書籍詳細
遊び人王子と捨てられ王子が通じ合うまで
| 定価 | 1,430円(税込) |
|---|---|
| 発売日 | 2026/11/13 |
内容紹介
私の全てを懸けてあなたを愛したい
王宮で蔑まれ孤立していたカガニア国の王子アレムは、ある日大臣から、ネイバリー国の王子ウィルエルに嫁ぐよう言いつけられる。驚きつつも話を聞くと、王子の遊び人ぶりと貞操観念の低さを危惧したネイバリーから、男の婚約者を求められたらしいのだ。言葉も分からず不安でいっぱいの中、ネイバリーでのパーティーに参加するが……婚約者候補は自分だけではなかった!? 選ばれるのかと緊張は募る一方なのに、ウィルエルはぐいぐい迫ってきて――「私の全てを懸けてあなたを愛したい」人気者のウィルエルが自分に本気になるはずがないと思っていたのに……。優しく抱きしめられ唇を奪われ、生まれて初めての感覚に心が湧きたってしまう――。何にも本気にならない軽薄王子×他国で一人奮闘する王子の、言葉の壁を乗り越える切なくも温かい愛。
立ち読み
プロローグ
海の向こうに行けば、今よりマシな生活になるだろうか――。
アレム・シャミーレは船の甲板から水平線を見つめていた。
周囲には陸地どころか船ひとつ見当たらない。海面は穏やかに凪(な)いでいるが、強烈な日差しで海の果ては揺らめいている。
祖国である島国のカガニアを出て五日経ったが、目的地のネイバリーまではあと二十日かかる。果てしない道のりに、アレムは小さくため息をついた。
ネイバリーが手配した船は、アレムと船員達合わせて二十名ほどを乗せて航海している。この人数を乗せるには充分すぎるほど立派な船だ。濃紺に白い鳥が描かれたネイバリーの国旗が船上でゆらゆらとはためいている。
カガニアの港にやって来たこの船は、国内で一番大きな貨物船とそう変わらない大きさだ。たかだか婚約者候補の一人を迎えに来るのにこんなに立派な船を寄越すとは、やはりネイバリーはカガニアとは国の規模が桁違いである。
アレムは改めて船全体を見渡した。すると船員の一人と目が合う。アレムを見つめていたらしいその人物は慌てて作業に戻っていった。こんな扱いには慣れている。
ひとつに括ったアレムの長い髪が海風に靡(なび)く。紫がかった銀色の髪は水面のようにキラキラと陽光を反射していた。
褐色の肌はカガニア人特有のものだが、アレムの輝く髪色と紫の瞳は国内でも珍しい。黒いまつ毛にくっきりと囲われた少し釣り気味の目は印象的で、アレムと目が合ったものは思わず目を逸らすことが多い。
もっとも、カガニアでアレムと目を合わせる者はほとんどいないのだが――。
「まったく、どうせ働かないんだから、部屋にいればいいものを!」
背後から飛んできた不快な声がアレムの耳に刺さる。振り返ると通訳として付いてきた小太りの中年男性がアレムを睨(にら)みつけていた。
彼の名はジャドと言い、毎日飽きもせずアレムに愚痴を浴びせてくる。まだ昼間だというのに、ジャドは瓶を手に酒をあおっていた。すでに相当呑んだのか、鼻は真っ赤で目は充血している。
「まったく……。王子の端くれと言ったって、母親は身分が低いし、その母親は死んだっていうのに働きもせずいつまでも城に居座って、世間知らずの王子様が羨ましいよ!」
アレムは表情ひとつ変えずにジャドを横目で見た。
アレムの母アミナは踊り子だった。その美しさで見そめられ、十八歳の頃に三十も年上の国王と結婚し、アミナは第四王妃となった。しかし財産目当てと騒がれ、身分が低いため他の王妃からは蔑まれ、アレムを産んで数年後、彼女は病に倒れ若くしてこの世を去った。
残されたアレムの周囲に味方はおらず、王宮内でアレムは息をひそめて生活していた。国王だけはアレムを可愛がっていたため、王宮から追い出されることはなかったが、アレムは父親である国王が好きではなかったし、居心地の悪い王宮から逃げ出したかった。
王宮内でアレムを見かけた者は見なかったふりをするか、罵(ば)詈(り)雑(ぞう)言(ごん)を浴びせてくるかのどちらかだ。
