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八咫鴉さまと幸せ子育て暮らし

伊郷ルウ / 著
すがはら竜 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-333-0
サイズ 文庫本
ページ数 240ページ
定価 831円(税込)
発売日 2020/09/18

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内容紹介

生涯の伴侶は、おまえしかいない
那波稲荷神社で働く八幡晃之介は、境内の御神木から鴉の赤ちゃんが落ちてくるのを受け止めた。怪我がないか確認していると、突然目の前に紅と名乗る美青年が現れ、自分の子鴉だから返してほしいと言ってくる。不審すぎて断り社務所に避難させるが、いつの間にか子鴉は消えていた。だが、再び子鴉が木から落ちてきて、実は青年は御神木の守り神の八咫鴉だという。二人の生活を心配する晃之介に、紅は「晃之介は優しいんだな」とキスしてきて、木の頂上の立派な神殿に連れられてしまい!?
★初回限定★
特別SSペーパー封入!!

人物紹介

八幡晃之介(やはたこうのすけ)

那波稲荷神社の権禰宜。 御神木から落ちてくる鴉の赤ちゃんを助ける。

紅(くれない)

那波稲荷神社の大銀杏を守る八咫鴉。

暁月(あかつき)

紅と暮らしている鴉の赤ちゃん。

立ち読み

第一章


 八幡晃之介が権禰宜として働いている〈那波稲荷神社〉は、都心からほど近い閑静な住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。
 石造りの階段を上がって朱色の鳥居を潜ると長い石畳が続いていて、その先に大きく屋根を広げた本殿がある。
 玉砂利が敷き詰められた広い境内には樹齢百年を超す悠々とした銀杏が何本もあり、紅葉の季節ともなると見事に黄金色の葉が厳かな神社に彩りを添えた。
「暖かくなってきたなぁ……」
 竹箒で境内の掃除をしていた晃之介は、ふと手を休めて青空を仰ぎ見る。
 小柄な身に纏っているのは白い着物と浅黄色の袴。
 二十五歳の晃之介は権禰宜となって一年目であり、まだその姿は板に付いていないが、日々、真摯に仕えている。
「うん?」
 突如、聞こえてきた鳥の鳴き声に、正面にある大銀杏に目を凝らす。 
 神社の中でもっとも古くからある銀杏で、〈那波稲荷神社〉のご神木だ。
 高さは二十メートルを超え、幹の太さは五メートル近い。
 小柄な晃之介が頭を大きく後ろに倒さなければ、てっぺんを見ることができないほどの巨木だ。
 ご神木は、〈那波稲荷神社〉の長男として生まれた晃之介にとって、幼いころから身近なものだった。
 それは見事な枝振りなのだが、鳥たちが集うような光景をこれまで目にしたことがない。
 境内で遊ぶ雀ですら、ご神木の枝に止まることはないのだ。
 それは、神聖な樹木であることを鳥たちが理解しているかのようであった。
 だからこそ、ご神木のてっぺん付近から鳴き声が聞こえてきたのが不思議なのだ。
「鴉っぽいけど……」
 晃之介は訝しげに眉根を寄せつつ、耳を澄ます。
 少し力ない感じではあるけれど、確かに「カァ、カァ」と聞こえた。
「どうして鴉が……」
 本殿には稲荷神、そして、ご神木には紅さまと呼ばれる八咫鴉が祀られているが、それは言い伝えであって実際に八咫鴉が存在するわけもない。
 とはいえ、八咫鴉を祀るご神木から、鴉の鳴き声が聞こえたともなると気になる。
 言い伝えによると、銀杏の大木に八咫鴉が住み着いたことで、数々の害を及ぼしてきた鴉の群れがいなくなり、神社を囲む一帯が鴉とは無縁の土地になった。
 そうしたことから、八咫鴉は守り神となり、この銀杏は〈那波稲荷神社〉のご神木となったというのだ。
