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獅子王太子は死に戻り公女を運命から救いたい

東万里央 / 著
夜咲こん / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/09/30

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内容紹介

俺の腕の中で咲いてくれ
若くに婚約して以来、一途に尽くしてきた夫から婚姻無効を告げられた公女・レティシア。死の淵で、夫に手ひどく扱われては命を落とす人生を何度も繰り返していることに気づく。また同じ絶望を味わうの? そう思った瞬間、昔なじみで近隣国の王太子・フェルナンドが現れ、助けてくれて…? 惨めな立場の自分と違い、フェルナンドは会わない二年間で立派に成長していた。どこにも帰る場所のなかったレティシアは、一人で生きていくことを決めたけど——。「聖女のような顔で、こんなに淫らな女だったなんて」積年の思いを深くまで刻みつけれ、初めて人から愛される悦びに身体は打ち震えて…。

立ち読み

プロローグ

 シュタイア帝国ザッツグルン宮殿の客間の一室。
 窓の向こうの濃い夜の闇から、明るく軽やかな円舞曲(ワルツ)が聞こえてくる。今夜の祝宴に招待された人々が大広間でダンスに興じているのだろう。何せ新たに皇后となったエミリアのお披露目会でもあるのだ。めでたいことだと夜通し踊り狂うに違いない。
 決して今日十六歳となったばかりのカールの元妻にしてシュタイア帝国元皇后、レティシアのための祝宴ではなかった。
 レティシアの元夫、カール・ステファン・フォン・エティションは半年前、前皇帝の崩御(ほうぎょ)と同時にシュタイア帝国皇帝に即位した。
 いや、すでに教皇に二年間の婚姻は無効とされているので、元夫ですらなく、赤の他人と言った方が正しい。そんなカールがレティシアに掛ける情などないのは当然である。
 ベッドの縁に腰掛けたレティシアは、今度は夜空に浮かぶ欠けゆく月を見上げた。
(今夜の月はまるで私のよう。いいえ、月は一度満ちたことがあるわ。だけど、私は始めから終わりまで欠けたままだった……)
 弱々しい月光がレティシアのプラチナブロンドの腰まで伸びるくせのない髪と、煙(けぶ)る睫(まつ)毛(げ)に取り囲まれたサファイアブルーの双眸(そうぼう)、人形のように整った美貌を照らし出す。
 ネグリジェに包まれたその体はほっそりとしていながら、胸元は豊かな乳房で押し上げられていた。袖から伸びた腕は柔らかな線を描き、指先は百合の花弁さながらに小さく細く可(か)憐(れん)である。完璧な美しさゆえに人形めいているほどだ。
(私、カール様の妻でも皇后でもなくなって、これからなんのために……誰のために生きていけばいいの……?)
 もはやレティシアに注意を払う者はないというのに、表情を隠すために顔を伏せ、声を押し殺して肩を震わせる。
 妃(きさき)たるものは感情的になってはならない。いつ、どこにいようと人の目を集めることになるので、常に理性的に、かつ社交的に、だが毅(き)然(ぜん)と振る舞うべきである──そう教育されてきたからだ。レティシアはそれ以外の生き方を知らなかった。
 そのまま孤独に泣き続け、悲しみに気を取られていたからだろうか。寝室の扉が何度か叩(たた)かれ、鍵を開けられたことにも気付かなかった。
 しかし、さすがにでっぷり太った中年男性が押し入ってきた時にはぎょっとした。
