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ウサ耳オメガは素直になれない

海野幸 / 著
小椋ムク / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-355-2
サイズ 文庫本
ページ数 288ページ
定価 831円(税込)
発売日 2020/12/18

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内容紹介

歯止めが利かなくなりそうだ
ウサ耳オメガの理人は、幼い頃に耳の切除をして以来オメガ性を隠してきた。アパレル会社の広報として働き始め、圧倒的アルファの風格を放つ同僚のデザイナー・汐見に惹かれていたが、「一目惚れなんて信じない」と強がって素直になれない。一人になって汐見への態度を反省する日々。あるときヒート中の情緒不安定な姿を見られてしまい…? 「ギャップにやられた。可愛いがすぎる」。寂しがり屋のひねくれウサギがとろとろになるまで甘やかされる、不器用な獣耳オメガバース恋!
★初回限定★
特別SSペーパー封入!!

人物紹介

葵井理人(あおい りひと)

アパレル会社の広報として働く、仕事の鬼。

オメガの証である獣耳を子供の頃に切除済み。

汐見東吾(しおみ とうご)

理人と同じ会社のデザイナー。

大人の風格に社内でも一目置かれている。

立ち読み

 タチアオイの花がてっぺんまで咲くと夏が来るらしい。
 駅前の花壇に植えられたタチアオイは二メートル近い高さがあり、身長百七十センチ後半の理人の背丈を超えている。ようやく咲き始めた花は視線より低い所で揺れていて、てっぺんのつぼみが花開くまではもう少し時間がかかりそうだ。
 そもそもまだ六月に入ったばかりで本格的な梅雨すら始まっていない。見上げた空は薄く曇って、梅雨の走りといったところか。
 理人はよろよろと花壇に近づくと、タチアオイを背にどさりとベンチに腰を下ろした。
 俯いて深々と息を吐く。まさか電車に酔うとは思わなかった。乗り物酔いなんて滅多にしないのに。最近ろくに眠れていなかったせいか。はたまた緊張していたからか。
 膝に顔が近づくほど深く俯き、今日に限って、と歯噛みする。
 脂汗をかいているせいか、メタルフレームの眼鏡が鼻梁からずるりと滑る。腕時計に目を落とせば午後三時。面接の時間まであと三十分だが、それまでに吐き気と眩暈が治まるだろうか。なんとか息を整えて体を起こしてみたが、状況は芳しくない。
 眉間に皺を寄せたところでベンチの近くを歩いていた女子高生と目が合った。女子高生は心配げな顔でこちらを見ていたが、理人と目が合うなりぎくりとしたように視線を逸らし、怯えた顔で立ち去ってしまった。
 理人自身、自分の顔立ちが温和でないことは先刻承知だ。何も考えずぼんやりしていると、かなりの確率で「怒ってる?」と尋ねられる。同僚たちは「顔が整いすぎてるから怖いんだよ」とフォローを入れてくれるが、表情筋が硬すぎるだけだろう。仕事柄、クライアントと相対するときは笑みを絶やさぬよう意識しているが、今日ばかりはそんな余裕もない。
 喉元が痙攣して、口元を掌で押さえる。しばらく立ち上がれそうもない。面接の時間まであと何分だ。腕時計に視線を落とそうとしたそのとき、ふっと背筋の産毛が立ち上がった。
 息を詰め、前屈みにしていた体をゆっくりと起こす。視界が少し広がって、近くを歩く人々の足元が目に飛び込んできた。
 誰も彼も気忙しく通り過ぎていくその中で、ベンチに近づいてくる足がある。ぎくりとしたのは、それが素足に雪駄を履いた男の足だったからだ。
 足元だけでこんなに堅気でない雰囲気を漂わせている者も珍しい。カーキ色のワークパンツを穿いて、まっすぐこちらに向かってくる。大きな足だ。きっと体も大きいだろう。
 背筋にぞわりと震えが走って、理人は唾を飲み込んだ。
(……アルファだ)
 人類の上位十数パーセントに属する集団の呼称を胸の中で呟く。日常生活の中で自らをアルファと名乗る者など滅多にいないが、この手の勘はたいてい外れない。
 俯いてじっとしていると、いよいよ雪駄を履いた足が理人の目の前で止まった。爪先は確実にこちらを向いている。気づかないふりでやり過ごせないかと思ったが、「おい」と上から低い声をかけられて観念した。
 男の声に応えるべく、ゆるゆると顔を上げる。雪駄を履いた爪先から、ワークパンツを穿いた膝、シンプルな白いシャツを着た胴から胸、さらに首元。
 大きな足を見たときから予想はしていたが、思った通り大柄だ。なかなか相手の顔が視界に収まらない。男の背筋はまっすぐ伸びていて、ふと背後の花壇に咲いているタチアオイを連想した。白いシャツと白い花が重なって、ようやくその顔が視界に入る。
 今にも雨が降り出しそうな鈍色の空を背に立っていたのは、大きく花びらを広げるタチアオイに負けず劣らぬ華やかな容姿の男だった。
 くっきりした二重に高い鼻。理人より大きな背は、優に百八十を超えていそうだ。彫りの深さも相まって、少し日本人離れした雰囲気がある。髪は無造作に伸ばされ、後ろ髪が項を隠していた。会社員にしてはラフな雰囲気だ。対する理人はダークスーツに革靴を履き、ビジネスバッグを抱えていて、どうして声をかけられたのか本気でわからない。
 戸惑っていたら、男が前触れもなく目元を和らげた。まるで親しい相手に声でもかけるような表情で。
 驚いて息が止まる。一瞬顔見知りかと思ったがそんなわけもない。一度でも会ったことがあるなら忘れないはずだ。これほどの男前、絶対に目をつける。確信をもって断言できた。
 思春期の時点で自覚済みだが、理人はゲイだ。異性に恋愛的な意味で心惹かれたことはない。目の前に立つ男は、そんな理人の理想を体現したような外見をしていた。
 男から目を逸らせず、一時的に吐き気や眩暈すら治まってしまった。相手があまりに好みのタイプだからだろうか。それとも。
(……この男がアルファだから、か?)