 これまでまったく鴉が寄りつくことがなかったというのに、なぜ急に鳴き声が聞こえてきたのか。
 解せない思いで見上げていると、大きく広げた銀杏の枝がわさわさと揺れだした。
「えっ?」
 一心に見つめていた晃之介は、思わず目を瞠る。
 ご神木のてっぺんから、なにかが落ちてきたのだ。
「なに?」
 咄嗟に竹箒を放って駆け出す。
 銀杏の葉であればひらひらと舞うはずだ。
 落ちてくるのは黒い物体。
 あきらかに葉とは異なる。
「なんだろう……」
 ご神木の真下で足を止め、頭を反らして上空を凝視した。
 次第に落下物が大きくなってくる。
 黒い塊のように見えたけれど、翼らしきものがあった。
「うそっ……鴉……」
 見上げたまま唖然とする。
 落ちてくるのは、まぎれもない小さな鴉。
 躯全体が真っ黒で、嘴まで黒い。
「なんで?」
 翼を広げているのに、飛ぶことなく真っ直ぐに落ちてくるのだ。
 翼のある鴉が落ちてくる。
 あきらかにおかしい。
 でも、物のように落ちてくる鴉を放っておけるわけがない。
 晃之介は咄嗟に両手を前に伸ばす。
 上手く受け止められる自信などない。
 それでも、助けたい一心で、鴉から目を逸らすことなく落下点を探りつつ小刻みに動く。
「ひゃっ……」
 間もなくして、広げた掌にポトッと鴉が落ちてきた。
 易々と両手に収まるくらい小さい。 
「まだ雛だったんだぁ……」
 姿形こそ鴉そのものだが、まだ羽がほわほわしている。
 鴉をこれほど間近で見るのは初めてだ。
 八咫鴉を祀る神社に生まれ育ったとはいえ、鴉の生態については詳しくない。
 落ちてきた雛が、孵化してどれほどの日が経っているかなど知る由もなかった。
 ただ、羽ばたこうとすらしなかったことから、巣立つには早い段階にあるのだろう。
「どうして巣から落っこちちゃったんだい?」
 ふんわりとした雛の頭を優しく撫でながら、黒々としたまん丸の目を見つめる。
 全身が真っ黒で嘴まで黒いのに、額の中央がほんの少しだけ白い。
 まるで夜空に星がひとつだけ輝いているかのようだ。
「小さいなぁ……」
 とにかく軽くて柔らかい。
 トクン、トクンと伝わってくる小さな鼓動が愛おしく感じられる。
「ふふっ……」
 掌にすっぽりと収まっている子鴉を、晃之介は慈しむように胸に抱く。
「鴉って可愛い目をしてるんだな」
 鴉の雛に触れる機会などないから、つい興味を募らせてしまう。
 くりっとした大きな黒い目を見ていたら、雛が手のひらの上で踏ん張り、広げた羽をパタパタと動かし始めた。
「もしかして飛ぶ練習をしてたの?」
 話しかけた晃之介を、雛が小首を傾げて見返してくる。
 なんとも可愛い仕草に頬を緩めつつ、ご神木を見上げた。
 雛が落ちてきたのだから、あそこに巣があるのだろう。
 ならば、親の鴉もいるはずだ。
「でも、普段は鴉の鳴き声なんて聞こえないし……」
 鳴き声どころか、鴉の姿すら見かけていない。
 どうして鴉の雛がご神木にいたのか、理解に苦しむばかりだ。
 あり得ないことだけに不思議な気分だったが、もしご神木で生まれたのならば大切に扱わなければならない。
「さあ、飛んでごらん」
 巣に帰してやろうと思った晃之介は、両の手を高く掲げて雛に飛ぶよう促す。
 けれど、雛はじっとしたまま動かない。
「おウチに帰ろうね」
 優しく声をかけつつ、手をさらに高く伸ばしてみたけれど、相変わらず雛は飛ぼうとしないばかりか、羽すら動かさなかった。
「ほーら、おウチは上だよー」
 しきりに促してみたものの、雛の躯はまったく浮き上がらない。
「もしかして……」
 巣から飛び立つ練習をしていたのではなく、なにかの拍子に巣から落ちてしまった可能性もある。
 そうだとしたら、雛は自ら巣に戻ることはできないだろう。
「親鴉はどこにいるんだろう……」
