎日仕事に忙殺されて季節の移ろいを感じる余裕もない。
「はぁ、もうこんな時間か」
病院から徒歩で十五分ほどの自宅へ向かいながら腕時計に目をやり、星那は無意識に溜息を吐いた。時計の針は十時を指していて、さっきまで忘れていた空腹感が星那を苛む。
春から初夏へと移り変わるこの時季は、フェロモン異常や不調を訴えるオメガの受診が増える。初診患者が多く訪れたこの日、星那は昼食に売店で買ったおにぎりを一つ食べただけだ。
新轍会新川病院のバース科専門医として働き始めて二年。休みだろうが退勤後だろうが、患者のために心身を尽くす日常にもすっかり慣れた。
星那の父親が代表を務める新轍会新川病院は、星那の祖父の代までは小さな個人病院だった。しかし、経営者としてもやり手であった父親が後を継ぐと、バース科を設けるなどして急成長を果たし医療法人化した。そして星那が医大へ進学するのとほぼ同時に、自宅から少し離れた工場跡地を購入して新病院を建てたのだ。
現在、両親は新病院の隣にそびえる高層マンションに新居を購入し、旧新川病院兼実家には星那が一人で暮らしている。
やがて星那は閑静な住宅街へさしかかった。等間隔に街灯が照らす通りには人影もなく、ときおり遠くから列車の音が聞こえるばかりだ。
小さな公園を左手に見つつ進むと、山茶花の生垣に囲われた白くて四角い三階建ての建物―旧新川病院が見えてきた。石造りの門扉にはまだ「新川病院」の表札がかけられたままで、しんと静まり返った様子はどこか物悲しげに見える。大きな両開きの門の脇には片開きの通用門があって、ふだんの出入りはこちらを使っていた。
星那は鞄のポケットに手を突っ込んで鍵を取り出しながら、山茶花の生垣の先へ自然な流れで目を向けた。
「この時間じゃ、当然、閉まってるよな」
昭和レトロな雰囲気が残る「喫茶カヴァッロ」と書かれた電気看板を見つめ独り言ちる。もちろん、看板の灯りは消えていた。
「久しぶりに、オムライスが食べたかったんだけどな」
星那はこの店のオムライスが子供のころから大好きだった。喫茶カヴァッロのオムライスは、薄焼き玉子で包まれたこれといって特徴のないごくありふれた見た目をしている。
けれど、特製トマトソースで味つけされたケチャップライスには、大ぶりな鶏むね肉がゴロゴロ入っていて、トロッとした玉子といっしょに口いっぱいに頬張ると、とても幸せな気持ちになれた。
味を想像しただけで、胃がキュウッと縮むような空腹感に襲われる。
「今夜も……冷食で済ませるか」
自分に言い聞かせるように呟いたとき、背後から人が駆けてくる気配を感じた。
「あれ、セナくん?」
―え?
星那が振り向くより先に、よく知った声に呼びかけられた。
その声を聞いただけで、星那の鼓動はみっともなく乱れてしまう。
「阿南」
星那は高鳴る鼓動に気づかれないよう、努めて平静を装いゆっくりと振り返った。
「今、仕事帰り?」
歩様を速めて駆け寄ってきたのは、さっきまで星那が看板を見つめていた喫茶カヴァッロの一人息子で幼馴染の塚本阿南だ。淡いブルーのTシャツにジャージ姿の阿南は、額から汗を流していた。
「ああ。阿南はいつものランニングかい?」
眼鏡のブリッジを指で押し上げるフリをして、呼吸を整える。
「うん。どんなに仕事が忙しくても、日に一度は走らないとなんだか落ち着かなくてさ」
そう言うと、阿南が白い歯を見せて笑った。
阿南は高校まで野球一筋で頑張ってきたうえ、今も町内の野球チームに所属している。
健康的に日焼けした顔に白い歯が眩しく映って、星那の胸がいっそう大きく跳ねた。
「セナくんは、残業? それともまた呼び出された? いつも大変だね」
星那に問いかけ、阿南が首にかけていたタオルで滴る汗を拭う。
今でこそ肩まで伸びた少し癖のある長髪を一つに結い上げているが、高校までずっと坊主頭だったのが嘘のようだ。
ふと、星那は阿南の首筋に張りついたおくれ毛の艶めかしさに目が離せなかった。
「……大変なんかじゃないよ」
ふと、大きな漆黒の瞳で見下ろされていることに気づいて、星那は慌てて目をそらした。
「医者なんだから、患者さんが困っていたら助けるのが当然だろう?」
顔が熱く火照って、阿南の顔が見られない。声がかすかに震えていることに、彼は気づいただろうか?