「な、何者です!?」
 招待客の貴族の男性なのだろう。酔って自分に割り当てられた客間と勘違いしたようだ。
 男性も不思議そうに首を捻(ひね)っていたが、やがて「ああ、そうか」と手を打った。
「さすが皇帝陛下だ。太っ腹でいらっしゃる。美女を用意してくださったんだな」
 その言葉ですぐに娼(しょう)婦(ふ)だと勘違いされたのだと気付いて屈辱に肩を震わせる。
「違います。私は……!」
 だが、否定し、抗議する前に乱暴にベッドに押し倒された。自分の三倍はありそうな巨体に伸(の)し掛かられ身動きが取れない。
「や、止めてください!」
「そう、もっとおぼこみたいに嫌がってくれ」
 ネグリジェを胸元から引き裂かれ、シュミーズが露(あら)わになり全身が強(こわ)張(ば)る。恐怖で喉が引き攣(つ)って悲鳴すら上げられない。
「あんたプロだろ? もっと俺好みに泣き叫んでくれよ。うん、いい乳してるなあ」
 シュミーズ越しに胸をぐっと掴(つか)まれ、さすがに「痛っ」と小さく叫ぶ。
「や、止め……止めてください。お、お願いです……」
「そうそう、その調子だ」
 首筋に口付けられ、その悍(おぞ)ましい感触と酒臭い吐息に肌が粟(あわ)立(だ)つ。
 レティシアはなんとか力を振りしぼり、「止めてっ!」と涙目で男性の頬を引っ掻(か)いた。悲鳴とともに男の肌に赤い傷が走る。
 ところが、追い詰められたレティシアの必死の抵抗は、男性の欲望を削(そ)ぐどころか怒りに火を付けてしまったらしい。
「おい……。何すんだ。お客様を馬鹿にするんじゃねえぞ」
 レティシアの細く白い首に男性の手が回され、肌にぐっと野太い指が食い込んだ。
 華奢(きゃしゃ)な体が弓なりに仰(の)け反る。
「……っ」
 気道だけでなく頸椎(けいつい)まで圧迫され、窒息死する前に首を折られてしまいそうだった。頭を横に振って逃れようとしたのだが、男性と女性の圧倒的な力の差を覆せるはずがない。
 目を見開いているはずなのに、視界が瞬く間に闇に閉ざされていく。
(私、こんなところで死んでしまうの?)
 どこの誰とも知れぬ男の手に掛かって──
 絶望の漆黒に心が塗り潰され、生と死の狭(はざ)間(ま)に意識が潜(もぐ)り込み、暗く冷たい死の側に向かって行く。
(そして、また繰り返すの……?)
 こんな思いをするのはもう嫌だと前も思ったのに、またカールに裏切られ、死に追いやられる羽目になるのか──
(そう……そうだった。私は……)
 レティシアは自分をくびり殺そうとする男性の濁(にご)った目の中に、前の生でも惨めに死を迎えた自分の幻を見た。
(私、前にもこうして惨めに死んでいる。そして、死を迎えるたびに生き返って……いいえ、死に戻って人生を繰り返している)
 一つ前の生ではやはり婚姻を無効とされ、その後紆余曲折あって野盗に襲われて死んでいた。
 レティシアは十六歳で死んだ時点ですべての記憶を失い、どういうわけかカールに嫁いだその日に遡(さかのぼ)り、似たような人生を繰り返していたのだ。今生でもう七度目になり、毎回死の際にその事実を思い出す。
 消したくても決して消えない、魂に刻み込まれたいくつもの人生の記憶が、レティシアの脳裏で目まぐるしく回転する。同時に、闇に覆われていた視界と全身が眩(まばゆ)い光に包み込まれる。夏の盛りの陽(ひ)の光よりもはるかに強烈な、すべてを浄化する黄金の光だった。
「な、んだ、これはっ……」
 男の目が焼かれたのか、その手に込められた力が緩む。
 一方、レティシアは眩い光の彼方(かなた)に、厳しくも慈悲深い眼(まな)差(ざ)しで自分を見つめる、一頭の巨大な黄金の獅子(しし)の幻を見た。そして――