 晃之介は困り顔で、上空を見渡す。
 親鴉であれば、子鴉を巣に連れ帰ってくれるだろう。
「もう……」
 いくら見渡しても鴉の姿はない。
 餌でも探しにいっているのだろうか。
「梯子でも無理だしなぁ……」
 雛を巣に戻してやりたくても、ご神木のてっぺんまで届くような梯子はない。
 親鴉が帰ってくるのを待つしかなさそうだ。
 とはいえ、雛を持って待っていられるほど暇ではなかった。
「一緒に社務所へ行こうね」
 しばらく預かることにした晃之介は、雛を着物の袂にそっと収め、放り出した竹箒を拾い上げて社務所に向かう。
 神事を執り行う場合は、宮司である父親の手伝いをする。
 けれど、それ以外は掃除と社務所の番をするのが権禰宜の仕事だ。
 住宅街にひっそりと建つ〈那波稲荷神社〉は、ほんの数年前までは参拝に訪れる人の姿もまばらだった。
 それが、最近では週末になると、御朱印やお守りを求めに来る人で賑わうようになった。
 まだ若く、流行に敏感な晃之介の提案で、御朱印やお守りに狐を模した図柄を取り入れたところ、忽ち女性たちのあいだで「可愛い」と評判になったのだ。
 いわば狐のキャラクター人気にあやかったようなものだが、〈那波稲荷神社〉を知ってもらえるようになり、年末年始以外にも足を運んでもらえるのは有り難いことだった。
「居心地悪くないかい?」
 おとなしい雛が気になり、袂の中を覗く。
 布に覆われて安心したのか、雛は気持ちよさそうに丸くなっていた。
「よかった……なっ」
 晃之介は安堵の笑みを浮かべたのも束の間、音もなく目の前に現れた人影にぎょっとして立ち止まる。
 鳥居からはだいぶ距離があるというのに、まったく人の気配に気づかなかった。
 いきなりの遭遇に甚だ驚いたものの、参拝者に失礼があってはならない。
 すぐに気を取り直し、急いで表情を取り繕う。
「こんにちは」
 礼儀正しく頭を下げ、笑顔を向ける。
 初めて目にする男性で、驚くほど背が高い。
「このへんで鴉の雛を見なかったか?」
 男性は驚くほどぶっきらぼうな口調で訊ねてきた。
 ずいぶん感じが悪いが、見た目は抜群にいい。
 手足がすんなりと長く、顔立ちもすこぶる端整で、黒いシャツに黒い細身のパンツを合わせた姿は、まるで俳優かモデルのようだ。
「この子のことですか?」
 晃之介は袂から鴉の雛をそっと取り出す。
 はっきり鴉の雛と言われてしまったから、男性を訝しく思いつつも嘘がつけなかったのだ。
「ああ、よかった。その子、俺のだから返してくれ」
 男性が雛に手を伸ばしてきたが、晃之介はにわかに信じられずにその手を避けた。
 雛はご神木のてっぺんから落ちてきたのだ。
 この男性が飼い主であるわけがない。
 そもそも、鴉の雛を飼えるものだろうか。
 なにより、この男性が鴉の雛を飼っているという証拠がなかった。
「早く返してくれないか?」
 男性が険しい表情で迫ってくる。
「鴉の雛を飼われているんですか?」
「そうだよ、だからその子を返してくれ」
 さらにずいっと迫ってきた男性が、改めて雛に手を伸ばしてきた。
 どうあっても雛を手に入れたいようだ。
 男性からは執着すら感じられる。
(なんか怪しい……)
 不信感を募らせた晃之介は、雛を守るためそっと袂に戻した。
「この子、まだ飛べないんですけど?」
「だからなんだっていうんだ?」
 声を荒らげた男性は、不機嫌さを隠そうともしない。
 形のいい眉を吊り上げ、きつい視線を向けてくる。
「飛べないのにご神木の上から落ちてきたんですよ。あなたが飼っているというのなら、どうやってあの上まで行ったんでしょうね?」
「それは……」
 あえて冷静に言った晃之介がご神木を仰ぎ見ると、さすがに男性も言葉を失ってしまったようで、苦々しい顔つきで見返してきた。
 本当に雛を飼っているのであれば、男性はきちんと理由を説明できるはずだ。
