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オメガ嫌いの敏腕社長は、咲きかけのオメガに陥落する

草野來 / 著
逆月酒乱 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/03/25

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内容紹介

匂いが濃くなった…俺を殺す気かよ
「恥ずかしいな、いい年をしてがっついた」オメガ性でありながら未だ発情を迎えていない、複雑な立場の詩緒。コラムニストの叔母の秘書として働きながら、坐禅会に通っていた。そこで出会ったのは、紳士的で年上の男の色気をにじませた真希士だった。出版エージェントの社長でアルファ。完璧に見えた真希士だが、過去の経験のせいでオメガに苦い思いを抱えていた。そんな彼の前で、詩緒は初めての発情を迎えてしまう。「こんなに強烈なフェロモン…初めてだ」心が震えたからこその必然的な発情。丹念で執拗な愛撫ののち、芯熱を深くまで穿たれて…。不器用な二人の、バース性を越えた愛の証明。

立ち読み

第一章 オメガ嫌いはごめんです



「よろしいですか。座禅で大切なのは呼吸と姿勢と、心です」
 張りのある口調で、ご住職は参加者たちに説明する。
 広々とした本堂には、張り替えたばかりの畳のいい匂いが漂っている。心地いいそよ風が網戸越しに入ってきて、冷房をつけてなくても充分に涼しい。
 五十畳はゆうにある広い空間で、詩(し)緒(お)をはじめ三十名ほどの参加者は、左右に分かれて向かいあって座禅を組んでいる。その真ん中にできる道を、ご住職がゆっくりと何度も往復して歩く。とき折り、ぴしっぴしっという音が聞こえてくる。警(けい)策(さく)という長い棒で、誰かの肩を打っているのだ。
 座禅しながら居眠りする人や、たるんでいる人を打つわけではない。合掌して頭を下げ、打たれたいという合図を出した人に応えて、警策を振り下ろしている。ちなみに詩緒はこちらの座禅会に通いはじめて一年ほど経っているが、一度も打ってもらったことはない。痛いのは嫌なので。
 ぴしっ、ぴしっ、と周囲から音がするのを感じつつ、半眼状態で座禅を続ける。一セット四十分で毎回二セット、最後にご住職のお話を聞いて終了だ。
「みなさん、整いましたでしょうか」
 美丈夫のご住職が一同に笑いかける。きれいに剃(そ)りあげた浅黒い坊主頭に、精(せい)悍(かん)な風貌。白い着物の上に黒のシースルーの衣という坊主装束(しょうぞく)が、がっちりとした体格を引き立たせている。
「そろそろ梅雨のはじまる頃あいですが、梅雨がきたら夏もすぐにやってまいりますね。私ども坊主にとっては夏の日射しは、なにしろ頭がこれなので、特にきついものでして……」
 のびやかな声でご住職は語り、控えめな笑い声が周囲から上がる。月に二度、隔週の土曜日に行われている座禅会は、いつも満員御礼だ。特に女性の参加者が多い。常連の人たちの間でご住職はひそかに〝アルファ和尚〟と呼ばれている。
「あれはどう見てもアルファでしょ!」
「やば……あんなイケてるお坊さん、初めて見た……」
「今日もご住職の棒で叩いてもらったわ~。気持ちよかったわ~」
 説法を終えたご住職が「それではみなさん、お気をつけてお帰りください」と本堂を立ち去るなり、そんな話題が花を咲かせている。
 詩緒は会話には参加せず、座禅に使った丸座布団を回収してゆく。そのとき、こんな声が耳に入る。
「ああ、もし私がオメガだったらいいんだけどなあ」
 オメガという言葉の響きに、思わず肩がぴくりと動く。発言したのは場の中心にいる、三十代後半くらいの女性だ。彼女は大きな声でこう続ける。
「オメガなら、捨て身のフェロモン作戦で和尚にアタックできるのにぃ」
 あははは、と明るい笑い声が上がる。詩緒の腕から座布団が転がり落ちて、慌てて拾おうとしゃがみ込むと、
「手伝いましょう」
 頭の上から声がかかる。見上げると、長身の男性が立っていた。途端、心臓がかすかに跳ねる。
(サトウさん……きてたんだ)
「どうも……すみません」
「いえいえ。使ったものを片すのは当然です」
 彼はよいしょとかがんで、散らばった座布団を拾い集める。それを見て、お喋(しゃべ)りしていた女性陣も手伝ってくれる。すべて回収すると、廊下の突き当たりにある物入れまで仕舞いにゆく。戸を開くと、中は真っ暗だ。
「足もとに気をつけてください。その辺にいろいろ置いてあるんで」
 先に入ったサトウさんが、勝手知ったるふうに言う。
「あ、はい」
 彼に続いて詩緒も足を踏み入れ、手頃なスペースに座布団を積み上げる。電灯のついていない室内は闇色で、すぐ目の前も見えない。
 と、足がなにかを踏んづけて、ぐらりと転びそうになる。すると、ぐっと腕を引き寄せられ、かろうじてバランスをとる。
「大丈夫ですか」
 至近距離から声がする。
「仏具や屏風(びょうぶ)なんかもあるんで、転んでケガしたら大変だ」
「は、はいっ」
 詩緒はぱっと身を離し、言われた先から、なにかに頭をごつんとぶつけてしまう。
「うぅ……いたた」
「ああ、ほらね」
 見えないが、声に微笑の気配があった。
 明るい廊下へ出ると「ちょっと、すみません」と彼は詩緒の髪に指をくぐらせる。ぶつけた部分の地肌をそうっとさわり「痛みますか?」と尋ねてくる。
「……少し」
「血は出てないし、腫(は)れてもいないけど、なにしろ頭なのでね。まあ大丈夫だと思いますが」
 やわらかな低い声。先ほどのご住職の太くて強い声調とは対照的だった。さらにいうなら、ご住職にも劣らないほど堂々とした体格だけど、もう少し線が細い。詩緒と同じく座禅会に毎回参加している常連の方で、たしか名前は〝サトウさん〟だ。ご住職がこの人にそう呼びかけるのを、聞いたことがあった。
 勤め人にしてはやや長めの黒髪をハーフアップにして、黒ぶち眼鏡をかけている。年の頃は三十代後半というところ。適度にしわの入った薄いブルーのワークシャツに、黒のジーンズという服装だ。
「ちょっと待ってて」
 彼はおもむろにガラス戸を開けると、裸足のまま庭先へ下りる。
 白い小さな小石が敷き詰められた、きれいな和風庭園だ。自然石をくり抜いた洗面台から、ちょろちょろ……と水が流れている。
 サトウさんはポケットからハンカチを取り出して、水にひたしてぎゅっと絞る。戻ってくると、
「水道の水だから、汚くないですよ」
 そう言って、詩緒の頭のぶつけたところに、冷たいハンカチを当てる。後頭部をしっかりと押さえられる。
「あ……どうも」
 どぎまぎしつつ、言う。大きな手だった。後ろ頭をすっぽり覆ってしまえるくらい、幅広の手のひらだ。
「このまましばらく押さえておいた方がいいかな」
 彼はそろりと手を離して、「じゃあ、どうぞお大事に」と詩緒に声をかける。
「あ……は、はい。どうも」
 そんな言葉を交わして寺の門前で別れる。詩緒の帰り道の方角とは反対の方向へ、サトウさんは歩いていく。その後ろ姿を、彼が角を曲がって視界から消えるまで、詩緒はじっと見つめる。
(サトウさん……相変わらず穏やか紳士だわ……)
 そんなことを考えながら、「あ」と声を出す。まだ右手で頭の後ろのハンカチを押さえていた。返すのを忘れてしまった。