「──何をしている!」
 聞き覚えのある低くてよく通る声が客間を貫く。途端に黄金の閃(せん)光(こう)は掻き消えてしまった。
 レティシアの首に掛けられていた手の力は更に緩み、同時に、体から重みが取れ呼吸ができるようになった。
 涙目で激しく咳(せ)き込み呼吸を整えていると、今度は「この下郎が!」と怒声が響き渡ったのでビクリとした。
 長身痩(そう)躯(く)の長い黒髪を一つに束ねた青年が、中年男性の胸倉を掴んで持ち上げている。いくら男性とはいえ凄(すさ)まじい腕力だった。
(あ、あの方は……)
 シュタイア帝国には男性が髪を伸ばす習慣はない。だが、大陸南西にある半島国家にして海洋国家、レイリア王国の王族だけは髪を長く伸ばしていた。そして、現在ザッツグルン宮殿に出入りでき、すべての条件に当てはまる男性はたった一人しかいなかった。
「フェルナンド様……?」

第一章「過去」

 まだレティシアがほんの十二歳だった頃。
 その日も北方シュタイア語の敬語を間違えてしまった。次の瞬間家庭教師の目がギラリと光ると、同時に鞭(むち)が飛んできて手の甲に鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
「レティシア様、何度申し上げればよろしいのでしょうか? そこは『ドゥ』ではなく『ズィ』です。皇太子殿下を、未来のご夫君を気安く呼ぶなど有り得ません」
「ごっ……ごめんなさいっ……」
「ごめんなさいではございません。申し訳ございません、でございます。私を家庭教師だと考えてはなりません。あなた様がこれから向かう先はシュタイア帝国の宮廷。ご夫君となるのはシュタイア帝国皇太子殿下なのですよ」
「ごめ……申し訳ございません」
 いくら軽く打たれるのであっても、毎日繰り返されているせいで、まだ幼さの残るレティシアの手の甲から腫れが引くことはなかった。
 それでも、もう止めたいなどと泣くことなどできなかった。これくらいたいしたことはない。自分にしかできないことなのだから、耐えねばならないと唇を噛(か)み締めて痛みに耐える。
 数年後にはシュタイア帝国の皇太子カールに嫁ぐことになるのだ。国のためにも、父のレオン大公のためにも是が非でも習得しなければならなかった。
 レオン公国は二ヶ国の列強、シュタイア帝国とアビレス王国の中間にある小国だ。いずれの大国とも国境を接している。
 そうした地政学上、ライバル国である列強二ヶ国の緩衝地帯となり、ゆえにたびたび紛争に巻き込まれ、国も民も疲弊し切っていた。
 そんなレオン公国を支配下に組み込むのを狙って、シュタイア帝国は同盟を持ち掛けた。そして、同盟の証(あかし)として帝国の皇太子カールとレオン公国の公女レティシアの政略結婚を提案したのだ。
 当時レティシアは十二歳。嫁ぐにはあまりに幼すぎた。
 それでも、シュタイア帝国側としてはアビレス王国への牽制(けんせい)のために、早急に婚姻関係を結んでしまいたかったので、レティシアを十四歳までには嫁がせるよう命じた。
 同盟といっても列強と小国、力関係は歴然としている。
 レオン公国はシュタイア帝国の要求を呑(の)まざるを得ず、ほんの子どもに過ぎなかったレティシアに、大人でも音(ね)を上げそうな厳しい妃教育を施すしかなかった。
 シュタイア帝国側から送り込まれた家庭教師陣は、帝国宮廷での皇太子妃としての立ち振る舞い、習慣、マナーのすべてを心身に叩き込んだ。