通訳のジャドは口から泡を飛ばしながらまだアレムの悪口を言っている。こんなときアレムにはお決まりの対処法がある。
目を閉じるように、心を閉じるのだ。
心に黒い布を被せるイメージをして、顔は相手の方を向いたまま少し焦点をずらす。すると相手の声がただの『音』になる。
キーキー、ザーザー。
何を言われても『音』なのでそこに意味などない。それはアレムの心には届かない。男の言葉をアレムはこうして聞き流した。
この船の船員は全員ネイバリー人で、カガニア語が分かるのはアレムとジャドの二人しかいない。それをいいことにジャドはカガニア語で言いたい放題なのだ。
ジャドが出す『騒音』が一息ついたタイミングで、アレムはジャドに背を向け部屋に向かう。
「せめて今回の役目くらいはきちんと務めて国の役に立つんだな!」と後ろでジャドが叫んでいた。
部屋に戻るとアレムはベッドの奥の丸い窓から海を眺め、国を出ることになった経緯を思い出していた。
航海に出る数週間前のこと、アレムは大臣に呼び出された。
アレムが呼び出されるのは国王から顔が見たいと言われたときくらいで、王族の会議もパーティーも、一切呼ばれたことはない。
それなのに大臣から突然の呼び出し……?
こんなことは初めてで、アレムはどうせ良くない話だろうと訝(いぶか)しんだ。呼び出しを無視すれば引きずってでも連れていかれるのは目に見えている。そのためアレムは仕方なしに、重たい足取りで大臣の執務室へ足を踏み入れた。
そこには大臣と秘書の二人が待っており、大臣はアレムが入っていくと書類を書いている手を止め立ち上がった。
彼はジロリと飛び出した目でアレムを見つめ、口(くち)髭(ひげ)に手を当てる。
「単刀直入に言うが、ネイバリー国の王子に嫁いでこい」
アレムは耳を疑った。
「は……? 王子……? 嫁ぐ……!?」
大臣はアレムの混乱をよそに話を続ける。
「ネイバリーの第二王子が男の婚約者を探しているそうだ。何でも大変な遊び人で手をつけられないから早々に男と結婚させようとしているらしい。ネイバリーは婚外子に王位継承権はないからな」
必死に大臣の言葉を噛み砕くと、おそらくネイバリーに貞操観念の低い王子がいて、ネイバリー国としてはあちこちで子どもを作られることを危惧している。そこで子どもができないよう、万一よそで作ったとしても継承権争いを起こさないよう、男と結婚させようとしているということか――。
アレムはあんぐりと口を開いた。
同性婚はカガニアでも稀(まれ)に見るが、王族が同性婚というのは聞いたことがない。海外では一般的なのだろうか? それ以前に、アレムはまさか自分に結婚の話が舞い込むなどと夢にも思っていなかった。国王が退位すればいつか王宮の外に放り出される運命だと覚悟していたのだ。
「カガニアの資源を守るため、ネイバリーの力を借りたいという我が国の意向だ。国の使命として必ず婚約者の地位を手に入れてこい」
アレムは黙って話を聞いていた。
資源、というのはおそらく昨年カガニア近海で発見された海底鉱石のことだろう。この鉱石は熱や光を取り出せることから世界中で発掘が進められている。
カガニアは海に浮かぶ小国であり、一番近い大陸まで船で二十日はかかる。閉鎖的な国柄であるため、他国との貿易などの交流はほとんどない。輸出できるほどの資源がないカガニアに積極的に介入しようという国はこれまで特になかった。
しかし海底鉱石の発見により、孤立していたカガニアという島国に強国達が目の色を変えて近づいて来るようになった。カガニアから北西に二十日航海して辿り着くアイワン国と、反対側の北東へ二十五日航海して辿り着くネイバリー国は世界一、二を争う大国で度々衝突を繰り返している。
小さな島国が生き残るにはどちらかに与(くみ)するのが確かに得策だろう。タイミングよく婚約者探しの話が舞い込み、カガニアはそれに飛びついたということか。
