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TK04

極上御曹司の契約プロポーズ

佐木ささめ / 著
駒城ミチヲ / イラスト
本体価格 本体1,200円+税
発売日 2020/04/24

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内容紹介

子供を増やすなら君の協力が必要だ
「俺と結婚しないか」姉の忘れ形見でIQの高い光樹の子育てに奮闘していた夏芽の前に、光樹の叔父になるという絶世の美男子・志道が現れる。大企業の御曹司の志道は、光樹を引取りたいと交渉してきた。何度断っても諦めない志道と、光樹自身の人生を迷う夏芽に、志道は契約結婚を提案してきて!? 驚きながらも光樹のためと承諾する夏芽。一生処女かと枯れていた夏芽の、芽吹くことない恋心が膨らみはじめて……。「君と本当の夫婦になりたい」優しいキスで押し倒され、淫猥に快楽を注がれて……。お飾りの妻のはずなのに、志道の優しさに勘違いしてしまいそうになって!? 美形御曹司と子育て一筋OLの溺愛

立ち読み


第一章


 その日はいつもと同じ土曜日だった。
 大寒が近づく一月の岐阜(ぎふ)はとても冷え込んでいたものの、雲一つない晴天は絶好の洗濯日和だと教えてくれる。
 平日よりずいぶん遅い時刻に起きた白川(しらかわ)夏(なつ)芽(め)は、伸ばしっぱなしの長い髪をひとくくりにして顔を洗い、洗濯機を回している間に光(みつ)樹(き)を起こした。
 小学校三年生の甥(おい)っ子は利発で聞き分けのいい子だが、唯一の弱点が朝に弱いことだ。布団に丸まってグズグズと言い訳を述べながら、いつまでも芋虫状態のままで人間に羽化しようとしない。
 これが平日だと夏芽も出勤を控えているため布団を引っぺがすところだが、休日だからまぁいいか、と甘いことを考えてしまう。
「じゃあ、自分でお布団を干すのよ」
 とのやり取りも毎週のこと。光樹は布団の中から「ふぁーい……」とやる気のなさそうな声を出した。
 約束を守る子なので、夏芽は鼻歌を歌いつつ残りの家事に勤(いそ)しむ。洗面所やトイレなどを隅々まで綺麗にして、洗い終わった山のような洗濯物をベランダに干していく。衣類がそよ風に揺れている様は、家事が片づいていく満足感を抱かせた。
 今日はなぜか気分がいい。もしかしたら何かいいことが起きるのかも。
 宝くじでも買うべきなのかしら、と自身に問いかけながら家の中に入ると、ようやく起き出した光樹が布団をずるずると引きずって近づいてくるところだった。
 九歳の甥っ子は容姿が非常に整っており、やや小柄でまだ幼さから抜けきれないのもあって、女の子のように愛らしい。そんな可愛い子どもが寝ぼけ眼(まなこ)で自分より大きな布団を引きずってくるのだから、夏芽はその様子に胸をときめかせて表情を明るくした。
「ミツくん、可愛い!」
 むぎゅーっと痩せ気味の体を抱き締めると、光樹は夏芽のまだメイクをしていない頬(ほお)にちゅっとキスをした。
 柔らかい唇の感触に夏芽はニマニマしていたのだが。
「なっちゃん、また顔洗ってからスキンケアしかしてないでしょ。ちゃんと日焼け止めを塗りなよ。シミができるよ」
「……はい。スミマセン」
 小学生男児とは思えない指摘をされて、それが反論できないほど的確なため、夏芽は素直に引き下がって自分の部屋に向かった。光樹はこういう性格なのである。
 保育園に通っている頃から大人びた言動をする子どもで、誰よりも早くひらがなを覚えて絵本を読み、計算も自分から始めて周囲を驚かせていた。
 小学校入学時には三・四年生の授業を理解できるレベルで、知能検査の結果も平均をはるかに上回る高い数値が出た。そのため偶然なのかそうではないのかを調べようと、光樹だけやり直しを求められたほどだ。
 いわゆる天才児というもので、小学校側からも神童だともてはやされている。個人懇談会(こんだんかい)では、進学は地元の公立中学校ではなく、彼の才能に見合った最難関の私立中学を受験するべきではないかと言われていた。
 一時、通っていた大手学習塾は特待生として授業料が免除になり、塾の講師陣からも同じ進路を示されている。
 とはいえ普段の光樹は、口達者だけれど素直で闊達(かったつ)な子どもだ。最近では、「なっちゃんは今でも十分可愛いけど、僕のためにもっと綺麗になって欲しい」と目が点になるようなことを言い出し、図書館で美容やメイクに関わる専門の本を山のように借りて読み漁(あさ)っている。そして今のように小言を告げてくるのだ。
 きちんとメイクをしなければ、また叱(しか)られる。と、夏芽は保護者とは思えない焦りを感じつつ手早く化粧を施す。
 簡易メイクを終えて手を洗っていると、夏芽の父親、白川数(かず)馬(ま)がのっそりと起き出してきた。
「おはよ、お父さん。こんなに早く起きていいの?」
 父親は夜間警備の仕事に就(つ)いているため、朝方に帰ってくる昼夜逆転の生活だ。いつもは午後を過ぎてから起きるのだが、今日は光樹をドライブに連れていく約束があるという。
 布団を干し終えた光樹と、顔を洗った父親との三人で遅めの朝食を済ませ、食器を洗っていると家のチャイムが鳴った。
 インターホンをとって光樹が可愛らしい声で応答していたら、すぐに不審げな声に変わった。
「なっちゃん、おじいちゃん、ナリサワさんって人が来てるんだけど」
 知ってる? と光樹の表情が語っている。新聞を読んでいた数馬が、「宗教勧誘じゃないのか?」と首を傾(かし)げながらインターホンを代わった。当家のインターホンはテレビ画面などついておらず音声のみなので、どのような人物が来たかは見て判断することができない。
「うちになんのご用件でしょうか? ……はあ、光樹のことで……どっかの塾ですかねぇ? ……違うんですか?」
 甥っ子の名前が出たため、食器を洗い終えた夏芽はエプロンを外しながら父親へ近づいた。
 光樹の噂(うわさ)を聞いた学習塾が訪問してきたことは過去にもある。
 ――塾はもういいんだけどな。
 特待生とか優待生として入塾すれば授業料は免除になるが、そのかわり広告塔になるため、有名私立中学を受験しなくてはいけない。その塾の合格実績を上げるために。
 その中学校へ行きたいと光樹が望むならば構わないが、本人は私立中学受験に興味を示していない。行く気がないのに高い受験料を支払う経済的余裕はないのだ。
 ……たぶん、光樹が私立中学を受験しないとほのめかしているのは、金銭的な問題のせいだろう。補助制度を使えば、なんとか通わせてあげられると思うのだが……
 それを考えるたびに夏芽の胸中に黒くて苦い靄(もや)が立ち込める。だが深く考える前に父親が玄関へ向かったので夏芽も付いていくことにした。
 数馬が玄関ドアを開けた途端、彼も夏芽も二人いるスーツ姿の来客のうち、背が高い男性の顔を認めて目を剥(む)いてしまう。
 ――え! ミツくんにそっくり!
 三十代と思われるその人は美形ではあるものの、男性的な凛々(りり)しさが際立っており、女の子的な可愛らしさの光樹と共通点は少ないように思われる。が、顔の全体的な造りや一つ一つのパーツが遺伝的な繋(つな)がりを感じさせるのだ。
 人間の第六感が血族間の共通項を嗅(か)ぎ取る。目の前に立つ驚異的な美貌を誇る男性は、光樹が大人になったら彼のような容貌になるのでは、と思わせる説得力があった。
 それは父親も同じだったらしく、親子二人して稀(まれ)に見る美男子を見つめてしまう。
 相手の方は無言で凝視されたのが不愉快だったのか、眉を顰(ひそ)めて不機嫌そうな顔つきになった。
 相手の不快感を悟った夏芽はいち早く我に返る。
「あの、ミツくん……光樹のことで、どのようなご用でしょうか……」
 内心で、もしかしてミツくんのお父さんだろうか、とドキドキしながら震える声を漏らす。
 光樹は父親が分からない子どもだった。