 食事と休憩の時間以外はすべて授業となり、レティシアに自由な時間は与えられなかった。
 レティシアは自分が特別優秀ではないことを知っていた。どうしても一度では覚え切れない。だから、努力で凡庸さを補うしかなかった。
 伏せていた目を上げ、家庭教師を真っ直ぐに見つめて、「もう一度お願いします」と頼む。
「次はちゃんと話します」
 自分の不出来は父の恥ともなる――そう思うと手を抜いてなどいられなかった。
(それに……頑張ればお父様はきっと褒めてくださるもの)
 父に「よくやった」と言われることだけがレティシアの心の支えとなっていた。
 レオン大公は亡くなったレティシアの母に代わり、若く美しい後妻を娶(めと)り、レティシアにとって異母弟となるアーダルベルトが生まれたばかりだった。その分レティシアに向けられる愛情はあからさまに減っていた。
 一度庭園で父と継(まま)母(はは)が木陰の下の長椅子に腰掛け、異母弟を可愛(かわい)がっているのを見たことがある。
 赤ん坊を抱いた継母は聖母のようで、その横で赤ん坊の頬を擽(くすぐ)る父が寄り添う姿は、聖家族を描いた絵画に見えた。完璧に幸福な光景であり、そこに他者の――レティシアの付け加わる余地などなかった。
 弟は跡継ぎなのだから仕方がない──レティシアはそう自分に言い聞かせていたが、家族の中で一人だけ異分子である寂しさが日ごとに募っていった。
 シュタイア皇太子妃に相応(ふさわ)しい公女となれば、父に褒めてもらえるかもしれない。あの輪に入れてもらえるかもしれない――そう期待して一層妃教育に励んだ。
 その後一年を掛けてシュタイア帝国の公用語である北方シュタイア語を、ほぼ現地人並みに話せるようになったのも努力のたまものの一つだろう。
 当初厳しかった家庭教師はレティシアのできばえを褒め称(たた)えた。
「まあ、レティシア様、母国語をお話しのようにしか聞こえませんわ」
「ありがとうございます。先生、でもまだ発音に不安なところがあるので、もう少しレッスンをしていただきたいのです」
 血の滲(にじ)むような努力の結果、北方シュタイア語を習得できたことが嬉(うれ)しく、また、父に褒めてもらえるのではないかと胸が弾んだ。
(早くお父様に報告したいわ。なんて言葉をもらえるのかしら)
 うきうきした気持ちで執務室へと向かう。侍女に扉を開けてもらう際には少々緊張した。
「レティシアか。どうした」
「あ、あの、私、北方シュタイア語を話せるようになったんです」
 親子なのだがつい敬語になってしまう。これがレティシアとレオン大公との距離だった。
 レオン大公は書類にサインをする手を止めた。
「そうか。よくやった」
 短いがレティシアには十分な褒め言葉だった。
 だが、喜びに膨らんだレティシアの心は、間もなく呆(あっ)気(け)なく割れることになる。
「閣下、失礼いたします」
 扉が叩かれ継母付きの侍女が現れた。
「どうした?」
「はい。ご報告に参りました。アーダルベルト様が初めて歩かれまして」
 レオン大公の厳格な顔付きがみるみる緩む。
「そうか! 歩いたか! アーダルベルトはどこにいる?」
「遊戯室にいらっしゃいます」
「すぐに行く」
 レオン大公はいそいそと席から立つと、その場に立ち尽くすレティシアとすれ違った。途中、レティシアの存在を思い出したらしく声を掛ける。
「これからも励むように」
 そして、レティシアの答えを聞く前に執務室から出ていってしまった。
 ショックだった。躊躇(ためら)いなく異母弟を優先されたのも、一緒に見に行くことすら許されなかったのも。
(私は……家族ではないの?)