目線を落として自分の爪先を見つめながら答えると、阿南が一歩踏み出して近づいた。
「もしかして、晩飯、食べそこなった?」
人懐っこい笑顔で顔を覗き込まれて、星那は一瞬、声を失う。
「……っ」
大きな漆黒の瞳とまともに目が合って、思考まで止まってしまった。
「オムライス、食べたかったんだろ?」
茫然として黙り込む星那の反応を見て、阿南は確信を抱いたようだ。
「何も言い返さないってことは、正解だ」
「そ、そんなこと……っ」
「あはははっ! そうやってムキになるところ、昔から全然変わらないな」
阿南が顔をくしゃくしゃにして笑う。
「僕はべつにムキになってなんか……っ」
子供みたいに屈託のない笑顔が、どれだけ星那の心を搔き乱すのか、阿南は知りもしないのだろう。
「嘘だね。ウチの看板が消えてるのを見てがっかりしてたの、遠くからでもすぐにわかったんだから」
図星を指されて、星那は返す言葉もなく項垂れるばかりだ。脈も血圧も体温も、今計測したらすべて異常な数値を叩き出すに違いない。
「まだ親父には敵わないけど、オムライス、作ってあげるよ」
阿南が星那の肩をぽんと叩いた。
「え? い、いや。もうお店は終わってるのに、そんなこと……」
店に向かって歩き出す阿南の背中に、星那は慌てて断りの言葉をかける。
「じゃあ、俺の練習に付き合って、試食をしてくれない? セナくん」
街灯の下、阿南が振り返ってにっこりと笑った。
「たしかに、おじさんから阿南の料理を試食してみてくれって頼まれてはいるけど……」
邪気のない笑顔に、星那は気圧されてしまう。
「そうそう。もうだいぶ前にOK出てたのに、なかなかタイミング合わなくてさ。だから、ね?」
―ああ、やっぱり駄目だ。
星那は、阿南の笑顔とお願いに、どうしようもなく弱い。
それは、幼いころからずっと変わらないままだ。
小学校に進学すると同時に少年野球チームに所属した阿南は、よく怪我をしては旧新川病院で治療を受けていた。
隣家の幼馴染の姿を待合室で見かけるたび、痛みや待ち時間の長さを紛らわしてやりたくて、話し相手になっていたのだ。
『セナくん。今度こそ先発ピッチャーに選ばれてみせるから、試合観にきてよ』
阿南が所属していたのは、地区大会でつねに上位成績を残す強豪チームだった。レギュラーのほとんどは身体能力に優れたアルファの子供が占めていたが、ベータの阿南はエースピッチャーの座を諦めることなく、一生懸命に努力していた。
ピッチングの練習はもちろん、身体が大きくなるようにと人一倍食べたり、筋力トレーニングもきちんとした知識を学んで取り入れようと、もともと苦手だった勉強にも励んでいた。
小さな幼馴染が頑張る姿を毎日目にしていた星那は、いつの間にか心から阿南の夢を応援するようになったのだ。
『コントロールも監督から褒められるようになったし、前の練習試合でクローザーとして投げさせてもらえたんだ。あ、もちろん無失点に抑えたよ』
キラキラ輝く大きな丸い瞳とツンツン短く刈られた坊主頭が愛らしくて、星那はつい自分の予定も忘れて「わかったよ」と頷いてしまうのだ。
以来、阿南がマウンドに立つ試合には、どんなに大切な用事があってもできる限り足を運んで応援してきた。
プロ野球選手から調理師へ―夢は変わってしまったけれど、阿南を応援する気持ちは今も星那の胸にある。
「一人前になったって、親父に褒められたいんだ。駄目かな、セナくん?」
阿南が少し腰を屈めて上目遣いに懇願する。
甘えるような眼差しを向けられ、星那は顔が熱くなるのを感じた。
年下の幼馴染への感情が、ただの親愛の情ではないと気づいたのはいつのことだったろう。