 夏芽が高校三年生のとき、未婚の姉――弥生(やよい)が出産したのだ。数馬や夏芽がどれだけお腹の子の父親について聞いても頑として話さず、弥生は婚外子を出産した直後に亡くなってしまった。
 現代医療を以(もっ)てしても、予期しない事態で亡くなる妊婦は皆無ではない。
 それ以降、叔母の夏芽が光樹の母親として育てていた。
 夏芽が不安な声を漏らすと、光樹にそっくりなイケメンが目を合わせてくる。夏芽は思わず一歩下がった。
 光樹に感じる、信頼感や柔らかな雰囲気を一切排除した冷たい眼差しに身が竦(すく)む。なまじ顔が似ているせいで無意識のうちに親しみを抱いてしまうのに、相手からは拒絶が感じられるため、相反する感情に心が痛いほど揺さぶられる。
 このとき背後から冷静な声をかけられた。
「なっちゃん、おじいちゃん。お客様なら中に入ってもらったら?」
 玄関にいる大人たちが一斉に声の方へ反応し、当然ながら光樹に似た男性の視線も向けられる。
 すぐさま彼の不機嫌そうな表情が消え、光樹の容姿を穴があくほど注視した。しかし光樹の方はすぐに背を向け、家の中へスタスタと歩いていってしまう。
「……あの、ここではなんですから、お入りください」
 迷いつつも夏芽が二人分のスリッパを並べる。イケメンの背後にいるスーツを着た男性をちらりと盗み見れば、父親と同世代らしい年齢の穏やかそうな人で、イケメンの親かと思った。とはいえその人の容貌はまったく光樹たちに似ておらず、他人のように感じるが。
 炬(こ)燵(たつ)には案内しにくいため、リビングのソファを勧めた。大人が四人も集まると窮屈な印象だが仕方がない。
 光樹に似たイケメンは、リビングと続き間になっている和室へずっと目を向けている。そこには炬燵の中に寝転んで電子書籍を読んでいる光樹がいた。
 見つめたままイケメンが話し出そうとしないため、彼の隣に座った男性が口火を切った。
「突然、押しかけて申し訳ありません。私はこういう者で……」
 倉橋(くらはし)総合法律事務所代表・倉橋宗一(そういち)、との名刺になんとなく嫌(いや)な予感がした。
 ――弁護士を同伴させてアポもなく乗り込んでくるなんて……
 ここで夏芽が何かを言うよりも前に、名刺を見た数馬が身を乗り出し棘(とげ)のある声を出した。
「やっぱりアンタ、光樹の父親か?」
 娘を孕(はら)ませた挙句に今まで自分の子どもを無視しやがって、との非難を遠慮なく滲(にじ)ませる口調に、イケメンがゆっくりと視線を戻して数馬と目を合わせる。
「いえ、おそらく私はあの子の叔父と思われます」
「はあぁ? 何言ってんだ、これだけそっくりなのに責任逃れするつもりかっ?」
「ちょっとお父さん、落ち着いて」
 中腰になった父親を慌てて夏芽が抑える。数馬は数年前、高血圧による脳出血で倒れているのだ。
 夏芽は父親を止めながらイケメンへ視線を向ける。
「あの、先ほど叔父さんとおっしゃいましたが、そちら様のご兄弟が光樹のお父さんということなのでしょうか」
 そこで口を開いたのは弁護士の倉橋だ。
「いえ、まだ確定はしていません。そのためにもお子さん、白川光樹くんですね、彼とこちらの――」そこで倉橋が隣の美男子を見遣(みや)る。「成澤(なりさわ)さんご一家とのDNA鑑定をお願いしたいと思って、本日は参りました」
 倉橋いわく、今から二ヶ月ほど前、成澤の母親がチャリティイベントの会場を歩いていたとき、息子と瓜(うり)二つの少年を見かけてひどく驚いたという。他人の空似にしては遺伝的な要素を感じさせたため、夫の隠し子かと疑って思わず身元を調べさせたという。
 しかし予想に反して調査結果からは、少年の母親と成澤家の長男――俊道(としみち)の間に交際関係があったことが発覚した。
 ――もしかしたらあの子は私の孫じゃないのかしら。
 そう思い込んでしまった成澤家の奥方が、一度少年と自分たち家族とのDNA鑑定をしたいと言い出した。
 そこで成澤が内ポケットから名刺を取り出してテーブルの上を滑らせる。父親が彼を睨(にら)みつけたままなので、夏芽が名刺をつまみ上げた。
「成澤志(し)道(どう)さん。NMJファーマ株式会社の取締役さん……」
 岐阜県の隣県である、愛(あい)知(ち)県に本社を構える企業だ。名詞の裏面にある業務内容を読むと、医療に関わる事業を営んでいるらしい。なんとなく社名は聞いたことがあると思い出していたら、倉橋から「成澤家はNMJファーマの創業家で、志道さんのお父様は代表取締役社長になります」と告げたため夏芽も数馬もポカンと呆(ほう)けてしまう。
 ――会社の社長さんの息子……身なりがいいなって思ってたけど、やっぱりお金持ちなんだ。
 まじまじと成澤を見つめていると、彼は眉根を寄せて苦々しい声を吐き出した。
「身内の恥ですが私の兄は自由奔放な人間で、家業の跡取りでありながら女性にだらしなく、常に何人もの恋人と付き合うようなクズでした。そのせいで女性とのトラブルが絶えず、十年ほど前、揉め事に嫌気が差して、『放浪の旅に出る』と告げたまま行方が分からなくなってしまいました」
「はあ……」
「そういうクズ男なので、恋人たちの誰かが兄の子を身ごもっていてもおかしくはありません。それに今思い返せば、兄が逃げ出したのは光樹くんのことが原因とも考えられます。……もし後者であれば誠に申し訳ありません」
 いきなり成澤が深く頭を下げたため、夏芽だけではなく父親もギョッとした。
「ちょっ、顔を上げてください。まだミツくんがそちらのご家族と決まったわけではないんですから」
 夏芽が慌てた声で告げると、テーブルと接触しそうになっていた成澤の形のいい頭部がゆっくり起こされる。彼の端整すぎる顔には渋い表情が浮かんでおり、この人もまた実兄の自堕落な生き様を不快に思っているのだと悟った。
 ――意外といい人なのかな……?
 成澤の話が本当なら、兄はまさしく金持ちのドラ息子といった男だが、弟の方は常識人らしい。姉を傷つけた男の家族ではあるが、彼を責めても仕方がないとの同情心が湧(わ)き上がる。それは父親も同じだったようで、今まで射殺さんばかりの勢いで成澤を睨んでいた視線が困ったようにさ迷っている。
 そこへ再び冷静な声をかけられた。
「――なっちゃんもおじいちゃんも相変わらずお人好しだねぇ。その話、オッサンがそう言ってるだけで本当か嘘(うそ)か分かんないじゃん」
 背後から聞こえた声に振り向くと、和室で寝ころんでいたはずの光樹がすぐ後ろに立っていた。その手には収納ボックスを兼ねた椅子(スツール)がある。
 よっこいしょ、と光樹は重そうにスツールをテーブルの脇に置くと、そこへちょこんと正座をして自分とそっくりな成澤の顔を見上げた。
「オッサン、DNA鑑定をして僕が成澤さんちの子だったらどうするの? 引き取りたいとか言うんじゃないの?」
 ハッとした夏芽が成澤の美しい顔を見つめると、彼はなぜか呆けたような顔を見せた後、不機嫌さを増した表情になる。
「君が光樹くんで間違いないね。――大人の話し合いの場に子どもが入ってくるもんじゃないよ。あと、俺をオッサンと呼ぶのはやめなさい」
 もしかしたら成澤が呆けた顔をしていたのは、オッサンと呼ばれたことがショックだったからかもしれない。一人称まで変わっている。
 だが光樹の方はすっとぼけた表情で視線を成澤の左手へ向けた。
「じゃあ成澤さん。指輪をしてないけど、独身?」
「……それがどうした?」
「別に。成澤さんぐらいの歳(とし)の男の人でも結婚しないんだと思って。めちゃくちゃモテそうなのに何か理由でもあるの?」
「光樹くん、何度も言うが話に首を突っ込むんじゃない」
「僕はモテるよ。この顔だもん、女の子が放っておかないよ。成澤さんもそうでしょ?」
 ……成澤が唖(あ)然(ぜん)とした表情で光樹の可愛らしい顔をまじまじと見つめている。光樹の方はこのような反応など慣れているので、喋(しゃべ)ることを止めない。