 のろのろと執務室から自室に戻る。
 次の授業を担当する古典の家庭教師がすでに待機していた。
「レティシア様、お帰りなさいませ。さあ、早速始めましょうか」
「ええ……」
 窓の外から赤ん坊が泣き叫ぶ声が聞こえる。よちよち歩きの異母弟が転びでもしたのだろうか。その泣き声に父と継母の笑い声が重なった。
 独りぼっちなのだと思い知らされ、いたたまれなくなる。
「先生……」
「はい、なんでしょう?」
 レティシアは席に着くと教科書を開きながら尋ねた。
「先生はシュタイア帝国の宮廷から派遣されていると聞きました。では、カール様にお会いしたことはありますか?」
「ええ、多くはありませんが」
「カール様はどんな方でしょう?」
 肖像画で容姿は把握している。高貴な印象のする金髪の美青年だった。
 だが、レティシアにとって重要な要素は容姿などではなかった。
「そうですね。お美しい方ですよ。また、決して贔(ひい)屓(き)目ではなく優秀な方です。なんでもすぐに一度で覚えてしまわれましたね」
 彼の優秀さを知りたいわけでもない。
 レティシアは恐る恐る尋ねた。
「……優しい方ですか?」
 優しく温かい人柄こそレティシアが唯一望むものだった。
(そんな方なら私の家族になってくれるかもしれない)
 そして将来二人の間に子どもが生まれたら、決して寂しい思いなどさせない。
 家庭教師は「そうですね」と首を傾(かし)げた。
「まだお若いですが、落ち着きのある理性的な方ですよ。よほどのことがない限り、臣下の失敗を咎(とが)めることもございませんし」
 家庭教師は優しいとは断言しなかった。
 だが、レティシアは落ち着きがあるとの評価を肯定的に受け取った。
(きっとカール様は大人の方なんだわ)
 なら、自分を受け止めてくれるかもしれないと期待する。
(カール様のためにも頑張らなくちゃ)
 レティシアは決意を胸に授業に臨んだ。

 努力の結果、十四歳のレティシアは生まれながらのシュタイア帝国の令嬢と変わらぬ立ち振る舞いができるようになった。レオン大公に「立派な淑女になった」と褒められ、複雑な気分になったのだが、父とはもう二度と会わない可能性もある。「ありがとうございます」と、娘としてというよりは公女として最後の挨拶をした。
 これから大国の皇太子に嫁ぐのだと思うと、不安が胸に押し寄せてくる。だが、胸中を漏らせる相手はどこにもいなかった。
(本当に私にできるの? あんなに間違えてばかりだったのに?)
 豪奢な馬車に侍女とともに乗せられ、シュタイア帝国に送り出されたのだが、国境にある帝国側の城塞で「ここから先は公女殿下だけです」と言い渡された。
 シュタイア帝国の皇太子妃となるということは、身も心も帝国に染まるということ。すなわちレオン公国のすべてを捨てるということだ。侍女だけではなく母国からは何一つ持参できないのだと。
「持参できないとは……全部ですか?」
 帝国貴族と思(おぼ)しき中年の男性は胸に手を当て淡々と告げた。
「はい。下着からドレスまでこちらで用意するものに着替えていただきます」
「髪飾りもですか?」
「はい、もちろんです」
 侍女の一人が男性に食って掛かった。
「そのような連絡は受けておりません。公女殿下をお一人で送り出せと? 冗談ではございません。私は大公殿下から正式にレティシア様のお世話係になるようにと仰せつかっているのですよ」
「シュタイア帝国側の決まりですから」
「ですが……!」
「アデーレいいのよ」
 レティシアは慌てて彼女を止めた。
 アデーレは二歳年上の侍女で、レティシアが鞭打たれて手の甲を腫らしていると、唯一「レティシア様になんてことを」と憤(いきどお)ってくれた女性だった。「いくら帝国から派遣された教師とはいえ、やっていいことと悪いことがあります!」とも。
 シュタイア帝国の不興を買い、罰を受けてほしくはなかったのだ。
「決まりということだから仕方がないわ」
 そう、仕方がないのだと自分にも言い聞かせる。
 レティシアの髪飾りはレオン公国の国花であるスノードロップを模した意匠で、亡き母の形見でもあった。
 だが、帝国側の意向とあれば逆らうわけにはいかない。
「かしこまりました。すぐに着替えます」
 こうしてレティシアは断腸の思いで侍女たちと別れ、スノードロップの髪飾りを手放したのである。
 アデーレはまだ納得できないといった顔をしていたが、逆らうのは得策ではないとはわかっているのだろう。悔しそうに「……レティシア様、お元気で」と見送ってくれた。
 城塞内で帝国側の侍女たちに着付けをされる。ドレスも宝飾品もレオン公国のそれよりずっと高価そうで洗練されていたが、十四歳のレティシアの心の慰めとなることはなかった。
(あの髪飾りだけでも持っていきたかったんだけど)
 泣き出したくなるのをぐっと堪(こら)える。だが、直後に侍女に尋ねられ我に返った。
「あら、手の甲はどうなさいました? ミミズ腫れになっていますが」
「これは……その……」
 授業でしょっちゅう間違えていたので、家庭教師に鞭で打たれていましたとは言い辛(づら)く口籠もる。
「少々みっともないので、手袋を嵌(は)めましょうか」
「……」
 みっともないと言われたのが自分自身のことのようで少々落ち込んでしまった。
 着替えと化粧を済ませたのち、帝国側の侍女たちに付き添われ、今度こそシュタイア帝国帝都にあるザッツグルン宮殿に向けて発(た)った。
 ザッツグルン宮殿の正門に差し掛かるのと同時に、その全貌を目の当たりにし、感動よりも畏怖を覚える。
(これが本当に宮殿なの?)
