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おおかみさんにおやすみ。

佐原佐 / 著
天路ゆうつづ / イラスト
本体価格 本体1,200円+税
発売日 2019/11/29

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内容紹介

「たとえ食い殺すことになっても、君が欲しくてたまらないんだ」
姉のわがままで、獣そのものと噂の人狼族の元に嫁がされることになった小国の末姫アリア。けれど、迎えにきたのはすらっとして容姿端麗な皇子、ジークフリートだった。「君の瞳は女神様の色だ」亡き母が異国人で『余り物』のアリアにも、とびきり優しく甘い言葉をくれる彼。しかしある夜、突然『黒い獣』としての本能をむき出しにしたジークフリートに、アリアはあられもなく襲われてしまう。「ごめん」と繰り返しながら本能と闘う彼を受け止めてあげたくて、熱くてたまらない身体を快楽に任せていき…。
心優しくもちょっぴり臆病な人狼皇子×小さくてもへこたれないお姫様のほろ苦ほっこり婚約ライフ!

立ち読み

 序幕


 長く伸ばしたふわふわの金髪を背中で揺らし、城内の廊下を歩く。異国の血が流れているせいで平均より十センチ以上低い背も、この国では珍しい灰色の瞳も、城内ではあまり好かれていない。
 一応国王の末の娘であるから、アリアに直接悪口を言う者はそう多くはない。けれど、昔から好奇の目を向けられてきたことくらい知っている。目は口ほどに物を言うという先人の教えは、とても的を射ていると思う。
「私、ぜーったいに嫌よ!」
 父の書斎に入るなり聞こえて来た一つ上の姉――リリアンヌの声に、アリアは小さく肩を竦(すく)める。ドアが開いたことに気づいた父王のオーバンが手招きをするから、部屋の中へと足を進めた。
「おはようございますお父様。お呼びと伺って来たのですが……」
「アリア。お前、今年でいくつになったんだったかな」
「私ですか? 先月十五歳になりました」
「そうだったな……」
 口の中で何やらもごもご言っているオーバンを見て、リリアンヌが苛立ちを隠しもせずに咳払いをする。
「お父様! 早く本題に入って下さい!」
「そう急(せ)かすな。分かってるよ。……アリア、隣国との友好同盟の話は知っているな?」
「はい。もうずっとそのお話で持ち切りですから。人狼族という種族の国なのでしょう? それこそ獣(けもの)のような方々だと」
「ああ。その通りだ。……アリア。急なことで悪いが、向こうの皇子殿下に嫁いではくれないか?」
「私が、ですか? でも……」
 不機嫌そうに腕を組むリリアンヌの様子をちらりと窺(うかが)う。アリアよりも十センチ以上背の高い姉は、「なによ」ときつい声音と共にアリアを睨(にら)みつけた。
「いえ……私でよろしいのですか?」
 オーバンへ視線を戻して尋ねる。隣国と友好同盟を結ぶことになり、彼の国に嫁ぐことになっていたのはリリアンヌのはずだ。一番つり合いが取れるから――という理由で。
「いいも何も、もうお前しかおらんのだ。リリアンヌが嫌だと駄々をこねるのでな」
「そんな言い方はあんまりだわ! 他のお姉様達だって皆嫌がったじゃない! 早々に他との結婚を決めて逃げるなんて、ずるい方法まで使って!」
「どれも大事な婚姻だ。うちのような小国はそうでもしないとやっていけないからな」
「とにかく! 私は獣との婚姻なんて嫌! 私に結婚させたいのならもっと条件の良い相手を連れて来てよ!」
「……と、いうわけなんだ。アリア、もうお前しかおらん。すまないがリリアンヌの代わりに嫁いではくれないか?」