国としては受けない手はない話だろう。しかしアレムは今まで一歩も海外に出たことがない。言葉も分からない国に追い出されることが自身にとってよい話と言えるのか。それに同性と結婚させられようとしているというネイバリーの王子はいったいどんな人物なのか。本人はいったいどう考えているのだろう。
戸惑ったところで拒否権などないことは分かっているので、アレムは奥歯をぎゅっと噛んで感情を押し殺した。
「まぁ、お前にピッタリの役目だと思うぞ。このままここにいたって将来はないし、見た目くらいしか取り柄がないからな」
大臣は口髭をなぞりながらアレムを下から上まで舐めるように眺めてくる。
不(ぶ)躾(しつけ)な目線に不快感を露わにしないようアレムは視線を逸らした。
カガニアにとってはアレム以上の適任はいないだろう。体よく王宮から追い出し、更にはネイバリーの支援を期待できるのだから。
アレムはカガニアでの生活を思い起こす。狭い小屋に押し込められ、食事も満足にできず、冷遇される日々……。
ひょっとすると大臣が言うように、このまま一生カガニア王宮の亡霊のように生きるよりはいいのかもしれない。
どちらを選んでも苦しいのならこのまま流れに身を任せてしまおうか。母がいれば反対してくれたかもしれないが、その母親はもういない。
大臣と秘書は「分かったか?」と言いたげな顔をアレムに向けている。
「……分かりました」
アレムが絞り出したその声に、大臣は満足気な顔で頷いた。
こうしてアレムは異国の王子の元へ婚約者候補として赴くことになったのだった。
◇◇◇
カガニアの王子が男の婚約相手として送り込まれたとして、果たしてどういう扱いを受けるのだろうか。歓迎されるなどと浮かれていたら痛い目を見るかもしれない。
アレムはできるだけ心を波立たせないよう、期待も不安も押し込めていた。
騒がず、目立たず、逆らわない。
母が死んでからアレムはそうやって空気のように生きてきた。
向こうに着いたら婚約者候補を集めたパーティーに参加することになっている。お供はジャドただ一人である。
――自分以外の王族だったら、きっとたくさんの使用人がお供したんだろうな。
海に向かってアレムは自嘲した。
長い船旅は数日もすれば退屈で仕方なくなっていた。
アレムは本を読みたかったが、読んでいるとどうしても酔ってしまう。そのため、少し本を読むと気分が悪くなり甲板へ出る、というのを毎日繰り返していた。
ジャドとは必要最低限しか接触しないよう気をつけている。十数名いる船員達はジャドとはよく会話しているが、アレムには話しかけてこない。ジャドがあることないこと吹き込んでいるのかもしれない。どうせ言葉が分からないし、何を話せばいいかも分からないのでその点アレムは気が楽だった。
数日後、甲板で風に当たっているとまた運悪くジャドに出くわしてしまった。
「これから国家をかけた会合だというのに毎日ぼーっとして呑気なもんだ。そうそう、お前が嫁ぐ予定のネイバリーのウィルエル王子についていろいろ聞いておいてやったぞ」
アレムは別に何も頼んでいないが、ジャドは得意気に言ってくる。
ウィルエル王子のことは大臣から聞いた「遊び人らしい」ということと、「四つ歳上」という情報しか知らない。
あれこれ勝手に期待しないよう、アレムはウィルエル王子がどんな人物かは考えないことにしている。
「ウィルエル王子はとてつもない美丈夫で、美しいものが大層好きなんだと。男女問わず美しければ誰でも相手にするらしい。更に顔だけじゃなく何でも器用にこなすって話だ。男も女も社交界ではウィルエル王子に取り入ろうと毎日大騒ぎだってよ」
噂なので誇張されているのだろうとアレムは適当に聞き流した。
「カガニア人をお気に召すかは分からんが、ネイバリー国としてはこの縁談にかなり前向きらしい。やはり海底資源が欲しいんだろう。アイワンに出し抜かれるわけにいかんしな。お前がよっぽどヘマをしない限りこの話は上手く行くはずだ。ウィルエル王子がどう思うかはさて置いて、向こうもこっちも国同士の利害が一致している。まぁ王族の結婚だから、気持ちがどうとかそんなことはどうでもいいしなあ」