 口を閉ざしてしまったのは、彼が嘘をついているからに他ならない。
 この男性に、雛を渡してはいけない。
 関わらないのが一番だ。
「あなたの言うことは信じられませんので、この子をお渡しすることはできません。失礼します」
 晃之介は冷ややかに言い放ち、雛を入れた袂を優しく抱え込むと、急ぎ足で社務所に向かった。
「でも、どうして雛のことを知ってたんだろう……」
 疑念を抱きつつ、さりげなく男性を振り返る。
「えっ? どこ?」
 たいして歩いていないというのに、すでに男性の姿は消えていた。
「どういうこと?」
 足を止めた晃之介は、呆然とあたりを見回す。
 参拝者は鳥居を潜らなければ境内に出入りできない。
 社務所の反対側になるとはいえ、鳥居まではかなりの距離がある。
 仮に男性が全速力で走ったとしても、まだその姿は見えるはずなのだ。
 それなのに、跡形もない。
 まるで、その場からふっと消えてしまったかのようだった。
「どうなってんの?」
 おかしなことばかりで、乾いた笑いがもれる。
 あの男性は、なぜかご神木のてっぺんから落ちてきた雛のことを知っていた。
 そればかりか、自分が飼っている雛だと言い張った。
 充分すぎるほど妙な出来事だというのに、男性が跡形もなく姿を消してしまったのだから、狐につままれた気分だ。
「夢ってことはないだろうし……」
 晃之介は肩を竦めつつ、鍵を開けて社務所に入った。
 こぢんまりとした社務所の中は六畳の畳敷きになっていて、お守りを求めにくる参拝者の相手をできるようになっている。
 お守りを並べている白木の台は奥行きがあり、御朱印を申し込む窓口にもなっていた。
 平日は常に参拝者が訪れるわけでもないため、社務所に誰もいない場合はガラス戸を閉めて鍵を掛けてあり、外側に呼び鈴代わりの土鈴が置いてある。
「さてと……」
 草履を脱いで畳に上がった晃之介は、奥の物置に空の段ボール箱を取りに行く。
 雛をずっと袂に入れておくわけにはいかない。
 とりあえず、気持ちよく過ごせる場所を用意してやりたかった。
「それにしても変な人だったよなぁ……」
 姿を消した男性を思い出しては、首を捻ったり肩を竦めたりを繰り返す。
 彼が口にした言葉のすべてが嘘くさい。
 でも、雛の存在を知っていたことが、妙に引っかかっているのだ。
〈カァ……〉
 なにかを訴えるように雛が鳴き始めた。
 袂が揺れ動いたせいで、不安になったのかもしれない。
「ごめん、ごめん」
 晃之介は雛に謝りながら、運んできた空の段ボール箱を畳に下ろして正座をする。
「ここなら安心だよ」
 お守りが入っていた小振りの段ボール箱に乾いたタオルを敷き、袂から取り出した雛をそっと入れてやる。
 まだ飛べないのだから、ある程度の深さがある段ボール箱から出ることはできないはずだ。
 ご神木に戻ってきた親鴉は、雛がいないとわかれば大声で鳴くに違いない。
 鴉の鳴き声が聞こえてきたら、雛を入れた段ボール箱をご神木まで運べばいいだろう。
 きっと、親鴉が雛を巣まで連れ帰ってくれる。
「すみませーん」
 ガラス戸越しに声をかけられ、晃之介は振り返った。
 二人連れの若い女性が、笑顔でお守りを指さしている。
 晃之介は笑顔でうなずき、お守りが直に見られるようにガラス戸を開けた。
「これこれ、可愛いでしょう?」
「ホントー」
 若い女性が顔を見合わせ、嬉しそうに笑う。
「どれにする?」
「そうねぇ……」
 家内安全、商売繁盛、健康祈願など、お守りの種類は豊富だ。
 中でも女性に人気があるのは、二匹の狐が寄り添う絵柄が入った恋愛成就のお守りだ。
「これとこれをください」
「はい、ひとつ五百円のお納めでございます」
 差し出された二つのお守りを受け取り、ひとつずつ白い紙の小袋に入れていく。
 この小袋にも狐の絵柄が描かれていて、女性や子供に評判がよい。