 オーバンがほとほと困り果てたという様子で眉を下げる。アリアはちょっと考えて、それからこくりと頷(うなず)いた。邪険に扱われることの多い城内で、父は味方でいてくれる数少ない人だった。その父がこんな風に困っているのだから、断れるわけもない。それに〝人狼族〟という種族名には、好奇心を擽(くすぐ)るものがあるとも思う。
「本当に良いのか?」
 驚くオーバンに、もう一度こくりと頷く。
「この間、狼(おおかみ)は犬の仲間だと教わったんです」
「うん? まあ、そうだな」
「犬の仲間というからには人狼族もきっと、もふもふでふかふかなのでしょう?」
「……うん?」
 目を輝かせて問いかける。アリアは動物が好きだ。特にもっふりした毛並みの生き物が好き。狼は見たことがないから分からないけれど、聞いた話によると犬にとてもよく似た生き物なのだという。
 希望としては、毛足の長い大型犬だと嬉しい。ゴールデンレトリバーも良いけれど、遠方の国からの使者が連れていた、サモエドのようなふわもこ具合だったらなおのこと素晴らしい。まだ見ぬ未来の旦那様の姿を夢想し、思わず頬を緩めてしまう。
 そんなアリアを前に、オーバンは複雑な顔で片方の眉を持ち上げた。胸の前で組み合わされた両手が、忙(せわ)しなく動いている。
「いや、どちらかというとがっちりムキムキ系――」
「お父様! アリアがその気になっているのだから余計なことは言わないで!」
「へぶっ!?」
 リリアンヌの平手打ちを受け、オーバンが潰れた声を上げる。
「そうよアリア。向こうの皇子様はもっふもふのふっかふかで、大層毛並みが良いそうよ!」
「結婚したら毛づくろいさせてくれるかしら?」
「夫婦になるんだもの。それくらいさせてくれるに決まってるでしょう!」
「もふふかな毛並みを……思う存分毛づくろい……」
 アリアは頭の中で、もふもふ毛並みの大型犬をブラッシングする自分の姿を思い浮かべる。ふわふわとした妄想に、自然と頬が緩んでいく。幼い頃に犬を飼っていた影響で、アリアは断然犬派なのだ。
「お父様、隣国に嫁ぐお役目は私が喜んでお受けしたいと思います」
「本当に、本当に良いのか?」
「はい! もっふりふかふかな新婚生活を思う存分堪能してみせます!」
「あ、うーんいや、だからどちらかというとがっちりムキム――へぶっ!?」
「よく言ったわアリア! 私の分まで楽しい新婚生活を堪能してくるのよ!」
「ありがとうございます。……あら? お父様、首がおかしな方に曲がっていませんか?」
「お父様は丈夫だから平気よ。それよりも隣国へ嫁ぐとなれば準備することがいっぱいあるでしょう? 私お抱えのお針子も特別に貸してあげるから、向こうで婚礼衣装の相談をしましょう」
 リリアンヌに腕を引かれ、部屋から連れ出される。様子のおかしかったオーバンのことが気がかりではあったが、リリアンヌが言うように父は昔から相当タフなのだ。きっと明日になればけろりとした顔をしているだろう。
 ドアが完全に閉じるのを確認してから、顔を前へと向け直す。リリアンヌはアリアの腕を引いて、ずんずん廊下を歩いている。ぴんと伸びた背筋には、王族らしい気品があった。
「アリア、いいことを教えてあげるわ」
「いいこと?」
「人狼族が盛(さか)るのは月に一度だけなんですって」
 盛るってなんだろうと首を捻(ひね)るが、リリアンヌはアリアの理解など待ってはくれない。アリアの足がもつれるのも構わず廊下を進むのと同じように、話もどんどん先へ進めてしまう。
「だから月に一度だけ我慢すれば、それ以外の日は大丈夫なはずよ」
「でも」
「いい? 下手に抵抗して怪我をする必要はないの。一思いにぱくりと食べられちゃえばいいのよ」