「でさ、僕を見つけたっていう成澤家の奥方って、子どもが独身の成澤さんと、消えたお兄さんの二人しかいないのかなって思ったんだ。もしそうなら孫が一人もいないんじゃない?」
 そこで動揺を示したのは弁護士の方だった。え、なんで分かるの? とでも言いたげな顔になって光樹を注視している。
 その変化に光樹は目ざとく反応した。
「あ、やっぱりそう? それならなんとしてもDNA鑑定をしたいよね。で、本当に僕が孫だったら引き取りたいって考えちゃうんじゃない? 初孫なんだから」
 光樹の導き出した結論が図星だったのか、それとも子どもとは思えない筋の通った話し方や洞察力に驚いたのか、成澤も倉橋も光樹を凝視したまま絶句している。
 そこで我に返った夏芽が、「ミツくん、部屋に戻っていなさい」ときつめに叱れば、素直に頷(うなず)いた光樹は成澤たちへ「邪魔だから早く帰ってよね」と素っ気なく言い捨て、スツールを引きずりつつ自室に入って扉を閉めた。
 夏芽はすぐさま頭を下げる。
「あの、すみません、口を挟んで……もともとミツくんはああいう子なんです」
「いや……本当に頭がいいんだな。恐れ入ったよ」
 感嘆を含むその言い方は、光樹の知能が高いことを事前に知っていると察せられた。何年も前の、実(じっ)兄(けい)の交際事実を突き止めたのなら当然なのだろうが……家族のことを他人が調べるという行為に言いようのない不安を抱く。
 このとき父親が話を続けた。
「成澤さん、DNA鑑定で光樹がそちらさんの子だって証明されたら、あの子が言うように引き取りたいって、本気で考えているんですか?」
 先ほどとは違い丁寧な口調に変えた父親が戸惑いの声を漏らせば、成澤は力強く頷いた。
「はい。間違いなく兄の子だと証明されたら、うちで引き取って育てたいと考えております」
 ビクッと身を竦(すく)める夏芽の隣で、父親が不快そうに眉を顰めた。
「それはちょっと、いきなりな話ですよね……」
「おっしゃるとおりです。子どもは物ではないし、大人の都合で保護者をコロコロと替えることは子の福祉にも反します。私も光樹くんの存在を知ったときは、親戚として金銭的な援助をしつつ遠くから見守る、といったスタンスでいいのではと思いました。しかし――」
 自分も両親も、光樹の知能指数が突出しすぎていることを懸念していると語った。あまりにも世の中の平均値から外れていると、日常生活を送るだけでも大変ではないか、と。
「おそらく光樹くんは〝ギフテッド〟と呼ばれる、生まれつき知能が高い子どもなのでしょう」
 ギフテッド――先天的に高い能力を持っている人のことで、光樹のように知能指数が高い人もいれば、芸術方面で顕著な能力を発揮する人もいる。
「あ、はい……それは学校医の方からも指摘されました。ただ、その先生もギフテッド児童を診(み)るのは少ないそうで、アドバイスなどはいただけませんでしたが……」
「専門知識があって相性の合う医師など、偶然には見つかりませんよ。時間とお金をかけるものです」
 当たり前のことのようにキッパリと言い切られ、責められているような気分を味わった夏芽は言葉を詰まらせた。
「……そう、ですね……」
「医師でさえギフテッドを理解する人はまだまだ少ない。当然、学校の教員では光樹くんを持て余すでしょう。例えばですが、彼は授業がつまらなくて集中できず、それを教師から『授業態度が悪い』と取られたことはありませんか?」
「……あります」
 なんとなく彼の質問に答えたくない気持ちを抱えながらも頷いた。
 光樹は教科書の内容をすべて理解しているため、分かり切った話を聞き続けることが苦痛なのだ。授業中、空想の世界で遊んでいることも多いようで、よく注意を受けていたりする。
 二年生のときなど、担任教師と相性が最悪で、光樹は登校拒否になったほどだ。
 父親もその時期を思い出したのか渋い顔をしている。父はギフテッドという概念が理解できず、光樹を頭がいい子どもとしか捉(とら)えていない。そのため『学校へ行きなさい、サボるんじゃない』と孫を叱っては正論で返され、さらに激しく叱るということの繰り返しだった。
 光樹は論理的に話さないと納得できないのだが、父親は感情で喋ってしまうのだ。
「あと、同級生と話が合わず孤立したり、周囲からやっかみを受けたりと、本人にとってつらい環境ではありませんか? 集団生活の中で一人だけ頭脳レベルが高すぎるということは、いいことばかりではないはずです」
 断言するように告げられた夏芽は、思わず自分の胸あたりを手のひらで押さえてしまった。
「……友だちは、たしかに少ないです……あまりゲームとか、動画を見るのは好きじゃないですし……」
 同級生たちと同じ遊びをせず、子どもには理解しがたい内容の本を読みふける光樹に、親友と呼べるほど仲のいい友人はいない。物事を考える速度も同年齢の子より格段に速く、一人だけ先へ先へと進んで結論を出し、そこからさらに思考を飛躍させるため、子どもでは付いていけないし話が噛(か)み合わない。
 そのせいで喧(けん)嘩(か)に巻き込まれることもある。光樹と話が合わない相手にからかわれたり囃(はや)し立てられたりすると、光樹が言葉でこてんぱんに相手を言い負かし、反論できない児童が力で訴えてくるのだ。
 子どもの喧嘩とはいえ殴られれば怪我を負う。光樹は小柄ゆえに突き飛ばされて頭を切ったこともあった。
 彼はそれ以降、『なるべく周囲に合わせているから心配しないで』とそつなく過ごしてはいる。だが〝そつのない〟行為そのものが、光樹に無理を強(し)いているのではないかと不安だった。
 無難に、当たり障(さわ)りなく、ほどほどに、敵を作らず、穏便にやり過ごす。
 そういった印象を受けるたびに、子どもらしくのびやかに生活させることはできないのかと胸が痛んだ。
 そのような負い目が夏芽にあるため、成澤の問いに答える声が小さくなる。自分や父親では、彼に最適な未来を提示してあげることができないのだ。
 そこを見抜いたのか成澤が真(しん)摯(し)な表情で言い放つ。
「今日こちらに来たのは、私どもなら光樹くんに適切な環境を与えることができると、お伝えしたかったからです」
 成澤いわく、光樹のような知能指数が高いギフテッドは、それゆえに問題も多い。これは専門家でないとサポートやケアが難しいという。
 教育心理学や行動遺伝学の専門家によると、知能指数は遺伝の影響を強く受けるものの、全体の三割ほどは環境によって左右されるらしい。つまり後天的な要素で能力を伸ばすこともあれば、潰してしまうこともあると。
「光樹くんが健全な社会生活を営むため、ひいては幸福に生きていくため、今から最適な環境を整えなくてはなりません。ギフテッドは放っておいたら状況が好転するわけではない。精神面の発達や相応の経験値を積み重ねることは、知能の高さだけでは補いきれないのです」
 本人が納得するなら海外の専門プログラムで学ばせてもいい。そう熱心に語る成澤に、何も言い返せなくなった夏芽は俯(うつむ)いた。自分や父親はここまでの選択肢を光樹へ与えることはできない。金銭的な負担が大きいことが理由で。
 三年前に父親がリストラされたうえ、脳出血の後遺症で再就職もままならず、今は夜間警備員のアルバイトをしている。家計を支えるのは夏芽の稼ぎがメインだが、地元の中小企業での年収はそれほど多くない。
 光樹の能力を潰してしまうこともある、との成澤の言葉が胸に突き刺さった夏芽は、俯いたまま唇を噛みしめた。
 そこへ倉橋の方が身を乗り出す。
「成澤さんは、光樹くんの将来を想って引き取りたいと仰っています。まずはDNA鑑定をして、血族かどうかを調べてから今後について話し合うというのはどうでしょうか」
 その申し出を感情的には拒絶したいものの、それは夏芽のエゴであって光樹のためにならないと考える理性は残っている。それでも素直に頷けず視線をさまよわせていたら、父親が答えた。
「そうですね……よろしくお願いします」
 やや疲れを滲ませた声で父親が頭を下げたため、夏芽も迷いながら右に倣(なら)った。