カガニア王宮の人達のために何かするなどまっぴらごめんだが、アレムが上手くネイバリーに取り入らなければアイワンなどの強国がカガニアに攻めてくる可能性がある。生まれ育った故郷が戦火に見舞われるのは避けたい。そうならないためにも、自分ができることならばやり遂げるしかない――。
アレムは婚約というより仕事として契約を取ってくるような心積りだった。アレム自身、この結婚に気持ちなど関係ないことは分かっている。
ひとしきり話を聞かせても何の反応も見せないアレムにジャドは舌打ちを浴びせた。
「それにしてもお前は本当に無口だな。顔の割に愛想はないわ取り柄もないわ、その上実績も人気もないときた。つまらん奴だ。どうせ付き人をやるんならミシュアル様が良かったよ」
ミシュアル――――。
その名を聞いてアレムはビクッと震えた。
ミシュアルは第二王妃の息子でアレムの七つ年上の異母兄である。態度は悪いが格闘技の実力と恵まれた容姿を持つ自信家で、若手の王族の中で最も人気がある。王宮の内外を問わず国内で彼に取り入ろうとする者は多い。
『お前なんか相手にされると思うなよ』
アレムの脳裏にミシュアルの顔と言葉が浮かんだ。
押し倒され、飛んでくる拳。冷酷な瞳。繰り返される痛み――。
『ネイバリーが求めているのはお前じゃない。カガニアの資源だ。くれぐれも勘違いしないことだな。お前はただのオマケだ。お前が必要とされることなんてない。絶対に』
分かっている。
『この淫売が。母親と同じように誑(たぶら)かせると思うなよ』
髪を掴まれ、服を裂かれ、早く終われと願うあの時間。ミシュアルの顔、体、匂い、全てがアレムの脳裏にこびりついており、名前を聞くだけで容易く記憶が呼び起こされる。息が苦しくなり鼓動が体内を打つ。
「ミシュアル様は女に媚びないし、ウィルエル王子と正反対だな! 他人にも厳しいが自分にはその何倍も厳しいストイックなお方だ。お前も少しは見習え!」
ジャドの声を追い出そうとしても、ミシュアルという単語が響いてくる。
胃からせりあがってくるものを感じ、アレムはよろよろとその場を離れた。ジャドはまだ何やら叫んでいるが気にしていられない。ジャドが見えなくなる所まで移動すると、船の手すりにもたれかかった。
「分かってる……」
自分を必要とされる場所がないことなど。たとえ婚約できても、この穢(けが)れた自分を愛してくれるはずがないことも。
目線の先には深い深い濃紺の海が広がっている。波は船に切り裂かれて、白く泡立っては消えていく。
このまま、落ちてしまおうか――。カガニア国は困るかもしれない。けれど悲しむ者はいないだろう。ネイバリー国はどうだろうか。違う人を寄越せと言うかもしれない。
海に吸い寄せられるように、手すりに体重をかけたそのときだった。
ピィ――――ッ
という鳴き声と共に、アレムの目の前を白く大きな何かが横切った。
アレムは仰天して後ろに尻餅をついてしまう。
通り過ぎた方に目をやると、それは巨大な鳥だった。遠くに行ってしまったのではっきり分からないが、幼児くらいの大きさはあるだろうか。鳥は天高く頭上へ舞い上がり、その白い羽が太陽光を反射して七色に輝いて見える。
このように美しく煌(きら)めく鳥を見たのは初めてだ。鳥が飛んでいった方向を目で追うと、彼方に陸地があるのが見えた。
「ネイバリー!」
向こうにいた船員達が陸地を指差し叫んだ。口笛を吹き、手と手を叩き合い喜んでいる。
――そうか、あれがネイバリーか。
まだうっすらとしか見えないが、カガニアの比ではない大きさなのが分かる。
もうここまで来てしまったのだ。やるだけやってみよう。
自分の居場所があるかは分からない。けれどこんな自分でも国民の役に立てるなら、生まれてきた意味があったと思えるかもしれない。もし無理だったらそのときは消えよう。
それから三日航海を続け、アレムは決意を胸にネイバリーに上陸したのだった。
第一章 通じない二人
港に着くとアレムとジャドは迎えに来ていた馬車に乗せられた。