 恐ろしい響きを持つ言葉に一瞬息を止めた。今さらながらに、自分が恐ろしい決断をしたのではないかと気がついた。
「人狼族は……人を食べるの?」
「はぁ? 何を言って――」
 怪(け)訝(げん)な顔で振り向いたリリアンヌが、顔を青くするアリアに気づいて唇で弧を描く。リリアンヌは、昔からアリアが困ったり怯(おび)えたりするのを見るととても楽しそうに笑う。それは成長してからも、変わることはなかった。
「そうよ。それが向こうでの〝結婚〟だから。そうじゃないと婚姻を結んだことにはならないわ」
「そんな……」
「心配しなくても死ぬことはないわよ。向こうだってある程度慎重に扱ってくれるでしょうしね」
 少し高めの綺麗な声が、恐ろしい言葉を紡ぐ。たとえ死ぬことはなくても、確実に痛い思いはするのだろう。青ざめたまま瞳を揺らすアリアを見て、リリアンヌが満足そうに鼻を鳴らす。爪の先まで綺麗に整えられた指先が、楽しそうに弧を描く唇をとんとんと叩いていた。
「でも、そうね……。もしかしたらあっちの皇子様も貴女みたいなちんちくりんには食指が動かないかもしれないわ」
「食べられなくて済むってこと?」
「もしかしたら、ね。でもそれはいけないことよ。これは国同士の結婚だから。もし向こうに貴女を食べる気がないのなら、自分から食べられに行くくらいじゃないと」
「でも、そんなの恐いわ」
「大丈夫よ。ちょっと我慢していればすぐに終わるんだから」
「本当? 痛くないかしら?」
「痛みはあるでしょうね。獣の〝あれ〟を突っ込まれるわけだし……」
「私、痛いのは嫌だわ。一度お父様に相談して……っ!?」
 腕を掴む手にぎゅっと力を込められ、その痛みにまた息を止める。
「アリア、向こうに嫁ぐって言ったのは貴女よ。今さら取り消そうなんてそうはいかないわ」
「お姉様、私」
「それに月に一度の〝それ〟だけ我慢すれば、あとは思う存分ふさふさの毛並みとやらを堪能してやればいいのよ。毛深いのが好きなんでしょう?」
 アリアの心は簡単に、恐怖から好奇心に傾いた。元々あまり思い悩む性格でもない。月に一度、ちょっと痛いのを我慢すればあとはもっふり幸せ生活が待っているというのだから、ろくに考えることもせずにこくこくと頷いた。
「皇子様の犬種はなんなのかしら? 長毛種だと嬉しいのだけれど……お姉様のところには情報は入っていないのですか?」
「皇子様とやらの姿絵を寄こされたんだけど、見ないで捨てちゃったわ。私ごつくて毛深い男は嫌いなの」
「まぁ、もったいないわ。私ならお部屋に飾ってずっと眺めているのに」
「貴女みたいなちんちくりんには犬の皇子様ぐらいがお似合いだものね」
「お似合いだなんて、照れるわ」
「貴女が恥じるべきはその残念な思考回路の方だと思うけれどね」
 リリアンヌが可笑(おか)しそうに口角を上げるから、アリアはへなりと笑い返す。感情の起伏が激しくヒステリック気味な彼女の機嫌が、こんなにいいことは珍しい。
(今日はいい日なのかもしれないわ)
 月に一度痛いことをされるとは言うけれど、アリアだって一応この国の〝姫君〟なのだ。同盟国から預かる〝姫君〟相手にそう乱暴なこともできないだろう。自身の考えに満足し、うんうんと頷く。
「もう、ちんたらしてないで早く来なさいよ!」
「っ、すみませんお姉様!」
 甲高い声を出し始めたリリアンヌの後を、慌てて追いかける。
「〝犬〟の皇子様だもの。きっとしつけが必要になるわ。そんな風にのんびりしてると振り回されて大変なことになるでしょうから、気をつけなさいよ」
「はい。お姉様」
 この国の周囲に狼は生息していない。国民の大半が狼と犬の違いを明確に理解していなかったが、それを指摘できる者もまた、一人として存在しなかった――。