 そう思ったら途端に嫌な気分になって、口の中に酸っぱい唾液が湧いた。またぞろ眉間に皺を寄せると、男がのそりと身を屈めてくる。
「大丈夫か? 救急車とか呼ぶか?」
 大きな体に見合った低い声だった。口調もゆったりとして、理人の返答を急かす様子もない。
 無言で首を横に振った。大丈夫だから行ってくれ、と伝えたくて軽く片手を立ててみたが伝わらなかったのか、男は断りもなく理人の隣に腰を下ろしてくる。
「顔真っ青だぞ? 水ぐらい飲んだらどうだ?」
 ぎょっとする理人に気づかず、男は片手に持っていたコンビニの袋をがさがさと漁り始めた。中から出てきたのは、買ったばかりだろうペットボトルの水だ。
「まだ口つけてないから、よかったら」
「い、いや……そんな」
 受け取れない、と首を横に振ったが、男は構わず理人の膝にペットボトルを放ってよこす。さらにコンビニの袋に手を突っ込んで、中から大袋に入った黒飴を取り出した。
「貧血か? 青い顔してるし、糖分とか取った方がいいんじゃないか?」
 大きな手で黒飴を鷲摑みにして、これも豪快に理人の膝の上にばらばらと落とす。膝の間から飴が落ちそうになって、とっさに膝頭を寄せて受け止めてしまった。
 強引すぎる男の行動に、困惑より苛立ちが湧いてきた。さすがに睨みつけたが、男はこちらの様子を窺うこともせず黒飴の包みを開けている。口の中に飴を放り込み、「美味いだろ」などと笑っているのだからのどかなものだ。
 あまりに屈託のない笑顔に毒気を抜かれ「まだ食べてない」と返してしまった。
 無言で立ち去ればよかったのに、返事をした時点でほだされたも同然だ。理人は膝の上に散らばる黒飴を摘み上げ、封を切って口の中に放り込む。黒飴なんて久々だ。頬の片側に飴を寄せたら歯に飴がぶつかって、かこっと間の抜けた音がした。
「……美味い」
「だろ」
 男が嬉しそうに笑う。目尻が下がると、大きな体から滲み出る威圧感が急速に薄れた。改めて見るとまだ若い。二十代の中頃と言ったところか。自分と同年代だろうと見当をつけ、男に倣って堅苦しくない口調で礼を述べた。
「ありがとう。少し気分が悪かったんだ」
「そうか。でも救急車が必要ってほどではなさそうでよかった」
 理人の顔を覗き込み、男は安堵したように笑った。見ず知らずの相手に随分と親切だ。
「しばらく休んでれば大丈夫そうだな。ゆっくりしたらいい」
「ああ、でも……」
 理人はちらりと腕時計に目を落とす。男もその視線に気づいたようだ。
「もしかして、これからどっかに行く予定だったか?」
「……そうだな。三時半から会社の面接があって」
「面接。まさか新卒採用……」
「に見えるか?」
 口の中で黒飴を転がしながら問い返せば、男が目元にくしゃっと皺を寄せて笑った。
「見えないな。そんなふてぶてしい新卒がいてたまるか」
 初対面にもかかわらず、男の言葉には遠慮がない。下手に言葉を選ばれるよりも好感が持てて、理人も眼鏡の下の目を緩めた。
「中途採用だ。なんとか会社の最寄り駅までは来られたんだが」
「会社はここから近いのか? なんて会社?」
「マレー・オンダ」
 どうせ言ってもわかるまいと思いつつ答えれば、男が目を丸くした。
「へえ、アパレル系だ」
「知ってるのか?」
「うちの会社の近くにあるからな。ちなみに志望動機は?」
 これにはさすがに即答できなかった。体調の悪いときに声をかけてくれたのはありがたいが、個人的な話をするつもりもない。今度こそベンチから立とうとしたが、すぐに吐き気が込み上げてきて、単に座り直しただけのようになってしまった。
 男は理人の行動の意味を理解しているのかいないのか、屈託なく笑う。
「面接の予行練習だと思えばいい。本番で緊張せずに済むだろ?」
 中途採用の面接程度で緊張するほど可愛い性格はしていなかったが、まだこの場から動くことはできないし、男が引き下がる気配もない。諦めてベンチの背凭れに身を預けた。
「志望動機は、マレー・オンダがオメガ向けの服を作っていたからだ」
 男の視線が動く。理人の顔から、頭のてっぺんへ。柔らかな栗色の髪を視線で梳くように眺め、再び理人の顔を見た。
「……オメガの服って?」
 マレー・オンダの名は知っていても、どんな服を作っているかまでは知らなかったのか、男は少しだけ声のトーンを落とした。人通りの多い場所でオメガを話題に出すとき、無自覚に声を潜めてしまう気持ちは理人も理解できたので同じく声を落とす。
「オメガの基本的な知識はあるな?」
「そりゃまあ、学生時代に保健の授業で習ったからな。外見も俺たちとは違うし」
 そうだな、と呟く声が掠れてしまった。
 アルファ、オメガ、ベータ。男と女という性別の他に、三つに分かれるバース性。