          §

 あの日のことはよく覚えている。
 暦(こよみ)は十一月二十五日。この年は寒波が早めに到来したせいで風がとても冷たく、薄暗い空から雪が降ってきそうな寒い日だった。
 海と接しない内陸部の岐阜県は、北部は北アルプスを擁(よう)する豪雪地帯で、すでにかなりの降雪が認められている。しかし夏芽が住む南部の岐阜市は、愛知県から地続きの平野部のためそこまで寒くはない。
 それでも寒風に肩を竦める夏芽は、コートの中で体を震わせながら急いで高校を出るとバスに飛び乗った。岐阜駅で降り電車に乗り換えて目的地まで急ぐ。
 日付けが今日になったばかりの深夜に姉が産気付いたと、入院していたレディースクリニックから連絡が来ていた。付き添いたかったけれど父親から、『学校に行け』と叱られて渋々登校した。が、授業に集中できるはずもなく。
 お昼休みに父親から、『無事に生まれた』とのメッセージを受け取って喜んだものの、それ以来連絡がない。仕方なく夏芽は授業が終わると制服のまま病院へ急ぐことにした。
 何度か訪れたレディースクリニックに着くと、ナースステーションに看護師の姿はなかった。小さな個人病院なのでたまにこういうことはある。夏芽は気にせず面会簿に記入し、手のひらを消毒してから病棟へ入った。
 真っ先に姉の病室へ向かおうとしたが、ふと反対方向へ足を向ける。
 新生児室をガラス越しに覗(のぞ)くと、一番すみに〝この子のママは白川弥生です〟との名札をベッドに付けた赤ん坊が眠っていた。
 ――あの子が私の甥っ子かぁ。
 生まれたばかりの赤ん坊はしわくちゃで、お世辞にも可愛いといった容貌ではなかった。しかし夏芽は身内贔(ひい)屓(き)を発揮し、「私の甥っ子くんがこの中で一番可愛い!」と考えていたりする。
 ニマニマとおかしな笑みを浮かべながら赤ん坊を見つめていたら、新生児室に入ってきた看護師が夏芽を見てハッとした表情になった。慌てて廊下に出てきた看護師は、「白川さんのご家族ですよね?」と焦った声を放つ。
 キョトンとする夏芽が頷くと、その看護師は思いもよらないことを口にした。夏芽の姉が出産後、出血が止まらず総合病院へ救急搬送されたと――