小さかった少年は、今では立派な青年へと成長していた。一七二センチの星那より十センチほど背は高くなり、スポーツマンらしく肩や腕の筋肉も立派だ。
アルファにも見劣りしないほど魅力的な青年となった阿南のことを、星那はいつの間にかまともに見ることができなくなっていた。姿を見れば胸がざわめき、声を聞けばつい姿を探してしまう。そして、昔と変わらない笑顔を向けられると、うっかり見惚れて何も考えられなくなった。
「頼むよ、セナくん。昔からウチのメニューを食べてるセナくんにしか、こんなこと頼めないんだ」
そのとき、阿南の右肘に残る痛々しい手術痕が星那の目に飛び込んできた。
阿南は努力の甲斐あって野球の強豪校へと進学し、二年生で早々にエースナンバーを手にしていた。しかし三年生のとき、夏の全国大会の予選で肘を傷め、プロ野球選手になるという夢を断念したのだ。
『阿南くんの肘、残念だが回復の見込みはないらしい』
悲しい現実を阿南が知ったのは、ある夏の終わりに新築移転した新川病院のバース科で診察を受けていたときだった。星那は十六歳ではじめての発情を迎えて以来、毎月、バース科で定期健診を受けてフェロモン抑制剤を処方されていた。
阿南が怪我をしたとき、星那はいつものように球場で応援していた。阿南が途中でマウンドを降りたときから心配で堪らなかったが、まさか将来の夢を諦めなければならないほどの怪我をしたとは想像していなかったのだ。
当時、阿南は野球部の寮で生活を送っていたし、星那ははじめて発情したときから、少し引きこもりがちになっていて、長い間、お互いがまともに顔を合わせていなかった。けれど、阿南の試合だけは応援にいくようにしていたのだ。
夢を絶たれた阿南の気持ちを思うと、胸を掻きむしりたくなるような激しい焦燥に駆られたことを、星那は今も覚えている。
「セナくん?」
ぼんやりと過去に想いを馳せていると、阿南に呼びかけられた。
「もしかして、めちゃくちゃ疲れてる? 俺、強引だった?」
しゅんとなって折りたたまれた大型犬の耳が、阿南の頭の上に見えるようだった。不安げに眉尻を下げて星那を見つめる表情は、幼いころからよく知っている彼と何も変わらない。
「ううん。阿南の腕がどこまで上達したか、楽しみだな……って思っただけだよ」
無理矢理微笑んで答えると、阿南があからさまにムッとした。
「そう言っていられるのも、今のうちだから!」
阿南が胸を反り返らせてニヤッと笑う。負けず嫌いな性格は相変わらずのようだ。
野球を断念した阿南はその後、専門学校へ進んで調理師免許を取得、実家の喫茶カヴァッロで両親を手伝いながら料理の腕を磨いている。
「この間、おじさんが俺の作ったナポリタンを食べてってくれたんだけど、親父より美味いって言ってくれたんだよ」
おじさん……というのは星那の父親のことだ。新しい病院にはレストランやコンビニが設けられていて、昔のように出前をとることは少なくなった。だが、星那の両親は今も頻繁に喫茶カヴァッロにかよっている。
病院が移転して以前より顔を合わす機会は減ったが、喫茶カヴァッロを営む塚本一家とは今も家族ぐるみの付き合いが続いていた。
星那もまた、阿南と距離をおかなければと思いつつも、タイミングが合えばつい阿南の顔が見たくて喫茶カヴァッロへかようのをやめられずにいた。
「そこまで言うなら、食べさせてもらおうかな」
潤んだ丸い瞳で見つめられると、まるで大型犬に甘えられているような気分になる。それと同時に、後ろめたさが星那の胸に広がった。
「やった! 最近、上手く卵で包めるようになったんだけど、なかなか親父と同じ形にならなくてさ」
無邪気に喜ぶ阿南の前で、星那は作り笑いを浮かべる。
自分は、なんて狡い人間なんだろう。