 この世界の大部分はベータで構成されている。外見の性別通り、男性が孕ませる側で、女性が孕む側。これに例外は存在しない。しかしアルファとオメガは別だ。
 アルファはかつて孕ませる性と呼ばれ、オメガは孕む性と呼ばれた。言葉通り、アルファは男性のみならず女性にも精巣と男性器があり、女性を孕ませることができる。オメガは逆に、女性だけでなく男性にも子宮が存在するため子を孕むことができた。
 さらにオメガにはヒートと呼ばれる発情期が存在し、その間はアルファを誘うフェロモンが放出される。フェロモンに中てられたアルファは理性が揺らぎ、獣のように欲情してオメガに襲い掛かる、などという事件も過去には頻発していたそうだ。
 今はフェロモンの放出を抑え、ヒートの周期を整える抑制剤が発達したため滅多なことではその手の事件は起こらないが。
 抑制剤が開発されるまで、オメガは淫らな性と呼ばれ続けた。ほんの百年足らず昔の話だ。今だって偏見や迫害が全くなくなったわけではない。ヒートでフェロモンを放出するだけでなく、オメガの外見はベータやアルファとは大きく異なっているからだ。
 ふと目を転じると、ベンチから少し離れたところにある改札からどっと人が溢れてきた。ちょうど下校の時間なのか制服姿の学生が多い。その中に、頭に黒い耳をつけた女子生徒がいた。
 耳といっても人間の耳ではない。三角の黒い耳は、ネコのそれだろうか。頭の上に獣の耳をつけ、友人だろう女子生徒と連れ立って駅を離れていく。
 理人は無言でネコ耳をつけた女子高生の背中を見送った。隣に座る男も、何も言わないがあの女子高生を見ているのは間違いない。
 あの獣の耳こそが、フェロモンやヒートに次ぐオメガの特徴だ。
 オメガの頭には、生まれたときから獣の耳がついている。その種類は多種多様で、ネコだけでなくイヌやライオン、ヒョウ、ウサギなどもあり、色や大きさも千差万別だ。黒くて小さなネズミの耳などは、髪に隠れて見えない場合もある。
 マレー・オンダで作られているオメガ向けの服を話題に出したとき、男が無意識のように理人の頭に目を向けたのも、相手がオメガでないか確認するためだろう。頭に耳のない理人は、オメガではないと認識されたらしい。
 女子高生の姿がすっかり見えなくなってから、ようやく男が口を開く。
「オメガ向けの服ってことは、ああいう子らが着る服ってことか? どんな服なんだ?」
「オメガ向けと銘打ってはいるが、ベータやアルファにも人気がある。ユニセックスなデザインの服も多い。一番の特徴は襟元か。スタンドカラーがほとんどだな」
「項を守るため?」
 どうやらこの男は学生時代にきちんと保健体育の授業を受けていたようだ。
 オメガにとって項は急所だ。特にヒート中にアルファに項を噛まれると、強制的につがいにされる。つがいはアルファとオメガの間だけに生まれる特別な絆だ。夫婦のように法的な拘束力はないが、肉体的に拘束される。
 アルファとつがいになったオメガは、ヒートのたびにつがいを求める。つがい不在で迎えるヒートは地獄だそうだ。他の誰も代わりになれない。同意なく強制的につがいにされたオメガもそれは例外でない。たとえ心が相手を求めていなくとも、体が相手を求めてしまうのだから二重の地獄だ。
「首裏を守ってくれるものがあればオメガも安心だろう」
「たかが布一枚でも?」
 からかうような男の言葉を、理人は鼻先で笑い飛ばす。
「たかが布とは言うが、ナイフで切りつけられても切れない防刃素材だぞ。カーボンファイバーの二倍の強度だ」
「そんな防護服みたいな?」
「相手がオメガだとわかると刃物で脅して物陰に連れ込もうとする輩もいるんだ。当然の備えだろう。炭素素材を練り込んだ繊維を使っているから消臭機能も高い。すでに介護の分野で有用性が証明されている素材だ」
「消臭……ってことは、フェロモン対策か」
「もちろん体臭予防にも効果があるから、オメガだけでなくアルファやベータからも人気だ。デザイン性もさることながら、機能面も優れているからな」
 眼鏡のブリッジを押し上げながら説明をしていると、男が柔らかく目を細めた。
「まるで自社製品でも語ってるみたいだな」
 言われて我に返った。我がことのように胸を張ってしまったが、まだ採用面接すら受けていない。時計を見ると、面接の時間まであと十五分しかなかった。立ち上がろうとしたが眩暈に襲われ、またしても姿勢を変えただけで終わってしまう。
 口の中で舌打ちしたら、横から男の手が伸びてきた。
「マレー・オンダだったらここから歩いて十分くらいだ。ギリギリまで休んでいけよ。それより、お前がマレー・オンダの服に興味を持った理由は? 防刃とか防臭とか付加価値があったからか? それとも新素材の繊維に興味があったとか?」