 その翌週の月曜日。
「早川(はやかわ)さんのオメガ値は、今回も基準値よりだいぶ下ですね」
 月に一度の検診のあと、診察室での問診で担当医師から告げられる。
 体調に変わりはないかと尋ねられ、
「はい。元気にやっています」
 患者用の丸椅子に腰かけている詩緒は、先月と同じように答える。
「まあ、相変わらずあれ(・・)は……こないんですけれど」
 おずおずとつけ加えると、担当医からにっこりと笑いかけられる。職業上の笑みであるのを差し引いても、好感のもてる笑い方だ。年の頃は叔母の樹里(じゅり)と同じくらいの、四十代後半というところだろうか。この先生にはもう六年間、大学時代からずっとお世話になっている。名を野本(のもと)先生という。
「そういえば早川さんは、今年で二十五歳ですね」先生はカルテを眺めて言う。
「はい。実は来月の五日が誕生日なんです」
「そう、もうすぐね」
 先生は壁にかけられたカレンダーに目をやる。今は六月の中旬だ。約半月後の七月五日に、とうとう四捨五入して三十の、二十五歳になる。
「ね、早川さん」
 先生は思案した顔つきで、こんなことを訊いてくる。
「早川さんはやっぱりオメガ性として〝覚醒〟したいですか? それとも、現在のまま、ほぼベータ性と変わりない状態でやっていっても差し支えないとお思いですか?」
「え、ええ……と」
 詩緒は口ごもる。
「そうですね……自分としてはできれば、このままの状態でも、べつにかまわないかな……と考えているんです。覚醒したらきっと……その、いろいろと大変なことも増えると思うので」
 そう言いながら、頬が赤らみそうになる。〝大変なこと〟が意味することを考えると、どうしても恥ずかしくなってきてしまう。
 先生は詩緒の言葉を聞いたのち、「前にも何度か、お話ししたことがありましたよね」と前置きしてから、言う。
「もしかしたら早川さんは、ベータ性に変化するかもしれませんね」
「ベータに変化……ですか」
「そう」
 先生はうなずく。ごくまれにそういう現象が起こることがあるそうだ。生まれて初めての発情期、通称〝ヒート〟を迎えないまま成人となったオメガの中には、性別がオメガからベータへ変わる事例もあるのだと。
「もちろんあなたがそうなると断定するわけではないけれど、もともとオメガ値も低い方ですし、あくまでも可能性のひとつとして、ね」
 先生は詩緒の表情を観察し、言葉を選びつつ説明する。
「たしかにオメガはなにかと大変だから、発情期がこないのならこなくていい、という方たちもいらっしゃるからね。でも、オメガとして覚醒するのを望むなら、発情期の促進をうながす薬を投与することもできます。いったん覚醒したらベータになることはありませんから」
 それとね、と先生は言葉を重ねる。
「もし万が一性別が変わったとしても健康面ではなんら問題はありません。あなたは女性なので、男性オメガのように生殖器まで変化することもない。そこは心配しないでください」
「はあ」
 詩緒は戸惑いぎみに笑ってみせる。返答に困ったときは、とりあえず微笑(ほほえ)む癖がついている。樹里からは「女性相手ならいいけど、オトコにほいほい笑いかけるのは考えものよ~」と、しばしば言われるけれども。
「もし発情期がきたら、必ず処方した抑制剤を服用してくださいね」
 診察の最後に先生は、いつもと同じ言葉を詩緒にかける。