「ようこそご参拝くださいました」
 代金を受け取ってお守りを渡し、笑顔で女性たちを見送る。
 平日の昼間から参拝者が訪れ、自ら手がけたお守りを手にして喜んでもらえるのだから、嬉しいかぎりだ。
 宮司の子として生まれ、父の後を継ぐと決めて権禰宜になった晃之介は、ひとりでも多くの人が〈那波稲荷神社〉に足を運んでくれることを願っている。
「子供?」
 不意に響いてきたはしゃぎ声に目を向けてみると、本殿の手前で幼い男の子がしゃがみ込んでいた。
 どうやら玉砂利で熱心に遊んでいるようだ。
 高く響く声はとても楽しそうで微笑ましいが、あたりに親らしき人の姿が見当たらない。
 かつての境内は子供の遊び場で、晃之介もよく友だちと遊んだものだが、今はそうした光景もあまり見られなくなっている。
 年末年始以外に子供連れで訪れる参拝者は少なく、平日などは皆無に近いのだ。
 それだけに、ひとりで遊んでいる幼い子供が心配になる。
「まさか迷子とか……」
 社務所から身を乗り出して境内を見渡してみたが、大人の姿は見当たらない。
 居ても立ってもいられなくなり、あたふたとガラス戸を閉め、社務所を飛び出す。
「えっ?」
 外に出た晃之介が目にしたのは、突如、姿を消した黒づくめのあの男性だ。
「またあの人だ……」
 いったいどこから現れたのか。
 社務所を出るまでにかかった時間はほんの数十秒。
 それなのに、つい先ほどまで姿がなかった男性が、子供と一緒に境内にいるのだから驚く。
「変な人じゃなくて変質者だったのか?」
 嘘をついた時点で、まったく男性のことを信用していない。
 さっきは子供を連れていなかったのだから、よけいに怪しく感じられる。
 男性に声をかけるより先に、警察に連絡をするべきかもしれない。
 晃之介は懐に手を差し入れ、スマートフォンを取り出す。
「わーい、わーい」
「どうだ高いだろう?」
「おとーたま、たかーい! おとーたま、もっとー」
 境内に響いた子供の声に、一一〇番しようとしていた手をはたと止める。
「おとーたまって……お父さま?」
 改めて男性と子供に目を凝らす。
 舌っ足らずではあったけれど、子供は「お父さま」と言ったように聞こえた。
 見ず知らずの相手に対して、いくらなんでも幼い子がそんな呼び方をするわけがない。
「まさか、あの人の子供?」
 にわかには信じがたかったけれど、とりあえずスマートフォンを懐に戻し、その場からしばらく様子を窺うことにした。
 もし彼らが本当の親子だとしたら、早まって警察沙汰にすれば大変なことになる。
 子供は二歳か三歳といったところだろうか。
 艶やかな黒髪は短く、クリッとした大きな瞳がなんとも愛らしい。
 パジャマのような黄色いスエットの上下が、幼い子の愛らしさを際だたせている。
 男性が両手で頭上高く持ち上げていた子を地面に下ろしたとたん、小さな身体がよろけてしまう。
「あっ!」
 晃之介は思わず声を上げてしまった。
「しまった……」
 男性がすぐに子供の手を握り取って大事には至らなかったようだが、晃之介の大きな声に彼らがこちらを振り返ってくる。
「どうしよう……」
 ばつが悪い晃之介は、頬を引きつらせた。
「おとーたま、だーれ?」
 子供が興味津々といった顔つきで、真っ直ぐに指をさしてきた。
 幼い子には袴姿が珍しかったのかもしれない。
「あの人はこの神社の権禰宜さんだよ」
 その場にしゃがみ込んだ男性が、子供と目線を合わせて教える。
 子供に向ける瞳は優しく、先ほどの印象の悪さなど微塵もない。
 父親らしい振る舞いに、変質者ではないかと疑ってしまったことを申し訳なく思う。
 と同時に、「権禰宜」と正しく説明したことに驚いた。
 神社に仕える者は総じて神主と呼ばれてしまいがちだが、神職には職階というものがあり、神社の長を務めるのが宮司である。