 背中に男の手が添えられてびくりとした。ジャケット越しでもわかるくらいにその手は熱い。あまり威圧感がないので忘れかけていたが、相手はアルファだろう男だ。首筋がそわそわと落ち着かなくなったが、相手はこちらの顔色などまるで顧みない。とん、とん、と一定のリズムで背中を叩かれる。
 最初は体を強張らせていたものの、大型動物の鼓動に似た振動を感じているうちに肩から力が抜けた。横目でそっと男の顔を窺う。男は口元に穏やかな笑みを浮かべ、理人が落ち着くのを待っているようだ。
 大らかな笑顔に目を奪われた。風が吹いて、男の背後でタチアオイが揺れる。
 天に向かって茎を伸ばす姿は清々しく、大きく開いた花が人目を惹く。
 理人が一番好きな花だ。
 理人はぎこちなく視線を下げて相手から目を逸らした。気を抜くといつまでも男の笑顔に見惚れてしまっていけない。初対面なのに、こんなに意識してしまうのは初めてだ。
 背中から男の手が離れたときはほっとした。ゆっくりとベンチの背に凭れて空を仰ぐ。なんの話をしていたのか。マレー・オンダの服に興味を持った理由を問われていたのだったか。
「……子供の頃、オメガの友人がいたんだ。ウサギの耳つきの」
「ウサギか。立ち耳? 垂れ耳?」
「垂れ耳」
 ミルクティーのような色合いの、毛並みの柔らかな耳だった。頭に沿うように垂れたウサギの耳は、顔の横についた本物の耳の辺りまで隠していたものだ。同級生たちはそろってその耳を「可愛い」と言った。しかし、両親だけは違った。
「友人は、両親から耳を見せることを固く禁じられていた。オメガであることは極力隠した方がいいと」
「なんで」
 心底不思議そうな顔で尋ねられ、当たり前だろう、と返しそうになった。
「オメガは性犯罪に遭いやすいから、目立つ耳は隠そうとするのが道理だ。だから外出するときは帽子をかぶったり、パーカーつきの服を着せられたりしていたな。夏場でも分厚い帽子をかぶらされて、辛かった……と言っていた」
 この耳は、人目から隠さなければいけないものなのかと幼心にも悩んだ。耳を出していると両親が眉を顰めるのも悲しかった。自分自身を否定されているようで。
「でも、マレー・オンダの服を着たときだけは、両親の反応が違ったそうだ」
 理人は男に目を向け「少し意外に思うかもしれないが」と前置きしてから続ける。
「マレー・オンダの服はオメガの耳を隠さない。むしろ帽子やパーカーに穴を開けて、耳を出すようデザインされている」
「項を隠したり、防臭・防刃機能までつけたりしてるのに耳は隠さないのか?」
「そうだ。マレー・オンダの服のコンセプトは、『誰もが安心して自分らしいファッションを楽しめること』だからな」
 例えば性犯罪に遭った女性が丈の短いスカートを穿いていると「そんな露出の高い服を着ていたから悪いのだ」と難癖をつける輩が必ずいる。しかし本来なら、相手がどんな格好をしていたとしても犯罪を起こした方が悪いのだ。被害者の服装は関係ない。それでも周囲の意見に屈する形で露出を控える女性が多いのも事実だ。
 オメガも同じく「耳なんて出していたから犯罪に巻き込まれたのだ」と言われることが少なからずある。だからこそ耳を隠すオメガが圧倒的に多いのだが、マレー・オンダの服はむしろ積極的にオメガの耳を出すデザインだ。穴の開いたパーカーや帽子は色展開も豊富で、それぞれ毛色の違う耳に合わせて服を選ぶことができる。
「友人の両親が、同僚からマレー・オンダの帽子をプレゼントされたんだそうだ。ウサギの耳に合わせたミルクティー色の毛糸の帽子と、同色のセーターを着たら、初めて両親が耳を出した姿を『可愛い』と言ってくれたらしい。いつもはすぐに耳を隠すよう言ってくるのに、そのときは写真まで撮ってくれた」
「よっぽど可愛かったんだな」
 ニット帽からウサギの耳を垂らした子供の姿を想像したのか、男が目を細める。オメガの服、というと卑猥なコスチュームを想像する輩も多いが、微笑ましげに笑う男はみじんもそんなことを考えなかったようでほっとする。無駄に幻滅せずに済んだ。
「友人にとってマレー・オンダの服は特別だった。友人だけでなく、その両親の反応まで変えてしまう服の力に驚いた。それでいつか、自分もマレー・オンダの服に携わる仕事がしたいと思った。それが志望動機だ」
 これでいいかとばかり男を見れば、満足そうに頷かれた。
「だからオメガでもないのにそんなにオメガ向けの服について詳しいのか」
「ま、まあな」
「じゃあひとつ教えてくれ。オメガ向けの服って、耳だけじゃなくて尻尾も外に出るようにデザインされてるのか?」