少し走るとすぐに人通りの多い道に入り、馬車が石畳の上を軽快に音を立てて走る。
アレムはまず人の多さに驚き、建物の高さ、居並ぶ様々な店、道の綺麗さに密かに感嘆した。
そもそもアレムは母が亡くなってから王宮の外に一歩も出たことがなかった。母が生きていた頃は、母と一緒にお忍びで買い物に出かけたことが数回あったが、アレムにとっての外の記憶はその数回のみだ。
カガニアの街中は埃(ほこり)っぽく、路地裏に目をやると、ぼろぼろの服を身に纏(まと)った子どもがじっとこちらを見ていることもあった。けれど母の手をずっと握り、いろいろな店に並ぶ果物や文房具を恐る恐る手に取っては戻す、それだけでとてもワクワクした。母も穏やかに笑っていて、アレムは心が弾んだのだった。
母が亡くなってからは城に閉じ込められ、誰にも構われず、そびえ立つ外壁を城の中から眺めては外の世界を想像していた。いつしか外のことを考えることをやめ、アレムは一生壁の中で生きるものと思うようになっていた。
こんな形で壁の外に出て、しかも海外の大きな街にやって来られるとは、夢にも思っていなかった。
目に入るもの全てが新鮮に映る。
子どもの頃のカガニアの街の記憶と比べて、目の前の通りは実に色鮮やかだ。生花店、衣料品店、宝石店にレストラン……。行き交う人々は活気が溢れている。
アレムは窓から片時も目を離せない。
今後も街に出る機会はあるだろうか……、と一瞬考えたが、アレムは慌ててその考えを振り払う。
遊びに来たわけではないのだ。この風景を目に焼き付けておこう、とアレムは窓に顔を近づけた。
馬車にはアレムとジャドの二人だけが向かい合わせで乗っている。二人で乗るには充分すぎるほど広い空間だが、ジャドはアレムが無反応なのも気にせず、騒がしい声でずっと喋(しゃべ)っている。
「この先に時計台があって……、あれ、違った……。そうそう、あっちだった。あの角の店で菓子を買ったんだ。すごい有名店で……あれ、ないな……流石(さすが)にもう潰れたか」
ジャドは十数年前に一度ネイバリーに来たことがあるらしい。いかにも知った風に街の説明をするが、言っていることはほとんど当てにならない。
アレムはジャドの声を耳から遮断して、目だけで街の様子を楽しんだ。
数刻走るとレンガの高い壁が現れ、馬車は迷わずそこに近づいた。壁沿いをしばらく走ると巨大な門が開かれており、馬車はその門をくぐってどんどん進んでいく。門の向こうはこれまでと打って変わって人がほとんど見当たらない。遠くに木々や湖が広がり、芝生が青々と茂っている。
ジャドは「ネイバリーにもこんな田舎があるんだな」と馬鹿にしたように笑ったが、アレムは緑溢れる穏やかな情景に目を奪われた。
途中、羊が放牧されている場所もあった。そのうち、植え込みが整然と並んでいる庭園のような所を通り、咲き乱れる色とりどりの薔薇が馬車の中まで香ってくる。
薔薇園を抜けると、大きな噴水の向こうに巨大な建物が現れた。それは尖った屋根がいくつもそびえ立つ荘厳な城だった。
アレムは目を丸くしてその建物を見上げる。建物の入口で馬車が停まり、外から馬車の扉が開かれた。かっちりとした服装の使用人らしき男女が数名、扉の外で頭を下げている。
間違いない、ここがネイバリー城だ。ジャドが“田舎”と評した道のりは、ネイバリー城の庭だったのだ――。
アレムがちらりとジャドを見ると、彼は気まずそうにそっぽを向いた。
馬車から降りると、使用人と思われる男性が近づいてきてアレムが持っている荷物に手をかけた。
アレムの持ち物は大きな革のトランクひとつだけである。カガニアにあるアレムの持ち物全てを詰めてもこれだけだった。
男性はアレムに何か声をかけてくれたが、ネイバリー語なので分からない。恐らく「お持ちします」とかそういう言葉のようだ。ジャドは通訳どころかアレムの方に見向きもせず城を眺めている。
男性がトランクの持ち手を握ってきたのでアレムは手の力を緩める。しかし、トランクはずしんと地面に落ちてしまった。