 隣国の皇子殿下との結婚が決まってからも、アリアはいつも通りのんびり過ごしていた。準備は周りが勝手にやってくれるから、何も心配する必要がなかったのだ。
 時折やって来るお針子の一団にもみくちゃにされることには閉口したけれど、それ以外はいたって平和だ。何せ結婚するのはアリアだけではない。沢山いる兄と姉のうち、未婚の者達の婚姻が次から次へと決まったのだ。皆それぞれが忙しく、アリアを構う者などほとんどいない。
 立て続けに縁談がまとまったのには外交上の理由があるらしいけれど、詳しくは分からない。わざわざアリアにそんなことを説明しようという者などいないから。
 結婚が決まっているのは、五人の姉と二人の兄。人狼族との結婚を嫌がったリリアンヌも、あの後宰相の息子と婚約を結んだ。アリアに貸してくれると言っていた彼女お抱えのお針子達は、結局リリアンヌの婚礼衣装の用意に忙しくなってしまった。今アリアの婚礼衣装を仕立ててくれているのは、臨時で街から集められたお針子達だった。
 城内は、国が始まって以来の忙しさに包まれている。一番影の薄い末姫であるアリアの婚姻に興味を持つ者は、ほとんどいない。嫁ぎ先が嫁ぎ先だけに話題に上ることもあるけれど、結局人狼族について詳しいことが分からないから、すぐに噂のネタも無くなってしまうのだ。
「お母様がいればまた違ったのでしょうけど……」
 結婚に関することの指揮は、それぞれの母親が担っている。国王である父は忙しい人だから、彼女達に任せることができてほっとしていることだろう。唯一母親のいないアリアのことは――たぶん忙しすぎて忘れているのだ。
 それでも最低限の準備が整ったらしいのは、宰相閣下の計らいだろう。国王の腹心の部下である彼は、非常に優秀で仕事が早い。
「……来た!」
 顔も知らない皇子と婚約を結んでから、既に一年が経(た)っていた。今日ついに、隣国からアリアを迎えに人狼族がやって来る。父の書斎からこっそり持ち出した双眼鏡を手に塔のてっぺんに座り込んでいたアリアは、小規模な集団が城門をくぐるのを見つけて目を輝かせる。見たことのない大きな馬に乗った十人程度の集団は、外套(がいとう)のフードを被っているせいで〝もっふりふかふか〟だという毛並みが隠れてしまっている。
「これが噂の焦(じ)らしプレイってやつね。先生から教わっておいてよかったわ」
 この一年ほとんど普段と変わりなく過ごしていたアリアだけれど、家庭教師から教わる授業の内容はがらりと変わった。「女は身を任せるだけという考え方はもう古いのです!」と力強く主張する家庭教師により、夫婦間の夜の営みについて今のアリアは膨大な知識を有している。まだ実践したことはないけれど、きっと大抵の要求には応えることができるだろう。
 不安があるとすれば、以前リリアンヌが話していた「月に一度食べられる」という点に関してのみ。詳しいことは教えてもらえなかったけれど、どうやら痛いらしいそれを避けることはできないようなのだ。アリアにできるのは、甘噛みくらいで済むことを祈ることだけだった。
 人狼族の一団をもっと近くで見ようと急いで階段を駆け下りたのだが、アリアがエントランスホールに辿り着く頃には彼らは既に城内に姿を消していた。出迎えのために準備していたはずの面々も見当たらないから、どうやら相当出遅れてしまったらしい。今から追いかけたとしても、きっと出迎えもせず何をしていたのだと叱られるだけだろう。
「でも、過ぎたことはしょうがないもの」
 けろりとした顔で言い放ち、誰もいないエントランスホールからこっそり外へと抜け出す。塔の上から見た、人狼族が乗ってきた大きな馬のことが気になって仕方なかったのだ。
 ペットは犬派を公言しているアリアではあるけれど、基本的に動物全般をこよなく愛している。初めて見る生き物には、積極的に近づきたい。幸いなことに、厩舎(きゅうしゃ)までの道のりは閑散としていた。誰に見(み)咎(とが)められることもなく辿り着いたそこで、狭そうに身を寄せ合う十頭の大きな〝馬〟を見つける。
「……馬、ではないのかしら?」
 便宜上〝馬〟と呼んではみたけれど、アリアの認識する馬とそれはあまりにもかけ離れている。顔立ちも大きさも違うし、何よりもその頭上に生える立派な〝角〟は見たこともない形をしていた。
「馬よりもずっと大きい……こんな動物見たことないわ」
 顎(あご)の下にたっぷり蓄えられた髭(ひげ)をもしょもしょ撫でると、擽ったそうに身を捩(よじ)られる。つぶらな瞳と目が合って、思わずきゅんと胸が高鳴った。
「乗っても、いい……?」
 つぶらな瞳がぱちりと瞬く。アリアの胸がまたきゅんとときめいた。近くに転がっていた木製の水桶をいそいそかき集め、積み重ねて踏み台にする。そっと足を乗せ、崩れないことを確認してから「えいやっ!」と〝馬〟の背に向けて飛びかかる。大きな背中にしがみつき、アリアはぱっと顔を輝かせた。
 がしゃん! という何かが崩れる音が聞こえて来たのは、ちょうどその時だった。振り向いた先で無残にも地面に転がる水桶を見つけ、さっと顔色を悪くする。
 〝馬〟の背にしがみつくことはできたけれど、よじ登ることはできていない。鐙(あぶみ)も外されているようで、足掛かりになるものが何もないのだ。飛び降りようにも、こんな中途半端な体勢からではバランスを崩してしまうだろう。
「どうしよう……」
 アリアにできたのは、獣臭い背中にしがみついて途方に暮れることだけだった。