          §

 光樹と成澤家とのDNA検査をした一ヶ月後の土曜日、弁護士の倉橋が鑑定結果を携(たずさ)えて白川家へやって来た。
 前回とは違ってアポイントを取りつけてきたため、夏芽は倉橋が訪問する時刻より前に光樹を図書館へ行かせた。
 自分に話を聞かせたくないのだと悟っている光樹は、文句も言わず出かけて行った。
 約束の時間ちょうどにやって来た倉橋は、成澤と光樹が叔父と甥であると、成澤家夫妻が光樹の祖父母であると、科学的に間違いなく証明されたと告げた。
 父親と共に話を聞く夏芽はうなだれる。
「そうですか……」
 小さく呟(つぶや)く夏芽の脳裏に、成澤の冷たさを感じさせる端整な容姿が思い浮かぶ。彼と光樹を見れば、なんとなく結果は分かっていた。二人の類似点は他人の空(そら)似(に)とは考えにくいから。
 重苦しい表情で夏芽が顔を伏せるのに、倉橋の方は笑顔で話を続ける。
「それでですね、成澤家のご夫妻は、光樹くんとご子息の志道さんを養子縁組して、光樹くんを引き取りたいと申し出ています」
 叔父が甥を養子とする。祖父母と孫の養子縁組よりは親子らしく見えると思うけれど、成澤が父親になるイメージが浮かばず夏芽は首を傾げた。
「ご夫妻がミツくんを養子にするのではないんですか?」
「はい。主に相続の問題で」
 倉橋の話によると、光樹の父親である俊道の行方が分からないため、認知請求をして光樹を法的に俊道の実子とみなす準備をしているという。
 そうすると未来において成澤夫妻が亡くなった際、俊道の行方が分からないままの状態ならば、失踪宣告――生死不明の行方不明者に対し、法律上死亡したものとみなす――の申し立てをして、俊道に相続される遺産を光樹へ代襲(だいしゅう)相続させたいと考えていた。
 このとき祖父母と孫が養子縁組していたら、孫にも養子としての遺留(いりゅう)分――相続する権利――が発生し、結果的に光樹の相続分が成澤に比べて大幅に上回ってしまう。
「それは平等ではないと成澤夫妻が考えたことと、志道さんがいまだに独身で結婚の意思を示さないことから、将来志道さんの財産を引き継ぐ人として光樹くんが適任だと考えているのです」
「はあ……」
 正直なところ、よく分からなかった。法律のことは詳しくなくて。
「あの、成澤さんご夫妻は相続を考えるほどお体が悪いのですか?」
「いいえ、お元気ですよ。ただ成澤家のような資産家の方々は、財産の継承には慎重なんです」
 経営者として、企業の存続を含め不動産などの莫大な資産を誰に継承させるかはとても重要だ、と倉橋は語る。夏芽たち親子にしてみれば、財産などマンションの権利とわずかな預貯金しかないため、「はあ」としか言いようがなかった。
 とはいえ倉橋はそのような反応など慣れているのか、意に介さず数馬の目を見て話をつなげる。
「志道さんが光樹くんを養子にするといっても、実際の養育は成澤家全体で引き受けることになります。今よりももっと充実した支援と環境を光樹くんに与えるとお約束しますので、安心してください」
「……それは、私どもでは光樹の養育が不十分だと言いたいのですか」
 やや気色ばむ数馬が低い声を出せば、倉橋はにこりと愛想笑いを浮かべた。
「いえいえ、光樹くんが健やかに育っているのは白川さんの育て方が素晴らしいからです。ただ前回、志道さんがおっしゃったように光樹くんは普通の子ではない。なるべく早く彼に合った教育と環境を整えてあげなければ、彼が可哀相です」
 ――ミツくんが、可哀相。
 もっとも言われたくないことを指摘されて、数馬も夏芽も口を閉ざした。そのタイミングを計ったかのように、倉橋は鞄(かばん)から一枚の書類を取り出して数馬へ差し出す。
「未成年の光樹くんと養子縁組をするには、後見人である白川さんの許可が必要になります。こちらは成澤家から、そのお礼として白川さんへお渡しする予定のものです」
 そこには心臓が縮み上がりそうなほどの多すぎる金額が記されていた。光樹にかかった九年分の養育費も含まれるそうだが、それでも常識の範(はん)疇(ちゅう)外だ。
「あのっ、いくらなんでも、ここまでお金をかけてないと思うんですが……」
「何をおっしゃいます。一人の人間を九年間育てるには、これぐらいかかってもおかしくないと成澤家は考えております。どうか受け取っていただきたい」
 成澤家側は光樹のためにも、なるべく早く養子縁組をしたいと、首を長くして良い返事を待っていると、倉橋はにこやかに告げた。
 その笑顔が嘘臭く感じた夏芽は、書類へ視線を落としつつ思わず本音を漏らした。
「まるで手切れ金ですね。これだけくれてやるから、さっさとミツくんを引き渡せって言われてるみたい……」
「夏芽」
 叱責の口調で父親から呼ばれた夏芽は顔を逸らした。
 だって本当のことじゃない、との反駁(はんばく)が胸に重苦しい靄(もや)を生み出す。
 ――そこまでしてミツくんが欲しいの?
 よくよく考えてみれば、成澤家側の主張はずいぶん身勝手なものに感じる。偶然光樹を見つけたものの、成澤夫妻に孫が何人もいれば無視していた可能性もあった。それに光樹が並外れて優秀でなければ、それどころか問題児であったなら、引き取ろうとさえ思わなかったのではないか。
 成澤もこう言っていた。光樹の存在を知ったときは、金銭的な援助をしつつ遠くから見守るだけでいい、と。
 成澤家が資産家であることは、お礼と称して提示された金額でも察せられる。そして夏芽は以前、NMJファーマ株式会社のホームページを検索してみたことがあった。役員一覧に成澤姓を持つ者は、代表取締役社長の成澤一彦(かずひこ)と、取締役の成澤志道のみ。やはり現在の成澤家には息子が次男しかいないのだろう。
 その彼がいつまでも独身ならば、後継者となる子どもは喉から手が出るほど欲しいはず。そこへ突出した能力を持つ、間違いなく成澤家の血を引く孫が見つかったら……
 夏芽は倉橋へ睨むような視線を投げつける。
「あの、成澤さんたちがミツくんを引き取りたい理由って、家とか会社のためじゃないんですか? それってミツくんの幸福を想ってのことじゃないですよね。〝子の福祉〟に反するんじゃないんですか?」
 民法における未成年者に対する親権、あるいは後見の制度は、子の福祉を第一の目的としている。
 数馬は弥生(むすめ)の死後、光樹の未成年後見人――両親がいない子どもなど、親権を行う者がいなくなってしまった未成年に対し法定代理人となる者――となっている。その申し立てをした際に家庭裁判所調査官の面接があり、後見人制度がどのようなものかを夏芽も学んでいた。
 しかし当然、倉橋は笑顔で首を左右に振る。
「成澤ご夫妻は光樹くんの幸福を心から願っておりますよ。そのためにも彼の能力が制限されない環境を与えてあげたいと――」
「じゃあ、その環境を光樹がここで暮らしながら与えることだってできるんじゃないんですか? この生活を変えることなく、あの子のためになることを」
「……それは難しいですね。光樹くんへの支援が正しく行われているかどうか確認するには、ここは遠すぎます」
「定期的に報告書を用意します。光樹はここで九年も暮らしているんですよ。それを今さら家族も住居も何もかも変えて一からやり直せなんて、子の福祉に反するとしか思えません」