 クリニックの入っているビルを出ると、梅雨入り前のむわっとした空気が全身にまといつく。携帯電話を確認すると、通話アプリにメッセージが一件、仕事用のアドレスにメールが二件入っていた。アプリの方は樹里からだ。
『帰りにごはん買ってきてください……がっつり系の……奢(おご)るんで』という文面だ。
 樹里は昨夜も遅くまで仕事をしていたようなので、起きたのはついさっきというところだろうか。今から戻りますと返信を打つ。
 最寄り駅で地下鉄を降りると、帰り道の途中にある惣菜店に立ち寄った。有名お肉屋さんの直営店で、揚げ物がおいしいのだ。ウィンドウの中をざっと見て、特大ロースかつを二枚、注文する。
「ただいま帰りました」
 メゾネットタイプのマンションに帰宅する。階上の居住エリアに向かって詩緒は声をかけるけど、返事はない。
(樹里さん……まだ寝ているのかな)
 とりあえず食事の支度をすることにする。炊飯器にごはんはたくさん残っているので、かつ丼をつくろう。
 手を洗うと玉ねぎをスライスし、水で薄めためんつゆで煮て、ぐつぐつといい音がしてきたら溶き卵を投入。次いでひと口大に切ったかつも投入する。冷蔵庫にベビーリーフが少々残っていたので、三つ葉代わりにのせてみる。あと少しでできあがり、というところで、
「いいにおい~」
 背後から声がする。
「かつ丼だ~。すばらしい。たしかにがっつり系だ~」
 濡れた髪にバスローブ姿の、年齢不詳の美女が立っている。詩緒の叔母兼ボス兼、この家の家主である。早川樹里、四十七歳。どうやらお風呂に入っていたようだ。ゆるく波打つロングヘアーを頭の後ろでまとめようとする叔母の胸もとから、形のいいふくらみがこぼれかける。
「樹里さん、胸、胸」
「ん」
 樹里は無造作に胸をしまうと、
「ちょっくら着替えてきますので、私の分、てんこ盛りでお願いします」
「了解です」
 そう答え、詩緒は盛りつけの準備をする。キッチンのダイニングテーブルにお膳を整えると、洗面所へ向かってミラーキャビネットの扉を開ける。化粧水や乳液、ヘアオイルの小瓶に混ざって小さなピルケースがある。それを取り出し、中に入っている錠剤を捨てて、今日処方してもらった新しいのと入れ替える。
「これでよし、と」
 扉を閉めると、ミラーに自分の顔が映り込んでいる。我ながらもうすぐ二十五歳とは思えない童顔で、メイクをしてもどことなく背伸びをしている雰囲気だ。やや大きめの目、小さな鼻と口。
 パーツのひとつひとつは年相応の感じだけど、総体的に見ると、どこか幼いボブヘアーとロングの中間といった半端な長さの黒髪がまた、童顔具合と絶妙にあっている気がしないでもない。以前、大人っぽくなりたくてベリーショートに挑戦してみたことがあったものの、これがもう子猿みたいなちんちくりんになってしまったのだった。
「かわいい! かわいい! バナナあげたい!」と樹里には大受けだったけれど……。
 アンケート用紙などに年齢を記入すると、たいてい相手に驚かれる。「見えませんね」「お若いですねえ」と言われるたびに、へらりと笑いながらも複雑な気分になってしまうのだ。
 同じ年齢不詳でも、叔母とは大ちがいだ。
 詩緒がまだ小さかった時分から、樹里の見た目はほとんど変わっていない。すらりとした長身で、端整な顔立ちはいつも旬の時期に見える。むしろ若い頃よりも四十代も後半に差しかかっている今の方が、女っぷりは上がっているような。
 その美しさは本人の資質なのか、それともオメガ性の特質によるものなのだろうか……。などと思っていると、洗面所の外から呼びかけられる。
「詩緒さーん、早くごはん食べようよー!」
 魅力的な叔母が、子どもっぽく声を張り上げている。