 理人は呆れ顔で眉を上げる。
「お前、保健の授業はきちんと受けたんじゃなかったのか? オメガに獣の耳はあっても、尻尾はないぞ。ベータやアルファの尾骶骨と一緒だ。人の胎児は妊娠から二ヶ月程度は尻尾があるが、時間の経過とともに壊れて尾骶骨だけが残る。オメガもその例に漏れない」
「でも耳は残るんだな。音も聞こえないのに」
 オメガは耳が二対ある。ひとつは顔の横にある人の耳で、聴覚を備えているのはこちらだけだ。頭上の耳に音を聞く機能はなく、言ってしまえば飾りに近い。
 無用の産物とでも言いたいのかと、理人は隣に座る男を睨んだ。
「人間には昔、エラがあったそうだ」
 前触れもなく話題を変えると、男がきょとんとした顔になった。
「生物は海から生まれ、陸に上がるべく進化したんだ。エラ呼吸から肺呼吸に変化して、結果エラは消えた。代わりにいくつかあったエラのうち、一部が耳の穴になって聴覚が発達したそうだ」
「おお。凄い進化だな」
 突然の話題転換にもひるまず、男は面白そうな顔で相槌を打つ。
「そうだ、進化だ。ちなみに尻尾が消えたのは退化だ。二足歩行には不要な器官だから消滅した。盲腸の先にぶら下がる虫垂も無用な器官と言われて久しい。霊長類のほとんどに盲腸はあるが、虫垂があるのはごく一部だからな。なくてもいいどころか、あると穿孔性腹膜炎をもたらす危険性が出てくるものだから以前は積極的に切除されていたくらいだ」
「じゃあ、そのうち虫垂も尻尾みたいに消えてなくなるのかもしれないな?」
 話題が逸れても男は楽しげに話についてくる。理人も興が乗ってきて、男にぐっと体を近づけ、目を細めた。
「いいや、その後の研究で虫垂にはリンパ小節が密集していることがわかっている。無用の器官なんてとんでもない。虫垂は類人猿と人に特有の新たな免疫組織だ」
 理人は自身の胸に手を当て「心臓もそうだぞ」と続ける。
「水中生活をしていたときに使っていた心臓を手直しして陸でも使っているんだ。だから不具合も生じやすい。人間の体は新旧様々な機能のモザイクで、進化の産物と退化の遺物が混在してる。アルファやオメガの特殊な生殖器も、オメガにだけ現れる獣の耳も、バース性の研究が進まない限り進化とも退化とも言い切れない」
 男は理人の言葉を反芻するように黙り込み、ゆるゆると目を細めた。
「なるほど。オメガの耳も、何かしら必要性があって存在してるのかもしれないってことだな? 意味のないものではないわけだ」
「今の段階では、そういう可能性もあるというだけの話だが」
「どちらにしろ、他人の体の一部をぞんざいに扱っていいものではなかったな。不愉快にさせたなら悪かった」
 男が深く頭を下げてきて、それまで滔々と語り続けていた理人の言葉がぷつりと途切れた。正面切って謝られて二の句が継げなくなる。オメガの耳は不要か否かなんて、普段ならまともに取り合ってすらもらえない話題だ。それなのに己の非を認めたように潔く頭を下げてくる男に戸惑って、曖昧な返事をすることしかできない。こんな反応は初めてだ。
 男は再び顔を上げると深刻な表情をほどいて「しかし大したもんだな」と感心した様子で言った。
「立て板に水を流すようなプレゼンだったが、前職はなんだったんだ?」
「……広告会社の営業だ」
「どこの?」
 若干迷ってから社名を告げれば、たちまち男の顔色が変わった。
「広告会社の最大手じゃねぇか……!」
「辞めた会社を褒められるのも複雑だ」
「じゃあ、これから面接に行く会社でもプレス希望か?」
 理人は小さく頷く。
 マレー・オンダは従業員四十人足らずの小規模なアパレルメーカーで、自社で企画、製作した服を直営店で売る一方、製造卸として他のアパレルに卸してもいる。
 自社のホームページはあるものの更新頻度は控えめで、マスコミへの露出はほとんどない。大手広告会社に五年勤めてきた理人から見れば歯がゆい限りだ。自分ならばもっと大々的にプロモーションを仕掛けられる。そういう自信があった。
 語られずとも、理人の目の色を見ただけでその強い意気込みを感じ取ったのか、男が楽しそうに笑う。
「プレスの仕事が好きなんだな。だったら別の広告会社に再就職すればよかったのに」
「広告の仕事は好きだったが、仕事を選べないのが辛かったんだ。だから今度は、自分の好きなもの、興味のあることを世に広められたらと思ってる」
「それで選んだのが、マレー・オンダか」
 力強く頷いた理人だったが、すぐにその表情が曇った。腕時計に目を落とす。面接の時間まであと数分。今度こそ立ち上がろうとしたがやはり吐き気に襲われ、それでも無理に腰を浮かそうとしたら大きく体がぐらついた。隣にいた男がとっさに腕を取ってくれなければ無様に転んでいたかもしれない。