「たしかにその点は成澤家も留意しております。ですが白川さんのもとで光樹くんを育てることは、彼のためにならないと気づいておられますよね?」
「……でも」
「それを分かっていながら光樹くんは渡さない、でも支援だけは欲しい、だなんてあまりにも虫のいい話ではありませんか?」
 夏芽も頭の片隅で同じことを思っていたため言葉を詰まらせる。
 このとき隣に座る父親が声を発した。
「分かりました。一度、光樹を交えて検討させていただきます。――今日のところはお引き取りください」
 父親が深く頭を下げたためか、この辺りが引き時だと感じたのか、倉橋はあっさりと帰っていった。もともと今日は成澤家の申し出を伝えるだけで、こちら側の意見など必要としていなかったのかもしれない。
 夏芽は疲れた表情で茶器を片づける。キッチンで溜め息を吐きながら湯呑(の)みを洗っていたとき、背後から声をかけられた。
「成澤さんの話、受けた方がいいかもしれんな」
 一瞬、父親の言葉を理解できなかった夏芽は、その台詞を右の耳から左の耳に聞き流した。数秒後、光樹を手放すという意味を脳が受け止めて勢いよく振り向いた。
「何言ってんのよ。ミツくんは家族なのよ。なんで突然現れた親戚に渡さなきゃいけないのよ。あの子は物じゃないのよ……!」
 だんだんと声が大きくなり、怒りで足がふらつくほどだった。濡れた手を乱雑に拭いて父親の正面の席に腰を下ろす。
「まさかお父さん、大金に目がくらんだわけじゃないでしょうね。お金でミツくんを売るつもりなの!?」
「馬鹿を言うんじゃない。……光樹にとってどちらがいいか俺にも分からないんだ。このまま俺たちが育てても、光樹の能力を伸ばすことはできない。そんな金も手段もない」
「でもっ、ミツくんの気持ちはどうなるのよ……!」
「本人に聞いてみる。あの子は自分の置かれた状況をよく分かっている」
 九歳の子どもに己の人生を決めさせるつもりか。と再び怒りが湧き上がってくるものの、光樹はただの〝九歳の子ども〟ではない。
 口を閉ざした夏芽は唇を噛みしめた。こういうとき、自分の無力さを思い知る。適切な道を子どもに示してあげるのが大人の役目なのに、それができない自分たちはやはり養育者として不適格なのでは、と。
 光樹が〝普通〟の子どもであれば――
 そう考えてしまう夏芽は、父親が『成澤家の申し出を受けた方がいいかもしれない』と揺れる心情を理解できてしまい、悔しそうに拳を握り締めて自室に入り扉を閉めた。
 それから一時間後。
 ただいまー、との声と共に光樹が図書館から帰ってきた。
 普段なら真っ先に夏芽のもとへ駆け寄ってくるのだが、数馬に呼び止められて和室に入っていく。それからしばらくして夏芽の部屋の扉がノックされた。
 ふてくされて返事をしないでいたら、光樹は遠慮なく入ってくる。ベッドに突っ伏す叔母の顔の近くで床に座り込み、頭を撫(な)でてくれた。
 ……この子はいつもこう。私が落ち込んでたり泣いてたりすると、必ず慰めに来てくれる。
 心の優しい子だ。九歳児に気を遣わせてしまう情けなさを味わいつつも、甥っ子の優しさに心が癒されるようだった。
 自分の愛する者が、同じ愛情を返してくれる。そのように育ってくれたことへの感謝に、夏芽は胸を熱くして眼差しを子どもへ向けた。我が子同然の光樹へ見返りを求めない愛情を抱く反面、成澤の容姿が重なって心が軋(きし)む。
「なっちゃん、落ち込まないで。おじいちゃんはなっちゃんのことを想って、僕を成澤さんに預けようって言ったんだよ」
「……何、それ」
「このままなっちゃんを、僕のお母さんの代わりにしたくないって考えているんだよ」
 数馬はシングルファザーだ。弥生が亡くなって赤ん坊が遺されたとき、夏芽は未成年なので光樹の保護者たりえるのは数馬のみだった。
 自分が引き取らねば孫は施設に預けるしかない。義憤に駆られて後見人となったものの、当時の彼はサラリーマンだった。赤子を育てることなどできず、必然的に高校卒業を控えた夏芽が育児を引き受けることになった。
 それは夏芽自身も納得していることだ。姉の忘れ形見を手放すなど、考えたことさえなかったから。
 しかし数馬にしてみれば、子育てのせいで夏芽は大学を留年し、恋愛をする余裕もなく、就職活動も制限され、結婚もできないままアラサーとなってしまった。
 このまま甥の母親として人生の大事な時間を消費させてしまうのか。数馬は孫を救いたい気持ちのせいで、娘の青春を犠牲にさせてしまったとずっと悔いている。
 そう光樹は静かに語った。
「……それ、お父さんがそう言ったの?」
「ううん、僕の推測。でも当たってると思うよ。おじいちゃんは悪人じゃないもん。なっちゃんだって分かってるでしょ?」
 ……分かっている。父親は優しい人だ。母親が置いていった二人の娘に寂しい想いをさせないよう、家庭的でもあった。今は再就職が叶わず、経済的に娘の負担になっていることでひどく落ち込んでいるのも知っている。
 男の人はプライドの生き物だ。今の父が自信を失い、ネガティブな思考にはまっていることは夏芽も感じていた。
「でさ、そこへ成澤さんの申し出があったもんだから、おじいちゃんの気持ちも傾いたんだよ。僕に十分な教育を与えてやれるうえ、なっちゃんを母親業から解放してあげられる」
 まるで負い目を感じているような言葉に夏芽は跳ね起きた。
「解放だなんて言わないで。私はミツくんのお母さんであることが幸せなのよ。子育てが嫌だったら、もっと早いうちに逃げ出しているわ」
「そっか」
 うっすらと微笑む光樹だったが、その表情は子どもにふさわしくない、達観を感じさせる大人の笑みだった。社会に出ると多くの理不尽を飲み込み、笑って感情を誤魔化すことがある、そんな表情。
 年相応の少年ならば、大人の事情など教えても分からないだろう。己を取り巻く複雑な事情を理解し、物事の裏側にある事実を見抜くことができてしまうから、自己中心的な思考で許されるはずの子ども時代に自責の念を抱いてしまう。
 光樹は思考や情緒の面において〝子ども〟と呼ぶにはふさわしくないほど成長していた。彼とお喋りをしていると普通の大人と話している気分になる。
 まだ生まれてから九年しか生きていない子どもに、そのような顔をさせていることが夏芽にはつらかった。
「僕はここで暮らしたいけど、おじいちゃんの考えはもっともなんだ。……僕は成澤さんちに行った方がいいかもしれない」
「そんなことはない!」
 慌てて光樹を抱き締める。食が細い彼は九歳児の平均以下の体(たい)躯(く)で、とても小柄だ。こんな小さな体で大人と同じ考えを持ち、周りの気持ちを推し量る能力が悲しく、哀れだった。
 そこまで生き急がなくてもいいのに。
 もっとわがままに生きて欲しいのに。
「おじいちゃんは、なっちゃんが大切なんだよ」
「ミツくんも大切なうちの子だよ……」
「でも僕がここにいる限り、なっちゃんは僕のお母さんになろうとするだろ」
「子どもは、そんなことを考えなくていいんだよ……」
 大人として、養育者として至らない自分が、都合のいいときだけ光樹を子ども扱いする。その狡(ずる)さを指摘しない光樹の賢さに、涙が零れそうだった。