「素晴らしいでしょう」
 誇らしげな口調で侍女が説明する。
「世界に誇る我が国の宮殿です」
 ザッツグルン宮殿は二百年近く増改築を繰り返した結果、鷲(わし)が羽を広げたように左右対称の造形となり、部屋数はなんと千五百近くとなっているのだという。衛兵を除く住み込みの召使いは千人に上るのだそうだ。
 また、ザッツグルン宮殿とは宮殿そのものだけを指すのではない。広大な敷地内に造られた古代の神殿を模した離宮と、迷宮を連想させる庭園。二千年前の遺跡の一部を移し、再現した趣向を凝らしたもう一つの庭園。更に動物園、植物園、人工湖などの総称である。これらは綿密な都市計画の下に建設され、シュタイア帝国の栄華の象徴となっているのだと。
 確かに都市計画という言葉の通り、もはや宮殿というよりは街だった。
 予想以上の規模におののく間に馬車はザッツグルン宮殿に入った。両側には緋(ひ)色(いろ)の軍服に身を包み、銃を手にした兵士たちが直立不動でずらりと並んでいる。
 なぜかその中央にある大通りを進むのに恐れを覚える。
(しっかりしなさい、レティシア。不安なんか吹き飛ばしなさい。明日から私は皇太子妃。レオン公国の恥にならぬよう頑張らなければ)
 レティシアは用意された寝室で休んだ翌日、挙式前に応接間でシュタイア帝国皇帝、皇后、及び夫となる皇太子カールに出迎えられた。
 カールは正装である濃紺の軍服に身を包んだ青年だった。レティシアより六歳年上なので今年二十歳になるはずだ。まだ十四歳のレティシアにはすでに立派な大人に見えた。
(あの方がカール様? 肖像画の通り綺(き)麗(れい)な方だわ)
 黄金をそのまま紡いだような金髪は丁寧に整えられ、整った眉もブルーグレーの目を取り囲む睫毛も同じ色だ。
 カールは母の皇后似なのだろう。寸分の狂いもない女顔の美貌だった。その眼差しはどこか冷たく、値踏みされているようで戸惑う。
 レティシアの視線に気付いたのだろう。カールはすぐに優しい微(ほほ)笑(え)みを浮かべ、「ようこそ、シュタイア帝国へ」と手を差し伸べた。
「君を待ちかねていたよ」
 先ほどの冷たい表情は嘘(うそ)だったのかと思ったほどだ。
(よかったわ。優しそうな方で)
 ほっと胸を撫(な)で下ろしドレスの裾を摘(つ)まむ。
「初めてお目に掛かります。レオン大公が一子、マリア・レティシア・フォン・レオンと申します。レティシアとお呼びくださいませ」
 カールの手を取り頭一つ分差のある美貌を見上げる。
 皇帝が夫婦となる二人を交互に見てウンウンと頷(うなず)いた。
「まだ若いのに随分しっかりした姫君だ。これで我が帝国の将来も安泰だな」
「父上、気が早いですよ。あと百年は頑張っていただかなければ」
(皇帝陛下は気さくな方みたいだわ。でも……)
 ちらりとその隣に佇(たたず)む皇后に目を向ける。
(皇后陛下はどうなさったのかしら。先ほどから何もおっしゃらない)
 扇子で口元を隠したまま顔を見せようともしない。舞踏会やお茶会でならともかく、この仕草は公式の場ではマナー違反とされている。
 母国の家庭で異分子だったレティシアは、自分を疎外しようとする者の雰囲気を敏感に感じ取るようになっていた。それゆえ、皇后に歓迎されていないのだとも薄々察した。
 なぜ初めて会うのによく思われていないのかと戸惑う。皇后は結局皇帝に「ほら、お前も」と促されるまで、自分から挨拶をしようとはしなかった。