「無理するなって。転んで頭でも打ったらどうすんだ。もう少し大人しくしてろ」
「もう面接の時間を過ぎる」
「だったら会社に連絡して、遅れるとでも言えばいいだろう」
 男は無理に立ち上がろうとする理人の腕を摑んで離さない。大きな手を振り払うのは難しそうで、ベンチに座り直してジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。
 あらかじめ登録しておいたマレー・オンダの番号に電話をかけ、応対してくれた相手に人事部長を出してくれるよう頼む。電話口に出てくれた人事部長に体調が悪くなったことを告げた理人は、続けて面接の辞退を申し出た。
 視界の端で男が目を見開くのがわかったが、前言を撤回するつもりはなかった。電話の向こうの相手に見えるわけもないのに深々と頭を下げ、謝罪の言葉を最後に通話を切る。
 溜息をついて膝の上に携帯電話を放り投げると、未だ理人の腕を摑んだままだった男に、咎めるように腕を引かれた。
「誰が断りの連絡を入れろなんて言った……!」
「仕方ないだろう。約束の時間に間に合わなかっただけでもう見込みはない」
「わからないだろ。本気でその会社に行きたいなら時間が過ぎてからでも駆けつけたらいい。事情を説明して、面接だけでも受けさせてくれって頭を下げるんだ。そういう泥臭い情熱みたいなもんを見せられたら人事の心も動くかもしれない」
 赤の他人でしかない理人の背中を、男は熱心に押そうとする。けれど理人は暗い表情のまま、緩慢に首を横に振った。
「広報部もなければ、従業員の募集すらかかっていなかったところに無理やりねじ込んだ面接だったんだ。どんな理由であれ、約束を守れなかった時点で不採用だろう。体調管理も仕事の内だしな。遅れて駆けつけたところで恥をかくだけだ」
「恥も外聞も投げ捨ててしがみつくほどの会社でもないってことか?」
 突き放すような言葉をぶつけられ、とっさに男を睨みつける。違う、と言いたかったが、おめおめと引き下がった手前、反論できない。
 無言で視線を落とせば、腕を摑んでいた男の手が緩んだ。
「まあ、会社なら他にも山ほどあるしな……無理はすんなよ。その飴と水はやるから」
 声のトーンを落とし、男がのっそりと立ち上がる。そのままベンチを離れかけたが、少し歩いたところで足を止めて振り返った。
「そういえば、名前なんだっけ? アオイ?」
 苗字を言い当てられたことにぎょっとして顔を上げれば、男がおかしそうに笑って、電話、と言った。
「さっき会社に電話してるとき名乗ってたから。青空の青に井戸の井で青井?」
「いや……葵の花に井戸の井で、葵井だ」
「下の名前は」
「……理人」
 最後の最後で名前を訊かれる理由がわからない。さりとて黒飴と水をくれた親切な相手を無下にすることもできず素直に応じると、男が柔らかく目を細めた。
「漢字はどう書く?」
 理性の理に人、と答えようとして、言葉を変える。
「理想の理に、人」
「理人か。ドイツ語の『光』だな」
 葵井理人、と歌うような調子で呟いて、男は理人に背を向けた。
「待て、お前は?」
 とっさに呼び止めていた。すでに駅前の人込みに向かって歩き始めていた男は、立ち止まらぬまま振り返って軽く手を上げる。
「シオミ!」
 雑踏に交じって男の声が響く。理人には下の名前や、どんな漢字を使うのかまで尋ねてきたくせに、自分の名乗りは雑なものだ。
 平均より背の高い男の姿が人込みに呑まれる。理人は目を眇めてそれを見送った。まっすぐに背筋の伸びた、タチアオイのような背中が完全に見えなくなるまで。
 シオミと名乗った男の姿を見失ってもしばらく人込みから目を離せず、最後は名残惜しく視線を下げて腕時計に目を落とした。面接の時間からすでに十分が過ぎている。
 何かとても惜しいものを手放してしまったような気分に襲われ、力なくベンチに沈み込む。すぐには動き出せず、膝の上からベンチに転がり落ちた黒飴を摘み上げた。包みを開けて唇の隙間に飴を押し込むと、黒砂糖の匂いが口いっぱいに広がった。
 口の中で飴を舐め溶かしている間も刻一刻と時計の針は進む。もう面接を受けることは諦めたはずなのに、どうしてか焦燥が消えない。
『会社なら他にも山ほどある』とあの男は言ったが、マレー・オンダのように真摯にオメガ向けの服を作っているアパレルメーカーが他にどれだけあるだろう。
 口の中で黒飴を転がしながら、前髪をかき上げるふりで頭に触れた。指先で髪をかき分けて頭皮に触れれば、頭頂部からやや耳に寄った場所に、薄く肉が盛り上がった跡がある。