 権禰宜は職階の下位であり、晃之介が身に着けている浅黄色の袴は、階級を現す色なのだ。
 神職に詳しい者であれば袴の色を見て職階がわかるが、一般的にはあまり知られていない。
 人を見た目で判断するのは間違ったことだが、男性は熱心に神社に参拝するようなタイプには見えない。
 それだけに、彼の口から「権禰宜」という言葉が出たことに対する驚きは大きかった。
「ごんねぎー?」
「そう、神さまにお仕えしているんだよ」
 きょとんとしている子供を、男性が目を細めて見つめる。
 表情ばかりか、声の響きまでが優しい。
 子供を愛しく思っているのが、その笑みと声から伝わってきた。
 少し話をしてみようかと思い、晃之介は彼らに歩み寄る。
「ご近所にお住まいなのですか?」
 これまで見かけたことがなかったのは、引っ越してきたばかりだからかもしれない。
 愛想よくしたつもりだったが、男性は口を開くことなく、しゃがんだまま真っ直ぐに見上げてきた。
 強く輝く黒い瞳に、思わず後じさってしまう。
 自分でもどうしてかわからない。
 瞳から放たれる強い力に押されたような感じだった。
「おなかすいたー」
「じゃあ、帰ってごはんにしよう」
 男性が子供をひょいと抱き上げ、その場に立ち上がる。
「お参りして帰らせてもらうよ」
「あっ……」
 向けられた柔らかな笑みになぜか返す言葉を失い、晃之介は黙って一礼した。
「ばいばーい」
 男性に抱かれた子供が、満面の笑みで無邪気に手を振ってくる。
「ばいばい」
 気を取り直して笑顔で手を振り返し、本殿に向かう彼らをひとしきり見つめてから社務所へと戻った。
「人懐っこくて可愛い子だったなぁ……」
 天真爛漫な愛らしい笑顔を思い出し、自然と顔が綻ぶ。
 可愛い盛りなのだろう。
 親子と接していたのはほんの短い時間でしかなかったが、我が子に接する男性からは愛が溢れていた。
 ほのぼのとした光景を目にしたことで、最悪だった第一印象が見事に覆されてしまった。
「そういえば……」
 社務所のドアを開けたところで、晃之介はふと足を止める。
 男性は鴉の雛について、まったく口にしなかった。
 嘘をついてまで、鴉の雛を手に入れようとしたというのに、もう諦めたのだろうか。
「あの子が飼いたいって言ったのかなぁ……」
 子供から鳥を飼いたいとせがまれたのかもしれない。
 とはいえ、ペットになる可愛い鳥はたくさんいるのだから、なにも鴉の雛を選ばなくてもといった思いがある。
「でも雛のこと……」
 雛の存在を知っていたのが、そもそもおかしいのだ。
 子煩悩な父親のようではあるが、やはり理解しがたいところがあって疑念が残った。
「あれ?」
 社務所に入って真っ先に段ボール箱を覗き込んだ晃之介は、慌ててあたりを見回す。
 段ボール箱の中にいるはずの雛がいないのだ。 
「どこにいるの?」
 社務所の中をくまなく探して回ったが、雛の姿は見当たらない。
「まさか」
 自分が社務所を出ているあいだにあの男性が忍び込み、こっそり雛を連れ去ったのかも知れないと、そんな考えが脳裏を過る。
 だから再度、顔を合わせたときに、あえて雛について触れてこなかったのではないか。
「でも、雛を隠せるような服じゃなかったし……」
 晃之介はあり得ないと首を横に振り、自らの考えを打ち消す。
 雛は小さいけれど、シャツやパンツのポケットに隠すのはとうてい不可能だ。
 ならば、いったい雛はどこに消えたのか。
 まだ飛べないとはいえ、歩くことはできるだろう。
 ただ、ドアもガラス戸も閉まった状態で外に出られるわけがない。
「おかしいよなぁ……」
 忽然と姿を消してしまったことに納得がいかない。
 それでも、雛がいないのだから現実を受け入れるしかない。
 二度までも狐につままれた気分に陥った晃之介は、解せない思いで空の段ボール箱を見つめていた。
 