 そういえばと馬車の中での出来事を思い出す。
 レティシアがザッツグルン宮殿に見(み)惚(と)れていると、侍女に「我が国の宮殿に比べれば、レオン公国の宮殿など犬小屋でしょう」と声を掛けられたのだ。
 あまりに自然な口調だったので、侮辱されたのだと気付くのに時間が掛かった。気付いて思わずその侍女の横顔を見たのだが、謝ろうともしなければ悪びれもしない。自分が無礼な発言をしたのだと自覚していないように見えた。
 今更ながらたった一人他国にやってきて、まだ味方がいないのだと思い知らされる。
(ううん、大丈夫よ。時間はたっぷりあるわ)
 心配だったがもう一時間後には挙式である。
 これから徐々に親交を深めていけばいい――何も知らぬレティシアはまだ侍女の態度も、皇后の沈黙もなんとか前向きに捉えようとしていた。

 その後挙式と披露宴は無事に終わり、カールとレティシアは初夜を迎えた。
 レティシアは皇太子夫妻の寝室で、ベッドの縁に腰掛け、カールが訪れるのを待っていた。緊張に拳を握り締める。
 体は召使いたちにより隅々まで洗い清められ、レースのネグリジェを着せ付けられている。襟元からは膨らみかけの胸が見え隠れしていた。
(男の人と体を重ねるなんて怖いわ……。でも、カール様に気に入られて、早くお子を産まなければならないもの)
 早急に子をもうけろとは、父のレオン大公からも命じられていた。両国の血を引く子、特に皇子が生まれれば同盟がより強固となるからだ。また、自国の公家の血を引く皇子が皇太子となれば、いずれ両国の立場も対等になると期待しているのだろう。
 両国のためだけではない。子どもをもうけることはレティシアも望んでいた。
 レオン公国でいつも遠くから見つめていた、父と継母、異母弟の団欒(だんらん)の風景を思い出す。娘としてあの場に加われないのなら、カールの妃となり、その間に生まれた子の母となって、あの光景の一部になりたかった。
 とはいえ、体を重ねるのはやはり怖い。
(ちゃんと勉強してきたけれど、カール様は優しくしてくださるかしら)
 扉が軽く叩かれびくりと震える。
「ど、どうぞ」
「失礼いたします」
 従僕と思しき青年が頭を下げると、濃紺のガウン姿のカールが現れた。
 いよいよなのだと意識して全身が強張る。カールの美貌に見惚れるどころではなかった。
 カールは従僕を見送りレティシアの隣に腰を下ろした。「大丈夫かい?」と苦笑する。
「そんなに怖がることはない」
 そっとレティシアの手を取って包み込む。レティシアは緊張に耐え切れずに膝に目を落とした。
「あ、あの、カール様……こ、今夜は、どうぞよろしくお願いし――」
「レティシア」
 初めて名を呼ばれたので思わず顔を上げる。
「は、はい」
「今日は疲れただろう?」
「い、いいえ」
 挙式に、披露宴に、舞踏会にと、確かにくたくたに疲れてはいるが、弱音など吐けないので首を横に振る。
 カールにか弱い妃だと思われたくない一心だった。
「……?」
 カールがレティシアの足に目を落とす。
「この怪(け)我(が)はどうしたんだい?」
「あっ、こ、これは……」
「まさか、ダンスで無理をしたのかい?」
 舞踏会の際も帝国側の用意したダンス用のヒール靴を履いたのだが、馴(な)染(じ)んでいないからか、両足とも靴擦れだらけになっていた。小指の先などは血豆が潰れて痛い。