 遅めの昼食(樹里にとっては兼朝食)をとりながら、メールの件を報告する。
「〇〇社への請求書は今日中に送っておきます。インタビューのチェックの方は、水曜の正午までにお願いしますね」
「わかった」
「食後にプリントアウトして、お部屋に持っていきます」
「はーい」
 テーブルを挟んで相対する樹里は、にんまり微笑む。
「いやあ、詩緒さんは優秀な秘書ですなあ。ぱぱっと、おいしいごはんもつくってくれるし。こりゃあもうお母さんの域だね」
「ジェンダー的な発言は、よそでは気をつけてくださいね」
「もちろんです。ここだけです」
 美貌を惜しげもなく崩して、わっしわっしと豪快に叔母は丼をかき込む。
「で」
 ほっぺにごはん粒をつけて、スクエア型のシルバーフレームの眼鏡越しに、樹里は視線を当ててくる。
「どうだった? 今日の診察。野本先生、発情期がこない云(うん)々(ぬん)に関してなにか言ってた?」
「ええ……っと」
 詩緒はたくわんをぽりぽりかじり、先生から言われたことをそのまま伝える。
「もしかしたら、わたしこのままベータ性に変化するかもしれない……って、言われまして」
「そっかあ」
 丼をきれいにたいらげ、樹里はふう、と息をつく。
「で、それについてはどう思った? 促進剤を打ってもらって、いっそのこと早く覚醒したいと思った? それとも自然に任せていつか発情するもよし、もしくはこのままゆるやかにベータになってもいいかな、とか」
「え、あ……それは……その」
 理路整然と詰めてくる叔母の問いに口ごもる。詩緒のそんな表情を、樹里はにやにやと眺める。
「かわいいなあ~詩緒さん。わが姪(めい)ながら、ほんっとかわいい。もし血がつながっていなかったら、ほんで私がアルファのメスなら猫まっしぐらに襲いかかってるところだね」
 本気とも冗談ともつかない口調で言ってくる。
「まあ実際ね、オメガの女の子なんて世界でいちばん強姦(ごうかん)されやすい人種だもんね。発情期を迎えた途端に襲われるのもざらだし。だから詩緒さんが、その年でまだ覚醒していないってのは、考えようによってはラッキーだと思うな」
「……そうですか」
 かつの最後の一切れを口に運び、むぐむぐと食べる。
「ちなみに樹里さんは……いつ頃、覚醒されましたか」
 オメガが最初の発情期を迎えることを、俗に〝覚醒〟という。発情によってフェロモンが体内で生成され、それによりオメガとしての性別が目覚めるからだ。
 樹里が覚醒したのは三十年前、十七歳のときだったそうだ。
「やっぱり、その……大変でしたか」
 遠慮がちに問う詩緒に、樹里はひねったような笑みを浮かべる。
「そりゃあもう。サカリのついた猫みたいになっちゃったわよ。あの頃はまだ抑制剤なんてなかったからね、その頃付き合ってた予備校の先生の安アパートで、もう一晩中……」
「あー、いいですいいです! だいたいわかりました!」
 がたん、と椅子を引いて立ち上がり食器をシンクに持っていく。樹里はテーブルに頬杖をつき、楽しげに、
「ここからが、いいとこなんだけどなあ」


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