          §

 ――泣きやまない……どうすればいいの……
 十八歳の夏芽は、激しく泣き続ける赤子を抱っこしたまま途方に暮れていた。
 時刻は午前一時。外を走る車の音も少なくなった深夜、光樹はずっと泣いたままだ。ミルクを与え、オムツを替えて、抱っこして揺らしてもうまく寝かしつけることができず、すでに二時間ほど経過している。夏芽は自分も眠いが、それ以上に赤子はこれほど泣き続けて大丈夫なのかと、不安で叫びたいほどだった。
 ネットで〝赤ちゃん 泣きやまない〟と検索してみれば、赤ん坊は何をしても泣きやまないことがあると、それは母親のせいではないと、夏芽の気持ちを軽くする記事がいくつも載っている。
 光樹が泣き始めた当初はそういった言葉に慰められていたが、この状況が二時間も続けば、疲労もフラストレーションも蓄積されて後ろ向きなことを考えてしまう。
 ――私がお母さんじゃないから……お姉ちゃんがあやしていたら、もっとうまく寝かしつけることができたかも……
 どうして姉は亡くなってしまったのかと、苦しいほどの悲しみが胸を突き刺してくる。まだ二十三歳という若さだったのに。
 夏芽が小学校二年生のときに母が家を出ていったため、それ以降、五歳年上の姉が自分の母親代わりだった。幼い妹の遊びに付き合い、かんしゃくを優しく宥(なだ)めて、慣れない料理を作ってくれた。
 姉だって当時は中学生で遊びたい盛りだったはず。なのに妹の世話と家事を一手に引き受けてくれた。自分は母親を失った悲しみを癒すために、父親と姉に甘えていればよかった……
 いま思い返せば、姉も悲しくて寂しくて誰かに甘えたかったはず。けれど妹のために頼りがいのあるお姉さんになってくれた。
 だからこそ自分は光樹の母になろうと決めたのだ。姉のために、姉の忘れ形見を守りたくて。
 ……だがその決意はわずか二ヶ月でくじけようとしていた。
 とにかく光樹が寝てくれないのだ。夜中、何度も激しく泣き出しては起こされる。そのたびにミルクを作っては片づけ、おむつを替えて抱っこする。
 この二ヶ月の間、まとまった睡眠はとれていなかった。赤ん坊の世話がここまで大変だとは知らなかった。
 推薦入試が終わっていたことだけが救いであるものの、担任教師からは『父子家庭が赤ん坊を育てるなど無理ではないか』と、遠回しに施設へ預けることを告げられた。この区域の民生委員からも、一時的に乳児院などへ保護してもらうのはどうかと勧められた。
 しかし施設へ預けるという行為に夏芽は猛烈な抵抗感を抱く。子育てに悩んでいる親なんて当たり前なのに、と。
 ――この子を育てると決めたのは私なのに……
 鬱屈した気持ちを抱えてよろめきながら和室をグルグルと歩いていたら、就寝したはずの父親が顔を出した。
『すまん、任せて。替わろうか?』
『……ううん。お父さん、明日は早いんでしょ。ゆっくり休んで』
 父親は明日、東北への出張を控えている。いつもより早く起きて家を出ねばならない。
『そうか……本当にすまない』
『大丈夫よ』
 本当は全然大丈夫じゃなかった。替わって欲しかった。もう子育てなんか無理だと言いたかった。でも……
 それから一時間以上経過して、光樹は泣き疲れたのかようやく静かになった。小さな体をベビーベッドにそっと降ろす。
 安(あん)堵(ど)の息を吐いて寝顔を見つめれば、整った容姿は天使のような愛らしさだった。自然と夏芽の口元がほころぶ。
 ――可愛い。
 眠気も疲労も吹き飛ぶほどの愛しさが胸に満ちる。無償の愛というものがどのようなものか、光樹が生まれてから初めて知った。己のすべてを擲(なげう)ってでも赤ん坊を守りたいと思う、見返りを求めない気持ち。
 ……この子を家族から離して施設へ入れるなんて鬼畜の所業だ。自分が頑張れば光樹と父親の三人の生活は守られるのだから。
 姉は両親が離婚してからというもの、十三歳の頃から亡くなるまで十年間も家族のために尽くしてくれた。なのに高校を卒業しようとする自分が、二ヶ月程度でくじけるわけにはいかない。
 夏芽は赤ん坊のほわほわの髪の毛をそっと撫でる。
 ――大丈夫、まだやれる。
 そう己に言い聞かせて。