 普段は髪に隠れて見えないこれは、手術痕だ。頭頂部を中心に左右対称に残ったそれは、かつて理人の頭に存在していた耳の跡だった。
 頭から手を離し、駅前を行く人々をぼんやり眺める。スーツ姿の会社員に、子供の手を引く母親。忙しなく歩く人々の中に、いったいどれほどのオメガが紛れ込んでいるのだろう。
 日本のオメガ人口は全体の数パーセント程度と言われているが、思ったよりごく当たり前に隣にいるのかもしれない。事実、高校を卒業するまでは学年に一人や二人オメガがいた。それなのに成人すると途端に耳をつけたオメガの姿を見かけなくなるのは、多くが耳の切除手術を行うからだ。
 オメガはその外見的特徴から、第三次性徴でヒートが始まるのを待つまでもなく、生まれた瞬間からバース性が判明する。昔はオメガが生まれるとすぐに耳を落としていたそうだが、本人の意思も問わず耳を切り落とすのは子供の人権を無視しているのではと問題視され、近年は本人が成人して、自らの意思で手術を望むときしか切除手術は行われないのが原則だ。
 とはいえ、成人してもなお耳をつけているオメガはまれだ。頭についた耳はどうしたって目立つし、ヒートがあるせいで性的な偏見を抱かれやすい。
 かくいう理人も、切除手術で耳を落としている。
 理人の耳はウサギの耳だった。ミルクティー色の垂れ耳だ。シオミから志望動機を尋ねられたとき、とっさに友人の話として語ったのは理人自身の話である。
 物心つく前から、両親は執拗に理人の耳を隠そうとした。両親ともにベータで、親族など身近にオメガがいなかっただけにオメガというバース性を恐れたのだろう。定期的に訪れる発情期は本当に薬で抑え込めるのか、わからないだけに不安は募り、だから両親は息子に理人と名づけた。
 ドイツ語で光。理想の人。
 本当のところは、オメガであっても人としての理性を失わないでほしいという切実な願いから、理性の人、理人とつけたに違いない。
 オメガの理人を、両親は疎んじていなかった。むしろ大切に育ててくれた。大切であるがゆえに、オメガであることが理人の枷になることを恐れたのだ。いつも耳を隠すよう言われていた。だからこそ、初めてマレー・オンダの服を着たときのことはよく覚えている。
 耳と同じ柔らかなミルクティー色の帽子と、同色のセーター。セーターは裾に行くほど赤みを帯びるグラデーションで、アイスティーにミルクを注いだような色合いだった。
 あのときの、両親の顔が忘れられない。
『――まあ、素敵』
 いつも憐れむような顔で理人の耳を見ていた母親が、ぱっと明るい笑顔を見せた。思わずと言ったふうに「可愛い」と口走り、「こんなの攫われちゃうわ」と困ったような顔をする。でもそれはいつもの深刻な表情ではなくて、どこかはしゃいでいるようにも見えて、見ている理人までくすぐったい気分になった。
 父親も目尻を下げ、服を贈ってくれた同僚にも見せよう、と理人の写真を撮ってくれた。
 あのときだけは、両親は理人の耳を可愛いと言って、優しく撫でてくれた。
 耳を出しても憐れまれない。そのままの自分を受け入れてもらえたようで嬉しかった。あの日のことを思い出すと温かい空気が胸に流れ込み、普段は縮んでいる肺を目一杯膨らませてくれる。自然と背筋が伸びる。
 マレー・オンダの服を着て、理人と同じような気持ちになったオメガも多いだろう。
 頭についた耳を最大限魅力的に見せる素材とデザイン。項を守るスタンドカラーに防刃加工。オメガを魅力的に見せながら、オメガの身を守ってくれる服。安心して着飾れる喜びを初めて教えてくれた服だ。
 もっと多くのオメガにあの服を知ってもらいたいと思った。だが今のままでは難しい。マレー・オンダの服はいいが、宣伝広告の分野が手薄すぎる。
 自分なら、と思った。あの会社のために、何かできるのではないか。
 膝の上で両手を組み、考えているうちに口の中の飴は溶けてなくなっていた。
 腕時計に目を落とす。面接の時間からもう二十分が過ぎた。
 理人は傍らに置いていたペットボトルを手に取り、これを置いていった男の顔を思い出す。「恥も外聞も捨ててしがみつくほどの会社でもないってことか」と口にしたとき、男の目に走った落胆の色を理人は見逃していなかった。口先だけの人物だと思われたのかと思うと腹の底がぐらぐらと煮え立つ気分になるのはなぜだろう。
 ほんの三十分程度話しただけの相手だ。もう二度と会うこともないだろう。それなのに、対抗心のようなものが湧いてくる。見くびられるのも落胆されるのもごめんだ。
 革靴の踵で地面を叩く。大きく息を吸い、弾みをつけてベンチから立ち上がった。
 糖分を取ったおかげか眩暈と吐き気はかなり治まっていて、よし、と頷き足を踏み出す。