 手当てをしてもらったものの、包帯だらけの足はさすがに目立ったのだろう。
「も、申し訳ございません」
 皇太子妃たるもの、たかだか靴擦れや血豆程度で踊らないわけにはいかない。完璧に踊りきらなければならなかった。それくらいこなさなければ認めてもらえない。
 レティシアはそう思い込んでいたのだが――
「そうか……よく頑張ったね」
 頭にふわりとカールの大きな手の平が載せられる。
 一瞬、何を言われたのかがわからなかった。後ろめたさに伏せていた顔を恐る恐る上げる。
 カールは微笑んでレティシアを見つめた。
「ありがとう。私のために踊り切ってくれたんだね」
「頑張ったね」「ありがとう」――父から言われたい一心だった言葉。だが、もらえなかった言葉を、いとも容(た)易(やす)くくれたので目を見開く。
「こ、これくらいのこと……」
「これくらいのことではないよ。痛かっただろう」
「……っ」
 思いもよらない優しい言葉を掛けられ、胸の中で様々な感情が入り乱れ、涙になって込み上げてくる。だが、夫の前で泣くなど有り得ないとぐっと堪えた。
「あ、ありがとうございます。でも、これくらい当然です……」
「君は偉いね」
 カールが溜(た)め息を吐(つ)く。
「その上たった一人で遠くから嫁いできて……。私なら不安に押し潰されていただろうな」
「そ、その、私の国は小国なので、帝都に来るのを楽しみにしていたんです。不安なんてことは……」
 ブルーグレーの目が細められる。
「だけど、私に抱かれるのは怖いんだろう? 無理をすることはない。初夜はあくまで形式的なものだ」
 カールは今夜レティシアを抱くつもりはないと告げた。
「えっ……」
 純潔を失うのは確かに恐ろしくはあったが、初夜は皇太子妃の義務だと聞いていたので戸惑う。それに、早く自分の家族がほしいと切望していたレティシアにとって望ましい事態とは思えなかった。
「なぜでしょう? 私に不満がございますか?」
 カールはレティシアの心の声を読んだのか、「君に不満などないし、急ぐことは何もない」と頷いた。
 レティシアの手をそっと包み込む。わずかにひやりとした手の平だったが、十四歳のレティシアには世界で一番温かく思えた。
「無理矢理体を繋(つな)げるよりも、まずお互いをよく知ってからにしないか」
 カールはまだレティシアの肉体が成長していないのを見て取り、皇帝にもう少し大人になるのを待った方がいいのではないかと提案したのだそうだ。
「父上も同意されたので心配はないよ。それに、せっかくこれから夫婦に、家族になるんだ。お互いをもっとよく知ってからでもいいだろう」
「……家族?」
「ああ、そうだ」
「カール様と私はこれから家族になれるのですか?」
 子が生まれなければ家族にはなれないと思い込んでいた。
「もちろんだ。レティシア、家族はまず夫婦から始まるんだ」
 胸に喜びがじわりと広がる。
 継母と異母弟が中心の家庭にレティシアの居場所はなく、家族がいるのにもかかわらず寂しい日々を送っていた。
 だが、シュタイア帝国ではカールが家族になってくれるという。
「嬉しい、です……」
 自分を思いやってくれるカールのためにも、これから一層尽くし、早く宮廷に出入りする王侯貴族たちに認められたかった。


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