オメガに生まれたことを、今さら呪ったりはしない。両親からは充分すぎる愛を与えられ、自身が望んだ医師の道に進むこともできた。この世のオメガの多くが希望する人生をまっとうできずにいることを考えれば、自分ほど恵まれたオメガはいないとさえ思う。
だから、自分の人生において我儘を言うつもりはない。
ただ、愛した人と結ばれる未来が許されないことが、星那にとってたった一つの絶望だった。
「じゃあ、店の鍵開けてくるから……」
阿南が満面の笑みを浮かべた、そのとき―。
ジャケットのポケットに入れていた星那のスマートフォンが鳴った。
「あ」
耳に馴染んだ着信音を聞くだけで相手が誰かわかり、星那は思わず表情を強張らせる。
店に向かって駈け出そうとしていた阿南が、不安そうに星那を見つめていた。
「ごめん。阿南」
戸惑いを隠すこともできないまま、星那は慌ててスマートフォンを手にする。闇夜に青白く光る液晶画面には、一ノ瀬倫典という名前が浮かんでいた。
「出ないの? セナくん」
軽やかな電子音を響かせて震えるスマートフォンを握ったまま立ち尽くす星那に、阿南が薄く微笑みながら言う。
「あ、うん。けど……」
何故だか、すぐ電話に出るのが躊躇われた。
「相手、彼氏だろ? オムライスはまたいつでも作るからさ」
微笑む阿南の表情が、聞き分けのいい幼子のように見えるのは、身勝手な思い違いだろうか。
「じゃあ、またね。おやすみ、セナくん」
「あ、阿南っ」
呼び止める声に、阿南が背中を向けて小さく手を振る。
小走りに駆け去っていく後ろ姿を、星那は無言で見送るほかなかった。そして、阿南の姿が喫茶カヴァッロの裏口へ続く路地へ消えたところで、ようやくスマートフォンの通話ボタンに触れた。
「……もしもし」
スマートフォンを耳にあて、ゆっくりと自宅の門扉へ向かって歩を進める。
『星那? もしかして、取り込み中だったかな?』
「いいえ。今、ちょうど退勤して自宅の前まで戻ってきたところです」
嘘を言っているわけでもないのに、後ろめたい気持ちに苛まれる。
『そうだったんだね。こんな時間まで本当にお疲れ様』
穏やかなテノールを聞きながら、門の鍵を開けて中へ入ると、そのまま旧病院とはべつの自宅玄関まで続くアプローチをゆっくり歩いた。
「いえ……。それで、あの、一ノ瀬さん。何かお急ぎのご用でしょうか?」
『ねぇ、星那。いい加減、私のことも名前で呼んでくれないかな?』
一ノ瀬が苦笑を浮かべる様子が、手に取るように頭に浮かぶ。
『私たちが婚約してもう二年になるんだがなぁ』
砕けた口調でおどける一ノ瀬に、星那はどんな言葉を返せばいいのかわからない。
「……すみません」
玄関の扉を開けると、薄暗い屋内はしんと静まり返っていた。
『謝らないで、星那。あなたを困らせたいわけじゃないんだ』
そのまま黙り込んでしまった星那に、一ノ瀬はそれでも優しく語りかけてくれる。
『今日は来週のデートのことで相談したくてね。前回はフレンチだったけど、リクエストがあれば聞かせてくれないか?』
一ノ瀬倫典は星那より七歳年上のアルファで、それなりに名の知れた一ノ瀬総合病院の御曹司だ。腕利きの外科医である彼の性格はいたって温厚で、アルファ特有の威圧的な態度で人を見下すようなこともない。学生時代はワンダーフォーゲル部に所属していただけあって、星那と婚約するまでは暇さえあればあちこちの山野へ出かけていたという。一九〇センチ近い長身に太い腕や分厚い胸板は、学生時代から続けている趣味の筋トレの成果だと、自慢げに教えてくれた。
そんな一ノ瀬との婚約は、十五歳で受けた二次バース検査で星那がオメガだと確定したときに親同士が決めたものだった。将来的には新川病院と一ノ瀬総合病院が提携するという話も出ていた。そして、阿南が大学を卒業すると同時に、正式に婚約したのだ。