 理人が足を向けたのは改札ではなく、マレー・オンダのビルがある方角だ。
 駅から歩いておよそ十分。マレー・オンダのオフィスが入っている七階建てのビルの前に立つと、理人は大きく深呼吸をしてからビルに入った。
 玉砕覚悟で受付に用向きを告げる。この場で待つよう言い渡され、緊張した面持ちでロビーに立っていると五十がらみの男がやってきた。「葵井さんですか?」と尋ねてきたその声は、電話口で聞いた人事部長のものだ。すぐさま深々と頭を下げる。
「本日はわざわざお時間を空けていただきましたのに、大変申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしてしまいましたので、せめてお詫びにと思いお伺いいたしました」
「ああ、そんなわざわざ……具合が悪いのに無理をしなくても」
 人事部長は人のよさそうな顔で笑って、理人の前で足を止めた。
「今回は残念でしたが、またご縁がありましたらぜひ……」
 ご縁がありましたら、なんて体のいい断り文句以外の何物でもない。最後まで言わせず、理人は伏せていた顔を勢いよく上げた。
「不躾を承知で申し上げます。これから面接を受けさせていただけませんでしょうか」
「これからですか? しかし……」
「五分で構いません。無理なら履歴書だけでも受け取っていただけませんか。目を通すかどうかはお任せいたします。お願いします、このまま諦めたくないんです」
 相手に口を挟ませる余地を与えず、一息に言ってもう一度頭を下げる。
 無理は承知だ。履歴書を渡したところで読んではもらえないだろうが、爪痕くらいは残したい。そんなことを考えていたら、人事部長がおかしそうに笑った。
「そこまでおっしゃるなら、面接しましょうか?」
 あまりに軽い口調だったので、すぐには何を言われたのかわからなかった。一拍遅れて慌ただしく顔を上げれば、人事部長はもう理人に背中を向けている。冗談かと思いきや、エレベーターの前で手招きしているところを見ると、本当に面接をしてくれる気のようだ。
「あ、ありがとうございます……!」
「いえいえ、実はうちの社員たちも楽しみにしてたんですよ。大手広告会社の元営業なんて、いったいどんな人が来るんだろうと」
 エレベーターでオフィスのある五階までやってくると、会議室へ案内された。
「あいにく社長が入れ違いに出かけてしまったもので、社長抜きの面接になりますが」
「構いません。こうしてお時間を割いていただけるだけで僥倖です」
 相手が社長でなかろうがなんだろうが、アピールできるチャンスがあるなら食らいつくしかない。長テーブルを縦にふたつ並べた会議室で待機していると、すぐに人事部長が男性社員を一人伴い戻ってきた。理人はすぐさま立ち上がり、深く頭を下げる。
「本日はお約束の時間に遅れて申し訳ありませんでした」
「そんなに頭を下げているとまた体調を崩されますよ」
 人事部長が笑いながら席に着く。一緒に入ってきた男性もその隣に座った。人事部長と同年代と思しき人物だ。趣味はゴルフか登山かというくらい日焼けしている。
 向かいに理人が座るのを待ち、人事部長はテーブルの上で両手を組んだ。
「それでは改めまして、人事部長の市村です。よろしくお願いします。こちらは営業部長の柿崎。実質副社長みたいなものですね」
「いやいや、そんな権限ないですよ。市村の冗談です」
 営業部長の柿崎は日焼けした顔に笑みを浮かべ、隣に座る市村を肘で小突く。面接だというのにやけに和やかな雰囲気だ。社風だろうか。如才なく笑みを浮かべつつ相手の様子を窺っていたら、会議室の扉が外からノックされた。
「お、ようやく最後の一人が来たかな。はい、どうぞー」
「うちのデザイナーにも同席してもらうことにしたんですよ。本人たっての希望で」
 市村と柿崎の言葉が終わらぬうちに会議室のドアが開き、理人は素早く立ち上がる。相手の顔を見るが早いか頭を下げ、よろしくお願いします、と言おうとして、唇が固まった。
 頭を下げる直前に目の端を掠めた顔に、見覚えがあった気がしたからだ。
 恐る恐る顔を上げる。長テーブルの向こうに立つのは、ワークパンツを穿いた男だ。
 まさかと思いながら仰ぎ見れば、そこにいたのは駅前で理人に声をかけてきた男、シオミだった。
 愕然と目を見開いた理人を見下ろし、シオミは悪戯が成功した子供のように破顔した。
「どうも。デザイナーの汐見東吾です」
「は……?」
「さんずいに夕日の夕で汐。汐を見るって書いて汐見」
 漢字も教えられてよかった、と目を細め、汐見は市村の隣に腰を下ろした。


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