  
             *****
  

 晃之介は両親と三人で夕食の席についていた。
 街中にある〈那波稲荷神社〉を家族三人で守る八幡家では、朝晩の食事はいつも揃ってとる。
 八畳の和室に置いた大きな座卓を囲む食事は、祖父母が健在のころから賑やかで、三人になってしまったいまもそれは変わらない。
 父の壱之介も母の千鶴子もお喋りで、テレビなどつけていなくても話題に事欠くことはなかった。
「ご神木から鴉の雛が落ちてきたって本当か?」
 晃之介が食事の途中でなにげなく聞かせた話に、壱之介が驚きの声をあげて目を丸くした。
「嘴まで真っ黒だったし、小さいなりにカァカァって鳴いてたから鴉の雛だと思うけど」
 箸を持つ手を休めて答えた晃之介は、軽く肩をすくめて父親を見返す。
「ついに鴉が姿を見せたか……」
 壱之介が神妙な面持ちで千鶴子と顔を見合わせる。
 なにか深刻な事態なのだろうかと、晃之介はにわかに不安を募らせた。
「どうかしたの?」
「ご神木に鴉が住み着いたときが、紅さまの力が尽きたときだと言われているんだ」
 壱之介が大きなため息をもらす。
 ご神木にはさまざまな言い伝えがあり、祖父母や両親からあれこれ聞かされてきたけれど、今の話は初耳だった。
「紅さまの力が尽きたらどうなるの?」
 晃之介は興味津々の顔で父親を見つめる。
 ご神木に住み着いた八咫鴉は、嘴が赤かったことから紅さまと呼ばれるようになった。
 人の姿になることもできると言われていて、遠い昔の人々は尊い神として崇めてきたのだ。
 その姿を目にした者は運気が上がるとも言われ、かつてはご神木参りが盛んに行われていたらしい。
 そうした風習も次第に廃れていき、いまではご神木のいわれを知る人も少なくなっているが、〈那波稲荷神社〉の守り神であることに変わりはない。
 その紅さまの力が尽きてしまったら、いったい神社はどうなってしまうのか。
 いずれ宮司になるつもりだから、やはりそれは気になるところだった。


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