『星那?』
薄暗い玄関にぼんやり佇んでいた星那は、一ノ瀬の声にハッと我に返った。
「あ、すみませんっ」
慌ててスマートフォンを持ち直して応える。
『疲れているんじゃないのかい? 新川病院のバース科は医師不足だと聞いているけど』
心配そうな声に、星那は愛想笑いを浮かべて首を振った。
「いえ、大丈夫です。……えっと、食べたいもの、ですよね」
まさか、阿南のオムライスが食べたいなど、口が裂けても言えるはずがない。
そもそも一ノ瀬は、喫茶カヴァッロのようなレトロな店など、存在すら知らないだろう。もしかしたら、オムライスも食べたことがないかもしれない……と星那は思った。
「あの、いちの……倫典さんがふだんいっていらっしゃるお店とか、駄目ですか?」
星つきのフレンチレストランやカウンターの寿司は、星那にとって食事を楽しむには少しハードルが高かった。
『私がふだん使ってる店?』
一ノ瀬の声には、あきらかに困惑が滲んでいた。
「はい。僕のために素敵なお店を選んでくださるのも嬉しいのですが、いつもどんなお店で食事されているのかな……と」
自分でも驚くほどスラスラと、思ってもない台詞が出てくる。きっと今の自分はとんでもなく醜い顔をしているだろうと星那は思った。
『えっと、それは私のことを知りたいって意味かな?』
珍しく一ノ瀬が声を上擦らせる。
「……え? あ、ええ。まあ、そういったところです」
一ノ瀬と食べたいものが何も思い浮かばなくて、星那は適当に答えただけだ。
それなのに、嬉しそうに声を弾ませる一ノ瀬を思うと、罪悪感を覚えずにいられなかった。
『わかったよ。少し考えてみる。時間は改めて連絡するから、来週の金曜日は何がなんでも休みを確保しておいてくれよ?』
「ええ、それはもちろん」
『じゃあ、ちゃんと食べてから休むんだよ。次のデート、楽しみにしているからね』
どことなく甘えるような声でそう言った一ノ瀬は、あっさり電話を切った。何度も言葉に詰まる自分の反応から、体調を案じてくれたのだろう。
星那は通話が切れたことを確認すると、スマートフォンを握ったまま暗い玄関の天井を見上げた。
一ノ瀬のことは、けっして嫌いではない。アルファらしくない落ち着いた性格に、病院の跡取り息子でありながら権力や経営に興味がなく現場主義であることなどは、人としてだけでなく医者としても好感が持てる。また、彫りが深く異国のモデルのように整った顔立ちや、耳に心地いい落ち着いた声や穏やかな話し方は、たとえアルファでなかったとしても数多の人を惹きつけただろう。
生まれながらにしてセレブの一ノ瀬とは、たしかに価値観が異なる部分があったが、オメガである星那にとって文句のつけようがない婚約者だった。
それでも―。
「今からでも、オムライス……作ってくれるかな」
ポツリと呟いて、星那は自嘲に顔を歪めた。
阿南が、好きだ。
いつの間にか星那の心は、愛らしい幼馴染の存在ですっかり埋め尽くされていた。可愛らしくて、ときどき生意気で、けれどとても頼りがいのある阿南への恋心を、星那はどうしても消し去ることができないでいる。
「どうして、僕は……オメガなんだろう」
オメガであることを恥じたことはない。
それでも、阿南のことを思うと、つい、自分の性を恨んでしまいたくなる。
病院とオメガである自身の将来を考えれば、アルファと結婚することが最善だということは理解できた。
しかし、もし自分がオメガでなければ、異なる未来を選択できたのではないだろうか。
そこまで考えたとき、星那は思わず小さく噴き出した。
「ふふっ。馬鹿だな、僕は……」
革靴を脱ぎ、上がり框に揃えてあったスリッパを履きながら呟く。