男性は驚いた表情でしっかりと握った持ち手を見つめ、次にアレムを見た。彼はトランクを持ち上げようとするがびくともしない。
「重たいので結構ですよ」
アレムは通じないとは思ったが、カガニア語で伝え、持ち手に手をかけると軽々と持ち上げた。
アレムは人より多少力が強いらしく、子どもの頃からこういうことはよくあった。
このトランクはアレムでも割と重たいと思っていたので、ここまで全て自分で運んできた。
慌てた様子で数名が付いてきたが、アレムは気にせず案内される方へ歩いていく。
一方のジャドは、その後ろで自分の荷物を全て使用人達に持たせていた。
ジャドと共に通された部屋はとても豪(ごう)奢(しゃ)でアレムは落ち着かない。
カーテンや机などの調度品はどれも重厚で煌びやかな細工が施してある。カガニアも王宮内はある程度豪華な物が揃えてあるが、それよりも数段質が良いように見える。
使用人達は立ち去る前にジャドに何かを伝えていった。ジャドが時間を叫んでいたので、パーティーの時間について話しているようだった。ジャドは部屋を出る時間をアレムに伝えると、ソファに座り用意してあったお茶を飲んで寛ぎ始めた。
どうやらパーティーまで一時間ほどしかないらしいので、アレムは慌てて部屋の隅の、ジャドから見えない所で支度を始める。
一応、それなりの正装は持たされている。白地に金の縁取りがされている長袖の上着は太もも位までの丈があり、両サイドは腰までスリットが入っている。足首が絞られた濃紺のズボンをはき、腰に上着と同じ素材の太い布を巻きつける。その上からさらに紺と金の組紐を結ぶ。正式な結び方があるはずだが教わったことがないので、とりあえず解けなければいいだろうと思い、二回片結びにして先端のタッセルを垂らした。
元々アレムはほとんど服を持っていない。母は自分の死後のアレムを心配して、成長しても着られるサイズの服を数着残してくれていた。普段はその服だけを大切に着ていたし、今日着てきた服も、持ってきた服も母がくれたものだ。
一方今着ている服は出国前に大臣から正装として手渡されたものだ。正装をするのは母の葬式以来である。
暗い気分に引きずられそうになり、アレムは小さく深呼吸をして気持ちを立て直した。
着替えを終わらせると、姿見の前に移動して全身を確認してみる。この正装はアレムの持っているどの服よりも上等だが、よく見ると小さな橙色の染みがいくつか付いているし、刺(し)繍(しゅう)がほつれている箇所もある。
アレムは自分が汚れた服を着ること自体は気にしていない。けれども、国の命令で出席する大切なパーティーだというのに、アレムに綺麗な服を渡すのを嫌がる王宮の人々の狭量さには辟(へき)易(えき)した。
ただそれよりも、アレムはこの服を着るのがとても嫌な理由がある。
「その服、昔ミシュアル様が着てなかったか?」
ソファからジロジロとこちらを見ていたジャドが口を開いた。深いため息が出そうになり、ジャドにばれないよう深呼吸に変える。
ふーっと息を吐き切ると鏡から顔を逸らした。
そう、この服はミシュアルのお下がりなのだ。彼が十代の頃この服を着ていた姿を見たことがある。本当はあの男が着た服など着たくなかったが、渡された服がこれだったので仕方がない。
「ミシュアル様ほどの気品はないが、馬子にも衣装というか、まぁそれなりには見えるな。服をお譲りになるとはミシュアル様はなんと慈悲深い。そんな良いものを身につけてるんだから、しっかりたらし込んで来いよ」
アレムはうんざりした。この服だって、ミシュアルが自分で譲ったわけではないだろう。好き放題汚して、汚れが取れないから使用人が捨てようとしていたのが残っていたとか、きっとそんなところだ。しかし服に罪はない。そう考えて心を落ち着かせる。
鏡に映った自分を見つめ、少しでもウィルエル王子にいい印象を与えられるだろうか? と自問した。