 城の正面に備え付けてある仕掛け時計が、大きな音を立てる。空気を揺らす金属音に、もうそんなに時間が経ってしまったのかと思う。アリアが〝馬〟の背にぶら下がることになった直後にも、ちょうどこの音が鳴っていた。城の時計は昼は一時間ごとに鳴るように設定されているから、あれからもう一時間が経ってしまったということだ。その間厩舎を訪れた者はゼロだ。誰一人として、この場所を訪れてくれない。
(もう怪我を覚悟で飛び降りるしかないかしら……)
 いい加減腕の痺(しび)れも限界に近い。痛いのは嫌だけれど、ずっとこうしているわけにもいかないだろう。落ちるのを待つよりは自分で飛び降りた方が――そう覚悟を決めようとしたところで、ようやく救いの手が差し伸べられた。厩舎のドアが開く音に、アリアはぱっと顔を上げる。
「あの……すみません」
 まさか人がいると思っていなかったのか、厩舎に入ってきた人物――白銀の髪を肩にかかるくらいの長さまで伸ばした男が、驚いたように足を止める。金色に輝くつり気味の目が、〝馬〟の背からぶら下がるアリアを見つけて大きく見開かれた。
「すみません、あの、助けてくれませんか?」
「君……そんなところで何やってるの?」
 少し低めの、涼やかな声だ。男が足を進めると、白銀の髪が優しく揺れる。長めに伸ばされた前髪のすき間から、優しげに下がる眉が見えた。
「下りられなくなっちゃったんです」
 男の視線が、〝馬〟の足元に散らばる沢山の水桶に移される。アリアの置かれた状況を正確に理解したのか、優しい目元が可笑しそうに小さく歪む。
「どれくらいそうしてたの?」
「たぶん……十分くらい?」
 一時間近くはこうしていただろうけれど、さすがに恥ずかしくて嘘をついた。アリアの背後に回った男が、そっと両脇に手を差し入れて〝馬〟の背にへばりつく身体を抱き上げてくれる。ようやく地面に足をつけることができたアリアは、ほっと息を吐いてぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「危ないから、一人で馬に乗ろうとしちゃだめだよ」
「でも、乗ってみたくなっちゃったんです」
 やっぱりこの生き物は馬だったのねと思いながら、顔を上げて男を見上げる。随分背の高い男だ。アリアの身長だと、頭のてっぺんですら男の肩に届かないだろう。それでも威圧感を感じないのは男の持つ優しげな雰囲気のおかげと、それからアリアに合わせて腰を屈めてくれているおかげだろう。
「乗ってみたくなっても一人でやっちゃだめだよ。今回は大人しくしててくれたから良かったけど、馬は結構獰猛(どうもう)なんだ。暴れて振り落とされたり、踏まれたりすることもあるから」
「そんなはずないわ。だってこんなにいい子だもの」
 アリアがそっと腕を伸ばすと、馬が頭を下げてその頬に触れさせてくれる。目の前まで下がってきた髭をここぞとばかりにわしゃわしゃ撫で回していると、後ろから感心するような声が聞こえて来た。
「君は動物に好かれるんだね」
「違います。私が彼らのことを大好きなんです。もっふりふかふか具合が堪(たま)りません……」
 髭に鼻先を突っ込み、すんと鼻を鳴らす。獣臭いが、それがまた堪らない。くすくす笑われているのに気が付き、ぱっと顔を上げる。解放された〝馬〟が、やれやれといった様子で下げていた頭を元の位置に戻した。なんだか急に恥ずかしくなって、思いついたことを適当に唇に乗せる。
「私の旦那様もふかふかなんですよ」
「へぇ、君結婚してるんだ。こんなにちっちゃいのに偉いんだね」
「結婚はまだなんです。相手の顔も知らないんですけど、でもふかふかなのは間違いありません。ブラッシングしてあげるのが楽しみで、色々揃(そろ)えてみたんですよ」
「それは旦那さんも喜ぶだろうね」
「はい! でも……」
 きょろきょろ周囲に目を走らせ、人(ひと)気(け)がないことを確認する。男の袖を引いて耳元に唇を寄せようとすれば、背の高い身体を傾けてくれる。
「結婚すると、月に一回は食べられないといけないんですって」
「食っ……!?」
「痛いのは嫌だって言ったんですけど、お姉様がちょっと我慢すればすぐに終わるからって」
「いやっ、あの、こんなところでそんな話をするのは、その、色々まずいんじゃないかな……!?」
 男が顔を真っ赤にしてきょろきょろ周囲に目を走らせるから、安心させるために「それはもう私がやりましたよ」と頷いて見せる。
「大丈夫です。結婚に不満があるわけじゃないんです。ただ、なるべく痛くない方がいいなって思っただけで。旦那様が優しそうな方なら、痛くしないで下さいってお願いするつもりだから」
「それは……うん。きっと君ならいっぱい優しくしてもらえると思うよ」
「そうかしら?」
 ことりと首を傾げると、優しく頭を撫でられた。背の高い彼は、手のひらも大きい。アリアの頭など、すっぽりと包み込まれてしまうくらいに。
「お互いにいい人に会えるといいね」
 優しく笑う男の耳元で、赤いピアスがゆるりと揺れていた。


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