「彼が……オメガの僕なんかに、特別な感情を抱くはずなんてないのに」
阿南の自分への感情は、幼馴染に対するものでしかない。屈託のない笑顔も、気遣いや優しさも、幼いころから何も変わらないのだから。
オメガとベータは結婚できない―。それが世間の常識だ。
ベータとオメガは、たとえ結ばれても離婚率が高いことで知られている。何故なら、オメガの発情に対して抑制や鎮静の効果を持つのは、抑制剤とアルファとの性行為しか手段がないからだ。ベータがどれだけオメガと身体を交えたところで、フェロモンの発露は抑えることができない。オメガは本能的にアルファを求める生き物なのだ。結果、オメガとベータのカップルの多くは、別れを選ぶことがほとんどだった。
「夢は叶えられても、恋は……難しいよ。阿南」
小さく呟くと、星那は廊下の灯りを点けてキッチンへ向かった。
『オメガだからといって、夢見ることや未来を諦める必要はない……』
今日、救急で運ばれてきた少女の両親へ告げた言葉は、かつて阿南が星那に言ってくれた言葉だ。
あれは、星那が小学六年生のころ、学校の授業で将来について発表した日の帰り道でのことだった。祖父や両親の後を継いで医者になりたいと発表した星那は、通学路の途中にある公園で数名のクラスメイトからひどい侮蔑の言葉や嘲笑を投げかけられた。
『オメガが医者になんかなれるわけないだろ!』
『父さんが言ってた。オメガは下品でいやらしい生き物だって』
当時、星那はすでに一次バース検査でオメガの判定を受けていた。一次バース検査は学校単位で実施され、結果も学校から生徒本人をとおして家族に知らされた。そのため、判定結果が周囲に漏れることは珍しいことではなかった。
ちなみに、現在では一次バース検査結果は保護者のもとへ届くようになったため、子供たちの間でバース性に起因するいじめなどはかなり減少している。
つい先日まで仲よく遊んでいたクラスメイトに罵られながら、幼い星那は俯いて黙っていることしかできなかった。
そこへ、少年野球の練習に向かう阿南が通りかかったのだ。
『セナくんをいじめるな!』
バットを振り回しながら駆けてくる阿南に、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていく。
星那はホッとしつつも、阿南に情けない姿を見られた恥ずかしさで、顔を上げられずにいた。
『セナくん、大丈夫?』
野球帽を被った阿南に顔を覗き込まれ、星那は咄嗟に歪んだ笑みを浮かべた。
『うん、大丈夫。ありがと……阿南』
目を背け、辛うじて礼を伝える。
すると、数秒の間を置いて、阿南がポツリと呟いた。
『ねぇ、セナくん。オメガだと、お医者さんになっちゃいけないの?』
思いがけない問いかけに、星那は思わず阿南の顔を見返したのだ。
アルファの両親から生まれたオメガが珍しかったのか、近所にも星那がオメガだということは知れ渡っていた。わかっていたはずなのに、阿南にオメガだと知られていたことが、星那はショックだった。
可愛い幼馴染にまで蔑まれるのだろうか……と項垂れていると、阿南が想像してもいなかった言葉を発した。
『俺、セナくんはいいお医者さんになると思うけどな』
阿南にはきっと、深い考えなどなかっただろう。
けれど、自分より年下の阿南が発した他愛ない言葉に、当時の星那がどれだけ救われたか、当人はきっと知る由もないだろう。
あの無邪気な言葉のおかげで、オメガという性に囚われていたのは自分だったと気づかされ、医師への道を諦めずに進んでこられたのだ。
キッチンにたどり着くと、四人がけのダイニングルームの椅子へ鞄を置き、冷蔵庫へ近づく。
「……阿南のオムライス、いつになったら食べられるかな」