確かジャドは「王子は美しいものが好き」と言っていた。アレムは自分の容姿に関しては正直よく分かっていない。母が美人で評判だったことは知っていて、よく「母にそっくりだ」と王宮でなじられた。さらに大臣には「見た目くらいしか取り柄がない」と言われたことがある。
つまりそれなりに悪くはないはずなのだが、かと言って誰かに好意を寄せられたことはない。それに人の美醜など主観的な評価なので、アレムは自分がウィルエルに美しいと思ってもらえるという自信を持てないでいる。
また、アレムはどうしても体を見られたくない。自分の体を汚く穢らわしいものだと思っているのだ。
婚約したら体の関係を持つのだろうか。避けられないのならできる限り先がいい――。
アレムは両腕で自分の体をギュッと抱えた。
国同士の利害を優先して婚約相手を選んでもらえなければ、これまで交流のない小国の王子などかなり厳しい立場だろう。しかし、もし婚約できなければその後の自分の立場はどうなるのか――。
アレムは鏡の中の自分の暗い瞳を見つめた。
ほどなくしてノックと共に使用人が現れ、アレムは会場へ移動した。到着したのは広々としたホールで、見事なシャンデリアがいくつも天井から吊り下がっている。
テーブルに用意された色とりどりの食事はどれも初めて見るものだ。会場内はすでに賑わっており、グラスを持った人々が軽食をつまみながらホールを行き交っている。
アレムとジャドが場内に足を踏み入れると、一斉に視線を浴びた。
アレムの踏み出した足が強張っていると、ジャドが後ろからボソボソと耳打ちしてくる。
「カガニア人が珍しいんだろう。山から猿が降りてきたとでも思っているに違いない。不躾に見てきて失礼な奴等だ」
確かに、会場内にアレムと同じような褐色の肌をもつ人はいないようだ。
男性は装飾の多いジャケットやガウン、女性は大きく裾が広がったドレスが多い。
自分達は明らかに浮いている。
注目を浴びて居心地が悪く、アレムはどこかに隠れたくなった。
急に服の染みやほつれがとても恥ずかしくなり、胸元の染みができるだけ見えないようにキュッとその部分を握りしめる。
周りを見渡すと着飾った男女は皆煌びやかで、そういえば装飾具を何も渡されていないことに気がついた。
カガニアでは男性も正式な場では腕輪や指輪、首飾りを多く身につける。きっとケチってアレムには何も渡さなかったのだろう。
自分がとてもみすぼらしく思えて、早くここから逃げ出したい気持ちになる。
ざわざわと聞こえる場内の喧(けん)騒(そう)は、アレムを嘲笑っているように感じた。
給仕係に飲み物を勧められたが、手を伸ばす気力もなく、グラスに入った淡い黄色の液体が何か分からないので一歩下がって辞退する。
ジャドは「金遣いの荒い国だな」などと言いながら食べ物を貪っている。その無神経さがここでは少しだけ羨ましかった。
アレムの周囲は人々が入れ替わり立ち替わりやって来て、こちらを見ては何かヒソヒソと話をしている。
カガニア人は確かに珍しいのだろうが、こんなにも好奇の目に晒(さら)されるとは思っていなかった。
アレムは早くも会場の空気に呑まれてしまい、俯(うつむ)いて小さくなっていた。
所在なく視線を泳がせていると、突然前方の入り口付近からワアッと歓声が上がった。
周りから「ウィルエル」、「ウィル」という単語が聞こえてくる。
「ようやく主役のお出ましか」
隣で骨付き肉を齧(かじ)っているジャドが呟いた。
目を凝らすと、金髪碧眼の王子が人だかりの中心に立っている。
おそらくあの人物がウィルエル王子だろう。
肩章の付いた襟の高い水色のジャケットを着ている。右腕に金の腕輪をつけているのが見えるが、顔はこの距離でははっきりしない。
彼は男女問わず寄ってくる人々の手を握り、頬にキスをしている。肩を抱き寄せたり、耳元で囁(ささや)いている様子も見えた。触れ合った人達は一様に頬を染め、熱い視線を金髪の王子に送っている。
ある程度予想はしていたが、かなり距離感の近い人物のようだ。
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