          §

 カレンダーが一枚破られ、暦は三月に入った。まだまだ寒さが消えない日曜日、曇天の空から落ちる霧雨で街は薄暗闇に覆われ、朝から冷え込んでいる。
 夏芽は客用の茶器を用意しながら溜め息を吐いた。今日の午後、成澤が白川家を訪問すると言ってきたのが原因だ。
 自宅へ乗り込んできた初日以降、彼は光樹の件を弁護士の倉橋に任せている。しかし今日は自らお出ましのようだ。
 それというのも先日、成澤家からの養子縁組の申し出を正式に断っていたのだ。
 数馬はこの縁組に気持ちを傾けていたが、やはり夏芽は光樹を手放すことなどできない。執拗に反対し続けたことと、光樹に夏芽の元を離れたくない意思があったため、とりあえずお断りという流れになっていた。
 すると成澤自らが説得に来ることになったのだ。ものすごく憂鬱である。
 午後一時に白川家を訪れた成澤は、仕事帰りなのかスーツを着用していた。
 彼の美しい顔には、不愉快との感情がはっきりと浮かんでいる。弁護士へ任せておきたい案件に、自ら動かねばならないことが時間の無駄だと思っているのか、自分を動かした夏芽たちが気に入らないのか、その両方か。
 夏芽から見る成澤という男は、居丈高ではないが親しみを持てる理由もなく苦手で、今日はさらに逃げ出したい気分に陥るほどだった。
 どうぞお入りください、と夏芽は暗い声を出して来客用のスリッパを用意する。このとき彼が履いている靴に目が留まった。きれいに磨かれたストレートチップの革靴。華やかで力強さを感じさせるデザインだ。
 ……以前会ったときも感じたが、成澤家が裕福な家庭であることが察せられた。彼の服装や時計などの持ち物、靴など、自分たちでは手が届かない上等な品ばかりだ。特にスーツなど、父親がサラリーマン時代に着ていた量販店の品とはまったく違うと、逸品を見てようやく理解した。
 さらに言うなら、堂々とした立ち居振る舞いや、己に迷いがない圧倒的な雰囲気などが、常人とはまるで違う存在だと感じさせる。生まれがいいとは、こういうことを言うのかもしれない。
 ――ミツくんも、成澤さんちに生まれていたらこんな感じになったのかな……
 皮膚に刺さった棘のような鈍い痛みを感じつつ、成澤をリビングテーブルに案内してお茶と和菓子を出す。しかし成澤はそれには目もくれず口火を切った。
「君には不愉快な話かもしれないが聞いて欲しい。君のお父さんは我々の申し出に賛成する意向を示してくれている。だが長年、光樹くんの養育を担(にな)ってきた君が反対しているので、迷っているとも言われた。この件は君次第ということになるが、どうしたら分かってくれるだろうか」
 夏芽は視線を伏せて答えた。
「……弁護士さんにもお伝えしましたが、ミツくんを引き取りたい本音が、あの子のためとは思えないから。承諾はできません」
「家の跡取りが目的ってやつか。それなら私がいるから心配は無用だ。いずれ私が結婚して子どもができれば、光樹くんに負担はかけない」
「弁護士さんは、成澤さんが独身で結婚の意思がないから、ミツくんが成澤さんの財産を引き継ぐ人としても適任だとおっしゃっていました」
「それは倉橋先生が勝手に考えたことだ。光樹くんを引き取りたいのは、自分の甥を十分な教育が施せない家庭に置いておくわけにはいかないからだ」
「おっしゃるとおりです。私たちはあの子の未来を、型にはめた従来の進路でしか考えてきませんでした。反省しております」
「あの子が抱える事情はモデルケースが少ない。適切な環境を与えてあげるためには、こう言ってはなんだが金がいる。君たちでは無理だろう」
 冷たく言い放った声に夏芽はゆっくりと顔を上げた。遠回しに、貧乏人では光樹の能力を活かせずに埋もれさせるだけと言われ、その通りなのだが自分の脳裏で何かが切れたと思った。
「……無意識に私と父を見下しているクソ野郎に大事な家族を預けるなんてできるわけないでしょう」
 思ったことをペロッと吐き出すのを、己の意思で止めることはできなかった。
 あ、しまった。と思ったが後の祭り。成澤は目を丸くしてこちらを凝視してくる。ものすごく驚いている表情に、一瞬で怒りがしぼんで頭を下げた。
「申し訳ありません。少し冷静さを欠いて、おととい来やがれとの本音が……違うんです、塩をまきたいとか思ってるわけじゃなくて……」
 口を開くたびに墓穴を掘ってしまう。そのうち彼の美しい顔に、呆(あき)れたような表情が浮かんで夏芽はうなだれた。
「すみません……私、たまに思ったことを口に出してしまうことがあって……」
 これで会社でも失敗したことがある。さすがに社会人生活が長くなると失言はなくなったが、今日は止めることができなかった。
「正直だな」
 と、漏らした成澤は腕を組んで宙を睨み、すぐに夏芽へ視線を戻した。
「まあ、君から見たら俺なんてそんなもんだろ」
「はい」と夏芽は頷いてすぐに「いいえ」と言い直したが、一度口にした言葉は消せない。
 気まずい思いで黙っていると成澤が頭を下げた。
「こちらもすまない。君たちを見下しているつもりはなかったんだが、俺の言い方がまずかった」
「い、いえ……すみません、私こそ失礼なことを……」
 そういえばこの人は初めて訪れたときも、お兄さんの非道を詫びてくれた。……やはり悪い人ではない気がする。


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