冷凍庫の扉を開けて、ぼんやり視線を落としながら、星那は無意識に呟いたのだった。
【二】
星那のスマートフォンの着信音を聞いた瞬間、阿南は相手が誰かすぐにわかった。
バース科専門医として日々忙しくすごす星那は、病院からの通知にいつでも対応できるよう、重要な電話番号は着信音を設定している。喫茶カヴァッロで食事しているときなど、星那が何度か電話に出るのを見ているうちに、病院と星那の両親、そして、婚約者の着信音を阿南はすっかり覚えてしまった。
星那が医大卒業と同時に婚約すると知ったとき、阿南はそれまでの人生で感じたことのない激しい焦燥と不安、そして身体中の血が逆流するような怒りに身を震わせた。
と同時に、心にぽっかりと大きな穴があいたような寂しさに襲われ、数日間、日課のランニングさえできなかったことを覚えている。
―ガキのころから、わかってたはずなのにな。
当時のことを振り返るたび、自分の浅はかさに苦笑してしまう。
星那がオメガだとわかっても、阿南はこれといってショックは受けなかった。バース性がなんであろうと、星那は阿南にとって一番大好きな人だったからだ。
けれど、一次バース検査で自分がベータだと知ったとき、星那と自分の間に見えない溝のようなものの存在をはじめて意識した。
この国では第二次性徴を迎える八歳から十三歳までに一次バース検査を、そして十五歳でバース性確定のために二次検査の実施が義務づけられている。同時期に、オメガのヒートによる事故や差別問題撲滅のため、バース性に関する教育も行われていた。
まだ子供だったとはいえ当時の阿南はバース性に関する基礎知識を学校教育によって有していたため、ベータの自分とオメガである星那がずっといっしょにいられないことを覚ったのだ。
その瞬間、阿南は短い人生の中でも感じたことのない絶望と虚しさに襲われた。
―俺はベータだから、セナくんと結婚できない……?
星那に対する感情が幼馴染への親愛や友情でなく、恋だったと自覚したところで、胸に広がるのは激しい動揺と悲しみばかりだった。
阿南は、初恋を自覚したと同時に、失恋を経験したも同然だった。
バース性に起因する差別や格差が少なくなったとはいえ、社会ヒエラルキーのトップにはアルファが君臨しているし、オメガが男女ともに妊娠可能な特殊な存在であることは変えようのない事実だ。
オメガが男女ともに妊娠できるのはアルファの子を産むためである―というのが、今では世界共通の認識となっている。何故ならアルファはそもそも出生率が低く、アルファ同士でも妊娠する確率が五パーセント程度しかない。しかし相手がオメガだと、何故か妊娠の確率は格段に上がる。
オメガとアルファには目に見えない理が存在し、そこにベータが割り込む隙間など微塵もない。まれにベータと結婚するオメガやアルファがいるが、そのほとんどが複数のパートナーを得ることが許される国や立場にある者だったりする。そして、オメガやアルファと結婚したベータの離婚率は同性同士より高かった。
つまり、ベータはベータ同士で結婚することが当たり前で、それが幸せだとされていたのだ。
幼いころから兄弟のように育ったとしても、たとえ星那がどんなに優しくても、結局はただの幼馴染でしかない。
そもそも、星那は今や有名病院を営むアルファの両親を持つ御曹司オメガで、しがない喫茶店を経営するベータの両親から生まれた生粋のベータである阿南とつり合うわけがなかった。
現に、星那は同じような病院の御曹司であるアルファと婚約している。
「叶うとか……それ以前の話なのに、ほんと、諦めが悪いな」
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